「……ていう、そんな事情でのペアルックなのかもしれない」
 長い話が終わるころには、電車は利用者の多いエリアを抜けていた。
 ペアルックのふたりも、とっくに降りて居なくなっている。
 伊頼は、まるで映画を一本観終えたような気分だった。上映が終わって、劇場内の電気がついた時のような、浸っていた夢の世界からむりやり現実に引き戻される心地が、胸の中に広がっている。
「……え。今の話、何?」
「最初に言ったでしょ。僕の空想だよ」
「空想? 今のが? 見てきたわけじゃなくて?」
 伊頼が思う「空想」よりも、ずっと深く長く、そして密度が濃かったように思う。
 奇天烈な記憶喪失の設定も、夫の心理描写も、あの短時間で思いついてスラスラ語れるものだとは思い難い。
 しかし彼は、静かな表情で
「空想だよ、本当に。あの人たちのことなんて、一個も知らない」
 と言った。その発言に、嘘はなさそうだった。
「ただ、もしそういう事情なんだったら、あのペアルックを『恥ずかしい』と思うんじゃなくて、応援する気持ちになれない?」
「そりゃ、なったけども」
 後半、伊頼は夫の気持ちにかなり共感していた。早く記憶が戻って、彼の本当の名前を百回でも二百回でも呼んであげて欲しいと、願わずにはいられなかった。
 けれども。 
「ちょっと設定が大げさじゃねぇ? さすがに、それは絶対真実から遠いだろ。それで俺らが応援しても、あの人たち困るだけだぞ?」
「いいんだよ、真実から遠くても。ただの空想なんだから。『そうかも』って思う目で見るかどうかは、僕ら次第」
「なんだそりゃ……?」
 今まで身の回りにいた同級生たちとは異なるタイプだ、と思った。
 通行人の何かが気になることは、大なり小なりある。しかし、それをこんなに大きな空想にした人間は、見たことがない。
(こいつ、すげぇ変なヤツだ……)
 ビックリしている間にまた一駅が過ぎ、伊頼の降りる海賀駅に着いた。
 柱も壁も色褪せた古い駅舎と、広い海が見える。ここから先に続く駅は、どこもこんな景色だ。
「あ、じゃあ俺、ここで降りるから」
 驚きが抜けきらないままだと、人は足元が覚束なくなるらしい。よろよろと移動をはじめた伊頼に、彼はサラッと手を振った。
「じゃあね。路線が一緒なら、また会うかもね」
「あ、うん。そういや、名前まだ訊いてなかったな」
 彼は淡い瞳を瞬きさせ「そうだったっけ」と言った。
藤田(ふじた)だよ。藤田史月(しづき)。そういえば、僕も君の下の名前は聞いてない」
「伊頼。安原伊頼」
「そう。じゃあ安原、またね」
 電車がホームに停止し、ドアが開く。伊頼は藤田に軽く手を振りながら、電車を降りた。
 海の香りが、風にのって全身にぶつかってくる。
「んー……っ!」
 両手を挙げて大きく伸びをする間に、ドアが閉まり、電車が動き出す。
 伊頼はそれを見送りながら、肺の中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸した。


 慣れた道を歩いて帰宅すると、先に帰宅した母がキッチンで夕食を作ってくれていた。
「伊頼、おかえり」
「ただいま」
「手洗ってきなさいよ。鞄置いて、ブレザーも脱いで」
「わかってる」
 言われたとおり洗面所で手を洗い、ダイニングの椅子に脱いだブレザーを掛けてから、伊頼も準備に参加する。
 高校に上がって帰宅時間が遅くはなったが、このルーティーン自体は小学校のころから変わっていない。
「学校どうだった?」
「別に、普通。特になんもなかったよ」
 毎日返しているセリフで返事をしながら、伊頼はフライパンの中を見た。
 今日のメインは、ハンバーグらしい。
(うわ、すごい偶然)
 どうしても、あの夫婦のことを思い出さずにはいられなかった。ついさっき聞いたばかりの、これからハンバーグを一緒に作る、変わった夫婦の話を。
(あ、でも、あれは全部藤田の空想だから、あのふたりが本当にハンバーグを作るとは限らないのか)
 今でも、あの設定は奇天烈で、現実味がないと思っている。しかし一方で、頭の半分ぐらいには、藤田が主人公にした夫の願いが叶う日を願ってしまう気持ちもあって。
 妙にふわふわした思考が落ち着かない。
 そんな自分を不思議に思いながら、伊頼はカトラリーを取り出した。
「……学校では、なんもなかったけど。今日帰りの電車で、ちょっと不思議な夫婦を見たよ」
「不思議って、どんな?」
 母はハンバーグを順番にひっくり返しながら、スパイスラックからバジルの小瓶を取り出した。
「んー、別に、不思議じゃないのかもしれないけど。ただ、お揃いの服着てただけ。全く同じ服装してたから、ちょっと目立ってた」
「えぇ? 何それ、何歳ぐらいの人たち?」
「わかんないけど、若かったよ。二十代じゃない?」
「へぇー。二十代ねぇ」
 コンロの火を止める音がする。作業を続けながら話す母は、尖った声色になっていた。
 呆れるような、咎めるような、怪しむような。おそらく、そのどれもが混ざった感情を、伊頼の話した夫婦に対して抱いている。
「若いんなら、新婚で浮かれてるんでしょ。いつか冷めた時に後悔するから、止めといたほうがいいのにね」
「……やっぱ、そういう感じだよね?」
 ナイフやフォークを順番に並べつつ、伊頼は問いかけてみる。
 母の答えは早かった。
「他にないでしょ。ペアルックなんて『私たちお互いしか見えてません』って宣言してるようなものじゃない」
「うん……うん、そう」
「恥ずかしくないのかしら。まぁ恥ずかしくないからやってるんでしょうね。でもそういう人たちって、自分たち以外はどうでもいいって人多いから、トラブルになりやすいのよね。近づいちゃダメよ?」
 皿に盛ったハンバーグをダイニングに運んできた母は、小さく頬を膨らませた。
「やっぱり通学距離が長いと、色んな人に遭遇する確率も上がるのねぇ。藤ヶ丘高校って遠いから、いつか変な人に遭うんじゃないかって、やっぱり心配だわ」
「別に大丈夫だよ。気を付けてるし」
「そうは言ってもねぇ」
 母はまだぶつぶつ言いながら、キッチンへ戻っていく。
 その背中に、伊頼は、これが普通の反応だよな、と首を傾げた。少なくとも、伊頼の知る「普通の思考」では、夫婦がペアルックをするに至った物語をあんな風に広げて空想することも、応援したくなるかどうかを考えることもない。
(やっぱり、アイツが変わってるんだ)
 導き出した結論に、伊頼は心の中で頷く。
(でも、まぁ……面白くはあった、かも)
 あの空想に耳を傾けた時間を、無意味だったとまでは思わない。むしろ伊頼は今、もう一度藤田と電車に乗ってみたいという気持ちになっている。
 今気付いたが、電車に乗っている時間があんなにあっという間に感じるほど集中して何かを楽しんだのは、はじめてだったのだ。