違う光が見えた気がした。布団を置いて目をこらすと、三日月が分裂する。目を擦ってもそれは減らなくて、むしろどんどん増えていった。気のせいか、一つ一つが好き勝手に飛び回っているようにも見える。
疲れているのだろうか。何かの妖に化かされているのだろうか。首を傾げるが、悟に分かるはずもない。
「月面蝶か」
気がつけば、杏士朗も同じ方向を見ていた。
「月面蝶……?」
気になる、綺麗な響きだ。うずうずする。虫のあまり好きではない悟でも、それほど綺麗な名前で、あれほど綺麗な姿なら、気になった。
「見に行くか?」
「うん、行く」
行灯と打ち刀をとった杏士朗に、悟は一も二もなく続いた。
月面蝶の群れが居たのは、杏士朗の家の裏手へ回って桜並木を越え、さらに少し歩いた辺りだった。森の入り口らしいそこに、沢山の三日月が舞っている。行灯を消すと夜の闇に煌めくのがよく見えて、幻想的な光景だった。
「うわぁ……!」
数多の星の瞬きを霞ませる、無数の三日月。青白く光るそれに、少年の心も奪われざるを得ない。人の世であれば蛍を見る感覚に近いだろうか。そういえば、悟も蛍を見るのは好きだった。
じっと見ていると、どれが本物の月か分からなくなりそうだ。星に負けないほどの数の月面蝶。これを父と見れたことも、もしかしたら悟をいっそう感動させているのかもしれない。
声を失ったまま、どれほどの時が経っただろうか。
「昔、愛理とも見たことがあった」
ぽつりと呟かれた言葉に、悟は杏士朗を見る。月に照らされたその灰色の目は、月面蝶の舞を見ているようで、見ていない。もっと遠くにある何かを見ているようだ。
それはきっと、母との記憶にある舞なのだろう。悟の中でも既に記憶の中の人となりつつある母と、これまでずっと、もう死んでしまっていると思っていた父。二人の繋がりをはっきりと感じられたことが、嬉しかった。それは、口ばかりでなくて、本当に杏士朗が愛理を愛していたのだと、分かった気がしたからだっった。
二人を繋げる光景を、もっと目に焼き付けたい。そう思って、悟は一歩、前に出る。しかし杏士朗の刀がそれを遮った。
「これ以上近づくと喰われるぞ」
どういうことだろうか。悟が問いかける前に、答えは示された。
彼の近づくのに一匹だけ気がついたのだろう。群れから離れるようにして、三日月が一つ、近づいてくる。ひらひらと舞うように、ではない。猛禽類が獲物に狙いを定めたときのような勢いだ。
「うわっ」
驚いて尻餅をつく悟の目の前で、白銀色が閃いた。月光を反射する父の髪、ではない。いつの間にか抜き放たれた打ち刀が、三日月を二つに別っていた。再び動く様子は、ない。
恐る恐る立ち上がって空を見るが、二匹目や三匹目が飛び込んでくる気配も見えない。ほっと息を吐いて、杏士朗よりも一歩だけ下がった位置に戻る。
「月面蝶はその美しい舞で妖や人をおびき寄せて喰らう妖だ」
ゴクリと悟の喉が鳴るのが聞こえた。行灯に火を付けて、杏士朗の切り伏せた月面蝶を照らす。そこには円形に並ぶ牙を持った、恐ろしい形相の巨大な蝶があった。口の部分だけで悟の顔ほどはあるのではないだろうか。四枚羽のうち、三枚にはそれぞれ満月、半月、そして上弦の月の形をした模様が浮かんでいる。唯一何も模様の無い羽には、もしかしたら今は顔の部分にある下弦の月の模様があったのかもしれない。
「見かけと中身は違う。それは、お前もよく分かっているだろう」
その通りだった。覚の力のせいで、いやというほどによく分かっていた。口に出す言葉と、その表情と、内で発する声が全く違う。覚にとってはよくある話だ。いや、よくよく見れば、嘘の気配は彼らのそこかしこにあったのだろう。悟ではまだ分からなかったが、妖の世に来て、その可能性に気がついた。
「尤も、こいつらの場合、明るい場所で見る分には見かけもなかなかに醜いのだがな」
改めて足下を照らしてみる。たしかに、悍ましい。虫自体もともと苦手な方の悟だ。それは心が読めない故のことではあったが、こうして見ると、外見にも抵抗を感じてしまう。
もしかしたら悟は、妖に幻想を抱いていたのかもしれない。これまで出会った妖は、その見かけによらず、良い妖ばかりであった。少なくとも悟には、という但し書きは付くのかもしれないが、一見恐ろしい鎧武者の付喪神だって、実は子供好きで気の良い妖だった。
だから、油断していたのだろう。彼が人の世から逃げだそうとしている理由すら忘れてしまうほどに。
杏士朗の月面蝶を見る目は、酷く冷たい。絶対零度の視線とは、こういったものを言うのではないだろうか。こうして見ていると、彼が非常に恐ろしい妖のように思えてくる。それこそ人や他の妖を襲い、喰らってしまうような妖に。
「忘れるな、悟。妖は、人のようには生きられない」
しかしもし、その心が、悟を襲った敵への怒りからくるものなのだとしたら。父としての愛故にだったとしたら。
杏士朗は覚ゆえになのか、あまり多くを言葉にしない。悟ではその内心を図るのが難しくて、よく不安になってしまう。だが、思い返すと、彼はその度に気遣いを見せてくれていたように思える。
それに、杏士朗は、悟の父は、あの母が選んだ相手なのだ。
――もしかしたら、父さんは、凄く優しい妖なのかもしれない……。
それは、悟が杏士朗に対して初めて抱いた、家族としての親しみだった。
――家族、か……。
父と母、三人で暮らせていたら。夕餉の中でも夢想した光景が、また、彼の脳裏を過っていった。
翌朝、小鳥の鳴く声で悟は目を覚ました。昨晩月の明かりを導いていた高窓は、代わりに朝の柔らかな光を届けている。眠い目を擦りながら体を起こすと、杏士朗も布団から出るところだった。
「おはよう、父さん」
「ああ。……今朝は早いな」
「うん。たぶん、昨日寝るのが早かったから」
何気ない、他愛もない会話だ。父と呼ぶ声もすんなりと出て、悟自身、少し驚いた。
二人で朝食の用意をする合間にまた、妖力を扱う練習をする。妖術を使えるまではもう少しかかるだろうという話だったが、半妖であることもあり、こればかりは仕方がない。悟も気長に構えていて、特に焦りは感じていなかった。
――そういえば、今日美子はいつ来るんだろう?
昨日の別れ際に決めておけば良かったとは思うものの、他に予定は無い。これも気長に待てば良いだろう、と朝食を食べ進める。
「悟! 準備できてる!?」
咽せるところだった。どうにか無事にご飯を飲み込んだ悟は、一度箸を置き、杏士朗の頷いたのを確認して玄関の扉を開ける。そこにはやはり、着物姿の妖狐、美子がいた。金色の髪には桜の花びらが一つ乗っていて、片手には何やら風呂敷に包んだ荷物を持っている。
「おはよう……って、あれ、もしかしてまだ朝ご飯の途中だった?」
「うん、まあ」
とはいえもうすぐ食べ終わるところではある。
「上がって待っているといい」
「あ、杏士朗さん、玄関で大丈夫です! ここで座ってます!」
古い造りの玄関は段差が高く、着物で座る分にも容易い。その着物は昨日と同じく淡い青が基調だが、無地ではなく、白い花の描かれたものだった。その分華やかで、悟にはますます眩しい。
悟は少し急ぎ足で食卓に戻り、かきこむ勢いで残りを平らげる。一度喉に詰まらせそうになってしまって、お茶で無理矢理流し込んだ。
「片付けはやっておこう」
「ありがとう。行ってきます!」
美子にお待たせと声をかけて、悟も靴を履く。彼の方は、昨日と同じような藍で無地の着流しだ。
外に出ると、雲一つ無い晴天の空が見えた。日差しも麗らかで、涼しい風も吹く。出かけるには心地よい春の日和り。彼の心もつい、浮かれてしまう。
「ねぇ、何かあった?」
「え、なんで?」
「なんか、昨日よりいい顔してるから」
そうなのだろうか、と片手を逆の頬に当ててみて、首を傾げる。もしそう見えるのなら、それは美子と杏士朗のおかげだ。しかし正直に言うには少し恥ずかしくて、なんでか分からないと誤魔化した。
「ふーん? まあ、いいか。それより、今日は居住区の方を案内するから」
「わかった。よろしくね」
悟は特に気負うこともなく、自然と答えたつもりだった。しかしどうしてか、美子はたじろいだような様子を見せる。
「本当に何もなかったの?」
「えっと、まあ」
少し視線を泳がせてしまって、美子の視線がジトッと細められた。おそらく、見透かされているのだろう。それが分かっていても、自分の口から言うのは恥ずかしい。
「それより、居住区ってどんなところなの?」



