梅雨がはじまった途端、登下校の景色が一気に変わった。
「なぁ。この感じだと、次の電車も見送りになるかな」
「そうだね。ちょっと、乗るのは無理そう」
 列からはみ出さないよう首だけ伸ばして、伊頼と藤田は前方の様子を窺っている。
 遥か前方から延々続く、藤ヶ丘高校の学生たちの列。その向こうには伊頼たちが同時に下校する際にいつも乗っている便より一本あとの電車が停まっていて、中は乗客でパンパンになっていた。一部のドア付近では「もう乗れない」「詰めろ」というやりとりをしているらしき人も見える。
「今までも雨の日はあったのに、ここまでじゃなかったよな」
「たまに一日雨なのと、連日ずっと雨なのとじゃ、違うのかもね」
 藤ヶ丘高校の生徒は、半数以上が自転車通学をしている。そのおかげで、これまで行事などの都合で一斉下校の日があっても、駅も電車も満員にはならなかった。
 当然、その「半数以上」の全員が同じ方面に帰るわけではない。それでも、自転車通学を諦め、電車通学に切り替えた学生が多いおかげで、ここ数日思うように電車に乗れない日が続いている。
 不運だな、と思うのは、この駅より手前にもいくつか高校があることだ。そこの生徒たちも同じように、梅雨の影響で自転車から電車に通学手段を変更している。そのため、それらの駅と主要駅の間にあるここでは、あとから乗る藤ヶ丘高校の生徒たちが「電車が来たけれどそもそも満員で一人も乗れなかった」なんて場面に見舞われてしまうのだ。
「仕方ないよね。気長に待つしかない」
「まぁ、急ぐ用事も門限もねぇから、いいけど」
 とはいえ、どこにも体重を預けられない環境で長時間立って待つだけなのは、結構疲れる。
 気を紛らわせるには雑談するしかない。伊頼は、ちょうどいい、と思った。
「そういや、訊いたことなかった気がするんだけど、藤田って中学どこだったっけ」
早風(はやかぜ)中だけど」
「えっそんな遠くから?」
 軽く探るつもりが、つい大声を出すほど驚いてしまった。
「じゃあ、最寄りってまさか早風駅?」
 こっくり頷く藤田を、伊頼は信じられない気持ちで眺める。
 早風駅は、伊頼の最寄りである海賀駅よりもさらに五つ先の駅だ。それも間隔が近い五つではなく、間には二カ所ほど、長いトンネルが挟まっている。
 伊頼がずっとなんとなく程度に把握していた「俺の家より遠い」という藤田の家の情報が、本日「俺の家よりめちゃくちゃ遠い」に更新された。
「ちなみに、同じ中学から藤ヶ丘に来た人っている?」
「いないはずだよ。二年にも三年にも、早風中出身の人はいないと思う」
「だよな。そんな遠くからでも『行こう』ってなる人、そう多くねぇもんな」
 そう言う伊頼にだって、同じ中学出身の同級生はいない。
 遠距離通学は費用が掛かる。本人にいくら熱意があり学力が見合っていても、より近い場所に妥当そうな学校があれば、教師や親はそちらを受験するよう促すことが多いだろう。
 伊頼の場合は「制服」という譲れない条件があったため、他の学校という選択肢も説得の余地も、最初からなかったのだけれど。
「藤田はなんでこの高校選んだの?」
「条件的にここの特進コースがいいって、勧められたから」
「誰に?」
「中三の時の担任に」
「へぇ。俺、特進コース系って全然縁がなかったから、一回も調べたりしたことないや。条件なんてあるんだ?」
 藤田はホームの床に入った亀裂を傘の先端でなぞりながら「偏差値とかの話だよ」と言った。
 そして突然、顔をパッと上げる。
「なに? 急にやたら僕のこと訊きたがるじゃん。興味あるの?」
「バカ。雑談だよ雑談。暇だから」
 伊頼は、意地悪っぽく笑う藤田から慌てて顔を背ける。
(危なっ。顔に出るところだった)
 思わず「バレた」という表情になりそうだった頬をぐいぐい手で押さえ、ごまかそうとする。その仕草を怪訝そうな顔で眺める藤田の視線を、後頭部に感じた。
 何故こんなどさくさに紛れるような流れで藤田の出身を探ったのか。その理由はふたつある。
 ひとつ目は、以前志井に頼んだ調査の結果が微妙だったから。
──志井の学校に、同じ方面でここより遠い町から通ってる人いねぇかな? もしそんな人がいて、その人の元中や周辺にミステリアスとか王子とかの噂があれば、それが藤田である可能性が高まると思う。
 伊頼が知る限り、海賀駅より遠くから通学している同学年が藤田しかいなかったので、この絞り込み方はかなり有効なのではと思っていた。
 しかし、昨夜メッセージアプリに志井から届いたのは、
──海賀駅よりひとつ向こうの駅から通学してる二年生を見つけたから話を聞いてみたけど、一個下の学年のことはよくわからないって言われちゃった。でも、中学時代に先生たちが『隣の中学には文学少年が居る』って噂してるのを聞いたことがあるんだって。
 という内容の報告だった。
 校区の分け方がどうなっているのかよく知らない伊頼と志井には、その先輩の言う「隣の中学」がどこなのかピンと来なかった。
他校の校区がどこからどこまでで、校区が隣接している学校がいくつあるかなんて、気にして確かめる機会はそうそうないのが普通だから、仕方がない。
(帰ったらネットで調べてみるか。でも、早風中学がその『隣の中学』に該当するとしても、その『文学少年』が『ミステリアス文学王子』と同一人物かは、わかんねぇよなぁ)
 どう調べても、いずれ手詰まりになる予感がする。
 そして、藤田の出身を探ったふたつ目の理由は、伊頼が藤田を知りたいと思ったからである。
 伊頼の考え方の根底に家族からの教えがあるのなら、藤田のそれは何なのだろう、と気になったのだ。
 知ったところで何が変わるのか、それを知って何をしたいのかまでは、今はよくわからない。
 ただ、藤田に出会って以来、伊頼は初めて己の価値観をひっくり返されつつある。この衝撃は結構大きい。
 ひょっとしたら、仰向けに転がった亀が、自分をひっくり返した原因を探してじたばたしているようなものなのかもしれない。確かめてもどうしようもないが、何も知らないままひっくり返されたことだけを受け入れるのは、納得し難い。
「あ。ちょっと列が動いたね」
 考えごとをしていた思考が、藤田の声に呼び戻される。
 前方を見ると、数歩ではあるが、列全体が前進していた。
 安原は出遅れて後ろをつっかえさせないよう、慌てて一歩前に出る。
「このペースだと、俺たちが乗れるのいつになるだろうな」
「先に乗ってる他校の生徒がそろそろ減ってくるだろうから、そしたら空いた電車が来て一気に乗り込めそうだなって思うんだけど」
 この長時間待機を避けるためには、放課後全速力で駅まで走って最前列を確保するか、もしくはどこかに寄り道して、混雑が解消される時間を狙ってゆっくり駅に向かうのがいいのかもしれない。
 どちらがいいか。ふたりでメリットやデメリットを挙げていると、背後から声が掛った。
「あ、安原だー」
 振り向くと、そこには同じクラスの女子生徒がふたり立っていた。皆電車のドアの位置に合わせて作った列に並んでいるのに、ふたりはそこから外れた場所にのほほんと佇んでいる。
「どうした? 並ばねぇの?」
「これから並ぶよ。あたしらゲーセン寄って遊んでたから、いま来たばっかなんだよね」
「あ、なるほど」
「どこも列長いのヤバいね。安原だいぶ長いことここに並んでる?」
「うん。結構待ってる」
「マジかぁ。もうちょっと遊んでくればよかったねー」
 面倒くさがっているようで、テンション自体は高めな話し方をする彼女たちは、クラスの中でも目立つ存在だ。
 同じクラスは全員友達と思っているのか、と言いたくなるほどフレンドリーなので、特に接点のない安原にも気安い態度で接してくれる。
「てかさぁ、安原聞いて。あたしら今そこで、宗教の勧誘されたんだけど」
「宗教って、もしかしてこの前の全校朝礼で話があったやつ?」
「そーそー。それ」
 藤ヶ丘高校では、月に一度、全校生徒を体育館に集めての大規模な朝礼がある。
 大抵は校長の長い話を聞くだけの会だが、時折、学生たちへの注意喚起の場にも使われる。今月の全校朝礼では、最近流行っている、学生をターゲットにした悪質な事案についての話があった。
 まず、二人組の男が学生に声を掛け「これはイギリス人の神父が日本の学生たちに向けて作った英語の教材だ」と言って薄い冊子を見せる。
 中身が参考書のようであることだけを確かめさせたあと「価格は数十円」「売り上げは神父を経由して寄付される」と言い、強く購入を勧める。学生たちは「数十円なら」「寄付になるなら」と、お金を払ってしまう。
 その際「領収書を作るから」と言って、学生たちの個人情報を取得。後日教会の支部という名目の貸し部屋に呼び出し、より高額なものを売りつけ、購入するまで帰さない、というのが一連の手口らしい。
「アレって、宗教の勧誘じゃなくてただの詐欺だろ?」
「そうだっけ? よくわかんないけど、二人組の男だったよ。ね?」
 女子生徒は、相手の人数を強調するように指を二本立てた。
 同意を求められたもう一人は、左右の手を使って胸の前に小さな四角形を作る。
「そーそー。なんか、これくらいのぺラくて小さい紙一枚だけ持って、声掛けまくってんの」
「あっ! あの人たちだよ。アレ。あそこの!」
 一人が振り返った先を指さすので、伊頼もそこに視線を向けてみた。そこには、日本人の学生たちが全員小柄な子どもに見えるぐらいに大柄な体格の男性が、ふたり居る。その外見は、遠目に見てもわかるほど特徴的だった。
 目を凝らしてふたりの様子を観察して、伊頼は「違うんじゃねぇの?」と首を振る。
「あの人たち、外国人だろ。朝礼で言ってた詐欺の犯人って、日本人の二人組って話だったじゃん」
 彼女たちはおそらく、手口の冒頭に登場する「イギリス人の神父」のイメージを強く持っているのだと思う。しかし警察の捜査によって、そんな神父は存在していないことが判明している。神父が作ったとされる教材も、市販の参考書をいくつか集めて切り貼りしたものだ。
「大丈夫だよ。アレは詐欺犯じゃねぇって」
 伊頼は安心させたくてそう言ったのだが、ふたりは気に入らなかったらしい。
「でも二人組は二人組じゃーん」
「新しく仲間になったかもしれないじゃーん」
 と、ぶつぶつ文句を言い、フェードアウトするようにホームの奥へ行ってしまった。
「あれ……俺何か変なこと言った?」
 彼女たちの反応が理解できなかった伊頼は、つい助けを求めて、隣にいた藤田を見る。
「安原。これは空想するまでもなく、僕が思った感想なんだけど」
 そう前置きした藤田は、まるで残念な人を慰めでもするかのように、伊頼の肩にぽんと手を載せた。
「あの子たちは、たぶん、安原に『怖かったね』って共感して欲しかったんだと思うよ」
「共感って……だって、完全に誤解なのに?」
「誤解かどうかは関係ないの。あの子たちが一瞬本当に怖かったことだけが大事だったんだよ」
「え……難しいな、それ……」
 もしかして、明日にはこの話がクラス中に広まって「安原は薄情者」なんて言われてしまうだろうか。
 薄っすらとした不安を覚えた伊頼はもう一度助けを求めて藤田の顔を見るが、藤田はもう、興味の対象を移していた。
「でも。安原の意見は間違ってないと思うよ。あの人たちは、朝礼で聞いた詐欺犯じゃないと思う」
 淡い色の瞳が、外国人の二人組をじっと見ている。
「参考書まがいの冊子を売りつけてるって話なのに、持っているのは薄い紙きれ一枚だけみたいだし。販売とか勧誘なら渡して回ればいいのに、そういう感じじゃなさそう。それに、さっきからずっと、話しかける役割をしてるのが片方だけなんだよ。ほら、見て」
 彼らが新しくターゲットにした学生に声を掛けはじめたので、その様子を観察してみる。
 太い眉が特徴的な男性が、学生に挨拶し、隣に立っているもうひとりを紹介するような仕草をする。もうひとりの、大きな目と白い歯がよく目立つ男性は、黙ったまま学生に紙切れを見せた。
 学生が首を横に振ると、ふたりは小さく頭を下げて、あっさり立ち去る。
「紙切れを持ってるほうは、一言も喋らなかったな」
「日本語が得意じゃないのかもしれない。なのに一緒に行動してるってことは、喋れる太眉の男性がサポート役なのかも」
「なるほど。それで、あのふたりは何をしてるか、もう藤田にはわかった?」
「『わかった』んじゃなくて、これはただの空想だけど……」
 電車がまた一本去り、ホームに並ぶ列が減る。
 前に倣って数歩前に出ると、屋根の終わりが近づいたからか、線路に落ちる雨音が強くなった。 
「あのふたりが学生を狙って話しかけているのには、理由があるかもしれないよ」