【主人公:神田泉美。二十一歳。大学生】
最後に会ったのは、あいつが日本を発つ一週間ほど前のことだった。
「おーい、泉美」
飲み会の会場で、ビール片手にふらりとやって来た出海は、私の隣に遠慮なく腰を下ろした。
「あ、おつかれ。出海」
「何飲んでんの?」
「桃サワー」
「へー。美味そ」
出海は私のグラスの縁に、手にしていたビールジョッキの縁を触れさせた。ゴツン、と強めの音がする。
小さくはあったが、衝撃が手首にまで響いた。
「ちょっと。力加減」
思わず文句を言う。
出海は「ごめぇん」と言いながら、楽しそうに笑った。
「聞いてよ泉美。支度がさ、終わらねぇの」
まるで他人のヤバい話を暴露するかのような、軽いノリで言う。まだ会がはじまっていくらも経っていないのに、結構な量の酒を飲んだようだ。
酔っ払いが、歌うように喋る。
「全然、終わらねぇ。服とか靴とかさ、色々慣れたものあったほうが無難かもって思うじゃん? 向こうの物価も今一つわかんねぇし」
「まぁ、そうね」
「でもさ、あんまり色々持って行きすぎて、向こうの人にドン引きされるのも嫌じゃん?」
「確かに、一人だけ荷物が多すぎるのは、それはそれで恥ずかしいかもね」
「だろぉー? 俺いま、すげぇ悩んでんの」
悩んでいる、という言葉の割に、その表情は楽しそうなまま。
浮かれているんだなぁ、と微笑ましく思う。
今日の飲み会は、理学部の同学年一同による、出海の壮行会だ。彼の書いた宇宙研究に関する論文が学会で話題になり、フランスの研究機関から留学のお誘いが来たらしい。
長年うちの大学に勤めている教授が「こんなこと初めてだ」と言っていたので、相当珍しいようだ。
期間は半年。しかし、場合によっては延長の可能性もあると聞いている。
「道中ひとりで移動するのも大変だし、持って行くのは最低限にして、向こうで買い足したら? 思い出にもなっていいんじゃない?」
「そうだねー。それもそうだ。でもいくらぐらいするかな。あー、もうちょっとバイトして貯金作っとけばよかった。向こうじゃバイトできねぇし」
「向こうの物価が高すぎてどうしても買えない、なんてことになったら言いなよ。皆で服買って送ってあげる」
「あはは。それ、センス悪いヤツが選んだの送る気でしょ」
「ふふ。フランスで笑い取ってくればいいじゃん」
そのまま何往復か、中身の軽い会話を交わす。
そろそろかなと思った私は、席を立とうとした。
しかし、グラスを持って腰を上げた私に、出海は眉を下げる。
「泉美、どこ行くの?」
「……飲み物を取りに」
「ファミレスのドリンクバーじゃないんだから、ここで注文したら? ていうかグラスの中、まだ半分ぐらいあるじゃん」
「あー、うん。でもさ、いつまでも私ばっかりが主役を拘束するわけにもいかないから」
それは半分嘘だが、もう半分は本心だった。
出海は学部の人気者だ。彼と話しておきたい人は、大勢いる。
「私はいっぱい楽しい話できたからさ。ほら、ね?」
「泉美は気にしすぎなんだよ」
彼はじっと私の顔を見たあとで、大きな溜息を吐いた。いじけた子どものような顔だ。
「いいよ、もう。じゃあこれ、後で渡そうと思ってた餞別」
差し出されたのは、ピンク色の小袋だった。
「嬉しいけど、餞別って、見送る側があげるもんじゃないの?」
「いいんだよ、渡したかったんだから。俺が海の向こうに行ってる間、お化粧する時にそれ使ってよ」
袋越しに、中身が薄くて硬いものであることがわかる。
開けてみると、出てきたのは手鏡だった。
クレジットカードと同じようなサイズの、カバーつきの鏡。限界まで開けば、ひっくり返って鏡を自立させることができるタイプだ。
半透明のカバーには、ピンク色のラメやホロが散らばっている。全体的にキラキラしたデザインだ。
「あ、ありがとう……」
「そんなに高いものじゃないから、あんまり頑丈じゃないかも。怪我しないように使って」
「わかった……」
手のひらに馴染むサイズの手鏡は懐かしく、それでいて珍しい。
私がその珍しさに見入っている間に、出海はジョッキを持ってどこかへ行ってしまった。
出海と知り合ったのは、大学に入ってすぐ。入学式の翌日に参加した、一年生向けのオリエンテーションがきっかけだった。
女子校育ちでしっかり者な「泉美」と、のんびり屋で自由な「出海」。
コンビとしての相性はとてもよかった。性格のノリも近かった。専攻したい分野が似ていたこともあって、オリエンテーションが終わったあとも何かと一緒に過ごすことが多かった。
「なんだか、出海は男の子の同級生って感じがしない」
ある時、ふと思ったので、出海に直接それを伝えたことがある。出海は笑いながら
「それ、褒めてる?」
と訊ねてきた。
「褒め、になるのかな。私、小学校以来久しぶりの共学だから、入学前は結構緊張してたんだよね。男の子が学校にいるってどんなだったっけ? って不安だったの」
「ふぅん」
「でもいざ入学してみて、出海とこうして遊んでても、全然緊張しない。女の子の友達と同じ感覚で自然でいられる自分に、ちょっとびっくりした」
出海の柔らかくて優しい雰囲気がそうさせてくれているのだと思った。だから「ありがとう」と言った。
このまま卒業まで仲良く楽しく遊ぶお友達の関係が続くと思っていた。しかし周囲は、私たちをそういう目では見ていなかった。
その日、私は仲の良い女子ふたりに誘われ、三人でのランチを楽しんでいた。
「ねえ、泉美たちは記念日に何してるの?」
「ていうか、今何ヵ月だっけ?」
期間限定の焼きカレーを食べている最中に、二人から唐突な質問を受けた。彼女たちの目は、なぜか興奮気味に輝いていた。
「何の話? ていうか『泉美たち』って、私と、誰のこと?」
私は質問の中身や意図が理解できず、問い返した。
一体何の「記念日」の話をしているのか。何をいつからカウントした「何ヵ月」なのか。
彼女たちは最初、問い返した私に驚いていた。しかし、私がとぼけているのではなく本心から理解できていないことを知ると、より一層興奮した様子で詰め寄ってきた。
ランチが載ったままのトレイを押しのけて、机の上に乗り出してくるぐらいの勢いだった。
「あんだけ仲良いのに、まだ出海くんと付き合ってなかったの?」
「ふたりはオシドリお揃い夫婦って、学年中が噂してるの、知らなかった?」
「付き合……は? オシドリって、何それ」
「えぇー、でも絶対お互い好意あるよね? どうなの?」
「百歩譲って、恋愛に疎い泉美が友情だと思ってるとしても、出海くんは泉美のこと好きだよね、絶対」
それから彼女たちは、まるで私を説得しようとでもしているかのように、色んな話を聞かせてきた。
例えば、私と出海が同じ目的地へ移動するために歩いていただけの景色が、彼女たちには全て「デート」だと認識されていた。
例えば、出海が忘れ物をした時真っ先に私に頼るのは「彼女に甘えるのを楽しんでいるだけ」だと思われていた。
例えば、私が出海に勧められて買ったボールペンは、知らないところで「小さな物でも好きな人とのお揃いを持ちたい乙女心」だと解釈されていた。
彼女たちは繰り返し「皆そう言ってる」「絶対そうだと思った」と言う。次から次へと降り注いでくる知らない話に、私は胃が底から冷えていくような気持ち悪さを覚えた。
(待って。それなあに? どうしてそんな噂の方が事実みたいに広がってるの? 『絶対』って、どうしてあなたたちが決めるの?)
(出海は、それ、知ってるの?)
私は小さく首を振って、何もかもただの誤解であることを主張した。しかし彼女たちは、私の否定を燃料にするかのように「でも」や「だって」を積み上げていく。
この場にもう一人の当事者である出海がいないのに「なんなら今日からもう付き合っちゃいなよ」と迫られ、私はどうしていいのかわからなくなった。焼きカレーはもう一切喉を通らない。
講義の時間が近づくギリギリまで、彼女たちの盛り上がりは止まらなかった。食堂を出たあと、そのまま講義棟ではなく自宅へ帰り、私は寝込んでしまった。
次に大学へ行ったのは、三日後のことだった。
出席率が単位に直結する授業なので、休むことができなかった。講義棟に現れた私に、真っ先に気付いて、出海が声を掛けてくれる。
「泉美。もう体調いいの? 大丈夫?」
「あ……うん。メッセージとか返せなくて、ごめん」
「それはいいけど。けど、ホントに大丈夫?」
いつもなら心配してくれたことにお礼を言うぐらいできるのに、できなかった。
それどころか、出海が話しかけて来た瞬間、私は周囲の目を確認してしまった。こちらに向いている視線がいくつあるのか。そのうちいくつが、私たちをカップルだと思っているのか。
真っ先に人の目を気にするだなんて、出海に失礼なのに、数えるのを止められない。
すると、出海に肩を掴まれた。
「泉美。あのね、聞いて」
背の高い私がヒールを履いているので、目線の位置がとても近かった。
「昨日、あの子たちが俺のところに謝りにきて、全部教えてくれた。噂のことは俺も全然知らなくて、初めて知った。ねぇ泉美、どうしたい?」
まわりに聞こえないよう、小声で一息にそう言って、出海はまっすぐに私の目を見てくる。
(どうしたいか、って……)
その時頭に浮かんだ私の第一優先事項は、周囲に関係性を決めつけられる噂をなくすことだった。
友人として大切に過ごしている事実を、お互いの性別を理由に勝手な興味と思いこみで上塗りされるのが、嫌だった。
そう伝えると、出海はしっかり頷いた。
「わかった。落ち着くまで、ふたりで遊ぶのはやめよう。授業の移動も、なるべく別にする。でも皆で遊ぶときなんかには、普通に一緒に居て会話しよう。その方が喧嘩別れしたわけじゃないって、普通の友人同士だって、皆に思ってもらえるから」
出海が出してくれたその解決案は、完璧なものだと思った。
(そっか……そうすれば、変な噂を立てることなく、出海と友人で居られるんだ)
感心して、頷いて、安心して。それから私は、自分の中で行動のルールを決めた。
相手が出海でなくても構わない話は、なるべく出海以外の人間に振ること。
学部の飲み会やイベントは、出海を避けて休んだと思われないようにするために、絶対出席すること。
皆で遊んでいる時に出海と会話するなら、時間はグラスの飲み物が半分無くなるまでに留めること。
自ら設けた制限を、キツイとは感じなかった。
むしろそれを守ることで、誰かに「私と出海は友人です。だから変な目で見ないでください」とアピールできているようで、気が楽だった。
出海は私の行動に合わせ続けてくれた。止める人が居ないから、制限ある生活は、次第に当たり前になっていく。
(そういえば、私は『出海はどうしたい?』って、訊けなかったな。余裕がなかったし)
気持ちも噂も落ち着いて、そんなことを思うようになるまで、二年掛かった。
二年経っても何も言われないのなら、出海もあれでよかったんだろう。私は、そう思うことにした。
気付けば、出海が出国して三カ月近くが経った。
連絡は全く取っていない。国内にいるのと同じようにメッセージアプリが使えるとは聞いているが、この二年間ほとんど携帯で連絡を取っていないので、今更なにかメッセージを送るのも気が引ける。
(安否が気にならないわけじゃ、ないけど……)
むしろ、遠くからでも顔が見られなくなったことで、心配が増しているように思う。
ネットニュースを開く際に、国際ニュースのコーナーを読み飛ばさなくなったぐらいには。
タイトルの一覧に「フランス」の文字があれば、タップして詳細を確認してしまうぐらいには。
今も、バイト先へ移動する間、電車に揺られながらニュースをチェックしていたところだった。
(ただ一言『元気?』ってメッセージを送るのは、簡単だけど……)
一度やりとりをしたら、際限なく返信を続けてしまう気がする。これまで意図して出海に振らないようにしていた、ちょっとした笑い話やテレビの話なんかを、延々。
出海はそういうメッセージを面倒に思う人ではないと知っている。むしろ積極的に話題を提供してくるのは、出海のほうだ。
けれど、そういう終わらないやりとりができること自体が、また噂の種になってしまうのだろう。
(ていうか、それ以前に、留学生活の邪魔になるし)
だから、何もアクションをしないのが正解なのだ。
そんなことを考えているうちに、電車の揺れが心地よくなってきた。瞼が重くなっていく。
意識が少しずつ、夢の中へ溶けていった。
目を開けると、私は知らない居酒屋に居た。
先日壮行会をした店とは全然違う場所。けれど、メンバーは同じ理学部の同級生たちだった。
(あれ、これ何の飲み会だっけ?)
考えを巡らせても正解は思い出せなかったが、なにかとても嬉しいことを喜ぶための場だ、というのは感じた。頭の中に根付いたその認識が、喜べ、喜べ、と体に信号を送っている。
周囲にはたくさんの椅子があるのに、全員が立って飲食を楽しんでいた。私も彼らに倣って、グラス片手にふわふわ歩く。
途中、何人もの同級生たちと会話した。ところが、いつの間に酔ったのか、どれだけ耳を傾けても彼らの話が頭に入ってこない。
(変なの)
その時、背中が何かにぶつかった。
壁にしては柔らかい、でも安心して背中を預けられるような、何かに。
振り返ると、そこに居たのは出海だった。
飲み会でよく見る、楽しそうな笑顔だ。頬をアルコールでちょっと赤くして、口元をふにゃふにゃさせながら笑っている。
その瞬間、頭の中が真っ白になったような気がした。無意識に口を開いた私は、出海に向かって距離感無視の大声で叫ぶ。
──元気なの?
──今どうしてるの? そっちの治安は大丈夫?
──ねえ、聞いてなかったけどいつ帰ってくるの?
──ねえ、元気?
喉に発声の震えは感じるのに、自分の声が耳に入ってこなかった。
(こんなんじゃ、私の声は届かないじゃない)
泣きそうになる。けれど出海は笑顔のまま、ずっと私の顔を眺めていた。
ふわっと、体が浮くような感覚がした。次に、暗闇の中にガタンゴトンという音が響く。
(…………私、電車の中で眠ってたのか)
目を開けるのと同時に現れた、何の変哲もない電車内の景色。それが、ひどく無情なものに思えた。
あのまま夢の中に居続けたら、ひょっとしたら「元気だよ」と返す出海の声ぐらいは聞けたかもしれないのに。
(そういえば、出海が夢に出てくるなんて初めてだったな)
ずいぶん長い間、飲み会でしか顔を見ていない。それなのに、夢の中では妙にはっきり顔を認識できた。夢に登場した他の同級生たちは皆、髪型がおかしかったり、顔が別人だったり曖昧だったりしたのに。
もう一度深く目を閉じても、眠気はやってこない。
諦めた私は、鞄の中から手鏡を取り出した。出海からもらった手鏡を、何故だか今すぐ眺めたくなったから。
鏡の上に薄い蓋のついたコンパクトな手鏡は、中高生の頃によく持っていたアイテムだ。校則が厳しくてリップクリームすら禁止されていた女子校時代は、可愛い折り畳みの櫛と手鏡を持つことが、個性とオシャレの見せどころだった。
女子校に居たころ、私は背の高さと顔立ちのせいで「皆のお姉ちゃん」というポジションにいた。皆から頼られる、しっかり者であることを求められる立ち位置だ。
そのポジションにいると何故か、ファンシーな小物を持ち難かった。本当はラメやレースが好きなのに、モノトーンのものばかり揃えていた。
だから出海からこの手鏡をもらった時、私は初めて、自分の手の中に可愛いアイテムが収まっている景色を見たのだった。
(一回だけ、そういう話を出海にした気がする。覚えてたのかな?)
なんとなく、鏡の部分を指で撫でる。すると、たいした力は入れていなかったのに、鏡がケースの中で動いた。
(え、嘘。壊れるにはまだ早くない?)
私は内心で大慌てしながら、もう一度慎重に鏡に触れ、前後に撫でてみた。
普通なら鏡の面をツルツルと指先が滑るだけのはずなのに、やはり、指の動きに合わせて鏡がカコカコ動いている。
手のひらの上でそっとひっくり返してみると、鏡は簡単にケースから外れた。割れたり欠けたりした様子はないので、ただ外れただけらしい。
(頑丈じゃないかも、とは聞いていたから丁寧に扱ってたつもりだけど……こんなに早く外れるなんて)
同型のものをかつて使っていたから余計に、不思議でならない。通常、鏡とケースの間には固定用の接着剤がべったりと塗られている。ちょっとやそっとでは外れないようにできているはずだ。
接着剤の量がよほど少なかったか、と気になり、私はケースの内側を確認してみた。そして、思わず「ん?」と首を傾げる。
(何これ。両面テープ?)
固まっていたであろう接着剤が削り取られ、縁に沿ってぐるりと四角を描くように両面テープが貼られていた。そして空いた真ん中の空間には、小さな紙きれが入っている。
摘まみ上げて開いたその紙は、ルーズリーフを切ったもののようだった。小さな字で、短い文章が書かれている。
──住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
(これって、和歌だ)
理学部の学生でも、一年生や二年生のうちは、一般教養として文系の単位も必須とされている。私も出海も、一年生の前期に和歌をテーマにした授業に出席していたので、ある程度の馴染みはあった。
授業で一度、自作の和歌を詠む課題が出た。出海の和歌の出来が最悪で、真面目な教授を教卓に突っ伏して呼吸困難になるほど笑わせていた記憶がある。あれ以来密かに腕を磨いていた、というわけではないのなら、これはきっと自作ではなく、実在する和歌の中から、私に伝えたいメッセージに近いものを選んで書いたのだろう。そして、購入したこの手鏡を一度分解し、紙を仕込んでから、両面テープで組み立てなおした。
出海が私に渡したかったのは、手鏡ではなく、中のこの和歌だったようだ。
(これ、どういう意味の歌なんだろう)
手鏡を慎重に鞄の中に仕舞ってから、スマホで検索してみる。最初の四文字を打ち込んだらもう検索候補に全文が出た。やはり、自作ではなかったようだ。
検索結果に出たいくつかサイトを覗いてみる。細かい解釈は人によって色々あるものの、おおよその現代語訳は理解できた。
出海らしい言い方で言うと
──昼間はまだわかるけどさ。夜の夢の中にすら出てきてくれないって、どんだけ人の目を気にしてんの?
である。この二年間私が続けてきた制限のある接し方を、不満だと言っているのだと思う。
この和歌を、どういう思いでここに忍ばせたのか。いくら想像してもわからなかったが、見つけたことは早く知らせた方が良いような気がした。
私はメッセージアプリを立ち上げ、随分長く使っていなかった出海とのトーク画面を表示させる。二年の間に機種変更をしたせいで、トーク画面には何のやりとりも残っていなかった。
(なんて送ろう。『見つけたよ』だけでいいのかな)
なんとなく、それだけでは冷たいような気がする。
迷っているうちに、ふと「和歌なら返歌がいるのでは」と思いついた。同時に、あまり多くの和歌を知らない私でもすぐに浮かぶような、有名なものが頭に浮かぶ。
今の私の状況を伝えるのに、ちょうどいいと思った。
「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」
送信ボタンを押したまま画面をぼんやり眺めていると、三秒もしないうちに既読のマークがついた。
(え、早っ……)
驚いているうちに、画面上部に着信を告げるポップアップが出る。
発信者は、出海だ。
(待って待って、今電車の中だし──……っ)
いきなり電話が掛かってくるなんて困る。思わず「拒否」のボタンを押そうとしたが、焦った指先が間違えて「応答」と押してしまった。
通話時間をカウントする時計が表示される。切るわけにもいかず、どうしたらいいか迷いながら、一秒、二秒、と増えていく数字を見ていると、電車が止まった。
降りる予定の駅ではなかったが、私は転がるように車両から飛び出した。「観念してお話しなさい」と、誰かに言われているような気がした。
「えっと……はい、もしもし」
周囲が賑やかなので、スマホを耳に強く押し当てる。
電話の向こうから、掠れた声が聞こえた。
『おはよ。全然応答しないから、切られちゃうかと思った』
「ごめん電車の中だったから。ていうか、フランスに居るんだよね? 電話ってできるもんなの?」
『いるよ。今、朝の八時半。メッセージアプリが普通に使えるんだから、そのアプリの電話機能も、そりゃあ使えるでしょ』
「あ、そうなんだ……」
日頃海外に縁がないので、そのあたりの事情はよく知らなかった。
「それで、なんで急に電話してきたの?」
『何でって。和歌を送ってきたってことは、鏡の中のもの見つけたんでしょ?』
「ああ、うん。見つけた。ごめん。私出海に『どうしたい?』って一度も訊かなかったね」
通話しながら、周囲を見回す。一旦改札を出ることも考えたが、何やら催し物をやっているらしく、人が多く集まっているのが見えた。
それならば、と私はホームの端まで歩き、改札から一番遠くにあるベンチに腰掛ける。次の電車が来たら多少賑やかになってしまうけれど、それまでは静かに会話できそうだ。
『それはいいんだよ。あの時は俺が、泉美がしたいようにしようって決めてたんだから。でもまさか、二年も経つとは思わなかったな。途中から、時間が経ち過ぎてどうしたらいいのかわからなくなってたし』
「どうして今、あんなの仕込んでプレゼントしてくれたの?」
『フランス行きが決まって、物理的な距離ができることが、寂しかったからですね』
やや自虐的に笑う吐息の音が、電話越しに聞こえた。
『自分の中で、掛けをしたんだ。その歌が見つかるかどうか。その紙が出てくるほど、泉美が、俺が贈ったものを使ってくれるかどうか。見つかったら、その時は『泉美ともう一度二人で会いたい』って言おうって、決めてた』
出国前に面と向かって言えばよかったのに、とは言えなかった。
もしも出国という期限のある中でいきなりそんなことを言われたら、私はきっと、上手く答えを出せなかったと思う。
そういうところも、出海にはわかっていたのだろう。普段事務的な面でしっかりしているのは私のほうだが、感情をどっしりと安定させて物事を深く観察できるのは、出海のほうだ。
『ねえ、泉美。帰ったら会ってくれる?』
柔らかい声に、私は、あの日を思い出した。
出海は今、あの日「泉美、どうしたい?」と訊いてきた時と同じ顔をしている気がする。
フランスの朝八時半がどんな景色か、私は知らない。留学先の施設のタイムスケジュールも、全くわからない。
けれど出海はきっと、どこか静かな場所で、丁寧な佇まいで電話していると感じた。例え今が寝起きで、髪がぼさぼさだろうと、行儀よくどこかに座って、カーテンに透ける午前の光の中で、笑っている。
今までだって、どんな時でも私の返事や意見を待つ出海は、優しかった。
「会いたい」
身体からぽろっと何かが出て行った気がした。
涙かと思ったが、言葉だった。
「会いたい」
噛みしめるように言い直した途端、体中にじわりと温かい何かが広がる。
二年も待ってくれて、なのにまだ少しの逃げ道を用意してくれて、メッセージに反応してすぐ電話してくるぐらいの積極性があるのに、いつだって私を優先してくれる出海に、私はどうしようもなく、会いたいと思った。
「会いに、行っていい?」
『うん。じゃあ、帰国が決まったら……』
「ううん。そうじゃなくて、フランスに」
『えっ!』
さすがに予想外だったのか、本気で驚いた叫び声が響く。
慌てた様子が可愛くて面白い。知っていたはずなのに。誰よりそれを近くでたくさん見る機会を作ることができたはずなのに。
周りの目を気にし過ぎたせいで、私は二年間、もったいないことをしていた。
「だって、バイトしてるからお金あるし。一週間ぐらいなら休んでも平気だし。それに……」
『それに?』
「そこには、誰も居ないし」
自分たちを知る視線がひとつもない場所で出海と向き合ったら、自分で自分に隠していた色んな何かが出てくるかもしれないと思った。
そして、出海はそれを見たがってくれるだろうとも。
「だめ?」
『いや。二年も待った甲斐がありそうだなって、思うよ』
会ったら、まずはたくさん謝ろうと思う。
それから、たくさん話して、たくさん見つめて。あとのことは、それからふたりで考えようと思う。
せっかくなら天気をチェックして、晴れた日に会いたい。
最後に会ったのは、あいつが日本を発つ一週間ほど前のことだった。
「おーい、泉美」
飲み会の会場で、ビール片手にふらりとやって来た出海は、私の隣に遠慮なく腰を下ろした。
「あ、おつかれ。出海」
「何飲んでんの?」
「桃サワー」
「へー。美味そ」
出海は私のグラスの縁に、手にしていたビールジョッキの縁を触れさせた。ゴツン、と強めの音がする。
小さくはあったが、衝撃が手首にまで響いた。
「ちょっと。力加減」
思わず文句を言う。
出海は「ごめぇん」と言いながら、楽しそうに笑った。
「聞いてよ泉美。支度がさ、終わらねぇの」
まるで他人のヤバい話を暴露するかのような、軽いノリで言う。まだ会がはじまっていくらも経っていないのに、結構な量の酒を飲んだようだ。
酔っ払いが、歌うように喋る。
「全然、終わらねぇ。服とか靴とかさ、色々慣れたものあったほうが無難かもって思うじゃん? 向こうの物価も今一つわかんねぇし」
「まぁ、そうね」
「でもさ、あんまり色々持って行きすぎて、向こうの人にドン引きされるのも嫌じゃん?」
「確かに、一人だけ荷物が多すぎるのは、それはそれで恥ずかしいかもね」
「だろぉー? 俺いま、すげぇ悩んでんの」
悩んでいる、という言葉の割に、その表情は楽しそうなまま。
浮かれているんだなぁ、と微笑ましく思う。
今日の飲み会は、理学部の同学年一同による、出海の壮行会だ。彼の書いた宇宙研究に関する論文が学会で話題になり、フランスの研究機関から留学のお誘いが来たらしい。
長年うちの大学に勤めている教授が「こんなこと初めてだ」と言っていたので、相当珍しいようだ。
期間は半年。しかし、場合によっては延長の可能性もあると聞いている。
「道中ひとりで移動するのも大変だし、持って行くのは最低限にして、向こうで買い足したら? 思い出にもなっていいんじゃない?」
「そうだねー。それもそうだ。でもいくらぐらいするかな。あー、もうちょっとバイトして貯金作っとけばよかった。向こうじゃバイトできねぇし」
「向こうの物価が高すぎてどうしても買えない、なんてことになったら言いなよ。皆で服買って送ってあげる」
「あはは。それ、センス悪いヤツが選んだの送る気でしょ」
「ふふ。フランスで笑い取ってくればいいじゃん」
そのまま何往復か、中身の軽い会話を交わす。
そろそろかなと思った私は、席を立とうとした。
しかし、グラスを持って腰を上げた私に、出海は眉を下げる。
「泉美、どこ行くの?」
「……飲み物を取りに」
「ファミレスのドリンクバーじゃないんだから、ここで注文したら? ていうかグラスの中、まだ半分ぐらいあるじゃん」
「あー、うん。でもさ、いつまでも私ばっかりが主役を拘束するわけにもいかないから」
それは半分嘘だが、もう半分は本心だった。
出海は学部の人気者だ。彼と話しておきたい人は、大勢いる。
「私はいっぱい楽しい話できたからさ。ほら、ね?」
「泉美は気にしすぎなんだよ」
彼はじっと私の顔を見たあとで、大きな溜息を吐いた。いじけた子どものような顔だ。
「いいよ、もう。じゃあこれ、後で渡そうと思ってた餞別」
差し出されたのは、ピンク色の小袋だった。
「嬉しいけど、餞別って、見送る側があげるもんじゃないの?」
「いいんだよ、渡したかったんだから。俺が海の向こうに行ってる間、お化粧する時にそれ使ってよ」
袋越しに、中身が薄くて硬いものであることがわかる。
開けてみると、出てきたのは手鏡だった。
クレジットカードと同じようなサイズの、カバーつきの鏡。限界まで開けば、ひっくり返って鏡を自立させることができるタイプだ。
半透明のカバーには、ピンク色のラメやホロが散らばっている。全体的にキラキラしたデザインだ。
「あ、ありがとう……」
「そんなに高いものじゃないから、あんまり頑丈じゃないかも。怪我しないように使って」
「わかった……」
手のひらに馴染むサイズの手鏡は懐かしく、それでいて珍しい。
私がその珍しさに見入っている間に、出海はジョッキを持ってどこかへ行ってしまった。
出海と知り合ったのは、大学に入ってすぐ。入学式の翌日に参加した、一年生向けのオリエンテーションがきっかけだった。
女子校育ちでしっかり者な「泉美」と、のんびり屋で自由な「出海」。
コンビとしての相性はとてもよかった。性格のノリも近かった。専攻したい分野が似ていたこともあって、オリエンテーションが終わったあとも何かと一緒に過ごすことが多かった。
「なんだか、出海は男の子の同級生って感じがしない」
ある時、ふと思ったので、出海に直接それを伝えたことがある。出海は笑いながら
「それ、褒めてる?」
と訊ねてきた。
「褒め、になるのかな。私、小学校以来久しぶりの共学だから、入学前は結構緊張してたんだよね。男の子が学校にいるってどんなだったっけ? って不安だったの」
「ふぅん」
「でもいざ入学してみて、出海とこうして遊んでても、全然緊張しない。女の子の友達と同じ感覚で自然でいられる自分に、ちょっとびっくりした」
出海の柔らかくて優しい雰囲気がそうさせてくれているのだと思った。だから「ありがとう」と言った。
このまま卒業まで仲良く楽しく遊ぶお友達の関係が続くと思っていた。しかし周囲は、私たちをそういう目では見ていなかった。
その日、私は仲の良い女子ふたりに誘われ、三人でのランチを楽しんでいた。
「ねえ、泉美たちは記念日に何してるの?」
「ていうか、今何ヵ月だっけ?」
期間限定の焼きカレーを食べている最中に、二人から唐突な質問を受けた。彼女たちの目は、なぜか興奮気味に輝いていた。
「何の話? ていうか『泉美たち』って、私と、誰のこと?」
私は質問の中身や意図が理解できず、問い返した。
一体何の「記念日」の話をしているのか。何をいつからカウントした「何ヵ月」なのか。
彼女たちは最初、問い返した私に驚いていた。しかし、私がとぼけているのではなく本心から理解できていないことを知ると、より一層興奮した様子で詰め寄ってきた。
ランチが載ったままのトレイを押しのけて、机の上に乗り出してくるぐらいの勢いだった。
「あんだけ仲良いのに、まだ出海くんと付き合ってなかったの?」
「ふたりはオシドリお揃い夫婦って、学年中が噂してるの、知らなかった?」
「付き合……は? オシドリって、何それ」
「えぇー、でも絶対お互い好意あるよね? どうなの?」
「百歩譲って、恋愛に疎い泉美が友情だと思ってるとしても、出海くんは泉美のこと好きだよね、絶対」
それから彼女たちは、まるで私を説得しようとでもしているかのように、色んな話を聞かせてきた。
例えば、私と出海が同じ目的地へ移動するために歩いていただけの景色が、彼女たちには全て「デート」だと認識されていた。
例えば、出海が忘れ物をした時真っ先に私に頼るのは「彼女に甘えるのを楽しんでいるだけ」だと思われていた。
例えば、私が出海に勧められて買ったボールペンは、知らないところで「小さな物でも好きな人とのお揃いを持ちたい乙女心」だと解釈されていた。
彼女たちは繰り返し「皆そう言ってる」「絶対そうだと思った」と言う。次から次へと降り注いでくる知らない話に、私は胃が底から冷えていくような気持ち悪さを覚えた。
(待って。それなあに? どうしてそんな噂の方が事実みたいに広がってるの? 『絶対』って、どうしてあなたたちが決めるの?)
(出海は、それ、知ってるの?)
私は小さく首を振って、何もかもただの誤解であることを主張した。しかし彼女たちは、私の否定を燃料にするかのように「でも」や「だって」を積み上げていく。
この場にもう一人の当事者である出海がいないのに「なんなら今日からもう付き合っちゃいなよ」と迫られ、私はどうしていいのかわからなくなった。焼きカレーはもう一切喉を通らない。
講義の時間が近づくギリギリまで、彼女たちの盛り上がりは止まらなかった。食堂を出たあと、そのまま講義棟ではなく自宅へ帰り、私は寝込んでしまった。
次に大学へ行ったのは、三日後のことだった。
出席率が単位に直結する授業なので、休むことができなかった。講義棟に現れた私に、真っ先に気付いて、出海が声を掛けてくれる。
「泉美。もう体調いいの? 大丈夫?」
「あ……うん。メッセージとか返せなくて、ごめん」
「それはいいけど。けど、ホントに大丈夫?」
いつもなら心配してくれたことにお礼を言うぐらいできるのに、できなかった。
それどころか、出海が話しかけて来た瞬間、私は周囲の目を確認してしまった。こちらに向いている視線がいくつあるのか。そのうちいくつが、私たちをカップルだと思っているのか。
真っ先に人の目を気にするだなんて、出海に失礼なのに、数えるのを止められない。
すると、出海に肩を掴まれた。
「泉美。あのね、聞いて」
背の高い私がヒールを履いているので、目線の位置がとても近かった。
「昨日、あの子たちが俺のところに謝りにきて、全部教えてくれた。噂のことは俺も全然知らなくて、初めて知った。ねぇ泉美、どうしたい?」
まわりに聞こえないよう、小声で一息にそう言って、出海はまっすぐに私の目を見てくる。
(どうしたいか、って……)
その時頭に浮かんだ私の第一優先事項は、周囲に関係性を決めつけられる噂をなくすことだった。
友人として大切に過ごしている事実を、お互いの性別を理由に勝手な興味と思いこみで上塗りされるのが、嫌だった。
そう伝えると、出海はしっかり頷いた。
「わかった。落ち着くまで、ふたりで遊ぶのはやめよう。授業の移動も、なるべく別にする。でも皆で遊ぶときなんかには、普通に一緒に居て会話しよう。その方が喧嘩別れしたわけじゃないって、普通の友人同士だって、皆に思ってもらえるから」
出海が出してくれたその解決案は、完璧なものだと思った。
(そっか……そうすれば、変な噂を立てることなく、出海と友人で居られるんだ)
感心して、頷いて、安心して。それから私は、自分の中で行動のルールを決めた。
相手が出海でなくても構わない話は、なるべく出海以外の人間に振ること。
学部の飲み会やイベントは、出海を避けて休んだと思われないようにするために、絶対出席すること。
皆で遊んでいる時に出海と会話するなら、時間はグラスの飲み物が半分無くなるまでに留めること。
自ら設けた制限を、キツイとは感じなかった。
むしろそれを守ることで、誰かに「私と出海は友人です。だから変な目で見ないでください」とアピールできているようで、気が楽だった。
出海は私の行動に合わせ続けてくれた。止める人が居ないから、制限ある生活は、次第に当たり前になっていく。
(そういえば、私は『出海はどうしたい?』って、訊けなかったな。余裕がなかったし)
気持ちも噂も落ち着いて、そんなことを思うようになるまで、二年掛かった。
二年経っても何も言われないのなら、出海もあれでよかったんだろう。私は、そう思うことにした。
気付けば、出海が出国して三カ月近くが経った。
連絡は全く取っていない。国内にいるのと同じようにメッセージアプリが使えるとは聞いているが、この二年間ほとんど携帯で連絡を取っていないので、今更なにかメッセージを送るのも気が引ける。
(安否が気にならないわけじゃ、ないけど……)
むしろ、遠くからでも顔が見られなくなったことで、心配が増しているように思う。
ネットニュースを開く際に、国際ニュースのコーナーを読み飛ばさなくなったぐらいには。
タイトルの一覧に「フランス」の文字があれば、タップして詳細を確認してしまうぐらいには。
今も、バイト先へ移動する間、電車に揺られながらニュースをチェックしていたところだった。
(ただ一言『元気?』ってメッセージを送るのは、簡単だけど……)
一度やりとりをしたら、際限なく返信を続けてしまう気がする。これまで意図して出海に振らないようにしていた、ちょっとした笑い話やテレビの話なんかを、延々。
出海はそういうメッセージを面倒に思う人ではないと知っている。むしろ積極的に話題を提供してくるのは、出海のほうだ。
けれど、そういう終わらないやりとりができること自体が、また噂の種になってしまうのだろう。
(ていうか、それ以前に、留学生活の邪魔になるし)
だから、何もアクションをしないのが正解なのだ。
そんなことを考えているうちに、電車の揺れが心地よくなってきた。瞼が重くなっていく。
意識が少しずつ、夢の中へ溶けていった。
目を開けると、私は知らない居酒屋に居た。
先日壮行会をした店とは全然違う場所。けれど、メンバーは同じ理学部の同級生たちだった。
(あれ、これ何の飲み会だっけ?)
考えを巡らせても正解は思い出せなかったが、なにかとても嬉しいことを喜ぶための場だ、というのは感じた。頭の中に根付いたその認識が、喜べ、喜べ、と体に信号を送っている。
周囲にはたくさんの椅子があるのに、全員が立って飲食を楽しんでいた。私も彼らに倣って、グラス片手にふわふわ歩く。
途中、何人もの同級生たちと会話した。ところが、いつの間に酔ったのか、どれだけ耳を傾けても彼らの話が頭に入ってこない。
(変なの)
その時、背中が何かにぶつかった。
壁にしては柔らかい、でも安心して背中を預けられるような、何かに。
振り返ると、そこに居たのは出海だった。
飲み会でよく見る、楽しそうな笑顔だ。頬をアルコールでちょっと赤くして、口元をふにゃふにゃさせながら笑っている。
その瞬間、頭の中が真っ白になったような気がした。無意識に口を開いた私は、出海に向かって距離感無視の大声で叫ぶ。
──元気なの?
──今どうしてるの? そっちの治安は大丈夫?
──ねえ、聞いてなかったけどいつ帰ってくるの?
──ねえ、元気?
喉に発声の震えは感じるのに、自分の声が耳に入ってこなかった。
(こんなんじゃ、私の声は届かないじゃない)
泣きそうになる。けれど出海は笑顔のまま、ずっと私の顔を眺めていた。
ふわっと、体が浮くような感覚がした。次に、暗闇の中にガタンゴトンという音が響く。
(…………私、電車の中で眠ってたのか)
目を開けるのと同時に現れた、何の変哲もない電車内の景色。それが、ひどく無情なものに思えた。
あのまま夢の中に居続けたら、ひょっとしたら「元気だよ」と返す出海の声ぐらいは聞けたかもしれないのに。
(そういえば、出海が夢に出てくるなんて初めてだったな)
ずいぶん長い間、飲み会でしか顔を見ていない。それなのに、夢の中では妙にはっきり顔を認識できた。夢に登場した他の同級生たちは皆、髪型がおかしかったり、顔が別人だったり曖昧だったりしたのに。
もう一度深く目を閉じても、眠気はやってこない。
諦めた私は、鞄の中から手鏡を取り出した。出海からもらった手鏡を、何故だか今すぐ眺めたくなったから。
鏡の上に薄い蓋のついたコンパクトな手鏡は、中高生の頃によく持っていたアイテムだ。校則が厳しくてリップクリームすら禁止されていた女子校時代は、可愛い折り畳みの櫛と手鏡を持つことが、個性とオシャレの見せどころだった。
女子校に居たころ、私は背の高さと顔立ちのせいで「皆のお姉ちゃん」というポジションにいた。皆から頼られる、しっかり者であることを求められる立ち位置だ。
そのポジションにいると何故か、ファンシーな小物を持ち難かった。本当はラメやレースが好きなのに、モノトーンのものばかり揃えていた。
だから出海からこの手鏡をもらった時、私は初めて、自分の手の中に可愛いアイテムが収まっている景色を見たのだった。
(一回だけ、そういう話を出海にした気がする。覚えてたのかな?)
なんとなく、鏡の部分を指で撫でる。すると、たいした力は入れていなかったのに、鏡がケースの中で動いた。
(え、嘘。壊れるにはまだ早くない?)
私は内心で大慌てしながら、もう一度慎重に鏡に触れ、前後に撫でてみた。
普通なら鏡の面をツルツルと指先が滑るだけのはずなのに、やはり、指の動きに合わせて鏡がカコカコ動いている。
手のひらの上でそっとひっくり返してみると、鏡は簡単にケースから外れた。割れたり欠けたりした様子はないので、ただ外れただけらしい。
(頑丈じゃないかも、とは聞いていたから丁寧に扱ってたつもりだけど……こんなに早く外れるなんて)
同型のものをかつて使っていたから余計に、不思議でならない。通常、鏡とケースの間には固定用の接着剤がべったりと塗られている。ちょっとやそっとでは外れないようにできているはずだ。
接着剤の量がよほど少なかったか、と気になり、私はケースの内側を確認してみた。そして、思わず「ん?」と首を傾げる。
(何これ。両面テープ?)
固まっていたであろう接着剤が削り取られ、縁に沿ってぐるりと四角を描くように両面テープが貼られていた。そして空いた真ん中の空間には、小さな紙きれが入っている。
摘まみ上げて開いたその紙は、ルーズリーフを切ったもののようだった。小さな字で、短い文章が書かれている。
──住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
(これって、和歌だ)
理学部の学生でも、一年生や二年生のうちは、一般教養として文系の単位も必須とされている。私も出海も、一年生の前期に和歌をテーマにした授業に出席していたので、ある程度の馴染みはあった。
授業で一度、自作の和歌を詠む課題が出た。出海の和歌の出来が最悪で、真面目な教授を教卓に突っ伏して呼吸困難になるほど笑わせていた記憶がある。あれ以来密かに腕を磨いていた、というわけではないのなら、これはきっと自作ではなく、実在する和歌の中から、私に伝えたいメッセージに近いものを選んで書いたのだろう。そして、購入したこの手鏡を一度分解し、紙を仕込んでから、両面テープで組み立てなおした。
出海が私に渡したかったのは、手鏡ではなく、中のこの和歌だったようだ。
(これ、どういう意味の歌なんだろう)
手鏡を慎重に鞄の中に仕舞ってから、スマホで検索してみる。最初の四文字を打ち込んだらもう検索候補に全文が出た。やはり、自作ではなかったようだ。
検索結果に出たいくつかサイトを覗いてみる。細かい解釈は人によって色々あるものの、おおよその現代語訳は理解できた。
出海らしい言い方で言うと
──昼間はまだわかるけどさ。夜の夢の中にすら出てきてくれないって、どんだけ人の目を気にしてんの?
である。この二年間私が続けてきた制限のある接し方を、不満だと言っているのだと思う。
この和歌を、どういう思いでここに忍ばせたのか。いくら想像してもわからなかったが、見つけたことは早く知らせた方が良いような気がした。
私はメッセージアプリを立ち上げ、随分長く使っていなかった出海とのトーク画面を表示させる。二年の間に機種変更をしたせいで、トーク画面には何のやりとりも残っていなかった。
(なんて送ろう。『見つけたよ』だけでいいのかな)
なんとなく、それだけでは冷たいような気がする。
迷っているうちに、ふと「和歌なら返歌がいるのでは」と思いついた。同時に、あまり多くの和歌を知らない私でもすぐに浮かぶような、有名なものが頭に浮かぶ。
今の私の状況を伝えるのに、ちょうどいいと思った。
「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」
送信ボタンを押したまま画面をぼんやり眺めていると、三秒もしないうちに既読のマークがついた。
(え、早っ……)
驚いているうちに、画面上部に着信を告げるポップアップが出る。
発信者は、出海だ。
(待って待って、今電車の中だし──……っ)
いきなり電話が掛かってくるなんて困る。思わず「拒否」のボタンを押そうとしたが、焦った指先が間違えて「応答」と押してしまった。
通話時間をカウントする時計が表示される。切るわけにもいかず、どうしたらいいか迷いながら、一秒、二秒、と増えていく数字を見ていると、電車が止まった。
降りる予定の駅ではなかったが、私は転がるように車両から飛び出した。「観念してお話しなさい」と、誰かに言われているような気がした。
「えっと……はい、もしもし」
周囲が賑やかなので、スマホを耳に強く押し当てる。
電話の向こうから、掠れた声が聞こえた。
『おはよ。全然応答しないから、切られちゃうかと思った』
「ごめん電車の中だったから。ていうか、フランスに居るんだよね? 電話ってできるもんなの?」
『いるよ。今、朝の八時半。メッセージアプリが普通に使えるんだから、そのアプリの電話機能も、そりゃあ使えるでしょ』
「あ、そうなんだ……」
日頃海外に縁がないので、そのあたりの事情はよく知らなかった。
「それで、なんで急に電話してきたの?」
『何でって。和歌を送ってきたってことは、鏡の中のもの見つけたんでしょ?』
「ああ、うん。見つけた。ごめん。私出海に『どうしたい?』って一度も訊かなかったね」
通話しながら、周囲を見回す。一旦改札を出ることも考えたが、何やら催し物をやっているらしく、人が多く集まっているのが見えた。
それならば、と私はホームの端まで歩き、改札から一番遠くにあるベンチに腰掛ける。次の電車が来たら多少賑やかになってしまうけれど、それまでは静かに会話できそうだ。
『それはいいんだよ。あの時は俺が、泉美がしたいようにしようって決めてたんだから。でもまさか、二年も経つとは思わなかったな。途中から、時間が経ち過ぎてどうしたらいいのかわからなくなってたし』
「どうして今、あんなの仕込んでプレゼントしてくれたの?」
『フランス行きが決まって、物理的な距離ができることが、寂しかったからですね』
やや自虐的に笑う吐息の音が、電話越しに聞こえた。
『自分の中で、掛けをしたんだ。その歌が見つかるかどうか。その紙が出てくるほど、泉美が、俺が贈ったものを使ってくれるかどうか。見つかったら、その時は『泉美ともう一度二人で会いたい』って言おうって、決めてた』
出国前に面と向かって言えばよかったのに、とは言えなかった。
もしも出国という期限のある中でいきなりそんなことを言われたら、私はきっと、上手く答えを出せなかったと思う。
そういうところも、出海にはわかっていたのだろう。普段事務的な面でしっかりしているのは私のほうだが、感情をどっしりと安定させて物事を深く観察できるのは、出海のほうだ。
『ねえ、泉美。帰ったら会ってくれる?』
柔らかい声に、私は、あの日を思い出した。
出海は今、あの日「泉美、どうしたい?」と訊いてきた時と同じ顔をしている気がする。
フランスの朝八時半がどんな景色か、私は知らない。留学先の施設のタイムスケジュールも、全くわからない。
けれど出海はきっと、どこか静かな場所で、丁寧な佇まいで電話していると感じた。例え今が寝起きで、髪がぼさぼさだろうと、行儀よくどこかに座って、カーテンに透ける午前の光の中で、笑っている。
今までだって、どんな時でも私の返事や意見を待つ出海は、優しかった。
「会いたい」
身体からぽろっと何かが出て行った気がした。
涙かと思ったが、言葉だった。
「会いたい」
噛みしめるように言い直した途端、体中にじわりと温かい何かが広がる。
二年も待ってくれて、なのにまだ少しの逃げ道を用意してくれて、メッセージに反応してすぐ電話してくるぐらいの積極性があるのに、いつだって私を優先してくれる出海に、私はどうしようもなく、会いたいと思った。
「会いに、行っていい?」
『うん。じゃあ、帰国が決まったら……』
「ううん。そうじゃなくて、フランスに」
『えっ!』
さすがに予想外だったのか、本気で驚いた叫び声が響く。
慌てた様子が可愛くて面白い。知っていたはずなのに。誰よりそれを近くでたくさん見る機会を作ることができたはずなのに。
周りの目を気にし過ぎたせいで、私は二年間、もったいないことをしていた。
「だって、バイトしてるからお金あるし。一週間ぐらいなら休んでも平気だし。それに……」
『それに?』
「そこには、誰も居ないし」
自分たちを知る視線がひとつもない場所で出海と向き合ったら、自分で自分に隠していた色んな何かが出てくるかもしれないと思った。
そして、出海はそれを見たがってくれるだろうとも。
「だめ?」
『いや。二年も待った甲斐がありそうだなって、思うよ』
会ったら、まずはたくさん謝ろうと思う。
それから、たくさん話して、たくさん見つめて。あとのことは、それからふたりで考えようと思う。
せっかくなら天気をチェックして、晴れた日に会いたい。

