四月の終わりに咲きはじめだった学校の藤棚が、ゴールデンウイーク明けには満開になっていた。
「すげぇ景色……」
 安原伊頼(やすはらいより)は、窓から見えたその景色に思わずそう呟いた。
 これまで生きてきた十五年の人生の中で、藤の花を特別たくさん見てきたわけではない。それでも、この私立藤ヶ丘(ふじがおか)高校の藤棚は美しいと思った。陽の光を透かした小さな花の重なりが作る複雑な濃淡は、まるでステンドグラスのようだった。
 風にさらさらと揺れる藤を見て、窓際にいた女子数名がうっとりとした溜息を吐く。
 伊頼は心の中で彼女たちに「わかる」と頷いた。小学校でも中学校でも、窓から見える景色といえば校庭なのが普通だった。窓いっぱいに花が見えるだなんて、特別感がすぎる。高校ってすごい。
 幻想的なこの景色は校長の手作りなのだと、入学式で聞いた。入学したての一年生が楽しめるよう、その教室近くの藤棚は特に大きく作ったのだと、熱心に語っていた気がする。
 窓の外でまたひとつ大きな風が吹いたらしく、藤の花たちが優雅に揺れる。
 伊頼はその景色を眺めてから、ゆっくりと席を立った。 
 昼休みがはじまって間もないので、廊下は生徒たちでごった返している。
 財布片手に食堂へ向かう者。
 弁当包みを持って中庭を目指す者。
 コンビニの総菜パンを齧りながら、部活の昼練習へ急ぐ者。
 この廊下に居るのは全員、伊頼と同じ一年生だ。まだ入学からひと月しか経っていないので、皆制服がパリッとしている。
 ほぼ全員が屋外を目指す中、伊頼は人の流れを遡るように、校舎の奥へ向かった。
 本日はある目的のために、同学年の他クラス四つを全て巡ると決めている。ローラー作戦なので、端から順に。
「失礼しまーす……」
 辿り着いた一年一組の教室の前。半開きになったドアの隙間から、誰にともなく声を掛けてみる。
 教室内には、半分ほどの人数が残っていた。そのほとんどが、授業用のタブレットや、個人で買ったらしい参考書を見ながら弁当を食べている。
 伊頼は「流石だな」と感嘆の息を漏らした。ひと学年五クラスの内、一組と二組は難関大学の受験を目指す「特進コース」なのだ。
「すみませーん……」
 邪魔をして申し訳ない、と思いながら、もう一度声を掛けてみる。
 すると、一番近い位置に居た男子生徒がこちらを向いた。眼鏡の向こうにある、淡い色の瞳と視線が絡む。
 彼は片手で開いていた参考書を閉じ、ゆらりと立ち上がって扉口まで来てくれた。
「どちら様?」
「あ……俺、五組の安原」
「一組の誰かに用事?」
「あ、いや。一組にいるかどうかは知らねぇんだけど、ちょっと。人を、探してて」
 話しはじめてから、こういう時は事前にきちんとしたセリフを用意するのが普通なのだったと思い出した。同学年とはいえ知らない人間に話しかけるだなんて、普段しないからすっかり忘れていた。
 無意味な身振り手振りを混ぜ、つっかえながら話す自分が、なんだか幼稚に感じて恥ずかしい。
 しかし応対してくれている彼は、そんなことは全く気にならないといった様子で、小さく首を傾げた。
「ふぅん。その人、何て名前?」
「名前もわかんねぇんだけど……」
 そこまで言って、一瞬、言葉に詰まる。
 これから発する単語は、伊頼が探している人物の唯一の手掛かりである。ただ、それをいざ己の口で言おうとすると、どうにもむず痒いものが背中を這った。
 何しろこの単語は、少し口にするのが恥ずかしい。
「その……このクラスに『ミステリアス文学王子』って呼ばれてるヤツ、いる?」


 きっかけは、ゴールデンウイーク直前の放課後。
「あっ」
 自宅の最寄り駅で降りて、併設されたコンビニに寄り道した伊頼は、背後から突然声を掛けられた。
「安原くん。久しぶり」
「え? あぁ、志井(しい)じゃん」
 声を掛けてきた人物、志井真秀(まほ)は、中学時代の同級生だ。
 少し吊り上がった猫目。スッとまっすぐな鼻。優しい微笑が似合う薄い唇。整ったその顔を見る度、伊頼は「神様が迷いない筆運びで描いたに違いない顔だ」と思う。実際、中学校では似たようなことを言われていた。
 イケメンでありながら、物腰や口調は柔らか。そのギャップは本人曰く「姉がいるせい」らしかったが、他人から見れば彼の知的なカッコよさを増す要素でしかない。男女問わず、彼に憧れる生徒は多かった。
 そんな志井が、あまり目立つほうでもなかった伊頼に気軽に話しかけてくるのは、修学旅行での委員会が一緒だったという縁があるからだ。
 懐かしいな、と伊頼は当時を振り返る。
 各クラス二名という枠を満たすために担任が用意した強制的なくじ引き。事前準備の段階から大量にある仕事。必然的に増えるふたりきりの打合せ。旅行先でのトラブル対応。
 選出された時には自分が志井と会話するなんて無理だと心から思っていたのに、忙しさを共に乗り越えるうちにすっかり打ち解けてしまった。伊頼にとって、志井は「憧れ」ではなく「戦友」である。
「久しぶり、志井。星督(せいとく)学園の制服、似合ってんね」
「ありがとう。最初は白いブレザーなんてコスプレっぽいかもって思ってたけど、一カ月も着れば、結構慣れてくるものだね」
 志井はブレザーの裾をつまみ、ピンと引っ張って見せた。
 彼が進学した私立星督学園は、中高一貫の有名校だ。
 高校から入学する枠はあるものの、募集はごく小数のためかなりの高倍率だと聞く。それに合格できた志井は、とても優秀ということだ。
「夏服は水色のポロシャツになるらしい。襟が白いやつ」
「へぇ、おしゃれだ」
「安原くんは、どの高校に行ったんだっけ。合格発表って卒業式よりあとだから、知らなかったな。その制服、どこの?」
「藤ヶ丘」
「えっ、藤ヶ丘?」
 志井の目が、丸く見開かれる。その様子を見て、伊頼は「あぁ志井もやっぱり驚くんだな」と思った。
 多くの学校がそうであるように、伊頼たちの通っていた中学校でも、順位や点数の公開は一切なかった。しかし、三年間同じ学校で授業を受けていれば、誰がどの程度の成績かなんて、皆なんとなく把握できてしまうもので。
 委員会のために志井と一緒に居る時間が長かったあの当時、伊頼の成績は、藤ヶ丘高校にすんなり進学できるようなレベルではなかった。受験直前のクリスマス時期でもまだ、合格には到底届かないと言われていた。
 だから、中学時代を知る人に進学先を伝えると必ず驚かれる。そしてその反応は、伊頼にとってもうすっかり慣れたものだった。
「結構頑張って成績上げたんだ、俺」
「そうなんだ。どこを魅力的に思って藤ヶ丘高校にしたの?」
「コレ」
 着ているブレザーがよく見えるよう、小さく両手を広げる。
 伊頼が進学先に藤ヶ丘高校を選んだ理由は、この制服だった。
 中学三年生の秋に、伊頼はなんとなく藤ヶ丘高校のオープンスクールに参加した。そこで見た、案内役の在校生たちが着ている制服に、一目惚れしたのである。
 ダークグレーのブレザーの中に、ワントーン明るい色のニットベスト。ネクタイは、藤色に白と銀の細いラインが入ったストライプ柄。
 中学の黒い学ランに飽きていた伊頼の目に、大人っぽい制服はキラキラと眩しく映った。あの制服を着て高校生活を送るためなら、何でも頑張ろうと思った。
 以来、伊頼は憧れを起爆剤にして猛勉強し、無事藤ヶ丘高校の合格を勝ち取ったのだった。自己採点の感触からして最下位から二番目か三番目ぐらいの順位だと思うが、合格は合格だ。
「そっか、頑張ったんだね。制服似合ってるよ」
「ありがと」
 にっこりと微笑む志井に、伊頼もにこやかに返す。
「藤ヶ丘高校ってここから結構遠いよね?」
「うん、まぁ。電車で一時間半とちょっとかな。歩く時間も入れれば、二時間近く掛かるかも」
「うわ、通学大変そう。でもそっか。だから、この辺でその制服を見る機会があんまりないんだね」
 志井は、伊頼のブレザーをじっと見つめていた。薄い唇が、小さく「そっか」「藤ヶ丘かぁ」と呟いている。
 驚いた余韻とは少し違う雰囲気なのが気になって、伊頼は次の反応を待ってみた。
 すると彼は、唐突に制服から伊頼の顔へと視線を上げる。と言っても、彼のほうが上背なので、見下ろされていることに変わりはないのだが。
「ねぇ、安原くん」
「なに?」
「ちょっと、訊いてみたいことがあるんだけど」
 一歩距離を詰め、ぐっと迫ってくる志井に、伊頼は少々面食らった。
「えっと、なに?」
「話せば長くなるから、歩きながらでもいい?」
「あぁ、うん」
 気付けば結構長い間、コンビニの通路を占拠して立ち話をしている。
 伊頼たちは、それぞれ目当ての商品を持ってレジに向かった。順番に会計を済ませて、店外で改めて合流する。
 家の方角が同じなので、一緒に歩く時間はたっぷりある。伊頼は志井を急かしてしまわないよう、歩調に最新の注意を払った。
「それで、俺に訊きたいことって、何?」
 伊頼はレジ袋から買ったばかりののど飴を取り出し、一粒口に放り込んだ。
 ラムネの甘く爽やかな味が、口いっぱいに広がる。
「うん。あのさ」
 なかなか言葉を続けない志井は、なんと言って切り出そうか迷っているようだった。
「いまからすごい変な単語を出すんだけどさ……藤ヶ丘高校の一年生に『ミステリアス文学王子』って呼ばれてる人がいるの、知ってる?」
「『ミステリアス文学王子』……?」
 飛び出してきた不思議なワードに、思わず首を傾げオウム返ししてしまう。
その反応だけで「知らない」という答えを察知したらしく、志井は
「あっ、知らないなら大丈夫!」
 と慌てたように言い、胸のあたりでぱたぱたと手を振った。
「どうも、そう呼んでるのは、その人と同じ中学出身の中でも一部の人だけらしいんだ。僕も、噂で聞いただけ」
「噂? どんな?」
「カッコいいって、聞いたことがある。あと、文学をくれるんだって」
「何それ。おすすめの本を貸してくれるってこと?」
「うーん。よくわからない」
「ふぅん……?」
 それだけの情報では、人物像を掴むのは難しい。
 悩むのと同時に、伊頼はふと違和感を覚えた。同じ高校の生徒について質問したということは、てっきり「紹介して」という流れにでもなるのかと思ったが、伊頼の知る志井は、そういう小さな噂だけで繋がりを求めるようなタイプではない。
「志井は、なんでその『ミステリアス文学王子』を探してるわけ?」
「ううん。別に、探してはいない」
「へ?」
 ますます意味が解らない。訝る伊頼に、志井は少しだけ言い難そうに言葉を詰まらせた。
 しかし、すぐに何かを諦めたように視線を落とす。俯いた彼は「もしかしたら、あんまり印象のよくない話かもしれないんだけど」と前置きして、語りだした。
「僕さ、中学の頃に受けた模試で、ほぼ毎回、県内二位だったんだよ」
「へぇ、すごいじゃん」
 思わず素直な称賛が出る。志井はほんの少し恥ずかしそうにしながら、さらりと「ありがとう」と言った。
「けど、一位はどうしても取れなかった。国語で、常に僕より上の点を取る人がいたんだ」
 どうしても取れない一位を取り続けたその人物を、志井は当然気にした。しかし個人情報にうるさい現代では、それが誰なのかを突き止めることは不可能だったらしい。
「ただ、僕が通っていた塾と、星督の一年生には居ないっていうのだけはわかってるんだよ」
「ふぅん。それって、毎回同じ人間が一位だったっていう確信はあるの?」
「あるよ、ただの直感だけどね。最近学校でその話をしたら、クラスの女子が、その国語の一位は『ミステリアス文学王子』かもしれないって教えてくれたんだ」
「あぁ、国語が得意だから『文学王子』ってこと?」
「逆かな。彼女は元々『ミステリアス文学王子』って呼ばれる人が同学年にいるって知ってて、そういうあだ名なら国語も得意なんじゃないかって推理しただけ」
 そのクラスメイトの女子は『ミステリアス文学王子』の本名も学校も知らなかったらしい。ただ、中学時代に通っていた塾でそのあだ名や噂を耳にしたことがある程度だったと、志井は言った。
「それ以来気になって、学校の中で何人かに訊いてみたんだ。どうにも断片的な情報しか集まらなくて、結局名前はわからなかったんだけど」
「それってもう、結構真剣に探してねぇ? そいつのこと」
 つい指摘すると、志井は一瞬言葉に詰まったようだった。
 しばらく気まずそうに言い淀んだあと、曖昧に小さく、頷く。
「いや、まぁ……そうかも、ね。うん。でも、これは本当に本当なんだけど、別にその一位だった人を特定して負け続けた恨みを晴らしたいとか、そういうことまで考えてるわけじゃないから」
「わかってるよ」
 必死に続けられた言葉を、伊頼は思わず笑い飛ばしてしまった。伊頼の知る志井は、そんなことをする人間ではない。
「で、そいつが進学した先が、藤が丘高校らしいって話?」
「そう。他にもいろんな学校名が挙がったけど、一番多かったのが藤ヶ丘だった」
「なるほど」
 藤ヶ丘高校には特進コースがあるので、県内一位の成績が取れる人間が選んでも不思議ではない。
 そう口にすると、志井は「特進コースばかりが選択肢ではないよ」と首を振った。
「僕の友達にもいるんだけどね。あえて普通コースや偏差値低めの高校を選ぶ人もいるんだよ」
「えっ、あえて?」
「その中で成績上位を維持することで、大学受験の推薦枠を狙うっていうパターンだね」
 落とした偏差値に本人が驕って怠けないかどうかが重要なので、教師側も、よほど意志が強いと確信できない限りは勧めないらしい。
 高校受験にも色々あるのだと、伊頼は今更思った。制服目当てだった自身は別として、受験とはどれだけ高い場所に引っ掛かれるかを競うものだと思っていたのだ。
「だから『ミステリアス文学王子』が特進コースと普通コースのどっちに居るのかはわからない。そもそも、藤ヶ丘高校に居るかどうかも、定かではないんだ」
「さらに言うと、その『ミステリアス文学王子』が志井に勝ち続けた一位のやつかどうかも、定かじゃないんだよな?」
「そういうこと」
 首を傾げた伊頼に、志井はこっくり頷く。
「だからね。安原くんが知らないなら、それで全然構わないんだ。ただ、その……僕にとってその県内一位を取り続けた人は、ずっと見えないライバルだったから。手がかりを掴めそうかもって状況に、少し浮足立ってるだけ」
「ふぅん」
「変な話してごめんね」
「ううん」
 そこで会話が途切れ、ふたりは無言になってしまった。聞こえるのは、とぼとぼ歩く靴の音と、それぞれの手で揺れているレジ袋の音だけ。
 時折視線だけで様子を窺ってみたが、志井は「構わない」の言葉どおり、本当にあまり気にしていないようだった。情報が得られなかったことを残念そうにしている雰囲気はあまり感じられない。
 一方で伊頼の胸には、今になって驚きと興味がじわじわと膨らんできていた。
(中学の模試でずっとってことは、俺と一緒に委員会やってた時も、志井はそいつのことずっと気にしてたんだよなぁ)
 意外だった。中学時代の記憶をひっくり返しても、彼が成績のために必死に勉強している姿は見たことがなかったように思う。
 けれど今の話では、志井は相当強くその一位の人間を意識し、その人物に勝つべく努力していたように聞こえた。
 努力して、負けて、悔しくて、でもスポーツの試合とは違うから、自分が誰に負けたのかわからない。短時間の想像でしかないが、それはかなり気持ちの悪い歯がゆさだったのではないかと、伊頼は考えてしまった。
(志井が未だに気にしてる、その一位って……その一位かもしれない『ミステリアス文学王子』って、どんなヤツなんだろう)
 どの程度頭がよくて、どんな人間なのか。そもそもあだ名の由来らしい「文学を与える」とは、いったいどんな行動なのか。
 なぜ「文学王子」だけで充分表現できるはずなのに、頭に「ミステリアス」とつくのか。
 考え出したら止まらなくなる。なにより、戦友である志井の長い気がかりが少しでも晴れるなら、手伝ってやりたいと思う。
 気付けば伊頼は、分かれ道に着くより前に「連休が明けたら、まずは『ミステリアス文学王子』をそれとなく探してみるよ」と言ってしまっていた。


 そして本日。連休明けの放課後。
 学校の最寄り駅のホームで、伊頼は小さく溜息を吐いていた。
(やっぱり、パッと見つかるわけねぇか……)
 あのあと、一組から四組までのクラスを巡ってみたが、本日「ミステリアス文学王子」なる人物には出会えなかった。
 どのクラスでも、応対してくれた生徒に怪訝な顔をされるだけだった。それ自体は仕方がないと思う。志井の話ではその呼び名はごく一部の人間しか使っていないとのことだったし、その「ごく一部」が藤ヶ丘高校にいるかどうかはわからないと言っていた。
 ならば、と思い、伊頼は途中から、呼び名から推察される人物像を挙げて質問を追加してみた。「よく本を読んでいる男子」「物静かそうな人」といった風に。一番手っ取り早く思えるのは「このクラスで一番頭がいい人」だが、ここ藤ヶ丘高校でも、順位や成績は徹底して秘匿されている。
 結局、候補すら見つけられなかった。
 ちなみに伊頼のいる五組はどうだったかというと、こちらは聞き込みではなく、伊頼自身の目で一日観察し「五組の生徒ではない」という判断に至った。
 五組の男子生徒は、どちらかというと体育会系が多い。ミステリアスな人物も、文学を好みそうな人物も、王子と呼ばれて問題なさそうな人物も、見当たらなかった。
(せめて、出身中学がわかれば、候補が一気に絞れて見つけやすそうなんだけど)
 探してみることを提案した時の、志井の顔がふと頭に浮かぶ。
 遠慮がちな笑みを浮かべつつも、目にはしっかりと興味と安堵が浮かんでいた。相当、期待させてしまった気がする。
 彼のあんな表情を見ておきながら、空振りの報告を入れるだけで話をおしまいにするのは気が引けた。
(まだ一クラスにつき一人にしか話しかけてねぇし、話した相手ほとんど男子だったもんなぁ……女子に聞いてみたら、なんか出てくるかな……?)
 そんな風に悩んでいるうちに、電車が来た。
 この時間帯に、この駅で降りる人間は少ない。ドアが開いた途端、学生たちが雪崩のように乗り込んでいく。
 伊頼も流れに乗るように電車内に身体を滑り込ませた。車内をサッと見回すと、いつもどおり、この駅より前から乗っていた乗客たちで座席が埋まっている。
 伊頼はホームとは反対側のドアに近寄り、進行方向の景色が見える位置に陣取った。
 乗車時間が長い分、少しでも楽に乗っていたい。つり革なんて持ち続けたら、自宅の最寄りに着くころには腕が痺れてしまう。
 入学以来色々試した結果、壁やドアにべったり寄りかかるのが一番いいのだと気付いた。以来、この場所を勝手に定位置にしている。
 荷物が他の乗客の邪魔にならないよう、そっと位置を整える。その時、頭上にふっと影が落ちた。
「あっ」
 意識していても聞き逃しそうなぐらい、ごくごく短い音が降る。
 それに反応した伊頼が顔を上げると、同じ制服を着た男子生徒がこちらを見下ろしていた。伊頼より、頭ひとつ分ほど背が高い。
 日焼けを知らなそうな青白い肌に、細くてサラサラした色素の薄い髪。淡い色の瞳が、長い睫毛と、青色をした金属フレームの眼鏡に縁どられている。
 志井とはまた方向性の違うイケメンだ、と思った。
(誰だっけ?)
 相手は明らかに伊頼のことを知っているような目をしている。しかし、伊頼は相手に見覚えがない。
 ぽかんと見つめたまま反応できずにいると、彼の口が先に動いた。
「君、今日ウチのクラスに来た人じゃない? 五組の。王子様探してる人」
「あっ、あぁー! 一組の人か!」
 目の前の顔と昼休みの記憶が、頭の中でようやく重なる。本日最初の聞き込みで応対してくれた、参考書を開いていたあの生徒だ。
「……ん? いや、ちょっと待って。その言い方だと俺が俺の王子様探してるみたいでヤバいじゃん」
「違ったっけ? ていうか、あのあと探してる人は見つかった?」
「全然違うし、見つかってない」
 どちらも否定することを強調するように首をぶんぶん振りながら、伊頼は昼休みに交わした彼との会話を思い出す。
──その……このクラスに『ミステリアス文学王子』って呼ばれてるヤツ、いる?
──えっと…………いない、と、思うけど。
──だ、だよなぁ。ごめん、失礼しましたァー!
 こんな感じで、一番最初に行った一組では、しどろもどろに一言質問しただけで終わったのだった。あれでは、伊頼が何のためにどういう人を探しているのか、全く伝わっていなくて当然である。
「べ、弁明も兼ねて説明させてくれ」
 伊頼は小さく挙手するように、胸元に掲げた手のひらを見せた。
「その『ミステリアス文学王子』を探してるのは、俺だけど、俺じゃないんだ」
 それから伊頼は、ゴールデンウイーク前の志井との会話の一部を、彼に話して聞かせた。電車内に響く走行の音に搔き消されず、けれど周囲の迷惑にならない程度に気を付けた、ほどほどの声量で。
 彼は時折質問を挟んできたが、それ以外は黙って話を聞いていてくれた。そして、伊頼が話し終えると
「ふぅん。どんな人なんだろうね、その王子様」
 と言って、真面目に想像を膨らませるように、視線を宙に向けた。
 興味を持ったらしいその仕草に、伊頼は仲間を見つけたような気持ちになる。
「だよな、気になるよな。この呼び名」
「まぁね。ちょっと」
「どんなヤツだと思う?」
 伊頼が問いかけると、彼は少しだけ楽しそうな表情で答えた。
「言葉の組み合わせがストレートだから、見つけるヒントにはなりそうだよね。『ミステリアス』って言葉はインドア系っぽい印象だな。それで『文学』をくれる『王子』……図書委員とか、イメージ合うんじゃない?」
「あーっ、なるほど!」
「それで言うと、僕のクラスの図書委員は女子だから除外かな。あ、いや待って。その呼び名って中学時代の知り合いがつけたんだよね? なら図書委員は高校一年生の今じゃなくて、中学時代かも」
「あー……なるほど……」
 見えかけた希望の光が、一瞬で萎んで遠くへ行ってしまう。
 新たなヒントを探して、ああでもこうでも、と会話しているうちに、電車は主要駅に差し掛かった。五年ほどかけて建て替えた真っ白な駅ビルが、車両を迎え入れるべくドンと佇んでいる。
 その景色に気付いた彼が、ふと小さく呟いた。
「いつも思うんだけど、この景色ってさ、なんかクジラが餌を待って大きく口を開けてるみたいに見えない?」
「は? クジラ?」
「この電車が餌の小魚だとして……まぁ、いいや」
 唐突な話題についていけない伊頼の視線を遮るように、彼は顔の前で小さく手を振る。それ以上説明を求めることが難しいような気がしたので、伊頼は黙って窓の外を見た。
 実際に電車が入っていくのは、高層ビルの中ではなく、そのビルに併設されたホームの中だ。ホームの上には、ビルと同じ真っ白な色をしたアーチ状の屋根がある。降りたあとは中をシームレスに移動できるので、地元の人間は全ての建物をまとめて「駅ビル」と呼んでいるのだ。
(こいつには、この景色がクジラと小魚に見えるのか)
 見立て、という表現法は知識として知っている。国語の勉強ぐらいでしか見たことがないそれを、実生活の何気ないシーンに使う人間は、伊頼にとって初めてだった。
(不思議なヤツ。それとも、特進コースに行けるようなヤツって、みんなこうなのか?)
 現状彼ひとりしか知らないので、よくわからない。
 答えを探すように、ついじっとその顔を見てしまっていた。すると突然、彼がパッとこちらに視線を向ける。
「あれ? 君、ここで乗り換えじゃないんだ」
 彼は、電車が減速してもドアに向かう様子のない伊頼を不思議に思ったらしい。
 しかしそれは、伊頼も同じだった。
「そっちこそ、降りねぇの?」
 お互い、少し驚いた顔を見合わせる。
 ここはハブ駅だし、このあとこの車両が向かう先は本線とは異なるローカルな路線だ。一駅先に大きなショッピングモール、二駅先に大企業の本社兼工場、九駅先には国立の大学があるが、それ以上先は本当に、海と山に挟まれた小さな町が点在する田舎になる。
 学校の最寄り駅で乗り込んだ学生のほとんどは、大抵、ここで別の電車かバスに乗り換えていく。乗りっぱなしの学生は、とても珍しいのだ。
「俺は、この先の海賀(うみが)駅まで乗るけど」
「あ、じゃあ僕よりは先に降りるのか」
 サラリと言われた一言に思わず目を剥く。
「マジで? 俺より遠くから通ってるヤツ、初めて見た」
「まぁ珍しいとは思うけど、いないわけじゃないよ。僕よりさらに遠くから電車乗ってる人もいるし」
「うそぉ。すげぇな」
「ホント。多分、二年生か三年生」
 減速を続けていた電車がいよいよ停車し、ドアが開く。乗客の大半が、どっと競うような勢いで降りて行った。
 再び走り出した電車に揺られながら、伊頼は車内をぐるりと見回した。人数はさほど増えていないのに、空間は狭くなったように感じる。学生が減って、大柄な大人の乗客が増えたせいだ。
 その中に、目を引く二人組を見つけた。
 立っている場所からして先程の主要駅で乗ってきたらしいその二人に、伊頼の視線が釘付けになる。
「どうかした? 何見てるの」
「いや、アレ」
 問いかけてきた彼に、視線と小さな手の動きだけで指し示す。
 そこに居たのは、一組の男女だ。それぞれ左手に指輪が見えるし、距離感や雰囲気が親密そうなので、夫婦だと思う。
 伊頼が気になったのは、彼らの服装だ。
「大人でも、ああいう風にがっつりペアルックってするんだなぁって」
 ふたりは全く同じ装いをしていた。青と黒のチェック柄のシャツに、ベージュのチノパン。夫のほうはサイズがぴったりなようだが、妻のほうは袖も肩も余って、あちこちダボついている。
 足元は人影に埋もれてよく見えない。けれど生地のゆったりした感じからして、妻はズボンの裾もかなり余っているように思えた。
 ふたりの姿を確認した彼が、伊頼のほうへ向き直る。
「お揃いを買ったんじゃなくて、全く同じ服をふたつ用意してふたりで着たって感じだね」
 本人たちに聞こえないよう音量を絞った囁き声に、伊頼は小さく頷いた。
「あそこまで徹底してお揃いなのってすげぇよな。俺、大人があんなペアルックするイメージなかったわ」
「ペアルックに嫌悪感でもあるの?」
「嫌悪感ってほどじゃねぇけど。なんか『俺たちお互いしか見えてません』って宣言してるみたいで、恥ずかしくねぇのかなって。俺にはできる気がしない」
「なるほどね」
 彼はそっと振り返り、もう一度ペアルックのふたりを観察した。そして「同じ顔して笑ってるね」と言う。
「あのふたり、ずっと途切れず会話してるけど、唇を片方だけ吊り上げて歯を見せる独特な笑い方をしてる。トレースしたみたいに一緒だね」
「笑い方までペアルック? それぐらい浮かれてる夫婦ってこと?」
「夫婦は顔が似てくるって話を聞いたことは確かにあるけど……」
 そこで言葉を切った彼は、目を閉じて、小さく首を傾げた。細い前髪が、傾いだ動きに合わせてさらさらと揺れる。
 何かを考えているらしいことはわかったので、伊頼は声を掛けず待つことにした。目を閉じるほど思考に集中した彼が何を考えているのか、興味が湧いたから。
 待っている間、その白い頬の上を、窓の外から入ってくる高架や踏切や電信柱の影がいくつも走っていった。
「……これはただの空想だけど」
 やがて思考が固まったのか、彼がゆっくり目を開ける。
 青い眼鏡のフレームに、夕方の光が反射した。
「君が思うような、浮かれてる状態ばっかりがペアルックの理由じゃないかもしれないよ」
「……例えば?」
 さっぱりわからなくて続きを促すと、彼はごくごく薄い笑みを浮かべた。夕方の光が妙に似合う、寂しさと優しさを感じさせる笑みだった。
「じゃあ、細かく話してみようか。どうせ僕らふたりとも、しばらく電車から降りないし」
「うん」
「先に前置きするけど、僕はあのふたりを実際に知ってるわけじゃないから。名前も職業も、何もかもすべて、語るのは『空想』だからね」