「……っていう事情で、高校生を探しているのかもしれない」
空想が終わると、伊頼と藤田の周辺を包むのは、ガタンゴトンと規則正しく響く電車の音だけになった。
ホームで藤田が空想を語りはじめたあと、藤田の予想どおり、空いた電車が入ってくるようになった。次に来た便に乗り込み、電車に揺られながら続きを聞き。もうすぐ、伊頼の最寄りに着くころだ。空もすっかり晴れている。
「再会できるといいなぁ、それ」
伊頼は、ホームで見たふたりの様子を思い出していた。
励ましたり支えたりしながら歩くふたりは絵のようだったかも、と思う。それは、彼らが外国人で見慣れない容姿だからとか、ふたりとも背が高くてバランスがよかったとか、そういった話ではない。
「そのイトコらしい女子高生が見つかっても見つからなくても、もう、ふたりの関係が既にドラマだよな」
「そうだね。ふたりはきっと、気付いてないだろうけど」
当人たちが気付いていないからこその良さがある、と藤田は言った。
伊頼は、ふと気になったことを訊ねてみた。
「例えばだけどさ、ダマさんの支援者になったのがその消しゴムをくれていた女の子の親じゃなかったら、ダマさんはどんな大人になってたかな」
「え?」
藤田は、思いもよらない、といった風に目を見開く。
「だって、もし支援してくれた人が別人だったら、消しゴムのあのエピソードはないわけじゃん? そう思うとなんか、人間って、出会ったエピソードを積み重ねてできるものなのなんだなぁーって」
伊頼は先日志井に指摘された、あの「考え方の土台」と「予防線」の話をした。子どものころから染みついた教えと、それに影響を受けていると気付いた自らの「厳しさ」の話を。
藤田ほど流暢に語れない伊頼の話を、藤田はゆっくり聞いてくれた。
「……ということなんだけど。どう思う?」
「どうって。今自分で『急いで考えない』って言ってたじゃん。ゆっくり考えなよ」
「それはそうなんだけどさ」
藤田が何か言おうとしたが、そのタイミングで、電車が海賀駅に到着した。
話に夢中になっていた伊頼は、二回目のアナウンスでようやく駅名に気付き、慌ててドアへ向かう。
転がり出るようにホームへ降りた伊頼に、藤田は車内から「じゃあ、またね」と手を振っている。
伊頼は同じように手を振り返した。そして、まだ発車しない電車に背を向け、改札へ向かおうとする。
(……あれ? 動かねぇの?)
いつもならとっくに走り出す電車が、ドアを全開にしたまま静止している。
不思議に思い立ち止まっていると、頭上のスピーカーからアナウンスが聞こえた。
──ただいま調整中のため、一分間ほど停車しております。繰り返します。ただいま調整中のため、一分間ほど停車しております。ご乗車の皆様にはご不便をおかけしますが……
(なんだ、調整か)
安原は再び改札を目指しながら、ぼんやりと考える。当たり前のように思っているけれど、一分で調整が終わるなんてすごいことだ。
一分あれば、自分はなにができるだろう。
これといったものが思い浮かばないでいると、ふと、今まで乗っていた電車の、一つうしろの車両が目に入った。ドアを全開にした様子は「誰でも乗り降りできるよ」と両手を広げているように見える。
(一分あれば……そう、一分あれば)
一分あれば、電車から降りたふりをして、後続の車両にこっそり乗りなおすことができる。
調整が終わって、発車のベルが鳴る。
伊頼は勢いに任せて、全開のドアの中に飛び込んだ。
初めて降り立った早風駅は、驚くほど小さく静かな駅だった。
駅舎は周辺の個人宅に埋もれてしまいそうなほどこじんまりとしているし、ホームで電車を待つ人のために掛けられている屋根は、二メートル程度しかない。
ICカードが読み取れる自動改札は設置されているが、それ以外は絵に描いたような「レトロ」である。
ホームも駅舎もシンプルすぎて、隠れられそうな場所が見つからなかった。伊頼は仕方なく、ドアが閉まるぎりぎりまで粘り、藤田が改札に向かって歩き出したのを確かめてから「えいやっ」と降りてみる。
(あ。海賀駅と同じ海の匂いがする)
同じ山を背にし、同じ海に面しているのだから、当然と言えば当然である。しかしそれだけで、五つ離れた駅が、急に近所のように感じられた。
改札をくぐると、そこには券売機一台と、長椅子がふたつあった。ホームの屋根が狭い分、雨が降ったらここでぎりぎりまで電車を待つのかもしれない。
(アレ? 藤田どこ行った?)
八畳間ぐらいに感じるその空間の中に、藤田の姿はなかった。
既に駅舎を出て、家に向かって歩きはじめたのだろうか。だとしたら見失う前に追いかけないと。
(雨やんだから、傘さして顔を隠すとかできないんだよなぁ)
パッと飛び出すように駅舎を出た伊頼は、藤田の背中を探そうとした。
しかし
「こら。そこのストーカー」
斜め後ろから、聞きなれた声に呼び止められてしまった。
しっかりバレていたのか、と後悔してももう遅い。藤田は伊頼がいることに気付いて、わざと死角になる場所で待っていたようだった。
「え、あ。藤田……き、奇遇だな」
一応取り繕おうと試みるが、全くの無意味だった。
「僕、こういうのが『奇遇』って呼ばれるとは知らなかったなぁ」
「う……」
「で? 何してんの?」
呆れたような、それでいて圧も掛けてくるような笑顔で迫られる。
観念した伊頼は、正直に答えることにした。
「ごめん。わかんねぇ」
「はあ?」
「だから。特に理由は考えてなくて。強いて言うなら、俺と別れた後の藤田を見てみたかったのかもって感じだけど。でも本当に、特に理由はない」
藤田はしばらく呆気にとられた表情で固まっていた。そして、一拍も二拍も経ってから、脱力する。
「なにそれ。バカなの」
「え。ごめん……?」
「いいよ、別にもう。元々さっき、僕は安原のこと誘おうと思ってたし」
今度は伊頼が驚く番だった。
「誘う? どこに?」
「家に。ほら、帰るからついてきなよ」
伊頼は、海賀駅に着く直前に、藤田が何かを言おうとしていたことを思い出した。
あれは「このあと暇なら、ここで降りずにうちまで遊びに来る?」と言おうとしていたらしい。
(つまり。結果オーライ?)
面白い偶然を生んでしまったな、と気付いて笑う伊頼を、藤田は数歩先で待ってくれていた。
今までも、伊頼の中で藤田は「意外」の塊のような存在だった。
しかし今日、その認識がさらに強固に更新されようとしている。
「藤田。俺、藤田の家にお呼ばれしたんだと思ってたんだけど?」
「そうだけど。なんでそんな『解せぬ』みたいな顔してるの?」
「だってここ、神社じゃん」
地元と似ているようで少しずつ違う海辺の町を歩くこと、十分。藤田に連れてこられたのは、木製の鳥居が静かに佇む神社の入口だった。
鳥居を正面からみると、その奥に広がるのは森。山。そして山。この鳥居は神社ではなく森への入口なのか、と思うほど、緑豊かな風景だった。
「少女漫画だったら異類婚姻譚がはじまりそう」
「なにそれ。安原がそういうジャンル知ってるの面白すぎるでしょ」
藤田はクツクツ笑いながら、鳥居の奥へと伊頼を招く。
「この奥に家があるだけだよ。普通の家。ちょっと狭いけど」
「祠?」
「違うってば」
鳥居をくぐり、境内の奥の、さらに奥へと進む。
生い茂る木々の葉が、敷地いっぱいに立派な屋根を作っていた。もう夕方なので傾いた日の光が横から入ってきているが、午前中だったら淡い木洩れ日で溢れているのだろうな、と思う。
「すげぇ。神社の中に普通の家があるの、俺初めて見るかも」
「あ、だからああいう反応だったのか」
奥にあったのは、街中にあったら少しびっくりするぐらいの趣ある日本家屋だった。藤田は玄関の引き戸を開ける。
中に入るのかと思ったら、隙間に顔だけ突っ込んで「鷹彦さーん」と叫んだ。
「鷹彦さーん。友達来たから、部屋に通すよー」
すると、中からドタドタと大きな音が響いてきた。大人の男が走っているのだと、すぐにわかるような重い音だ。
「と、友達だって?」
「うん、友達。ちょっと話したらすぐ帰るから」
「お菓子とかっ!」
「いらない。ていうかスリッパで土間に降りないで」
藤田が引き戸をしっかり持っているせいで、押し問答しているらしき相手の姿がさっぱり見えない。
それでも声の調子から、そこそこの年齢であるらしいことを感じた。伊頼の父親と同じぐらいではないだろうか。
(遊びに来たからには、挨拶ってしたほうがいいんじゃねーの……?)
大体のことにおいて伊頼より丁寧な藤田が、それを阻止しようとしているだなんて珍しい。逆に興味が湧いてしまう。
どうしたらいいかな、と思いながら待っていると、引き戸がこじ開けられてしまった。藤田の腕力が、大人のそれに負けたらしい。
「おー。本当に友達だ! いらっしゃい!」
現れたのは、声のイメージよりはいくらか若い印象の顔立ちをした男性だった。
少し細めに整えられた眉と、オールバックにした色素の薄い髪に目が行く。白髪ではなく、藤田と同じように元の色が薄いのだと思う。
「お邪魔します。安原です」
「どーも。史月の保護者の鷹彦です。ゆっくりしてって。あ、制服が一緒だから同じ学校の子? お菓子何が好き? 飯食ってく?」
「鷹彦さん、多い。質問が多い」
藤田は鷹彦の肩をぐいぐい押して、まるで珍獣を封印するかのような勢いで玄関の引き戸を閉めた。
身内の遠慮のない勢いを見られたのが恥ずかしいのかな、と思ったが、そうではないらしい。ただただ「うるさいから仕舞った」という雰囲気を、伊頼は藤田の背中から感じ取った。
苛立っているというよりは、面倒くさいと思っているようだ。
「あー……賑やかな人、だな?」
「忘れていいから。部屋こっち」
藤田は玄関から離れ、庭のほうへ向かっていく。縁側の見えるぽっかりした空間を横切った先に、茶室のような外観の、小さな離れが見えた。
「ここなんだ。僕の部屋」
そこは、モダン和風のワンルームだった。六畳ほどの畳部屋と、二畳ほどの板の間があり、板の間のほうには小さな流し台がついている。
壁には本棚があり、教科書や参考書、小説本が綺麗に並んでいる。入口側から見た時には見えない奥側は掃き出し窓になっていて、その向こうには小さな縁側が見えた。
静かで柔らかい雰囲気の、藤田によく似合う部屋だった。
「へぇー。離れが一人部屋ってすげぇな。なんかカッコイイ」
「全然人を呼ばないから、おもてなしの道具とか何もないんだけどね」
「呼ばないだろうな、これは。ここを知ったら、みんな秘密基地にしたくなるもんな」
素直な感想を述べると、藤田は「そういう理由で呼ばないわけじゃないんだけど」と笑った。
「人を呼ばないのは、色々面倒だからだよ。なんで離れに住んでるのかとか、なんであの鷹彦さんと暮らしてるのかとか。そういうの質問されるってわかってるから」
「……俺はそういう質問しないって、思ってるってこと?」
気にならないわけではない、という気持ちを表情に込めて首を傾げてみせる。
すると藤田は「わかってるよ」と静かに言った。
「安原は、そういう話をするために呼んだ。学校じゃできない話が混ざるからっていうのと、あと……フェアじゃないような気がしたから」
一体どの部分がどうフェアじゃないのか、伊頼にはさっぱりわからない。
けれど藤田はその部分を一番気にした様子で「どこから話そうかな」と思案顔をした。
「まず、さっき会った鷹彦さんの話。あの人は僕の母の従兄。代々この神社で宮司をしている、社家の人」
「うん」
「昔、僕が幼稚園に入る前に、母が僕をつれてここに転がり込んだらしい。それからずっとここに住んでる。僕は前の家の記憶が一切ないから、ここしか知らないんだけどね」
「え、と」
「今は母もいないから、僕ひとりでこの離れを使わせてもらってる。母屋で暮らせって鷹彦さんには言われるんだけど、こっちのほうが勉強に集中できるし。あと……そうそう、僕ね、特待生なんだ」
「特待生?」
思わず大きな声で叫んだ安原を無視して、藤田はその後も、淡々とした口調で、色んな話をした。
父親がわからず、母親もいない状態なので、鷹彦に「保護者」をお願いしていること。
鷹彦への金銭的負担を減らしたくて、進学に私立高校の特待生制度を利用しようと考えたこと。
中学三年次に当時の担任と話し合い、授業料だけでなく交通費や行事にかかわるお金まで学校が負担してくれるという藤ヶ丘高校の特進コースの特待生が一番条件がいいという話になったこと。
狙いどおり合格でき、藤田は今一年生の中で首位の成績であること。
三年間特待生で居続けるために、この成績を維持する必要があること。
藤田がこの学年の特待生である事実は、誰にも知られてはいけない秘密であること。
こんなにも淡々と聞かされてしまっていいのだろうか、と震えたくなるほどの情報を、藤田は何でもないことのように話し続けた。
伊頼はもう頭が爆発寸前である。
「で、ここからが本題なんだけど」
「え。今からが?」
既に本題が三つも四つもあったではないか、と伊頼は思うが、藤田の中ではそうではなかったらしい。
「安原さ。今日僕に、自分の思考のルーツみたいな話をしたでしょ」
「ああ、うん。土台の話な」
「あれね。僕のそれも、安原と同じように、家族なんだよ。僕の母は、あまり心が強くなくて……いつだって何かに怯えていた」
その恐怖には波があり、一番ひどい時には、食事を届けにきた鷹彦ですら怖いと叫んでいたらしい。
藤田が色んな空想を語るようになったのは、そんな母に優しい世界を見せるためだったと言う。
──お母さんが怖いと思うその人、実は優しくてお茶目さんかもしれないよ?
──僕たちのまわりは、良い人がいっぱいいるかもしれないよ?
──そう思ったほうが、平和で、気持ちが楽じゃない?
幼いなりに一生懸命続けていたプレゼンは、いつの間にか、藤田の中に染みついてしまったそうだ。
「だから、僕のこれも、実は安原と似たようなものなんだよ」
「似てる、か? いや、まあ、家族がっていう点では、同じだけど」
同列に語っていいとは思えなかった。しかしそれをはっきり言うと、伊頼が藤田との間に何か一本線を引いたように見えてしまいそうで、上手く言葉にできない。
「同じでしょ。実は同じなのに、安原はなぜか僕の考え方を、僕が意図してる以上に素敵で素晴らしいものって思ってくれちゃったから。ちょっと焦ったんだよね」
「なんで焦るんだ?」
「僕だって安原と同じ高校一年生なんだから。今日の安原の言葉を借りるとしたら、まだ、エピソードを積み重ねてる最中なの」
今日までに積み重ねたエピソードの重みが既に違い過ぎる、と思ったが、それもやはり言えなかった。
しかし、言わずとも藤田は察したらしい。色素の薄い髪を揺らして、ふふ、と楽しそうに笑った。
「そういう反応、予想してたから大丈夫だよ」
「えぇ……人の心を読むなよ」
「読んでない。安原が思いそうなことはわかるよってだけ。何か質問があるなら、答えるよ」
そう言った藤田は、妙に上機嫌だった。ずっと誰にも話せなかったことを話したことで、心の中がスッキリしたのかもしれない。
そのスッキリした分は今、まるまる伊頼の心に圧し掛かっているのだが。文句を言おうにも、藤田があまりに楽しそうに微笑んでいるのを見たら、何も言えなかった。
「え、じゃあ……特待生って秘密なのに、俺に言っていいの?」
おずおずと訊ねると、藤田は「最初がそこなの?」と面白がった。
「安原は、この秘密を知っても校内で言いふらさないじゃん。藤ヶ丘で今一番仲良いの、僕でしょ」
「言いふらす相手がいねぇって言ってる?」
「だってそうでしょ。僕も今学校で一番仲が良いの安原だし。話してるうちにいつかボロがでるかもしれないなって思ってたんだ。今日みたいに」
学校の最寄りで列に並んでいた時のことを言っているのだと、伊頼は少し時間をかけて理解した。
──条件的にここの特進コースがいいって、勧められたから。
あれは、藤田がうっかり口を滑らせて出た一言だったのだ。
大抵なんでも伊頼より器用にこなすイメージがある藤田が、一瞬とはいえ、口が滑るほど気が緩んでいた。その事実をひどく珍しく思うのと同時に、妙に嬉しくも思ってしまう。
「特待生の条件って、一位をとりつづけることと、秘密を守ることだけ?」
「うーん。他にもなくはない。例えば……」
藤田は本棚からクリアファイルを取り出し、中にあるプリントの一枚を伊頼に見せた。
そこには、伊頼も知っている国内の有名大学の名前がずらりと並んでいた。国公立もあれば、私立もある。
「この中の大学をできるだけ多く受験することかな。学部や滑り止めとかは好きにしていいみたいだけど」
「えっ、志望に関係なく受験校決められてるってこと?」
「学校も合格実績作りたいからね。それに貢献するのが特待生の条件のひとつ」
苦い顔ひとつしていないところを見ると、藤田の中では、このリストの大学たちの合格を得るのは全くの不可能ではないのだろう。
同じ制服を着ているのに、なんだか別の世界の話を聞かされているような心地だった。
「他に質問は?」
「えっと……じゃあ、なんでお母さんが今いないのか、って……聞いてもいい?」
「入院してるから」
藤田は淡々とした口調で答えた。
「時々会いに行ってるよ。でももう、一緒に暮らすのは難しいと思うって言われてる」
「……っ、そう、なんだ……」
その入院は、精神的なものなのか、それとも全く別の病気や怪我によるものなのか。頭の中を様々な想像が駆け巡ったが、言葉にして質問することはできなかった。
ただ、母と離れたのが随分前らしいことだけは、藤田の様子から察せられた。もう一緒に暮らせない事実を、事実としてすっかり受け入れた雰囲気がある。
大人だな、と伊頼は思った。しかしそれを口にするのはきっと、藤田を傷つけてしまうとも思う。
悩んだあと、伊頼は、質問の方向性を大きく変えることにした。
「じゃあ、次の質問だけど。藤田、お前もしかして、中学時代の模試で県内一位だった?」
「……うん」
藤田は、静かな表情でゆっくり頷く。
「一度だけとかじゃなくて、ずっと?」
「うん。ずっと」
「じゃあ『ミステリアス文学王子』も、お前?」
「そっちはまぁ、面と向かってそう呼ばれたことがあるわけじゃないけど。一位とそのあだ名がイコールで繋がってるなら、そうなんじゃない?」
ごく一部しか呼ばなかったらしいあだ名なので、藤田に自覚がなかったのは仕方がない。
何しろ「ミステリアス」で「王子」なのだから。よしんばその単語が耳に入ったことがあったとしても、それが自分のことだと思うには、なかなかの自意識が必要となる。
しかし
「俺、最初に藤田と会った日に、話したじゃん。『ミステリアス文学王子』を探してるのは、そいつが俺の友達が探してる、一位のヤツと同一人物か確かめるためだって」
「言ってたね」
「なんでその時言わなかったんだよ」
「ミステリアス文学王子」の自覚がなかったとしても、自分の中学時代の模試の結果はさすがに覚えているだろう。なのに、あの日の藤田は、まるで自分以外に該当者がいるかのような素振りをしていた。
嘘を咎めるつもりはない。単純に「なぜ?」と思うだけだ。
その疑問に対する藤田からの返事は
「だって、初対面だったから」
という、あっさりしたものだった。
「え、それだけの理由?」
思わず身を乗り出して訊きなおした。それぐらい、拍子抜けな答えだった。
藤田は「だってさ」と苦笑する。
「模試で県内一位の成績だったって知られたら、学校内で一位なのもバレちゃうでしょ。巡り巡って特待生なのがバレて噂にでもなったら、僕怒られるし」
特待生制度の存在を今日まで知らなかった伊頼に、そこまで情報を結びつける能力があっただろうか。
口にするのが悔しいので言わないが、答えは間違いなく否である。
「それに、一位を探してるけど見つけてどうこうするつもりはないって、逆に怖いよ。様子見たくなるのが普通だって」
「えー。それに関しては志井が言ってたことそのまま言っただけだから、なんともなぁ……」
「そこは安原が嘘でも捻った理由を出すべきだったね」
「えー」
不服であることを隠さず喚いた伊頼を、藤田は可笑しな生物でも見るかのような目で見ていた。
ぜひ母屋で一緒に夕食を、という鷹彦からの誘いを藤田が強固に却下したため、伊頼は電車に揺られて海賀駅へと戻った。
降り立ったホームは、夜の湿気に満ちていた。全身にじわっと滲み込んでくるようなぬるい空気と、海の匂いがする風に肌を撫でられる。
「伊頼?」
改札を出ようとしたところで、背後から声を掛けられた。パンパンになったエコバッグを下げた母が、不思議そうに目を丸くして立っていた。
仕事着姿の母と、夜の電車のホーム。滅多に見ない組み合わせは、少し非日常感があった。
「おかえり。今日遅番だったんだっけ」
「そうよ。ていうか伊頼、今反対のホームから来なかった? こんな時間までどこ行ってたの?」
母が不思議がるのは、理解できた。伊頼は帰宅部で、日頃寄り道らしい寄り道はほとんどしない。
何より、この海賀駅よりも向こうには、ここよりも小さな町が点在しているだけで、目的地になるようなものが何もない。「どんな用事があったらここより向こうに行くの?」という疑問は、そこに住んでいる人たちには失礼ではあるが、自然な疑問でもある。
嘘を吐く必要はなかったので、伊頼は正直に答えた。
「ちょっと、友達の家に行ってた」
言いながら、伊頼は母の手からエコバッグを預かった。
それから並んで改札を抜け、家へと向かって歩き出す。
「友達? ここより向こうに? 学校の子じゃないわよね?」
「藤ヶ丘の子だよ」
短く答えると、母は「ここより遠くから通ってる子がいるなんて」とひどく驚いていた。
「おうちにお邪魔したって言ってたけど、そこのご両親にはちゃんとご挨拶してきた? 事前に行ってくれれば、手土産のお菓子ぐらい用意したのに」
「急に決まったんだよ。あと、保護者の人にはちゃんと挨拶した」
「保護者って、どっち? お母さま?」
「いや、親戚の人だけど」
そう返した途端、質問攻めの勢いだった母の声が、ぴたりとやんだ。
靴音まで止んだことに気付いた伊頼は「しまった」と思った。警戒心の強い母が、普段ああいう言動をする母が、いきなり「同居の保護者が両親ではない学生」と聞いてどんな反応をするのか、伊頼はよく知っていたのに。
「伊頼──」
「やめて」
思うより先に、母の言葉を遮っていた。
「やめて。あいつは、母さんが思うようなヤツじゃない」
「どうしてそうだって言い切れるの」
街灯に照らされた母の顔は、険しい表情をしていた。
呆れと疑いを隠しもしない目から放たれる視線は、その声と同じように尖っている。
「よく知ってるから。今学校で、一番仲がいいのが、そいつだから」
意地でも名前を出したくない、と思った。
藤田が、伊頼が到底届かなかった特進コースの生徒であることを知れば、あるいは母の中の印象は覆るかもしれない。家が神社だと知れば、少しは態度が軟化するかもしれない。
けれど伊頼は、それすらも母に知らせたくないと思った。藤田の何かを知ることで、母の意見が変わっても変わらなくても、腹が立つからだ。
「何よそれ」
母は、すっかり咎める口調で続けた。
「よく知ってるって言っても、たった何ヵ月かの付き合いでしょ。何がわかるっていうの、そんなので」
「じゃあ母さんは、俺が今話しただけの情報で、そいつの何がわかるっていうの」
なんと返ってくるかはわかっている。こういう時の母の常套句は「自分のほうが長く生きている分色んな人を知っている」だ。
親と子ども。大人と未成年。絶対に埋まらない歳の差がある以上、母のその言い分は事実なのだろう。
しかし、母が藤田本人をその目で確かめていないのもまた、事実ではないか。
「……心配してくれてるのはわかってるけど、そういうことしか言わないなら、悪いけど今日は帰れない」
預かっていたエコバッグを、アスファルトの上に降ろす。
母が悲鳴のような声で呼び止めようとするのが聞こえた気がしたが、伊頼はそれを振り切るように走り出した。
たった今母と歩いてきた道を、遡って駆けていく。
この町はいつまでも逃げ続けられるほど広くない。伊頼の足は自然と海賀駅のホームへと向かっていた。
改札にICカードを叩きつけ。
ちょうど目の前にやってきた電車に飛び乗り。
降りた先で、街灯の少ないレトロな暗闇の中を、記憶を頼りに歩いていく。
見つけた鳥居をくぐって、木々が作る深い影の中を進み。
そうして辿り着いた、小さな離れの戸を、伊頼は飛び込むような気持ちでノックした。
「……はい?」
中から、訝しむような藤田の声がする。
「鷹彦さん? どうかしたの、ノックなんて……?」
そう言いながら、近づいてくる足音が聞こえることにホッとする。
黙って待っていると、引き戸がスッと開いた。
藤田はまだ制服姿のままだった。伊頼を見て、淡い瞳を丸くして驚いている。
「えっ。安原?」
「藤田。ごめん。泊めて」
短く言葉を区切ってそう伝えると、藤田は表情からすぐに驚きを引っ込め、神妙な面持ちになった。
そして、ゆっくり頷いてくれる。
「いいよ。とりあえず入りな」
招き入れるためか、伸びてきた手に腕を掴まれる。
その瞬間、伊頼は言い知れない安堵を覚えた。
母屋に飲み物を取りに行っていた藤田が戻ってきた時、伊頼は借りた座布団に顔を埋めて寝そべっていた。
「何があったかとか、訊いたほうがいい?」
「……訊かないで欲しい」
聞かせたくない、といったほうが正しかった。
ここに転がり込んでおいて何を、と思われるかもしれない。けれど、今一番一緒に居たい相手も、藤田だったのだ。
「そう。じゃあ、お茶、ここに置いとくよ」
顔を伏せたままでもわかる、伸ばせば手の届くぐらいの場所に、グラスが置かれた音が聞こえる。
その距離感が、まるで自分たちのようだと伊頼は思った。
「藤田はさ、見たもので色々空想するじゃん?」
「うん」
「俺のことも、空想したことある? 藤田は初対面の俺のこと、どう思った?」
伊頼たちの初対面は、あの昼休みの、ほんの数秒の会話だ。
それから放課後の電車で再会するまで、かなり時間が開いている。藤田が空想する時間は、充分にあった。
「そりゃあ、最初の質問がアレだったし、何かしら空想したとは思うけど……」
藤田は静かなトーンで、うぅん、と小さく悩んだ。
「かなり前のことだから、もうあんまり覚えてないや。今から新しく空想しようにも、もう安原のことは結構知っちゃってるし」
「……覚えとけよぉ。だいぶインパクトあっただろ」
「まぁ、王子探してたもんね。インパクトはあったよ」
藤田がグラスを傾けたのか、氷がカランとぶつかる音が聞こえた。
「安原、僕の空想大好きだよね。最初はあんなに否定的だったのに」
「……慣れた」
バレているとわかっていながら、嘘を吐いた。
本当は、いつも楽しくて仕方がない。藤田が語る優しい話を聞くのも、その話を通して藤田の優しい価値観を知るのも。
いつだか志井が冗談で言った「放課後空想ミステリー部」なんて奇妙な部活動も、名称はともかく、心の中ではアリだと思っていた。
「僕は、安原に空想聞いてもらうの、結構好きだよ」
「なんで」
「楽しいから」
ただ聞いているだけの自分が、藤田にどんな楽しさを提供できているというのか。
絶対に嘘だと思った伊頼は、座布団に埋めていた顔を横に傾け、視線だけで藤田を見上げた。しかし、こちらの視線に気付いた藤田は「本当だよ」と目を細める。
「楽しいよ。安原はいつも面白い感想をくれるし、空想を語った僕自身が気付かなかったことを色々教えてくれる」
「たとえば?」
「今日語った空想に『もしも支援者になったのがその消しゴムをくれていた女の子の親じゃなかったら』って言ってたのとか。ああいうの、僕は自分じゃ考えないっていうか、思いつかないから」
「ふぅん」
相槌を返しながら、頭の中で今日聞いた空想を思い出す。
そうするうちに視界がぼやけたので、伊頼は再び座布団に顔を埋めた。
黙り込んだ伊頼に、藤田は何も言わないでいてくれた。
空想が終わると、伊頼と藤田の周辺を包むのは、ガタンゴトンと規則正しく響く電車の音だけになった。
ホームで藤田が空想を語りはじめたあと、藤田の予想どおり、空いた電車が入ってくるようになった。次に来た便に乗り込み、電車に揺られながら続きを聞き。もうすぐ、伊頼の最寄りに着くころだ。空もすっかり晴れている。
「再会できるといいなぁ、それ」
伊頼は、ホームで見たふたりの様子を思い出していた。
励ましたり支えたりしながら歩くふたりは絵のようだったかも、と思う。それは、彼らが外国人で見慣れない容姿だからとか、ふたりとも背が高くてバランスがよかったとか、そういった話ではない。
「そのイトコらしい女子高生が見つかっても見つからなくても、もう、ふたりの関係が既にドラマだよな」
「そうだね。ふたりはきっと、気付いてないだろうけど」
当人たちが気付いていないからこその良さがある、と藤田は言った。
伊頼は、ふと気になったことを訊ねてみた。
「例えばだけどさ、ダマさんの支援者になったのがその消しゴムをくれていた女の子の親じゃなかったら、ダマさんはどんな大人になってたかな」
「え?」
藤田は、思いもよらない、といった風に目を見開く。
「だって、もし支援してくれた人が別人だったら、消しゴムのあのエピソードはないわけじゃん? そう思うとなんか、人間って、出会ったエピソードを積み重ねてできるものなのなんだなぁーって」
伊頼は先日志井に指摘された、あの「考え方の土台」と「予防線」の話をした。子どものころから染みついた教えと、それに影響を受けていると気付いた自らの「厳しさ」の話を。
藤田ほど流暢に語れない伊頼の話を、藤田はゆっくり聞いてくれた。
「……ということなんだけど。どう思う?」
「どうって。今自分で『急いで考えない』って言ってたじゃん。ゆっくり考えなよ」
「それはそうなんだけどさ」
藤田が何か言おうとしたが、そのタイミングで、電車が海賀駅に到着した。
話に夢中になっていた伊頼は、二回目のアナウンスでようやく駅名に気付き、慌ててドアへ向かう。
転がり出るようにホームへ降りた伊頼に、藤田は車内から「じゃあ、またね」と手を振っている。
伊頼は同じように手を振り返した。そして、まだ発車しない電車に背を向け、改札へ向かおうとする。
(……あれ? 動かねぇの?)
いつもならとっくに走り出す電車が、ドアを全開にしたまま静止している。
不思議に思い立ち止まっていると、頭上のスピーカーからアナウンスが聞こえた。
──ただいま調整中のため、一分間ほど停車しております。繰り返します。ただいま調整中のため、一分間ほど停車しております。ご乗車の皆様にはご不便をおかけしますが……
(なんだ、調整か)
安原は再び改札を目指しながら、ぼんやりと考える。当たり前のように思っているけれど、一分で調整が終わるなんてすごいことだ。
一分あれば、自分はなにができるだろう。
これといったものが思い浮かばないでいると、ふと、今まで乗っていた電車の、一つうしろの車両が目に入った。ドアを全開にした様子は「誰でも乗り降りできるよ」と両手を広げているように見える。
(一分あれば……そう、一分あれば)
一分あれば、電車から降りたふりをして、後続の車両にこっそり乗りなおすことができる。
調整が終わって、発車のベルが鳴る。
伊頼は勢いに任せて、全開のドアの中に飛び込んだ。
初めて降り立った早風駅は、驚くほど小さく静かな駅だった。
駅舎は周辺の個人宅に埋もれてしまいそうなほどこじんまりとしているし、ホームで電車を待つ人のために掛けられている屋根は、二メートル程度しかない。
ICカードが読み取れる自動改札は設置されているが、それ以外は絵に描いたような「レトロ」である。
ホームも駅舎もシンプルすぎて、隠れられそうな場所が見つからなかった。伊頼は仕方なく、ドアが閉まるぎりぎりまで粘り、藤田が改札に向かって歩き出したのを確かめてから「えいやっ」と降りてみる。
(あ。海賀駅と同じ海の匂いがする)
同じ山を背にし、同じ海に面しているのだから、当然と言えば当然である。しかしそれだけで、五つ離れた駅が、急に近所のように感じられた。
改札をくぐると、そこには券売機一台と、長椅子がふたつあった。ホームの屋根が狭い分、雨が降ったらここでぎりぎりまで電車を待つのかもしれない。
(アレ? 藤田どこ行った?)
八畳間ぐらいに感じるその空間の中に、藤田の姿はなかった。
既に駅舎を出て、家に向かって歩きはじめたのだろうか。だとしたら見失う前に追いかけないと。
(雨やんだから、傘さして顔を隠すとかできないんだよなぁ)
パッと飛び出すように駅舎を出た伊頼は、藤田の背中を探そうとした。
しかし
「こら。そこのストーカー」
斜め後ろから、聞きなれた声に呼び止められてしまった。
しっかりバレていたのか、と後悔してももう遅い。藤田は伊頼がいることに気付いて、わざと死角になる場所で待っていたようだった。
「え、あ。藤田……き、奇遇だな」
一応取り繕おうと試みるが、全くの無意味だった。
「僕、こういうのが『奇遇』って呼ばれるとは知らなかったなぁ」
「う……」
「で? 何してんの?」
呆れたような、それでいて圧も掛けてくるような笑顔で迫られる。
観念した伊頼は、正直に答えることにした。
「ごめん。わかんねぇ」
「はあ?」
「だから。特に理由は考えてなくて。強いて言うなら、俺と別れた後の藤田を見てみたかったのかもって感じだけど。でも本当に、特に理由はない」
藤田はしばらく呆気にとられた表情で固まっていた。そして、一拍も二拍も経ってから、脱力する。
「なにそれ。バカなの」
「え。ごめん……?」
「いいよ、別にもう。元々さっき、僕は安原のこと誘おうと思ってたし」
今度は伊頼が驚く番だった。
「誘う? どこに?」
「家に。ほら、帰るからついてきなよ」
伊頼は、海賀駅に着く直前に、藤田が何かを言おうとしていたことを思い出した。
あれは「このあと暇なら、ここで降りずにうちまで遊びに来る?」と言おうとしていたらしい。
(つまり。結果オーライ?)
面白い偶然を生んでしまったな、と気付いて笑う伊頼を、藤田は数歩先で待ってくれていた。
今までも、伊頼の中で藤田は「意外」の塊のような存在だった。
しかし今日、その認識がさらに強固に更新されようとしている。
「藤田。俺、藤田の家にお呼ばれしたんだと思ってたんだけど?」
「そうだけど。なんでそんな『解せぬ』みたいな顔してるの?」
「だってここ、神社じゃん」
地元と似ているようで少しずつ違う海辺の町を歩くこと、十分。藤田に連れてこられたのは、木製の鳥居が静かに佇む神社の入口だった。
鳥居を正面からみると、その奥に広がるのは森。山。そして山。この鳥居は神社ではなく森への入口なのか、と思うほど、緑豊かな風景だった。
「少女漫画だったら異類婚姻譚がはじまりそう」
「なにそれ。安原がそういうジャンル知ってるの面白すぎるでしょ」
藤田はクツクツ笑いながら、鳥居の奥へと伊頼を招く。
「この奥に家があるだけだよ。普通の家。ちょっと狭いけど」
「祠?」
「違うってば」
鳥居をくぐり、境内の奥の、さらに奥へと進む。
生い茂る木々の葉が、敷地いっぱいに立派な屋根を作っていた。もう夕方なので傾いた日の光が横から入ってきているが、午前中だったら淡い木洩れ日で溢れているのだろうな、と思う。
「すげぇ。神社の中に普通の家があるの、俺初めて見るかも」
「あ、だからああいう反応だったのか」
奥にあったのは、街中にあったら少しびっくりするぐらいの趣ある日本家屋だった。藤田は玄関の引き戸を開ける。
中に入るのかと思ったら、隙間に顔だけ突っ込んで「鷹彦さーん」と叫んだ。
「鷹彦さーん。友達来たから、部屋に通すよー」
すると、中からドタドタと大きな音が響いてきた。大人の男が走っているのだと、すぐにわかるような重い音だ。
「と、友達だって?」
「うん、友達。ちょっと話したらすぐ帰るから」
「お菓子とかっ!」
「いらない。ていうかスリッパで土間に降りないで」
藤田が引き戸をしっかり持っているせいで、押し問答しているらしき相手の姿がさっぱり見えない。
それでも声の調子から、そこそこの年齢であるらしいことを感じた。伊頼の父親と同じぐらいではないだろうか。
(遊びに来たからには、挨拶ってしたほうがいいんじゃねーの……?)
大体のことにおいて伊頼より丁寧な藤田が、それを阻止しようとしているだなんて珍しい。逆に興味が湧いてしまう。
どうしたらいいかな、と思いながら待っていると、引き戸がこじ開けられてしまった。藤田の腕力が、大人のそれに負けたらしい。
「おー。本当に友達だ! いらっしゃい!」
現れたのは、声のイメージよりはいくらか若い印象の顔立ちをした男性だった。
少し細めに整えられた眉と、オールバックにした色素の薄い髪に目が行く。白髪ではなく、藤田と同じように元の色が薄いのだと思う。
「お邪魔します。安原です」
「どーも。史月の保護者の鷹彦です。ゆっくりしてって。あ、制服が一緒だから同じ学校の子? お菓子何が好き? 飯食ってく?」
「鷹彦さん、多い。質問が多い」
藤田は鷹彦の肩をぐいぐい押して、まるで珍獣を封印するかのような勢いで玄関の引き戸を閉めた。
身内の遠慮のない勢いを見られたのが恥ずかしいのかな、と思ったが、そうではないらしい。ただただ「うるさいから仕舞った」という雰囲気を、伊頼は藤田の背中から感じ取った。
苛立っているというよりは、面倒くさいと思っているようだ。
「あー……賑やかな人、だな?」
「忘れていいから。部屋こっち」
藤田は玄関から離れ、庭のほうへ向かっていく。縁側の見えるぽっかりした空間を横切った先に、茶室のような外観の、小さな離れが見えた。
「ここなんだ。僕の部屋」
そこは、モダン和風のワンルームだった。六畳ほどの畳部屋と、二畳ほどの板の間があり、板の間のほうには小さな流し台がついている。
壁には本棚があり、教科書や参考書、小説本が綺麗に並んでいる。入口側から見た時には見えない奥側は掃き出し窓になっていて、その向こうには小さな縁側が見えた。
静かで柔らかい雰囲気の、藤田によく似合う部屋だった。
「へぇー。離れが一人部屋ってすげぇな。なんかカッコイイ」
「全然人を呼ばないから、おもてなしの道具とか何もないんだけどね」
「呼ばないだろうな、これは。ここを知ったら、みんな秘密基地にしたくなるもんな」
素直な感想を述べると、藤田は「そういう理由で呼ばないわけじゃないんだけど」と笑った。
「人を呼ばないのは、色々面倒だからだよ。なんで離れに住んでるのかとか、なんであの鷹彦さんと暮らしてるのかとか。そういうの質問されるってわかってるから」
「……俺はそういう質問しないって、思ってるってこと?」
気にならないわけではない、という気持ちを表情に込めて首を傾げてみせる。
すると藤田は「わかってるよ」と静かに言った。
「安原は、そういう話をするために呼んだ。学校じゃできない話が混ざるからっていうのと、あと……フェアじゃないような気がしたから」
一体どの部分がどうフェアじゃないのか、伊頼にはさっぱりわからない。
けれど藤田はその部分を一番気にした様子で「どこから話そうかな」と思案顔をした。
「まず、さっき会った鷹彦さんの話。あの人は僕の母の従兄。代々この神社で宮司をしている、社家の人」
「うん」
「昔、僕が幼稚園に入る前に、母が僕をつれてここに転がり込んだらしい。それからずっとここに住んでる。僕は前の家の記憶が一切ないから、ここしか知らないんだけどね」
「え、と」
「今は母もいないから、僕ひとりでこの離れを使わせてもらってる。母屋で暮らせって鷹彦さんには言われるんだけど、こっちのほうが勉強に集中できるし。あと……そうそう、僕ね、特待生なんだ」
「特待生?」
思わず大きな声で叫んだ安原を無視して、藤田はその後も、淡々とした口調で、色んな話をした。
父親がわからず、母親もいない状態なので、鷹彦に「保護者」をお願いしていること。
鷹彦への金銭的負担を減らしたくて、進学に私立高校の特待生制度を利用しようと考えたこと。
中学三年次に当時の担任と話し合い、授業料だけでなく交通費や行事にかかわるお金まで学校が負担してくれるという藤ヶ丘高校の特進コースの特待生が一番条件がいいという話になったこと。
狙いどおり合格でき、藤田は今一年生の中で首位の成績であること。
三年間特待生で居続けるために、この成績を維持する必要があること。
藤田がこの学年の特待生である事実は、誰にも知られてはいけない秘密であること。
こんなにも淡々と聞かされてしまっていいのだろうか、と震えたくなるほどの情報を、藤田は何でもないことのように話し続けた。
伊頼はもう頭が爆発寸前である。
「で、ここからが本題なんだけど」
「え。今からが?」
既に本題が三つも四つもあったではないか、と伊頼は思うが、藤田の中ではそうではなかったらしい。
「安原さ。今日僕に、自分の思考のルーツみたいな話をしたでしょ」
「ああ、うん。土台の話な」
「あれね。僕のそれも、安原と同じように、家族なんだよ。僕の母は、あまり心が強くなくて……いつだって何かに怯えていた」
その恐怖には波があり、一番ひどい時には、食事を届けにきた鷹彦ですら怖いと叫んでいたらしい。
藤田が色んな空想を語るようになったのは、そんな母に優しい世界を見せるためだったと言う。
──お母さんが怖いと思うその人、実は優しくてお茶目さんかもしれないよ?
──僕たちのまわりは、良い人がいっぱいいるかもしれないよ?
──そう思ったほうが、平和で、気持ちが楽じゃない?
幼いなりに一生懸命続けていたプレゼンは、いつの間にか、藤田の中に染みついてしまったそうだ。
「だから、僕のこれも、実は安原と似たようなものなんだよ」
「似てる、か? いや、まあ、家族がっていう点では、同じだけど」
同列に語っていいとは思えなかった。しかしそれをはっきり言うと、伊頼が藤田との間に何か一本線を引いたように見えてしまいそうで、上手く言葉にできない。
「同じでしょ。実は同じなのに、安原はなぜか僕の考え方を、僕が意図してる以上に素敵で素晴らしいものって思ってくれちゃったから。ちょっと焦ったんだよね」
「なんで焦るんだ?」
「僕だって安原と同じ高校一年生なんだから。今日の安原の言葉を借りるとしたら、まだ、エピソードを積み重ねてる最中なの」
今日までに積み重ねたエピソードの重みが既に違い過ぎる、と思ったが、それもやはり言えなかった。
しかし、言わずとも藤田は察したらしい。色素の薄い髪を揺らして、ふふ、と楽しそうに笑った。
「そういう反応、予想してたから大丈夫だよ」
「えぇ……人の心を読むなよ」
「読んでない。安原が思いそうなことはわかるよってだけ。何か質問があるなら、答えるよ」
そう言った藤田は、妙に上機嫌だった。ずっと誰にも話せなかったことを話したことで、心の中がスッキリしたのかもしれない。
そのスッキリした分は今、まるまる伊頼の心に圧し掛かっているのだが。文句を言おうにも、藤田があまりに楽しそうに微笑んでいるのを見たら、何も言えなかった。
「え、じゃあ……特待生って秘密なのに、俺に言っていいの?」
おずおずと訊ねると、藤田は「最初がそこなの?」と面白がった。
「安原は、この秘密を知っても校内で言いふらさないじゃん。藤ヶ丘で今一番仲良いの、僕でしょ」
「言いふらす相手がいねぇって言ってる?」
「だってそうでしょ。僕も今学校で一番仲が良いの安原だし。話してるうちにいつかボロがでるかもしれないなって思ってたんだ。今日みたいに」
学校の最寄りで列に並んでいた時のことを言っているのだと、伊頼は少し時間をかけて理解した。
──条件的にここの特進コースがいいって、勧められたから。
あれは、藤田がうっかり口を滑らせて出た一言だったのだ。
大抵なんでも伊頼より器用にこなすイメージがある藤田が、一瞬とはいえ、口が滑るほど気が緩んでいた。その事実をひどく珍しく思うのと同時に、妙に嬉しくも思ってしまう。
「特待生の条件って、一位をとりつづけることと、秘密を守ることだけ?」
「うーん。他にもなくはない。例えば……」
藤田は本棚からクリアファイルを取り出し、中にあるプリントの一枚を伊頼に見せた。
そこには、伊頼も知っている国内の有名大学の名前がずらりと並んでいた。国公立もあれば、私立もある。
「この中の大学をできるだけ多く受験することかな。学部や滑り止めとかは好きにしていいみたいだけど」
「えっ、志望に関係なく受験校決められてるってこと?」
「学校も合格実績作りたいからね。それに貢献するのが特待生の条件のひとつ」
苦い顔ひとつしていないところを見ると、藤田の中では、このリストの大学たちの合格を得るのは全くの不可能ではないのだろう。
同じ制服を着ているのに、なんだか別の世界の話を聞かされているような心地だった。
「他に質問は?」
「えっと……じゃあ、なんでお母さんが今いないのか、って……聞いてもいい?」
「入院してるから」
藤田は淡々とした口調で答えた。
「時々会いに行ってるよ。でももう、一緒に暮らすのは難しいと思うって言われてる」
「……っ、そう、なんだ……」
その入院は、精神的なものなのか、それとも全く別の病気や怪我によるものなのか。頭の中を様々な想像が駆け巡ったが、言葉にして質問することはできなかった。
ただ、母と離れたのが随分前らしいことだけは、藤田の様子から察せられた。もう一緒に暮らせない事実を、事実としてすっかり受け入れた雰囲気がある。
大人だな、と伊頼は思った。しかしそれを口にするのはきっと、藤田を傷つけてしまうとも思う。
悩んだあと、伊頼は、質問の方向性を大きく変えることにした。
「じゃあ、次の質問だけど。藤田、お前もしかして、中学時代の模試で県内一位だった?」
「……うん」
藤田は、静かな表情でゆっくり頷く。
「一度だけとかじゃなくて、ずっと?」
「うん。ずっと」
「じゃあ『ミステリアス文学王子』も、お前?」
「そっちはまぁ、面と向かってそう呼ばれたことがあるわけじゃないけど。一位とそのあだ名がイコールで繋がってるなら、そうなんじゃない?」
ごく一部しか呼ばなかったらしいあだ名なので、藤田に自覚がなかったのは仕方がない。
何しろ「ミステリアス」で「王子」なのだから。よしんばその単語が耳に入ったことがあったとしても、それが自分のことだと思うには、なかなかの自意識が必要となる。
しかし
「俺、最初に藤田と会った日に、話したじゃん。『ミステリアス文学王子』を探してるのは、そいつが俺の友達が探してる、一位のヤツと同一人物か確かめるためだって」
「言ってたね」
「なんでその時言わなかったんだよ」
「ミステリアス文学王子」の自覚がなかったとしても、自分の中学時代の模試の結果はさすがに覚えているだろう。なのに、あの日の藤田は、まるで自分以外に該当者がいるかのような素振りをしていた。
嘘を咎めるつもりはない。単純に「なぜ?」と思うだけだ。
その疑問に対する藤田からの返事は
「だって、初対面だったから」
という、あっさりしたものだった。
「え、それだけの理由?」
思わず身を乗り出して訊きなおした。それぐらい、拍子抜けな答えだった。
藤田は「だってさ」と苦笑する。
「模試で県内一位の成績だったって知られたら、学校内で一位なのもバレちゃうでしょ。巡り巡って特待生なのがバレて噂にでもなったら、僕怒られるし」
特待生制度の存在を今日まで知らなかった伊頼に、そこまで情報を結びつける能力があっただろうか。
口にするのが悔しいので言わないが、答えは間違いなく否である。
「それに、一位を探してるけど見つけてどうこうするつもりはないって、逆に怖いよ。様子見たくなるのが普通だって」
「えー。それに関しては志井が言ってたことそのまま言っただけだから、なんともなぁ……」
「そこは安原が嘘でも捻った理由を出すべきだったね」
「えー」
不服であることを隠さず喚いた伊頼を、藤田は可笑しな生物でも見るかのような目で見ていた。
ぜひ母屋で一緒に夕食を、という鷹彦からの誘いを藤田が強固に却下したため、伊頼は電車に揺られて海賀駅へと戻った。
降り立ったホームは、夜の湿気に満ちていた。全身にじわっと滲み込んでくるようなぬるい空気と、海の匂いがする風に肌を撫でられる。
「伊頼?」
改札を出ようとしたところで、背後から声を掛けられた。パンパンになったエコバッグを下げた母が、不思議そうに目を丸くして立っていた。
仕事着姿の母と、夜の電車のホーム。滅多に見ない組み合わせは、少し非日常感があった。
「おかえり。今日遅番だったんだっけ」
「そうよ。ていうか伊頼、今反対のホームから来なかった? こんな時間までどこ行ってたの?」
母が不思議がるのは、理解できた。伊頼は帰宅部で、日頃寄り道らしい寄り道はほとんどしない。
何より、この海賀駅よりも向こうには、ここよりも小さな町が点在しているだけで、目的地になるようなものが何もない。「どんな用事があったらここより向こうに行くの?」という疑問は、そこに住んでいる人たちには失礼ではあるが、自然な疑問でもある。
嘘を吐く必要はなかったので、伊頼は正直に答えた。
「ちょっと、友達の家に行ってた」
言いながら、伊頼は母の手からエコバッグを預かった。
それから並んで改札を抜け、家へと向かって歩き出す。
「友達? ここより向こうに? 学校の子じゃないわよね?」
「藤ヶ丘の子だよ」
短く答えると、母は「ここより遠くから通ってる子がいるなんて」とひどく驚いていた。
「おうちにお邪魔したって言ってたけど、そこのご両親にはちゃんとご挨拶してきた? 事前に行ってくれれば、手土産のお菓子ぐらい用意したのに」
「急に決まったんだよ。あと、保護者の人にはちゃんと挨拶した」
「保護者って、どっち? お母さま?」
「いや、親戚の人だけど」
そう返した途端、質問攻めの勢いだった母の声が、ぴたりとやんだ。
靴音まで止んだことに気付いた伊頼は「しまった」と思った。警戒心の強い母が、普段ああいう言動をする母が、いきなり「同居の保護者が両親ではない学生」と聞いてどんな反応をするのか、伊頼はよく知っていたのに。
「伊頼──」
「やめて」
思うより先に、母の言葉を遮っていた。
「やめて。あいつは、母さんが思うようなヤツじゃない」
「どうしてそうだって言い切れるの」
街灯に照らされた母の顔は、険しい表情をしていた。
呆れと疑いを隠しもしない目から放たれる視線は、その声と同じように尖っている。
「よく知ってるから。今学校で、一番仲がいいのが、そいつだから」
意地でも名前を出したくない、と思った。
藤田が、伊頼が到底届かなかった特進コースの生徒であることを知れば、あるいは母の中の印象は覆るかもしれない。家が神社だと知れば、少しは態度が軟化するかもしれない。
けれど伊頼は、それすらも母に知らせたくないと思った。藤田の何かを知ることで、母の意見が変わっても変わらなくても、腹が立つからだ。
「何よそれ」
母は、すっかり咎める口調で続けた。
「よく知ってるって言っても、たった何ヵ月かの付き合いでしょ。何がわかるっていうの、そんなので」
「じゃあ母さんは、俺が今話しただけの情報で、そいつの何がわかるっていうの」
なんと返ってくるかはわかっている。こういう時の母の常套句は「自分のほうが長く生きている分色んな人を知っている」だ。
親と子ども。大人と未成年。絶対に埋まらない歳の差がある以上、母のその言い分は事実なのだろう。
しかし、母が藤田本人をその目で確かめていないのもまた、事実ではないか。
「……心配してくれてるのはわかってるけど、そういうことしか言わないなら、悪いけど今日は帰れない」
預かっていたエコバッグを、アスファルトの上に降ろす。
母が悲鳴のような声で呼び止めようとするのが聞こえた気がしたが、伊頼はそれを振り切るように走り出した。
たった今母と歩いてきた道を、遡って駆けていく。
この町はいつまでも逃げ続けられるほど広くない。伊頼の足は自然と海賀駅のホームへと向かっていた。
改札にICカードを叩きつけ。
ちょうど目の前にやってきた電車に飛び乗り。
降りた先で、街灯の少ないレトロな暗闇の中を、記憶を頼りに歩いていく。
見つけた鳥居をくぐって、木々が作る深い影の中を進み。
そうして辿り着いた、小さな離れの戸を、伊頼は飛び込むような気持ちでノックした。
「……はい?」
中から、訝しむような藤田の声がする。
「鷹彦さん? どうかしたの、ノックなんて……?」
そう言いながら、近づいてくる足音が聞こえることにホッとする。
黙って待っていると、引き戸がスッと開いた。
藤田はまだ制服姿のままだった。伊頼を見て、淡い瞳を丸くして驚いている。
「えっ。安原?」
「藤田。ごめん。泊めて」
短く言葉を区切ってそう伝えると、藤田は表情からすぐに驚きを引っ込め、神妙な面持ちになった。
そして、ゆっくり頷いてくれる。
「いいよ。とりあえず入りな」
招き入れるためか、伸びてきた手に腕を掴まれる。
その瞬間、伊頼は言い知れない安堵を覚えた。
母屋に飲み物を取りに行っていた藤田が戻ってきた時、伊頼は借りた座布団に顔を埋めて寝そべっていた。
「何があったかとか、訊いたほうがいい?」
「……訊かないで欲しい」
聞かせたくない、といったほうが正しかった。
ここに転がり込んでおいて何を、と思われるかもしれない。けれど、今一番一緒に居たい相手も、藤田だったのだ。
「そう。じゃあ、お茶、ここに置いとくよ」
顔を伏せたままでもわかる、伸ばせば手の届くぐらいの場所に、グラスが置かれた音が聞こえる。
その距離感が、まるで自分たちのようだと伊頼は思った。
「藤田はさ、見たもので色々空想するじゃん?」
「うん」
「俺のことも、空想したことある? 藤田は初対面の俺のこと、どう思った?」
伊頼たちの初対面は、あの昼休みの、ほんの数秒の会話だ。
それから放課後の電車で再会するまで、かなり時間が開いている。藤田が空想する時間は、充分にあった。
「そりゃあ、最初の質問がアレだったし、何かしら空想したとは思うけど……」
藤田は静かなトーンで、うぅん、と小さく悩んだ。
「かなり前のことだから、もうあんまり覚えてないや。今から新しく空想しようにも、もう安原のことは結構知っちゃってるし」
「……覚えとけよぉ。だいぶインパクトあっただろ」
「まぁ、王子探してたもんね。インパクトはあったよ」
藤田がグラスを傾けたのか、氷がカランとぶつかる音が聞こえた。
「安原、僕の空想大好きだよね。最初はあんなに否定的だったのに」
「……慣れた」
バレているとわかっていながら、嘘を吐いた。
本当は、いつも楽しくて仕方がない。藤田が語る優しい話を聞くのも、その話を通して藤田の優しい価値観を知るのも。
いつだか志井が冗談で言った「放課後空想ミステリー部」なんて奇妙な部活動も、名称はともかく、心の中ではアリだと思っていた。
「僕は、安原に空想聞いてもらうの、結構好きだよ」
「なんで」
「楽しいから」
ただ聞いているだけの自分が、藤田にどんな楽しさを提供できているというのか。
絶対に嘘だと思った伊頼は、座布団に埋めていた顔を横に傾け、視線だけで藤田を見上げた。しかし、こちらの視線に気付いた藤田は「本当だよ」と目を細める。
「楽しいよ。安原はいつも面白い感想をくれるし、空想を語った僕自身が気付かなかったことを色々教えてくれる」
「たとえば?」
「今日語った空想に『もしも支援者になったのがその消しゴムをくれていた女の子の親じゃなかったら』って言ってたのとか。ああいうの、僕は自分じゃ考えないっていうか、思いつかないから」
「ふぅん」
相槌を返しながら、頭の中で今日聞いた空想を思い出す。
そうするうちに視界がぼやけたので、伊頼は再び座布団に顔を埋めた。
黙り込んだ伊頼に、藤田は何も言わないでいてくれた。

