「や、破ってしまいましたが、布団はまだ使えますので……今宵はそちらでお休みになってください」

 ややしばらく、蒼月のどこか綾羽をからかうような沈黙に耐えきれなくなって、綾羽はやっとのことで口を開いた。

「そこまではお世話になれない」
「いえ、どうせ今夜は眠りませんので」

 宵嫁は神の訪れがあるまで勝手に休んではいけないのだ。

「──宵嫁か」

 その言葉に綾羽ははっと振り向いた。

「なぜ……それを」
「綾羽よ。命の恩人として忠告するが──今宵、神はあなたのもとを訪れない」

 蒼月の言葉に、綾羽はうつむいた。

「わかっております……」

「先ほどは家名を名乗りそびれた。姓は篠宮という」
「……篠宮の……梟閣下でございますか」

 綾羽は息を呑み、床に手をついて頭を下げた。この辺りで生まれ育ち、散々学がなければ能もないと馬鹿にされがちな綾羽ではあるが、篠宮の名は聞いたことがあった。

 夜を治め、帝の命を受けて妖を狩るという公爵家。それならば外には秘されている呉竹家の奇習も知っているはずだった。

「しかし、ならば……」

 なぜ蒼月は大切な儀式と知っていて、今夜この山を訪れたのか。

 それ以前に、どうして土地神の力がもっとも強くなる夜、人を襲うようなあやかしがこの山に出たのか──。

「この山にいるのは、もはや神ではない。神はとうの昔に、邪のものに喰われた」

 刃のように鋭い言葉が、綾羽の胸を突き刺した。

「……え……」

 蒼月が懐から取り出した小刀の柄には確かに篠宮の紋が彫り込まれていて、蒼月の身分を明らかのしていた。冗談で言っていいようなことではないのだと、綾羽の喉がごくりと鳴る。

「俺に手傷を負わせるほどのあやかしが山に潜んでいた──それこそが、確かな証拠だ」

 綾羽は震える視線を蒼月の腕に落とした。

「だからいいか、もし宵嫁を求める者が来ても、それは神のふりをして成り代わろうとするあやかしだ。決して扉を開けてはならない」

 これまで信じてきた慣わしや掟は何だったのか、それに、神がいなくなったことに気づかぬものばかりではないだろうと綾羽は思う。

 自分は家族と信じていた人々に欺かれていたのだ。

 そう認識したとき、体中の血がすうっと冷えていくように感じた。

「花嫁は二人いるのです。東の方に、私の妹が……」

 沙代理にはずいぶんひどくあたられはしたが、それでもまだ、情があった。

「呉竹の娘であれば、神と邪なものの判別はつこう。結界が張ってあるのだから、開けなければ入れない」
「そ、そう……ですよね」

 綾羽はほっと胸を撫で下ろした。

「綾羽、一つ尋ねたい。もし呉竹家が取り潰しになると聞いたら――どうする」
「そんな……恐ろしいことをおっしゃらないでくださいませ」

 どんなに蔑まれようと、自分にとっては唯一の拠り所であり、外の世界など知らない。そこが失われることなど、想像すらしたくないことだった。

「俺は帝都に戻り、呉竹家は帝から任された土地を守護することができていなかったと報告せねばならない」

 綾羽はぐっと唇を引き結んだ。それこそが蒼月がこの地を訪れた理由だろうからだ。

「恩義もあるが……不思議と、あなたのことが気にかかる。もし妖ではなく、人間の男が好みなら……ぜひ、俺と都へ来てくれないか」

 綾羽はこれまで一度も帝都に出かけたことがなかった。行こうと思ったことすらない。

 蒼月の言葉は、そんな綾羽にはあまりに突拍子もなく響いて、目をぱちぱちとさせるしかなかった。

「わ、私のような不気味な容姿が……」
「あなたは美しい。それに、確かに異能の力がある。単体では能力を感じられないだろうが、あなたの力は、近くにいるものの霊力を増幅させる」
「え」
「これがその証拠だ」

 蒼月は自身の腕に手をあてた。綾羽は言葉を紡ぐことができない。蒼月とは知り合って数刻も経っていないが、彼が嘘をついたりいい加減なことを言う人ではないと、魂が告げていた。

「……その様子だと、自分の力を知ることなく過ごしていたようだな」
「はい……」

『綾羽、沙代理さまと仲良くね。そうすれば、ご当主さまもあなたのことをないがしろにはしないでしょうから──』

 母の今際の際の言葉が綾羽の脳裏に蘇った。

 ──お母さま、それはそういうことだったの……。

 神ではなくあやかしがいると知っていて、嫁ではなく贄として差し出されたこと、異能の力がないと偽られていたこと。その二つの悲しみがぐるぐると綾羽の中で渦巻いている。

「呉竹の家が、神を失ったことを認められないのなら――」

 うつむいた綾羽にかけられた蒼月の声は、静かでありながら底に鋭さを帯びていた。

「今夜を見送ったとしても、次の満月の番にはまた儀式があるだろう。ここは危ない。あなたを放ってはおけない」

 蒼月の言葉に、綾羽はびくりと震えた。今晩を乗り切って食われていないとなれば──綾羽はまた山へやられるだろう。

「で、でも、私。一度里に帰って、ひいお祖母様に確認をしたいのです」
「急に見知らぬ男に誘われても、返事が出来ないのは当然のこと。……なら、これを身につけておくといい」

 そう言って蒼月は懐から組紐を取り出し、綾羽の手首にそっと巻きつけた。淡く水色に光る宝珠があしらわれている。

「ただの飾りではないことは、あなたにもわかるはずだ」
「こ、このような立派な……」

 宝珠は強い霊力が結晶になったもので、純度の高いものは異能をあやつる家にとっては家宝となり、到底値のつけられるものではないと言われている。

「お礼と約束の証だ。返事は――また満月の晩に聞かせてほしい。俺は必ずやって来る」
「そんな……蒼月様、私は……」

 言いかけた綾羽を、彼は軽く制した。

「もう、夜が明けるから行かなくては。俺に出会ったことは、誰にも話してはいけない」
「……はい」

 やがて、夜が白み始める。蒼月は朝日とともに外へ出ると、振り返らずに歩み去った。眩しさに目を細めた綾羽は、彼の背を追おうとしたが、その姿は光の向こうにすでに見えなくなっていた。