「……ていう事情での、泣きそうな顔と、手鏡だったのかもしれない」
「なるほど……」
 藤田の空想が終わった。伊頼は、彼女が座っていた辺りの座席シートをぼんやり眺める。
 大抵のことが平気そうなしっかり者に見えて、実は繊細すぎる性格だった人。そのせいで二年もの時間を必要としたのはさすがに長すぎないか、と思うが、伊頼にだって、行動に影響が出るほど強烈に覚えているショックな思い出はいくつかある。
「なぁ。なんで藤田は、そうやって他人に優しい空想ばっかりするんだ?」
 先日の夫婦にしろ、今日の彼女にしろ、おそらく二度と会うことはないであろう赤の他人だ。
 だから優しくする価値はない、とまでの冷たいことは言わない。しかし、優しくしても厳しくしても、藤田になんのメリットもないのは事実だ。もう会わないのだから。
 しかも「あの人も急いでいたのかもね」みたいに一言で済むレベルではない。背景や関係性まですべて空想で練り上げて、長い長い物語を作ってまで他人の行動を優しく解釈しようとする藤田が、伊頼には理解できなかった。
「うーん。僕からしたら、逆になんで安原はそんなに他人に厳しいのかなって思うよ」
「え。俺って厳しい?」
 思いもよらなかった返事に、ギクリと身体が強張る。
 伊頼の中では、自分の感覚はごく一般的なもの。価値観は「普通の中の普通」だと思っていた。
 他人に厳しいだなんて、これまでの人生で言われたことがない。
 驚く伊頼に掛ける言葉を、藤田は慎重に選んでくれているようだった。視線が少しうろうろしている。
「なんていうか……固定概念が強めだよね。あと、何事も『かもしれない』っていうゆとりを持った目で見ていないっていうか」
「えぇぇ……い、いや。でもその『かもしれない』は、藤田のそれがゆとりありすぎなんだと思う……たぶん」
「まあ、それは否定しないけど」
 藤田は小さく笑った。初対面の人間の様子や行動を見て思いついた空想を、頭を回転させながら長時間喋っていたのに、疲れた様子が一切見えない。
 話題を変えたくなった伊頼は、別の質問をすることにした。
「あとさ。この前も今日も、途中で空想が終わるのって、なんで?」
「途中って?」
「いや、ほら。俺、この前のペアルックの夫婦がその後どうなったか、たまに考えて勝手に心配しちゃうんだよ。今日の女子大生だって、たぶんもう両想いになるのは確定なんだろうけど、フランスで再会してどんな風に告白したのかとか気になるし。せっかくなら、『記憶が戻ってハッピーエンド』とか『無事恋人になれてハッピーエンド』まで、語ればいいのに」
 物語とはそういうものだと、伊頼は思っていた。結末を読者に委ねる作品もあるが、藤田の空想の場合はまずその「結末」に到達していない。
 すると藤田は
「確かに、これが小説や映画だったら『物足りない』って言う人はいるかもしれないね」
 と言って頷いた。しかしすぐに「でも」と続ける。
「例えば今僕らのそばに人が居て『今日は彼氏と三年付き合った記念日で、このあと遊園地で待ち合わせしてデートなんです』って言われたとする。電車を降りていくその人に、安原ならなんて思う?」
「え。うーん……『ああそうなんですね』とか……『遊園地いいなぁ』とか……?」
 求められている正解ではないと薄々感じながら、伊頼はそう答えた。だって、その人のデートが楽しくても最悪でも、伊頼には関係がない。
 思ったとおり、藤田は困ったような笑みを浮かべた。
「それがダメとは言わないけど。僕は『楽しいデートになるといいな』って思う。たまたま同じ空間を一時共有した相手に、別れ際に『グッドラック!』って言いたくなる感覚が好きなんだよ」
「ふぅん……?」
「あと、すれ違っただけの他人の結末なんて、知らないのが普通じゃん? 僕が空想するきっかけは『この人はこのあとこうなるだろう』じゃなくて『この人はなんで今こうしているんだろう』だから。そこが好きなだけ」
 その時、電車が駅に停まった。何人かの大人が、開いたドアからホームへ降りていく。
 伊頼は無意識にその人たちを見た。夕方という時間帯のせいもあって、どの背中も疲れているように見える。残っている「今日」の時間を考えると、このあとは、慌ただしく家事と食事と風呂を済ませて眠るだけの人が多いだろう。
(この背中に、藤田は『グッドラック!』って思いたいのか……)
 それは伊頼にとって、ひどく新鮮な感覚だった。


 覚えている限りの全てを話し終えたころには、夕暮れの空は色を濃くして、もうほとんど夜に近づいていた。
 伊頼は志井の反応をこっそり視線で窺ってみる。志井は遠くの水平線を見つめて「すごいね」と言った。
「藤田くんって、すごいね。何ていうか、ものの見方が、面白い」
「うん。ねぇ、志井は、俺のことを『厳しい』って思ったことはある?」
 伊頼が志井と一番濃く接点を持っていたのは、中学時代の委員会だ。
 全体を見て監督や指導をする大人の教師に比べたらささやかな業務内容だったが、それでも中学生なりに多忙に感じたし、義務と責任を果たそうと真面目に取り組んでいた。一緒に活動した志井は、伊頼が同級生を「お友達」ではない事務的な目線で見ていたシーンを知っている。
「えっとね」
 志井は、膝の上に乗せた手を握ったり開いたりしながら、ゆっくり口を開いた。
「『厳しい』とは少し違うかもしれないけど……何でもまず最初は突っぱねる人なんだなって、思ってはいた、かな」
「えっ」
 驚いたのかショックを受けたのか、自分でも一瞬把握できなかった。
 裏返った声を出した伊頼に、志井は「ごめんね」と小さく謝る。
「安原くん、自分から誰かと仲良くなりにいくことって全然なかったじゃない? 別に人見知りってわけでもなさそうなのに」
「まぁ、うん」
「委員で一緒になったばかりのころ、安原くんのこと、冷たいって思ったこともある。打合せは丁寧に相手してくれるし、提案を否定されることもなかったけど、それ以外では、僕のこと遠くに置いてるなぁって。『君と仲良くなる必要はありません』って空気、ちょっと出てたよ」
 伊頼は思わず胸を押さえて唸った。委員会活動がはじまった初期に、志井に対してそう思っていたことは事実なのである。
 まさかそれを、当時の志井に感じ取られてしまっていただなんて。きっと相当やりにくかったことだろう。
 今更ながら申し訳なくなって思わず謝ると、志井は「いいよ」と笑ってくれた。
「打ち解けてからは、ちゃんと仲良くなれたって思ったから。安原くんから話しかけてくれることも増えたし」
「うん。志井のことは『戦友』だと思ってるから」
「言ってたね、それ。最初に言われた時すごく嬉しかった」
 その時のことを思い出したのか、志井は楽しそうに声をあげて笑った。
「それ言われたころになって思ったんだよね。安原くんは、ただ何でも否定的に突っぱねたいんじゃなくて、予防線が分厚い人なんだって」
「予防線が、分厚い……?」
 それもまた、初めて言われた言葉だった。しかし心に引っ掛かるものがあり、伊頼は黙り込んで考える。
「心当たりとか、ある? 僕のこととか以外で」
「……まぁ、ちょっと」
 藤田に「厳しい」と言われて以来、考えていたことがある。
 そこに志井の言った「予防線」は、とてもしっくりきた。
「俺さ……例えば初対面の他人を見て『どんな人かな?』って考えた時、無意識に、思い浮かんだ選択肢の中から一番キツイ言葉を選ぶ癖があるんだよ」
 怒りっぽい人かもしれない。
 さぼりがちな人かもしれない。
 気難しそう。
 怖そう。
 馬鹿っぽい。
 もちろん他人が居る場でそれを言葉にする時には「優しそうな人だと思う」なんて心にもない無難な回答をすることもあるが、大抵は、よくないほうを想像する。
「なんで俺ってそういう風に考えちゃうんだろうってずっと悩んでたんだけど……たぶん、リスクを気にしてるのかなって。志井の言うとおり、予防線が分厚んだ。きっと」
「リスク? 何のリスク?」
「その人が本当に怒りっぽかったり、怖い人だったりしたら、危ない目に遭うかもしれないじゃん? さぼりがちだったら、そのせいで迷惑を掛けられるかもしれない」
「もしかして、クラスで自分から誰かに関わりに行くことがなかったのも、それ?」
「そう。距離を置いておけば、とりあえず、嫌なことは起こらないから。うち、家族もみんなこういう感じなんだ。俺が小さいときからずっと」
 今でこそ十代半ばの男子高校生だが、かつては伊頼も小さな可愛い幼児だった。
 踵が光る靴や変身ベルトが大好きだったころから、伊頼は、両親から何度もこう言い聞かせられてきた。
──周りの大人がいい人ばっかりだと思っちゃだめだよ。怖い人かもしれないんだから、注意してね。
──他人が必ず助けてくれる保障はどこにもないんだからね。自分でちゃんと警戒するようにしようね。
──ああいう今時っぽい服装のお兄さんは、怒りやすかったり騒がしかったりするから、近づいちゃだめだよ。
──学生がカラオケやゲームセンターに行くなんて、危ない目に遭いに行くようなものだからね。伊頼はちゃんと考えようね。
 それは幼い息子を守るために必要な教えだったと思う。今日まで伊頼が無事に大きくなれたのは、その教えのおかげかもしれない。
 ただ、藤田の話を聞いたあとで改めて見つめてみると、伊頼の家族は、その教えの適用範囲が広い気がする。近所の住人や、自分たちの同僚、果てはテレビに映る芸能人にまで、そうした「警戒」の目を向けているのだ。
 先日のペアルックの夫婦について話した時の母の反応だって、まさにそうだ。
 いつか自分たちに危険や面倒ごとをもたらすかもしれない。嫌な思いをさせられるかもしれない。だから、他人に期待しすぎてはいけない。過度に興味を持って深入りするのも、そのリスクを高めるだけ。
 自分たちを守るために、あらかじめ他人を少し突き放すのが、普通のことだと思っている。
「染みついてるものだし、親も俺のこと考えて言ってるってわかってる。藤田の意見のほうが絶対に正しいってわけでもねぇって知ってる。でもなんか、こう……」
 伊頼は、言葉にできない感情をこめて、手を動かした。まっすぐに伸ばしていた指を、ばらばらと蠢かせる。
 それを見た志井は、何かに気が付いたように「あぁ」と頷いた。
「安原くんは、藤田くんの考え方に、ちょっと惹かれてるんだね」
「……惹かれてる?」
「だって『いいかも』って思ってるんでしょう? 藤田くんみたいに、他人に優しいほうが素敵なんじゃないかって。でもその方向に行くと、今までおうちの人が大事に教えてくれていた土台を裏切るような気がするから、葛藤してる」
「わかんねぇ。俺って今そうなの?」
 自分の感情が、迷子気味だった。思わず問いかけた伊頼に、志井は「たぶん、そうなんじゃない?」と言う。
「少なくとも、僕にはそう見える」
「そっか」
「安原くんは、天邪鬼ってわけじゃないんだよね。ご両親とか先生とか僕とか、近い人の言葉はびっくりするぐらい素直に受け止めちゃう」
「それは……言われてみればそう、かも?」
「今、その『近い人』の中に、藤田くんが加わりはじめてるんじゃない?」
 志井から「急いで考えなくていいと思う」と言われた伊頼は、一旦、葛藤全てを丸ごと脇に置くことにした。飛びつくように答えを出す必要を迫られているわけではないのだし。
 完全に陽が落ちる前に公園を出たふたりは、港に背を向け、薄暗い道をゆっくり歩いた。道中話題になったのは、お互いの学校に、どんな生徒がいるのかについて。
「星督の男子バレー部にさ、すごく背の高い二年生が居るんだよ。身長が二メートル超えてるんだって。すごいよね」
「二メートルかぁ。俺の頭の上に三十センチ定規を載せても、まだ五センチでっかいじゃん」
「安原くん、あんまり伸びてないよね。僕は……三十センチ定規は、さすがに余るかな」
 慎重二メートルって概ねこれぐらい、と思う高さをふたりで眺めて絶句する。絶句した自分たちが可笑しくて、笑う。
 そうして歩く帰り道はあっという間だった。分かれ道に着き、お互いに「じゃあまた」と手を振る。
「それじゃあ、安原くん『グッドラック』!」
「うん。志井も『グッドラック』」
 自宅へ向かって歩きながら、時計を見る。
 今日の残り時間はいくらもない。帰宅したらまず夕食を食べて、宿題をしながら風呂が空くのを待ち、入浴後は少しだけテレビを観るかもしれないが、基本的には寝るだけだ。
 特別な「いいこと」が起こるとは思えない。きっと志井だって同じような過ごし方だろう。
 けれど、例えば夕食のおかずが好物だとか、宿題がいつもより簡単だったとか、寝る前に観たテレビで好みのお笑い芸人を見つけたとか。そんなささやかなことでいいから、何かが楽しければいいな、と思う。
 その結果楽しい思いをするのは自分ではないのに。知らない人相手にはまだ少しピンときていない部分があるが、志井相手にはすんなりと、心から「そうであればいい」と思った。