「俺は初め、どこにでもいるただの猿だった」
猿。今の美麗な姿からは、悟は想像もできない。できないが、人間らしい姿をしているのには、少し納得した。
杏士朗は、当時のことをはっきり覚えているわけではないという。覚えているのは、人間たちが大きな戦をあちらこちらで、何度も繰り返していたこと。そのために森を焼かれることもあったということ、そして、その人間同士の争いに巻き込まれて自分が死んだことだけらしい。
「そうして死んだ俺に、たくさんの何かが入ってきた。おそらくは、人々の想念のようなものだろう。その元が何かまでは分からないが、猿にまつわる何かだったのだろうな」
そうして多くの何かがただの猿だった死骸を満たし、気がつくと、杏士朗は今の姿で覚という妖になっていた。
「自分を覚ということはすぐに分かった。内に宿った想念故にか、初めからそうと認識していた」
それはすなわち、杏士朗が、妖が人々の認識に縛られている証左でもあった。
杏士朗は一度そこで言葉を止めると、悟の前で未だ山を作る唐揚げへ箸を延ばす。悟に考える時間を与えるためだろう。その彼が妖という存在に思いを馳せていると、窓から郷の風が飛び込んできた。それは散りゆく桜の花びらを乗せており、なんの偶然か、杏士朗の杯に色を添えていく。
「じゃあ、さ、父さんは、最初からそんなに強かったの?」
人々の認識、想念に縛られるなら、彼の強さもそれ故なのだろうか。美子は、そういった存在の方が基本的に強いと言っていた
「いや、違う。俺は、郷の奴らと何も変わらない、弱い妖だった。心を読む以外の取り柄もなく、五十年以上ひたすらに逃げ回っていたくらいにな」
退魔師や陰陽師に見つかって殺されかけたこともあったぞ、と杏士朗は笑う。悟からすれば笑いごとではない。そういった妖を狙う人間がいるのも恐ろしくはあるが、父がもしかしたら、彼が生まれるずっと以前に殺されていたかもしれないのが、悲しかった。そうなれば悟は当然存在しなかったのだが、それに思い至るよりも早く、杏士朗が無事で良かったと思う。
「まあ、この姿で生まれ直せたのが幸運だったのだろうな」
他の覚にも会ったことがあるらしいが、多くは猿に近しい姿をしていた。もし杏士朗も猿に近しい姿だったのなら、人の中には溶け込めず、あの時代に生き残るのが難しくなっていただろうと。
「郷の用心棒になれるほどとなったのは、この郷に居着いてからだな。長老様に紹介された師の元で強くなった。……死にかけた回数は、その頃の方が多かった気がするな」
いったいどんな修行だったのか。それも気になるが、想念に縛られているはずの妖が修行で強くなれることの方が大事だ。核となった猿故になのか、そうでないのかは分からないが、その可能性があるというのが肝要だった。
「妖って、本当に不思議だね。外からの認識で勝手に変えられちゃうのに、自分から変わることもできる」
「たしかにな。……俺も、ずいぶん変わったように思う」
人間の間でずっと語り継がれてきたように、不変の存在かと思えば、そうではない。人にも勝てない弱い妖が、下級とはいえ神にすら歯牙をかけられるまでになる。
複雑で、変わっていくのが人間なのだろうかとつい先程までは考えていたのに、妖もそれだけ変わるのだ。
杏士朗は、悟が知っている以上に変わったのだろうか。彼は月を眺めながら何かを思い出しているようで、少々話しかけづらい雰囲気を放っている。
「人間と妖、か……」
その違いはなんだろうか。生き物として全く別なのは分かるが、蓋を開けてみると、あまり変わらないようにも思える。杏士朗は妖の方が単純だと言ったが、本当にそうなんだろうか。それだけ変われるのに、本当に単純なままなんだろうか。
少なくとも杏士朗やこれまで関わってきた妖たちは、その存在に由来するような性質意外にも様々な性格を持っている者が多かった。
考えても分からなくて、悟は視線を外に向けた。外には、やはりたくさんの妖たちが歩いている。夜になったからか、見覚えのない影が多い。悟では彼らの心は読めないが、いったい、どんなことを考えて、どんな風に生きているのだろうか。その内を知りたいと願うのは、もしかして、覚という妖故の部分なのだろうか。
視線を上に上げれば、今日も青白い月が静かに照って、出風の郷を見下ろしている。その静けさは悟の好むところだが、今ばかりは何か答えが欲しい。悠久の時間輝き続けるあの月は、人の、妖の、どんな姿を見続けてきたのだろうか。
――半妖は、どっちなんだろう。
人と妖、どちらの存在と言うべきか。美子はそれで悩んできたようだった。悟も、人の世にありながら、妖の力のせいで悩んできた。人の世にあっても妖の世にあっても、悩むことになってしまう中途半端な存在。
だから美子は、悟を見つけたときあれほど喜んだのだろう。孤独ではなくなるからと。
その気持ちは、悟もよく分かる。美子のおかげで、ここ数日は毎日楽しい。寂しさを感じない。杏士朗といるからというのも大きいが、同じくらい、彼女の存在も大きい。
――そういえば、美子に哲学が好きか聞かれたっけ。
あれは、猫又男爵のカフェに行ったときだ。思えば、妖だとか人だとか、それがどういった存在かなんて悟が考え始めたのは、毎日が充実してからだ。それまでは皆嘘つきだと周りを責めるばかりで、自分自身のことに目を向ける暇すらなかった、こうして色々と考えられているのは、実は幸せだからなんだろうか。そんな風にも思えてくる。
「悟、食べないのか」
「あ、いや、食べるよ」
考えるばかりで箸が止まっていた。まだまだ残った唐揚げを頬張る。甘い肉汁が溢れて口内に広がった。レモンを少しかければさっぱりして、いくらでもいけそうだ。添えてある黒胡椒入りのマヨネーズをかけても良い。
もし、悟が飢えていたなら先程のように思考に耽り、手を止めることもないのだろう。やはりこうして色々考えられるのは、持っているからなのかもしれない。
それは、満たされていることの別の側面なのだろうか。
「……ねえ、父さん」
「なんだ」
「本当に、美味しいね、ここの唐揚げ」
杏士朗になら、それで真意は伝わる。そうだな、と優しく微笑んだ父との時間を、少しでも長く、楽しめたなら。悟は月に向かって、そう願った。そして、次の機会があったなら、今度は母との話を聞いてみようと、そう決めた。
杏士朗は酒に強いらしく、帰宅後に約束していた妖術の練習にはなんの支障も見せなかった。かなりの量を飲んでいたのは間違いないが、それが妖故なのか、杏士朗個人の体質なのかまでは分からない。
「もう妖力の扱いは概ね大丈夫そうだな」
「本当?」
これまで、妖術の練習と言いながらずっと妖力の扱い方を覚える訓練ばかりだった。体の内の妙な感覚を意識して、その何かを動かす練習だ。ときおり杏士朗の操って悟に流したそれを受け、自身と他人の妖力、それから自身の妖力とそれ以外を区別する練習もした。
今日の悟は、杏士朗の修行の話を聞いたからか、いつも以上に集中できていた。その甲斐があったらしい。
「これなら事故を起こすことは、基本的にはないはずだ。自分の力量を超えた術を使おうとしなければだが……」
「うん、分かった」
すぐに妖術の練習をしなかったのは、それが理由らしい。
「妖術もこのまま教えてしまおう。疲れてはいないか?」
「平気」
口調は平静を保ったが、内心、興奮するのを抑えられなかった。妖術は、要は魔法のようなものだ。漫画を含め読書が好きな悟にとって、一種の憧れである。簡単なものとはいえ、ようやくそれが使えるのだ。
「まずは明かりを出す術だ。これなら失敗しても、惨事にはならない」
光を出すだけだからだろうか。神妙に頷いた悟に、恭一郎は妖術の使い方を教えていく、思っていた以上に丁寧だ。
「父さんも、こうやって教わったの?」
「ああ、そうだ」
少しばかりやる気が増した。父と同じように練習できているのが嬉しかった、
妖力にイメージを与えるのだという杏士朗の手本に従って、妖力の操作を繰り返す。初めて成功したのは、練習開始から三十分が経過したころだ。
悟の手の平の上に、白い光を放つ人の頭ほどの球が浮いている。光量も読書するに問題ない程度だろう。その光に照らされた悟の顔はキラキラと輝いていて、童心に返っているようだった。
そんな悟を、杏士朗は優しげに見つめる。
「よし、次は灯火の妖術だ。それを覚えたら、一人でも留守番ができる」
一人で留守番、と聞くと、本当に幼子のようだが、妖としては間違いない。数日前に妖の世に来たばかりであるから当然だ。悟自身、それを自覚しているから素直に頷いて、杏士朗の手本を目を皿のようにして観察した。
「む、難しいかも」
「火事になるのを恐れているからだな。もう少し思い切りよくやってみろ」
覚の能力は、こういう時にも便利だ。妖術のイメージで何が問題なのかを、直接見て取れる。
彼の言うとおりにしようと悪戦苦闘して、一時間。そろそろ寝なければいけないという時間になって、とうとう成功した。悟の指先にはライターの火より多少大きな程度の炎が灯っていた。
「で、できた……」
「よくやった、悟」
小さなオレンジ色の光が、月明かりしかない暗闇を優しく照らす。それを暴走させないようにゆっくり消して、もう一度、悟は父の方へ振り返った。
杏士朗の手が、彼の頭に置かれた。こそばゆさを覚える温もりに、悟は照れたような笑みを浮かべる。本来なら、何年も前にあったはずの光景なのだろう。ボタンのかけ間違いさえなければ、当たり前に享受できていたはずの幸せだ。
しかし、悟がそれに恨みを抱くことはない。ただ、今ある幸福をかみしめて、父へ笑みを向ける。
「今日は、この辺りにしておこう。もう少しその二つを使いこなせるようになったら、他の術も教えてやる」
「うん。ありがとう、父さん」
何気ないやり取りであるし、この日、覚えたのは、ごくごく簡単な妖術だ。まったく適正のないものでもなければ、幼少の内に覚えていて当たり前の術である。それでも、ずっと人間として生きてきて、疎外感に苦しんでいた彼にとっては大きな一歩に思えた。
翌朝、いつものように小鳥の囀りと高窓から差し込む朝の日に起こされて、悟の一日が始まった。暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。短期間であったのにすっかりこの生活に慣れてしまって、もし人の世に戻ることになったなら、しばらく夜は眠気と戦う日々になりそうだ。春休み中で良かったと悟は思う。
昨日の興奮で悟は眠りが浅くなってしまったのか、杏士朗は、まだ起きていないらしい。とはいえもうすぐにでも起きてくるだろう。
悟は先に布団を畳んでしまうと、土間に降りる。何度か手伝っているから、どこに何があるかはだいたい把握していた。
先に米を研ぎ、汁物の具材を切って薪を用意する。着火には、昨日教わったばかりの灯火の妖術だ。美子の使っていた狐火に比べれば極小さな、マッチの火にも等しいものだが、かまどに火を灯すには十分。教わったとおりに薪をくべると、すぐに炎は勢いを増す。
「早いな、悟」
「あ、おはよう、父さん」
少し誇らしげになってしまったのが、幼子のようで若干恥ずかしい。心を読まれるのだから意味もないのに、悟はかまどの方へ向き直って顔を隠した。
「もう食事の用意は完全に任せて問題無さそうだな」
「うん。向こうで待ってても大丈夫だよ」
そうか、と返した杏士朗の声は、なんとなく嬉しそうだ。やはり今の悟では確信は持てないが、先程以上に誇らしい気分になる。
「明日の夕食をどうするか考えていたが、必要なくなった」



