学校には少し早く着いた。
教室のドアを開けると、瑞姫が居た。
彼女は一人、外の雨を憂うように窓を見つめていた。
私が来たとは思っていないようだ。喋らなくなっていた期間私は朝に会うのが気まずくて遅めに登校していたから。
「おはよう」
私の声を聞いて瑞姫はビクッと肩が揺れる。そしてゆっくりと私の方を見た。
「おはよう。千隼」
彼女はこっちを向いたものの目は合わせてくれなかった。
私は荷物を自分の席に置いた後、彼女の隣に座った。
彼女の伏せたままをの目を見つめて私は口を開く。
「この一週間、瑞姫に話しかけなくてごめんなさい」
彼女が顔を上げる。彼女が何かを言おうとしたけど、私は少し目を伏せて構わず続けた。
「でも、私は知りたかった。藍澤君がどうなっているのか、なぜ学校に来なくなったかを。だから無神経な行動を取ってしまった。ごめんなさい。でもその時に気づいたんだ、藍澤君は私にとって特別だからなんだって。瑞姫のことももちろん大切だし、大好き。でも藍澤君は少し違う。私は…」
「待って!」
瑞姫は私の言葉を遮った。彼女は泣きそうな顔をしていた。
「そこから先は煌照に言ってあげて。その言葉を初めて聞くのは私じゃなくて煌照の方が相応しい。煌照じゃないといけない。それと千隼が謝るような事じゃない。私が悪いの。千隼のことを考えずに何も言わなかったから。だから、謝らないで」
「分かった。でも、私が瑞姫たちを避けていたのは事実だから。それは謝らないといけないこと」
「私の方こそ、避けてしまってごめんなさい」
彼女の声が徐々に震えていった。強く握られたスカートに皺が入る。
「私が何もできないから、斗和に迷惑を掛けて、煌照のことも何もできないままで、千隼を困らせた。だから悪いのは何もできなかった…」
「違う」
今度は私が瑞姫の言葉を遮った。それ以上言わせるわけにはいかない。
「瑞姫は悪くない。藍澤君のことは分からないけど、少なくとも斗和は迷惑を掛けられても、瑞姫のことを見る目は何も変わっていなかった」
「でも、それは斗和が優しいからそんな風に見せていないだけで」
私は瑞姫の手を強く握った。彼女はビクッとして私に握られた手を見る。
「私の目を見て。今、私はあなたに怒っている。全部自分のせいにしてしまう優しすぎる雲母坂瑞姫に怒っている。分かる?」
彼女は怯えつつも首を縦に振る。
「瑞姫が全部悪いなんてことは絶対に無い。瑞姫が全部正しいとも思わない。人は絶対に間違いを犯す。秘密基地で言ったでしょ?友達に迷惑をかけるのはお互い様でしょ?迷惑を掛けあっても互いに助け合う友達こそ、本当の友達だって。少なくとも私は瑞姫に迷惑を掛けられても嫌じゃない。斗和もきっとそう。じゃなかったら私は今、ここにいない」
私はハキハキと喋った。瑞姫は優しすぎる。そのせいで周りのことが見えていない。
私はまだ言葉を続ける。
「瑞姫は私と仲直りしたくない?」
「そんなことない!」
彼女は大きな声で言った。身を乗り出すような勢いだった。
私は微笑み、少しトーンを落とした。
「そうでしょう?私だって同じ気持ち。瑞姫と仲直りしたい。お互い言葉にして話し合わないと何も伝わらない。そう教えてくれたのは他でもないあなた、瑞姫でしょ?」
彼女は目を見開いたまま固まった。そして一粒の涙が彼女の頬を伝った。
「そうだ、私は……そう。千隼と仲直りしたい。元の関係に戻りたい」
彼女表情が徐々に崩れていく。私も目頭が熱くなる。
「ねえ?まだ…間に合う?こんな私だけど……友達の…ままで……いてくれる…?」
彼女の声は上擦っていた。
「もちろん」
私は彼女のことを抱き寄せた。腕の中に収まった彼女はあまりに痩せていた。きっと彼女はずっと一人で戦っていたんだろう。頼れる友達がいても、友達だけではどうにもできないことはこの世にいっぱいあるから。
私は子守唄を歌うように囁く。
「瑞姫は優しすぎるだけ。周りに迷惑を掛けない人間なんて一人もいない。だから、自分のことを追い込まないで。あなたは私に迷惑掛けられても何一つ嫌な顔をしなかった。あれは嘘じゃないんでしょ?」
私の腕の中で頷く。
「それは私も斗和も藍澤君も同じなんだよ。瑞姫に迷惑を掛けられることはちっとも嫌じゃない。それは迷惑を掛けるってことじゃない」
腕の中から嗚咽する声が聞こえる。私も涙を流す。
「それは頼るってことなんだよ」
彼女はここまで追い込まれていたんだ。周りを頼ることに極度に恐怖を覚え、信じられるものが信じられなくなっていた。
私は彼女の頭を撫でる。ただ静かに彼女が落ち着くのを待った。
私たちはもう一度、私たちのことを見直せた。私たちはまた仲良くなれたんだ。
「ごめんね」
「謝らないで。今はその言葉じゃない」
泣き止んだ彼女はまだ少ししゃっくりが止まっていなかった。
私は彼女の手を握った。そして彼女と目を合わせる。
「ありがとう、瑞姫」
私は笑顔で言った。
「ありがとう。千隼と友達になれて本当に良かった」
彼女は泣き腫らした目で優しくはにかんだ。
「これからもよろしくね、瑞姫」
「うん。これからよろしくね、千隼」
私は一度引いた涙がまた溢れてくる。瑞姫もまた涙を流している。
私たちは抱き合って、笑い合った。涙はまだ流れてくるけど関係無い。だって今は嬉しいから。
寒い教室の中に二人の笑う声が響く。私たちはお互いのことをさらに知ることができた。
クラスの子達が徐々に教室に入ってくる。私は大丈夫だけど、瑞姫はひどく泣き腫らしている。彼女は俯いて分からないようにした。
「煌照のこと、聞かなくていいの?」
彼女は俯いたまま言った。
「うん。この一週間色々考えたんだけど、藍澤君自身のことは彼の口から聞くべきだと思ったから」
そう、私は彼に直接会う必要がある。彼の居場所は見当がついている。
そして彼の口から真実を聞くんだ。
願わくは私の気持ちも伝えられたらいいな。
「私は応援してるよ。今回は力になれないかもしれないけど、頼ってね」
瑞姫は少しだけ顔を上げて、はにかんだ。
「ありがとう。瑞姫も何かあったら私を頼ってね。いつでも私は力になるから」
「ありがとう、千隼」
彼女は今までよりずっといい表情になった。彼女の肩の荷はまだ下りていないけど、私がいる。それに彼女は周りに頼ることを覚えたから、きっと大丈夫。
私たちは辺りを見渡して斗和のことを探した。でも彼は学校には来ていなかった。本鈴が鳴って、私は自分の席に戻る。
斗和とも仲直りしたいのに。
外の雨はひどくなる一方で、とうとう警報が出た。電車が止まる恐れがある為、一限の授業だけ受けて帰ることになった。
それも自習だったけど。私は瑞姫と一緒に勉強した。クラスのみんなは驚いていたけど、私たちは微塵も気にしなかった。
結局斗和と会うことができないまま、私は瑞姫と一緒に帰った。私は瑞姫を私の家に一旦連れて行った。
瑞姫のことをお母さんに紹介したかったのと、あまりの雨に私たちは全身ずぶ濡れになったから風邪を引かないように家に招待した。
私は瑞姫と一緒にお風呂に入って、互いの背中を流し合った。
そして瑞姫には私の服を着てもらった。私の方が少しサイズが大きくてダボっとなったけど。それもまた可愛かった。
リビングに行くとお母さんが温かい飲み物を用意してくれていた。少し喋った後、私たちは家を出た。
お母さんは私のことを止めなかった。止めても無駄だと思ったのと私のことを信じているから、と口にした。私はお母さんにハグをしてから家を出た。
私たちは電車に乗って瑞姫の家、ではなく藍澤君の家に向かった。
案内は瑞姫にしてもらった。
危険だとは分かっていた。でも、今行かないと藍澤君がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、私は止まれる気がしなかった。
藍澤君の家は香織さんの家からかなり奥に行ったところにあった。古くはない一軒家だったけど、そこだけ空気が澱んでいるのを感じた。
いざ、勇気を出してインターホンを鳴らす直前、私は瑞姫に手を止められた。瑞姫は後ろを向いていた。
私も振り返る。そこにはスーツ姿の香織さんがいた。香織さんはこの雨の中、傘を差していなかった。香織さんは血の気の引いた顔をしていた。
それよりどうしてここに?
「ここに煌照はいない」
低い声で放たれた言葉は豪雨に掻き消された。
瑞姫は香織さんに傘を差し出そうとしたけど、止められた。
「煌照がいなくなった。斗和と朝から探しているが、どこにもいない」
全身の血の気が一気に引いた。
この雨の中、外出する理由は無い。じゃあどうして家を出たの?
私は隣の瑞姫を見る。瑞姫も血の気の引いた顔をしていた。
「じゃあ、どこに?」
「分からない。斗和と思い当たるところは全て探し回って、もう一度家に帰ってきていないか確認をしに来たら、君たちがいたんだ」
心拍数が上がる。私の嫌な予感が当たったんだ。
「私も一緒に探す」
考える前に口にしていた。
香織さんは一瞬口を開いて、閉じた。そしてまた開いた。
「ここから先は危険だ。それでも煌照を探すか?」
危険なんて百も承知だった。ここに来た時点でもう覚悟はできている。
私はゆっくりと一回だけ頷いた。すると、瑞姫が私の手を握った。
瑞姫と目が合う。お互いに頷いて、もう一度香織さんの方へ向き直る。私は瑞姫の手を強く握った。瑞姫も握り返してきた。
お互い覚悟はできている。私たちは一人じゃない。
香織さんは一度目を瞑ってから開く。
「私はこっちを探す。君たちはこっちを探してくれ」
香織さんはそう言って駆け出して行った。朝から探しているはずなのに足が早かった。
「行こう」
「うん」
私たちも言われた方向へ駆け出した。路地裏も確認したけど、藍澤君はいなかった。
雨はさらに激しくなる。瑞姫と私は傘を差しているのにまた全身濡れた。でも全く気にしなかった。気にする余裕なんて無かった。
「どこにもいない。千隼は?」
「私の方もいなかった」
瑞姫は膝に手をついて、私は腰に手を当てた。互いに息がかなり荒れていた。
「他に心当たりのある場所はある?」
瑞姫は首を横に振った。
私もこの辺りには詳しくないけど、隠れられそうな場所は全部探した。
あと思い当たる場所は……。
「秘密基地」
私の呟きに瑞姫が反応する。
一番有り得そうな場所。
「そこは一番に探しているんじゃない?」
そう、瑞姫の言う通りだ。そこは真っ先に探す場所だ。そしてまだ見つかっていないということは、そこにはいなかったということ。
でも、私はそこにいる気がした。なぜかは分からないが、無性にそこから藍澤さんの気配がする気がした。
「もしかしたら、入れ違いになって今はそこにいるかもしれないから行こう!」
「分かった。私は千隼を信じる」
互いに走り疲れた足を奮い立たせて、足を前へ出す。
さっきまでいた場所から秘密基地までは少し遠かった。
私たちはただ走った。途中からは傘を畳んで走った。
「わっ」
隣の瑞姫が脚を絡ませた。私は咄嗟に支えて転けずに済んだ。
「大丈夫?」
「ありがとう。千隼のおかげで無事」
彼女は私より先に脚を動かしっていた。私も脚を動かす。
秘密基地まではあと少し。もう松林が見えている。
松林の前に人影が見えた。
もしや…。
酷い雨で遠目からははっきりと確認できなかった。でも私たちはひょっとしてと思い、されに早く脚を動かす。
近づくと、そこには斗和が佇んでいた。彼もまた傘を差していなかった。
斗和は私たちに気がつくと驚いたように目を見張った。
「どうして……ここに……」
私は荒れる息を整えることなく口を開く。
「藍澤君はいた?」
彼は目を伏せた。
どうして答えてくれないの?
「斗和。正直に答えて」
瑞姫が強い口調で言った。
彼は少し唇を噛んでから口を開く。
「これは……煌照の意思だ。誰かが来たら、ここで止めてくれと」
彼は静かに言った。
すると瑞姫は斗和に向かって歩いた。瑞姫は斗和の前に立つと、傘を投げ捨て彼の胸ぐらを掴んだ。私は止めに入らなかった。
「煌照に会ったの?煌照はどこ?教えて!」
瑞姫は声を荒げた。斗和は俯いたままで私たちはそのまま硬直する。
斗和は俯いたまま口を開く。
「見ていられなかったんだ、傷ついていく煌照のことを、これ以上は」
「どういうこと?」
私は低い声で聞く。斗和は俯いていた顔を少しだけ上げる。
「俺はもう、煌照の意思を尊重することにした。だから、ここでお前たちを止める」
「煌照を救いたくないの?」
「俺だって煌照を助けたい!」
瑞姫の低い声の問いに声を荒げた。
彼はそのまま続ける。
「俺だってここで手を拱いて待っていたいわけじゃない!でも、俺じゃ煌照を救えない!だから俺はここでお前たちを止める以外に無かった!」
瑞姫は胸ぐらを掴んだ手を少しずつ緩めていって、手を離す。
斗和の一度溢れた言葉は止まることがなかった。
「それが煌照の意思、普段は頼み事をしない煌照が俺に頼んできたんだ。頭を下げてまで。断れるわけがなかった」
雨と前髪で分かりづらかったけど、彼は泣いているようだった。
私は歯をギリっと軋ませた。
頼られたから?事情は知らないけど、私は無性に腹が立った。
気づけば私は傘から手を離し、瑞姫と同じく斗和の胸ぐらを掴んでいた。
「頼られたからって何?そこは止めないといけないでしょ!藍澤君の友達ならそれくらいしなさいよ!」
私は声を荒げた。
「何も知らない千隼に何が…」
「何も分からないよ!何も知らないから!でもこれだけは分かる!」
私は胸ぐらを掴む手に力が入る。
「斗和は藍澤君を止めるべきだったって!今から藍澤君が何をしようとしているかわ大体察しがつく。ここで言い争っている場合じゃない。だから答えて」
私は前髪の間から斗和の目を睨む。
「斗和はどうしたいの!」
雨音と叫んだ私の声が松林に木霊する。
私と瑞姫、さらに強まる雨脚が斗和を催促する。
斗和は黙って唇を噛んだ。頬を伝う水が一本増えた。
斗和の唇が震える。
「俺は……煌照を救いたい…でも…俺にはできない……だから…」
私は次の言葉を黙って待った。その間も雨は容赦なく地面に私たちに叩きつけた。
瑞姫も私を止めることはなく。斗和のことをじっと見つめている。
「どうか…煌照を救ってくれ………これは…俺の意思だ」
私は胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「分かった。任せて」
私は傘を拾って駆け出そうとする。そんな私の腕を瑞姫が掴んだ。
「千隼。私はここで斗和と一緒にいる。だから、煌照のことは任せた」
「…なんで?」
私は戸惑いを隠せなかった。てっきり瑞姫も来るものだと思っていたから。
瑞姫は静かに首を振った。
「私にも煌照を救えない。煌照を救えるのは、千隼だけ。だから、早く行ってあげて。きっと煌照は、心のどこかで千隼が来てくれることを期待しているから」
「………分かった」
私がそう言うと、瑞姫は私の手を離した。
私はそのまま駆け出した。振り返ることなく全速力で秘密基地へ向かった。
松林の中を隼のように駆け抜ける。無心で脚を動かす。頭にはいつかの血の気の引いた藍澤君の顔があった。
もっと疾く、もっと疾く。間に合え。
まだ行かないで。私には、言いたいことがある。
「わっ」
私は地面から飛び出した松の根に躓いて、勢いよく転けた。
受け身はとれたけど、全身泥まみれになって地面に伏せる。
「ああっ!」
私はすぐに立ち上がって傘を拾ってから、もつれる脚を無理やり動かす。
ここで寝転んでいる場合じゃない。
松林を抜け、秘密基地に着いた。
秘密基地には人影が無かった。なら砂浜か。
私は砂浜の方を見る。
いた。
波打ち際に傘を差し海を見ながら佇む人影が見えた。
「藍澤君!」
私は大声で叫んだ。
雨で聞こえないのか、その人影は振り返らなかった。
私は駆け寄りながらもう一度叫ぶ。
「煌照!」
その人影は私に気づいて振り返る。
間違いない。煌照だ。
私は泥まみれの手で彼の手を勢いよく掴んだ。
「降谷さん……どうして…」
私は荒れた息を整えずに言葉を発する。
「帰ろう。みんなが待ってる」
彼はまた海の方向を向く。
彼の顔には痣がいくつかあった。まさか、マスクをしていたのって…。
家族に問題を抱えていることと痣が繋がる。
私は心の底から怒りが湧いてきた。
彼は妙に落ち着いていた。
「俺に、帰る場所は無い。この世界に、俺の居場所は無い」
「ある!帰る場所が無いなら私が帰る場所になる。居場所が無いなら私が煌照の居場所になる!だから、もう馬鹿なことはやめて!」
「俺には生きている価値は無い。もうほっといてくれ」
「そんなことない!」
「無責任なことを言うな!」
彼は感情を爆発させた。
私は一瞬怯んだけど、改めて腰を据える。
「無責任なんかじゃ…」
「無責任なんだよ!お前に俺の何が分かる!」
「分かるわけないでしょ!煌照は何も話さなかったんだから!」
「なら!なんでそんな嘘を吐くんだ!」
「嘘なんかじゃない!」
「全部嘘なんだよ!優しさも愛情も全部!友達だって全部!」
バチン。
私が思い切り煌照の頬を打った音は、すぐに雨と波に掻き消された。
彼は私を見て、打たれた頬に手を当てる。彼の手からするりと傘が落ちる。
彼はひどく怯えていた。私もそうなることは分かっていた。それを承知で手を上げたのだから。
私は彼の胸ぐらを思い切り掴んだ。彼の体はあまりにも軽く、私の力でも簡単に引き寄せることができた。
私は煌照の目を真っ直ぐに見据える。
「何で嘘って決めつけるのよ!私たちの友情は嘘だったの?私が煌照と一緒に過ごした日々は、煌照にとってはただの欺瞞に満ちた日々だったの?」
彼は黙ったまま俯いた。
「答えてよ!」
怒鳴り声が雨音の中に響く。
それでも彼は唇を震わせるだけで、一向に言葉を発しない。
「話してよ!言葉にしないと何も分からない!煌照の友情は嘘だったの?ねえ!」
彼はまだ黙ったまま動かない。
胸ぐらを掴んだ手でもう一度彼を揺する。
「嘘なら嘘とはっきり言いなさいよ!今更私に気を遣ってるつもり?そんなの願い下げよ!正直に答えて!」
私の声は今までで一番大きく、砂浜に木霊した。
ここでようやく彼の唇が動く。
「……嘘じゃない」
「ならどうして嘘を吐いたの?」
「こんなみっともない俺を見られて失望されたくなかったんだ」
煌照の顔が徐々に崩れていき、本音が漏れ出てくる。
私も胸ぐらを掴んでいる手の力を緩めて、彼の言葉に耳を傾ける。
「怖かったんだ。本当の俺を知られて、千隼がどこかへ行ってしまうのが」
「それが私に話さなかった理由?」
「違う……違う…。そうじゃない。俺は……俺は…」
今は彼に言葉を急かさなかった。ただ、彼の次の言葉を待った。
「俺は…千隼のことを信じきれていなかったんだ。千隼は自分の本音を包み隠さず言えることを羨んだんだ。そして、それが怖かった」
「つまり、私が怖かったと?」
「違う、違う!千隼は何も悪くない!俺が勝手に!」
彼は首を強く、何度も横に振った。
「話しても他の奴と一緒だと思ってしまったんだ。千隼は違うのに!最後の一歩が踏み出せなかった!その上千隼に気を遣わせて!」
彼の叫ぶような声は土砂降りの雨と荒れ狂う波に流された。
私たちに打ちつける雨が濡れた全身をさらに濡らしている。毛先から何度も水滴が落ち、まつ毛に溜まった雨が定期的に顔を濡らし、水を含んだ服は鎧のように重たい。
雨と波が競い合うかのように鳴る音だけがしばらく響く。
「………違うでしょ?」
私は低く落ち着いた声で告げる。
「煌照は私に気を遣っているんでしょ?さっき言ったよね、そんなの願い下げだって」
再び両手に力が入る。
彼の潤んでいる瞳を、ただ真っ直ぐに見つめる。
「私は、煌照の本音が聴きたい。嘘も気遣いも要らない。煌照の考えを、思いを叫んでよ」
声が徐々に大きくなる。
雨音と波音の戦いに私も参加する。
雨音にも波音にも負けないように、お腹から声を出す。
でないと、煌照に私の言葉は届かない。
「私たちはぶつかり合わなきゃいけない。互いの思いを赤裸々にぶつけ合って、何も包み隠さずに」
私は大きく息を吸った。
「藍沢煌照!あなたは何を思っているの?その思いを隠さずに全力で叫びなさい!」
煌照の頬を一筋の涙が伝う。この雨の中でも、それははっきりと分かった。
「俺は……」
彼は大きく息を吸った。
「誰のことも信じられなかった!誰かを信じたいのに全てが敵に見えた!斗和も瑞姫も香織姉も!千隼のことでさえ敵に見えた!」
彼は何も包み隠すことなく、心の泥を声を大にして叫んだ。
ようやく本音が聞けた。
私は嬉々として次の言葉を待つ。
「千隼には何度も話そうと思ってた!でも毎回直前で怖くなった。斗和の時も瑞姫の時も怖かったけど、それとは比べ物にならなかった。斗和も瑞姫も馬鹿にしない確証があったけど、千隼のことは何も分からなかった。一体何を考えているのか想像をしても、その遥か上を行っている気がして。何でもできて、何も話さない俺に対して優しく接してくれる千隼には、どうしても嫌われたくなかった!」
私が分かりずらかったばかりに。
でも、今は煌照の言葉を聞かないと。私が懺悔している場合じゃない。私のことは後から謝ればいい。
「もう一度聞く。それが私に話さなかった理由?」
「そうだ!俺はみっともなくて意気地無しなんだ!幻滅しただろ!」
彼は半ばヤケクソになっていた。自分のことを嘲り、鼻で笑うように叫んだ。
それは確実に本音だった。
それより私が気になったのは…。
「幻滅なんてしてない。それも煌照だから」
「いいや、今から話すことを聞けばきっと千隼も幻滅する」
私は喉の上まで来た言葉をグッと飲み込んだ。
この言葉は今じゃない。まだだ、我慢しろ。
代わりの言葉を出す。
「なら、話してくれる?煌照のことを」
私は胸ぐらを掴んだままにした。
もう逃げることはないと思っている。でも、まだ不安は拭いきれない。
「ああ、もう隠さない。隠す必要が無い」
彼は少し呼吸を整えてから口を開いた。
「俺は…父さんから虐待を受けている」
その一言は予想通りだったけど、私の予想よりずっと重たかった。
怒りが私の中に沸々と湧いてくる。
「俺を守ってくれていた母さんは五歳の時に事故で死んだ。俺を庇って、酷い雨の中」
私は目を見開く。
彼が一度だけ母さんの話をしていたことと夕立の時のこと急に思い出す。私はどちらも鮮明に思い出せた。
あの時のあの表情は……まさか。
「俺は最後まで母さんに何も恩返しできなかった!最後のお別れもできていない!だから、俺は父さんに殴られるのを受け入れた。それが殺人者の俺にできる唯一の贖罪だから!俺は痛みを以て俺を戒めなければならないんだ!」
彼の拳は強く握られ、今にもはち切れそうだった。
「だから他人に話しても無駄なんだよ!母さんのこと、俺のことに同情だけされて、それで終わり。何も変わらないんだよ!俺の罪は拭えない!」
彼の言葉の余韻が砂浜に打ち上がる。
「どうだ?これで千隼も幻滅しただろ?」
彼は鼻で笑った。
今まで沈黙を貫いていた私はついに口を開く。
今こそ、さっき飲み込んだ言葉を吐き出す時だ。
「……それは煌照の考えでしょ?煌照は自分に幻滅してるだけでしょ?それが私も一緒だと思っているのは煌照の勝手な先入観だよ」
落ち着いた口調で諭すように言葉を紡いでいく。
「どうして幻滅しないんだ!こんな醜い俺を罵ってくれよ!」
「どうして罵る必要があるの?煌照はこんなに苦しんでいるのに」
「まだ足りないんだ!これじゃ母さんに顔を合わせられない!」
「じゃあ、煌照は今日、ここへ何しに来たの?」
「それは……」
彼の言葉が急に失速する。
私はそのまま続ける。
「死ぬためにここへ来たんでしょ?楽になる為に。煌照は自分が苦しむことで、贖罪できると思っているんでしょ?この世での罪を全部洗い流すことで天国へ行ける、煌照のお母さんに会えると思っているんでしょ?」
彼は固まったまま私のことを見る。
さあ、目醒めの刻だ。
「でも、それはただの幻想だって、自分本位な自己満足な考えだってことに気づいているんでしょ?」
「黙れ…」
「自分に暗示をかけているだけだって気づいているんでしょ?」
「黙れ」
「足りないと言いつつ、それが無駄なことだって分かっているんでしょ?」
「黙れ!」
「黙らない!自殺することがどういうことか分かってるの?自分を殺すことなんだよ?やってることは殺人と何一つ変わらない!あなたは今、本当の殺人者になろうとしていたの!」
私は声を大きくする。
煌照には殺人者になってほしくないから。
「煌照は勝手に自分を悪者にして、自分を殺すことを正当化してこの苦しみから脱したいだけ」
「黙れ。黙れ黙れ!別にいいじゃないか!ほっといてくれよ!俺の何が分かるんだ!」
「何も分からない!」
私は掴んだ胸ぐらを引き寄せて彼の顔を近づける。
彼は少し怯む。
「じゃあ…」
「分かるわけない!私と煌照は別の生き物なんだよ?そんなのどうやったって分かるわけない!自分のことも全部分かってない私たちにどうやって理解するのよ!」
「じゃあ黙れよ!俺に幻想を見せないでくれ!」
「幻想を見ているのは煌照だよ!煌照は自分を殺す理由を探してるだけ。自分を正当化したいだけ!」
「違う!俺は死んで然るべき存在なんだ!」
彼の目からはボロボロと涙が溢れている。もうぐちゃぐちゃになっているんだろう。
「そんなの誰が決めたの?神様?周りの大人?私たち?違うでしょ」
彼は歯を食いしばったまま私を見る。まだ涙を堪えようとしている。
私は真っ直ぐに煌照の目を見据えて力強く言葉を発する。
「煌照自身が勝手に決めたんでしょ!周りのことを見ないで!」
「周りは見えている!俺の味方はいない!俺に生きる価値なんか無い!」
「煌照は何も見えていない!考えたことはある?煌照が死んで悲しくなる人間がいるって!」
「そんなのいない!」
「いる!煌照に生きてほしいと思っている人はたくさんいる!もちろん私も!」
「何でそんなことが言えるんだ!俺には生きる価値があるとどうして思う!」
私は荒れた息を整える為に、大きく息を吸って吐いてから声を出す。
「生きる価値なんてただの妄言だよ。生きる価値って誰が決めるの?そもそも私たちは誰かに生きていいて言われないと生きちゃ駄目なの?そんなわけないでしょ?」
私は少し落ち着いて話した。
「じゃあ俺はどうやって生きればいいんだ!俺は誰に従えばいいんだ!」
私は彼の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離して、下げた。
「……私のことを殴って」
「え?」
「いいから殴って!」
私の一言に怯んだ彼は私の言われるがままだった。
彼は手をゆっくりと動かし、高く上げたまま固まった。彼の手は酷く震えていた。
私は彼の目を見て離さなかった。まだ涙を堪えている。もう手遅れなのに。
雨が私たちと地面を打つ音と荒れ狂う波の音が私たちの間を流れる。
「早く!」
彼は私の声を聞いて目を瞑った。
そして、目を開けて歯を食いしばった彼は、震えの止まらない手を思い切り振り下ろす。私は目を瞑ることなく彼の目を見続けた。
バチン。
二度目の鈍い音が砂浜に鳴る。今度は煌照が私を打った音。頬に痛みが走ったけど私は表情を変えない。
私は打たれて一度外れた視線をまた戻す。
「分かった?これが人を殴るってこと」
私は静かなトーンで言った。
私も人を殴るのは初めてだったけど、想像通りだった。
「痛いでしょ?心が。それを平然とやってくるような人に屈して、従ったままで本当にいいの?」
彼は私の頬を打った手を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「この世に誰かに生きていていいって言われて生きている人は誰もいない。死ねと言われて誰が素直に受け入れるの?」
私はもう一度、彼の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「あなたは今、誰の足でここに立っている?誰の意思でその足は動く!」
声を張り上げて煌照に問う。
「答えろ!藍沢煌照!あなたは今、誰の意思で生きている!」
私たち二人しかいない砂浜に痺れるほど大きな声が響く。
煌照はとうとう堪えきれず、ボロボロと涙を流しながら答えた。
「俺は…藍沢煌照は藍沢煌照の意思で生きている」
その声は上擦って掠れていた。でもはっきりと力強くこの世界に轟いた。
私たちはその余韻に浸る。
私は力を抜き、手を離した。彼は膝から崩れ落ちる。
雨が少しずつ弱まるのを感じた。荒れ狂う海が次第に穏やかになっていく。
遠くの水平線の方で雲が割れ、一筋の光が差し込む。
私たちはそれを見つめた。
雲の割れ目は次第に増えていく。そして近いところにも陽光が差し込む。
辺りが明るくなる。
彼のことを見る。海の方を見つめる彼の横顔は、とても美しかった。
「ねえ、私を見て」
私は沈黙を破る。彼は私の方へ視線を移す。
私は優しい笑顔を作る。
「私がどう見える?」
煌照はまた大粒の涙を流し始めた。
「まだ、煌照の味方はいないって言える?」
泥まみれの手の平を天に向け、彼に差し出す。
泥が流れる前に彼は私の手を取る。私は彼を立たせるのではなく、両膝をついて彼と目線を合わせる。
「まだ、世界が敵に見える?」
彼は首を横に振る。
よかった。私のしたことは無駄じゃなかったんだ。
雲の割れ目がまたひとつ増える。またひとつ辺りが明るくなる。
「酷いことを言ってごめんなさい。殴ってしまってごめんなさい」
私はそこで言葉を止めるつもりだった。
でも気が付いたら口から零れていた。
「私のことは好きなだけ嫌ってくれていい。ただ、私は煌照のことを救いたかったの。私の好きな煌照が煌照のことを嫌うのだけは許せなかったの」
彼は涙を流している目を見開いた。私はそれを見ることができず、目を伏せた。
ああ、もう無理。
彼が口を開く前に、私は本音を零してしまった。
「ごめん、嘘」
私は堪えていた涙を零す。
「私は煌照に嫌われたくない。もう手遅れって分かってるのに、自分で始めたことなのに、最後まで我慢できなかった」
一度溢れ出せば止まらなかった。
止めどなく零れる涙と共に私は本音を零した。
「私は煌照が好き」
「え?」
彼の戸惑う声が聞こえた。
私は構わず続ける。
「私はどうしようにもなく、煌照のことが好き。だから、嫌われたくなかった」
声がどんどん震えていく。
「もう遅いって分かってる。馬鹿だよね……私」
私は泣いているのに笑いたくなった。こんな私を笑い飛ばしてやろうとする前に、煌照が声を出した。
「遅くなんかない」
「え?」
「千隼が俺の手を掴んだ時点で、もう間に合ってる。千隼の手が俺をどん底から引きずり上げてくれた」
「でも、私の手は泥まみれで…」
「それが良かったんだ。綺麗な手じゃなくて、泥まみれの手が良かったんだ。汚れちまった俺を掴むのは汚れた手の方がいい。それに……」
煌照は目を閉じ、私の手を祈るように自分の顔の前に持っていく。
「泥だらけになってまで、俺を探してくれたってことが、何より嬉しいから」
彼は閉じた瞼からも涙を流しながら、微笑んだ。
また雲が割れ、光が差し込む。辺りが明るくなる。
弱まった雨は霧雨となっていた。
「どう…して……?」
彼は顔を上げ、ゆっくりと瞼を上げる。
「簡単な話だよ」
彼の瞳が私の瞳を捉える。
「俺も降谷千隼のことだ好きだから」
驚きと喜びで私は声が出せなかった。
私のことが……好き…?
頭では理解できる。でも、心が追いつかない。
「雨降って地固まる。さっきまでのやりとりは必要だったんだ、俺たちに。俺たちは一度ぐちゃぐちゃにならないといけなかった」
「でも、私は煌照に酷いことをした」
「それはお互い様だろ」
「煌照のことを殴ったんだよ?」
「俺も千隼のことを殴っただろ?」
「でも、あれは私が…」
「関係無い。最後の判断を下したのは俺だ」
「でも、私はあなたのお父さんと同じことを」
「違う。千隼は父さんとは違う」
煌照は私が全てを言い切る前に遮った。
「あ………う…」
出そうと思った声が全く出なかった。
「あの平手打ちはとても痛かった。でも、父さんに殴られるのとは全く違った痛みだった」
彼は目を伏せながら言う。
「それに、同じくらい千隼は痛そうな顔をしてた。泣きそうな顔をしていた」
目を上げて私の瞳を見つめる。
「もう、自分を責めないで。千隼は優しい。その優しさに俺は救われた。だから、もう泣かないで」
その言葉を聞いて、私の涙腺が一気に崩壊する。
「俺に…言えたことではないな」
彼も笑いながら涙を流していた。
彼は私の手をするりと離した。代わりに私のことを抱きしめた。
「うぅ……う…あ……」
止めどなく嗚咽が溢れてくる。
そう言って、彼も嗚咽を漏らす。
私たちは泣いた。泣きたいだけ泣いた。
穏やかになった海は、優しい漣で私たちを包む。
春を匂わす優しい霧雨は、陽に照らされて温かく、私たちに降り注いだ。
身体中の泥が洗い流される。
泣きたいだけ泣いた私たちは少し落ち着いた。
まだ涙は止まらないけど、気持ちは晴れやかだ。すっきりしている。
すくっと立ち上がる。
「……すっきりした…」
私は心の声をそのまま吐き出した。
私は今、透明になってるような気分だった。隠そうと思っても何も隠せない。湧き出てくる感情は、水のように澄んだものも泥のように濁ったものも、等しく流れて出ていく。
この優しい雨の中、嘘なんてつけるわけがない。
「……そうだな」
隣で煌照が呟きながら立ち上がる。彼もまだ泣いていた。頬を伝う水が陽に照らされ、温かく輝く。
「一つ、聞きたいことがある」
煌照が呟く。
「いつから俺たちは、下の名前で呼び合うようになった?」
「あ…」
そういえばそうだ。全く気にしていなかった。
「ま、いいんじゃない?」
私は笑って言った。
「そうだな。後から無しってて言っても受け付けないぞ」
「分かった」
そんなことには絶対にならないと思うけど。
会話が途切れ、漣の音に耳を傾ける。
「雨、止まないな」
漣の合間を縫うように煌照が呟いだ。
「止んでほしいの?」
「まだ少し」
私は天を見上げる。まだ雲は破れているだけで、どんよりとした空模様となっている。
顔に霧雨がかかるけど、私は目を閉じない。
「私はね、この雨がずっと降り続けてほしい。そうすればずっと正直になれるから」
「確かに、そうだな」
「この雨が私たちを洗うの。これは天然のシャワー。醜い泥も美しい熱も等しく洗い流して、外に出してくれるの。私たちは透明になれるの」
「天然のシャワーで透明、か。いい響きだな」
「悪くないでしょ?」
「悪くない。いや、寧ろすごくいい。これは……止んでほしくない」
「でしょ?」
「でも、この雨はいつか止む」
彼は悲しそうに言う。
「うん、分かってる。止まない雨は、無い。変わらない天気は、無い。だけど、願うことは駄目じゃ無いでしょ?」
「確かに、そうだな」
「だからね、この雨が降っている間に言いたいことがあるの」
波打ち際に行き、少し海に浸かったところで私は振り返る。漣が周期的に私の足に当たっては砕ける。煌照はさっきの場所から動いていない。
私は手を差し出す。今度は綺麗な手を。
「私は煌照のことが好き。降谷千隼は藍沢煌照のことを愛しています」
私は目一杯笑った。でも、目からはいっぱいの涙が零れた。
煌照も笑った。涙が溢れて止まらない目尻を下げて。
「ふふ、さっきも言ったんだけどね」
「うん。でも、何回でも聞きたい」
「そんな安売りはしないよ?」
「分かってる」
彼はゆっくりとこちらに歩み寄り、私の手を取る。
「次は俺の番」
彼は私の手を持ったまま私の周りを回りながら、私のことを半回転させる。さっきと立ち位置が逆になる。
煌照はすうっと息を吸う。つられて私も吸う。期待でいっぱいの胸が膨らむ。鼓動がどんどん早く、大きくなる。
「藍沢煌照は降谷千隼に恋焦がれています。どうしようもなく、愛しています」
期待で膨らんだ胸が弾ける。
嬉しい。
「責任を取って下さい」
煌照は笑いながら言った。
溢れ出る感情のまま私は彼の手を離し、思いっきり抱きついた。
「うわっ!」
「わっ!」
私に飛びつかれた煌照は、勢いに負けて後ろに倒れる。
バッシャーン。
大きな音と水飛沫が上がる。
海の中に倒れ込んだ煌照の上に私も倒れた。
私は彼の上から退いて、仰向けになって浮く。明るい空から霧のようなシャワーが降り注ぐ。
今はただ、心地いい。
隣で浮いている煌照と目が合う。
私たちは急に笑いたくなった。
「ふふ……ふはは…あはははははは…………あははは……ああ…」
私は思いのまま笑って泣いた。
「く…くく………あはははははははは……ははは…………くっ…」
煌照も思いっきり笑って泣いた。
私は立ち上がって、煌照に向かって水を掛ける。
「うわっ!やったな?」
煌照も勢いよく立ち上がって私に水を掛ける。
「わっ!ちょっと!」
「先にやったのは千隼だろ?」
「量が多いよ!仕返しだ!」
二人で水を掛け合う。
寒くはなかった。さっきの冷たい雨に散々打たれた私たちにとって、この海水はとても温かく感じた。
二人の笑い声が砂浜に響く。私たちの頬は濡れ続けた。
*
桜流しと彼岸時化
「まだかな?」
私は一人、家のリビングで煌照を待っていた。お父さんとお母さんはまだ寝ている。
外はまだ暗く、夜の帷はまだ上がっていない。今日は春分の日だから、かなり日は長くなっているはずなのに。雨で分からないだけかもしれないけど。
あの日から早一ヶ月半。すっかり春になって暖かくなり、桜が咲き乱れている。
時間までまだ少しある。私はあの日のことを思い出す。
あの日、体力が尽きるまで私たちは戯れあった。その後、松林の前で待っていた瑞姫たちと香織さんと合流した。どうやら私たちのやりとりを見てから、またここに戻ってきたらしい。
「香織さんを止めるのしんどかったんだよ?」とニヤニヤした瑞姫にぼやかれた。「香織さん力強すぎ…」と言った斗和は疲れきっていた。
余裕な顔の香織さんは「初めから理由を言ってくれてたらよかったものを」と言って「言ったよ!」「言ったよ!」と二人からツッコミをもらっていた。
どうやら香織さんは瑞姫たちを振り切って秘密基地にまでは来たけど、私たちのやりとりを見て引き返したらしい。それでも三人とも濡れたまま待っていたから、申し訳なくなった。
その後、私はお母さんに電話をした。幸いスマホは生きていた。最近のスマホはすごく優秀だ。いらない機能も多いけど。
お母さんは車ですぐに来て、香織さん以外のずぶ濡れの四人を拾って私の家に帰った。香織さんは私たちのことをお母さんに預ける形で、先に帰った。どうやら煌照を探すのに仕事をすっぽかしたらしく、「これは減給間違い無しだな!フハハハハ!」と高笑いをしていた。上司に謝りに行くようだった。
家に着くとお父さんが帰ってきていて、かなり驚かれた。先読みのできるお母さんのおかげでお風呂は沸いていた。
実は家に着いたくらいの時にアドレナリンが切れて、すごく寒くなったのは口には出さなかった。多分お母さんには気づかれてたと思う。順番に風呂に入ったあと、お父さんとお母さんを含めて、六人でテーブルを囲んだ。
私とお母さんとお父さんの三人で作った料理を食べながら、楽しく話しながら食べた。
そしてそのままの流れで、みんなは私の家に泊まることになった。不意に初めてのお泊まり会となって、みんな動揺しまくりだった。食べた後、疲れた私たちはそのまま布団に入った。私たちはリビングで並んで雑魚寝をした。私たちはそのまま喋ることなく泥のように眠った。
夜が明けて、私たちは家を出た。行き先は学校ではなく、児童相談所。香織さんを呼んで、煌照を連れて、お父さんとお母さんに付き添ってもらって行った。
煌照は「ありがとう」とだけ言った。その一言以外はどう表現したらいいか分からなかったらしい。でも、私たちはそれで十分だった。言わんとしていることが分かったから。
その後数日はバタバタした日々だった。いろんな手続きだったりで、煌照は学校に来れなかった。
それが終わって煌照が学校に来た時のみんなは面白かったな。煌照のことを囲んで、今まで心配してたと口々に言っていた。煌照は一人じゃないんだよ、と言うまでもなかった。私は思い出し笑いをする。
本当に色々と大変だった。
そんなことを考えていると、家のインターホンが鳴った。
来た!
私は急いで荷物と傘をを手に取って、靴を履きながら玄関のドアを開けた。門の前には傘をさした、見慣れた人影があった。暗くても私には分かる。
ちゃんと靴を履いて、傘をさして、息を整えて、荷物の中には…うん、お花もある。いざ、足を踏み出す。
門を開けると、そこには愛おしい彼が居た。
「おはよう、千隼」
彼は軽く微笑んでいた。
「おはよう、煌照」
「こんな早くに悪いな」
「大丈夫。昨日は早く寝たし」
実は初めてのお出掛けだから興奮して寝れなかったのは、まだ言わない。
「じゃあ、行こっか」
「うん」
私たちは暗闇の中、足を踏み出した。
シトシトと雨が降る。とても静かで互いの足音だけでなく、息遣いさえ耳で感じられる。雨が傘を打つ音が一番大きい。この世界には私たちしかいないのかと、勘違いしてしまいそう。
目的地までは徒歩。私の家と煌照が今住んでいる香織さんの家とのちょうど中間くらいにある。どちらからも絶妙に遠くて、さらに山の上だから坂道まみれでしんどい。
私たちは黙って歩いていく。この夜の静けさに飲み込まれてしまっているようだった。
「そろそろだよ」
煌照は少し荒れる息を整えながら言う。霧のせいで目的地が見えない。
少しずつ夜が明け始め、辺りの暗さが和らいでいくのが分かる。
「着いたよ」
煌照は足を止めた。
「ここが…」
霧が少し晴れ始め、雨を降らしている雲が薄いことに気がつく。
目の前には広いけど、空いている所の多い霊園が広がっていた。私たちのいるところから山頂にかけての斜面に沿って、段々になっている。桜の木がところどころに植えられていた。満開に咲き誇っている花びらは、静かな霧雨に流されて行くのをなんとか耐えていた。
はるか東の空が白み始める。ただ、暗闇はまだ晴れない。
霊園の雰囲気に怖くなった私たちは手を繋いでから、霊園に足を踏み入れる。
手を繋ぐだけで全く恐怖がなくなった。でもこれは、恐怖が和らいだというより、恐怖より恥ずかしさが優っただけなのでは?
墓石を横目に坂道を登っていく。頂上に着くと、私たちはバケツに水を入れ、柄杓を借りた。
頂上は少し大きめの平面にポツポツと墓石が建っていた。怖いというより、なんだか物寂しい感じだった。
煌照は迷うことなく入り、その中の一つの墓前で立ち止まった。他の墓とは特に違いはない。新しいこと以外は。
「越水……?」
「ああ、これは母さんの旧姓だ。香織姉の苗字もこれだったはずだけど」
そういえば香織さんの苗字は聞いてなかった。香織さんは香織さんでしかなかったから。
煌照はお墓の前で息を整えた。
「お待たせ。母さん」
私以外に誰もいない霊園によく響く声だった。
「もう心配しないで。俺はもう、一人じゃない。戦えるようになったから」
日が昇り、地平線から顔を出す。あたりが一気に明るくなる。不気味な空気が一気に飛ばされ、霧雨が陽光に照らされ輝く。
日に照らされた彼の横顔はとても美しかった。つい、見惚れてしまう。
「そうだ、母さん。実はね、彼女が出来たんだ。俺には勿体無いくらいの。今日紹介するね」
彼は私の方を見た。少し落ち着いてから口を開く。
「初めまして、降谷千隼です。私はヒカルとお付き合いしています。絶対に手放す気はございません。よろしくお願いします」
「絶対に手放さないか」
そう言った彼は私のことから目を背けていた。
「何がおかしいの?一生かけて責任を取るつもりだよ?私は」
「いや、そういうことじゃなくて、なんかプロポーズみたいだったから」
「あっ」
彼の耳は真っ赤になっていることに気がつく。私も赤面する。別にそう取ってもらってもいいけど、恥ずかしいのは変わらない。
彼は前を向き直る。
「これが俺の彼女。俺をどん底から救ってくれた天使。俺も一生手放す気は無い」
「天使って…」
「さっきの仕返し」
悪戯っぽく笑う。ホントこの人は…。
その後、私たちはお墓を丁寧に洗った。傘をさしながら掃除をするのは意外に難しかった。ピカピカにした後はお花を供えた。線香と蝋燭に火を着け、それも供えた。
全部が終わり、私たちは墓前で目を瞑り手を合わせる。
どうか、安らかにお眠り下さい。
心からのご冥福をお祈りした。
私たちはバケツと柄杓を返して、来た道を下る。もうすっかり夜は明けて、日が昇っていた。傘をさしてもささなくても変わらないくらいの霧雨だった。薄雲はかかっていたけど、十分明るかった。
私たちはそのまま秘密基地に行った。ベンチには桜の花びらが落ちている上しっかり濡れていたけど、私たちは構わず座る。このベンチの上の木、桜だったんだ。今の今まで気づかなかった。
私は気になっていたことを聞く。
「ねえ、煌照のお母さんのお墓、すごく綺麗だったけど、あれは香織さんが手入れしてたから?」
「ああ、多分な。香織姉は月命日の時に必ずあそこに行っている。大事な仕事の前にも行っているらしから間違いないだろう。俺は行く勇気が無くて、母さんの納骨の時以来一度も行っていなかった」
「でも、場所は迷わなかったよね?」
「あの時の記憶が強烈だったからな。今でも思い出すよ。両手に抱えるほどになった母さんが墓石の下に入れられていく瞬間を。忘れられるわけが無い」
彼はあまりに悲しい顔をしていた。
「ごめん、辛いこと思い出させて」
「千隼が謝るようなことじゃない。あそこに行くと決めたのは俺だ。その時点で覚悟は決まっていた」
彼の視線がこっちに向く。彼の瞳は言葉のように決意に満ち溢れていた。
「それと、今日は千隼に話さないといけないことがある」
「だから、ここに?」
「そうだ。ここなら何も隠せないからな」
確かにそれはそう思う。秘密基地に来ると何も隠せない。
「俺が雨を怖がっていた理由を、話そうかと思って」
「あの駅で待ってった時のこと?」
彼は頷く。確かにあの時の顔は今でも覚えている。強張って血の気の引いた煌照を見たのはあれが一度きりだから。もう二度とあんな表情にはならないでほしい。
「まあ、そうだな」
あの時の表情が今の彼の表情を曇らす。
彼は大きく息を吐いてから語り始めた。
「俺の母さんは事故で死んだ。それが大雨の日だったんだ」
彼の口調は暗く、重苦しかった。私は、黙って海を見つめる横顔をじっと見ながら聞いた。
「大雨の中、母さんと香織姉と俺は足りなくなったお米を買いに近くのスーパーに行ったんだ。香織姉は母さんと俺が虐待を受けているのを知っていた。でも、警察官という立場上、民事不介入を貫かざるを得なかった。香織姉は本庁勤の刑事だったから、余計に手出しできなかった。でも、いつも父さんがいない時は俺と母さんのことを守ってくれた。俺はそれだけで十分だった。香織姉には何度も謝られたけど、なんとも思わなかった」
香織さんが煌照について語る資格が無い、と言っていた理由が分かった。
彼は淡々と続ける。
「話は戻るが、あの日の雨は本当に酷かった。俺はあまりの雨に少し興奮していたんだ。なんか、台風の日とか嵐が来た時って興奮するだろ?それで俺は前の信号が青だったから走ったんだ」
天気が異様に荒れた日はなんかテンションが高くなるのは分かる。つい、危ないのに外の様子を見に行きたくなってしまうのは老若男女、共通のことらしい。
「交差点に入っても特に何も無かった。ただ、俺は置いてけぼりにした母さんたちが気になって、交差点を渡り切ったところで振り返ったんだ。母さんたちはちょうど交差点の真ん中辺りを渡っていた。俺はちょっと寂しくなって母さんたちの方へ駆けて行ったんだ」
その時の煌照に「行くな!」と叫びたくなった。
「そしたら、信号無視をした車が俺と母さんたちの間に突っ込んで来た。あの瞬間は全てがスローモーションになって、音が全て消し飛んだ。俺は目を瞑った。そして気がついたら、俺は地面に仰向けに寝転がっていた。強い衝撃が加わったことすら記憶には無い。意識ははっきりしていた。横に目を向けると、傷まみれの香織姉が母さんを抱きかかえていた。そのあたりから音が戻ってきて、母さんと香織姉のやりとりが微かに聞こえた。ただ、大雨の音でほとんどかき消されて聞こえなかった」
彼の眉間に皺が寄る。
「その時、ようやく気が付いたんだ。母さんが俺を庇ってくれたことに。記憶が途切れる寸前、母さんが俺を抱えて目の前が暗くなって、強い衝撃が何度かあったことをようやく思い出した。俺は隣に転がっているぐちゃぐちゃの傘を見て、発狂しそうになった」
険しい顔の彼が次に発する言葉には察しがついた。でも止めるわけにはいかなかった。
「俺が母さんを死に追いやったんだ。俺が母さんを殺したんだ、って」
私は傘を置き、煌照との距離を詰めた。煌照の手を握り、ただ黙って話の続きに耳を傾ける。
彼は一度私を見てから、また海を見つめる。彼は傘を私の方に傾けてくれた。
「俺はそこで意識が無くなった。目が覚めた後のことは夢か現実か区別がつかなかった。母さんの葬式は無くて、火葬だけがされた。それも俺と香織姉の二人だけで。母さんと香織姉の両親は来なかった。父さんも来なかった」
お葬式が無かったことには驚いた。理由は気になったけど、その疑問は口には出さなかった。
「それからしばらくの間は、父さんに殴られても痛みを感じなかったほど俺は壊れていた。あの時、事故に巻き込まれたのは母さんと香織姉と俺と、もう一人、同い年くらいの少女がいた。香織姉はその子を庇って車に撥ねられた。母さんは俺を庇って撥ねられた。俺とその少女は軽傷だった。ただ、香織姉は全身傷まみれで、母さんは…」
煌照は私の手を強く握った。
「助かりようが無かった。香織姉は刑事として日頃から鍛えていたから命に別状は無かった。ただ大怪我であることには変わりなかったけど。ただ、日頃からの虐待で衰弱していた母さんは……駄目だった。救急車が来た頃には事切れていたと、後から香織姉が言っていた。香織姉は母さんの最期を看取った、とも言っていた」
煌照は声を少し大きくした。
「俺は許せなかった。信号無視をした車に。高級車に乗って、いきがっているあのジジイに。結局、裁判でも不起訴処分になったと香織姉が言っていた。俺たちには裁判を起こしてなんとかするためのお金が無かった。それも許せなかった。家のお金を使い込んでいた父さんも許せなかった。火葬にさえ来なかった母さんの両親、あのジジイを不起訴にした裁判官。全てを憎み許せなかった。だけど…」
彼は強く手を握った。
「何もできなかった俺が……一番許せなかった」
その言葉は今降っている霧雨のように弱かった。
「俺は…俺のことが一番許せなかった。母さんには最後まで守られっぱなしで、何も恩返しができなかった俺のことが、どうしても…」
私は何を言えばいいか分からなかった。ただ、彼の手を強く握り返すことしかできなかった。
彼は少しだけトーンを戻して続ける。
「俺は事故の日から、事故のことを思い出す全てを嫌った。雨、傘、車。あの時のジジイ、父さん、母さんの両親、不起訴にした裁判官。そして、俺のことを」
煌照の表情は怒りとも後悔とも悲哀にもとれた。
「ただ、それも全部千隼がぶち壊してくれた。千隼の言葉が、行動が、俺の全てをぶち壊して新しくしてくれた。だからもう、過去に縋るのはやめることにした。吹っ切れたかと言われると、まだ自信はないけど、少なくとも自殺なんてことは考えなくなった」
煌照の口調は明るくなり、表情も変わっていく。
「ここは元々、俺が父さんから逃げる時によく使っていた場所だった。斗和と瑞姫に励ましてもらったいい思い出の多い場所でもあるけど、その分だけ悪い思い出があって、一口にいい場所とは思えなかった」
煌照は私の方を向いて、微笑んだ。それはあまりに優しく、すぐに壊れそうだった。
「それも千隼が全部壊した。俺にとって千隼は白馬に乗った王子様のようだ。どこにいても俺のことを迎えに来てくれるような安心感がある存在なんだ」
「ふふ、何それ」
私は思わず笑ってしまう。私が白馬の王子様だなんて。
「私、白馬どころか走って泥まみれになって煌照のことを見つけたんだよ?」
「俺にとってはどっちも同じだよ」
あまりに愛おしそうに言うから、反論できないじゃない。その顔は反則だよ。
「本当は俺が迎えに行きたいけど、千隼は自分でなんとかしてしまう強さがあるから。それに俺はまだまだ弱いから」
「そんなことないよ。私のことを痴漢から助けてくれたでしょ?」
「でも、俺がいなくても千隼ならなんとかできていただろ?」
それはそうかも。あの時も痴漢のことを投げ飛ばそうとはしたし。ただ…。
「私の傘を見つけてくれたのは、間違いなく煌照だよ」
私のお気に入りの傘を助けてくれたのは、煌照だから。
「そうか…。俺は少しでも千隼のことを救えたのだろうか?」
「当たり前だよ!私の努力を認めてくれたこと、私の家族の問題に付き合ってくれたこと。全部私にとってすごく救いになった!煌照は私のヒーローなんだよ!」
私は力強い声で言う。
「ふふ、ヒーローか。悪くないな。でも普通、ヒーローはヒロインに迎えに来てもらうか?」
私はその言葉を待っていた。
「そこが私たちのいいところなんじゃない?お互いがお互いのことを迎えに行くことができるところが」
煌照は意表を突かれた表情をする。
「煌照は私のことを白馬に乗った王子様って言ってくれたけど、私はそんな爽やかじゃないよ。私は煌照がどこへ行っても、地球の反対側に行っても迎えに行く。白馬になっか乗らない。自分の足で、裸足になったとしても、転けて泥んこになっても煌照のことを迎えに行く。煌照が嫌って言ったら、引きずってでも連れて帰るからね」
「ブハッ」
煌照は吹き出した。私真剣だよ?
「やっぱり千隼は最高だ。俺も同じだよ。千隼みたいにはできないかもしれないけど、俺なりに頑張って迎えに行くから」
さっきまでの暗い表情はどこへやら。私もつられて笑う。私たち二人以外誰もいない秘密基地に笑い声が響く。
風が吹く。周りに桜の花びらが舞う。前で濡れているのに、遥か遠く水平線の方へ飛んで行った。
「…綺麗だね」
「ああ」
「…ねえ、煌照」
「どうした?」
「好きだよ。これからも、ずっと」
「俺も好きだよ、千隼」
霧雨は止んでいない。私たちは同じ傘の中で桜吹雪の行先を見つめた。ビニール傘には桜の花びらの雨が降り注いだ。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。私はそう思った。きっと煌照も。
でも、そんなことはありえない。
だけど、願うことくらい良いよね?
なら、私はこう願いたい。
この雨が止みませんように。
教室のドアを開けると、瑞姫が居た。
彼女は一人、外の雨を憂うように窓を見つめていた。
私が来たとは思っていないようだ。喋らなくなっていた期間私は朝に会うのが気まずくて遅めに登校していたから。
「おはよう」
私の声を聞いて瑞姫はビクッと肩が揺れる。そしてゆっくりと私の方を見た。
「おはよう。千隼」
彼女はこっちを向いたものの目は合わせてくれなかった。
私は荷物を自分の席に置いた後、彼女の隣に座った。
彼女の伏せたままをの目を見つめて私は口を開く。
「この一週間、瑞姫に話しかけなくてごめんなさい」
彼女が顔を上げる。彼女が何かを言おうとしたけど、私は少し目を伏せて構わず続けた。
「でも、私は知りたかった。藍澤君がどうなっているのか、なぜ学校に来なくなったかを。だから無神経な行動を取ってしまった。ごめんなさい。でもその時に気づいたんだ、藍澤君は私にとって特別だからなんだって。瑞姫のことももちろん大切だし、大好き。でも藍澤君は少し違う。私は…」
「待って!」
瑞姫は私の言葉を遮った。彼女は泣きそうな顔をしていた。
「そこから先は煌照に言ってあげて。その言葉を初めて聞くのは私じゃなくて煌照の方が相応しい。煌照じゃないといけない。それと千隼が謝るような事じゃない。私が悪いの。千隼のことを考えずに何も言わなかったから。だから、謝らないで」
「分かった。でも、私が瑞姫たちを避けていたのは事実だから。それは謝らないといけないこと」
「私の方こそ、避けてしまってごめんなさい」
彼女の声が徐々に震えていった。強く握られたスカートに皺が入る。
「私が何もできないから、斗和に迷惑を掛けて、煌照のことも何もできないままで、千隼を困らせた。だから悪いのは何もできなかった…」
「違う」
今度は私が瑞姫の言葉を遮った。それ以上言わせるわけにはいかない。
「瑞姫は悪くない。藍澤君のことは分からないけど、少なくとも斗和は迷惑を掛けられても、瑞姫のことを見る目は何も変わっていなかった」
「でも、それは斗和が優しいからそんな風に見せていないだけで」
私は瑞姫の手を強く握った。彼女はビクッとして私に握られた手を見る。
「私の目を見て。今、私はあなたに怒っている。全部自分のせいにしてしまう優しすぎる雲母坂瑞姫に怒っている。分かる?」
彼女は怯えつつも首を縦に振る。
「瑞姫が全部悪いなんてことは絶対に無い。瑞姫が全部正しいとも思わない。人は絶対に間違いを犯す。秘密基地で言ったでしょ?友達に迷惑をかけるのはお互い様でしょ?迷惑を掛けあっても互いに助け合う友達こそ、本当の友達だって。少なくとも私は瑞姫に迷惑を掛けられても嫌じゃない。斗和もきっとそう。じゃなかったら私は今、ここにいない」
私はハキハキと喋った。瑞姫は優しすぎる。そのせいで周りのことが見えていない。
私はまだ言葉を続ける。
「瑞姫は私と仲直りしたくない?」
「そんなことない!」
彼女は大きな声で言った。身を乗り出すような勢いだった。
私は微笑み、少しトーンを落とした。
「そうでしょう?私だって同じ気持ち。瑞姫と仲直りしたい。お互い言葉にして話し合わないと何も伝わらない。そう教えてくれたのは他でもないあなた、瑞姫でしょ?」
彼女は目を見開いたまま固まった。そして一粒の涙が彼女の頬を伝った。
「そうだ、私は……そう。千隼と仲直りしたい。元の関係に戻りたい」
彼女表情が徐々に崩れていく。私も目頭が熱くなる。
「ねえ?まだ…間に合う?こんな私だけど……友達の…ままで……いてくれる…?」
彼女の声は上擦っていた。
「もちろん」
私は彼女のことを抱き寄せた。腕の中に収まった彼女はあまりに痩せていた。きっと彼女はずっと一人で戦っていたんだろう。頼れる友達がいても、友達だけではどうにもできないことはこの世にいっぱいあるから。
私は子守唄を歌うように囁く。
「瑞姫は優しすぎるだけ。周りに迷惑を掛けない人間なんて一人もいない。だから、自分のことを追い込まないで。あなたは私に迷惑掛けられても何一つ嫌な顔をしなかった。あれは嘘じゃないんでしょ?」
私の腕の中で頷く。
「それは私も斗和も藍澤君も同じなんだよ。瑞姫に迷惑を掛けられることはちっとも嫌じゃない。それは迷惑を掛けるってことじゃない」
腕の中から嗚咽する声が聞こえる。私も涙を流す。
「それは頼るってことなんだよ」
彼女はここまで追い込まれていたんだ。周りを頼ることに極度に恐怖を覚え、信じられるものが信じられなくなっていた。
私は彼女の頭を撫でる。ただ静かに彼女が落ち着くのを待った。
私たちはもう一度、私たちのことを見直せた。私たちはまた仲良くなれたんだ。
「ごめんね」
「謝らないで。今はその言葉じゃない」
泣き止んだ彼女はまだ少ししゃっくりが止まっていなかった。
私は彼女の手を握った。そして彼女と目を合わせる。
「ありがとう、瑞姫」
私は笑顔で言った。
「ありがとう。千隼と友達になれて本当に良かった」
彼女は泣き腫らした目で優しくはにかんだ。
「これからもよろしくね、瑞姫」
「うん。これからよろしくね、千隼」
私は一度引いた涙がまた溢れてくる。瑞姫もまた涙を流している。
私たちは抱き合って、笑い合った。涙はまだ流れてくるけど関係無い。だって今は嬉しいから。
寒い教室の中に二人の笑う声が響く。私たちはお互いのことをさらに知ることができた。
クラスの子達が徐々に教室に入ってくる。私は大丈夫だけど、瑞姫はひどく泣き腫らしている。彼女は俯いて分からないようにした。
「煌照のこと、聞かなくていいの?」
彼女は俯いたまま言った。
「うん。この一週間色々考えたんだけど、藍澤君自身のことは彼の口から聞くべきだと思ったから」
そう、私は彼に直接会う必要がある。彼の居場所は見当がついている。
そして彼の口から真実を聞くんだ。
願わくは私の気持ちも伝えられたらいいな。
「私は応援してるよ。今回は力になれないかもしれないけど、頼ってね」
瑞姫は少しだけ顔を上げて、はにかんだ。
「ありがとう。瑞姫も何かあったら私を頼ってね。いつでも私は力になるから」
「ありがとう、千隼」
彼女は今までよりずっといい表情になった。彼女の肩の荷はまだ下りていないけど、私がいる。それに彼女は周りに頼ることを覚えたから、きっと大丈夫。
私たちは辺りを見渡して斗和のことを探した。でも彼は学校には来ていなかった。本鈴が鳴って、私は自分の席に戻る。
斗和とも仲直りしたいのに。
外の雨はひどくなる一方で、とうとう警報が出た。電車が止まる恐れがある為、一限の授業だけ受けて帰ることになった。
それも自習だったけど。私は瑞姫と一緒に勉強した。クラスのみんなは驚いていたけど、私たちは微塵も気にしなかった。
結局斗和と会うことができないまま、私は瑞姫と一緒に帰った。私は瑞姫を私の家に一旦連れて行った。
瑞姫のことをお母さんに紹介したかったのと、あまりの雨に私たちは全身ずぶ濡れになったから風邪を引かないように家に招待した。
私は瑞姫と一緒にお風呂に入って、互いの背中を流し合った。
そして瑞姫には私の服を着てもらった。私の方が少しサイズが大きくてダボっとなったけど。それもまた可愛かった。
リビングに行くとお母さんが温かい飲み物を用意してくれていた。少し喋った後、私たちは家を出た。
お母さんは私のことを止めなかった。止めても無駄だと思ったのと私のことを信じているから、と口にした。私はお母さんにハグをしてから家を出た。
私たちは電車に乗って瑞姫の家、ではなく藍澤君の家に向かった。
案内は瑞姫にしてもらった。
危険だとは分かっていた。でも、今行かないと藍澤君がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、私は止まれる気がしなかった。
藍澤君の家は香織さんの家からかなり奥に行ったところにあった。古くはない一軒家だったけど、そこだけ空気が澱んでいるのを感じた。
いざ、勇気を出してインターホンを鳴らす直前、私は瑞姫に手を止められた。瑞姫は後ろを向いていた。
私も振り返る。そこにはスーツ姿の香織さんがいた。香織さんはこの雨の中、傘を差していなかった。香織さんは血の気の引いた顔をしていた。
それよりどうしてここに?
「ここに煌照はいない」
低い声で放たれた言葉は豪雨に掻き消された。
瑞姫は香織さんに傘を差し出そうとしたけど、止められた。
「煌照がいなくなった。斗和と朝から探しているが、どこにもいない」
全身の血の気が一気に引いた。
この雨の中、外出する理由は無い。じゃあどうして家を出たの?
私は隣の瑞姫を見る。瑞姫も血の気の引いた顔をしていた。
「じゃあ、どこに?」
「分からない。斗和と思い当たるところは全て探し回って、もう一度家に帰ってきていないか確認をしに来たら、君たちがいたんだ」
心拍数が上がる。私の嫌な予感が当たったんだ。
「私も一緒に探す」
考える前に口にしていた。
香織さんは一瞬口を開いて、閉じた。そしてまた開いた。
「ここから先は危険だ。それでも煌照を探すか?」
危険なんて百も承知だった。ここに来た時点でもう覚悟はできている。
私はゆっくりと一回だけ頷いた。すると、瑞姫が私の手を握った。
瑞姫と目が合う。お互いに頷いて、もう一度香織さんの方へ向き直る。私は瑞姫の手を強く握った。瑞姫も握り返してきた。
お互い覚悟はできている。私たちは一人じゃない。
香織さんは一度目を瞑ってから開く。
「私はこっちを探す。君たちはこっちを探してくれ」
香織さんはそう言って駆け出して行った。朝から探しているはずなのに足が早かった。
「行こう」
「うん」
私たちも言われた方向へ駆け出した。路地裏も確認したけど、藍澤君はいなかった。
雨はさらに激しくなる。瑞姫と私は傘を差しているのにまた全身濡れた。でも全く気にしなかった。気にする余裕なんて無かった。
「どこにもいない。千隼は?」
「私の方もいなかった」
瑞姫は膝に手をついて、私は腰に手を当てた。互いに息がかなり荒れていた。
「他に心当たりのある場所はある?」
瑞姫は首を横に振った。
私もこの辺りには詳しくないけど、隠れられそうな場所は全部探した。
あと思い当たる場所は……。
「秘密基地」
私の呟きに瑞姫が反応する。
一番有り得そうな場所。
「そこは一番に探しているんじゃない?」
そう、瑞姫の言う通りだ。そこは真っ先に探す場所だ。そしてまだ見つかっていないということは、そこにはいなかったということ。
でも、私はそこにいる気がした。なぜかは分からないが、無性にそこから藍澤さんの気配がする気がした。
「もしかしたら、入れ違いになって今はそこにいるかもしれないから行こう!」
「分かった。私は千隼を信じる」
互いに走り疲れた足を奮い立たせて、足を前へ出す。
さっきまでいた場所から秘密基地までは少し遠かった。
私たちはただ走った。途中からは傘を畳んで走った。
「わっ」
隣の瑞姫が脚を絡ませた。私は咄嗟に支えて転けずに済んだ。
「大丈夫?」
「ありがとう。千隼のおかげで無事」
彼女は私より先に脚を動かしっていた。私も脚を動かす。
秘密基地まではあと少し。もう松林が見えている。
松林の前に人影が見えた。
もしや…。
酷い雨で遠目からははっきりと確認できなかった。でも私たちはひょっとしてと思い、されに早く脚を動かす。
近づくと、そこには斗和が佇んでいた。彼もまた傘を差していなかった。
斗和は私たちに気がつくと驚いたように目を見張った。
「どうして……ここに……」
私は荒れる息を整えることなく口を開く。
「藍澤君はいた?」
彼は目を伏せた。
どうして答えてくれないの?
「斗和。正直に答えて」
瑞姫が強い口調で言った。
彼は少し唇を噛んでから口を開く。
「これは……煌照の意思だ。誰かが来たら、ここで止めてくれと」
彼は静かに言った。
すると瑞姫は斗和に向かって歩いた。瑞姫は斗和の前に立つと、傘を投げ捨て彼の胸ぐらを掴んだ。私は止めに入らなかった。
「煌照に会ったの?煌照はどこ?教えて!」
瑞姫は声を荒げた。斗和は俯いたままで私たちはそのまま硬直する。
斗和は俯いたまま口を開く。
「見ていられなかったんだ、傷ついていく煌照のことを、これ以上は」
「どういうこと?」
私は低い声で聞く。斗和は俯いていた顔を少しだけ上げる。
「俺はもう、煌照の意思を尊重することにした。だから、ここでお前たちを止める」
「煌照を救いたくないの?」
「俺だって煌照を助けたい!」
瑞姫の低い声の問いに声を荒げた。
彼はそのまま続ける。
「俺だってここで手を拱いて待っていたいわけじゃない!でも、俺じゃ煌照を救えない!だから俺はここでお前たちを止める以外に無かった!」
瑞姫は胸ぐらを掴んだ手を少しずつ緩めていって、手を離す。
斗和の一度溢れた言葉は止まることがなかった。
「それが煌照の意思、普段は頼み事をしない煌照が俺に頼んできたんだ。頭を下げてまで。断れるわけがなかった」
雨と前髪で分かりづらかったけど、彼は泣いているようだった。
私は歯をギリっと軋ませた。
頼られたから?事情は知らないけど、私は無性に腹が立った。
気づけば私は傘から手を離し、瑞姫と同じく斗和の胸ぐらを掴んでいた。
「頼られたからって何?そこは止めないといけないでしょ!藍澤君の友達ならそれくらいしなさいよ!」
私は声を荒げた。
「何も知らない千隼に何が…」
「何も分からないよ!何も知らないから!でもこれだけは分かる!」
私は胸ぐらを掴む手に力が入る。
「斗和は藍澤君を止めるべきだったって!今から藍澤君が何をしようとしているかわ大体察しがつく。ここで言い争っている場合じゃない。だから答えて」
私は前髪の間から斗和の目を睨む。
「斗和はどうしたいの!」
雨音と叫んだ私の声が松林に木霊する。
私と瑞姫、さらに強まる雨脚が斗和を催促する。
斗和は黙って唇を噛んだ。頬を伝う水が一本増えた。
斗和の唇が震える。
「俺は……煌照を救いたい…でも…俺にはできない……だから…」
私は次の言葉を黙って待った。その間も雨は容赦なく地面に私たちに叩きつけた。
瑞姫も私を止めることはなく。斗和のことをじっと見つめている。
「どうか…煌照を救ってくれ………これは…俺の意思だ」
私は胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「分かった。任せて」
私は傘を拾って駆け出そうとする。そんな私の腕を瑞姫が掴んだ。
「千隼。私はここで斗和と一緒にいる。だから、煌照のことは任せた」
「…なんで?」
私は戸惑いを隠せなかった。てっきり瑞姫も来るものだと思っていたから。
瑞姫は静かに首を振った。
「私にも煌照を救えない。煌照を救えるのは、千隼だけ。だから、早く行ってあげて。きっと煌照は、心のどこかで千隼が来てくれることを期待しているから」
「………分かった」
私がそう言うと、瑞姫は私の手を離した。
私はそのまま駆け出した。振り返ることなく全速力で秘密基地へ向かった。
松林の中を隼のように駆け抜ける。無心で脚を動かす。頭にはいつかの血の気の引いた藍澤君の顔があった。
もっと疾く、もっと疾く。間に合え。
まだ行かないで。私には、言いたいことがある。
「わっ」
私は地面から飛び出した松の根に躓いて、勢いよく転けた。
受け身はとれたけど、全身泥まみれになって地面に伏せる。
「ああっ!」
私はすぐに立ち上がって傘を拾ってから、もつれる脚を無理やり動かす。
ここで寝転んでいる場合じゃない。
松林を抜け、秘密基地に着いた。
秘密基地には人影が無かった。なら砂浜か。
私は砂浜の方を見る。
いた。
波打ち際に傘を差し海を見ながら佇む人影が見えた。
「藍澤君!」
私は大声で叫んだ。
雨で聞こえないのか、その人影は振り返らなかった。
私は駆け寄りながらもう一度叫ぶ。
「煌照!」
その人影は私に気づいて振り返る。
間違いない。煌照だ。
私は泥まみれの手で彼の手を勢いよく掴んだ。
「降谷さん……どうして…」
私は荒れた息を整えずに言葉を発する。
「帰ろう。みんなが待ってる」
彼はまた海の方向を向く。
彼の顔には痣がいくつかあった。まさか、マスクをしていたのって…。
家族に問題を抱えていることと痣が繋がる。
私は心の底から怒りが湧いてきた。
彼は妙に落ち着いていた。
「俺に、帰る場所は無い。この世界に、俺の居場所は無い」
「ある!帰る場所が無いなら私が帰る場所になる。居場所が無いなら私が煌照の居場所になる!だから、もう馬鹿なことはやめて!」
「俺には生きている価値は無い。もうほっといてくれ」
「そんなことない!」
「無責任なことを言うな!」
彼は感情を爆発させた。
私は一瞬怯んだけど、改めて腰を据える。
「無責任なんかじゃ…」
「無責任なんだよ!お前に俺の何が分かる!」
「分かるわけないでしょ!煌照は何も話さなかったんだから!」
「なら!なんでそんな嘘を吐くんだ!」
「嘘なんかじゃない!」
「全部嘘なんだよ!優しさも愛情も全部!友達だって全部!」
バチン。
私が思い切り煌照の頬を打った音は、すぐに雨と波に掻き消された。
彼は私を見て、打たれた頬に手を当てる。彼の手からするりと傘が落ちる。
彼はひどく怯えていた。私もそうなることは分かっていた。それを承知で手を上げたのだから。
私は彼の胸ぐらを思い切り掴んだ。彼の体はあまりにも軽く、私の力でも簡単に引き寄せることができた。
私は煌照の目を真っ直ぐに見据える。
「何で嘘って決めつけるのよ!私たちの友情は嘘だったの?私が煌照と一緒に過ごした日々は、煌照にとってはただの欺瞞に満ちた日々だったの?」
彼は黙ったまま俯いた。
「答えてよ!」
怒鳴り声が雨音の中に響く。
それでも彼は唇を震わせるだけで、一向に言葉を発しない。
「話してよ!言葉にしないと何も分からない!煌照の友情は嘘だったの?ねえ!」
彼はまだ黙ったまま動かない。
胸ぐらを掴んだ手でもう一度彼を揺する。
「嘘なら嘘とはっきり言いなさいよ!今更私に気を遣ってるつもり?そんなの願い下げよ!正直に答えて!」
私の声は今までで一番大きく、砂浜に木霊した。
ここでようやく彼の唇が動く。
「……嘘じゃない」
「ならどうして嘘を吐いたの?」
「こんなみっともない俺を見られて失望されたくなかったんだ」
煌照の顔が徐々に崩れていき、本音が漏れ出てくる。
私も胸ぐらを掴んでいる手の力を緩めて、彼の言葉に耳を傾ける。
「怖かったんだ。本当の俺を知られて、千隼がどこかへ行ってしまうのが」
「それが私に話さなかった理由?」
「違う……違う…。そうじゃない。俺は……俺は…」
今は彼に言葉を急かさなかった。ただ、彼の次の言葉を待った。
「俺は…千隼のことを信じきれていなかったんだ。千隼は自分の本音を包み隠さず言えることを羨んだんだ。そして、それが怖かった」
「つまり、私が怖かったと?」
「違う、違う!千隼は何も悪くない!俺が勝手に!」
彼は首を強く、何度も横に振った。
「話しても他の奴と一緒だと思ってしまったんだ。千隼は違うのに!最後の一歩が踏み出せなかった!その上千隼に気を遣わせて!」
彼の叫ぶような声は土砂降りの雨と荒れ狂う波に流された。
私たちに打ちつける雨が濡れた全身をさらに濡らしている。毛先から何度も水滴が落ち、まつ毛に溜まった雨が定期的に顔を濡らし、水を含んだ服は鎧のように重たい。
雨と波が競い合うかのように鳴る音だけがしばらく響く。
「………違うでしょ?」
私は低く落ち着いた声で告げる。
「煌照は私に気を遣っているんでしょ?さっき言ったよね、そんなの願い下げだって」
再び両手に力が入る。
彼の潤んでいる瞳を、ただ真っ直ぐに見つめる。
「私は、煌照の本音が聴きたい。嘘も気遣いも要らない。煌照の考えを、思いを叫んでよ」
声が徐々に大きくなる。
雨音と波音の戦いに私も参加する。
雨音にも波音にも負けないように、お腹から声を出す。
でないと、煌照に私の言葉は届かない。
「私たちはぶつかり合わなきゃいけない。互いの思いを赤裸々にぶつけ合って、何も包み隠さずに」
私は大きく息を吸った。
「藍沢煌照!あなたは何を思っているの?その思いを隠さずに全力で叫びなさい!」
煌照の頬を一筋の涙が伝う。この雨の中でも、それははっきりと分かった。
「俺は……」
彼は大きく息を吸った。
「誰のことも信じられなかった!誰かを信じたいのに全てが敵に見えた!斗和も瑞姫も香織姉も!千隼のことでさえ敵に見えた!」
彼は何も包み隠すことなく、心の泥を声を大にして叫んだ。
ようやく本音が聞けた。
私は嬉々として次の言葉を待つ。
「千隼には何度も話そうと思ってた!でも毎回直前で怖くなった。斗和の時も瑞姫の時も怖かったけど、それとは比べ物にならなかった。斗和も瑞姫も馬鹿にしない確証があったけど、千隼のことは何も分からなかった。一体何を考えているのか想像をしても、その遥か上を行っている気がして。何でもできて、何も話さない俺に対して優しく接してくれる千隼には、どうしても嫌われたくなかった!」
私が分かりずらかったばかりに。
でも、今は煌照の言葉を聞かないと。私が懺悔している場合じゃない。私のことは後から謝ればいい。
「もう一度聞く。それが私に話さなかった理由?」
「そうだ!俺はみっともなくて意気地無しなんだ!幻滅しただろ!」
彼は半ばヤケクソになっていた。自分のことを嘲り、鼻で笑うように叫んだ。
それは確実に本音だった。
それより私が気になったのは…。
「幻滅なんてしてない。それも煌照だから」
「いいや、今から話すことを聞けばきっと千隼も幻滅する」
私は喉の上まで来た言葉をグッと飲み込んだ。
この言葉は今じゃない。まだだ、我慢しろ。
代わりの言葉を出す。
「なら、話してくれる?煌照のことを」
私は胸ぐらを掴んだままにした。
もう逃げることはないと思っている。でも、まだ不安は拭いきれない。
「ああ、もう隠さない。隠す必要が無い」
彼は少し呼吸を整えてから口を開いた。
「俺は…父さんから虐待を受けている」
その一言は予想通りだったけど、私の予想よりずっと重たかった。
怒りが私の中に沸々と湧いてくる。
「俺を守ってくれていた母さんは五歳の時に事故で死んだ。俺を庇って、酷い雨の中」
私は目を見開く。
彼が一度だけ母さんの話をしていたことと夕立の時のこと急に思い出す。私はどちらも鮮明に思い出せた。
あの時のあの表情は……まさか。
「俺は最後まで母さんに何も恩返しできなかった!最後のお別れもできていない!だから、俺は父さんに殴られるのを受け入れた。それが殺人者の俺にできる唯一の贖罪だから!俺は痛みを以て俺を戒めなければならないんだ!」
彼の拳は強く握られ、今にもはち切れそうだった。
「だから他人に話しても無駄なんだよ!母さんのこと、俺のことに同情だけされて、それで終わり。何も変わらないんだよ!俺の罪は拭えない!」
彼の言葉の余韻が砂浜に打ち上がる。
「どうだ?これで千隼も幻滅しただろ?」
彼は鼻で笑った。
今まで沈黙を貫いていた私はついに口を開く。
今こそ、さっき飲み込んだ言葉を吐き出す時だ。
「……それは煌照の考えでしょ?煌照は自分に幻滅してるだけでしょ?それが私も一緒だと思っているのは煌照の勝手な先入観だよ」
落ち着いた口調で諭すように言葉を紡いでいく。
「どうして幻滅しないんだ!こんな醜い俺を罵ってくれよ!」
「どうして罵る必要があるの?煌照はこんなに苦しんでいるのに」
「まだ足りないんだ!これじゃ母さんに顔を合わせられない!」
「じゃあ、煌照は今日、ここへ何しに来たの?」
「それは……」
彼の言葉が急に失速する。
私はそのまま続ける。
「死ぬためにここへ来たんでしょ?楽になる為に。煌照は自分が苦しむことで、贖罪できると思っているんでしょ?この世での罪を全部洗い流すことで天国へ行ける、煌照のお母さんに会えると思っているんでしょ?」
彼は固まったまま私のことを見る。
さあ、目醒めの刻だ。
「でも、それはただの幻想だって、自分本位な自己満足な考えだってことに気づいているんでしょ?」
「黙れ…」
「自分に暗示をかけているだけだって気づいているんでしょ?」
「黙れ」
「足りないと言いつつ、それが無駄なことだって分かっているんでしょ?」
「黙れ!」
「黙らない!自殺することがどういうことか分かってるの?自分を殺すことなんだよ?やってることは殺人と何一つ変わらない!あなたは今、本当の殺人者になろうとしていたの!」
私は声を大きくする。
煌照には殺人者になってほしくないから。
「煌照は勝手に自分を悪者にして、自分を殺すことを正当化してこの苦しみから脱したいだけ」
「黙れ。黙れ黙れ!別にいいじゃないか!ほっといてくれよ!俺の何が分かるんだ!」
「何も分からない!」
私は掴んだ胸ぐらを引き寄せて彼の顔を近づける。
彼は少し怯む。
「じゃあ…」
「分かるわけない!私と煌照は別の生き物なんだよ?そんなのどうやったって分かるわけない!自分のことも全部分かってない私たちにどうやって理解するのよ!」
「じゃあ黙れよ!俺に幻想を見せないでくれ!」
「幻想を見ているのは煌照だよ!煌照は自分を殺す理由を探してるだけ。自分を正当化したいだけ!」
「違う!俺は死んで然るべき存在なんだ!」
彼の目からはボロボロと涙が溢れている。もうぐちゃぐちゃになっているんだろう。
「そんなの誰が決めたの?神様?周りの大人?私たち?違うでしょ」
彼は歯を食いしばったまま私を見る。まだ涙を堪えようとしている。
私は真っ直ぐに煌照の目を見据えて力強く言葉を発する。
「煌照自身が勝手に決めたんでしょ!周りのことを見ないで!」
「周りは見えている!俺の味方はいない!俺に生きる価値なんか無い!」
「煌照は何も見えていない!考えたことはある?煌照が死んで悲しくなる人間がいるって!」
「そんなのいない!」
「いる!煌照に生きてほしいと思っている人はたくさんいる!もちろん私も!」
「何でそんなことが言えるんだ!俺には生きる価値があるとどうして思う!」
私は荒れた息を整える為に、大きく息を吸って吐いてから声を出す。
「生きる価値なんてただの妄言だよ。生きる価値って誰が決めるの?そもそも私たちは誰かに生きていいて言われないと生きちゃ駄目なの?そんなわけないでしょ?」
私は少し落ち着いて話した。
「じゃあ俺はどうやって生きればいいんだ!俺は誰に従えばいいんだ!」
私は彼の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離して、下げた。
「……私のことを殴って」
「え?」
「いいから殴って!」
私の一言に怯んだ彼は私の言われるがままだった。
彼は手をゆっくりと動かし、高く上げたまま固まった。彼の手は酷く震えていた。
私は彼の目を見て離さなかった。まだ涙を堪えている。もう手遅れなのに。
雨が私たちと地面を打つ音と荒れ狂う波の音が私たちの間を流れる。
「早く!」
彼は私の声を聞いて目を瞑った。
そして、目を開けて歯を食いしばった彼は、震えの止まらない手を思い切り振り下ろす。私は目を瞑ることなく彼の目を見続けた。
バチン。
二度目の鈍い音が砂浜に鳴る。今度は煌照が私を打った音。頬に痛みが走ったけど私は表情を変えない。
私は打たれて一度外れた視線をまた戻す。
「分かった?これが人を殴るってこと」
私は静かなトーンで言った。
私も人を殴るのは初めてだったけど、想像通りだった。
「痛いでしょ?心が。それを平然とやってくるような人に屈して、従ったままで本当にいいの?」
彼は私の頬を打った手を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「この世に誰かに生きていていいって言われて生きている人は誰もいない。死ねと言われて誰が素直に受け入れるの?」
私はもう一度、彼の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「あなたは今、誰の足でここに立っている?誰の意思でその足は動く!」
声を張り上げて煌照に問う。
「答えろ!藍沢煌照!あなたは今、誰の意思で生きている!」
私たち二人しかいない砂浜に痺れるほど大きな声が響く。
煌照はとうとう堪えきれず、ボロボロと涙を流しながら答えた。
「俺は…藍沢煌照は藍沢煌照の意思で生きている」
その声は上擦って掠れていた。でもはっきりと力強くこの世界に轟いた。
私たちはその余韻に浸る。
私は力を抜き、手を離した。彼は膝から崩れ落ちる。
雨が少しずつ弱まるのを感じた。荒れ狂う海が次第に穏やかになっていく。
遠くの水平線の方で雲が割れ、一筋の光が差し込む。
私たちはそれを見つめた。
雲の割れ目は次第に増えていく。そして近いところにも陽光が差し込む。
辺りが明るくなる。
彼のことを見る。海の方を見つめる彼の横顔は、とても美しかった。
「ねえ、私を見て」
私は沈黙を破る。彼は私の方へ視線を移す。
私は優しい笑顔を作る。
「私がどう見える?」
煌照はまた大粒の涙を流し始めた。
「まだ、煌照の味方はいないって言える?」
泥まみれの手の平を天に向け、彼に差し出す。
泥が流れる前に彼は私の手を取る。私は彼を立たせるのではなく、両膝をついて彼と目線を合わせる。
「まだ、世界が敵に見える?」
彼は首を横に振る。
よかった。私のしたことは無駄じゃなかったんだ。
雲の割れ目がまたひとつ増える。またひとつ辺りが明るくなる。
「酷いことを言ってごめんなさい。殴ってしまってごめんなさい」
私はそこで言葉を止めるつもりだった。
でも気が付いたら口から零れていた。
「私のことは好きなだけ嫌ってくれていい。ただ、私は煌照のことを救いたかったの。私の好きな煌照が煌照のことを嫌うのだけは許せなかったの」
彼は涙を流している目を見開いた。私はそれを見ることができず、目を伏せた。
ああ、もう無理。
彼が口を開く前に、私は本音を零してしまった。
「ごめん、嘘」
私は堪えていた涙を零す。
「私は煌照に嫌われたくない。もう手遅れって分かってるのに、自分で始めたことなのに、最後まで我慢できなかった」
一度溢れ出せば止まらなかった。
止めどなく零れる涙と共に私は本音を零した。
「私は煌照が好き」
「え?」
彼の戸惑う声が聞こえた。
私は構わず続ける。
「私はどうしようにもなく、煌照のことが好き。だから、嫌われたくなかった」
声がどんどん震えていく。
「もう遅いって分かってる。馬鹿だよね……私」
私は泣いているのに笑いたくなった。こんな私を笑い飛ばしてやろうとする前に、煌照が声を出した。
「遅くなんかない」
「え?」
「千隼が俺の手を掴んだ時点で、もう間に合ってる。千隼の手が俺をどん底から引きずり上げてくれた」
「でも、私の手は泥まみれで…」
「それが良かったんだ。綺麗な手じゃなくて、泥まみれの手が良かったんだ。汚れちまった俺を掴むのは汚れた手の方がいい。それに……」
煌照は目を閉じ、私の手を祈るように自分の顔の前に持っていく。
「泥だらけになってまで、俺を探してくれたってことが、何より嬉しいから」
彼は閉じた瞼からも涙を流しながら、微笑んだ。
また雲が割れ、光が差し込む。辺りが明るくなる。
弱まった雨は霧雨となっていた。
「どう…して……?」
彼は顔を上げ、ゆっくりと瞼を上げる。
「簡単な話だよ」
彼の瞳が私の瞳を捉える。
「俺も降谷千隼のことだ好きだから」
驚きと喜びで私は声が出せなかった。
私のことが……好き…?
頭では理解できる。でも、心が追いつかない。
「雨降って地固まる。さっきまでのやりとりは必要だったんだ、俺たちに。俺たちは一度ぐちゃぐちゃにならないといけなかった」
「でも、私は煌照に酷いことをした」
「それはお互い様だろ」
「煌照のことを殴ったんだよ?」
「俺も千隼のことを殴っただろ?」
「でも、あれは私が…」
「関係無い。最後の判断を下したのは俺だ」
「でも、私はあなたのお父さんと同じことを」
「違う。千隼は父さんとは違う」
煌照は私が全てを言い切る前に遮った。
「あ………う…」
出そうと思った声が全く出なかった。
「あの平手打ちはとても痛かった。でも、父さんに殴られるのとは全く違った痛みだった」
彼は目を伏せながら言う。
「それに、同じくらい千隼は痛そうな顔をしてた。泣きそうな顔をしていた」
目を上げて私の瞳を見つめる。
「もう、自分を責めないで。千隼は優しい。その優しさに俺は救われた。だから、もう泣かないで」
その言葉を聞いて、私の涙腺が一気に崩壊する。
「俺に…言えたことではないな」
彼も笑いながら涙を流していた。
彼は私の手をするりと離した。代わりに私のことを抱きしめた。
「うぅ……う…あ……」
止めどなく嗚咽が溢れてくる。
そう言って、彼も嗚咽を漏らす。
私たちは泣いた。泣きたいだけ泣いた。
穏やかになった海は、優しい漣で私たちを包む。
春を匂わす優しい霧雨は、陽に照らされて温かく、私たちに降り注いだ。
身体中の泥が洗い流される。
泣きたいだけ泣いた私たちは少し落ち着いた。
まだ涙は止まらないけど、気持ちは晴れやかだ。すっきりしている。
すくっと立ち上がる。
「……すっきりした…」
私は心の声をそのまま吐き出した。
私は今、透明になってるような気分だった。隠そうと思っても何も隠せない。湧き出てくる感情は、水のように澄んだものも泥のように濁ったものも、等しく流れて出ていく。
この優しい雨の中、嘘なんてつけるわけがない。
「……そうだな」
隣で煌照が呟きながら立ち上がる。彼もまだ泣いていた。頬を伝う水が陽に照らされ、温かく輝く。
「一つ、聞きたいことがある」
煌照が呟く。
「いつから俺たちは、下の名前で呼び合うようになった?」
「あ…」
そういえばそうだ。全く気にしていなかった。
「ま、いいんじゃない?」
私は笑って言った。
「そうだな。後から無しってて言っても受け付けないぞ」
「分かった」
そんなことには絶対にならないと思うけど。
会話が途切れ、漣の音に耳を傾ける。
「雨、止まないな」
漣の合間を縫うように煌照が呟いだ。
「止んでほしいの?」
「まだ少し」
私は天を見上げる。まだ雲は破れているだけで、どんよりとした空模様となっている。
顔に霧雨がかかるけど、私は目を閉じない。
「私はね、この雨がずっと降り続けてほしい。そうすればずっと正直になれるから」
「確かに、そうだな」
「この雨が私たちを洗うの。これは天然のシャワー。醜い泥も美しい熱も等しく洗い流して、外に出してくれるの。私たちは透明になれるの」
「天然のシャワーで透明、か。いい響きだな」
「悪くないでしょ?」
「悪くない。いや、寧ろすごくいい。これは……止んでほしくない」
「でしょ?」
「でも、この雨はいつか止む」
彼は悲しそうに言う。
「うん、分かってる。止まない雨は、無い。変わらない天気は、無い。だけど、願うことは駄目じゃ無いでしょ?」
「確かに、そうだな」
「だからね、この雨が降っている間に言いたいことがあるの」
波打ち際に行き、少し海に浸かったところで私は振り返る。漣が周期的に私の足に当たっては砕ける。煌照はさっきの場所から動いていない。
私は手を差し出す。今度は綺麗な手を。
「私は煌照のことが好き。降谷千隼は藍沢煌照のことを愛しています」
私は目一杯笑った。でも、目からはいっぱいの涙が零れた。
煌照も笑った。涙が溢れて止まらない目尻を下げて。
「ふふ、さっきも言ったんだけどね」
「うん。でも、何回でも聞きたい」
「そんな安売りはしないよ?」
「分かってる」
彼はゆっくりとこちらに歩み寄り、私の手を取る。
「次は俺の番」
彼は私の手を持ったまま私の周りを回りながら、私のことを半回転させる。さっきと立ち位置が逆になる。
煌照はすうっと息を吸う。つられて私も吸う。期待でいっぱいの胸が膨らむ。鼓動がどんどん早く、大きくなる。
「藍沢煌照は降谷千隼に恋焦がれています。どうしようもなく、愛しています」
期待で膨らんだ胸が弾ける。
嬉しい。
「責任を取って下さい」
煌照は笑いながら言った。
溢れ出る感情のまま私は彼の手を離し、思いっきり抱きついた。
「うわっ!」
「わっ!」
私に飛びつかれた煌照は、勢いに負けて後ろに倒れる。
バッシャーン。
大きな音と水飛沫が上がる。
海の中に倒れ込んだ煌照の上に私も倒れた。
私は彼の上から退いて、仰向けになって浮く。明るい空から霧のようなシャワーが降り注ぐ。
今はただ、心地いい。
隣で浮いている煌照と目が合う。
私たちは急に笑いたくなった。
「ふふ……ふはは…あはははははは…………あははは……ああ…」
私は思いのまま笑って泣いた。
「く…くく………あはははははははは……ははは…………くっ…」
煌照も思いっきり笑って泣いた。
私は立ち上がって、煌照に向かって水を掛ける。
「うわっ!やったな?」
煌照も勢いよく立ち上がって私に水を掛ける。
「わっ!ちょっと!」
「先にやったのは千隼だろ?」
「量が多いよ!仕返しだ!」
二人で水を掛け合う。
寒くはなかった。さっきの冷たい雨に散々打たれた私たちにとって、この海水はとても温かく感じた。
二人の笑い声が砂浜に響く。私たちの頬は濡れ続けた。
*
桜流しと彼岸時化
「まだかな?」
私は一人、家のリビングで煌照を待っていた。お父さんとお母さんはまだ寝ている。
外はまだ暗く、夜の帷はまだ上がっていない。今日は春分の日だから、かなり日は長くなっているはずなのに。雨で分からないだけかもしれないけど。
あの日から早一ヶ月半。すっかり春になって暖かくなり、桜が咲き乱れている。
時間までまだ少しある。私はあの日のことを思い出す。
あの日、体力が尽きるまで私たちは戯れあった。その後、松林の前で待っていた瑞姫たちと香織さんと合流した。どうやら私たちのやりとりを見てから、またここに戻ってきたらしい。
「香織さんを止めるのしんどかったんだよ?」とニヤニヤした瑞姫にぼやかれた。「香織さん力強すぎ…」と言った斗和は疲れきっていた。
余裕な顔の香織さんは「初めから理由を言ってくれてたらよかったものを」と言って「言ったよ!」「言ったよ!」と二人からツッコミをもらっていた。
どうやら香織さんは瑞姫たちを振り切って秘密基地にまでは来たけど、私たちのやりとりを見て引き返したらしい。それでも三人とも濡れたまま待っていたから、申し訳なくなった。
その後、私はお母さんに電話をした。幸いスマホは生きていた。最近のスマホはすごく優秀だ。いらない機能も多いけど。
お母さんは車ですぐに来て、香織さん以外のずぶ濡れの四人を拾って私の家に帰った。香織さんは私たちのことをお母さんに預ける形で、先に帰った。どうやら煌照を探すのに仕事をすっぽかしたらしく、「これは減給間違い無しだな!フハハハハ!」と高笑いをしていた。上司に謝りに行くようだった。
家に着くとお父さんが帰ってきていて、かなり驚かれた。先読みのできるお母さんのおかげでお風呂は沸いていた。
実は家に着いたくらいの時にアドレナリンが切れて、すごく寒くなったのは口には出さなかった。多分お母さんには気づかれてたと思う。順番に風呂に入ったあと、お父さんとお母さんを含めて、六人でテーブルを囲んだ。
私とお母さんとお父さんの三人で作った料理を食べながら、楽しく話しながら食べた。
そしてそのままの流れで、みんなは私の家に泊まることになった。不意に初めてのお泊まり会となって、みんな動揺しまくりだった。食べた後、疲れた私たちはそのまま布団に入った。私たちはリビングで並んで雑魚寝をした。私たちはそのまま喋ることなく泥のように眠った。
夜が明けて、私たちは家を出た。行き先は学校ではなく、児童相談所。香織さんを呼んで、煌照を連れて、お父さんとお母さんに付き添ってもらって行った。
煌照は「ありがとう」とだけ言った。その一言以外はどう表現したらいいか分からなかったらしい。でも、私たちはそれで十分だった。言わんとしていることが分かったから。
その後数日はバタバタした日々だった。いろんな手続きだったりで、煌照は学校に来れなかった。
それが終わって煌照が学校に来た時のみんなは面白かったな。煌照のことを囲んで、今まで心配してたと口々に言っていた。煌照は一人じゃないんだよ、と言うまでもなかった。私は思い出し笑いをする。
本当に色々と大変だった。
そんなことを考えていると、家のインターホンが鳴った。
来た!
私は急いで荷物と傘をを手に取って、靴を履きながら玄関のドアを開けた。門の前には傘をさした、見慣れた人影があった。暗くても私には分かる。
ちゃんと靴を履いて、傘をさして、息を整えて、荷物の中には…うん、お花もある。いざ、足を踏み出す。
門を開けると、そこには愛おしい彼が居た。
「おはよう、千隼」
彼は軽く微笑んでいた。
「おはよう、煌照」
「こんな早くに悪いな」
「大丈夫。昨日は早く寝たし」
実は初めてのお出掛けだから興奮して寝れなかったのは、まだ言わない。
「じゃあ、行こっか」
「うん」
私たちは暗闇の中、足を踏み出した。
シトシトと雨が降る。とても静かで互いの足音だけでなく、息遣いさえ耳で感じられる。雨が傘を打つ音が一番大きい。この世界には私たちしかいないのかと、勘違いしてしまいそう。
目的地までは徒歩。私の家と煌照が今住んでいる香織さんの家とのちょうど中間くらいにある。どちらからも絶妙に遠くて、さらに山の上だから坂道まみれでしんどい。
私たちは黙って歩いていく。この夜の静けさに飲み込まれてしまっているようだった。
「そろそろだよ」
煌照は少し荒れる息を整えながら言う。霧のせいで目的地が見えない。
少しずつ夜が明け始め、辺りの暗さが和らいでいくのが分かる。
「着いたよ」
煌照は足を止めた。
「ここが…」
霧が少し晴れ始め、雨を降らしている雲が薄いことに気がつく。
目の前には広いけど、空いている所の多い霊園が広がっていた。私たちのいるところから山頂にかけての斜面に沿って、段々になっている。桜の木がところどころに植えられていた。満開に咲き誇っている花びらは、静かな霧雨に流されて行くのをなんとか耐えていた。
はるか東の空が白み始める。ただ、暗闇はまだ晴れない。
霊園の雰囲気に怖くなった私たちは手を繋いでから、霊園に足を踏み入れる。
手を繋ぐだけで全く恐怖がなくなった。でもこれは、恐怖が和らいだというより、恐怖より恥ずかしさが優っただけなのでは?
墓石を横目に坂道を登っていく。頂上に着くと、私たちはバケツに水を入れ、柄杓を借りた。
頂上は少し大きめの平面にポツポツと墓石が建っていた。怖いというより、なんだか物寂しい感じだった。
煌照は迷うことなく入り、その中の一つの墓前で立ち止まった。他の墓とは特に違いはない。新しいこと以外は。
「越水……?」
「ああ、これは母さんの旧姓だ。香織姉の苗字もこれだったはずだけど」
そういえば香織さんの苗字は聞いてなかった。香織さんは香織さんでしかなかったから。
煌照はお墓の前で息を整えた。
「お待たせ。母さん」
私以外に誰もいない霊園によく響く声だった。
「もう心配しないで。俺はもう、一人じゃない。戦えるようになったから」
日が昇り、地平線から顔を出す。あたりが一気に明るくなる。不気味な空気が一気に飛ばされ、霧雨が陽光に照らされ輝く。
日に照らされた彼の横顔はとても美しかった。つい、見惚れてしまう。
「そうだ、母さん。実はね、彼女が出来たんだ。俺には勿体無いくらいの。今日紹介するね」
彼は私の方を見た。少し落ち着いてから口を開く。
「初めまして、降谷千隼です。私はヒカルとお付き合いしています。絶対に手放す気はございません。よろしくお願いします」
「絶対に手放さないか」
そう言った彼は私のことから目を背けていた。
「何がおかしいの?一生かけて責任を取るつもりだよ?私は」
「いや、そういうことじゃなくて、なんかプロポーズみたいだったから」
「あっ」
彼の耳は真っ赤になっていることに気がつく。私も赤面する。別にそう取ってもらってもいいけど、恥ずかしいのは変わらない。
彼は前を向き直る。
「これが俺の彼女。俺をどん底から救ってくれた天使。俺も一生手放す気は無い」
「天使って…」
「さっきの仕返し」
悪戯っぽく笑う。ホントこの人は…。
その後、私たちはお墓を丁寧に洗った。傘をさしながら掃除をするのは意外に難しかった。ピカピカにした後はお花を供えた。線香と蝋燭に火を着け、それも供えた。
全部が終わり、私たちは墓前で目を瞑り手を合わせる。
どうか、安らかにお眠り下さい。
心からのご冥福をお祈りした。
私たちはバケツと柄杓を返して、来た道を下る。もうすっかり夜は明けて、日が昇っていた。傘をさしてもささなくても変わらないくらいの霧雨だった。薄雲はかかっていたけど、十分明るかった。
私たちはそのまま秘密基地に行った。ベンチには桜の花びらが落ちている上しっかり濡れていたけど、私たちは構わず座る。このベンチの上の木、桜だったんだ。今の今まで気づかなかった。
私は気になっていたことを聞く。
「ねえ、煌照のお母さんのお墓、すごく綺麗だったけど、あれは香織さんが手入れしてたから?」
「ああ、多分な。香織姉は月命日の時に必ずあそこに行っている。大事な仕事の前にも行っているらしから間違いないだろう。俺は行く勇気が無くて、母さんの納骨の時以来一度も行っていなかった」
「でも、場所は迷わなかったよね?」
「あの時の記憶が強烈だったからな。今でも思い出すよ。両手に抱えるほどになった母さんが墓石の下に入れられていく瞬間を。忘れられるわけが無い」
彼はあまりに悲しい顔をしていた。
「ごめん、辛いこと思い出させて」
「千隼が謝るようなことじゃない。あそこに行くと決めたのは俺だ。その時点で覚悟は決まっていた」
彼の視線がこっちに向く。彼の瞳は言葉のように決意に満ち溢れていた。
「それと、今日は千隼に話さないといけないことがある」
「だから、ここに?」
「そうだ。ここなら何も隠せないからな」
確かにそれはそう思う。秘密基地に来ると何も隠せない。
「俺が雨を怖がっていた理由を、話そうかと思って」
「あの駅で待ってった時のこと?」
彼は頷く。確かにあの時の顔は今でも覚えている。強張って血の気の引いた煌照を見たのはあれが一度きりだから。もう二度とあんな表情にはならないでほしい。
「まあ、そうだな」
あの時の表情が今の彼の表情を曇らす。
彼は大きく息を吐いてから語り始めた。
「俺の母さんは事故で死んだ。それが大雨の日だったんだ」
彼の口調は暗く、重苦しかった。私は、黙って海を見つめる横顔をじっと見ながら聞いた。
「大雨の中、母さんと香織姉と俺は足りなくなったお米を買いに近くのスーパーに行ったんだ。香織姉は母さんと俺が虐待を受けているのを知っていた。でも、警察官という立場上、民事不介入を貫かざるを得なかった。香織姉は本庁勤の刑事だったから、余計に手出しできなかった。でも、いつも父さんがいない時は俺と母さんのことを守ってくれた。俺はそれだけで十分だった。香織姉には何度も謝られたけど、なんとも思わなかった」
香織さんが煌照について語る資格が無い、と言っていた理由が分かった。
彼は淡々と続ける。
「話は戻るが、あの日の雨は本当に酷かった。俺はあまりの雨に少し興奮していたんだ。なんか、台風の日とか嵐が来た時って興奮するだろ?それで俺は前の信号が青だったから走ったんだ」
天気が異様に荒れた日はなんかテンションが高くなるのは分かる。つい、危ないのに外の様子を見に行きたくなってしまうのは老若男女、共通のことらしい。
「交差点に入っても特に何も無かった。ただ、俺は置いてけぼりにした母さんたちが気になって、交差点を渡り切ったところで振り返ったんだ。母さんたちはちょうど交差点の真ん中辺りを渡っていた。俺はちょっと寂しくなって母さんたちの方へ駆けて行ったんだ」
その時の煌照に「行くな!」と叫びたくなった。
「そしたら、信号無視をした車が俺と母さんたちの間に突っ込んで来た。あの瞬間は全てがスローモーションになって、音が全て消し飛んだ。俺は目を瞑った。そして気がついたら、俺は地面に仰向けに寝転がっていた。強い衝撃が加わったことすら記憶には無い。意識ははっきりしていた。横に目を向けると、傷まみれの香織姉が母さんを抱きかかえていた。そのあたりから音が戻ってきて、母さんと香織姉のやりとりが微かに聞こえた。ただ、大雨の音でほとんどかき消されて聞こえなかった」
彼の眉間に皺が寄る。
「その時、ようやく気が付いたんだ。母さんが俺を庇ってくれたことに。記憶が途切れる寸前、母さんが俺を抱えて目の前が暗くなって、強い衝撃が何度かあったことをようやく思い出した。俺は隣に転がっているぐちゃぐちゃの傘を見て、発狂しそうになった」
険しい顔の彼が次に発する言葉には察しがついた。でも止めるわけにはいかなかった。
「俺が母さんを死に追いやったんだ。俺が母さんを殺したんだ、って」
私は傘を置き、煌照との距離を詰めた。煌照の手を握り、ただ黙って話の続きに耳を傾ける。
彼は一度私を見てから、また海を見つめる。彼は傘を私の方に傾けてくれた。
「俺はそこで意識が無くなった。目が覚めた後のことは夢か現実か区別がつかなかった。母さんの葬式は無くて、火葬だけがされた。それも俺と香織姉の二人だけで。母さんと香織姉の両親は来なかった。父さんも来なかった」
お葬式が無かったことには驚いた。理由は気になったけど、その疑問は口には出さなかった。
「それからしばらくの間は、父さんに殴られても痛みを感じなかったほど俺は壊れていた。あの時、事故に巻き込まれたのは母さんと香織姉と俺と、もう一人、同い年くらいの少女がいた。香織姉はその子を庇って車に撥ねられた。母さんは俺を庇って撥ねられた。俺とその少女は軽傷だった。ただ、香織姉は全身傷まみれで、母さんは…」
煌照は私の手を強く握った。
「助かりようが無かった。香織姉は刑事として日頃から鍛えていたから命に別状は無かった。ただ大怪我であることには変わりなかったけど。ただ、日頃からの虐待で衰弱していた母さんは……駄目だった。救急車が来た頃には事切れていたと、後から香織姉が言っていた。香織姉は母さんの最期を看取った、とも言っていた」
煌照は声を少し大きくした。
「俺は許せなかった。信号無視をした車に。高級車に乗って、いきがっているあのジジイに。結局、裁判でも不起訴処分になったと香織姉が言っていた。俺たちには裁判を起こしてなんとかするためのお金が無かった。それも許せなかった。家のお金を使い込んでいた父さんも許せなかった。火葬にさえ来なかった母さんの両親、あのジジイを不起訴にした裁判官。全てを憎み許せなかった。だけど…」
彼は強く手を握った。
「何もできなかった俺が……一番許せなかった」
その言葉は今降っている霧雨のように弱かった。
「俺は…俺のことが一番許せなかった。母さんには最後まで守られっぱなしで、何も恩返しができなかった俺のことが、どうしても…」
私は何を言えばいいか分からなかった。ただ、彼の手を強く握り返すことしかできなかった。
彼は少しだけトーンを戻して続ける。
「俺は事故の日から、事故のことを思い出す全てを嫌った。雨、傘、車。あの時のジジイ、父さん、母さんの両親、不起訴にした裁判官。そして、俺のことを」
煌照の表情は怒りとも後悔とも悲哀にもとれた。
「ただ、それも全部千隼がぶち壊してくれた。千隼の言葉が、行動が、俺の全てをぶち壊して新しくしてくれた。だからもう、過去に縋るのはやめることにした。吹っ切れたかと言われると、まだ自信はないけど、少なくとも自殺なんてことは考えなくなった」
煌照の口調は明るくなり、表情も変わっていく。
「ここは元々、俺が父さんから逃げる時によく使っていた場所だった。斗和と瑞姫に励ましてもらったいい思い出の多い場所でもあるけど、その分だけ悪い思い出があって、一口にいい場所とは思えなかった」
煌照は私の方を向いて、微笑んだ。それはあまりに優しく、すぐに壊れそうだった。
「それも千隼が全部壊した。俺にとって千隼は白馬に乗った王子様のようだ。どこにいても俺のことを迎えに来てくれるような安心感がある存在なんだ」
「ふふ、何それ」
私は思わず笑ってしまう。私が白馬の王子様だなんて。
「私、白馬どころか走って泥まみれになって煌照のことを見つけたんだよ?」
「俺にとってはどっちも同じだよ」
あまりに愛おしそうに言うから、反論できないじゃない。その顔は反則だよ。
「本当は俺が迎えに行きたいけど、千隼は自分でなんとかしてしまう強さがあるから。それに俺はまだまだ弱いから」
「そんなことないよ。私のことを痴漢から助けてくれたでしょ?」
「でも、俺がいなくても千隼ならなんとかできていただろ?」
それはそうかも。あの時も痴漢のことを投げ飛ばそうとはしたし。ただ…。
「私の傘を見つけてくれたのは、間違いなく煌照だよ」
私のお気に入りの傘を助けてくれたのは、煌照だから。
「そうか…。俺は少しでも千隼のことを救えたのだろうか?」
「当たり前だよ!私の努力を認めてくれたこと、私の家族の問題に付き合ってくれたこと。全部私にとってすごく救いになった!煌照は私のヒーローなんだよ!」
私は力強い声で言う。
「ふふ、ヒーローか。悪くないな。でも普通、ヒーローはヒロインに迎えに来てもらうか?」
私はその言葉を待っていた。
「そこが私たちのいいところなんじゃない?お互いがお互いのことを迎えに行くことができるところが」
煌照は意表を突かれた表情をする。
「煌照は私のことを白馬に乗った王子様って言ってくれたけど、私はそんな爽やかじゃないよ。私は煌照がどこへ行っても、地球の反対側に行っても迎えに行く。白馬になっか乗らない。自分の足で、裸足になったとしても、転けて泥んこになっても煌照のことを迎えに行く。煌照が嫌って言ったら、引きずってでも連れて帰るからね」
「ブハッ」
煌照は吹き出した。私真剣だよ?
「やっぱり千隼は最高だ。俺も同じだよ。千隼みたいにはできないかもしれないけど、俺なりに頑張って迎えに行くから」
さっきまでの暗い表情はどこへやら。私もつられて笑う。私たち二人以外誰もいない秘密基地に笑い声が響く。
風が吹く。周りに桜の花びらが舞う。前で濡れているのに、遥か遠く水平線の方へ飛んで行った。
「…綺麗だね」
「ああ」
「…ねえ、煌照」
「どうした?」
「好きだよ。これからも、ずっと」
「俺も好きだよ、千隼」
霧雨は止んでいない。私たちは同じ傘の中で桜吹雪の行先を見つめた。ビニール傘には桜の花びらの雨が降り注いだ。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。私はそう思った。きっと煌照も。
でも、そんなことはありえない。
だけど、願うことくらい良いよね?
なら、私はこう願いたい。
この雨が止みませんように。
