その悟もどうしてか、転んでしまった。直前に感じたのは、何かが足下を通り過ぎる感覚と、脛の辺りを切りつけられたような鋭い痛み。妖だろうか、と立ち上がって砂を払い、痛みのあった脛を確認する。しかしそこに思っていたような傷はなく、つるつるとした綺麗な肌があるだけだった。
「あれ?」
「もう! 鎌鼬ね!」
美子はその正体が分かっているようで、目元をつり上げて着物に付いた土を払っている。お気に入りなのに、と呟いたのが、彼女の怒っている一番の理由だろう。
「鎌鼬って?」
「イタチの妖よ。常に三匹揃って行動して、一匹が転ばせて二匹目が切りつけて、三匹目が霊薬を塗って傷を治すっていうよく分からないやつら」
たしかにそれは、悟もよく分からない。悪戯、なのだろうか。転ばせたり切りつけたりするまではまだ分かるが、そのあと薬を塗って治すところが意味不明だ。それなら最初から転ばせなければ良いのに、と悟は思うが、それが妖という存在なのだから仕方ない。
「たぶん、自分たちでも何のためにやってるか分かってないのよ。そういう伝承のせいで、本能的にやらざるを得なくなってるんじゃない?」
「そういうものなんだ、妖って……」
それはそれで、少し哀れな気がしないでもない。要は噂に振り回されまくるようなものだ。ある日自分が自分で無くなることもあるのだろうか? そうだとしたら、怖い。
「まあ、年月を経て妖になったような存在だと、あまりそういった影響は受けないはずらしいけどね。だから私たち妖狐なんかは安定してるし、覚もこっち寄りだって」
安心、でいいのだろうか。美子の口ぶりからして、覚は伝承となどから生まれた概念的な性質も併せ持っているという風に聞こえる。
「そもそも私とあんたは人間の血も混じってるから、能力以外そう簡単には変化しないでしょ」
「たしかに……」
それはそれで、変わりたくてこの郷に来た彼としては歓迎したくない話かもしれない。そう思ったのは、胸の中に留めた。
休憩を終えて、さらに森を進む。いつしか傾斜はきつくなり、森は光が十分に届かないほどに深くなっていた。鳥の囀りもほとんど聞こえなくなっていて、互いの足音と、風に木々のざわめく音ばかりが響く。ここから帰れと言われても、悟一人では難しい。
「えっと、たしかこっちのはず……」
案内している美子も自信は無いようで、時折立ち止まって方向を確認している。彼女でこれなら、悟は絶対に一人で来ない方が良いのだろう。一応景色を覚えようとはしているのだが、全て同じに見えてしまっていた。
特にここ十分ほどで陽の光の届く量もめっきり減ってしまっていて、木々の密度から視界も悪い。枝の位置が着物でも歩きやすい範囲なのが唯一の救いだ。
その状態が、どれほど続いたのだろうか。
「やば……、迷ったかも」
「えっ……」
どこかでカラスが鳴いた。陽の光は少し前からまったく届かなくなっていて、頼りは美子の狐火だけだ。頭上で木々の揺れる音に、心胆の縮む思いがする。外から見ていたときはあれほど清々しく感じていたはずなのに、何かに化かされているような気になってくる。
「おやぁあ?」
しわがれた声がした。左手の方だ。恐る恐る振り向いてみると、提灯を下げた老婆がいる。反対の手にも何かを持っているようだが、よく見えない。顔を見ようにも乱れた髪に隠れており、辛うじて、口元がにたりと笑っているのだけ分かった。
「可愛い子供たちだねぇえ。……美味そうだ」
髪の隙間からぎょろっとした片目が覗いた。提灯の明かりを反射しているのが出刃包丁というのも分かってしまった。悟は喉が漏らしそうになった悲鳴を両手で押さえ、後ずさる。よく見れば、美子も震えているようだった。
「逃げるんじゃぁ、ないよぉおおっ……!」
頭から角が伸び、逆立った白髪の向こうに深い皺の刻まれた形相が見えた。商店街で見かけた鬼よりずっと化け物らしい。瞬く間に一回り大きくなった顔がいっそう恐ろしく変貌し、悟達へ飛びかかってくる。
体が震えてしまって、悟は動けない。化け狸に化かされたときは曲がりなりにも美子を守ろうと動けたのに、今はそれすらできない。老婆に似た化け物が出刃包丁を振りかざし、迫ってるのを見ていることしかできない。
走馬灯のようにゆっくりになってしまった世界。せめて少しでも抵抗を。そう思っても、体が言うことを聞いてくれない。
「いただき、まぁっす――なんてねぇ」
悟まであと数歩。そのタイミングで、老婆が足を止める。頭の大きさも元に戻っていて、あれほど乱れていた白髪も綺麗に整えられた。包丁もどこかに消えてしまっていて、目の前にいるのはどこからどう見ても、背筋の真っ直ぐで優しげなお婆さんだ。角は生えたままだが、鬼のような形相の老婆では無い。
「くくっ、あはははははっ。もう、山姥さんまで、やめてよねぇっ。笑い堪えるの大変だったじゃない!」
「え……?」
山姥という悟も聞いたことのある妖だったことに驚くべきか、美子の震えていたのは笑いを堪えていたからだったことに驚くべきか。もう悟にはわけが分からなくて、目を白黒とさせることしかできない。
「ごめんねぇ。初めて見た子とよく知った子が迷子になってるみたいだったから、ついねぇ」
山姥は優しげな笑みを浮かべ、悟の頭を撫でる。その手は思っていたよりもずっと優しくて、ますます彼を困惑させた。
「山姥さんはね、こうやって子供を驚かして、危ないところに近づけさせないようにする妖なの」
美子もようやく呼吸が整ったようだ。まだ目の端には涙を浮かべていて指先で拭う仕草もしてはいるが、一応落ち着いたらしい。
彼女の説明は悟の知る物語とは違ったが、裏側は、という話なのだろう。もっとも、今回はこの先が危ないというわけではなく、ただの妖としての癖だったようだが。
「あんたたち、どこに向かってたんだい?」
「山姥さんの家だけど、会えたからとりあえず目的達成かなって。この後は川に向かうつもり」
「そうかい。それなら、あっちの方向だよ」
山姥の指さしたのは、先程まで向かっていた方向から少し逸れた辺りだ。
「ありがと!」
「礼なんていいさ。それより、無駄に怖がらせて悪かったね。また今度、お茶でも飲みにおいで。その時は迎えに来てあげるから」
孫を見るような眼差しで手を振る山姥へ、悟はお辞儀をして美子に続く。まだ心臓がばくばくと言ってはいるが、頭に残った温もりがそれを鎮めてくれようとしていた。
――山姥って、あんなに優しい妖だったんだ……。
よく知られている話の真実。もしかしたら、同じような怪談は他にもたくさんあるのかもしれない。外見ではなくて、物事も、見たままでは本当のところは分からないらしい。それが分かっただけでも、あの山姥に会えて良かったと悟は思う。
「いい人だったでしょ」
「うん」
「私、だから山姥のお話が好きじゃないの。お坊さんに食べられて終わりなんて」
だから、悟にも本当の山姥を知ってほしかったんだろう。そのためにわざわざ、迷いながらもこんな森の奥深くを目指した。美子のそういうところも、山姥に負けないくらい優しい部分だと、悟は頬を緩める。
「……だから、なによ」
「いや、優しいなって」
「……あっそ」
語られない物語は伝わらない。そう思ったら、恥ずかしがって誤魔化しているのが馬鹿らしくなって、すんなり言葉にできた。美子はそっぽを向いてしまってその顔は見えないが、尾はしっかり揺れていて、内心を表わしているようだった。
再び明るくなった森を進むこと少し、不意に木々のざわめきが無くなった。代わりに川のせせらぎが聞こえて、小石の並んだ河原が姿を現す。どうやらここが、美子の目指していた川らしい。
頭上から降り注ぐ陽の光を反射して、水の流れがキラキラ煌めいている。時折流れてくる桃色の欠片は桜だろう。体感温度も何度か下がっただろうか。中で遊ぶにはまだ寒いが、ほとりで涼んでいる分には心地よい。
その川の流れの中に、いくつかの影があった。全体的に緑色っぽい影たちはみな、頭頂部に皿のようなものを持っている。



