「……カッパ?」
「そ、カッパ。もうちょっと下流の方に住んでる家族ね」
四人家族なようで、両親と子供二人が楽しげに遊んでいる。投げ合っているのは、悟も知っているビーチボールだろうか。ちぐはぐな光景に思えるが、そういった光景は、この郷に来てから何度か目にしている。
「ねえ、あんたたち! 私らこの辺でお弁当食べたいんだけど、邪魔じゃない!?」
「お弁当?」
そんな物あっただろうかと考えて、風呂敷包みを思い出した。
「そ、お弁当。あ、いいって。それじゃあ、あそこで食べよ」
美子の指さしたのは、河原の脇の少し小高くなっている辺りだ。芝のような植物が生えていて、そのまま座っても痛くはないだろう。桜の木陰にもなっていて、一休みするには丁度良い。
弁当を包んでいるらしい風呂敷を解いて広げると、それは見る見る大きくなる。巨大化の妖術のかけられたものだと彼女は言った。
美子の持ってきた弁当箱は漆塗りで、三段重ねになったものだった。悟の思っていたよりもずっと豪華そうな箱だ。蓋を開けると、中には肉団子に卵焼き、シュウマイといった定番どころから、黒豆の甘煮や数の子などのおせち料理らしいものまで、様々な料理がぎっしりと詰められていた。よく見ると少しだけ不格好なものもあるが、悟の空腹に訴えかけるには十分だ。
「凄いね。美味しそう」
「でしょ? おばあ様と一緒に作ったの!」
今日は悟もそうとうに早起きしたと思っていたのだが、その彼が朝食を食べ終わるまでにこれを作ってやってきたのだとしたら、いったい何時に起きたのか。驚いたのと嬉しいのとで、言葉を失ってしまう。
「ほら、食べて食べて」
美子に勧められるままに箸を伸ばす。最初に掴んだのは、卵焼きだ。ほうれん草を混ぜて作ったらしいそれに、添えられていたマヨネーズをつけて口に運ぶ。
「あ、美味しい。甘めの味付けなんだね」
「ほんと? それ私が作ったやつ」
美子が本当に嬉しそうだ。そのせいか、悟も余計に美味しく感じる。杏士朗は料理に対して感想を言っても反応が薄いから、こういった雰囲気は久しぶりだった。そういえば、母も美味しいというとやたらと嬉しそうにしていたなと思い出す。
悟の感想に満足したのか、美子も食べ始めた。黒豆から食べているのは、甘いからだろうか。美味しそうに食べる姿はどこか上品で、やはり育ちがいいのだろうと思わせた。
「うん、いい感じ」
「本当に、美味しいよ」
「でしょ? まあ、ほとんどおばあ様が作ったものなんだけどね」
美子の祖母、化日珠祢は化日の妖狐一族の長ではあるが、どうやら料理も得意らしい。自慢げに祖母のことを話す彼女を見ていると、心が読めない今の悟にもその愛情が伝わってくる。
その悟の視界にふと、カッパの親子が映った。
「そういえば、美子のお父さんとお母さんは?」
昨日の商店街でも聞いた覚えがない。天目一箇神のところにも珠祢しかいなかったが、この郷にはいないのだろうかと悟は疑問に思った。
「あれ、言ってなかったっけ? お父さんもお母さんも人の世の家にいるの。お父さんは人間だから、あまりこっちには来ない方がいいし」
「そうなんだ……。じゃあ、お母さんは、人間のふりをして暮してるってこと?」
「そうそう。だから私も、普段は人間として、あっちの家から出山高校に通ってるの。部活もしてるし、友達も意外と多いんだから」
出山高校は悟も通っている高校だ。思い返せば、初めて会ったときに美子は彼を見て、うちの高校の、と漏らしていた。それもあって悟は出風神社に行くか悩んでいたのに、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
「そういえば同じ高校って言ってたね。でも、なんで俺のこと知ってたの?」
「たまたまよ。遠目に見かけて、妖力も感じたから妖なのかなって。その時は遠かったし、色んな匂いが混ざってたせいで半妖とは思わなかったけど」
妖力が理由なら悟が美子を知らなかったはずだ。当時の彼は、そんなものの存在すら知らなかったのだから。それに初めて会ったときの、あんたも半妖だったのね、という言葉にも合点がいって、なんとなく満足した気になる。
「じゃあ、もしこのまま人の世に戻っても、学校に行ったら会えるんだ」
「そういうことね。……あんた、意外と恥ずかしいこと平気で言うのね」
「え、そう?」
山姥と会った後の心変わりが、本人の思った以上に影響を及ぼしているらしい。彼自身は友人に会えて嬉しい、以上の意味を持たせたつもりはなかったが、聞きようによっては、恋愛的な好意を孕んだ言葉にも受け取れてしまう。その可能性にようやく思い至って、悟は赤面した。
「でも、おばあ様は私にこっちで生きてほしいみたいなのよね。その方が私のためだって」
何気なしのぼやきであったが、悟の脳裏には、杏士朗の言葉がチラついていた。妖は人と同じようには生きられない。あの時、彼はどういうつもりで悟にこの言葉を告げたのか。
悟は同族すらも喰らう妖の習性の話だと思っていたが、違う意図も含まれていたのではないだろうか。
思考に耽りそうになって、慌てて意識を戻す。今は、美子と一緒に居るのだから。
「……お母さんは、人として暮してるんだよね?」
「一応ね。ただ、お母さんは、お父さんと一緒になるために色々苦労したらしいから。私もお父さんから少しだけ聞いたくらいだから、詳しくは知らないけど」
だから杏士朗も、悟たちとは一緒に暮さなかったのだろうか。気になることが増えてしまった。
「半妖の私と違って、純粋な妖は色々感覚が違うところも多いでしょうし、まあ、仕方ない部分よね」
「そう、なのかな……」
「たぶんね」
美子も自信はあまり無いらしい。いつの間にか弁当を食べる手も止まっている。聞こえるのは、カッパたちが遊ぶ楽しそうな声と、風に木の葉がこすれる音、それから川のせせらぎだけだ。
「……半妖は半妖で、色々悩むんだけどね。疎外感というか……、あんたも多少は分かるでしょ?」
人の世にあって、心の声が聞こえるという覚の力を持つ意味。その孤独は、悟もよく知っている。美子の場合は、同じような感覚を妖の世にあるときも感じていたのだとしたら。
「だから、あんたが半妖って知ったとき、けっこう嬉しかったんだ。初めて仲間を見つけたって」
妙に強引に話を進められたのは、そういうことだったのだろうか。あの時の美子を思い出して、悟は少し俯いた。
同時に思った。だとしたら、この気持ちは伝えた方がいいのだろうと。
「俺も、あの夜美子に会えて良かったって思ってる。じゃなかったら、きっと色々悩んで、良くない道に行ってたんじゃないかって気がするから」
「ふーん、そう……」
美子はまたそっぽを向いた。指先で長い髪の毛を弄っているのが見える。それに今度は位置関係故にか、彼女の頬が少し赤くなっているのも見えた。
「……私ら、友達になれて幸せだったってことね」
「そう、だね。……美子も恥ずかしいこと言うじゃん」
「う、煩い! あんたのが移ったの!」
今度こそ顔がハッキリ見えた。正面から見た彼女の顔は熟れたりんごのように真っ赤だ。それがおかしくて、悟は笑ってしまう。
美子もどうして笑われているのか自覚しているらしく、何も言わない。ただ不機嫌そうな表情でまたそっぽを向き、それからくすりと笑った。
「ほら、残りもさっさと食べちゃいましょ。乾いて美味しくなくなっちゃうかもだから」
「うん、そうだね」
昼食を食べ終わった後も美子の案内は続き、あらかた回り終えるころには出風の郷の太陽が半分ほど地平線に沈んでいた。春の虫も鳴き始めており、家に帰れば、すでに夕食の用意は終わっているだろう。
「ちょっと遅くなっちゃった。急いで帰らないと」
「そうだね。美子、今日もありがとう」
「私も、今日も楽しかった。それじゃあ、また明日! 明日のお昼は私の行きつけのお店に案内してあげるから、食べずに待ってて!」
分かった、またね、と美子に手を振り、悟は帰路につく。まだ二日目のはずなのに、すっかり慣れた道だ。ずっと昔からこの道を通って帰っていたような気がする。
――こんな気分で帰るのなんて、いつ以来かな。



