あれから二週間ほど経った、木曜日の放課後。
 伊頼はまたしても偶然、自宅の最寄り駅で志井に会った。
「志井、いつも帰りはこの時間?」
「ううん。今日はたまたま委員会活動があったから。いつもはもう二本ぐらい早い電車で帰ってる」
「へぇー。だからいつもあんまり会わないのか」
 ちょうどいいと思ったので、伊頼は志井を誘って、港の近くにある公園へ行った。藤田の話を聞いて欲しかったのだ。
「ふぅん。その人、面白い空想するね……?」
 藤田に出会った日の話をしたあと。志井の顔に若干の戸惑いが浮かんでいるのを見て、伊頼は少し安堵した。
(よかった。藤田のあの空想に驚くのは、俺だけじゃなかった)
 同じ中学から藤ヶ丘高校に進学した同級生が居ないため、伊頼にはまだ、濃い話ができる友人がいない。
 それどころか、一番多く会話する相手は二週間前に出会ったばかりの藤田かも、という状態だ。
 一対一の付き合いの中では「その空想力すごすぎない?」と驚く伊頼と「これぐらい普通じゃない?」と言ってのける藤田のどちらが多数派なのか、決着がつかない。
 ここ二週間、伊頼はずっと第三者の意見を求めていた。
「だよな。発想が突飛っていうか……そもそもそこでそんなにでっかい物語を空想するか? って感じ。楽しいけど」
「うーん。僕だって、あんまりよくない行為をしてる人を見た時なんかに『何があったらああいう行動になるんだろう?』って思うことぐらいはあるけど」
 志井は一拍考えて、小さく首を振る。
「でも、そういう時って考えてもわからないのがわかってるから、最初からあまり深く考えずに離れるだけになっちゃう。その藤田くんって人は、きっと頭の中が豊かで、優しいんだね」
「まあ、優しくは、ある。かも……?」
「今日も、藤田くんと一緒に帰ってきたの?」
「いや。今日は、藤田の授業が多い日だから」
 伊頼のいる普通コースは毎日六限までだが、藤田のいる特進コースでは、火曜日と木曜日は七限まで授業がある。土曜日の午前中も、毎週授業や特別講習があるらしい。
「だから、先に一人で帰ってきた。同時に帰れる日だって、別に待ち合わせとかしてるわけじゃねぇし」
 それぞれのペースで下校し、駅のホームで電車を待つ時間に何となくお互いを見つけて合流する、というのが、定番になりつつある流れだった。もちろん校内に居るうちに遭遇すれば、駅までの道も一緒に歩くけれど。
 とはいえ、伊頼だって別に、待ち合わせが嫌いなわけではない。もし「待ってて」と言われたら、そのとおりにするのもやぶさかではない気持ちだ。だって別々に帰るよりはそのほうが、電車に乗っている間の時間が楽しいから。
 今のところ頼まれないから、待たずに自分のペースで下校しているだけ。そう伝えると、志井は「ふぅん……」と言って、なぜか可笑しさを堪えるように小さく笑った。
「待つ理由が必要なら、部活とかにしちゃえばいいんじゃない?」
「は? いや、別に理由が欲しいとかでは……」
「『放課後空想ミステリー部』とか、いいじゃん? どう?」
 どうも何も、と伊頼はツッコミを入れた。
 ミステリーはさておき、部活動はそもそも放課後するものだ。名称として使うにはこの上なく奇妙である。
「ところでさ。あの『ミステリアス文学王子』だけど。藤田が該当者だったりしない?」
「どうだろう。空想力豊かなのはわかったけど……さっき聞いたみたいな長いお話を語るのが『文学をくれる』ってことなのかな?」
 ふたり揃って、首を傾げる。
「でも、僕が中学時代の模試の県内一位の人を探しているって話を、その藤田くんは知ってるんだよね?」
「うん。あ、そっか。そこで『それ僕だ』って名乗り出ないってことは、違うのか」
「『ミステリアス文学王子』は藤田くんかもしれないけど、県内一位じゃなさそうってことかな」
 この二週間の間、志井も自分のコミュニティの中で情報を集めようとしたらしい。
 しかしどんなに探しても、出てくるのは又聞きの噂だらけだったそうだ。
「同じ中学出身の人が見つかれば、楽なのにね」
「俺も同じこと思ってた」
 けれどそういえば、伊頼は藤田の出身中学を知らない。
(たった一言「どこ中出身?」と訊けば済むのに。俺、なんで聞きそびれてたんだ?)
 不思議に思った伊頼は、頭の中で、これまでの藤田とのやりとりを振り返った。そして、思いついた答えにこっそり頬を掻く。
 なんてことはない。これまで藤田とたくさん会話しているつもりでいたが、そのうちのほとんどが、彼の空想を聞く時間となっているからだ。普通の友人同士がするような、お互いを知るための会話は、いくらも交わしていない。
(藤田のことで今知ってることといえば……)
 頭がいいことと、空想が好きなこと。それから。
「ねぇ志井。藤田の家って、ここより遠いらしいんだよね」
「そうなんだ?」
「志井の学校に、同じ方面でここより遠い町から通ってる人いねぇかな? もしそんな人がいて、その人の出身中学や周辺にミステリアスとか王子とかの噂があれば、それが藤田である可能性は高まると思う」
「なるほど! それなら探しやすいかも」
 志井の表情が、一気に明るくなる。
「ねぇ。さっき聞かせてもらったペアルックのご夫婦の話以外に、藤田くんが話した空想ってある?」
「あるけど」
「聞きたい。安原くんが覚えてる範囲でいいから」
「じゃあ……」
 伊頼は、記憶を辿りながら夕暮れの空を見上げた。青からオレンジに変わってゆくグラデーションを追いかけると、遠くに、市営の桟橋と、水平線がある。
 淡い色の多い景色に、今から語る空想はとてもよく似合っていると思った。
「これは、昨日聞いた空想なんだけど……」


 伊頼がその人を見つけたのは、窓から入ってきた光が一瞬だけ、キラリと反射したからだ。
「ん? あー、アレか」
「どうかした?」
 一点を睨んだ伊頼の視線を追いかけて、藤田が振り返る。
 そこに居たのは、ひとりの女性だった。染めたてらしい明るい茶髪と、化粧の雰囲気からして、大学生だと思われる。
 彼女は車両の壁に沿って設置された座席シートに深々と腰掛けていた。揃えた膝の上に鞄を置き、その鞄を守るように両腕を載せている。伊頼が気にした光は、その手が持っている、手鏡に弾かれたものだった。
「ああいう鏡って、電車の中で出しちゃダメなんだろ?」
 半透明のキラキラしたケースに入った、蓋つきの鏡。中学時代も今も、周囲にいる女子たちが皆持っているので、その存在と用途は何となく把握していた。
 教師たちがよく注意しているので、伊頼の中では「あれは大人に嫌われるアイテム」という認識でもある。
 しかし藤田は即座に
「いや、そうではないでしょ」
 と言った。
「マナー違反になるのは、鏡を出してメイクなんかをした時。鞄から出しただけでアウトってわけじゃないよ。ナイフや拳銃じゃないんだから。ほら、よく見て」
 彼女は手にした鏡の蓋を開けてはいたものの、覗き込んで身だしなみをチェックしている様子ではなかった。鏡の表面を、指先でただすりすりと撫でているように見える。
 その後、女性は手鏡を鞄の中に仕舞った。代わりにスマホを取り出し、延々悩みながら、何かを打ち込む。
「ね。メイクしてたわけじゃなかったでしょ」
「確かに……」
 しばらくして用事を終えたのか、彼女はスマホを伏せ、静かに下を向いた。項垂れる、という表現が合うような仕草だった。
 しかし、すぐに弾かれたように顔を上げる。手にしたままだったスマホの画面を慌てて確認し、彼女は何故か周囲を見回した。
 どうやら電話が掛かってきたから慌てていたようだった。タイミングよく、電車が駅に着く。開いたドアの隙間から飛び出すように降りた彼女は、ホームに立ち止まってスマホを耳にあてた。
「……なんだったんだろうな?」
 電車が出発したので、ホームにいる彼女がどんどん遠くなっていく。その景色を眺めながら藤田に問いかけると、彼は「さぁね」と言った。
「僕は、鏡を持ってたことよりも、あの人が随分長いこと寝ていたことのほうが、気になるかな」
「なんで? 電車で寝てる人なんて、珍しくねぇだろ?」
「それはそうなんだけどね」
 では、彼女の何が特別気になったのか。
 藤田曰く、それは「表情」らしい。
「僕らがこの電車に乗った時、あの人は既にあの席に座って、寝てたんだよ。俯いて寝てたけど、結構表情が見えてた。泣きそうな顔だったなぁって」
「へぇ……?」
 伊頼は、改めてあの女性がどんな人だったかを思い出そうとした。
 手鏡や行動に気を取られていてあまり容姿をしっかり見てはいなかったのだが、背が高く、しっかり者っぽい雰囲気の顔立ちをしていたような気がする。
 そんな人が、電車で眠って、泣きそうな顔をするシチュエーションとは、なんだろうか。
 大真面目に考えても、答えが浮かばない。思い出した容姿が、大抵のことは平気で受け流しそうなイメージだったから、というのもある。
 それを藤田に伝えると、彼は少し困ったような表情を浮かべた。
「安原って、意外とそうなんだよね」
「『そう』って?」
「何でもない。あのさ、これはただの空想だけど……」
 そこで一旦言葉を切った藤田は、窓の外に視線を向けた。
 晴れた空から降り注いでくる光が、色素の薄い髪をキラキラ目立たせている。
「外側と中身の強度は、必ずしも一致するわけじゃないかもしれないよ」