「──綾羽っ!どうしてあんたが……その男に選ばれるのよっ、『宵嫁』は私のはずだったのにっ!」
呉竹沙代理の怨嗟の声はびりびりと響き渡り、竹林を震わせた。沙代理の声は霊力と混ざり合い、見えない刃となって綾羽に向かって飛びかかってくる。
「綾羽、大丈夫だ」
着物が濡れるのも構わず、綾羽をぐっと抱き寄せる蒼月の優しい声に、綾羽はこくりと頷いた。
「必ず、あなたと腹の中の子をここから連れ出す──」
■■■
「……私のような、異能の力もない、妾腹の娘のもとに神様が訪れるはずもないと思うけれど……」
明るい満月の晩。
異能の力を持ってこの辺り一帯の山を治める呉竹家──その領域の中にある一つの山。中腹にある屋敷とは名ばかりの粗末な小屋の中で、呉竹綾羽は一言呟いてから小さくため息をついた。二月の頭、室内とはいえ白の着物一枚では寒さをしのげない。
部屋の周囲にはぐるりとしめ縄が張られ、そばでは灯明の火が淡く揺れている。人の気配はなく、冷ややかな空気が満ち、遠くからはこのあたりでは聞き覚えのない梟の鳴き声が聞こえた。
綾羽は今、生家である呉竹家が七十年ぶりに行う儀式──「宵嫁の儀」に参加している。
宵嫁とは、神の花嫁だ。
神の花嫁となった娘はその腹に半分は人間、半分は神の血を引く子を宿し、一族に繁栄を与える。
綾羽はその大役に任命されたのだが、表情は浮かない。顔をしかめた拍子に、さきほど妹の沙代理に打たれた頬がずきりとした。
「だって、宵嫁は一人のはず……」
■■■
「どういうことですかぁっ! 本家の正統なる跡取りである私と、この綾羽が同列の扱いということですか!?」
呉竹家の当主、つまりは先代の宵嫁である曾祖母に呼びだされ「宵嫁」となるように言われたのは今朝のことだ。
それを聞いた異母妹──正統な宵嫁として選ばれていた沙代理の怒りはすさまじく、彼女から漏れ出した水を操る霊力が震え、ふすまがどろりと水分をはらんで溶けるほどだった。
「これは当主の決定じゃ。七十年ぶりの大仕事、失敗するわけにはいかん。綾羽は東、沙代理は西の山に屋敷を用意してある。間違えるなよ」
疑念を感じながらも、綾羽はただ頷くしかなかった。
「信じらんないっ! この晴れの日に、綾羽と一緒だなんて!」
綾羽と沙代理の二人は一族に見送られ、紅白の梅が咲き乱れる山道へとそろって足を踏み入れた。満月の晩、山に立ち入れるのは宵嫁だけだ。
「ちゃんと、私が通りやすいように道を整えてよ? せっかくの白無垢が汚れてはたまらないわ」
「……ええ」
沙代理の声に、綾羽は月明かりを受けて銀色にきらめく蜘蛛の巣に視線を向けながら生返事をした。
宵嫁を二人立てると言っても、沙代里は白地に金糸を散らした絢爛な花嫁衣装を纏い、髪には宝石を散りばめた簪を幾重にも挿している。対して綾羽は装飾らしいものはほとんどなくほぼ白装束と言っていいもので、異母姉妹の立場の差は一目でわかるほどだった。
やがて山道は二股となり、ここから先はそれぞれの持ち場へと向かうことになる。
「では、私は東に……」
「待ちなさい」
足を踏み出そうとした綾羽の背に向かって、するどい沙代里の声が飛んだ。
「私、知っているのよ。東の屋敷の方が豪華なの。西は後から作られたから粗末なのよ。ねえ、間違いだと思わない?」
だから立派な東の屋敷には私が行く、と沙代里は高らかに宣言した。
「で、でも……」
曾祖母の言いつけを守ろうとする綾羽の頬を、沙代理は間髪入れずにばしんと叩いた。急な暴力に、綾羽の体は木にぶつかって、鳥がばさばさと飛び去る音がした。
「……っ」
「つべこべ言わないで。私が正式な『宵嫁』なのだから、失礼がないようにしなくてはいけないの」
沙代理はうつむいたままの綾羽の髪の毛をぐっと掴んで、上を向かせた。月明かりを受けて、沙代理の瞳は僅かに金色に光っている──綾羽にはそう見えた。
「黙っておきなさいよ、うっかり呆けて間違った発言をしたと、ひいお祖母様に恥をかかせてはいけないわ」
「わ、わかったわ……」
心のどこかで「こんな大切な儀式の時に、そんな簡単な間違いを犯すはずがない」と思うものの、沙代里の語気の強さに気圧されて、結局綾羽はうなずいてしまった。
呉竹沙代理の怨嗟の声はびりびりと響き渡り、竹林を震わせた。沙代理の声は霊力と混ざり合い、見えない刃となって綾羽に向かって飛びかかってくる。
「綾羽、大丈夫だ」
着物が濡れるのも構わず、綾羽をぐっと抱き寄せる蒼月の優しい声に、綾羽はこくりと頷いた。
「必ず、あなたと腹の中の子をここから連れ出す──」
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「……私のような、異能の力もない、妾腹の娘のもとに神様が訪れるはずもないと思うけれど……」
明るい満月の晩。
異能の力を持ってこの辺り一帯の山を治める呉竹家──その領域の中にある一つの山。中腹にある屋敷とは名ばかりの粗末な小屋の中で、呉竹綾羽は一言呟いてから小さくため息をついた。二月の頭、室内とはいえ白の着物一枚では寒さをしのげない。
部屋の周囲にはぐるりとしめ縄が張られ、そばでは灯明の火が淡く揺れている。人の気配はなく、冷ややかな空気が満ち、遠くからはこのあたりでは聞き覚えのない梟の鳴き声が聞こえた。
綾羽は今、生家である呉竹家が七十年ぶりに行う儀式──「宵嫁の儀」に参加している。
宵嫁とは、神の花嫁だ。
神の花嫁となった娘はその腹に半分は人間、半分は神の血を引く子を宿し、一族に繁栄を与える。
綾羽はその大役に任命されたのだが、表情は浮かない。顔をしかめた拍子に、さきほど妹の沙代理に打たれた頬がずきりとした。
「だって、宵嫁は一人のはず……」
■■■
「どういうことですかぁっ! 本家の正統なる跡取りである私と、この綾羽が同列の扱いということですか!?」
呉竹家の当主、つまりは先代の宵嫁である曾祖母に呼びだされ「宵嫁」となるように言われたのは今朝のことだ。
それを聞いた異母妹──正統な宵嫁として選ばれていた沙代理の怒りはすさまじく、彼女から漏れ出した水を操る霊力が震え、ふすまがどろりと水分をはらんで溶けるほどだった。
「これは当主の決定じゃ。七十年ぶりの大仕事、失敗するわけにはいかん。綾羽は東、沙代理は西の山に屋敷を用意してある。間違えるなよ」
疑念を感じながらも、綾羽はただ頷くしかなかった。
「信じらんないっ! この晴れの日に、綾羽と一緒だなんて!」
綾羽と沙代理の二人は一族に見送られ、紅白の梅が咲き乱れる山道へとそろって足を踏み入れた。満月の晩、山に立ち入れるのは宵嫁だけだ。
「ちゃんと、私が通りやすいように道を整えてよ? せっかくの白無垢が汚れてはたまらないわ」
「……ええ」
沙代理の声に、綾羽は月明かりを受けて銀色にきらめく蜘蛛の巣に視線を向けながら生返事をした。
宵嫁を二人立てると言っても、沙代里は白地に金糸を散らした絢爛な花嫁衣装を纏い、髪には宝石を散りばめた簪を幾重にも挿している。対して綾羽は装飾らしいものはほとんどなくほぼ白装束と言っていいもので、異母姉妹の立場の差は一目でわかるほどだった。
やがて山道は二股となり、ここから先はそれぞれの持ち場へと向かうことになる。
「では、私は東に……」
「待ちなさい」
足を踏み出そうとした綾羽の背に向かって、するどい沙代里の声が飛んだ。
「私、知っているのよ。東の屋敷の方が豪華なの。西は後から作られたから粗末なのよ。ねえ、間違いだと思わない?」
だから立派な東の屋敷には私が行く、と沙代里は高らかに宣言した。
「で、でも……」
曾祖母の言いつけを守ろうとする綾羽の頬を、沙代理は間髪入れずにばしんと叩いた。急な暴力に、綾羽の体は木にぶつかって、鳥がばさばさと飛び去る音がした。
「……っ」
「つべこべ言わないで。私が正式な『宵嫁』なのだから、失礼がないようにしなくてはいけないの」
沙代理はうつむいたままの綾羽の髪の毛をぐっと掴んで、上を向かせた。月明かりを受けて、沙代理の瞳は僅かに金色に光っている──綾羽にはそう見えた。
「黙っておきなさいよ、うっかり呆けて間違った発言をしたと、ひいお祖母様に恥をかかせてはいけないわ」
「わ、わかったわ……」
心のどこかで「こんな大切な儀式の時に、そんな簡単な間違いを犯すはずがない」と思うものの、沙代里の語気の強さに気圧されて、結局綾羽はうなずいてしまった。
