「何かあるの?」
「ああ。外から大妖怪、長老様の客が来る」

 そういえば、初めて父に会ったときも何やら話し合っている様子だった。おそらくそのことに関するものだったのだろう。あの時、美子の祖母、珠祢(たまね)はなんと言っていただろうか。
 ――たしか……。

顕仁(あきひと)様?」
「よく覚えていたな」

 顕仁、などという大妖怪はいただろうか。調べてみようにも、この郷には電波が届かないようで、スマホはただの写真機と化している。一応、その機能が残っていたお陰でたくさんの思い出は残せているのだが。

「どんな妖なの?」
「クソ親父だな」
「……え?」

 父の言葉とは思えず、聞き返す。

「クソ親父だ」

 聞き間違いではなかった。心なしか、杏士朗の灰色の目に月面蝶を切り伏せたときのような光が宿っているように見える。

「……神格を持った大天狗だ。白峰の社という異界の主で、人間からは崇徳だとか藤原顕仁だとかの名で呼ばれていたはずだ」

 崇徳。その名なら聞いたことがあった。たしか、平将門、菅原道真と合わせて三大怨霊と呼ばれる崇徳天皇のことだ。四国の守り神という話も何かの本で読んだことがあった。
 聞けば、彼は生前から天目一箇神の飲み友達であり、時折こうして酒を飲みにくるらしい。力そのものはまだ下級の神程度だが、戦い方次第で長老様とも本気で喧嘩できる化け物、というのが杏士朗の評価だった。

「そんな凄い人が……。でも、どうして父さんが?」
「あれが俺の師匠だからだな」

 落としかけたおタマをどうにか空中で捉える。同時に納得もした。昨晩言っていた師が三大怨霊の一人であったのなら、その強さも不思議ではない。その際に相当な仕打ちを受けたのも、なんとなく察した。

「そういうわけで、明日の夕方以降は留守にする。何かあれば長老様のところまで来るといい」
「うん。分かった」

 奥に戻っていく杏士朗を見送りながら考える。父のようになろうと思ったら、自分もその人に酷い目に遭わされる必要があるのではないだろうか、と。
 少しばかり夢を変えようかと思ってしまったのは、悟だけの秘密だ。

 悟は朝食にいつもの汁とご飯の他、目玉焼きを作ってみた。杏士朗は外食はほとんどしないようであったし、普段の食生活も知っているとおりだ。だからこういうのを食べたことが無いのではないかと思って、ちょっとしたサプライズのつもりだった。

「これは、目玉焼き、だったか?」
「知ってたんだ」

 一抹ほど、残念だと思ってしまう。

「ああ。昔、愛理(えり)が作ってくれた。……懐かしいな」

 杏士朗の顔が珍しくはっきりとほころんだ。ここまで分かりやすく表情が変わることはあまりない。悟の思った形とは違ったが、サプライズはちゃんと成功したらしい。それに、やはり父は母がらみだとこういう顔をしてくれるのだと確信できて、二重に嬉しくなる。

「ねえ、父さん。母さんとの思い出、聞かせて」

 ずっと聞こうと思っていて、タイミングが見つからなかったことだ。昨日は微妙にその機会とならなかったが、今なら悟の知らない母と父の物語を聞けると思った。

「そうだな……。愛理と初めて会ったときの話でもするか。あれは、俺がこの郷に流れ着いて四百年余りが経ったころのことだ」

 四百年、と聞いて咽せそうになったのを必死で我慢する。悟の思っていた以上に、杏士朗は長く生きていた。たしか、昨日は五十年以上逃げ回っていたと言っていたから、五百歳近い計算になる。下手をしたらそれ以上だ。しかし今はそんなことよりも、母との話が大事だった。

「あの時はたしか、出風神社の様子を見に人の世に出たときだったな。偶然そこに、愛理がいたんだ」

 愛理は声をかけてきた杏士朗を外国人だと思ったようで、片言の英語で返してきたらしい。心の内で酷く慌てていたのが少しおかしかったと杏士朗は笑う。その後日本語が通じると知ったときの顔は、今でも覚えているそうだ。

「初めは、ただの気まぐれだった。妙な人間がいるな、程度にしか思っていなかった」

 それからしばらく、神社で偶然に会うことが重なったらしい。そうなれば無視するのも忍びなく、雑談の相手をしていたそうだ。覚である杏士朗には、大抵はそうして話している内に黒い部分が見えてくる。しかし、愛理は違った。

「あいつは、どこまでも純粋だった。呆れてしまうくらいにな」

 そんな人間は、五百年以上生きた中でも出会ったことが無かったと杏士朗は言う。(サトリ)という妖として、興味が湧かないはずがなかった。
 それからは彼女に会えることを期待して、神社に居る時間を増やしたらしい。恋と呼ぶには好奇心によるところが大きな切っ掛けだったが、だんだん愛理に惹かれていっているのは、杏士朗自身自覚していた。

「向こうも好意を向けてくれているのは分かっていた。だが、問題が一つあった」

 杏士朗が、妖であること。
 人ならざる身であることを知ったら、ずっと心を読まれ続けていたと知ったら。愛理がもう神社に来なくなるのではないかと思えて、恐怖したと彼は語る。それから一度言葉を切って、汁に口をつけた。

 その気持ちは、悟もなんとなく分かった。幼い頃、心が読めるのではと疑われたときの、周囲の目。今思い出しても、気分が重くなってしまう。吐き気すらもよおしてしまいそうだ。五百年生きていた父ですら、それを感じていた。覚にとって他種族との一番の壁は、やはりその能力なのだろう。

「まあ、色々あって、というか顕仁様に煽られて打ち明けることになったんだが、愛理はなんと言ったと思う?」

 亡き母の顔を思い浮かべるが、分からない。

「とっくに私の気持ちバレてたってこと? 早く言ってよ。だったよ。しかも心の中は、恥ずかしいだとか、告白する手間が省けてラッキーだとか、そんな話ばかりだった」
「……たしかに、母さんっぽい」

 その時のことを思い出したのだろう。杏士朗は声を上げて微笑む。初めて見た姿で、やはり驚愕があったが、それ以上に胸の温かくなるのを感じた。

「それから正式に交際することになって、生まれたのが悟、お前だ」

 杏士朗の笑みが、今度は悟に向けられた。悟はなんだか恥ずかしくなって箸を動かす。今嬉しくなっているのも、杏士朗には読まれているのだろう。少しずるい。母の気持ちが分かった気がする。

「まあ、こんなところだな」
「うん、ありがとう」

 聞けて良かった。素直にそう思った。

「それにしても、顕仁様がきっかけだったんだね」

 杏士朗の表情が苦虫を噛みつぶしたようなものに変わった。ここまで表情が変わることは珍しいから、少し面白く感じてしまう。

「遺憾だが、立場を越えた関係を顕仁様ほど経験している妖は少ないからな。見ていられなかったのだろう。何だかんだ言ってもあの方はお優しい」

 おや、と思った。悟は、てっきり杏士朗は顕仁を嫌っているのかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。むしろ、自分が父に向けているのと似たような目に見える。
 ――顕仁様、か。どんな人なんだろう……。

 今の話で人柄を想像できるほど、悟は経験豊富ではない。だからこそ、余計に会ってみたくなった。父が心を許し、尊敬の念を向けているのだろう、その人に。

 朝食を終え、片付けを済ませた後は妖術の練習だ。少しでも楽に妖術が使えるようになっておくだけでも、日常生活がずいぶん便利になる。汗をかいてしまうかもしれないから、着替えるのは彼女の来るだろう時間が近づいてからにするつもりだった。
 ――そういえば、ずっと案内してもらってたのにお礼とかしてなかったな……。

 受け取ってばかりは、すわりが悪い。
 何が良いだろうか。彼が同級生に礼をするときは大抵、コンビニか何かで一つおごることが多い。しかしそれは男子相手ばかりだったから、美子へのお返しとして適切かは分からない。仮にその方法で今日お返しをするなら、昼に案内してもらう店でおごることにになるだろう。
 ――連れて行ってもらったお店でおごるのって、お礼になるのかな……?

 まだ十六の悟が判断するには、経験が足りない。

「あ」

 思い出したのは、商店街を案内してもらったときのことだ。あの時、彼女がこっそりと眺めていたものがあった。

「ごめん、父さん、ちょっと買い物に行ってくる!」
「ああ。気を付けろ」

 部屋着代わりに使っていた着流しのまま、商店街の方に走る。こういう時、外見の様々な妖の世だとあまり格好に気を遣わなくて良いから楽だ。
 妖たちの合間を縫いながら急ぐ彼を、妖たちは不思議そうに眺める。杏士朗の息子だということは広まっているからか、時折、父の名とセットで呼ばれて励まされた。

 向かった先は、雪女の雪菜(ゆきな)が営む雑貨屋だ。陳列されている時計を見るに、時間は十分ある。悟は軽く深呼吸をして息を整えると、数日前の記憶を頼りに目的のものを探した。
 一つはすぐに見つかった。レジの近くの棚だ。子犬を上品にデザインしたもので、可愛らしいが、大人が使っていても変には思われない程度のものだ。

 探し物は、もう一つ。猫のぬいぐるみだ。

「あら、あなたは……」
「あ、こんにちは。えっと、雪菜さん」

 偶然通りかかったらしい。杏士朗の息子と、美子と一緒にいた男の子のどちらで認識しているのかは分からないが、しっかり覚えていたようだ。

「覚えてくれてたのね。ありがとう。今日は一人?」
「えっと、はい」

 自分だけで妖と言葉を交わすのは、少し緊張してしまう。やはり心は読めないし、気に触ることをしてしまったら何をされるか分からなくて不安だ。今も笑顔を浮かべているが、これは営業スマイルなのか、名前を覚えていたからなのか。
 近づいてきた彼女で気温が少し下がったのを感じつつ、どうしたものかと思案する。しかし彼が答えを出す前に、雪菜の方が察してくれた。

「なるほどねぇ。美子ちゃんへのプレゼントね」

 雪菜は悟の持っていた櫛を一瞥すると、にんまりと笑みを作った。

「他にも何か買うの?」
「一応、猫のぬいぐるみを買おうかと……」
「あー、美子ちゃんが好きそう。あの子、隠してるつもりみたいだけど、可愛いもの好きよね」

 たしかに、そうかもしれない。猫又男爵のカフェで頼んだパフェを見たときも可愛いと呟いていた気がする。まだ確信を持てるほどの付き合いはない悟だが、これについては頷いてしまってもいいのかもしれない。

「それで、猫のぬいぐるみね。こっちよ」

 なぜか上機嫌に見える雪菜に連れられた先には、先日見たのと同じぬいぐるみがまだ残っていた。ふわふわした手触りで、スマホより少し大きい程度の小さなぬいぐるみだ。三毛猫を模しているらしいそれは、つぶらな瞳で悟を見つめてくる。
 しかし、だ。