「妖術はあれよ。妖がみんな持ってる力、妖力を使って使う術。ある程度体系化されてるから、誰でも使えるの」

 もう一口、二口とパフェを食べる美子の手は止まらない。

「そこら辺が妖の種族としての能力と違うところだけど、私たち妖狐みたいに妖術が得意って伝承があって、それそのものが種族の力みたいになってることもあるって」

 喋りながら次々生クリームの塊を放り込むものだから、悟は彼女の話が頭に入らない。理解するのにもう一度思い出して繰り返す必要があった。
 ただ、美子は飲み込んでから話しているし、ここまで良い食べっぷりだと、悟もなんだか胸が温かくなってくる。時折たくさん食べる人が好きという人がいるが、その気持ちが分かった気がした。

「ん? 何? あんたも食べたいの?」
「え」
「仕方ないわね。はい」

 渡されたもう一本の長匙をじっと見つめてしまう。少し考えて、ここで食べないのも失礼だろうか、と手を伸ばした。

「あ、美味しい」
「でしょ!」

 眩しい笑みだ。悟は少し、体の熱くなるのを感じた。
 一方で、思う。美味しいけど、この量はさすがに飽きるなぁ、と。これを食べるのは、美子と来たときだけにしようと心に誓った。

 カフェを出て、商店街の箸に来た頃には空は赤く染まり始めていた。行きで閉まっていた店も開店準備を始めており、間もなく夕食の時間だろう。
 悟としては、凄く楽しい一日だった。人と遊んでこんなに楽しかったのは、初めてのことだった。そもそも友人と呼べる相手ができたのも初めてだったから、今日のことは、一生の思い出に残るような記憶だ。
 しかし、美子はどうだろうか。もしかしたら自分ばかり楽しんでいたんじゃないだろうか。案内のために付き合わせてしまっただけなんじゃないだろうか。心の声が聞けたなら、本音が分かるのに。聞けないから、不安だ。

 その悟に向かって、美子が振り返った。
 
「ありがとう、悟。楽しかった!」

 また、眩しい笑顔だった。これが嘘なら、彼女は生粋の妖狐だ。間違いない。
 しかし、そうは思えない。彼女は妖狐なのに、凄く正直だった。悟でもいくらか自信を持ててしまうくらいには、分かりやすかった。だから、きっと本当に楽しんでくれたのだろう。そう信じられた。

「……俺も、楽しかった。案内、ありがとう」

 自然と笑みが浮かぶ。
 
「何言ってんの。まだ見せてないところはたくさんあるんだから。明日もちゃんと起きて待っててよね」
「……うん!」

 夕日に燃える金毛が、悟にはやはり、とても眩しかった。

 黄金色に染まる出風(いずかぜ)の郷を、悟は同じ色に染まった気分で歩く。空にはちゃんと雲があって、これも麦畑のように染まっていた。その隙間を飛ぶのは、雁の群れだろうか。田舎道には心地よい風が吹いていて、奥の方から桜の花びらを運んできた。その桜の木の隣、未だ見慣れないその古民家然とした建物が、今ばかりは彼の帰る場所だ。

「ただいま」
「ああ」

 思っていたよりもすんなりと出たただいまに悟は内心でほっとする。玄関を開く前から匂いで分かっていたことだが、杏士朗は夕餉の支度をしているようだった。七輪で焼いているのは、匂いからして、魚だろうか。炊飯釜からも甘い香りがしていて、若い食欲を刺激する。

「俺も手伝っていい?」

 何かしようと思ったのは、金色の揺らめきが理由だろうか。伯母の家に引き取られてから家事をすることはめっきり減っていたが、一応ある程度はできるようになっている。

「卵焼きは作れるか?」
「たぶん。かまどで作ったことはないけど」

 では頼む、と渡された器にはまだ割る前の卵がいくつか入っている。それ用の四角いフライパンは、既にかまどの横の出してあった。
 魚の具合を見つつ炊飯釜の様子を確認している杏士朗の傍ら、悟は卵焼きを作り始める。割って混ぜるまでは、特に問題ない。

「ねえ、と、父さん」

 父と呼ぶのは、やはりまだ少し恥ずかしい。

「なんだ」
「父さんは、妖の心も読めるの?」

 美子から妖の種としての力の話を聞いたときから気になっていたことだ。以前、彼女に、あんたみたいに自分が半妖と知らなかったようなやつの力なら皆防げるといった旨の話をされたことを思い出したのもあった。

「ああ。大抵の相手ならな」
「それは、どれくらいの相手まで?」

 美子と居たときよりもすんなり質問できている気がするのは、父が相手だからだろうか。いや、朝は杏士朗相手でも難しかった。

「そうだな、下級の神までだろうな」
「神……」

 凄い、と素直に思った。自分も訓練したらそうなるのだろうか。しかしそれにはどれほどの年数がかかるのか。悟には想像もできない。
 もし、初めから妖と関わって暮していたなら。自分はどういう風になっていて、美子とどういう風な関係を築いていたのだろうか。今更な話とは彼も分かっているし、母の思いを否定するつもりもない。ただ、なんとなく、そんなことを考えた。

 夕餉の支度を終えて、昼もしたようにちゃぶ台に料理を並べる。今日の献立は焼き魚に大根おろしを乗せたものと、味噌汁、葉物野菜のごま和えと、卵焼きだ。悟の作った卵焼きは少し不格好で焦げてしまっている部分もあるが、初めてのかまどなら上出来だと杏士朗は言った。
 いただきます、と手を合わせて、箸を手に取る。杏士朗が魚の大根おろしに醤油を垂らしているのを見て、悟も真似をした。

 あまり馴染みのない食事ではあったが、幸い悟の口にも合っている。しかし、妙に杏士朗の反応が気になって、口へ何かを運ぶたびにチラチラと視線を向けてしまった。

「今日は、楽しかったか?」

 不意にかけられた声に、悟は肩を跳ねさせる。口の中にはまだごま和えが残っていたから、いつもよりも少しだけよく噛んで考える時間を作った。

「……うん、楽しかった。たぶん、美子の、おかげ」

 けっきょく気の利いた言い方はできなくて、思ったままを伝える。よくよく考えたら、相手も覚。自分の心は当然読まれているんだから、下手にかっこつけようとしなくても良い。美子の呼び方は、彼女本人からそう呼べばいいと訂正されたものだった。

「そうか」

 杏士朗はそれ以上何も言わない。答え方を間違えてしまっただろうかと悟は少し不安になって、汁椀の陰から彼の顔を伺う。そして、ほっとした。切れ長の目がさらに細められ、口元は柔らかくほころんでいたのだ。この表情で悪い風に受け止めているなんてことは、さすがに無いと信じられる。
 それなら、もう少し詳しく、色々と話してもいいかもしれない。おもちゃ屋の鎧武者に驚いた話をしようか、雪女の雪菜(ゆきな)さんの店で美子と鞄や財布を選んだ話をしようか、美子が凄く大きなパフェを食べていて驚いた話をしようか。思い返せば、話したい記憶がたくさんある。
 ――あ、こうして思い浮かべるだけで伝わってるのかな……?

「いや、話してくれ。お前の口から聞きたい」

 胸の内の落ち着かなくなる心地がした。居心地の悪さではない。むしろ、心地よい。
 思い浮かべたその一つ一つを、ゆっくり、丁寧に伝えていく。それを聞いている杏士朗もどこか楽しそうに見えて、しかし自信は持てなくて。それでも、自分の肩から力が抜けているのは感じていた。
 ――ここに、母さんもいたらなぁ。

 ついそんなことを考えてしまうくらいには、この家が居心地良く感じられた。

 夜になって、ジーという虫の鳴く声が窓の外から聞こえ始めた。時折吹き込んでくる桜の花びら混じりの風が涼しくて、風呂上がりの火照った身体に気持ちよい。一応明かりは妖術や行灯(あんどん)でとれはするが、夜中にわざわざする必要のあることもなく、そろそろ布団を敷いて寝る準備をしようかという話をしていた。

 布団を運びながら悟は、ふと窓の外を眺める。少し高い位置にあるそれからは美しい下弦の月が青白い光を放っているのが見えた。妖の異界でも天体はちゃんと見えるらしい。
 ――あれ?