涸れ井戸の縁から突き落とされた綾羽は、とっさに両腕で腹を庇い、衝撃に備えて固く瞼を閉じた。
井戸の底に叩きつけられ、腹の子を失ってしまう──そんな恐怖に胸を締めつけられたが、次の瞬間に綾羽の身を包んだのは土の冷たさではなく、温かく、柔らかな光だった。
「え……?」
おそるおそる目を開けると。全身を柔らかな光が包み、ふわりと綾羽を井戸の底に降ろした。
「宝珠が……!」
袖口からのぞいていた宝珠から光が放たれているのだった。
「大丈夫……夜になれば、蒼月様が来てくださる……」
姿はなくとも、蒼月は必ず来てくれる──梟の存在が、綾羽に希望を与えていた。そっとお腹に手をあてると、奥でかすかに、自分とは違う霊力を感じた。
「やっぱりね。お腹の中にいるのは──化け物なんでしょう」
井戸の上から、沙代理の冷たく歪んだ声が降りてきた。見上げると、身を乗り出した沙代里が、狂気を孕んだ瞳でじっと覗き込んでいた。
「私が先に懐妊したのよ。私の子に不利益になる存在は、母親として責任を持って消さなきゃ」
「待って……私のお腹にいるのは──」
訴えかけようとした綾羽の言葉を遮るように、井戸の底からごぽ、ごぽ、と不気味な音が響いた。干上がっていたはずの井戸に、透明な水がじわじわと湧きはじめたのだ。
「……!」
綾羽の心臓が早鐘を打つ。水が満ちれば逃げ場などなく、呼吸ができない。それ以上に──突き刺すように冷たい水のなかに長時間いては、子が危ない。
「見なさい! 枯れた井戸に水を呼び出せるなんて、私こそ神の花嫁だという証。旦那様がくださった力が、今はこれほどに強まっているのよ!」
沙代里の歪んだ歓喜の声には、背筋が凍るほどの異様さが漂っていた。
「沙代里……目を覚まして……! あなたについているのは神様じゃない、あやかしなのよ!」
とうとう、綾羽は決して自分から言うまいと思っていた恐ろしい事実を妹に向かって突きつけた。しかし沙代理の霊力には揺らぎがなく、反対に綾羽の全身からは力が抜けていく。
──あなたの異能の力は、そばにいるものの霊力を増幅させる。
今までずっと、そうしてこの瞬間も、自分の力が沙代理に吸い上げられているのだと綾羽にははっきりと分かった。
冷たい水はあっという間に綾羽の膝を覆い、腰を沈め、やがて胸元に迫ってきた。薄暗い井戸の中で、綾羽はお腹を庇いながら必死に心を整えようとする。
「……だめ。こんなところで、終われない」
子を守りたい。蒼月を信じたい。その想いは恐怖よりも強く、彼女の内から熱となって広がっていく。鼓動がどくん、どくんと響き、その度に霊力が全身を駆け巡るのをはっきりと感じた。
やがて、冷たい水が首元まで迫っているのにもかかわらず、体中が熱くなっていくのがわかる。
「必ず、守ってみせる……私の……!」
どんなに恐ろしい相手だとしても、腹の中の子を護り抜きたい、その一心が綾羽を奮い立たせていた。
「まだ流れないの……? 綾羽、あんたもやっぱり化け物だったのね……!」
井戸端に立つ沙代里の両手がかざされると、水面が蠢き、蛇のようにねじれて綾羽の首に絡みついた。
「……っ!」
綾羽は手を伸ばしてなんとか水の蛇を振り払おうとしたが、力が入らない。視界がじわじわと暗く染まり、呼吸が細くなる。
「私の子に不利益をもたらすなら、この手で消してやる……!」
「……そ、蒼月……様……!」
声にならぬ呻きが泡となって意識が遠のきかけたその時。
「やめろ──ッ!」
雷鳴のような声が、夕闇を切り裂いた。
井戸の底に叩きつけられ、腹の子を失ってしまう──そんな恐怖に胸を締めつけられたが、次の瞬間に綾羽の身を包んだのは土の冷たさではなく、温かく、柔らかな光だった。
「え……?」
おそるおそる目を開けると。全身を柔らかな光が包み、ふわりと綾羽を井戸の底に降ろした。
「宝珠が……!」
袖口からのぞいていた宝珠から光が放たれているのだった。
「大丈夫……夜になれば、蒼月様が来てくださる……」
姿はなくとも、蒼月は必ず来てくれる──梟の存在が、綾羽に希望を与えていた。そっとお腹に手をあてると、奥でかすかに、自分とは違う霊力を感じた。
「やっぱりね。お腹の中にいるのは──化け物なんでしょう」
井戸の上から、沙代理の冷たく歪んだ声が降りてきた。見上げると、身を乗り出した沙代里が、狂気を孕んだ瞳でじっと覗き込んでいた。
「私が先に懐妊したのよ。私の子に不利益になる存在は、母親として責任を持って消さなきゃ」
「待って……私のお腹にいるのは──」
訴えかけようとした綾羽の言葉を遮るように、井戸の底からごぽ、ごぽ、と不気味な音が響いた。干上がっていたはずの井戸に、透明な水がじわじわと湧きはじめたのだ。
「……!」
綾羽の心臓が早鐘を打つ。水が満ちれば逃げ場などなく、呼吸ができない。それ以上に──突き刺すように冷たい水のなかに長時間いては、子が危ない。
「見なさい! 枯れた井戸に水を呼び出せるなんて、私こそ神の花嫁だという証。旦那様がくださった力が、今はこれほどに強まっているのよ!」
沙代里の歪んだ歓喜の声には、背筋が凍るほどの異様さが漂っていた。
「沙代里……目を覚まして……! あなたについているのは神様じゃない、あやかしなのよ!」
とうとう、綾羽は決して自分から言うまいと思っていた恐ろしい事実を妹に向かって突きつけた。しかし沙代理の霊力には揺らぎがなく、反対に綾羽の全身からは力が抜けていく。
──あなたの異能の力は、そばにいるものの霊力を増幅させる。
今までずっと、そうしてこの瞬間も、自分の力が沙代理に吸い上げられているのだと綾羽にははっきりと分かった。
冷たい水はあっという間に綾羽の膝を覆い、腰を沈め、やがて胸元に迫ってきた。薄暗い井戸の中で、綾羽はお腹を庇いながら必死に心を整えようとする。
「……だめ。こんなところで、終われない」
子を守りたい。蒼月を信じたい。その想いは恐怖よりも強く、彼女の内から熱となって広がっていく。鼓動がどくん、どくんと響き、その度に霊力が全身を駆け巡るのをはっきりと感じた。
やがて、冷たい水が首元まで迫っているのにもかかわらず、体中が熱くなっていくのがわかる。
「必ず、守ってみせる……私の……!」
どんなに恐ろしい相手だとしても、腹の中の子を護り抜きたい、その一心が綾羽を奮い立たせていた。
「まだ流れないの……? 綾羽、あんたもやっぱり化け物だったのね……!」
井戸端に立つ沙代里の両手がかざされると、水面が蠢き、蛇のようにねじれて綾羽の首に絡みついた。
「……っ!」
綾羽は手を伸ばしてなんとか水の蛇を振り払おうとしたが、力が入らない。視界がじわじわと暗く染まり、呼吸が細くなる。
「私の子に不利益をもたらすなら、この手で消してやる……!」
「……そ、蒼月……様……!」
声にならぬ呻きが泡となって意識が遠のきかけたその時。
「やめろ──ッ!」
雷鳴のような声が、夕闇を切り裂いた。
