おそらく、二年は前だろう。家族の、家族と思える人のいる家に帰る。それだけでこんなに温かな気持ちになれるなんて、悟は忘れていた。

「ただいま」
「ああ。……楽しかったか」
「うん!」

 これだけのやり取りで気分が高揚する自分に呆れもするが、悟はそれで良かった。今の生活が本来、あるべきものだったのではと思っていた。
 まだ、この後どちらの世界で生きるかは決めきれていない。妖の恐ろしさも知ったからだ。妖の世界での疎外感もあり得ると知ったからだ。
 ただ、どちらの世界で生きることにしても、美子との関係はこれからも続いていくのだろう。唯一の、同じ半妖という特別な友人。彼女がいるなら、どこにいっても、自分は独りぼっちになることはないはずだ。

 玄関の戸を閉めながら、悟は問う。

「ねえ、父さん」
「なんだ」
「もし、俺が人の世で生きることにしても、またここに遊びに来て良いよね?」

 それは、少しばかりの不安を拭うための質問だった。

「ああ、もちろんだ」
「そっか。良かった」

 悟よりもずっと強い力を持った杏士朗なら。彼がまだ答えを出していないことは分かっているだろう。
 できれば妖の世で生きたいという気持ちは変わらず持ったままだが、母の思いを無視するのも気が引ける。だから、母に納得してもらえるくらい妖の世をよく知って、こっちで生きる方が自分は幸せだよと自信を持って言えるようになってから。答えを決めるつもりだった。
 そのためにも、妖術はもっとしっかり学ぶべきだろう。仮に危険な目にあったとき、美子を守れるくらいにはなりたい。

「夕ご飯食べ終わったらさ、妖術の練習、お願いしていい?」
「分かった」

 そしていつかは、父のように、誰かから頼りにされるくらい強くなれたなら。
 それは初めてできた、悟の夢のようなものだった。
 ――本当に、妖の世に来れて良かった。

 何かが変わる気がしたのは、間違いではなかった。きっと自分は、いい方向に行っている。そんな気がした。

 浮かれた気分を切り替えて、悟は靴を脱ごうとする。しかし、杏士朗に止められた。何かしてしまっただろうかと一抹の不安が過るが、杏士朗に怒っているような様子はない。そういえば、いつもならあるはずの米の匂いもない。

「偶には外食もいいだろうと思ってな」

 首を傾げた悟の、心の内に返した言葉だろう。米の匂いがしない理由に納得して、脱ぎかけた靴を履き直す。思い返せば、杏士朗とこうしてちゃんと出かけるのは初めてだ。月面蝶のときは散歩のようなものだったし、切り替えて落ち着けたはずの気分がまた浮き上がるのを感じる。

「何か食べたい物はあるか」
「食べたい物……」

 正直、杏士朗となら何でもいい。辛いものは苦手だから、それしか無いような店は厳しいが、いっそ杏士朗の勧めるものが食べたいような気もする。
 しかし彼としては何か選んで欲しいのだろう。悟の考えていることは分かっているはずなのに、未だにこうして答えを待っているのがその証左だ。

 少しばかり沈黙して、考える。今自分は、父と何が食べたいだろうか。

「……あ、唐揚げ」
「唐揚げか。そういえばお前は、昔からそれが好きだったな」

 フっと笑みを浮かべて、杏士朗は玄関を空ける。母から聞いていたのだろうか。それとも、物心つく前は三人で食卓を囲むことがあったのだろうか。少し気になりはしたが、父が自分の好物を知っていてくれた。それだけで、口角を上げる理由には十分だ。

 再び家を出ると、既に日は頭の先しか見えなくなっていて、反対側の空に月が昇っていた。この時間に出歩くと、今来ている着流しだけでは若干寒い。しかしそれも村のエリアにいる間だけで、妖の多いエリアに来ると彼らの熱気で丁度良い気温になった。

 種族としての名も知らない妖たちのなか、杏士朗は迷った様子もなく、商店街の方に向かって歩いて行く。どうやら、入る店は決まっているらしい。

「いつか、お前を連れて行きたいと思っていた店だ」

 ニヤニヤとしそうになってしまった。思っていた以上に、父は悟のことを考えていたらしい。もしかしたら、杏士朗も二度と叶わないと思っていたことが叶って、浮かれているのだろうか。いつもより饒舌な彼を見ていると、悟でもそんな風に思える。

「おや、杏士朗さん。珍しいね。ほら、これ持ってきなよ。この間の礼」

 不意に声をかけてきたのは、八百屋をしている案山子の付喪神だった。投げ渡されたのは真っ赤なりんごで、あの案山子が村の方にある畑で作っているらしい。

「すまない」
「いいっていいって! こっちの方がずっとお世話になってるからね!」

 一人がそうやって声を上げれば、他のものも杏士朗に気がつく。あちらこちらからいついつの礼だ。これも持って行ってくれ。じゃあうちも。そんな風に次から次へとお土産を渡されるものだから、店に着くまでに二人の両手が一杯になってしまった。気の利く妖が袋をくれなかったら、持ちきれないところだ。

「えっと、いつもこんな感じなの?」
「いや、ここまでは珍しいな。ここ数日家から出ていなかったからだろう」

 ここまでではないならあるらしい。もしかしたら、こうして騒ぎになるのが億劫で普段外食をしないのではないだろうか。だとしたら、それを押して悟を件の店に連れて行こうとしているということだ。やはり、杏士朗も柄になく張り切っているのかもしれない。

 家を出る頃にはまだ沈みきっていなかった日も完全に地平線の向こうへ姿を隠し、いつしか、月明かりが出風の郷を照らすようになっていた。この郷特有の風は夜になっても変わらず、心地よい程度に吹き抜ける。それが杏士朗の銀髪を巻き上げて、月の銀光を煌めかせていた。
 それを見ていると、悟は自分も長髪にて見ようかと考えてしまう。長く伸ばして、和紙、は難しいので髪留めのゴムでくくって前に垂らす。自分がそうしているのを想像するが、似合うかは不安でしかない。それに、人の世に戻った場合は悪目立ちしそうだ。
 ――止めた方がよさそう……。

 この髪型は、美形の杏士朗だから許されているのだ。
 
 そういえばと、気になった。これだけ色々と押しつけられるほど郷の妖たちに慕われているなんて、杏士朗は普段何をしているのだろうか。悟は日中、美子と郷の中を巡っているから分からない。そうでなくてもここ数日は家から出ていないと言うのだ。

「ねえ、父さんは、普段は何してるの?」

 打ち刀を差しているし、武力を使う何かだろうか。

「長老様の話し相手と、あとは用心棒のようなことだな」

 力はあるが頭が足りず、郷の内で暴れ回る妖もいるし、郷の妖が外の危ない地域に行かなければならないこともある。そういった時に力を振るうのが杏士朗の役目らしい。
 そもそも弱い妖の保護を目的に作られたこの異界、出風の郷であるが、神たる天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)は、その立場と、強大すぎる力故に安易に動くことができない。その代わりにあるのが、杏士朗や化日珠祢といった、普通の妖の括りに入る強者(きようしや)の存在だ。普通の妖といっても、戦い方次第で下級の神も相手に出来るような強者(つわもの)ではあるが。

 とはいえ彼らもその力を振るうことは多くなく、もっぱら、長老である天目一箇神の話し相手をすることになっている。
 なんにせよ、杏士朗や化日の一族が郷の内で一目置かれるには、十分な理由だ。そんな父親を持って、誇らしくならない息子も少ないだろう。悟も、その例に漏れない。

「着いたぞ」