――そして、辿り着いた西の屋敷の中で、綾羽は一人、腰を下ろしているのだった。

 側には運び込まれたばかりの新品の布団と酒、そして肴が用意されているが、とても神を迎えるというよりは、せいぜい普通の人間をもてなす程度の品といったところだ。

「……いけない、いけない。不敬なことを考えては……事情はどうあれ、選ばれた以上は役割をしっかりと果たさないと」

 綾羽が独り言を呟いたとき、扉の向こうで――がたり、と硬い音が響いた。

「……!」

 しばらくして、ためらいがちに扉を叩く音が二度、三度聞こえたのちに、若い男性の声が響いた。

「灯りが見えたので、夜分遅くに失礼いたす。……毒蛇に噛まれてしまい、手当のためにしばし滞留させせていただけないだろうか」

 扉の向こうからの声に、綾羽はぶるりと震えた。

 もし相手が神ならばこんなふうに助けを乞うはずがない。音もなく扉を押し開け、ただ静かに現れるだろう。反対に、悪しきものなら屋敷には入れず――声をかけて油断を誘おうとする。

 つまり宵嫁として神の訪れを待つ綾羽がするべきことは、なんにせよ扉を開けないことだった。例え困りきった善良な人間だとしても──儀式中に人間の男を招き入れたことが分かれば、どんな折檻を受けるかわかったものではない。

 綾羽はぎゅっと、震える手を胸元にあて、呼吸を整えた。

「あの、その……ただいま、この屋敷は、儀式のために使用しておりまして……」
「ここが呉竹家の領域ということは把握している」

 扉越しの声はこの地のしきたりを知るもので、血が通った人間のものだった。丁寧で落ち着いた口調だが、時折荒い息遣いが混じり、切羽詰まった響きがある。

「では……里の方、ですか?」
「いや。私は……都から来たものだ。帝の命を受けている」

 都からの来客があるなど、話に聞いていない。しかし綾羽は立場のある人間ではないし、大切な話が耳に入らないこともあるだろう。

「詳しくは言えぬが、私は悪い者ではない。信じてほしい。……このままでは命が危ういのだ」

 綾羽は息を詰めしばし迷ったが、その声はどうしても邪なものには思えない。

『綾羽、どんな時でも人には優しくするのよ。そうすれば、きっといいことがあるからね』

 亡き母の声が胸の奥で蘇った。

 ──そう、お母様の言うとおり。今、この方が頼りにできるのは私しかいない。どうせ望まぬ神に嫁ぐ、それも予備でしかない自分なのだから……。

「わかりました。呉竹家の治める山、しかも神聖な儀式の最中に傷病者が──死人が出てはいけません。どうぞ」

 扉を開け、向こうに立っていた青年を確認して、綾羽は目を見開いた。

 艶やかな黒髪に、血の気のない肌。黒いはずの瞳はどこか蒼を感じる。

 もし先ほどのやり取りがなければ、彼を見た瞬間、迷わず神と信じただろう――あるいは、恐ろしさに立ち尽くしていたかもしれない。

 しかし落ち着いて眺めてみるとその眼差しには芯の強さがあり、立ち姿も凛として、近寄りがたい美貌とは裏腹に、誠実な青年に違いないと綾羽に直感させるものがあった。