桜が咲いて、舞い、そして散るように、人は変わっていく。あるいは変わらずとも、桃色の花びらと、地に映る黒い影の二つの姿を同時に見せる。それは妖も変わらない。それが美しくて、愛おしくて。だからその神は、その社を作った。その郷を作った。悠久の時の中で、そうした営みを守り、眺められるように。

◆◇◆

 遠くにチャイムの鳴るのを聞きながら、恕夜見(しよよみ)(さとる)は同級生達と下校路を歩く。ようやく馴染んできた学ランはまだ少し大きくて、いつもよりは軽い通学鞄に引っかかっている。
 道路脇を見れば満開に近い桜が桃色の雨を降らせていて、学ランでは日差しが少し暑い。時折心地よい春一番が吹いて、やや灰色がかった黒髪を巻き上げた。

「そんじゃーな、悟! また新学期!」
「うん!」

 悟は陸橋を登っていく同級生たちに笑顔で手を振る。向こう側には地方特有の広い青空が見えていて、日に日に強くなっていく日差しが眩しい。
 春休み前の清々しい昼下がり。高校に入って最初の春休みを目前にした、心浮き立つ時間。にも拘わらず、彼は色の見えない表情を浮かべ、小さく溜め息を吐いた。

 誰もいない家に帰宅した後は、着替えることなく自室に向かい、本棚から漫画を手に取る。彼の通う高校は春休みでも多少の宿題があるが、まだする気はなかった。

 どれほど時間が経っただろうか。気がつけば部屋は薄暗くなっており、その中程まで照らしていた西日ももうほとんど見えない。ちらと時計を見れば、間もなく十八時を回ろうとしていた。
 ――そういえば、さっきただいまって聞こえた気がする……。

 だとすれば、それは彼の伯母、金築(かねつき)愛未(まなみ)の声だ。もう一時間もかからないうちに伯父も帰ってくるはずだから、その頃になったら夕飯に呼ばれるだろう。
 悟は中学の途中から伯母夫婦の家で暮らすようになっていた。

 電気を点けてしばらくした頃、窓の外に足音がして、ただいまという男の声が聞こえた。伯父だ。少し間があって、悟の名前が呼ばれる。学ランだけを脱いでダイニングに向かえば、ちょうど愛未が夕飯を食卓に並べ終えたところだった。

「悟君、ほら、座って。今日は悟君の好きな唐揚げよ」
「おっ、美味そうだな」

 悟の後ろから伯父である健司(けんじ)も入ってきた。彼は着替えを済ませてきたようで、部屋着にしているグレーのジャージを着ていた。

 席に着いて手を合わせ、いただきますと言うのを合図にして食事が始まる。そうすると愛未はまず、悟に話しかけるのが常だ。

「今日は修了式だったんでしょう? お友達と遊ぶ約束はしてるの?」
「別に」
「必要なら車くらいは出してやるからな。早めに言うんだぞ」
「うん。ありがとう」

 悟の返事が素っ気ないことを含めて、高校生男子のいる、普通の家庭の、普通の食事風景だ。悟と愛未たちに親子関係がないこともこの光景を見ただけでは分からないだろう。

 もう一つ、この場には普通でないことがあった。
 不意に愛未の視線がリビングの机の方に向けられる。悟の位置からは電卓があることだけ分かる。

「(愛理(えり)の遺産があって良かった。じゃなかったら、この子は引き取らなかった)」

 頭の内に響くような声に、悟は顔を顰めないよう少し大きめの唐揚げを頬張る。健司は何も聞こえていないかのように唐揚げとご飯を口に入れて、美味いと漏らしていた。

 それは、愛未の心の声だ。悟には、人の心の声を聞く不思議な力があった。

 夕飯と風呂を済ませ、悟は自室に戻る。ベッドに倒れ込むと。すぐ横で読みかけの漫画が跳ねた。

「迷惑なら迷惑って言えばいいのに……」

 どうせ伯母は、彼女の妹であり悟の母である恕夜見(しよよみ)愛理(えり)の遺産目当てで彼を引き取ったのだから、もうあんな風にご機嫌取りなんかしなくていい。いつも悟が思っていることだ。
 健司も口ではああ言っていたが、朝早いと面倒だと心の中では呟いていた。身を寄せた先の伯父と伯母に疎まれて、自分の居場所はこの家にあるのだろうか。思春期を終えたばかりの悟には分からない。

 だからと言って、他に彼の居場所があるかは別だ。一緒に帰った同級生達も、時折心の内でうざいと言ってくる。悟に対してではないが、内心でこいつヤバいなどと思いながら笑顔でふざけあってる姿を見たときなども辟易してしまう。先生だって言ってることと思ってることが全然違うのだ。生徒のためと綺麗事を言う人気の先生がクラスメイトのことをいやらしい目で見ているところに遭遇してしまったこともあった。

「みんな、嘘つきだ……」

 心の読める悟にとっては、どんな場所でも、生きづらくて仕方がなかった。