夕暮れの空に蒼月の声が聞こえて、綾羽は霞む視界の中、必死に虚空に手をのばした。誰かに手を掴まれたかと思えば、次の瞬間、綾羽は強い光に包まれ、地上に降り立っていた。ずぶ濡れのまま、自分を強く抱き寄せている人──それはまさしく、篠宮蒼月その人だった。

「蒼月様……!!」
「綾羽、遅れてすまない」

 震える身体を包む声は驚くほど優しく、胸の奥に広がる安心に綾羽は涙を滲ませた。

「だ、誰よ、あなたっ! 私は呉竹家の次期当主、宵嫁としてこの家に巣くう化け物を処分しているところなんだからっ!!」

 自分の力を完全に打ち消されたことに、沙代理はひどくうろたえているようだった。

「──私の名は篠宮蒼月」

 その一言に、沙代理はおろか、騒ぎを聞きつけてやってきた一族のものたちの表情が凍りついた。

 篠宮の名を知らぬ者はこの国にはいない。帝都にて権勢を振るう名家、であり、蒼の名を冠するものは篠宮家の嫡男として知られている。その存在を前に、誰もが息を呑んだ。

「ど、どうして篠宮公爵家の方が、できそこないの綾羽と……」
「彼女の腹にいるのは──神の子ではない。俺の子だ」

 その一言に、沙代里の顔色が真っ青に変わる。喉を震わせ、信じられぬものを見るように綾羽と蒼月を交互に見つめた。

「……人間の……子……?」
「そうだ」

 蒼月の言葉を聞いて、沙代理は高笑いを始めた。

「そうだったのね、ふしだら女! 神を裏切って、人間の男の子を孕むなんて──!」

 蒼月はその反応を意に介さず、さらに続ける。

「俺はこの呉竹家の調査を──帝より仰せつかっていた」

 蒼月の言葉に、再び人々がどよめく。

「そのさなか、あやかしと交戦し窮地に陥った俺を綾羽が救ってくれたのだ」

 蒼月の声には有無を言わさぬ説得力があり、周囲に困惑の色が浮かび始めた。宵嫁の儀式を行っているにもかかわらず、あやかしが山に出るのはどういうことなのか──と、人々の視線はゆっくりとやってきた当主──綾羽の曾祖母へと向いた。

「……呉竹家の当主よ。この現状、知らぬとは言わせぬぞ」

 蒼月の声に、曾祖母はうつむいたままだった。

「ひいお祖母様、どういうことなの! 当家に何の後ろ暗いことがあるっていうの?」

 沙代理の声だけが、濃くなっていく空に響き渡る。

「だって、私のところには──」
「呉竹沙代理。お前の腹にいるのは神の子ではない。あやかしだ」
「な……」

 人々は言葉を失い、ただ息を呑む。沙代里の顔から血の気が引き、わなわなと震える指が宙を掻いた。

 そのとき、ずっと黙していた曾祖母が口を開いた。

「──そうだ」

 細い声であったが、その響きには抗えぬ重みがあった。沙代理はぎょっと曾祖母を振り返り、顔を引きつらせる。

「う、嘘よ! そんなこと、あるわけないわ! そうしたら、私は──私は──」
「呉竹の家は神域を守ることができず、この土地を邪神に乗っ取られた。だが、それを隠すために──綾羽を生贄に差し出し、誤魔化そうとしたな。宵嫁が二人いたのはそのためだ。だが、入れ替えによって守りたかった本命の娘のもとへ、あやかしが現れてしまった」

「そんなの、嘘よ!」

 沙代理の叫びはますます甲高くなり、次第にか細くなっていった。

「今ここで、真偽を論じるつもりはない。綾羽は俺の花嫁として連れて行く。時期、帝都より沙汰が降りるだろう」