初めて家出をした翌朝。
 藤田に連れられて、伊頼は母屋の鷹彦の元へ行った。
 一晩経って冷静さを取り戻した伊頼は、家主である鷹彦に挨拶もしないまま泊まってしまったことを思い出し、青ざめた。しかし鷹彦はそれについてはなんとも思っていないようで
「おはよう安原くん! あの部屋で眠れた? 朝ごはんどれぐらい食べる? 目玉焼きあるけど醤油とウスターとお好みソースどれかける?」
 と、顔を合わせた途端質問攻めにされた。申し訳なさも眠気も吹き飛んでいく勢いだった。
「えっと、あの、おはようございます。眠れました。あと、ごはんはそんなに多くなくてよくて、目玉焼きは、お好みソースで……」
「安原、順番どおりにまじめに答えなくていいよ」
 しどろもどろになる伊頼の背後で、藤田が呆れ気味に言う。いつも食事は母屋でとっているようで、彼は慣れた様子で朝食の支度に加わっていた。
「あの……すみません。勝手に来て、いきなり泊ったのに、朝ごはんまで」
 藤田が茶碗や食器を運んでいったあと、伊頼は鷹彦に頭を下げた。
 すると鷹彦は
「いーの、いーの。気にしないで。僕も嬉しかったから」
 と言った。どう考えても不良な行いをした気がするのに、嬉しかったと言われる意味がわからない。
 首を傾げた伊頼を見て、鷹彦は声のトーンを落とし、内緒話をするように口元に手を当てた。
「昨日お茶を取りに来た時、史月がえらく慌ててたんだよ。『友達が泣きながら泊めてって言ってきたんだけどどうしたらいい?』って。あんなに青ざめて狼狽えてる姿見たのは初めてだったなぁ」
「え。狼狽えてたんですか、あいつ」
「そりゃあもう」
 こみ上げてくる可笑しさを堪えようとしているようだが、その笑みに色濃く浮かんでいたのは、藤田を見守る優しい保護者の表情だった。
「いつも何でもひとりで決めて、ひとりでできちゃう子だからさ。年齢なりの青春を過ごす相手ができたのが、僕としては嬉しいんだよ。だから、またいつでもおいで」
 その「いつでもおいで」は、藤田のために言っているようにも、伊頼のために言っているようにも聞こえた。昨夜藤田とそんな話をしたということは、伊頼に何があったのか、いくらか察しているのだろう。
 有難いのと同時に、嬉しさも、照れもある。胸の中がむず痒くなった伊頼は、お礼だけ言って、鷹彦から麦茶の入ったボトルを預かった。
 先程藤田が向かっていった先がきっと食卓なのだと思い、あとを追いかける。
 思ったとおり、すぐとなりの部屋にダイニングセットがあり、藤田が箸を並べていた。
「お、お茶のボトル、どこに置いたらいい?」
「あー……こっち」
「わかった」
 目を合わせない藤田に、伊頼は「さっきの鷹彦さんの話が聞こえていたんだな」と気付く。
 何もなかったように振舞う藤田の、眼鏡のフレームに隠れた目元がほんの少し赤い。
 本当はこっそり「ありがとう」ぐらい言いたい気持ちだったが、また今度にすることにした。


 その週の、土曜の午後。
 休日にも関わらず、伊頼は制服姿で街に出ていた。いつもは降りない主要駅の、駅ビルの中にいる。
「安原まで制服でいる必要ってないんじゃないの?」
 隣を歩く藤田からの指摘に、伊頼は唇を尖らせた。
「だって、俺だけ私服ってなんか恥ずかしいじゃん」
「あぁ、星督も今日土曜授業なんだっけ?」
「授業っていうか、希望者を募った補講らしいよ」
 本日珍しい外出をしているのは、志井と藤田と、三人で会うことになったからである。
 どんな話をするのかは全く決まっていない。ただ、特待生の秘密が広まることを避けるために「藤田が県内一位だったことは誰にも言わないように」とだけ志井に伝えてある。
「そういえば安原、あれから、家大丈夫?」
 志井と合流する前に訊いておきたかったのか、藤田が気遣うように訊ねてくる。あの夜家出した原因のことを言っているのだと、伊頼にはすぐにわかった。
 あの後も、どうして家出することになったのかは、藤田には明かしていない。それでも、家族が関係していることは薄々気付かれているようだった。
 だから伊頼も、そこについてはもう隠していない。
「あぁ、うん……まぁ、大丈夫かな」
 嘘ではない、と思う。
 家出の翌日、伊頼はなるべく言葉を尽くして母に自分の気持ちを伝えた。
 伊頼が危険な目に遭ったり、嫌な思いをしたりすることがないよう、保護しようとしてくれているのは有難いと思っていることも。
 だからといって、何もかもを敵対視するあまりに伊頼の友達を悪く言うのは、伊頼が傷付くからやめて欲しいとも。
 あれ以来母は、少なくとも伊頼の交友関係については、言動を慎重にしようとしてくれている。時折何か言いたげに口元が歪むのは見えているが、ぐっと堪えてくれていることがわかるから、伊頼も何も言わない。
「今までの、全部が間違いだったとは、思ってないからさ。それが伝わっていれば、大丈夫じゃないかなって、思うんだ」
 そう言うと、藤田は「そっか」と柔らかく返してくれた。
 ふと腕時計を見る。もう待ち合わせの時間までいくらもなかった。伊頼と藤田は壁に掛けられた案内図を確認し、エスカレーターを使ってビルの上階へと向かう。
 約束したカフェの前に、志井が立っているのが見えた。
「志井、ごめん。待たせた?」
「ううん。さっき来たばかりだから大丈夫だよ」
 爽やかに笑う志井との挨拶をそこそこに、三人は店内に入る。
 先にカウンターで注文を済ませるタイプの店だったので、それぞれにラテや紅茶を購入してから再度合流する。空席を探して歩き、見つけたのは四人掛けの小さな円卓だった。
 伊頼は心の中で少しだけホッとした。よくある四角い四人掛けだった場合、藤田と志井どちらの隣に座ればいいのか、少し迷っていたからだ。
「えっと……じゃあ、改めて……こっちが志井ね。で、こっちが藤田」
 それぞれを手で指して紹介すると、藤田と志井は互いに小さく会釈をした。
「どうも。会えて嬉しい」
 先にそう言ったのは志井だった。それに対して安原も
「僕も。安原の戦友に会えて嬉しいよ」
 と返した。
 それから、ふたりは伊頼のことをそっちのけにする勢いで勉強の話をしていた。主に、中学時代の勉強方法や、今お互いが授業でどんなことを習っているのかについて。
 質問するのはもっぱら志井で、藤田はそれに答える形で会話を進めていた。長い間気になり続けていた見えないライバルとようやく対峙できたことが嬉しいのか、志井はとても溌溂としている。
 あまりに嬉しそうにしているのがわかったから、伊頼は口を挟まず、のんびりラテを飲みながらふたりの会話を見守っていた。内容はさっぱりわからなかったが。
「ふぅ。なんか、スッとしたなぁ」
 どれぐらい時間が経ったかわからなくなってきたころ、志井はそう言って、ようやく会話を途切れさせた。
 そして、くるりと伊頼のほうを向く。
「安原くん。藤田くんって、良い人だね」
「うん」
「だから……ごめんね、安原くん。僕、実はひとつ、安原くんに懺悔したいことがある」
「懺悔……って、なに?」
 戦友の口から出てきたただならない一言に、思わず身構えてしまう。
 志井は、今日伊頼にそれを伝えることを予め決めていたのだろう。少しも言い淀むことなく、伊頼を真っすぐ見つめたまま、静かに続けた。
「僕、安原くんが藤田くんと仲良くなるよう、それとなく仕向けてたんだ」
「え……っ」
 頭の上から、雷が落ちてきたような衝撃だった。
「最初に安原くんから藤田くんの話を聞いた時、この人が『ミステリアス文学王子』であろうとなかろうと、安原くんともっと仲良くなってもらおうって思ったんだよ。もし藤田くんが該当者じゃなかった場合は、次に見つかった候補の人とも、仲良くなってもらうつもりだった」
「なんで?」
「仲良くなれば真偽が確かめやすくなるっていうのもあるけど……一番は、僕のため」
 志井の意図がさっぱり見えず、伊頼は目を白黒させたままだった。
 助けを求めて藤田の顔を見るが、彼は優雅に紅茶を飲んでいるだけ。
「安原くんは、僕に姉がいるの、知ってるよね」
「うん。会ったことはないけど」
「七つも年上だからね。僕の姉、すごく頭がよくて。何でも一位だったんだ。ずっと」
 何でもできる優秀な姉に続くよう期待されて育ってきた志井にとって「一位」は「取れなくてはいけないもの」だったらしい。
 それなのに、自分はどう頑張っても「二位」どまり。姉が特に必要としていなかった塾通いや長時間の自宅学習をこれでもかと頑張っても「一位」には手が届かなかった。
 それによる劣等感は、以前伊頼に語ったような「見えないライバルみたいで」なんて可愛らしい感情ではなかったと、志井は語った。
「高校受験の少し前だったかな。あまりに悔しくて、一瞬だけ『あの一位の人が、転校か何かで物理的に消えてくれたらいいのに』って思った。怖くなったよ。自分が一位を取りたいからって、そこまで人を憎く思えてしまう自分が」
 伊頼は、相槌も打てずに話を聞いていた。
 高校受験の少し前ということは、伊頼との委員会活動も修学旅行もとっくに終わり、すっかり仲良くなったあとのことだ。教室で明るく朗らかに笑い、人に囲まれていたあの志井が、そんな黒い感情に震えていただなんて、知らなかった。
「そこから、なにがどうなったら、俺と仲良くさせる話になるわけ……?」
 喉の奥から捻りだすようにして訊ねる。
 志井は「変な発想かもしれないけど」と首を傾げた。
「仲良くなりたかったんだよね。その一位の人と。成績以外の面を知って『いいヤツじゃん』って思えたら、一瞬でも憎く思った過去が消えると思った」
「だから、なんでそこに俺が挟まるの?」
 なおもわからないと主張する伊頼に、志井は特徴的な猫目をきゅっと細めた。
「だって、大事な戦友が好きになった友達なら、僕も絶対大事に思えるから」
「え。は……?」
 思いもよらなかった返答に、伊頼はつい絶句してしまった。
 別に、不快感があったわけではない。利用されたんだと腹が立っているわけでもない。そもそも伊頼の中では、こんなのは利用されたうちに入らない。
 どちらでもない、上手く言語化できない感情が、伊頼の思考に急ブレーキをかけていた。
「安原。いま、びっくりしてるんでしょ」
 困惑が表情に出ていた伊頼を見かねたのか、ずっと静かに聞いていただけの藤田が、唐突に口を開いた。
「え、藤田、何て?」
「びっくりしてるんでしょ。そんな大事な話の選択基準が自分だったことに。それを内緒で委ねられるぐらい、志井くんから信頼されてたことに」
 藤田の説明は、混乱していた伊頼の胸にストンと落ちてきた。そうそう、それだよ、と、こくこく頷く。
 志井はそのやりとりを見て、感心した様子で目を瞬いた。
「すごいね、今の無言の数秒でそこまで安原くんのこと言い当てられるなんて」
「うん。まぁね、日頃見てるから。この素直さの塊を」
 単に藤田の言語化能力が高いだけだと思うのだが、それを口にすると自身の言語化能力がないことを宣言してしまうようで、なかなか言えない。
「ていうか、志井。それ今じゃなくて後で言えばいいのに。藤田が反応しづらいじゃん」
「んー、いや、初対面ゆえに暴露しやすいかなって。それに、僕が仕向けたことの有無に関係なく、ふたりは仲良くなったなって思うから」
 志井は「そうでしょ?」と藤田に視線を向ける。藤田は紅茶の入ったカップを口元に運びながら頷いた。
「うん。安原はたぶん、わりとずっと本能で動いてたよ。志井くんの言動に影響されて動いたのって、最初に僕を探そうとしたことぐらいじゃない?」
「あ、やっぱり?」
「それに、僕は僕の意志で安原と仲良くなったしね。だから、志井くんは『仕向けた』んじゃなくて、ただきっかけをくれただけだよ」
 今度は志井が目を丸くする番だった。
 驚いた様子で息を詰まらせた彼は、その空気を一気に吐き出すように、ため息交じりに笑う。
「びっくりした。藤田くんって、本当に優しいんだね」
「別に、普通でしょ」
「いや、藤田の性善説は度が過ぎる」
 思わずツッコミを入れてしまった。伊頼も、その性善説に救われた身ではあるけれど。
「けど、志井が『きっかけをくれた』っていう点には、俺も同意する」
「……ありがとう、安原くん」
「それで、志井くんは、僕と仲良くなれそう?」
 さらりと、藤田が問いかける。
 その問い方だけで、藤田のほうからは、志井と仲良くなれると宣言しているのがわかった。
 伊頼は、ゆっくりと視線を藤田から志井へ滑らせる。
 志井は嬉しそうな顔をしていた。
「うん。仲良くなれそうだし、仲良くなりたい」
「そっか」
「実は、途中からは純粋な羨ましさもあったというか。探し人の話とは別に、藤田くんの空想にも興味あって。ふたりがやってる『放課後空想ミステリー部』に僕も入りたいなぁって思ってたんだ」
「待って、何その名前」
「あれ、安原くん、この名前使ってくれてなかったの?」
「使わねぇよそんなヘンテコなの……」
 そこから話題は、藤田の空想に関するものへと変わっていった。これまでにした空想や、その中に登場する知識の出所について。
「ていうか、そもそもなんで『ミステリアス文学王子』なんてあだ名がついたんだろうね。藤田くん、心当たりってないの?」
「色々思い返してみたんだけど……中学二年の時、図書委員だったんだよね。その時、一緒に当番をした後輩に、二個くらい空想を話したような気がする」
「中二の時点でもう今と同じことしてたのか」
「あと、その時期に学生向けのミステリー短編小説のコンクールで佳作を取ったから、その辺が掛け合わさってあだ名になったのかなぁ、と」
「なるほどねー」
 全員の飲み物が尽きても話は終わらなかったので、二杯目を買って延長戦がはじまる。
 三人で少しずつお金を出して買ったケーキを分け合って食べながらの延長戦は、窓の外から差し込む光が傾き、駅ビルから見下ろせる街がオレンジ色に染まっても、終わらせたくないぐらいに楽しかった。

 いい加減帰らねば夕食に間に合わない、という時間までカフェでのおしゃべりを楽しんだあと。
 三人は、自宅に帰るべく一緒に電車に乗っていた。藤田と乗る電車に志井もいる景色はとても新鮮に見える。
「志井。ちょっと、キョロキョロしすぎ」
 小声で嗜めると、志井は
「ごめん。色々気になっちゃって」
 と言って、胸の前でそっと手を合わせた。
「だって、僕にとって初めての『放課後空想ミステリー部』の活動なんだもん」
「その名前定着させんのかよ」
「それに、藤田くんがこの中の誰を見て空想をはじめるかなって思ったら、つい」
「僕、毎回そうやって積極的に人を探してるわけじゃないよ」
「それはそれですごすぎない?」
 藤田も志井も背が高いせいで、三人で立ったまま小声で会話しようとすると、どうしても左右のふたりが伊頼に向かって屈むようになってしまう。
 傍から見る人には、きっと伊頼が特別小さく見えるだろう。これでも女子の平均身長よりは高いはずなのに、とつい唇を尖らせてしまう。
 しかし、背が高い故に俯いた伊頼の表情に気付けないふたりは、どんどん会話を進めていく。
「どういう人が空想しやすいとか、あるの?」
「特にないかな。強いて言うなら、何か特徴的な行動か、持ち物とかがあれば、やりやすいけど」
「特徴的かぁ。僕、今までそういうこと考えて他人を見てなかったかも」
 志井がまた車内に視線を巡らせる。
 上背の二人に挟まれていると、伊頼の視界はどうしても狭くなってしまう。自分からは車内が見渡せないため、視線が自然と、遮られていない窓側に向いた。
 今、電車は主要駅の次の駅に停まろうと減速をはじめたところだった。大きなショッピングモールが徒歩圏内にある駅なので、買い物袋や、クレーンゲームの戦利品などを抱えた人が大勢ホームに立っている。
 その中のある一点に、伊頼の視線は釘付けになった。
「ねぇ、藤田。今から乗ってくるひとたち、すごくカッコイイ」
「ん?」
 伊頼が見つけた「カッコイイ」を、藤田も志井も、すぐにわかってくれた。ホームに立つ、五人組の男女だ。
「わぁ、すごい。バンドかな?」
「たぶん、そう」
 電車が停止し、アナウンスと共にドアが開く。
 ちょうど伊頼たちからよく見える位置のドアから乗り込んできた五人組は、男性四人と、女性一人。全員が黒い服と赤いアクセサリーを身に着け、装いを統一していた。
 女性と、男性二人は、背中に楽器ケースを背負っている。
「藤田。誰が何の楽器持ってるかわかる?」
「あまり詳しくない。志井くんはわかる?」
「うーん。あの小柄な男性が持ってるのは、バイオリンなんじゃないかな……?」
「バンドでバイオリンってアリなの?」
「ナシっていう決まりはないよ」
 興味深く様子を見ていると、彼らの会話がチラチラ聞き取れるようになった。
 正確には、彼らの会話、というより、彼らの内のひとりの声が、である。五人を背の順で並ばせたら真ん中になりそうな体格の、細身な男性が、何やら勢い強めに話していた。
「だからそれは……姉さんが……で……でしょ」
「叔父貴だって……姉さんと……搬入にどんだけ……」
「ちょっともう。兄貴……兄ちゃんも笑ってないで……して」
 どんな顔をしているのかはわからないが、声の調子からして、そんなに本気で困っても怒ってもいないらしい。
 それよりも気になったのは、彼が仲間を呼ぶ際の呼び方である。
「もしかして、五人全員がきょうだいだったりするのかな」
 声を潜めて、志井が藤田に耳打ちする。
「いや『叔父貴』はきょうだいじゃないでしょ」
「じゃあ、家族? いや親族か」
 伊頼も、本物の家族で構成されたバンドの話は、テレビなどでいくつか見聞きしたことがあった。
 しかし藤田は、そうは思わなかったらしい。
「たぶん違う。といっても、これはただの空想だけど……」
 志井を手招きし、また伊頼を囲むように屈んだ藤田は、口元に衝立のように手を添える。
「家族って、結構自由なのかもしれないよ」