【主人公:原山弘樹(はらやまひろき)。二十八歳。俳優】

 車窓の外を見ると、遠くの空が夕焼け色になっていた。
「もうすぐ陽が暮れるなぁ」
 傍らに立つ妻の沙苗(さなえ)が、のんびりとした関西弁でそう言うので、僕は同じ口調で「せやなぁ」と返した。
「今日の買い物、もう全部終わりやったっけ? 駅で降りたら、まっすぐ家帰っておしまい?」
「あほ。忘れたんか」
 だぼだぼの袖から覗く小さな沙苗の手が、胸のあたりにバシンとツッコミを入れる。ほんの少し痛いと思う程度のそれを受け止めて、僕は笑った。
「アレ? 何かあったっけ?」
「朝、家出るとき『お米買わなあかん』って言うたやろ。このまま帰ったら、夕飯はハンバーグとスープだけや」
「あー、せやった。せやった」
 僕は少し大げさに身体を揺らして「思い出しましたよ」とアピールする。確か、こういう仕草が多い人物だったな、と思い出しながら。
 一方で沙苗の動作は淀みない。彼女は唇の端を片方だけ吊り上げて、隙間から白い歯を見せつけるようにニヤッと笑った。
 上背の相手を下から覗き込む時によくやっていた、首を斜めに伸ばして傾ける仕草まで、完璧である。
「ほんなら、お米と一緒に買う予定のもう一個のモン、言うてみ」
「えっ」
「これも朝、話したで?」
「いやぁー……ちょっとその。ええと」
 真剣に思い出そうとする僕を見て、沙苗は楽しそう笑った。先程のように歯を見せて、ニシシ、と。
 それを見た僕は、零れ落ちそうになったものを堪えるために、咄嗟に上を向いた。天井付近にある電光掲示板や吊り広告を見て、必死に、落ち着きを取り戻そうとする。
「なぁ。どうかしたんか?」
 沙苗の心配そうな声がする。少し高めの声。滑舌のいい綺麗な音。
 こっそり深呼吸するのを止めて再び彼女を見た僕は、ついうっかり「何でもないよ」と言いそうになった。
「……あらへん。何も、あらへんよ」
「そうか?」
 彼女は追及してくることはなかったが、代わりに、僕の目の中の何かを観察するように、じっと覗き込んできた。
 その姿が、記憶の中の沙苗と重なる。 
──沙苗。このあと映画行かない?
──今から? 弘樹、明日も早いんでしょ。大丈夫?
──平気、平気。
──わかった。じゃあ一本だけね。そんで、観たらすぐ帰って、ゆっくり寝よ。
 心配しつつも僕の希望を叶えてくれる沙苗の「仕方ないなぁ」という笑顔はいつだって、綿菓子のような柔らかいものだった。
 言葉遣いも丁寧で、一度も住んだことのない関西の方言を使うことは、なかった。
 だぼだぼの男物の服ではなく、自分の体形によく合った、ガーリーな装いを好んでいた。
 それがなぜ今、こんなことになってしまっているのか。
 何度神様に問いかけても、答えは決して返ってこない。


 半年前。駆けつけた病院で聞かされたのは、沙苗が全身を強く打っているという報告だった。
「特に一番強く打っているのが、頭ですね。脳に目立った損傷はありませんでしたが、遅れて出ることもあるので、数日は様子見となります」
 淡々と告げる医師の説明をしっかりと聴いて頭に留めておかねばと思うのに、難しかった。耳なのか頭なのか、とにかくどこかが、情報を拒否していた。
 受け入れ難かったのだと思う。朝いつもどおりに玄関で見送ってくれた沙苗が、午後には交通事故で意識不明だなんて。
 その次に聞いた警察の話も、同じような感触だった。
「奥様は、商店街の入り口付近にある交差点で事故に遭われました。ぶつかってきたのは軽トラックです。運転手は、その場で逮捕しております」
 大切な情報を伝えてくれているのは理解できているのに、彼らの口から出てくる言葉が、ぼやけた音にしか聞こえなかった。「ちゃんと聴かなくては」と思えば思うほど、その声は遠ざかって、視界を埋める靄になっていく。
 後になって思ったが、あれがきっと、絶望感というものなのだろう。
 幸い、沙苗の命は助かった。一週間後には、病院から「意識が戻った」と連絡が入った。
 僕はつんのめるような勢いで病院まで走った。目が覚めたならもう大丈夫、という安堵と、顔を見るまでは安心できない、という焦りがごちゃ混ぜになっていた。病院に着いた時には汗だくになっていたし、受付での記名は手が震えた。
 一秒でも早く病室に行って、沙苗の顔が見たい。そう思っていたのに、真っ先に案内されたのは事故当日に行ったのと同じ部屋だった。医師が患者の家族に病状説明などを行うための部屋で、その病院では「相談室」と呼ばれていた。
「ご主人をお待ちしている間に、いくつか検査をさせていただきました。脳や臓器への損傷はありませんでした。懸念していた、あとからの出血も今日までないままなので、問題ないでしょう」
「あぁ、よかった……!」
 安堵した僕は、ソファの背もたれにどっと背中を沈めた。待合やデイルームにあるものよりいくらかクッション性の高いソファに、緊張の解けた身体がめり込んでいくような心地がした。
「それじゃあ、割と早く退院できそうですか?」
「リハビリの必要はあるので、もう少しかかるでしょう。それより、ひとつお伝えしておかなくてはいけないことがあります」
 ワントーン下がった医師の声に、緩んだはずの緊張が舞い戻る。
「オクサマハ、キオクヲナクシテイマス」
「は……?」
 医者が何と言ったのか、一瞬、理解できなかった。
──オクサマハ、キオクヲナクシテイマス。
──おくさまは、きおくをなくしています。
──奥様は、記憶を失くしています。
 バラバラに分解された一音ずつが、少しずつまとまって、漢字変換される。
 意味を理解した途端、頭の中がガンガン響くように痛んだ。
 俳優という仕事をする中で、記憶喪失をネタにした悲恋物語はいくつか経験してきた。まだたいして売れていない俳優なのでどれもチョイ役ばかりだが、一度はそれを告げる医師の役をしたこともある。
 しかし、現実に告げられるその一言は、役で触れてきたセリフ以上に現実味を感じなかった。
「正確に言うと、ご自身のこれまでのエピソードに関する記憶が、思い出せない状態です。名前、生年月日、住所。通っていた学校や、育った家のことも」
 思考が停止しフリーズした僕を置いて、医師は具体的な説明を進めていく。
「一方で、ペンやハサミといった道具の使い方には問題がありませんでした。日本の地理や歴史も把握していて、元号が令和に変わったことや、最近新しく就任した総理大臣の名前なんかも把握されています。しかし、それらをいつどこで知ったか、という質問には、答えられませんでした」
 医師の説明は、開けっ放しの蛇口から流れていく水のように、つらつらと流れていく。
 僕は振り絞った声で、ただ一言
「記憶が戻ることは、ありますよね……?」
 と問いかけた。そのあと返ってくる言葉なんてわかっているのに、それでも、訊かずにはいられなかった。
「わかりません。このままの可能性もありますし、数日で戻ることもあります」
「そう、ですよね……」
 魂が半分抜けたような顔で項垂れた僕を、医師は慰めも励ましもしなかった。
(ここで気を失ったら、起きた時に全部「夢でしたー!」ってならないかな)
 つい、非現実的なことを考えてしまう。実際にかなり酷い眩暈はしたのだが、気絶には至らなかった。
 病院の壁や机やカーテンの白さが、それを邪魔した。眩しいほどの白には意識をはっきりさせる作用でもあるのか、いつまでたっても、都合のいい暗転は訪れない。
 相談室を出たあとで病室へ向かったが、そこで会った沙苗は、ひどくぼうっとしていた。
 周囲の看護師たちが慌てたりしていないのを見て、僕は「目が覚めたばかりだからこんなもんだ」と思うことにした。目覚めたあとで検査をしたと聞いたし、色々と問診も受けて頭をつかったのだろうから、疲れているのかもしれない、とも。
 実際、その認識で正しかった。翌日に通常食での食事がはじまると、ぐんと元気になったからだ。
 そして同時に、奇妙な言動がはじまった。

 最近の病院は、面会に厳重な制限がある。
 会いに来ていいのは、一日にふたりまで。
 滞在していいのは、三十分まで。
 交流できる時間が少ないため、それ以外の時間を彼女がどう過ごしていたのかについては、看護師から聞かせてもらっていた。
「原山さん。すみません、奥様のことなんですが」
 その日、僕を呼び止めた看護師は、妙な表情を浮かべていた。
 何か、とても不可解なものを見たかのような。自身がこれから述べる内容に、疑問を持ちながら話しはじめるような。
 沙苗の話でなぜそんな表情になるのかわからないまま、僕は続きを待った。
「奥様って、事故に遭われる前の一人称は何でしたか?」
「え……普通に『私』だったと思いますけど……?」
 看護師は「そうですよねぇ……」と言って、首を傾げた。
「昨日、最後にお話した時には『私』って仰ったと思うんです。でも今朝検温に伺った時、ご自分のことを『俺』って言ってて……」
「え? 『俺』ですか?」
「はい。あと、急にとても流暢にお話されるようになったんです。それ自体はいいんですけど……」
 看護師が、言うには。
 朝の検温と朝食が終わったあと、点滴の準備をするために病室へ行くと、沙苗はベッドの縁に腰掛け、足を組んでいたらしい。女性的な、足をぴったりくっつける組み方ではなく、片方の膝にもう片方のくるぶしが乗るような、男性っぽい組み方で。
 看護師は不思議に思いながらも、その座り方には言及しなかった。代わりに、沙苗がイヤホン付きで観ていたテレビを話題にした。
──水族館の番組ですか? イルカショーっていいですよね。楽しそう。
 すると沙苗は、少し弾んだ口調でこう返した。
──パッと見は楽しいけどさ。ここまでショーができるようになるまで結構苦労するんだぜ。俺にも相棒のイルカがいるんだ。可愛いけど覚えが遅くて。何度水ぶっかけられたことか。
 看護師は驚くあまり反応に詰まってしまった。しかし沙苗はそれに気付く様子もなく、ハハッと笑ってひとりでイルカの話をする。
 それは、看護師が部屋を出るまで、ずっと続いていたそうだ。
「結構、イメージと違う感じだったので、驚いてしまって……奥様、元々そういうワイルドなキャラだったなんてことは……?」
「ないですね……水族館で働いたことも、一度もないです……」
 さっぱりわからず困惑したが、とにかく自分の目でも確かめなくてはと思った。僕は急いで病室へ行き、沙苗のベッドエリアを仕切るカーテンを開ける。
 そこに居た沙苗は、聞いた話のとおり、ベッドの縁に腰掛け足を組んでいた。
「……沙苗?」
 声に気付いて振り向いた沙苗は、僕の顔を睨み「誰だ、お前」と凄んだ。
「誰って。弘樹だよ。昨日も説明したけど覚えてない?」
「そんな名前は知らねぇ」
 僕よりも男らしい態度を見せる沙苗は、バッサリと斬り捨てるようにそう言って、そっぽを向いてしまった。
「じゃ……じゃあ、イルカのことは?」
 半信半疑で話題にしてみると、背けたばかりの顔が、またパッとこちらを向いた。
 今度は少し、表情が明るい。 
「イルカ? お前『マカロン』のファンか?」
「ま、マカロン?」
「俺の相棒のイルカの名前だよ。お前、俺がマカロンの担当って知って話しかけたんじゃねぇの?」
「それ……何の、冗談……?」
 口の中が一気に乾いて、声が掠れる。自らが踏みしめて立っている塩ビ素材の床が、ガラスのようにひび割れてガラガラと崩れていくような、恐ろしい心地がした。
 これ以上聞くのが怖い、と思う。けれど一方で、もっと確かめねば、という気持ちもあった。
 僕はおそるおそる、訊ねてみる。
「君、名前は、何て言うの」
 すると沙苗は「ここに書いてあんだろ」と言って、自らの手首に巻かれた識別バンドを指さした。
「リヒトだ。海の夢水族館に勤めてる」
「あぁ……そう……」
 僕は、泣き崩れたくなるのを必死に堪えた。
 海の夢水族館なんて施設は、国内のどこにもない。
 マカロンという名前のイルカも、それを相棒と呼ぶリヒトという男も、実在しない。断言できる。
 だってその「リヒト」は、五年ほど前に僕が演じた、サスペンスドラマの登場人物だ。
 その後、僕は神経外科や精神科といった様々な分野の専門家たちと相談しながら、時間をかけて沙苗の中で起こっていることを確かめた。
「非常に不可解ですが……」
「大変稀なケースなのかなと……」
 最終的な結論を出す際、医師もカウンセラーも揃ってそう言い、難しい顔をした。記憶喪失に関する世界中の論文をひっくり返しても、全く同じだと言える症例が見つからなかったからだ。
「奥様の頭の中の世界には、ご主人の出演作だけが存在しているようですね」
「…………そうみたい、ですね」
 半分ファンタジーのようで、受け入れがたい。
 しかし、これがいくつも検証した結果判明した事実だった。
 今、沙苗の頭の中には、少なくとも十人程度の「役」の記憶がある。
 それらの役を強固に演じることで、記憶と同時に失った自らの人格を補っている、と専門家たちは結論付けた。
 出てくる役は日替わり。しかし、日を跨いで役が変わっても、約束事や予定の把握といった記憶は問題なく連続している。
「これは、多重人格には該当しないんですか?」
「少し違う、というのが我々の見解です。不思議なんですが、今の奥様は、ご自身が女性であることと、既婚者であることは、思い出しているんです」
 それぞれの役同士をどう把握しているのか確認したくて、医師は沙苗にこう質問したらしい。
──今日のお名前は『陽介(ようすけ)』さんでしたね。では、昨日お会いした『敬一郎(けいいちろう)』さんは、あなたとどういったご関係ですか?
 すると沙苗は、首を傾げながら
──夫……です。
 と答えたそうだ。
──では、一昨日お会いした『功太(こうた)』さんは?
──それも、夫ですね。
──なら今日の『陽介』さんは、あなたの何ですか?
──それは俺自身だけど……いや、でも、夫でもありますね……?
 そう呼べる人数の多さに戸惑いながらも、全員夫だと言い切った。
「つまり、役の人格が借り物だ、と認識しているということですか?」
「正確に『借り物だ』とは思われていないようですけどね。我々から見れば矛盾が多いのですが、奥様の中ではそれぞれの要素が同居できているようです」
 しばらくはこのまま生活して、様子を見るしかない、ということになった。

 そうしてはじまった沙苗との生活が、もう半年になる。
 沙苗の退院後、僕は毎日彼女が演じるその日の役に合わせて、同じ役を演じている。服も、当時その役が着ていた衣装に似たものを集め、全く同じものを着るようになった。
 そうしていれば「夫」だと認識してもらえて、会話が成立するからだ。彼女は未だに「原山弘樹」の名前を覚えることができない。
 新しい暮らしは、どうしたって辛いことのほうが多い。毎晩先に眠った彼女を眺めて泣いている。
 眠っている間は、何の役にもなっていない。その時間だけは、元の沙苗がそこにいるように思えた。寝相の癖も、寝息も、たまに出る寝言も、事故前と同じだから。
 事故に遭った直後は「目が覚めてくれさえすればそれで」と本気で願っていたのに、今は「どうすれば事故前の生活に戻れるか」を考えてしまう。命が助かっただけでも充分幸せなのに、それ以上を求めてしまう自分が罪深く思えて、申し訳なさが募る。
 ある時、経過観察のために行った病院で、担当の医師からそんなことを言われた。
──最近ようやく、奥様が演じている役が出ている出演作をすべて観終えたんです。
──えっ。あれを全部ですか?
 僕は思わず驚いた。
 こちらから教えていないので、僕のセリフや登場が「ない」ことを確かめるには、作品を最初から最後まで観尽くす必要がある。
 どれだけの時間を費やしてくれたのだろう。驚くのと共に、そこまでしてくれたのか、という有難さに泣きたくなった。
──はい。全部観ました。どれも脇役で、セリフが少なめでしたね。
──あぁ、えぇ、そうですね。お恥ずかしいですが、まだまだ大きな役はもらえてないので。
──役によっては、連続ドラマの中の一話にだけちょこっと登場、なんてのもありましたよね。あれだけの登場時間から役柄を解釈して、丸一日生活できるレベルの会話ができるっていうのは、実はすごいことなんじゃないかって思うんです。
 その言葉を聞いて、僕は「確かにそのとおりだ」と思った。
 僕本人ですら、演じながら生活する中で「これってどうすればこの役っぽいかな」と戸惑うことがある。それなのに、沙苗にはその素振りは一切ない。
 どうして沙苗は戸惑ったりすることなく演じ続けることができているのだろう、と考えながら帰宅したあと。リビングを掃除していた僕は、テレビ横の棚に仕舞われている、あるディスクたちを見つけた。録画した番組をダビングしたもので、真っ白なラベルには沙苗の字があった。書かれていたのは作品のタイトルではなく、出演した僕の役名だけ。
 ディスクはとても丁寧に保管されていて綺麗だったが、ケースのほうには繰り返し開け閉めした形跡がそれなりに残っていた。
 僕はふと、事故前の沙苗がいつも「弘樹の一番のファンは私」と言ってくれていたのを思い出す。
 その言葉を疑ったことなんて一度もなかった。けれど、まさか、ひとりでこっそり何度も出演作を観るほど本当だったなんて。
「……知らなかったなぁ……」
 思わずこぼれ落ちた一言は、同時にあふれた涙で滲んでしまった。


「なぁ、おい」
 あの録画ディスクを見つけた時のことを思い出していると、不意に、沙苗が半歩距離を詰めてきた。今は買い物帰りで、電車に揺られている最中である。
 今日演じている関西弁の役は、朗らかでカワイイ系。そこが気に入っているのか、登場する回数が他に比べて少し多いと思う。
 僕は役になりきって「何や」といたずらっぽく返した。
「結局、お米と一緒に買う予定のもう一個のモン、思い出したんか?」
「あぁー。確か、バジルやろ。ハンバーグの上に散らすって言うてたもんなァ」
「あほ。散らすんはスープの上や」
 胸にバシンとツッコミが入る。わざとらしく上半身だけでよろけてみせてから、僕は笑った。
「惜しかったわぁー」
 へらっとする僕を見て、沙苗は、役の顔で楽しそうに笑う。
 ディスクを見つけたあの日から、僕はこのわけのわからない状況は、沙苗が必死になった結果なのだと思うようになった。
 あの事故の直後、沙苗は両腕を前に出した姿勢で倒れていたと聞いた。持ち物は全て放り出しているのに、手は拳の状態だったらしい。
 もしかしたら沙苗は、軽トラックに跳ね飛ばされて宙を舞う間、その両手で手放したくないものを必死に掴まえていたのかもしれない。
 片方の手で自分の命を。もう片方の手で、僕のことを。
 命以外のすべてを手放してでも、夫である僕のことに関する何かを少しでも掴んでおこうとした結果が、これなのだとしたら。
 それは僕だけがわかる、彼女らしい愛情表現かもしれない。
「罰ゲームや。今日、米炊く係すんの、そっちな」
「嘘やん。ちょっと惜しかっただけやのに」
「だーめ。今決めた。コーンバターのごはんでよろしゅう」
「えーっ」
 本当は、米を炊くのも、コーンバターの味付けで炒めるのも、なんてことない。
 それでも、僕は役になりきって駄々をこねる。
 そんな僕を、沙苗が心から楽しそうに眺めるから。
 
 沙苗の記憶が戻る日は、いつかきっとくる。
 今のこのヘンテコな生活は、その時彼女に言うべき言葉を探すための時間なんだと思いながら、僕は日々を過ごしている。