【1話】
ドタドタと慌ただしい音で目を覚ます。
この階段の駆け下り方は十中八九、智佳のものだろう。
「……ったく、朝からうるさいな」
大あくびをして、ベッドから起き上がると、カーテンの端から漏れる朝日に今日も晴天であることが分かった。
いつも通りに制服に着替えて、下へ降りていくと、もうみんな起きていたようで各々に朝食をとっていた。
その側で、ネクタイを縛りながら立ってパンをかじっている男の姿が見える。
無造作に跳ねた黒髪に、金色の瞳。
僕よりもいくらか大きな背丈をしたソイツは、僕の姿を見るなりニヤニヤと笑って話しかけてくる。
「よう、翔和。おそよう」
「おはよう、智佳。今日もネクタイ苦戦してるの?」
皮肉に皮肉を返して嘲笑うと、ソイツ――霜月智佳はすぐにバツの悪そうな顔をしてこちらを睨んだ。
「べつに苦戦なんかしてねーし! 大体、今どきネクタイとかダッセーんだよ!」
「そんなこと言っていいのかな~? 一応きみ、学年首位の優等生でしょう?」
「勉強とネクタイ縛れるかは関係ねーだろ!」
「あっ、やっぱり縛れないんだ……だっさーい」
「うっ……!」
智佳を言い負かすのは、なかなかに面白い。
共学だったなら、きっと女子が放っておかないほどの所謂イケメン顔に高身長、高成績と揃ったスペックを持ち合わせている相手だからだろうか、言い返せないくらいの悪態を吐いてやるのは結構スカッとする。
「はいはい、そこまでにして……翔和も朝食食べなさい」
「あっ……先生! おはようございます!」
「はい、おはよう」
不意に声をかけられ、振り返ると、その先にはこの施設を管理している施設長の天川聖さんが立っていた。
両手に僕達の朝ごはんの盛られたプレートを持って、優しい笑みで語りかけてくる。
「智佳も、そろそろ出ないと遅刻するんじゃないか? 今日はサッカー部の助っ人なんだろう?」
「やべっ! いそがねーと!」
「翔和も、早く食べないと遅刻してしまうよ」
「はっ、はい!」
渡されたプレートを受け取って、適当な席に着く。
今日はスクランブルエッグにポテトサラダ、ロールパンとコーンスープの豪華なラインナップだ。
これを全て、朝早くから準備している先生にはいつも驚かされる。いったいいつ寝ているのだろうか。
少し心配になるけれど、優しい先生のことだ、聞いたところで笑って流されるのは目に見えて分かっているのであえて聞かないでいた。
「んじゃ、行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい。智佳」
「大翔たちも早く来いよー! 翔和は遅刻でいいけどな」
最後の余計な一言を無視して、ロールパンにかじりつく。
すると、食器を片付け終わったばかりの大翔こと、山中大翔が、クスクスと笑いながら話しかけてきた。
「ほんと、仲いいよね。智佳と翔和って」
「どこが……アイツのこと、僕大っ嫌いなんだけど」
「そう? 俺には仲良しに見えるけど?」
「眼科行ったほうがいいんじゃない」
パクパクと朝食を食べ進めながら聞く。
あんな奴と僕が仲が良いわけがない。現に、いつも喧嘩しかしていないし、まともな会話なんてきっと一度も交わしたことがない。
お互い、随分と小さい時から此処に居るけれど、物心ついた頃には既にそんな関係だった気がする。
「アイツ、きっと僕が勉強苦手なことも馬鹿にしてるよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「絶対あるっ! だって、この間だって、返ってきたテスト見て爆笑されたし!」
「あれって、確か英語の文法間違いが酷いって話じゃなかったか?」
「あっ、歩も食べ終わったの?」
「ああ」
突如、会話に交じってきた瀬川歩が元より小さな声でそう言ってきた。
歩は大翔と同時期にこの施設に来た者で、表情は乏しいが、わりと友人関係が広い方の人間だ。
引っ込み思案でなかなか交友関係を築けない僕とは違って、羨ましく思う。
「俺から見ても、あの間違い方は酷かったぞ」
「いやだって、英語ってなにがどうなってるのか意味不明で……」
「翔和って本よく読んでるから、そういうの得意そうなのにね」
「小説の場合は意味が載ってることが多いから」
「確かに。最近だと読み方のルビまでふってあるのもあるよな」
「へぇ~、そうなんだ~」
大翔は普段、漫画しか読まないと豪語しているだけあって、そっちの話にはまるで興味がないといった反応をしている。
まあ、読みたくないものを無理に進める気はないので構わないが。
「こらこら、もう行かないと全員遅刻だぞ」
丁度食べ終えた頃合いを見て、先生が声をかけてくれた。
時計を見ると、確かにもう出なければ遅刻確定の時間を指していた。
「ごちそうさまでした! 行ってきます!」
「行ってきま~す」
「行ってきます」
各々に挨拶をして、施設を出る。
朝の恒例行事のように手を振ってくれる先生の方を振り返りたいが、それをしていると完全に間に合わなくなるため、涙を飲んで学校までの道のりを駆け抜けた。
***
キーンコーンカーンコーン
滑りこみで教室に三人同時に入ると、チャイムの音に重なるように拍手が聞えてくる。
「三人ともギリギリセーフ! やったね!」
「ギリギリな時点でダメなんじゃねぇの?」
拍手をしながら笑う、薄紫色の髪をした青年の横で、呆れたように笑う小柄な青年。
坂下悠と下坂優の二人がお出迎えをしてくれるのは、もう日常茶飯事のことだった。
「悠くん、優くん、おはよう……はぁっ……ふぅー」
「今日も猛ダッシュお疲れ様」
「お前ら本当懲りねぇな」
「遅刻じゃないからオッケーでしょ!」
「俺はもうちょっと余裕がほしいけどな」
ポジティブな反応をする大翔とは違い、ゆったりとしたテンポで言う歩には非常に同意したいが、如何せん朝に弱いため、安易に同意することはできない。
「ホームルーム始めるぞ~! 席着け~」
荒い息を整えていると、担任をしている花形先生が教室に入ってきた。
今日も寝坊したのか、髪の毛はボサボサのままで、急いで剃ったのであろう髭がちらほらと見えている。
「今日のホームルームは体育祭の準備係を決めるぞ。立候補者は手を――っても、いるわけねぇか」
さすが担任、クラスのことをよく分かっている。
体育祭の準備係なんて面倒なこと、やりたがる生徒なんているわけがない。
それを加味してか、花形先生は突如白い箱を取り出すと、ガサガサと振って教卓の上へと置いた。
「立候補者なんかいねぇから、クジで決めるぞ~。異論は認めん!」
クラス中から盛大なブーイングが上がる。
けれど、花形先生からすればこれが一番楽かつ公平な対応なのだろう。
すぐに皆黙ると、順番にクジ引きをするための列を作っていた。
「全員引いたな……じゃあ、開封!」
その言葉と同時に、一斉にみんなの手元にある紙が開かれる。
僕の引いたものも開けてみると、中には赤色の丸が書かれていた。
「赤丸の奴~、手上げろ~」
まさかと思いながら、恐る恐る挙手をすると、同じく手を上げた智佳と目が合った。
「おっ! じゃあ、うちのクラスは如月と霜月で決定だな! 頑張れよ!」
「マジかよ……」
「ありえない……」
ただでさえ嫌な準備係だというのに、なぜよりにもよって智佳と一緒なのか。
自分のクジ運のなさを嘆きながら、ゆっくりと手を下ろす。
「お前なんかと係とか、最悪」
「それ、僕も同意見」
「んだとぉっ!」
「なんだよっ!」
「あ~! もう、うっさいうっさい! 痴話喧嘩なら帰ってからにしろ!」
そう言って、颯爽と授業を開始した花形先生の仲裁もあり、智佳を睨みつけるだけで終わり、仕方なく教科書を開く。
相変わらず意味の分からない英語の授業が、今日は一段と意味不明に聞こえた。
***
「今日はここまで! 体育祭の準備係はこの後説明を受けに行くように。じゃあ、解散!」
花形先生が言うなり、クラス中が一斉に力を抜いて、放課後の予定を話し出す。
ザワザワとした教室の中で、恐らく僕だけが孤立したようにいたたまれない気持ちを抱いていた。
「説明会、行くぞ」
「分かってるよ」
べつに一緒に行く必要なんてないのに、何故か智佳は僕にそう話しかけてきた。
言われるまま立ち上がり、説明会用の教室へと向かう。
そういえば、こうやって智佳の横を歩くのは随分と久しぶりな気がする。
最近は喧嘩ばかりで、一緒にどこかに行くなんてこともなかったからかもしれない。
なんだか、とても不思議な気持ちだ。
「そういえば、こうやってお前の隣歩くのって久しぶりだな」
「えっ……」
まさか思っていたことを智佳の口から聞くとは思っていなかったので、驚いてマヌケな声が出てしまった。
「ガキの頃はウザイくらい一緒に居たけどな」
「それは……同じところに住んでるんだから、仕方なかったっていうか……」
「……そうだな」
同じ施設で育って、子供の頃は一緒に居るのが当たり前だと思ってよく遊んでいた記憶が蘇ってくる。けれど、それは子供の頃の話だ。
いまは、その頃と比べて一緒にいる時間は各段に減ってきているように思った。
でも、それだけ自分達が大人になってきたという意味ではないかとも思う。
いくら一つ屋根の下で暮らしているとはいえ、なんでも一緒にというのは無理だ。
けど、なんでだろうか、智佳の横顔がやけに寂しそうに見えるのは。
「ち――」
「この教室だな。失礼しまーす」
「あっ……」
智佳の表情の意味が知りたくて話しかけようとしたのと同時に、智佳が説明会用の教室の扉を開けた。
そうされてしまうと、さすがに続きを言うことはできず、開けた口をそっと閉じた。
「……失礼します」
教室に入ると、既に他のクラスや先輩達が集まっていて、僕たちが最後のようだった。
「~というわけで、一年生は各クラス別にアンケートを取ってください」
生徒会長の説明をぼんやりと聞きながら、隣で真面目にメモを取る智佳を見つめる。
癪だけれど、腹が立つほどに整った顔は見ていて案外飽きないものだ。
そういえば、子供の頃に智佳の瞳をお日様みたいだと言ったことがあった。
あの時、智佳はなんと返答してきたのだったろうか――。
「わ……翔和っ!」
「……へっ?」
「説明会終わったぞ。てか、お前全然話聞いてなかっただろ」
「あー……ごめん」
「ったく、まあ俺がメモっといたからいいけどよ」
びっしりと書き込まれたメモを見せて、智佳は深く溜息を吐いていた。
確かに何も聞いていなかった僕も悪いとは思うけれど、そこまで露骨に呆れられると多少は腹が立った。
「だから準備係なんて嫌だったんだよ……」
「恨むなら自分のクジ運を恨めよ」
「そうだけど」
「とりあえず、俺らはクラスでやりたい種目のアンケートだってよ。あと当日の救護班担当な」
「分かった」
「でも俺らが救護班で良いのかねぇ……翔和が一番に怪我しそうなのに」
「はぁ?」
ニタニタと笑って、そう言ってきた智佳に思わず低い声が漏れる。
「それどういう意味だよ」
「そのまんま。お前どんくさいし、すぐ転んで怪我すんじゃん」
「それは子供の頃の話だろ!」
「そうだっけか~? この間だって、聖さんに手当されてたくせに」
「あれは……」
確かに最近、料理を手伝っていた時にうっかり指を切ってしまい、先生に手当をしてもらった。
けれど、それと体育祭は関係ない。
どうして、そんなことまでクドクドと言われなければいけないのか。
さすがに腹が立って、智佳をキツく睨みつける。
「なんだよ、本当のこと言っただけだろ」
「確かにそうだけど、いちいちウザイんだよ……昔のことまでネチネチと」
「覚えてるんだから仕方ねーだろ」
「そんなことまで覚えてて、突いてくるとか……智佳って本当小姑みたいだよね」
「んだとっ!」
「なに怒ってるの? 本当のこと言っただけだけど?」
「……っ! もういい、俺先帰る」
「ご勝手に」
言うなり、バンッ!と勢いよく閉められた扉の音に、ビクンと肩を揺らす。
相当頭にきたのか、いつもなら笑って終わらせる智佳が珍しく怒って去って行くのを見て、僅かに胸がチクリと痛んだ。
「……なんだよ、そんなに怒ることないじゃないか」
誰も居ない教室でぽつりと呟く。
確かに言い過ぎたかもしれない。けれど、先に喧嘩を売ってきたのは智佳だ。
それに言い返しただけで、どうしてあんな反応をされなければいけないのか。
「智佳の馬鹿……」
そう呟いて、自分へのブーメランだなと溜息を吐く。
こんな気持ちで一緒になにかをするだなんてできるのだろうか。
今でも、施設に帰るのが怖いくらいなのに。
そんな思いを抱きながら、来る体育祭にむけての準備を進めるしかないと言い聞かせて、教室を出た。
人気のない廊下を歩いていると、ふと、智佳の横顔が頭を過って、あの表情の意味を知りたくなった。
だけど、いまは――。
何度目か分からない深い溜息を吐いて、その日はゆっくりと帰路を歩いた。
ドタドタと慌ただしい音で目を覚ます。
この階段の駆け下り方は十中八九、智佳のものだろう。
「……ったく、朝からうるさいな」
大あくびをして、ベッドから起き上がると、カーテンの端から漏れる朝日に今日も晴天であることが分かった。
いつも通りに制服に着替えて、下へ降りていくと、もうみんな起きていたようで各々に朝食をとっていた。
その側で、ネクタイを縛りながら立ってパンをかじっている男の姿が見える。
無造作に跳ねた黒髪に、金色の瞳。
僕よりもいくらか大きな背丈をしたソイツは、僕の姿を見るなりニヤニヤと笑って話しかけてくる。
「よう、翔和。おそよう」
「おはよう、智佳。今日もネクタイ苦戦してるの?」
皮肉に皮肉を返して嘲笑うと、ソイツ――霜月智佳はすぐにバツの悪そうな顔をしてこちらを睨んだ。
「べつに苦戦なんかしてねーし! 大体、今どきネクタイとかダッセーんだよ!」
「そんなこと言っていいのかな~? 一応きみ、学年首位の優等生でしょう?」
「勉強とネクタイ縛れるかは関係ねーだろ!」
「あっ、やっぱり縛れないんだ……だっさーい」
「うっ……!」
智佳を言い負かすのは、なかなかに面白い。
共学だったなら、きっと女子が放っておかないほどの所謂イケメン顔に高身長、高成績と揃ったスペックを持ち合わせている相手だからだろうか、言い返せないくらいの悪態を吐いてやるのは結構スカッとする。
「はいはい、そこまでにして……翔和も朝食食べなさい」
「あっ……先生! おはようございます!」
「はい、おはよう」
不意に声をかけられ、振り返ると、その先にはこの施設を管理している施設長の天川聖さんが立っていた。
両手に僕達の朝ごはんの盛られたプレートを持って、優しい笑みで語りかけてくる。
「智佳も、そろそろ出ないと遅刻するんじゃないか? 今日はサッカー部の助っ人なんだろう?」
「やべっ! いそがねーと!」
「翔和も、早く食べないと遅刻してしまうよ」
「はっ、はい!」
渡されたプレートを受け取って、適当な席に着く。
今日はスクランブルエッグにポテトサラダ、ロールパンとコーンスープの豪華なラインナップだ。
これを全て、朝早くから準備している先生にはいつも驚かされる。いったいいつ寝ているのだろうか。
少し心配になるけれど、優しい先生のことだ、聞いたところで笑って流されるのは目に見えて分かっているのであえて聞かないでいた。
「んじゃ、行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい。智佳」
「大翔たちも早く来いよー! 翔和は遅刻でいいけどな」
最後の余計な一言を無視して、ロールパンにかじりつく。
すると、食器を片付け終わったばかりの大翔こと、山中大翔が、クスクスと笑いながら話しかけてきた。
「ほんと、仲いいよね。智佳と翔和って」
「どこが……アイツのこと、僕大っ嫌いなんだけど」
「そう? 俺には仲良しに見えるけど?」
「眼科行ったほうがいいんじゃない」
パクパクと朝食を食べ進めながら聞く。
あんな奴と僕が仲が良いわけがない。現に、いつも喧嘩しかしていないし、まともな会話なんてきっと一度も交わしたことがない。
お互い、随分と小さい時から此処に居るけれど、物心ついた頃には既にそんな関係だった気がする。
「アイツ、きっと僕が勉強苦手なことも馬鹿にしてるよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「絶対あるっ! だって、この間だって、返ってきたテスト見て爆笑されたし!」
「あれって、確か英語の文法間違いが酷いって話じゃなかったか?」
「あっ、歩も食べ終わったの?」
「ああ」
突如、会話に交じってきた瀬川歩が元より小さな声でそう言ってきた。
歩は大翔と同時期にこの施設に来た者で、表情は乏しいが、わりと友人関係が広い方の人間だ。
引っ込み思案でなかなか交友関係を築けない僕とは違って、羨ましく思う。
「俺から見ても、あの間違い方は酷かったぞ」
「いやだって、英語ってなにがどうなってるのか意味不明で……」
「翔和って本よく読んでるから、そういうの得意そうなのにね」
「小説の場合は意味が載ってることが多いから」
「確かに。最近だと読み方のルビまでふってあるのもあるよな」
「へぇ~、そうなんだ~」
大翔は普段、漫画しか読まないと豪語しているだけあって、そっちの話にはまるで興味がないといった反応をしている。
まあ、読みたくないものを無理に進める気はないので構わないが。
「こらこら、もう行かないと全員遅刻だぞ」
丁度食べ終えた頃合いを見て、先生が声をかけてくれた。
時計を見ると、確かにもう出なければ遅刻確定の時間を指していた。
「ごちそうさまでした! 行ってきます!」
「行ってきま~す」
「行ってきます」
各々に挨拶をして、施設を出る。
朝の恒例行事のように手を振ってくれる先生の方を振り返りたいが、それをしていると完全に間に合わなくなるため、涙を飲んで学校までの道のりを駆け抜けた。
***
キーンコーンカーンコーン
滑りこみで教室に三人同時に入ると、チャイムの音に重なるように拍手が聞えてくる。
「三人ともギリギリセーフ! やったね!」
「ギリギリな時点でダメなんじゃねぇの?」
拍手をしながら笑う、薄紫色の髪をした青年の横で、呆れたように笑う小柄な青年。
坂下悠と下坂優の二人がお出迎えをしてくれるのは、もう日常茶飯事のことだった。
「悠くん、優くん、おはよう……はぁっ……ふぅー」
「今日も猛ダッシュお疲れ様」
「お前ら本当懲りねぇな」
「遅刻じゃないからオッケーでしょ!」
「俺はもうちょっと余裕がほしいけどな」
ポジティブな反応をする大翔とは違い、ゆったりとしたテンポで言う歩には非常に同意したいが、如何せん朝に弱いため、安易に同意することはできない。
「ホームルーム始めるぞ~! 席着け~」
荒い息を整えていると、担任をしている花形先生が教室に入ってきた。
今日も寝坊したのか、髪の毛はボサボサのままで、急いで剃ったのであろう髭がちらほらと見えている。
「今日のホームルームは体育祭の準備係を決めるぞ。立候補者は手を――っても、いるわけねぇか」
さすが担任、クラスのことをよく分かっている。
体育祭の準備係なんて面倒なこと、やりたがる生徒なんているわけがない。
それを加味してか、花形先生は突如白い箱を取り出すと、ガサガサと振って教卓の上へと置いた。
「立候補者なんかいねぇから、クジで決めるぞ~。異論は認めん!」
クラス中から盛大なブーイングが上がる。
けれど、花形先生からすればこれが一番楽かつ公平な対応なのだろう。
すぐに皆黙ると、順番にクジ引きをするための列を作っていた。
「全員引いたな……じゃあ、開封!」
その言葉と同時に、一斉にみんなの手元にある紙が開かれる。
僕の引いたものも開けてみると、中には赤色の丸が書かれていた。
「赤丸の奴~、手上げろ~」
まさかと思いながら、恐る恐る挙手をすると、同じく手を上げた智佳と目が合った。
「おっ! じゃあ、うちのクラスは如月と霜月で決定だな! 頑張れよ!」
「マジかよ……」
「ありえない……」
ただでさえ嫌な準備係だというのに、なぜよりにもよって智佳と一緒なのか。
自分のクジ運のなさを嘆きながら、ゆっくりと手を下ろす。
「お前なんかと係とか、最悪」
「それ、僕も同意見」
「んだとぉっ!」
「なんだよっ!」
「あ~! もう、うっさいうっさい! 痴話喧嘩なら帰ってからにしろ!」
そう言って、颯爽と授業を開始した花形先生の仲裁もあり、智佳を睨みつけるだけで終わり、仕方なく教科書を開く。
相変わらず意味の分からない英語の授業が、今日は一段と意味不明に聞こえた。
***
「今日はここまで! 体育祭の準備係はこの後説明を受けに行くように。じゃあ、解散!」
花形先生が言うなり、クラス中が一斉に力を抜いて、放課後の予定を話し出す。
ザワザワとした教室の中で、恐らく僕だけが孤立したようにいたたまれない気持ちを抱いていた。
「説明会、行くぞ」
「分かってるよ」
べつに一緒に行く必要なんてないのに、何故か智佳は僕にそう話しかけてきた。
言われるまま立ち上がり、説明会用の教室へと向かう。
そういえば、こうやって智佳の横を歩くのは随分と久しぶりな気がする。
最近は喧嘩ばかりで、一緒にどこかに行くなんてこともなかったからかもしれない。
なんだか、とても不思議な気持ちだ。
「そういえば、こうやってお前の隣歩くのって久しぶりだな」
「えっ……」
まさか思っていたことを智佳の口から聞くとは思っていなかったので、驚いてマヌケな声が出てしまった。
「ガキの頃はウザイくらい一緒に居たけどな」
「それは……同じところに住んでるんだから、仕方なかったっていうか……」
「……そうだな」
同じ施設で育って、子供の頃は一緒に居るのが当たり前だと思ってよく遊んでいた記憶が蘇ってくる。けれど、それは子供の頃の話だ。
いまは、その頃と比べて一緒にいる時間は各段に減ってきているように思った。
でも、それだけ自分達が大人になってきたという意味ではないかとも思う。
いくら一つ屋根の下で暮らしているとはいえ、なんでも一緒にというのは無理だ。
けど、なんでだろうか、智佳の横顔がやけに寂しそうに見えるのは。
「ち――」
「この教室だな。失礼しまーす」
「あっ……」
智佳の表情の意味が知りたくて話しかけようとしたのと同時に、智佳が説明会用の教室の扉を開けた。
そうされてしまうと、さすがに続きを言うことはできず、開けた口をそっと閉じた。
「……失礼します」
教室に入ると、既に他のクラスや先輩達が集まっていて、僕たちが最後のようだった。
「~というわけで、一年生は各クラス別にアンケートを取ってください」
生徒会長の説明をぼんやりと聞きながら、隣で真面目にメモを取る智佳を見つめる。
癪だけれど、腹が立つほどに整った顔は見ていて案外飽きないものだ。
そういえば、子供の頃に智佳の瞳をお日様みたいだと言ったことがあった。
あの時、智佳はなんと返答してきたのだったろうか――。
「わ……翔和っ!」
「……へっ?」
「説明会終わったぞ。てか、お前全然話聞いてなかっただろ」
「あー……ごめん」
「ったく、まあ俺がメモっといたからいいけどよ」
びっしりと書き込まれたメモを見せて、智佳は深く溜息を吐いていた。
確かに何も聞いていなかった僕も悪いとは思うけれど、そこまで露骨に呆れられると多少は腹が立った。
「だから準備係なんて嫌だったんだよ……」
「恨むなら自分のクジ運を恨めよ」
「そうだけど」
「とりあえず、俺らはクラスでやりたい種目のアンケートだってよ。あと当日の救護班担当な」
「分かった」
「でも俺らが救護班で良いのかねぇ……翔和が一番に怪我しそうなのに」
「はぁ?」
ニタニタと笑って、そう言ってきた智佳に思わず低い声が漏れる。
「それどういう意味だよ」
「そのまんま。お前どんくさいし、すぐ転んで怪我すんじゃん」
「それは子供の頃の話だろ!」
「そうだっけか~? この間だって、聖さんに手当されてたくせに」
「あれは……」
確かに最近、料理を手伝っていた時にうっかり指を切ってしまい、先生に手当をしてもらった。
けれど、それと体育祭は関係ない。
どうして、そんなことまでクドクドと言われなければいけないのか。
さすがに腹が立って、智佳をキツく睨みつける。
「なんだよ、本当のこと言っただけだろ」
「確かにそうだけど、いちいちウザイんだよ……昔のことまでネチネチと」
「覚えてるんだから仕方ねーだろ」
「そんなことまで覚えてて、突いてくるとか……智佳って本当小姑みたいだよね」
「んだとっ!」
「なに怒ってるの? 本当のこと言っただけだけど?」
「……っ! もういい、俺先帰る」
「ご勝手に」
言うなり、バンッ!と勢いよく閉められた扉の音に、ビクンと肩を揺らす。
相当頭にきたのか、いつもなら笑って終わらせる智佳が珍しく怒って去って行くのを見て、僅かに胸がチクリと痛んだ。
「……なんだよ、そんなに怒ることないじゃないか」
誰も居ない教室でぽつりと呟く。
確かに言い過ぎたかもしれない。けれど、先に喧嘩を売ってきたのは智佳だ。
それに言い返しただけで、どうしてあんな反応をされなければいけないのか。
「智佳の馬鹿……」
そう呟いて、自分へのブーメランだなと溜息を吐く。
こんな気持ちで一緒になにかをするだなんてできるのだろうか。
今でも、施設に帰るのが怖いくらいなのに。
そんな思いを抱きながら、来る体育祭にむけての準備を進めるしかないと言い聞かせて、教室を出た。
人気のない廊下を歩いていると、ふと、智佳の横顔が頭を過って、あの表情の意味を知りたくなった。
だけど、いまは――。
何度目か分からない深い溜息を吐いて、その日はゆっくりと帰路を歩いた。



