強引に逸らした話題だが、気になるのも事実だ。昨日回った商店街は、人と積極的に関わる妖の多く住む場所だった。つまり、これから向かう居住区はそうでない妖が多いという意味にもとれる。
 これで誤魔化せるだろうか、と悟が鼓動を早くしていると、美子は溜め息を一つ吐いて、説明を始めてくれた。

「この郷の居住区は商店街のすぐ裏にある森や川のことよ。そういう場所に住む妖が多いから。危ない妖も、まあいるけど、大丈夫」

 ほとんど商店街と天目一箇神のいる中央部以外と言って良いらしく、かなり広大だ。だから美子は朝早くから来たらしい。
 実を言えば杏士朗の住む場所もその居住区の一角で、周辺一帯は山奥の村のような様相を呈している。畑と民家が広い感覚でちらほらと並ぶそこは、郷の妖たちの間で()と呼ばれていた。

 その村の中を抜けて向かっているのは、どうやら奥に見える森らしい。昨晩月面蝶を見たのとは別の森で、桃色混じりの木立が陽の光に照らされながら風に吹かれ、ざわざわと揺れている。
 そういえばこの郷はずっと風が吹いている。嫌な風ではなく、清らかで心地よい風だ。なるほど、だから出風の郷なのだろうか、と悟は道ばたに差されていた風車(かざぐるま)へ目を向けた。

「おや、美子さんに、君は杏士朗さんの……。お散歩かな?」

 傍らの石垣のうちからそんな声がかけられた。塀の上からぬっと顔を見せたその妖は、甚平を着た男性で、ひょっとこのような口になった真っ黒なお面を被っている。左手にキセルを持っている以外は変わったところはなく、人間と区別がつかない。強いて言えば、お面が妙に恐ろしいことくらいだろうか。

「そんなとこ。この郷の案内がてらね」

 美子が説明してくれている横で悟はお辞儀をする。自分の噂がどこまで広がっているのかは少し気になったが、閉鎖的な空間なのだし、すぐに郷中に広まってもおかしくはないかと考え直した。

「なるほどねぇ。それじゃあ、楽しんで。お父さんによろしく」

 また悟はギョッとしそうになった。振られた右手に人の顔のついた本を持っていたのはいいが、その腕が妙に長かったのだ。左腕の倍近くあって、いくらか太いようにも見える。

 再び歩き出した美子に並ぶと、先程の妖の説明をしてくれた。彼は読ませ鬼というらしい。本体はあの本の方で、自分を読んだ人間の体を奪って動き回る妖だそうだ。そうして次の体候補へ無理矢理自分を読ませ、生き続けるらしい。

「もしかしてだけど、あの本の顔って……」
「よく分かったわね。奪った体の持ち主の顔みたい」

 背筋の寒くなる思いがした。だからあんな面を被っていたのかと。その下に、顔が無いから。

「今の体の人は自分から体を差し出したらしいけどね。変わった人もいるんだなって」

 そこにいったいどんな物語があったのかは、悟も少し気になる。それがきっかけでこの郷に引きこもるようになったと聞けば尚更だ。ただ、やはり恐ろしいので、聞きに行く勇気は無い。

「まあ、人間には怖い妖だし、見た目もちょっと怖いけど、いい(ひと)よ」
「いい(ひと)……」

 人間として生きた時間の長い悟だ。どうしても恐ろしさの方が優ってしまう。しかしそれは妖としての習性であり、人間が食事をしなければ生きられないのと同じなのだろう。
 見かけと中身は違う。妖は人と同じようには生きられない。そう言った杏士朗の言葉を、悟は思い出していた。

 そこから森までは、時間故になのか、そもそもこの辺りに住んでいる妖が少ないのか、特に声をかけられることもなく辿り着いた。途中桜並木を抜けてみたり、小川のせせらぎを覗き込んでみたりと風景を楽しみはしたが、時間はほとんどかかっていない。
 目的の森は、外から見る限りだが、悟の思っていたよりも明るかった。まだ入り口だからなのか、管理している妖がいるからなのかは、彼の知識では判別できない。
 その森へ美子は、特に警戒する様子もなく入っていく。月面蝶のような妖にとっても危険なモノはいないのだろう。もしくは、美子ならば対処できるかだ。

「そういえばその包み、なんなの?」
「これ? これはね、んー、後のお楽しみ、かな」

 悪戯っぽい笑顔は妖狐らしい。気にはなるが、彼女が秘密だというのならこれ以上聞くのも野暮だろう。
 しばらくそうして木漏れ日の中を歩いていると、うっすら霧が出てきた。そういうこともあるのだなと気に留めない悟の傍ら、美子は首を傾げている。

「この霧って何かおかしいの?」
「ええ。時期的にも近くの妖的にも、霧なんて出るはずないんだけど……」

 訝しむ美子に悟も不安になってくる。ようやく少し分かるようになってきた妖力の気配に意識を集中してみるが、四方八方にそれを感じてしまって何も分からなかった、美子ならばもっと詳しく分かるのだろうかと横目に見てみるが、彼女も霧の正体を図りかねているらしい。

「なぁにぃやぁつぅだぁ……!」

 身の毛のよだつような声が聞こえた。どこから聞こえているのかも分からない。悟はせめて美子の盾にはなれるようにと、身を寄せる。光も届かなくなっていて、薄暗い。そこに、赤く光る四つの目と、巨大な黒い影があった。
 森に済む妖だろうか。明らかに敵意を向けられている気がする。もし、このまま襲われてしまったら。こんなことなら、もっと本腰を入れて妖術を学ぶべきだっただろうか。護身用の剣の一本でも借りてくるべきだっただろうか。悟は腕に立った鳥肌に、いくつもの後悔を浮かべる。

「我が眠りぃ、妨げるぅなぁらぁ……」

 喉がゴクリと鳴るのを聞いた。身が強張るのを感じる。悟は、覚悟を決めた。

「あっ、分かった」
「ひっ」

 美子の手を叩いた音に驚いて、悟は肩を跳ねさせる。情けない悲鳴まで出た気がして口を抑えたが、どうも自分の声ではないらしい。

「ポン吉、ポン助、ポン太! あんたたち、悪戯はその辺にしなさい!」

 悪戯? と悟の首を傾げる間に、ポンッと気の抜けた音がした。同時に霧が霧散して、三人の少年が姿を現す。しかし狸の尻尾と耳を持っていて、ただの人間ではないことは一目瞭然だ。

「うわー、バレたー!」
「逃げろ! あはははっ!」
「美子姉ちゃんが怒ったぞー!」

 三人は楽しげに笑いながら木々の隙間に走り去る。悟はそれをぽかんと見ていることしかできない。残ったのは、つい先程まで歩いていたのと同じ、明るい森の景色ばかりだ。

「まったく」
「えっと……」

 腰に両手を添えて怒ってみせた美子は、溜め息を一つ吐いて悟に向き直った。

「化け狸の兄弟よ。悪戯好きで困っちゃうけど、そういう妖だから」

 彼女は眉根を寄せてはいるが、その口元は笑っている。見せている態度ほど怒ってはいないのだろう。そういうことも、一応はできたらしい。

「……なに?」
「いや、何でもない」

 また誤魔化して、と美子は不満げだ。どうやら彼女ははっきりしている方が良いらしいと、悟も理解した。しかし正直に言う方が憚られるところもあって、どうすべきか分からない。

 考え込んでいる間にも美子はどんどん進んでいく。どうやらこの郷に身を寄せる妖は日本のものばかりではないようで、羽の生えた小さな人型の妖精や意思を持ち動き回る木の妖、トレントといった西洋ファンタジーの世界の住人にも会えた。
 小説や漫画を読むのが好きな悟は内心、かなり興奮していたのだが、そんな好意の向け方をしては迷惑かもしれないと、必死に抑え込んだ。普段は覚の力がバレないようにするための演技力が、思わぬところで役だった形だ。

 いくつかの妖の住処を回る内に、だんだん日も高くなってくる。まだ昼食には早いが、森に入ってからそれなりの時間が経っているようだった。妖の血が流れているからか、悟は体力がある方だが、さすがに休憩が欲しい。美子がまだまだ元気そうなのは、妖の種族差なのだろうか。

「ねえ、そろそろ休憩にしない?」
「え? あー、そうね。たしかにいい時間かも。五分くらい休みま――きゃっ!?」

 腕時計と太陽の位置を確認していた美子が、突然倒れた。うっかり木の根にでも引っかかったのだろうか。運動神経は良さそうだし、森も歩き慣れた様子だったのに珍しいこともあるものだと、悟は美子へ手を伸ばそうとする。

「大丈――うわっ!?」