【主人公:下祗園登夢。二十三歳。楽器奏者】
浩二さんと再会したのは、幸運にも、俺が不幸のどん底に居た時だった。
「なぁ。おい」
ある日の夕方。俺は真っ青な顔をした男性に声を掛けられた。
夕焼けの空の下でもはっきりわかるほどに青ざめていたので、俺は最初、助けを求められているのかと勘違いした。
「はい。どうかしました?」
「お前さ、下祗園だろ。俺のことわかるか? 中学で一緒だった大塚だ」
「大塚……? あ、はい。大塚先輩。わかります」
「そうか。よかった」
「え? 大塚先輩なんですか?」
「そうだよ。あのさ、下祗園。勇気を出して訊くんだが、お前は今そこで何をやっているんだ」
助けを求められたのではなく、助けようとしてくれているんだと気付くのに、時間が掛かった。
その時俺は、片道四車線ある太い道路の上で、歩道橋の手すりに手を掛け、下を覗き込んでいた。
ただ車の流れがスムーズな様子を目で追っていくのが心地よかっただけなのだが、顔色や表情が最悪だったせいで、誤解を生んだのだと思う。
何もする気はない、というアピールがしたくて、俺は両手を軽く上げた姿勢で、柵から距離を取った。
「あの。俺別に……」
「よし、いい子だこっち来い」
「いやだから飛び降りたりするつもりは……ッ」
「いいから来い!」
有無を言わさず腕を掴み、歩道橋から降ろされてしまった。それぐらい焦ってくれていたのだと、あとから気付いた。
強引に腕を引かれるまま、浩二さんに連れていかれた先は、居酒屋だった。
「で。お前はあそこで、何してたわけ」
狭いテーブルを挟んで向かい合った浩二さんは、まるで刑事のように俺を問い質そうとした。
「いや、だから……車眺めてただけですって」
「その瘦せこけた頬はなんだ? 腕もすげぇ細かったぞ。飯食ってんのか」
「ちょっと最近、胃が悪くて」
「病院は?」
「は、はい。一応。ちゃんと行ってます……」
俺は事実を丁寧に答えたが、浩二さんは、俺が何か言う度に眉間の皺を深くしていった。
その空気が耐えがたくて、俺はチラチラと目を泳がせていた気がする。
「ええと……遅くなりましたが、お久しぶりです」
「ああそうだな。久しぶり。俺が中学出て以来だから、十年ぶりか?」
「そうですね」
浩二さんとは中学生のころ、吹奏楽部で一緒だった。学年がふたつ違うし、三年生は八月上旬の大会で引退なので、一緒に活動できたのは半年にも満たない短い間だ。
「下祗園は、パーカだったよな」
パーカとは、パーカッションの略。打楽器パート全体を指すときに使う呼称だ。
楽器の種類が多い分、人数を必要とするパートで、俺は主に手のひらサイズの小物を担当していた。トライアングルとか、カスタネットとか。
「大塚先輩は、トランペットでしたよね」
花形楽器を格好よく演奏していた姿は、今でも覚えている。中学一年生だった俺の目に、颯爽とトランペットを構える浩二さんは「完成された大人のお兄さん」に見えていた。
「よく、俺のことがわかりましたね」
「顔があんまり変わってないからすぐにわかった。お前、この辺に住んでんの?」
まさかこっちで知り合いに会うとは思わなかった、と浩二さんは笑った。ここは俺たちが中学時代を過ごした地元から、かなり離れている。
「大学がこっちで、そのまま就職もこっちでしたんです」
「なるほど。俺も同じ感じだ」
浩二さんは「胃が悪い」と言った俺にメニュー表を見せ、食べられそうなものがあるかと訊ねてくれた。
揚げ物や焼き鳥といった美味しそうな料理が並ぶ中、雑炊を選ばせてもらう。
注文を取りに来た店員に、一人前より少なめに作って欲しい旨を伝えた俺を見て、浩二さんはまたも気遣わしげな顔をした。
「こういうこと聞くのも良くないかもしれんが……上手くいってんのか? 仕事とか、色々」
ギクリ、と全身が強張る。その反応が何よりもの返事になってしまった。
「実は……色々、上手くいかなくて」
当時、一番誰にも知られたくないと思っていたのが、自分の近況だった。それなのにポロポロ溢すように言葉が出たのは、浩二さんの真剣な心配顔が、俺に嘘を吐かせなかったからだと思う。
気付けば俺は、浩二さんが中学を卒業した時期のことから、順を追って全て話していた。
俺が高校受験に向けて準備をはじめたあたりから、両親がちょくちょく県外で仕事をするようになった。
自分の名前と感性をブランドにする親の仕事は、子どもながらに理解できていた。だから「寂しい」とも「嫌だ」とも思うことはなかった。
高校は寮のある学校に進学した。子どもが居なくなって、毎日同じ家に帰宅する必要がなくなった両親は、次第に、県外や海外といった、長期で他所に赴く仕事を増やしていった。
その進出は予想以上に本格的になり、高校二年生の冬休みからは、家に帰省してもひとりで過ごしてばかりだった。
その後、大学に入学して、アパートに移り住んだ途端、故郷の家は売却された。どうやら、寮生ゆえ長期休暇中に強制的に帰省させられる俺のためだけに、売りに出すのを待ってくれていたようだった。
そうして、三人で集まる場所をなくした俺たち家族は、滅多に顔を合わせることがなくなった。
四年間の大学生活のうち、一回か二回は、何らかの手続きなどのために呼び出したり呼び出されたりした記憶があるけれど、両親が夫婦そろって会いに来ることは、一度もなかった。
お互いに「ちょっと話したい」というような話題もないので、当然、メールも電話もメッセージアプリも疎遠になっていく。
そのうちネットニュースを見たほうがよほどしっかり近況を知れるのではと思えるほどに遠い間柄になり。
ついに今年の春。両親がアメリカで離婚し、夫婦それぞれ別々の国に旅立ったことを、俺は息子なのにテレビで知った。
そのニュースの直後、俺は大学を卒業し、社会人になった。仕事を覚えている最中の新卒社員に、先輩たちが振ることのできる話題は限られている。
出身地。趣味。特技。実家の親。きょうだい構成。とにかく、プライベートに関わるものばかりだ。
──君、ご両親は何の仕事してるの? 実家どこ?
──へえ、離婚したの。まあ、今日日珍しくないかー。
──そういえば、最近同じ名前の夫婦アーティストが離婚したよね。えっ、アレ両親?
──俺好きだったんだよねー。ねえ、なんで二人って離婚したの?
興味本位で、もしくは、有名人の近況や私事は全て白日の下に晒されて当然という究極の一般人思考で、皆が俺に訊いた。それどころか、取引先への紹介に、そういう話をネタとして積極的に混ぜた。
──この新人、あの二人の息子なんですけど、親から離婚の相談も報告も一切なかったんですって。
空気を壊せなくて「俺も皆さんと同じようにニュースで知ったんですよー。マジでウケますよね」と笑い続けた。
大抵の人は「マジで? やばいね」と大笑いしたが、時々、真剣に「それは大変だったでしょう」と気遣ってくれる人もいた。どちらの反応が楽だったとかではない。どちらにしろ、苦しかった。
そうしているうちに、心がキャパオーバーした。受け止めきれなかったショックと、周囲の無神経さに耐え切れず、気付けば、何も食べられない身体になっていた。
「そんなんで、今も会社行ってんのか」
全て聞いてくれたあと、浩二さんはまるで自分が辛い思いをしたかのような声で問いかけてくれた。
「いえ、療養のためという理由で休職中です」
「そうか。それでも通勤してるって言われたら、どうしようかと思った」
浩二さんはそう言って、しばらく黙った。料理が載ってさらに狭くなったテーブルの上で、頬杖をついて、真剣に俺の顔を見て。
じっと見つめられるのがいたたまれなくて、俺は雑炊をちびちび食べた。ゆっくり咀嚼して食べれば、三分の一ぐらいはいけそうだった。
「なぁ。下祗園」
少しして、浩二さんが口を開く。
この時聞いた一言を、俺は忘れないだろう。
「お前さえよければ、しばらく俺と一緒に遊ばねえか。今の俺なら、お前のこと助けられるかもしれん」
後日改めて呼び出された場所へ行くと、そこには浩二さんと、初対面の男女三人が待っていた。
「俺、今インディーズでバンドしてるんだ。こいつらはそのメンバー」
浩二さんが、一人ずつ紹介してくれる。
ドラムの古市大悟さん。
ベースの伴一夜さん。
バイオリンの高取譲さん。
初めて間近で見る「バンドをしている人」に、俺はかなりビビった。大悟さんは金色のカラコンを入れた坊主頭だし、一夜さんは耳のラインがピアスに隠れる程ピアスまみれだったし、譲さんは首ぐるりと一周、茨を巻き付けたタトゥーが入っていた。
サッと一目でそれを確認して、こっそり震える。
全員、インパクトが激しすぎだ。
「へえ、この子が浩チャンの後輩?」
真っ黒な長い髪を揺らす一夜さんの声は、見た目の激しいイメージに反して、アニメヒロインのような可愛い声だった。
「そ。俺の中学時代の後輩」
「浩二とはずいぶんイメージが逆だな。ひょろいし、真面目そうだし」
大悟さんからの評価に、譲さんが乗っかって笑う。
「チワワみたいだね、こいつ。俺より背高いけど」
失礼なことを言った二人には、浩二さんから制裁が下った。丸めたクリアファイルで、スパン、スパン、とふたりの頭を叩いた浩二さんは、俺に向き直り、代わりに「悪かった」と謝ってくれた。
「ここはな、俺たちが借りてるスタジオなんだ。月極のアパートみたいなもんだから、俺たち以外は誰も来ない」
ガスを使わなければ軽い煮炊きも黙認されているし、寝袋を持ち込んで泊まり込んでも問題ないらしい。廊下に出れば共用のトイレも流し台もあるそうだ。
大人が集まる自由な秘密基地のようで、少し興味が湧いた。
「先輩、俺ここで何したらいいんですか?」
「アレだ」
室内の一番奥。壁一面に貼られた鏡の前に、布を被った大きな物体がある。
近づいて布を剥ぐよう指示された。持ち上げた布は、暗幕のように重い。何となく懐かしさを感じる質感だった。
「これ……木琴? ですか?」
「シロフォンな。道具は一式あるから、好きに使って遊んでくれ」
なぜそんな楽器がここにあるのかというと、市外にある廃校予定の学校から、伝手でもらってきたらしい。
搬入されたのは昨夜だと言う。ほぼ間違いなく、俺のために用意してくれたのだろう。
「え。あの。もしかしてこの前言ってた『遊ばねぇか』って、俺にここに加入しろっていう……?」
驚くあまり楽器に触ることもできずにいると、一夜さんが「えっ」と声をあげた。
「浩チャン。そういう話一切せずに呼び出したの?」
他のメンバーも怪訝そうな顔をしている。
あとから知ったのだが、この時点では三人は、俺がメンバーに加入することを了承したからやってきたと思い込んでいたらしい。
浩二さんは説明不足を双方に詫びて、それから俺にマレットを一本手渡した。
「とりあえず、下祗園はここで遊んでいればいいよ。確かにこのバンドは、この前キーボードが抜けて、それ以来ライブもできないわ新曲も作れないわで実質活動休止状態だけど。それとお前の加入は、別の話だ」
「いや、でも。皆さんは本気で音楽をやってるんですよね? そんな人たちの隣で『遊ぶ』なんて失礼です。それに……それに俺、中学で吹奏楽辞めたので、楽器も楽譜も、もう何年も触ってません」
興味よりも不安が勝つ俺に、浩二さんは何度も繰り返し「それでいいんだ」と言った。
「音楽ってのは、本来遊びなんだ。なのに俺たちは『活動休止から脱却したい』とか『ファンを待たせたくない』とか、とにかく本気で燃えてて、本気過ぎて今、空回ってる。意図的に空気を緩ませる必要があるし、本来の遊びを身近で感じたい。そこに俺たちの曲をひとつも知らないお前は、打ってつけなんだ」
その意見に一番最初に同意したのは、大悟さんだった。
「悪くないかもしれん。ここ最近喧嘩ばっかり増えて、楽しさが少なかったしな」
「あ。大悟もやっぱそう思ってた?」
「ちょっとな。なぁ、お前らもそうだろう?」
振り返った大悟さんに、一夜さんも譲さんも頷く。
味方を得たかのような笑顔で、浩二さんは俺に再び迫った。
「とりあえず、一週間。一週間遊びに来てみてくれ」
その圧につい押し切られて、俺は頷いてしまった。
スタジオに行くこと自体には、三日で慣れた。
シロフォンは、叩いてみるといい音が鳴った。スタジオ近くの楽器店で購入した道具を使って手入れしたら、もっといい音になった。
高価な楽器を、好きな時に好きなように叩ける機会はそうそうない。せっかくなら何か一曲ぐらいきちんと演奏できるようになりたいと思うようになって、簡単そうな楽譜を探した。
メンバーに慣れるのには、楽器以上に時間が掛った。全員優しくて可愛い人なのだが、見た目に怖気づいて、それを発見するほどの会話をしなかったというのが大きい。
「下祗園くんさあ」
ある日、スマホで検索しながら楽譜の読み方を勉強していたら、一夜さんから声を掛けられた。
彼女は床に座って、散らばった五線紙とにらみ合っている。
「イヤホンを耳に差し込みたい時って、どんな時?」
「はい?」
「だから。街を歩いててそこら中が賑やかなのに、全然違う音楽を聴こうとして、イヤホンを取り出したくなる心理よ」
このバンドは、誰でも作詞作曲できるハイスペック集団だ。その中で、作った詞が最も多く採用されているのが、一夜さんだった。
今も作詞中で、ヒントが欲しいのだろう。
俺は、指定されたお題が成立するシチュエーションを一生懸命想像した。
「俺なら……自分の気分と周りのテンションが違う時とか、でしょうか」
「それ、どういう時?」
「例えば、嬉しくて楽しい気持ちのまま帰宅したいのに、同じ電車に乗ってる人が大声で愚痴を言ってた時とか」
他にも、周囲に複数の音がありすぎてシャットアウトしたくなった時や、大事な用事の前に自分を鼓舞したい時など。
思いつくだけのシチュエーションを大喜利のように答えると、一夜さんはどこかスッキリしたようで
「つまりイヤホンって、今自分が立っている世界を可能な限り自己完結に近づけるためのものなのか」
と言った。
彼女の中ではうまくまとめた一言のつもりらしいが、俺には即座に「そのとおり!」と同意できるほどの自信がなかった。
これは、感性や文学的な教養の違いなのだろうか。
「ありがとう。ついでに、もう一個訊きたいんだけど」
「な、なんでしょう」
「君、元々音楽が好きってわけじゃないっぽいよね。なんで吹奏楽部だったの?」
可愛らしい声で投げかけられた唐突な質問に、俺はびっくりした。
「……初めて言われましたけど。なんでわかったんですか?」
「ん、それくらいは見てればね。音楽好きすぎて死にそうって人たちに囲まれてるし、流石に」
一夜さんは、変わらず五線紙に視線を落としている。
目は合っていないのに、なぜだか至近距離で見つめ合っている時以上に、嘘が吐けない空気を感じた。
「音楽を、好きな人には申し訳ない理由なんですけど……うち、親が仕事で全然家に居なかったんで。屋内でできる部活で、拘束時間や土日の活動が多くて、でも練習試合みたいな遠征がないところがいいなって思って……っていう、そんな不純な動機です」
言いながら、少し恥ずかしくなる。
しかし一夜さんは「不純」という言葉に反応して、パッと顔を上げた。
怪訝そうに細められた目と、視線がぶつかる。
「それ、不純じゃないじゃん」
「そうですか?」
「だって、家に自分ひとり残すことを親に心配させたくない気持ちは、純粋なものでしょ」
驚くあまり何も言えずにいる俺に、一夜さんはさらに続ける。
「私の中で不純に思うのは、モテたいとかハクを付けたいとか、音楽に得を求めること。下祗園くんのそれは、優しい良い子が、たまたま相棒に音楽を選んだだけ」
「……そうでしょうか」
今まで、吹奏楽部を選んだ理由も、寮のある高校を選んだ理由も、誰にも話したことはない。
浩二さんにだって、話していなかったのだ。一夜さんが知っているはずがない。
つまりこれは、彼女がその観察眼を使って、俺の思考を見抜いたということ。思考を正しく把握されるほど、きちんと「見て」もらえていたということ。
気付いた瞬間、顔が熱くなった。恥ずかしさなのか嬉しさなのかは、よく似ているから判断できない。
初日に交わした「とりあえず一週間」という約束は、双方の合意により延長となった。今度は無期限である。
ひと月経つころには、三曲ほど演奏できるようになっていた。片手に複数のマレットを持って和音を出すような演奏はまだまだできないが、メロディラインをスムーズに追えるようになっただけでも、充分嬉しい。
ある日、ひとりでスタジオに居ると、大きく膨らんだビニール袋を提げた大悟さんがやってきた。
「お疲れさまです」
「おう、お疲れ」
「何ですか? そのビニール袋」
「無性に鍋が食いたくてな」
大悟さんは、部屋の隅に置いてある棚から電磁調理器と鍋を取り出した。卓上用の商品だが、食事用のテーブルなどあるわけないので、床に直置きである。
ビニール袋の中を見ると、カット済みの野菜が無造作に詰め込まれていた。
ここに包丁とまな板がないから、自宅の台所でカットだけして、ざらざらと袋にまとめてきたのだろう。
「あれ。鍋つゆは?」
「確か買い置きがあったと思うんだが……ほら、あったあった。どれがいい?」
電磁調理器があった同じ棚から、ストレートタイプの鍋つゆのパウチが五つほど出てきた。まだ鍋の季節には遠いのに。
「刺激が強いから、キムチ鍋と、カレー鍋はやめておこうな」
そう言って、大悟さんがより分けたのは三つ。どれもシンプルな味付けで、スパイスなどの刺激物が入っていないものだ。
俺の胃の状態を気にしてくれているのだとわかる。しかし、こんな風に「あなたの体調に配慮してこういう風にしようと思います」という行動を目の前でとられた経験がほとんどないため、どんな顔をしていいのかわからなかった。
心臓の底を擽られたような、不思議な感覚がする。走って逃げ出したいような気持に駆られた。
そんな俺の感情に気付いているのかいないのか、大悟さんは、俺が指さしで選んだ塩鍋の露を鍋に開け、具材を大雑把に放り込みはじめる。
「野営でもしてるみたいで面白いだろ」
「思いっきりスタジオじゃないですか」
右を見ても、左を見ても、吸音素材の壁板か、鏡だけ。野営っぽい点があるとしたら、床に直置きされた電磁調理器が、焚火のように見えるだけだ。
思わずツッコミを入れると、大悟さんは突然室内の照明を落とした。
周囲が真っ暗になって、ほんのり熱を発している電磁調理器の光しか見えない。
「これなら野営だろ?」
そう聞こえるのと同時に、青白い光が見えた。
一瞬で室内いっぱいに広がったその光は、壁や天井に星空を描いている。大悟さんが仕掛けたのは、ホームプラネタリウムだった。
「うわ、すごい!」
思わずはしゃいだ俺の反応の良さに気をよくしたのか、大悟さんは鍋をつつきながら、色んな話をしてくれた。
このプラネタリウムがどの季節の星空を模しているのか。別の季節にはどんな星座を見ることができるのか。
中でも面白かったのは、星に関する民話の話だった。
「星座に限らず、民話とか、長く語り継がれてるものって面白れえんだよ。例えばこと座の神話。夫が死んだ妻を取り戻すため冥界に降りる話なんだが、日本にも似た話があるの知ってるか?」
「いえ、知らないです」
「日本神話は知っておいて損ないぜ。これも夫が妻を冥界へ迎えに行く。どっちも設定と結末は同じなのに、細かいところは違う。そもそもこの話は、国交なんてなかった古い時代にそれぞれの国で語られてるんだ」
「へえ、じゃあなんでそんなに似てる点があるんですか?」
「わからん」
どっしりしたまま太い声でそういうので、俺はなんだか可笑しくなってしまった。
笑っていると、大悟さんは「俺は学者じゃねえしな」と開き直る。
「同じように、幽霊の話も興味あるんだよなぁ。死んだ人間の姿が死後も見えるっていう事象はそれこそどこの国でも古くから語られている」
「あー、確かに、そうですね……?」
「半分透けてるとか、足がないとか、生きてる人間なら不可能なことをしたとか、そういうの。要素とか情報のダブりがなんで起こるのかを、いつか知りてぇなって思うんだよ」
大悟さんは、知識欲の塊だ。
様々な分野の知識を、広く、かつ深く、取り込みたがる。「雑学」と聞けばどんな本でもテレビでも飛びついて確かめる。
一度、研究者の道に行かなかった理由を訊いてみたことがある。その時の答えは
──何の研究をするか、ひとつに絞ることができなかった。
だった。非常に彼らしいと思う。
「そういうのをまとめてみた時に『ダブらなかった』情報にも、何か面白いことがあるんですか?」
ふと思いついた質問に、大悟さんは目を輝かせた。
「それはその国の『個性』だな。『らしさ』ともいう」
「『らしさ』……って、当時の人が『うちの国ではこういう風な話にしちゃお』って決めたものってことですか?」
「いや。これは俺の持論だが『らしさ』っていうのは、過去にしかないんだよ」
電磁調理器の出力を上げ、食材を追加しながら、大悟さんは続けた。
「よく、自分らしさは何だろうって探しはじめる大バカ者がいる。でも『らしさ』なんてのは本来、自然体からにじみ出た行動を見て、他人があとから感じ取るものだ。これぞ自分らしさだ、なんて決めつけりゃそれはもう強制だ。自分に対する脅迫だ」
「脅迫……?」
「外国人と話す時に『日本はおもてなしの国って思われてるし』とか『日本人は礼儀正しいって世界では有名だし』って考えて、過剰に丁寧に接した経験ないか?」
「あります」
「あれがそうだ。外から評価されたり、自分たちで考えたりした『らしさ』に、脅迫されてる。別に日本人のひとりやふたりが腹を立てながら話しかけたって、誰も『日本人らしさが損なわれている』なんて言わねぇのに」
具材に火が通ったか確認し、火力の調整をする大悟さんを眺めながら、俺はふと考える。
(俺が自己紹介に必須だって思わされてた『家族が空中分解した』って話も……俺の人生の要素ではあるけど『らしさ』や『個性』ではなかったのかもしれない)
会社に居た頃は、その話をしないといけないのだと思っていた。
そうしないと自分を覚えてもらえない、とも思っていたし、その話ができることが自分の価値のようにも思っていた。
あれも、大悟さんの言う「自分に対する脅迫」だったのかもしれない。
おそらく「どう思いますか」と質問したら、大悟さんは答えてくれる。
けれどこれは少し、自分ひとりで考えるべきだと、思った。
ドラム以外の打楽器全般を担当するメンバーとしてバンドに参加させてくれと願い出て暫く経ったころ、俺は再発した胃の症状のせいで寝込んだ。
何がストレスだったわけでもない。痛まないことを完治と勘違いして、調子に乗って重たい食事や飲酒を重ねた罰が当たったのだ。
眠ることもできずただ自宅で横になっていると、玄関ドアを叩く音に呼ばれた。向こう側から「おい、開けろ」「居るんだろ」という不穏な言葉を投げかけられる。
声で正体がわかっていた俺は、大急ぎでドアを開けた。
「譲さん。何やってるんですか。近所に誤解されるでしょ」
「だってそれ狙ってたし」
けろりとした顔で笑った譲さんは「早く入れてよ」と俺を部屋に押し戻した。手にはインスタントの梅粥を剥き身で持っている。
電子レンジで温めてもらった梅粥を有難く頂いている間、譲さんはソファに座って血液型占いの本を開いていた。
「ねえ、トムは、血液型何?」
メンバーになるにあたって、俺は皆から下の名前で呼ばれるようになっていた。まるで外国人のような名前だが、「夢に向かって登る人」という意味で「登夢」と書く。
「O型です」
「親は?」
「A型とB型です」
確かそうだったよな、と頭の中で確かめながら返すと、譲さんが本から顔を上げて「マジかよ!」と目を輝かせた。
「俺もなんだよ。珍しいって言われなかった? その組み合わせで生まれたO型って」
「ああ、言われましたね。生物の授業の時とか、特に」
「あるよねーそうだよねー。なくはない話だって先生も言ってるのに、貰い子疑惑とか掛けられてさー」
仲間を見つけた、と言って、譲さんは妙にはしゃいでいた。
彼はおそらく「嬉しい」とか「楽しい」を感じるハードルが、人より低い。
「じゃあさ、俺らもう兄弟だね!」
「はい?」
驚くあまり、咎めるような声を出してしまった。
構成要素が似ているだけで、体内にある血液の詳細は全く違うものなのに、と。
しかし譲さんは、あまり気にしていないようだった。
「いいのいいの、兄弟で。どうせ大人になったら自分が選んだ相手と結婚したり養子縁組したりして自分の意思で家族作るでしょ。俺バンドの中でずっと最年少だったし、弟欲しかったんだよね」
「はぁ……?」
ずっと一人っ子だったため、いきなり「兄弟」や「家族」という単語が登場してもピンと来ない。
戸惑っている間に、沈黙が三秒も五秒も続いてしまった。もう、話題を蒸し返せる気はしない。
「それで……ご用事はなんですか?」
何でもいいから新しい話題を出そうと思って訊いてみると、譲さんはさらりと「それだよ」と言い、俺の手にあるお椀を指さした。
まさか食事を運ぶためだけに来てくれたのか、と驚く俺に、譲さんは呆れた顔をする。
「問題です。サラリーマンのお父さん、主婦のお母さん、学校に通う子供が居る一般家庭です。ある日お父さんが病気で入院しました。家族はまず一番にどうなったでしょう」
唐突にはじまったクイズに「何だそれ」とは思った。しかし、答えは簡単だ。
「収入が無くなって困った」
「馬鹿か」
食い気味に言われてしまった。譲さんはきっと、俺が不正解の答えを選ぶことを見越していたのだろう。
「え。じゃあ、正解は何なんですか?」
「『心配した』が何よりも先でしょ。家族の具合が悪いんだから」
思いもよらない、しかし、道徳的に考えれば当たり前のはずだと判る回答に、俺は頭を殴られたような眩暈を覚えた。
これを一発で思いつかなかった自分が、まるで人の血が足りない何かのように思えて、恥ずかしい。
「トムさ、心配されるのも心配するのも不慣れなのは仕方ないけど、バンドに加わるってこういうことでもあるっていうの、ちゃんと知ってよね。俺たちは同僚じゃなくて家族だよ」
「はい……」
「今だって、スタジオで『誰かトムと一緒に住んだ方が良くないか』って、本気で話し合ってたからね。実行するかはトムの希望次第だけど、俺は今そうしたほうがいいかもって心から思った」
「はい……」
何を言われても「はい」としか返事ができなかった。
罪悪感の中に混じった、ほんのりと温かい「嬉しい」と思う感情が、体を震わせている。
譲さんは「不正解の罰として、新しいバンド名を本気で考えろ」という課題を俺に課し、そのまま一晩泊まって行った。
俺が考えた「カウント・アップ」というバンド名はそのまま採用された。全員の名前に漢数字が入っているのを見つけたからなのだが、終わりある「ダウン」ではなく「アップ」を使ったことが全員から高評価だった。
「良いの考えたじゃねぇか、トム」
「マジで? よかったー。叔父貴に褒められると嬉しい」
「アレ? でも待ってトム。コレ『三』が居ないんじゃない?」
「姉さん、そこは兄貴の『譲』の、部首のほうで見て」
バンド名を決めるのと同時に、俺にはもう一つ課題が与えられた。
それが「メンバーへの敬語をなくし、家族のように呼ぶこと」である。
呼び方から変えさせることで、俺の認識を少しずつ育てていこう、という作戦なのだそうだ。
ちなみに、大悟さんが「叔父貴」で、一夜さんが「姉さん」、譲さんが「兄貴」である。
「なるほどね。譲は三か。ちょっと無理あるけど、いっか」
みんなは「いつかインタビューを受けた時の鉄板ネタにしよう」と言って盛り上がる。
加入したばかりの俺にはどれぐらい売れたらインタビューされるものなのかがいまひとつ掴めないが、皆の中では「すぐ機会がある」と感じられるものらしい。
「よっし!」
気合を入れるように、浩二さんが大きな声を張る。
「今から半年間は、新曲のレコーディングとビデオ撮りに徹する。とにかく大勢の目に新体制が触れる機会をたくさん作って、いきなりワンマンライブが目標だ」
浩二さんの高らかな宣言に驚いたのは、俺だけだった。
結成直後のバンドがワンマンライブをするのはかなり無謀。それどころか不可能だ。バンドに加入するにあたって、それは調べたので知っている。
しかし、ここで衝撃の事実を知る。俺が知らなかっただけで、このバンドはテレビやイベントに何度か起用された経歴があった。ワンマンライブまであと一歩、というところまで昇っていたらしい。
浩二さんは続いて「バンドに専念するために仕事を辞めてきた」という衝撃発言をした。これは誰も予想していなかったらしい。
「というか、浩二さん……いや、兄ちゃんの、仕事って、何だったの?」
てっきり皆と同じようにフリーターだと思っていた。しかし、浩二さんはさらりと
「知らなかったのか、俺教師だったんだよ。中学校の」
と言った。
「ええっ! 教師?」
「だから伝手でシロフォンなんかもらえたんだよ」
再会した日の、あの取り調べのような圧を思い出す。
取り調べを受けた経験なんかないのに、どこか知っているような感覚があって、不思議だったのだ。
そうか。あれは「先生に怒られている時」の感覚だったのか。
今更ながら深く納得してしまった。
そのあと、居酒屋で行った決起会で、浩二さんは、ポロっとこぼすように教えてくれた。
「俺が中学の部活を引退してすぐの頃にさ、一時、部内でお前への風当たりが強いことがあっただろ」
「あり……ましたっけ?」
親の仕事が影響して、風当たりはどの学年でもよろしくなかった。
他人が見て「強い」と思ったその年はどうだったか、あまり詳しく覚えていない。
「本当なら、パーカは全員が同じ水準で演奏できるように、ドラムとティンパニー以外は学年構わず担当を回すんだよ。パート違いの俺でも知ってるのに、あの頃、お前が小物しか任されていないのを誰も止めなかったんだ」
「あー。だから俺、マレットの持ち方覚えてなかったのか」
これも今更ながらの納得である。しかし、もう過ぎたことだし、そう思える程今が楽しいから何ともない。
けれど浩二さんは、悪化を恐れて何もしなかったあの当時のことを、ずっと悔やんでいたと言った。
「教師になったのも、あの日歩道橋で会った日にお前がトムだってすぐわかったのも、ずっと引っ掛かってたからなんだ」
再会した日の「今の俺ならお前のこと助けられるかも」というのは、浩二さんの中で長く続いた「中学三年生の一時」の続きだったのだ。
やっと気づいた俺は、涙をぼろぼろ流しながら、頭を下げる。
「助けられました。ありがとうございます」
「まだこっからだ馬鹿野郎。あと、俺にもちゃんと敬語抜けよ」
「うん……俺、あの日兄ちゃんにちゃんと自分の状況を話した俺は、偉かったと思う」
「そうだな。偉かった。俺も、あの時トムにちゃんと話をさせた俺は、偉かったと思うよ」
電車に乗り込むと、狭く明るい空間の中で、お揃いの恰好をした俺たち五人は浮いて見えるような気がした。
以前の俺なら、恥ずかしがったかもしれない。移動してから楽屋で着替えることを提案したかも、と思う。
(今はもう、不思議とそんなこと思わないんだよなぁ)
むしろ「俺たちは家族なんだよ。見て」と言いたいような気分だ。そう思えるぐらいに変われたのだと、自分を誇らしく思う。
あれから俺は、休職から退職に切り替え、バンド活動に奔走した。
めまぐるしく音符と熱をなぞる日々に、精いっぱいだった。合間でネットの評判を見た時も、ミュージックビデオを見た人が俺のファンになったと公言してくれたことを知った時も。
ワンマンライブ開催が決定した時も、日々に必死で、実感がまるでなかった。
今もそうだ。夢みたいだ。でも、俺が夢見心地であることを顔に出すたび、誰かが「これは現実だよ」と手を引いてくれる。
窓に映る自分たちを見て、ついにやける。すると、一夜さんがくるりと振り返った。
「トム。私のブレスレットってどうしたんだっけ?」
この唐突さにも、すっかり慣れてしまった。
「だからそれは、リビングの机の上。姉さんが『今日は外していく』って自分で言ったでしょ」
「ムリだぞトム。ライブ前の一夜は頭の中楽譜だらけだから。何も覚えてねぇよ」
「叔父貴だってそうじゃん。昨日姉さんとふたりして時間すっぽかすから、俺一人で搬入にどんだけ時間掛かったか……」
「トム~すまんなこんな兄たちと姉で。諦めてくれ。代わりに明日の可燃ごみ出す係代わるから」
「ちょっともう。兄貴寄っかからないでよ。兄ちゃんも笑ってないでどうにかして」
「ははは」
つい先日「俺たちはファンのことをファミリアって呼んでるんだ」と浩二さんが教えてくれた。その場で調べさせられた意味は「打ち解けたさま」「普通であるさま」。
打ち解けたことが普通である、温かい関係を全てで結ぶべく。そんな願いを込めて。
俺の歴史としての家族は残念な構成要素ではあるかもしれないが、これから呼ぶ家族は全く違うものにしたい。そして一緒に奏でる音を、たくさんの人と共有して、賑やかに過ごす。
それを、当たり前にしたい。
ライブ会場の最寄り駅まであとひとつ。
これからはじまる時間がどんなものになるか、楽しみで仕方がない。
浩二さんと再会したのは、幸運にも、俺が不幸のどん底に居た時だった。
「なぁ。おい」
ある日の夕方。俺は真っ青な顔をした男性に声を掛けられた。
夕焼けの空の下でもはっきりわかるほどに青ざめていたので、俺は最初、助けを求められているのかと勘違いした。
「はい。どうかしました?」
「お前さ、下祗園だろ。俺のことわかるか? 中学で一緒だった大塚だ」
「大塚……? あ、はい。大塚先輩。わかります」
「そうか。よかった」
「え? 大塚先輩なんですか?」
「そうだよ。あのさ、下祗園。勇気を出して訊くんだが、お前は今そこで何をやっているんだ」
助けを求められたのではなく、助けようとしてくれているんだと気付くのに、時間が掛かった。
その時俺は、片道四車線ある太い道路の上で、歩道橋の手すりに手を掛け、下を覗き込んでいた。
ただ車の流れがスムーズな様子を目で追っていくのが心地よかっただけなのだが、顔色や表情が最悪だったせいで、誤解を生んだのだと思う。
何もする気はない、というアピールがしたくて、俺は両手を軽く上げた姿勢で、柵から距離を取った。
「あの。俺別に……」
「よし、いい子だこっち来い」
「いやだから飛び降りたりするつもりは……ッ」
「いいから来い!」
有無を言わさず腕を掴み、歩道橋から降ろされてしまった。それぐらい焦ってくれていたのだと、あとから気付いた。
強引に腕を引かれるまま、浩二さんに連れていかれた先は、居酒屋だった。
「で。お前はあそこで、何してたわけ」
狭いテーブルを挟んで向かい合った浩二さんは、まるで刑事のように俺を問い質そうとした。
「いや、だから……車眺めてただけですって」
「その瘦せこけた頬はなんだ? 腕もすげぇ細かったぞ。飯食ってんのか」
「ちょっと最近、胃が悪くて」
「病院は?」
「は、はい。一応。ちゃんと行ってます……」
俺は事実を丁寧に答えたが、浩二さんは、俺が何か言う度に眉間の皺を深くしていった。
その空気が耐えがたくて、俺はチラチラと目を泳がせていた気がする。
「ええと……遅くなりましたが、お久しぶりです」
「ああそうだな。久しぶり。俺が中学出て以来だから、十年ぶりか?」
「そうですね」
浩二さんとは中学生のころ、吹奏楽部で一緒だった。学年がふたつ違うし、三年生は八月上旬の大会で引退なので、一緒に活動できたのは半年にも満たない短い間だ。
「下祗園は、パーカだったよな」
パーカとは、パーカッションの略。打楽器パート全体を指すときに使う呼称だ。
楽器の種類が多い分、人数を必要とするパートで、俺は主に手のひらサイズの小物を担当していた。トライアングルとか、カスタネットとか。
「大塚先輩は、トランペットでしたよね」
花形楽器を格好よく演奏していた姿は、今でも覚えている。中学一年生だった俺の目に、颯爽とトランペットを構える浩二さんは「完成された大人のお兄さん」に見えていた。
「よく、俺のことがわかりましたね」
「顔があんまり変わってないからすぐにわかった。お前、この辺に住んでんの?」
まさかこっちで知り合いに会うとは思わなかった、と浩二さんは笑った。ここは俺たちが中学時代を過ごした地元から、かなり離れている。
「大学がこっちで、そのまま就職もこっちでしたんです」
「なるほど。俺も同じ感じだ」
浩二さんは「胃が悪い」と言った俺にメニュー表を見せ、食べられそうなものがあるかと訊ねてくれた。
揚げ物や焼き鳥といった美味しそうな料理が並ぶ中、雑炊を選ばせてもらう。
注文を取りに来た店員に、一人前より少なめに作って欲しい旨を伝えた俺を見て、浩二さんはまたも気遣わしげな顔をした。
「こういうこと聞くのも良くないかもしれんが……上手くいってんのか? 仕事とか、色々」
ギクリ、と全身が強張る。その反応が何よりもの返事になってしまった。
「実は……色々、上手くいかなくて」
当時、一番誰にも知られたくないと思っていたのが、自分の近況だった。それなのにポロポロ溢すように言葉が出たのは、浩二さんの真剣な心配顔が、俺に嘘を吐かせなかったからだと思う。
気付けば俺は、浩二さんが中学を卒業した時期のことから、順を追って全て話していた。
俺が高校受験に向けて準備をはじめたあたりから、両親がちょくちょく県外で仕事をするようになった。
自分の名前と感性をブランドにする親の仕事は、子どもながらに理解できていた。だから「寂しい」とも「嫌だ」とも思うことはなかった。
高校は寮のある学校に進学した。子どもが居なくなって、毎日同じ家に帰宅する必要がなくなった両親は、次第に、県外や海外といった、長期で他所に赴く仕事を増やしていった。
その進出は予想以上に本格的になり、高校二年生の冬休みからは、家に帰省してもひとりで過ごしてばかりだった。
その後、大学に入学して、アパートに移り住んだ途端、故郷の家は売却された。どうやら、寮生ゆえ長期休暇中に強制的に帰省させられる俺のためだけに、売りに出すのを待ってくれていたようだった。
そうして、三人で集まる場所をなくした俺たち家族は、滅多に顔を合わせることがなくなった。
四年間の大学生活のうち、一回か二回は、何らかの手続きなどのために呼び出したり呼び出されたりした記憶があるけれど、両親が夫婦そろって会いに来ることは、一度もなかった。
お互いに「ちょっと話したい」というような話題もないので、当然、メールも電話もメッセージアプリも疎遠になっていく。
そのうちネットニュースを見たほうがよほどしっかり近況を知れるのではと思えるほどに遠い間柄になり。
ついに今年の春。両親がアメリカで離婚し、夫婦それぞれ別々の国に旅立ったことを、俺は息子なのにテレビで知った。
そのニュースの直後、俺は大学を卒業し、社会人になった。仕事を覚えている最中の新卒社員に、先輩たちが振ることのできる話題は限られている。
出身地。趣味。特技。実家の親。きょうだい構成。とにかく、プライベートに関わるものばかりだ。
──君、ご両親は何の仕事してるの? 実家どこ?
──へえ、離婚したの。まあ、今日日珍しくないかー。
──そういえば、最近同じ名前の夫婦アーティストが離婚したよね。えっ、アレ両親?
──俺好きだったんだよねー。ねえ、なんで二人って離婚したの?
興味本位で、もしくは、有名人の近況や私事は全て白日の下に晒されて当然という究極の一般人思考で、皆が俺に訊いた。それどころか、取引先への紹介に、そういう話をネタとして積極的に混ぜた。
──この新人、あの二人の息子なんですけど、親から離婚の相談も報告も一切なかったんですって。
空気を壊せなくて「俺も皆さんと同じようにニュースで知ったんですよー。マジでウケますよね」と笑い続けた。
大抵の人は「マジで? やばいね」と大笑いしたが、時々、真剣に「それは大変だったでしょう」と気遣ってくれる人もいた。どちらの反応が楽だったとかではない。どちらにしろ、苦しかった。
そうしているうちに、心がキャパオーバーした。受け止めきれなかったショックと、周囲の無神経さに耐え切れず、気付けば、何も食べられない身体になっていた。
「そんなんで、今も会社行ってんのか」
全て聞いてくれたあと、浩二さんはまるで自分が辛い思いをしたかのような声で問いかけてくれた。
「いえ、療養のためという理由で休職中です」
「そうか。それでも通勤してるって言われたら、どうしようかと思った」
浩二さんはそう言って、しばらく黙った。料理が載ってさらに狭くなったテーブルの上で、頬杖をついて、真剣に俺の顔を見て。
じっと見つめられるのがいたたまれなくて、俺は雑炊をちびちび食べた。ゆっくり咀嚼して食べれば、三分の一ぐらいはいけそうだった。
「なぁ。下祗園」
少しして、浩二さんが口を開く。
この時聞いた一言を、俺は忘れないだろう。
「お前さえよければ、しばらく俺と一緒に遊ばねえか。今の俺なら、お前のこと助けられるかもしれん」
後日改めて呼び出された場所へ行くと、そこには浩二さんと、初対面の男女三人が待っていた。
「俺、今インディーズでバンドしてるんだ。こいつらはそのメンバー」
浩二さんが、一人ずつ紹介してくれる。
ドラムの古市大悟さん。
ベースの伴一夜さん。
バイオリンの高取譲さん。
初めて間近で見る「バンドをしている人」に、俺はかなりビビった。大悟さんは金色のカラコンを入れた坊主頭だし、一夜さんは耳のラインがピアスに隠れる程ピアスまみれだったし、譲さんは首ぐるりと一周、茨を巻き付けたタトゥーが入っていた。
サッと一目でそれを確認して、こっそり震える。
全員、インパクトが激しすぎだ。
「へえ、この子が浩チャンの後輩?」
真っ黒な長い髪を揺らす一夜さんの声は、見た目の激しいイメージに反して、アニメヒロインのような可愛い声だった。
「そ。俺の中学時代の後輩」
「浩二とはずいぶんイメージが逆だな。ひょろいし、真面目そうだし」
大悟さんからの評価に、譲さんが乗っかって笑う。
「チワワみたいだね、こいつ。俺より背高いけど」
失礼なことを言った二人には、浩二さんから制裁が下った。丸めたクリアファイルで、スパン、スパン、とふたりの頭を叩いた浩二さんは、俺に向き直り、代わりに「悪かった」と謝ってくれた。
「ここはな、俺たちが借りてるスタジオなんだ。月極のアパートみたいなもんだから、俺たち以外は誰も来ない」
ガスを使わなければ軽い煮炊きも黙認されているし、寝袋を持ち込んで泊まり込んでも問題ないらしい。廊下に出れば共用のトイレも流し台もあるそうだ。
大人が集まる自由な秘密基地のようで、少し興味が湧いた。
「先輩、俺ここで何したらいいんですか?」
「アレだ」
室内の一番奥。壁一面に貼られた鏡の前に、布を被った大きな物体がある。
近づいて布を剥ぐよう指示された。持ち上げた布は、暗幕のように重い。何となく懐かしさを感じる質感だった。
「これ……木琴? ですか?」
「シロフォンな。道具は一式あるから、好きに使って遊んでくれ」
なぜそんな楽器がここにあるのかというと、市外にある廃校予定の学校から、伝手でもらってきたらしい。
搬入されたのは昨夜だと言う。ほぼ間違いなく、俺のために用意してくれたのだろう。
「え。あの。もしかしてこの前言ってた『遊ばねぇか』って、俺にここに加入しろっていう……?」
驚くあまり楽器に触ることもできずにいると、一夜さんが「えっ」と声をあげた。
「浩チャン。そういう話一切せずに呼び出したの?」
他のメンバーも怪訝そうな顔をしている。
あとから知ったのだが、この時点では三人は、俺がメンバーに加入することを了承したからやってきたと思い込んでいたらしい。
浩二さんは説明不足を双方に詫びて、それから俺にマレットを一本手渡した。
「とりあえず、下祗園はここで遊んでいればいいよ。確かにこのバンドは、この前キーボードが抜けて、それ以来ライブもできないわ新曲も作れないわで実質活動休止状態だけど。それとお前の加入は、別の話だ」
「いや、でも。皆さんは本気で音楽をやってるんですよね? そんな人たちの隣で『遊ぶ』なんて失礼です。それに……それに俺、中学で吹奏楽辞めたので、楽器も楽譜も、もう何年も触ってません」
興味よりも不安が勝つ俺に、浩二さんは何度も繰り返し「それでいいんだ」と言った。
「音楽ってのは、本来遊びなんだ。なのに俺たちは『活動休止から脱却したい』とか『ファンを待たせたくない』とか、とにかく本気で燃えてて、本気過ぎて今、空回ってる。意図的に空気を緩ませる必要があるし、本来の遊びを身近で感じたい。そこに俺たちの曲をひとつも知らないお前は、打ってつけなんだ」
その意見に一番最初に同意したのは、大悟さんだった。
「悪くないかもしれん。ここ最近喧嘩ばっかり増えて、楽しさが少なかったしな」
「あ。大悟もやっぱそう思ってた?」
「ちょっとな。なぁ、お前らもそうだろう?」
振り返った大悟さんに、一夜さんも譲さんも頷く。
味方を得たかのような笑顔で、浩二さんは俺に再び迫った。
「とりあえず、一週間。一週間遊びに来てみてくれ」
その圧につい押し切られて、俺は頷いてしまった。
スタジオに行くこと自体には、三日で慣れた。
シロフォンは、叩いてみるといい音が鳴った。スタジオ近くの楽器店で購入した道具を使って手入れしたら、もっといい音になった。
高価な楽器を、好きな時に好きなように叩ける機会はそうそうない。せっかくなら何か一曲ぐらいきちんと演奏できるようになりたいと思うようになって、簡単そうな楽譜を探した。
メンバーに慣れるのには、楽器以上に時間が掛った。全員優しくて可愛い人なのだが、見た目に怖気づいて、それを発見するほどの会話をしなかったというのが大きい。
「下祗園くんさあ」
ある日、スマホで検索しながら楽譜の読み方を勉強していたら、一夜さんから声を掛けられた。
彼女は床に座って、散らばった五線紙とにらみ合っている。
「イヤホンを耳に差し込みたい時って、どんな時?」
「はい?」
「だから。街を歩いててそこら中が賑やかなのに、全然違う音楽を聴こうとして、イヤホンを取り出したくなる心理よ」
このバンドは、誰でも作詞作曲できるハイスペック集団だ。その中で、作った詞が最も多く採用されているのが、一夜さんだった。
今も作詞中で、ヒントが欲しいのだろう。
俺は、指定されたお題が成立するシチュエーションを一生懸命想像した。
「俺なら……自分の気分と周りのテンションが違う時とか、でしょうか」
「それ、どういう時?」
「例えば、嬉しくて楽しい気持ちのまま帰宅したいのに、同じ電車に乗ってる人が大声で愚痴を言ってた時とか」
他にも、周囲に複数の音がありすぎてシャットアウトしたくなった時や、大事な用事の前に自分を鼓舞したい時など。
思いつくだけのシチュエーションを大喜利のように答えると、一夜さんはどこかスッキリしたようで
「つまりイヤホンって、今自分が立っている世界を可能な限り自己完結に近づけるためのものなのか」
と言った。
彼女の中ではうまくまとめた一言のつもりらしいが、俺には即座に「そのとおり!」と同意できるほどの自信がなかった。
これは、感性や文学的な教養の違いなのだろうか。
「ありがとう。ついでに、もう一個訊きたいんだけど」
「な、なんでしょう」
「君、元々音楽が好きってわけじゃないっぽいよね。なんで吹奏楽部だったの?」
可愛らしい声で投げかけられた唐突な質問に、俺はびっくりした。
「……初めて言われましたけど。なんでわかったんですか?」
「ん、それくらいは見てればね。音楽好きすぎて死にそうって人たちに囲まれてるし、流石に」
一夜さんは、変わらず五線紙に視線を落としている。
目は合っていないのに、なぜだか至近距離で見つめ合っている時以上に、嘘が吐けない空気を感じた。
「音楽を、好きな人には申し訳ない理由なんですけど……うち、親が仕事で全然家に居なかったんで。屋内でできる部活で、拘束時間や土日の活動が多くて、でも練習試合みたいな遠征がないところがいいなって思って……っていう、そんな不純な動機です」
言いながら、少し恥ずかしくなる。
しかし一夜さんは「不純」という言葉に反応して、パッと顔を上げた。
怪訝そうに細められた目と、視線がぶつかる。
「それ、不純じゃないじゃん」
「そうですか?」
「だって、家に自分ひとり残すことを親に心配させたくない気持ちは、純粋なものでしょ」
驚くあまり何も言えずにいる俺に、一夜さんはさらに続ける。
「私の中で不純に思うのは、モテたいとかハクを付けたいとか、音楽に得を求めること。下祗園くんのそれは、優しい良い子が、たまたま相棒に音楽を選んだだけ」
「……そうでしょうか」
今まで、吹奏楽部を選んだ理由も、寮のある高校を選んだ理由も、誰にも話したことはない。
浩二さんにだって、話していなかったのだ。一夜さんが知っているはずがない。
つまりこれは、彼女がその観察眼を使って、俺の思考を見抜いたということ。思考を正しく把握されるほど、きちんと「見て」もらえていたということ。
気付いた瞬間、顔が熱くなった。恥ずかしさなのか嬉しさなのかは、よく似ているから判断できない。
初日に交わした「とりあえず一週間」という約束は、双方の合意により延長となった。今度は無期限である。
ひと月経つころには、三曲ほど演奏できるようになっていた。片手に複数のマレットを持って和音を出すような演奏はまだまだできないが、メロディラインをスムーズに追えるようになっただけでも、充分嬉しい。
ある日、ひとりでスタジオに居ると、大きく膨らんだビニール袋を提げた大悟さんがやってきた。
「お疲れさまです」
「おう、お疲れ」
「何ですか? そのビニール袋」
「無性に鍋が食いたくてな」
大悟さんは、部屋の隅に置いてある棚から電磁調理器と鍋を取り出した。卓上用の商品だが、食事用のテーブルなどあるわけないので、床に直置きである。
ビニール袋の中を見ると、カット済みの野菜が無造作に詰め込まれていた。
ここに包丁とまな板がないから、自宅の台所でカットだけして、ざらざらと袋にまとめてきたのだろう。
「あれ。鍋つゆは?」
「確か買い置きがあったと思うんだが……ほら、あったあった。どれがいい?」
電磁調理器があった同じ棚から、ストレートタイプの鍋つゆのパウチが五つほど出てきた。まだ鍋の季節には遠いのに。
「刺激が強いから、キムチ鍋と、カレー鍋はやめておこうな」
そう言って、大悟さんがより分けたのは三つ。どれもシンプルな味付けで、スパイスなどの刺激物が入っていないものだ。
俺の胃の状態を気にしてくれているのだとわかる。しかし、こんな風に「あなたの体調に配慮してこういう風にしようと思います」という行動を目の前でとられた経験がほとんどないため、どんな顔をしていいのかわからなかった。
心臓の底を擽られたような、不思議な感覚がする。走って逃げ出したいような気持に駆られた。
そんな俺の感情に気付いているのかいないのか、大悟さんは、俺が指さしで選んだ塩鍋の露を鍋に開け、具材を大雑把に放り込みはじめる。
「野営でもしてるみたいで面白いだろ」
「思いっきりスタジオじゃないですか」
右を見ても、左を見ても、吸音素材の壁板か、鏡だけ。野営っぽい点があるとしたら、床に直置きされた電磁調理器が、焚火のように見えるだけだ。
思わずツッコミを入れると、大悟さんは突然室内の照明を落とした。
周囲が真っ暗になって、ほんのり熱を発している電磁調理器の光しか見えない。
「これなら野営だろ?」
そう聞こえるのと同時に、青白い光が見えた。
一瞬で室内いっぱいに広がったその光は、壁や天井に星空を描いている。大悟さんが仕掛けたのは、ホームプラネタリウムだった。
「うわ、すごい!」
思わずはしゃいだ俺の反応の良さに気をよくしたのか、大悟さんは鍋をつつきながら、色んな話をしてくれた。
このプラネタリウムがどの季節の星空を模しているのか。別の季節にはどんな星座を見ることができるのか。
中でも面白かったのは、星に関する民話の話だった。
「星座に限らず、民話とか、長く語り継がれてるものって面白れえんだよ。例えばこと座の神話。夫が死んだ妻を取り戻すため冥界に降りる話なんだが、日本にも似た話があるの知ってるか?」
「いえ、知らないです」
「日本神話は知っておいて損ないぜ。これも夫が妻を冥界へ迎えに行く。どっちも設定と結末は同じなのに、細かいところは違う。そもそもこの話は、国交なんてなかった古い時代にそれぞれの国で語られてるんだ」
「へえ、じゃあなんでそんなに似てる点があるんですか?」
「わからん」
どっしりしたまま太い声でそういうので、俺はなんだか可笑しくなってしまった。
笑っていると、大悟さんは「俺は学者じゃねえしな」と開き直る。
「同じように、幽霊の話も興味あるんだよなぁ。死んだ人間の姿が死後も見えるっていう事象はそれこそどこの国でも古くから語られている」
「あー、確かに、そうですね……?」
「半分透けてるとか、足がないとか、生きてる人間なら不可能なことをしたとか、そういうの。要素とか情報のダブりがなんで起こるのかを、いつか知りてぇなって思うんだよ」
大悟さんは、知識欲の塊だ。
様々な分野の知識を、広く、かつ深く、取り込みたがる。「雑学」と聞けばどんな本でもテレビでも飛びついて確かめる。
一度、研究者の道に行かなかった理由を訊いてみたことがある。その時の答えは
──何の研究をするか、ひとつに絞ることができなかった。
だった。非常に彼らしいと思う。
「そういうのをまとめてみた時に『ダブらなかった』情報にも、何か面白いことがあるんですか?」
ふと思いついた質問に、大悟さんは目を輝かせた。
「それはその国の『個性』だな。『らしさ』ともいう」
「『らしさ』……って、当時の人が『うちの国ではこういう風な話にしちゃお』って決めたものってことですか?」
「いや。これは俺の持論だが『らしさ』っていうのは、過去にしかないんだよ」
電磁調理器の出力を上げ、食材を追加しながら、大悟さんは続けた。
「よく、自分らしさは何だろうって探しはじめる大バカ者がいる。でも『らしさ』なんてのは本来、自然体からにじみ出た行動を見て、他人があとから感じ取るものだ。これぞ自分らしさだ、なんて決めつけりゃそれはもう強制だ。自分に対する脅迫だ」
「脅迫……?」
「外国人と話す時に『日本はおもてなしの国って思われてるし』とか『日本人は礼儀正しいって世界では有名だし』って考えて、過剰に丁寧に接した経験ないか?」
「あります」
「あれがそうだ。外から評価されたり、自分たちで考えたりした『らしさ』に、脅迫されてる。別に日本人のひとりやふたりが腹を立てながら話しかけたって、誰も『日本人らしさが損なわれている』なんて言わねぇのに」
具材に火が通ったか確認し、火力の調整をする大悟さんを眺めながら、俺はふと考える。
(俺が自己紹介に必須だって思わされてた『家族が空中分解した』って話も……俺の人生の要素ではあるけど『らしさ』や『個性』ではなかったのかもしれない)
会社に居た頃は、その話をしないといけないのだと思っていた。
そうしないと自分を覚えてもらえない、とも思っていたし、その話ができることが自分の価値のようにも思っていた。
あれも、大悟さんの言う「自分に対する脅迫」だったのかもしれない。
おそらく「どう思いますか」と質問したら、大悟さんは答えてくれる。
けれどこれは少し、自分ひとりで考えるべきだと、思った。
ドラム以外の打楽器全般を担当するメンバーとしてバンドに参加させてくれと願い出て暫く経ったころ、俺は再発した胃の症状のせいで寝込んだ。
何がストレスだったわけでもない。痛まないことを完治と勘違いして、調子に乗って重たい食事や飲酒を重ねた罰が当たったのだ。
眠ることもできずただ自宅で横になっていると、玄関ドアを叩く音に呼ばれた。向こう側から「おい、開けろ」「居るんだろ」という不穏な言葉を投げかけられる。
声で正体がわかっていた俺は、大急ぎでドアを開けた。
「譲さん。何やってるんですか。近所に誤解されるでしょ」
「だってそれ狙ってたし」
けろりとした顔で笑った譲さんは「早く入れてよ」と俺を部屋に押し戻した。手にはインスタントの梅粥を剥き身で持っている。
電子レンジで温めてもらった梅粥を有難く頂いている間、譲さんはソファに座って血液型占いの本を開いていた。
「ねえ、トムは、血液型何?」
メンバーになるにあたって、俺は皆から下の名前で呼ばれるようになっていた。まるで外国人のような名前だが、「夢に向かって登る人」という意味で「登夢」と書く。
「O型です」
「親は?」
「A型とB型です」
確かそうだったよな、と頭の中で確かめながら返すと、譲さんが本から顔を上げて「マジかよ!」と目を輝かせた。
「俺もなんだよ。珍しいって言われなかった? その組み合わせで生まれたO型って」
「ああ、言われましたね。生物の授業の時とか、特に」
「あるよねーそうだよねー。なくはない話だって先生も言ってるのに、貰い子疑惑とか掛けられてさー」
仲間を見つけた、と言って、譲さんは妙にはしゃいでいた。
彼はおそらく「嬉しい」とか「楽しい」を感じるハードルが、人より低い。
「じゃあさ、俺らもう兄弟だね!」
「はい?」
驚くあまり、咎めるような声を出してしまった。
構成要素が似ているだけで、体内にある血液の詳細は全く違うものなのに、と。
しかし譲さんは、あまり気にしていないようだった。
「いいのいいの、兄弟で。どうせ大人になったら自分が選んだ相手と結婚したり養子縁組したりして自分の意思で家族作るでしょ。俺バンドの中でずっと最年少だったし、弟欲しかったんだよね」
「はぁ……?」
ずっと一人っ子だったため、いきなり「兄弟」や「家族」という単語が登場してもピンと来ない。
戸惑っている間に、沈黙が三秒も五秒も続いてしまった。もう、話題を蒸し返せる気はしない。
「それで……ご用事はなんですか?」
何でもいいから新しい話題を出そうと思って訊いてみると、譲さんはさらりと「それだよ」と言い、俺の手にあるお椀を指さした。
まさか食事を運ぶためだけに来てくれたのか、と驚く俺に、譲さんは呆れた顔をする。
「問題です。サラリーマンのお父さん、主婦のお母さん、学校に通う子供が居る一般家庭です。ある日お父さんが病気で入院しました。家族はまず一番にどうなったでしょう」
唐突にはじまったクイズに「何だそれ」とは思った。しかし、答えは簡単だ。
「収入が無くなって困った」
「馬鹿か」
食い気味に言われてしまった。譲さんはきっと、俺が不正解の答えを選ぶことを見越していたのだろう。
「え。じゃあ、正解は何なんですか?」
「『心配した』が何よりも先でしょ。家族の具合が悪いんだから」
思いもよらない、しかし、道徳的に考えれば当たり前のはずだと判る回答に、俺は頭を殴られたような眩暈を覚えた。
これを一発で思いつかなかった自分が、まるで人の血が足りない何かのように思えて、恥ずかしい。
「トムさ、心配されるのも心配するのも不慣れなのは仕方ないけど、バンドに加わるってこういうことでもあるっていうの、ちゃんと知ってよね。俺たちは同僚じゃなくて家族だよ」
「はい……」
「今だって、スタジオで『誰かトムと一緒に住んだ方が良くないか』って、本気で話し合ってたからね。実行するかはトムの希望次第だけど、俺は今そうしたほうがいいかもって心から思った」
「はい……」
何を言われても「はい」としか返事ができなかった。
罪悪感の中に混じった、ほんのりと温かい「嬉しい」と思う感情が、体を震わせている。
譲さんは「不正解の罰として、新しいバンド名を本気で考えろ」という課題を俺に課し、そのまま一晩泊まって行った。
俺が考えた「カウント・アップ」というバンド名はそのまま採用された。全員の名前に漢数字が入っているのを見つけたからなのだが、終わりある「ダウン」ではなく「アップ」を使ったことが全員から高評価だった。
「良いの考えたじゃねぇか、トム」
「マジで? よかったー。叔父貴に褒められると嬉しい」
「アレ? でも待ってトム。コレ『三』が居ないんじゃない?」
「姉さん、そこは兄貴の『譲』の、部首のほうで見て」
バンド名を決めるのと同時に、俺にはもう一つ課題が与えられた。
それが「メンバーへの敬語をなくし、家族のように呼ぶこと」である。
呼び方から変えさせることで、俺の認識を少しずつ育てていこう、という作戦なのだそうだ。
ちなみに、大悟さんが「叔父貴」で、一夜さんが「姉さん」、譲さんが「兄貴」である。
「なるほどね。譲は三か。ちょっと無理あるけど、いっか」
みんなは「いつかインタビューを受けた時の鉄板ネタにしよう」と言って盛り上がる。
加入したばかりの俺にはどれぐらい売れたらインタビューされるものなのかがいまひとつ掴めないが、皆の中では「すぐ機会がある」と感じられるものらしい。
「よっし!」
気合を入れるように、浩二さんが大きな声を張る。
「今から半年間は、新曲のレコーディングとビデオ撮りに徹する。とにかく大勢の目に新体制が触れる機会をたくさん作って、いきなりワンマンライブが目標だ」
浩二さんの高らかな宣言に驚いたのは、俺だけだった。
結成直後のバンドがワンマンライブをするのはかなり無謀。それどころか不可能だ。バンドに加入するにあたって、それは調べたので知っている。
しかし、ここで衝撃の事実を知る。俺が知らなかっただけで、このバンドはテレビやイベントに何度か起用された経歴があった。ワンマンライブまであと一歩、というところまで昇っていたらしい。
浩二さんは続いて「バンドに専念するために仕事を辞めてきた」という衝撃発言をした。これは誰も予想していなかったらしい。
「というか、浩二さん……いや、兄ちゃんの、仕事って、何だったの?」
てっきり皆と同じようにフリーターだと思っていた。しかし、浩二さんはさらりと
「知らなかったのか、俺教師だったんだよ。中学校の」
と言った。
「ええっ! 教師?」
「だから伝手でシロフォンなんかもらえたんだよ」
再会した日の、あの取り調べのような圧を思い出す。
取り調べを受けた経験なんかないのに、どこか知っているような感覚があって、不思議だったのだ。
そうか。あれは「先生に怒られている時」の感覚だったのか。
今更ながら深く納得してしまった。
そのあと、居酒屋で行った決起会で、浩二さんは、ポロっとこぼすように教えてくれた。
「俺が中学の部活を引退してすぐの頃にさ、一時、部内でお前への風当たりが強いことがあっただろ」
「あり……ましたっけ?」
親の仕事が影響して、風当たりはどの学年でもよろしくなかった。
他人が見て「強い」と思ったその年はどうだったか、あまり詳しく覚えていない。
「本当なら、パーカは全員が同じ水準で演奏できるように、ドラムとティンパニー以外は学年構わず担当を回すんだよ。パート違いの俺でも知ってるのに、あの頃、お前が小物しか任されていないのを誰も止めなかったんだ」
「あー。だから俺、マレットの持ち方覚えてなかったのか」
これも今更ながらの納得である。しかし、もう過ぎたことだし、そう思える程今が楽しいから何ともない。
けれど浩二さんは、悪化を恐れて何もしなかったあの当時のことを、ずっと悔やんでいたと言った。
「教師になったのも、あの日歩道橋で会った日にお前がトムだってすぐわかったのも、ずっと引っ掛かってたからなんだ」
再会した日の「今の俺ならお前のこと助けられるかも」というのは、浩二さんの中で長く続いた「中学三年生の一時」の続きだったのだ。
やっと気づいた俺は、涙をぼろぼろ流しながら、頭を下げる。
「助けられました。ありがとうございます」
「まだこっからだ馬鹿野郎。あと、俺にもちゃんと敬語抜けよ」
「うん……俺、あの日兄ちゃんにちゃんと自分の状況を話した俺は、偉かったと思う」
「そうだな。偉かった。俺も、あの時トムにちゃんと話をさせた俺は、偉かったと思うよ」
電車に乗り込むと、狭く明るい空間の中で、お揃いの恰好をした俺たち五人は浮いて見えるような気がした。
以前の俺なら、恥ずかしがったかもしれない。移動してから楽屋で着替えることを提案したかも、と思う。
(今はもう、不思議とそんなこと思わないんだよなぁ)
むしろ「俺たちは家族なんだよ。見て」と言いたいような気分だ。そう思えるぐらいに変われたのだと、自分を誇らしく思う。
あれから俺は、休職から退職に切り替え、バンド活動に奔走した。
めまぐるしく音符と熱をなぞる日々に、精いっぱいだった。合間でネットの評判を見た時も、ミュージックビデオを見た人が俺のファンになったと公言してくれたことを知った時も。
ワンマンライブ開催が決定した時も、日々に必死で、実感がまるでなかった。
今もそうだ。夢みたいだ。でも、俺が夢見心地であることを顔に出すたび、誰かが「これは現実だよ」と手を引いてくれる。
窓に映る自分たちを見て、ついにやける。すると、一夜さんがくるりと振り返った。
「トム。私のブレスレットってどうしたんだっけ?」
この唐突さにも、すっかり慣れてしまった。
「だからそれは、リビングの机の上。姉さんが『今日は外していく』って自分で言ったでしょ」
「ムリだぞトム。ライブ前の一夜は頭の中楽譜だらけだから。何も覚えてねぇよ」
「叔父貴だってそうじゃん。昨日姉さんとふたりして時間すっぽかすから、俺一人で搬入にどんだけ時間掛かったか……」
「トム~すまんなこんな兄たちと姉で。諦めてくれ。代わりに明日の可燃ごみ出す係代わるから」
「ちょっともう。兄貴寄っかからないでよ。兄ちゃんも笑ってないでどうにかして」
「ははは」
つい先日「俺たちはファンのことをファミリアって呼んでるんだ」と浩二さんが教えてくれた。その場で調べさせられた意味は「打ち解けたさま」「普通であるさま」。
打ち解けたことが普通である、温かい関係を全てで結ぶべく。そんな願いを込めて。
俺の歴史としての家族は残念な構成要素ではあるかもしれないが、これから呼ぶ家族は全く違うものにしたい。そして一緒に奏でる音を、たくさんの人と共有して、賑やかに過ごす。
それを、当たり前にしたい。
ライブ会場の最寄り駅まであとひとつ。
これからはじまる時間がどんなものになるか、楽しみで仕方がない。

