【2話】

パン!パン!と如何にも学校の体育祭らしい、しょぼい花火の音が鳴っている。
 僅かな煙のニオイとともに、開催宣言をし、始まった全クラス対抗の体育祭。
 前半は個人戦での得点、後半はクラス対抗での得点で競い、最終的に得点の一番高いクラスが一位となるようになっている。
 僕の前半戦は借り物競争と徒競走の二種目だから、わりと楽だ。
 今回は一年生のアンケートを元にプログラムが決められていて、あまりの希望種目の多さに、前半戦と後半戦で二日間の日程が決められていた。
 それもあって、先生が見に来られるのは明日のクラス対抗戦だけとなっている。
 先生に見てもらえないのは残念だけれど、それでもクラスで一番を取ったらきっと喜んでくれるだろう。
 そう思い、僕の個人得点も大事だと、ハチマキをキュッと締めて気合を入れる。

「よーし、頑張るぞ!」
「めずらしく気合が入ってるね~」
「悠くん、優くんも」

 ひらひらと手を振って現れた坂コンビの名前を呼ぶ。
 坂下と下坂じゃどっちがどっちか、たまにわからなくなるから大変だ。

「今日はダメだけど、明日は先生が見に来てくれるからね! そのためにも、いっぱい得点取らなきゃだから!」
「先生って施設の?」
「そうだよ、天川聖先生」
「翔和、よくその人の話してるよな」
「うん! 大好きだからね」

 先生はずっと憧れの存在で、大好きな人だ。
 それは物心ついた時から変わらない。
 先生のことを考えるだけで、胸がポカポカ温かくなるくらい、幸せを感じられる。
 さすがに引かれると嫌だから、二人にはそこまで言えないけれど。

「若くして施設長してるくらいだから、相当良い人なんだろうな」
「えっ? 先生はそんなに若くないよ」
「そうなの?」
「うん。今年でいくつだったかな……前に聞いた時は30歳って言ってたけど、その前は35歳だったし……分かんないや」
「なんだよそれ……」

 呆れる優くんの横でクスクスと笑う悠くんを見ていると、不意に視界の先を智佳が横切った。

「あっ……」

 思わず声が出て、すぐに引っ込む。
 結局、あの説明会の日からまともに会話をしていない。
 あの表情の意味はもちろん、挨拶以外の会話らしい会話は全くと言っていいくらい、していなかった。

「ん? どうしたの?」
「……なんでもない。それより、大翔や歩たちとも合流しよう」
「そうだな」

 無理矢理気にしないように振る舞って、大翔と歩を探す。
 智佳はきっと出場種目が多いから、出くわす心配はないだろう。
 なんて、なんで心配なんかしなきゃいけないんだ。僕はべつに、悪いことなんかしてない。
アイツが勝手に突っかかってくるだけで、いつも……そうで。
 なんで僕がこんな気持ちにならなきゃいけないんだろうか。
 でも、いつも付きまとうこの気持ちはなんなんだろう。
 胸をチクリと刺すような、そんな気持ち。
 分からない。

「翔和? 大翔たち居たぞ」
「えっ……あっ! いま行く!」

 悩んでいてもしょうがない。
 いまは体育祭に専念すべきだ。
 一番を取って、先生を喜ばせるのだから。

「ごめんごめん、ボーっとしちゃって」
「今からそんなで大丈夫か」
「大丈夫だよ、僕頑張るから!」

 無表情で言ってきた歩にそう答え、思い切り拳を上げる。
 自分なりの元気の出し方をして、なるべく皆には気づかせないように試みる。
 きっと、勘の良い大翔あたりには気づかれてしまうのだろうけど。
 そうなったらそうなった時だ。その時に考えたらいい。

「そういえば、大翔と歩は何に出るの?」
「俺は障害物競走と二人三脚」
「俺はパン食い競争と二人三脚だよー!」
「二人とも僕と同じで二種目なんだね」
「本当はもっと出たかったんだけどさ、歩が二人三脚の負担になるといけないからって」
「ああ、そういうこと」
「息を合わせるのに、疲労は天敵だろ?」
「それはそうだけどさ~」

 俺はもっと出場したかったと駄々をこねる大翔を宥めるように、歩がどうどうと掌を動かす。
 この二人の息ピッタリさなら、二人三脚なんて簡単だと思うけれど、単純に大翔を気遣っての歩の気持ちなんだろうと思った。
 お互いの意思を尊重しつつ、気遣う優しい気持ち。
 そんな気持ちを僕も持てていたら、いまごろ智佳とはどうなっていたんだろうか。
 考えると、また胸が僅かに痛みを発した。
 そんな痛みをなくすように胸に手を当てた時――バンッ!と大きな音が響き渡たった。

「あっ! 始まったね~!」

 悠くんが音の鳴った方を見て言う。
 どうやら、スタートを告げる玩具の銃の音だったらしい。
 鳴り止むなり、状況を伝える体育祭実行委員会の放送とクラス中の応援の声が聞こえてくる。

「智佳のハードル走だな、やっぱり段違いに速い」

 歩の言葉を聞いて、その視線を追うと、そこには颯爽とハードルを飛び越えて走る智佳の姿があった。
 他の生徒たちをかるく追い越して走る姿は、思わず目を奪われるほどに圧巻だった。

「凄い……」

 無意識に、そんな言葉が出ていく。
 他のクラスの走者たちがどんどんと追い越されて、智佳がトップで走る。
 その姿に見惚れる生徒は多いようで、男子校とは思えないほどの黄色い歓声が響き渡る。

「すっごーい! 智佳独走してるじゃん!」
「さすが、我が校の天才枠って感じだな」
「ムカつくけど、確かに……」

 学問の成績首位に加えて運動神経も抜群とくれば、もう嫉妬すら生まれない。
 ただただ、凄いと思うだけだ。

「そういえば、智佳だけじゃないか? 個人競技で4種目も出るの」
「えっ? そんなに出るの!?」

 優くんがプログラム表を見ながら話すと、悠くんは目をまん丸にして驚いていた。
 無理もない。それだけ出て、準備会の救護班までやるのだから。
 でも、それだけ智佳が優秀なのだろうと改めて思う。
 どうやったらあんなに完璧超人になれるっていうんだ。
 そう思うと、無性に腹が立って、そっと視線を別の方へ向けた。

「智佳のくせに……」

 ぽつりと呟くと、一位を決定づけるテープが切られたと放送がされた。
 クラス番号と智佳のフルネームが放送を通して聞こえてくる。

「やった! まずは一勝だね!」
「正直、智佳が居るだけでうちのクラスは安定だよな」
「そうだねー、って、翔和? なに見てるの?」
「へっ? ああ……ちょっと敵情視察的な? 他のクラスのこと見てた」

 我ながら下手くそな嘘だと思ったが、大翔は優しく笑うだけでそれ以上の詮索をしてはこなかった。
 こういう時、詰め寄って理由を聞いてきたりしない大翔の性格は本当に有難いと思う。
 僕たちのそんなやり取りを見て、黙っていてくれる歩にも感謝しかない。

「そういえば、次はパン食い競争だったよね。大翔そろそろ行かなきゃじゃない?」
「そうだったー! じゃあ、食べてくるね!」
「いや、走れよ」

 歩の突っ込みに気の抜けた返事をして去っていく大翔。
 すぐに走者列に並ぶ姿が見え、BGMが軽快なものへと変わる。

「位置について、よーい……ドン!」

 けたたましい銃声が鳴り、大翔が走り始める。
 さっきの智佳と比べれば、そこまで速いわけではないけれど、それでも二番目くらいの速さで吊り下げられたパンに食らいつく大翔の姿が見えた。
 思いっきりパンを咥えて、走り出す大翔の姿は普段の遅刻寸前の彼の姿を見ているようで、なんだか微笑ましい。
 疾走する姿を目で追っていくと、おしくも二位でゴールを決めてこちらに笑いかけてくる、元気な姿が目に映った。

「残念でした~、でもこのパン美味しいよ!」

 戻ってくるなり、勝ち取ったあんぱんをムシャムシャと食べ始めるのを見て、やっぱり大翔は大物だなと感心する。

「次、翔和の借り物競争だよね?」
「うん。その後が歩の障害物競走」
「二人とも、頑張ってね!」
「うん! 行ってきます!」
「行ってくる」

 歩と二人で待機場まで向かおうとした矢先、タオルで汗を拭いながら近づいてきた智佳と目が合った。

「お前ら、これから?」
「そうだけど」
「……そっか、まあ頑張れよ」
「言われなくても頑張るよ」

 先生のために得点を取らなければならないのだから、頑張るに決まっている。
 そんなことをいちいち言いに来るだなんて、どういうつもりなんだろうか。

「翔和、また智佳と何かあったのか?」
「べつに、大したことじゃないよ」
「……そうか。じゃあ、行くか」
「うん」

 無駄に聞いてこない歩に感謝して、一足先に走者列へ並ぶ。
 他のクラスの人たちはどこも足が速そうだけれど、借り物競争だから借りる物でも順位は決まるはずだ。
 頑張らないと。
 そう思ったところでスタートの銃声が響く。
 それを聞いて、一気に走り出し、すぐに用意された借り物メモを手に取って確認する。

「えっと……眼鏡?」

 そう呟き、辺りを見渡す。
 眼鏡なんて、親しい間柄の者が持っていただろうか。
 いや、べつに親しくなくても、そこらへんの誰かに借りれば良いのだけれど、よく知りもしない人に声をかけるのは僕にとっては難しいことだった。
 暫くキョロキョロと周りを見て、ビクついていると、悠くんの声が聞こえてくる。

「翔和~! 何だった~?」

 大きな声で言う悠くんの方へ走って行き、メモを見せると、悠くんは少しだけ悩んだ後に、パン!と手を叩いて、智佳の方を振り返った。

「智佳って授業中は眼鏡だよね? 今日も持ってる?」
「ああ、一応持って来てる」
「じゃあ、貸してあげて!」

 悠くんの計らいで、智佳が鞄の中から眼鏡をケースごと取り出して渡してきた。
 本当は智佳に頼るのは忍びないけれど、仕方がないとそれを受け取って、ゴールまで走り抜ける。

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 やっとの思いで切ったゴールテープは四位を表していて、なんだかとても申し訳ない気持ちとなった。

「ごめん……得点取れなかった」
「気にするなって。翔和頑張ってたじゃん」
「うぅ……ありがとう、優くん」
「オイ」

 慰めてくれる優くんに頭を撫でられていると、背後から智佳に声をかけられる。

「眼鏡、返せよ」
「あっ……はい。えっと、ありがとう」

 そう言って、手にしたままの眼鏡を智佳に返して、視線を逸らす。
 すると、智佳はどこか不思議な表情をして、次の種目があるからと待機列へと向かっていった。
 確か、次は智佳の出る棒高跳びと100m走が続いていたはずだ。
 僕も、そろそろ救護班の交代時間なので、そっちの対応をしながら見てみようかと思った。

「それじゃあ、僕ちょっと救護班の係行ってくるね!」
「ああ、分かった」

 救護班の交代をすると、前の係のクラスの人から、かなり暇だから覚悟しとけよと助言を受けた。
 それなら安心だと思い、開始した種目の様子を見る。
 長い棒を持って疾走した智佳が、高く舞い上がる姿が目に飛び込んできて、あんぐりと口を開けてしまった。
 カッコイイ、と純粋に思ってしまう。
 マットの上に綺麗に着地して、上がる歓声にかるくお辞儀をすると、次の選手に代わる。
 そういった所作も彼が全校生徒から気に入られる理由なんだろう。

「本当、ムカつくくらい完璧だな……」

 僕とは大違いだ、と勝手に思って沈む。
 智佳は、きっと何もない僕が嫌いなんだろう。だからやたらとちょっかいを出してきては、呆れたように会話を変えてしまう。
 昔はもっと、近くに居た気がするのに……今では、まるっきり別次元の存在だ。
 僕も、ああなれたら良かったのに――。

「オイ」
「……あっ! はい! って、智佳?」

 不意に呼ばれて、慌てて返事をすると、そこには智佳が呆れ顔で立っていた。

「どうしたの?」
「足、捻ったから」
「えっ!? 診せて!」
「わっ! オイ!」

 落ち着いた様子で言う智佳とは裏腹に、急いで智佳の足を手当する。
 腫れは酷くないようだけれど、念のために湿布をした上からキツく包帯を巻いて固定する。

「そこまでしないくてもいいだろ……」
「ダメ! 捻挫って怖いんだよ」
「……」
「よしできた! 一応大丈夫だと思うけど、次の100m走は念のために棄権して」
「大丈夫だって」
「絶対ダメ! 棄権して」
「……でも、それじゃあ聖さんがガッカリするんじゃねーか?」
「それは……そう、だけど」

 確かに、智佳の得点はクラスでは重要なものだった。
 最終的に一番得点を取ったクラスが優勝なのだから、智佳を損失することは痛手でしかない。
 けれど、今は智佳の怪我を第一に考えたかった。
 どうしてそんな気持ちになるのかは、分からなかったけれど。

「智佳の怪我の方が大事だから……先生もきっと、そうしなさいって言うだろうし」
「……そっか」

 僕がそう言うと、智佳はフッと笑って僕の隣の席に座った。

「棄権しますって、言いに行かなくていいの?」
「さっき足捻ったこと、花形に言ってきたから……まあ、分かんだろ」
「まあ、確かにそれなら大丈夫だと思うけど」

 そう言った智佳の言葉に、花形先生が上手くフォローを入れてくれるだろうと思い、それ以上は言及しないことにした。
 隣に座るのも、少しの間安静にしているのだと言えば、何も言われないはずだ。

「ねぇ、智佳……」
「ん?」
「この間……って言っても大分前だけど、その……ごめんね」
「なにがだよ」
「僕、真剣に話聞いてなくて……ほとんど智佳任せだったから」
「そんなことか。まあ、確かに準備に時間は取られたけど、そんな難しいことしてねーし、べつに気にしてねーよ」

 何でもそつなくこなしてしまう智佳らしい返答だと思った。
 けれど、実際に僕があまり手伝えていなかったのは事実だ。それはしっかりと謝っておきたかった。

「ありがとう……本当にごめん」
「いいって。それより……あの時、なに考えてたんだ?」
「えっ?」
「なんか考え込んでただろ? 悩みでもあんのか?」
「べつに……悩みってほどのことじゃないけど」

 不意に問われて、あの時のことを思い出す。
 何とも言えない智佳の表情と、昔の自分が言った言葉――その二つで考え込んでいたのだと言ったら、智佳はどんなリアクションをするのだろうか。
 暫く悩んで、小さな声で尋ねてみる。

「その時……智佳、ちょっと様子がおかしかったから、気になって……」
「そうか? いつも通りだったと思うけどな」
「ちょっとだよ、なんか雰囲気に違和感があったっていうか」
「考えすぎだろ」
「そうかなぁ……あっ! あと、昔のことなんだけど……」

 もごもごと動く口でなんとか言葉を作り出して吐き出す。

「僕が、智佳の目をお日様みたいだって言ったの……覚えてる?」

 そう尋ねると、智佳は目を丸くして一瞬だけ驚いたように口元を掌で覆った。
 何か言いたそうな、そんな顔をしてから、そっと掌を離す。

「……忘れた」

 一拍置いて、返ってきた言葉にガタンと肩を下げる。
 嘘だ。きっと智佳は覚えてる。でも、言えないんだ。

「そっか……なら、いいや」

 どうして言えないのか、問いただしたい気持ちと、聞いてはいけないという気持ちが重なって、次第に聞いてはいけないという気持ちが勝っていった。
 暫くの沈黙が二人の間に吹き荒れて、お互いに何も話せないでいると、放送から二人三脚の実況が流れ出した。
 大翔と歩の息ピッタリな走行が目に映る。
 僕も、智佳とあれくらい信頼を築けたらいいのにと、勝手に心の中で思ってしまう。
 昔はそんなこと思いもしなかったのに。
 沈黙の中、騒がしい放送を聞きながら二人で大翔と歩の姿をジッと見つめた。
 相変わらずチクチクと痛む胸にそっと手をあてて、見つめた先の笑顔に僅かな嫉妬を覚えた。