季節はすでに四月の中頃となり、山里に咲き誇った桜はすでに散り際を迎え、はらはらと落ちる花びらによってまるで桜色の絨毯をしきつめたようだった。

綾羽は呉竹家の敷地の奥、古びた涸れ井戸のそばにある離れに居を構えていた。周囲には呉竹の者によって幾重にも張り巡らされた結界があり、何人たりとも通すつもりはない、と言った様子だった。

腕に巻かれた宝珠は日ごとに色濃くなり、光はまるで脈打つように輝いている。綾羽はそれをそっと指で撫で、小さくため息をついた。

跡取りを身ごもった女として大事にされていると言えば聞こえがいいが、元々生贄に差し出されるのは綾羽だったはずで、それが失敗した今、おそらく大人たちは綾羽の背後に漂う『強大なだれか』の存在を気にしていて、綾羽と腹の子を餌におびき寄せようとしているのは明らかだった。

沙代理の元に通っているのが邪な存在だとしたら、呉竹家が生き残るためにはそれしかないのだ。

やはりあの時、蒼月の手を取ってそのまま山から逃げてしまえばよかったのかもしれない、と綾羽は思っている。

 それにしても……本当に、この中に、子が――?

そっと下腹に手をあててみるが、自分の中に新たな命が芽吹き始めている実感はまだなかった。

綾羽が考え込んでいると、梟のばさばさという羽音が聞こえてきて、綾羽のこわばった顔が少しほころんだ。

夜になると、蒼月の飼っている梟が様子を見に来てくれるのだ。

「おいで……」

綾羽が庭に出て、こんもりとした木の枝に止まっている梟に声をかけた瞬間。

「綾羽」

 背後から名を呼ぶ声に綾羽が振り返ると、沙代里が立っていた。艶やかな黒髪を垂らし、口元には笑みを浮かべているが、かつての美貌は見る影もないほどにげっそりとやつれていた。

「沙代理……」
「……花を眺めていたの。いいご身分ね」

 綾羽は黙って頭を下げる。

「母子そろって、人の男にすがるしか能がないなんて。ふしだらな女」

 母のことまで言われて、綾羽の胸にずきりと鈍い痛みが走ったが、唇を噛みしめ、反論を飲み下す。言い返したところで、妹の怒りは増すばかりだ。

──蒼月様が来てくれるまで、あまり刺激したくはない……。

 綾羽がそう思っていても、沙代里の突き刺すような視線は綾羽の袖口へと向いている。もちろん、宝珠を睨み付けているのだ。

「私より上の神に選ばれたと、これみよがしに……」

 綾羽は慌てて袖を押さえる。

「そういうわけじゃ……」
「旦那様はおっしゃっていたわ。その宝珠が、私たちに悪い影響を及ぼしていると」

 旦那様……その響きに、綾羽の心は凍りついた。彼女がそう呼ぶのは、この土地に根付いていた神でもなく、ましてや蒼月でもない。

 二人の間に夕暮れのぬるい風が吹き、桜の花びらが渦を巻いて井戸に落ちる。

 その時だった。

 ――ひたり。

 耳の奥で何か湿った気配がして、綾羽は思わず振り返ったが、何もいなかった。

「……あら。旦那様がおいでなさったわ」

 綾羽の背筋を冷たいものが走る。沙代理は桜吹雪の中で、うっとりと聞こえるはずのない声に耳を傾けている。

「……ねぇ、今旦那様が教えてくれたわ。あんたのお腹にいるのは、神の子なんかじゃないって」

 綾羽の心臓がひとつ、大きく跳ねた。沙代理は妖しい光を宿す瞳で綾羽を見据え、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

「それなら私が、妹として、責任を持って殺してあげなきゃ」

 ぞくりとするほどの悪意に、綾羽は後ずさった。井戸の縁が背中に迫った時、バサバサ、と羽音が頭上から響いて、一羽の大きな梟が綾羽を守るように舞い降りた。

「何よこの鳥、汚らわしい!」

 沙代理が金切声を上げながら手のひらを掲げると、水の異能が弾け、梟は力なく地に叩き落とされる。

「私の邪魔するものは許さないわ」

 沙代理は憎々しげに吐き捨てながら倒れた梟を踏みつけ、綾羽にじりじりと近寄った。

「その汚れた腹を、清めなければ。そんなところから生まれた子が呉竹の跡取りだなんて有り得ない」

 言葉と共に、綾羽の身体はどん、と強く押された。視界がぐらりと傾く。

「助け──」

蒼月を呼ぶ声は、音にはならなかった。花びらが舞い散る中、綾羽の姿は空井戸の底へ吸い込まれていった。