この雨が止みませんように
泣きながら笑おう
止まない雨が私たちを濡らすけど
この雨は私たちを洗うから
息苦しくても
傷口に滲みても
泥まみれになっても
私を忘れないで
自分を忘れないで
醜くてもいい
空っぽでもいい
グチャグチャでいい
私はここにいるから
どこに行ったとしても迎えに行くから
一緒に泣いて笑おう
溢れる感情に任せて
何も隠さずに
何もおかしくなんかない
空っぽじゃないんだよ
この雨は私たちの嘘
この雨は私たちの絆
この雨は私たちの証
この雨が私たちを殺すの
そして私たちを生かすの
とめどなく溢れて止まない雨は私たちを優しく包むから
*
この雨が止みませんように
目次
五月雨越えた走り梅雨
夕立渦巻く台風
慈雨過ぎた秋雨
氷雨匂わす片時雨
雨水凍らす寒の雨
春驟雨流す春雨
桜流しと彼岸時化
*
五月雨越えた走り梅雨
車窓に打ち付ける雨。満員電車内はいつもよりじめっている。肌寒く感じさせる今日の春終わりの雨は、梅雨とは違う不快感があった。
私は跳ねる髪の毛をなんとか治そうと、鏡を取り出す。
その時、後ろからの気配に悪寒を感じた。
さっき取り出した鏡越しに後ろを映すと、後ろに中年のサラリーマンが立っていた。目の前のドアの窓越しに私を見ている。それに満員電車とはいえ、この密着の仕方はおかしい。手が常に私に当たっている、手の甲ではなく、手のひらが。撫でるような当たり方、いや触り方。
これは痴漢。
武道の心得のある私は、すぐに制圧する準備をした。
けど次の瞬間、制圧する必要は無くなった。
「良いおっさんが何してんだ?」
低く怒りを含んだ声が、車内に響いた。声のした方に振り向くと、そこには私と同じ学校の制服を着た男子生徒が立っていた。彼はサラリーマンの腕を掴んでいた。
「何をするんだ。俺は何もしていないぞ!」
サラリーマンは挙動不審に答えた。俺は何もしていないぞって何かしている人が言うセリフな気がする。
「さっき、この子に痴漢してたろ?盗撮もしてただろ、その鞄で」
男子生徒は、先ほどと同じく低い声でサラリーマンを詰めた。盗撮もしていたのか、それには気づかなかった。不覚だった。
サラリーマンは何も言い返せなかった。
その時、ちょうど電車が駅に着いて、ドアが開いた。
案の定サラリーマンは一目散にホームへ飛び出し逃げた。
逃すまいと私もホームへ飛び出し、追いかけた。足の遅いサラリーマンに追いつくのは一瞬だった。前に回り込んで投げ飛ばそうと構えたけど、またもやその必要はなくかった。
「逃げんな!」
さっきの男子生徒がサラリーマンに後ろからダイナミックな飛び蹴りをかました。サラリーマンは盛大に顔面から転けた。
男子生徒はゴミを見つめるような目でサラリーマンを見て言った。
「本当に何してんだよコイツは。ダセェ」
そこからはとんとん拍子だった。駅員が駆けつけて警察も駆けつけ、サラリーマンはお縄についた。私と男子生徒はは少し事情聴取を受けた。男子生徒は跳び蹴りはやり過ぎだと警察からお叱りを受けていた。男子瀬戸が素直に謝ると、警察もやれやれという感じで彼を解放した。
全てが済んで学校に向かおうとした時には、すでに二限目に入っている時間だった。普段なら内心かなり慌てていたことだろう。遅刻したことが無いから分からないけど。しかし、今日は遅刻に正当な理由がある。とは言え、少し焦っている私もいる。
そんないろいろ矛盾している私に構うことなく、雨はまだ降っていた。傘は電車から飛び出した時に車内に置いてきてしまった。
あの傘、お気に入りだったのになぁ。空気だけでなく、心までじめったくなってしまう。
そんなことを考えていると、さっきの男子生徒が来た。
「大丈夫だったか?」
心配そうに聞いてきた。
「平気です」
冷たく答えてしまったと、答えた後で後悔する。しかし、
「よかったぁ。痴漢って結構トラウマになるって聞いたことがあるから」
とてもホッとしたように言った。
「でもさすがは至高の姫君、足めちゃくちゃ速いな」
至高の姫君、その呼び方にはあまり良い気はしない。
「私は姫君ではありません。降谷千隼(ふるやちはや)という名前があります」
一体誰がこんなあだ名をつけたのか。確かに私は大企業の社長を父親に持つけど、貴族という訳じゃない。それでも私は毅然に答えた。
「あ、ごめん降谷さん。この呼び方は良くないよな。ほんとごめん」
男子生徒はまるで雨に濡れた仔犬みたいにしょんぼりしてしまった。
「あなたが謝る必要は無いですよ。そのあだ名をつけたのはあなたでは無いんですから」
あまりにしょんぼりしてしまった彼を見て、私は咄嗟に宥めた。
「いや、でもお前を不快にさせてしまった訳だし」
「不快になどなってませんよ」
「でも顔に出てたから」
顔に出てた?自分で言うのもなんだけど、私はあまり表情が豊かでは無い。表情筋が死んでいると言われたこともある。
しばしの沈黙が私たちの間に流れ、雨が地面に打ちつける音が響いた。止む気配の無い雨はさっきより強くなった気もする。
「て言うか俺の自己紹介はまだだったよな」
いたたまれないのか、突然話題を変えた。
「俺は二年一組の藍澤煌照(あいざわひかる)。帰宅部のエースだ、よろしくな」
「改めて、私は二年一組の降谷千隼です」
つられて私も自己紹介をしたが、簡潔過ぎた気がした。
けど男子生徒もとい、藍澤さんは気にも留めなかったらしい。
「一応、同じクラスだけど覚えてた?」
「すいません、顔と名前が一致していなくて気づきませんでした」
「よくあるよね。俺もまだクラス全員の顔と名前一致できてないから。あと今日は雨に濡れて髪型めちゃくちゃだから尚更だ」
もう乾いているとはいえ、ペシャンコになっている。そして、単純に疑問に思ったことを彼に聞く。
「傘は持ってないのですか?」
「傘持ってないんだよなぁ。学校までどうしよう」
彼は途方に暮れたように言った。
「そうですね。私も持っていないのでコンビニで買いますか」
「あれ?持ってなかったっけ?花柄のやつ」
何で私が傘を持っていたことを知ってるのか気にはなったけど、スルーすることにした。
「先ほどの騒動で、電車の中に置いてきてしまったみたいです」
「駅員さんに言いに行こう!忘れ物センターに届けられるかもしれないから!」
「待って」
彼は私の言葉を聞く前に、一目散に近くの駅員さんの方にかけて行った。私も遅れて跡を追いかけた。
彼が駅員さんに事情を説明して、探してもらえることになった。
彼の行動力に驚きつつも、内心ホッとしていた。あの傘は私のお気に入りだから、失くしていたらかなり落ち込んだだろう。
「ありがとう」
自然と口から溢れた。
「笑った」
「ん?」
「今笑った!」
どうやら自然と笑みが溢れたらしい。
「私が笑わないと?」
「笑ったとこ見たことないもん!」
見たことないもんって、子供みたいな。でも、確かに学校ではあまり笑わないかもしれない。
「でも良かったぁ。怒らせたまんまなのかと思ったてたから、ほんとよかった」
彼は気が抜けたのか、地面にしゃがみ込んだ。
「まだそんなこと気にしていたのですか?」
「そんなことって」
「怒ってないですよ、ああいうことは日常茶飯事ですから」
彼はホッとした顔から一転、怪訝そうな顔になった。
「日常茶飯事?」
「ええ。家以外ではそうですよ」
「こんなに話しやすいのになんで?」
「私がお嬢様だからですかね」
「そんなの関係無くない?」
「周りの人にとっては、そうではないんでしょう」
「なんか釈然としないなぁ」
彼はしゃがんだまま、頭を掻いた。どうやら彼は人との壁があまりないらしい。少し羨ましく感じる。
「あっ!学校!」
彼は突然立ち上がって叫んだ。私は少しビクッとなった。
「どうしよう、三限までには間に合うか?」
ここから学校まではちょっと遠い。学校方面への電車はちょうどさっき出たばかり。二十分後の電車を待つしかない。二十分待つとなると三限目はギリギリになるかもしれない。ここでどれだけ考えたって仕方ないと思い、落ち着く為にもベンチに腰掛ける。藍澤さんは自然な流れで私の隣に腰掛けた。
またしても雨音だけが私達の間に響く。何故だかこの雨音を聞いていると、心が落ち着いた。
そんな私にとっては心地良い沈黙を破ったのは藍澤さんだった。
「雨って、なんか嫌だよな」
私に話しかけているかも分からないくらいに、独り言のような呟きだった。私はどう答えるのが正解かわからず、返答に困った。
そんな私には構わず、彼は続ける。
「ジメジメするし、今日みたいに嫌なことにも遭うし、心までジメジメする」
彼の言葉はまるで同意を求めているようだった。
「そうですか?私はそこまで嫌いでは無いですよ」
「今日みたいに嫌なことがあってもか?」
「今日のようなことは晴れていたとしても起きたでしょう。今日がたまたま雨だっただけでしょう」
「確かに、そうかもしれんな」
彼はどこか釈然としない感じだったが、私の言葉に同意した。
またしても沈黙が流れると思ったが、そんなことはなかった。
「よしっ、こんな話は終わり!」
彼は手を大きく叩いた。私は少しビクッとなって彼のことを見た。
「俺聞きたい事がいっぱいあるんだ」
そう言って彼は私のことを見た。
「聞きたい事、ですか?」
私は思わず聞いた。
「そう!いつも一人でいるから話しかけるの躊躇ってたんだ。周りの目もあったし。だから、二人きりになれたこのチャンスを逃す訳にはいかないと思ってさ」
さっきの空気はどこへ行ったのか、カラッとした大きな声で彼は言った。
「私に聞きたい事があるならいくらでもどうぞ」
「良かった、ありがとう。なら一つ目、何か武道やってる感じなのか?」
「柔道を少し」
「そうなんだ!そしたら二つ目。ズバリ、学年一位の成績の理由は勉強ですか?」
「まぁ、そうですね」
「やっぱりそうですよねぇ、俺も頑張らないと」
勢いといい、なんかインタビューじみたものを感じるけど、今までされた質問攻めに比べると何故だか不快感を感じなかった。
「それじゃぁ三つ目、趣味は?」
「裁縫ですかね」
「どんなの?」
まるで少年のように目を輝かせて聞いてきたから、見せないといけない感じがした。
私は持っていたハンカチを出した。
「こんな感じ?」
「何これ、紫陽花?」
「そうです」
「すっげえ、めちゃくちゃうまい」
「そうですか」
心の底から誉めているようだったけど、私は素直にそれを受け取れずそっけない返事をしてしまった。
彼はそれに気付かなかったのか、質問を続けた。
「四つ目、一人っ子?」
「ええ、一人っ子です」
「俺と一緒だ」
「そうなんですね」
「そうなんだよ、めっちゃ意外ってよく言われるんだよな」
確かに学校で見ている感じ、長男気質で世話焼きな感じがする。クラス委員だし、いつもクラスの先頭に立って何かしている。
そこから他愛のない話をして電車を待った。
いろんな質問をされたけど、やはりインタビューのような不快感は無かった。学生新聞のインタビューの時は、正直かなりしんどかった。
でも、なぜ不快感が無いのかは分かりそうで分からなかった。
藍澤さんと話していると、電車が来るまではあっという間だった。一人でスマホを見ている時はあんなに長いのに。ホームに着いた電車は座れるくらい空いている。
彼は空いている席を見渡して言う。
「空いていると逆に座るところ迷って座りづらくない?」
「そうですかね」
「ならない?」
「なりませんね」
「そうか」
私は彼の迷いに構わずドアに近い端っこの席に座った。
自然な流れで隣に座るかと思ったが、彼は私の前に立った。
「座らないのですか?」
「俺が隣に座ったらいろいろ言われそうでさ」
あぁ、他の生徒の目を気にしているのか。気にしなくていいのに。
「こんな時間に誰も登校しませんよ」
「いや、どこの誰が情報を漏らすか分からんからな」
「私を痴漢から助けた時点でもう手遅れだと思いますが?」
「あっ、もう手遅れか。じゃぁお隣失礼しても?」
「どうぞご自由に」
藍澤さんは一人分とまではいかないが、半人分くらい空けて隣に座った。さっきの開き直ったような言い方をしていたじゃないか、と心の中で突っ込む。遠慮をされるのは慣れているけど、苦手だ。どこか距離感を感じるし、私が悪いみたいになってしまう。ただ、声には出さなかった。
沈黙が車内を流れ、ガタンゴトンという電車の走る音が響く。
この車内にはパラパラと座っている人がいるだけで、私たちを含めても二十人くらいしかいない。少ないけど人がいるから静かなのか、私がいるから静かなのか。男子生徒のイメージはドア付近で立って大声で喋っていて邪魔なイメージしかないからか、静かなのが違和感で仕方ない。特に藍澤さんはさっきまでめちゃくちゃお喋りだったからなのかな?気まずさを感じているのは私だけだと思う。
何も喋らないまま、学校の最寄駅に着いた。雨はまだ降っている。
そんな沈黙を破ったのは私でも藍澤さんでもなく、着信音だった。
私の着信音と同じだったので、慌てて私はカバンからスマホを取り出した。しかし、私のスマホはぴくりとも動いていない。どうやらこの着信は私のものじゃなかった。慌てた自分が恥ずかしい。私のものではないとなると藍澤さんかな?と思い、彼の方を見る。
彼は私の比にならないくらい焦っていた。思わずぷっと吹き出しそうになるのを堪えた。
彼はカバンをひっくり返す勢いで探して、ようやく見つかった。
「もしもし?」
焦って出た声は裏返っていた。
「はい……はい……分かりました、お願いします」
彼は電話を切るなりこっちを向いて
「傘見つかったって!」
とホーム中に響くような声で言った、いや叫んだ。
「ちょっと!しっー!」
私は慌てて静かにするように言った。
「ごめごめん。つい嬉しくて」
てへっと彼は両手を合わせて謝った。
「そうですか」
呆れた。私の傘が見つかった程度で叫ぶなんて。そもそも私より喜んでない?悪い気はしないけど、周りに迷惑をかけないでほしい。
「今日傘失くした駅まで届けてくれるって。マジでよかったな」
「ええ、ありがとうございます」
「どういたしまして、もっと褒めてくれてもいいんだぞ?」
冗談だろうとは思ったけど、
「本当に助かりました、行動力があるのですね」
と、正直に答えた。
「いや、えっ、あっ、冗談なんだけど。えっ、あぁ、よかった」
彼は急に挙動不審になって顔を背けた。今朝の痴漢のサラリーマンを思い出し思わず笑った。
「ふふっ、何を焦っているのですか?」
少し間が空いて
「いや、その顔は反則だろ」
と彼は目を見開いて軽く呟いた。
「何がです?」
「自覚ないのか?自分がどう見られてるのか」
今度は少し声は大きかったが、今朝のような怒っているようなトーンでは無かった。どちらかといえば、ツッコミを入れるような感じ。
「確かに人よりは整った見た目だと思いますが、そこまでのものではありません」
「いやいや、そこまでのモンだって、自覚してないじゃないか!」
「自覚していますよ。今朝の痴漢のこともありますし、そういった目でなくても視線は常に感じていますから」
「いや、痴漢のことを言っているわけではなくてな?ほら、学校とかでさ?みんなにどう見られてるとかさ?いや、ごめん」
彼は急に申し訳なさそうになった。さっきもあった気がする。
「何謝ってるんですか?」
「今朝のこと思い出させてしまって」
まだ気にしていたのか。私は大丈夫だって言ったのに。
「気にしなくて大丈夫です。私はそこまで軟弱ではありませんから」
「そうか、ごめん。俺の気にしすぎだ」
そう言うとすぐに
「よしっ、切り替えるわ!」
と両手で頬を叩いた。
「学校に行くぞ!」
なんか空元気感が感じられるのは否めないが、さっきまでの元気な藍澤さんになった。
ひとまず私たちは改札を出て、出口に向かった。
しかし、私たちは出口で足止めを食らった。
「そういえば傘が無いんだった!」
私は今朝失くして、藍澤さんは持ってきていなかった。駅から学校まではそこまで遠くはないが、走ってもビチョ濡れになってしまくらいには遠い。どうにかしないと三限目に間に合わない。ただ、幸いなことに駅にはコンビニがあった。
「コンビニで買いますか」
「でも俺お金持ってないんだ」
「私が買いますよ」
「いやいや申し訳ないって」
「痴漢から助けていただいたお礼と傘を探してくれたお礼です」
断られると思い、圧をかけて言った。彼はそれに押し負けたのか、分かった、ありがとうと素直に了承した。
私はすぐにコンビニへ行きビニール傘を二本買ってきた。
一本彼に渡すと、ありがとうと言って受け取った。
二人で学校へ向かう。雨は徐々に強くなっている。雨粒がビニール傘を破るような勢いで打ちつける。今日は一日中止まなさそう。
「ひどい雨だな」
「そうですね」
彼も同じことを考えてたんだ。こんなにも人と喋ったことは高校入学以来あまり無い。特に同級生となると、幼稚園の時から特別視されていたせいで全く無い。
ちゃんと喋れているか、今更不安になる。
「この傘、本当にもらっていいのか?」
「もちろんです」
お礼と言って渡したのにまだ躊躇ってるの?そもそもお礼にしてはあまりにひどいから今度何か渡そう。
「ありがとな、ほんとに」
彼は消え入りそうな声で言った。それは雨音に掻き消されそうなほど小さく、微かに聞こえた。なぜか私は、どう返事をすればいいか迷って聞こえていないふりをした。
そのあとは二人とも黙って学校へ向かった。校門に着く直前に藍澤さんとは別れた。彼曰く、友達に騒がれたくはないらしい。私もそれに同意して、別々に職員室に行った後、教室に入ることにした。
ちょうど休憩時間になっていたからか、あまり騒がれることなく教室に入れた。影を消すのが得意で助かった。気軽に話せるような友達はいないから騒がれることはないけど、やはり大勢の中で一人だとはぶられている感があっていい気はしない。一人は好きだけれど、時と場合によるし、一長一短であることは間違いない。でももう、そんなことには慣れているから、自分の席に着いて本を読むことにした。
意外にもそのあと放課後まで何も無かった。噂はまわっているようだけど、いつものように遠巻きに視線を感じるだけで喋りかけられたりはしなかった。
一人を除いては。
「傘取りに行こうぜ、降谷さん」
藍澤さんは朝と変わらぬ大声で私を呼んだ。噂がまわりすぎて隠しても意味がなくなったらしい。かと言って開き直りすぎな気はするけど。
いつもとは違う視線を感じながら、私たちは学校を出た。学校から駅までの道のりを人波に歩いていく。スニーカーは今日洗わないと。
「こんなに視線を感じながら過ごすのは、すごいストレス」
私は慣れているから何とも思わないけど、藍澤さんは常に落ち着かないみたい。慣れているのがおかしいのかな?
「いつもこんななのか?」
「まぁ、そうですね。今日は特にですが」
「悪かったって」
「別に怒ってませんよ」
「それ怒ってる人のセリフやん!」
思わず笑ってしまう。つられて彼も笑う。人と話すのはこんなにも楽しいんだ。雨だと言うのに心は晴れやかで、心地いい。
人目があったからか、特に話すことなく駅まで歩いた。すると彼は駅の近くのバス停で立ち止まった。
「時間ずらすか」
「なぜです?」
「混んでるから。蒸し蒸ししてるだろ、雨で」
そう言って彼はバス停のベンチに腰掛けた。確かにいつもこの時間は下校する生徒が多すぎて満員になる上、今日はかなりの大雨。電車内はかなり空気が籠りそう。いつもこの時間には帰らないからよくわからないけど。
「まだ止みそうにありませんね」
「確かにな、憂鬱だ」
「そうですか?」
「憂鬱じゃないのか?」
「雨はそこまで嫌いではないですね、私は」
「そうなのか、俺は嫌いだ」
「早く止んでほしいですか?」
「あぁ、今すぐにでも止んでほしい」
そこから先には踏み込んではいけない気がした。私は話を切り替えることにした。
「もうすぐ体育祭ですね」
「やだなぁ、公園で遊んどきたい」
公園で遊ぶとは?いかにも少年っぽい。一体何をして遊ぶのか少し気になる。
「意外ですね。こういうイベントは好きかと思ってました」
「面倒くさくない?準備とかさ」
「私もあまり気乗りはしませんね。強制的にリレーに出ないといけなかったりしますし」
「それな!足速いだけで決めんで欲しいわ」
「まぁ、皆さん勝ちたいのでしょう」
「勝ったら嬉しいけどさぁ、俺たちの意思はどこなんだよ」
本当にその通りだ。強制的にやらされて勝っても、嬉しくないわけではないけどもやっとした感じが残る。
「体育祭の日こそ雨降って欲しいわ。でも友達に落ち込まれるのは嫌だなぁ」
「藍澤さんは友達が多いイメージがありますね」
「そんなこと無いとは言い切れないな。ただ大半はたまに喋る程度で、普段から話してるのは一人だけどな」
「そうなんですね」
「浅く広くって感じだな。あんま良くないな」
「それでも顔が広いことはすごいことですよ。そもそも私には友人がいませんから」
「いやいや自虐しなくても」
「事実ですから」
本当に事実だし。今までいたことあったっけ?自分で言っておきながらちょっと悲しくなる。
「それなら俺が友達候補に立候補する!」
「別に構いませんよ」
「思ってたより軽いな!」
逆にどんなのを想像していたの?
「藍澤さんなら信用できますから」
「さらっと嬉しいこと言ってくれるね」
「今日で実感したことですよ」
実際、痴漢から助けてくれたし、傘についても彼が見つけてくれたと言っても過言じゃない。
「なんか照れくさいな。俺は今日で降谷さんのイメージかなり変わったや」
「そうですか?」
「なんかもっと怖いかと思ってたけど、話しやすいし話してて楽しい」
「そう言っていただけて幸いです」
「喋り方は堅いけど」
「それは…」
私は返答に困った。敬語以外でどうやって接するのかが分からない。今までフランクにタメ口でしゃべったことは身内以外に無いから。
「まぁ、そこも含めて降谷さんだし。それはこれからもっと仲良くなってからだし。俺は気にしないからオッケー」
「そうですか」
そっけない返事をしてしまったけど、内心とても嬉しかった。今まで言われたことのない言葉に心が温まった気がした。
その後は他愛のない話で盛り上がってる内に電車が来て、今朝痴漢にあった駅まですぐに着いた。
傘も無事に回収できて、そのまま帰った。藍澤さんと喋っていると、時間は一瞬で過ぎた。私が最寄駅に着いたところで、彼とは別れた。彼は私より遠い駅らしい。私でも相当遠いのに、それ以上となるとかなりしんどいだろうに。私はそのまま家に直帰した。
駅から徒歩一分の住宅街。そこで一際大きい三階建の家が私の家。門から玄関までがやけに長い。庭は手入れが面倒にならないように芝生が敷かれているだけなのに、とにかく広い。
もう一つの建物にはお父さんの会社の社長室よ書斎が入っている。お父さんは基本そこに籠っている。
玄関のドアを開けて誰もいない部屋に向かって言う。
「ただいま」
返事は無い。
今日はお母さんも書斎に居るみたい。いつもの事なのに今日はやけに静かに感じる。
私はいつものように三人分のご飯を作って、その内二人分にラップを掛けてっダイニングの机に置いておく。いつも食べるご飯は何だか味がしないし、温かいのに冷たく感じる。どうせどうにもできないと分かっていても、寂しさを感じてしまう。
食べ終わった私は、食器を洗って部屋に入った。部屋に入ったところで勉強以外することがないんだけどね。裁縫をする気分でも無いし。
私は徐に取った数学の教科書で予習をすることにした。
予習をしていると、知らない間に三時間も経っていた。私はお風呂に入って寝ることにした。
ベットに入って今日のことを振り返る。
今日は色々あった。痴漢には遭うし、遅刻はするし、藍澤さんと話すし。ほとんど藍澤さんと喋ってた気がするな。騒がしい一日だった。
そんなことを考えている内に眠気に襲われた。私はその眠気に身を任せた。
窓から差す朝日に起こされる。大きい窓から見える空は、昨日の雨が嘘かのように雲一つも無い。いつもの如く誰もいないリビング。誰もいない訳ではないけど、ダイニングにも誰もいない。両親は二人とも朝に弱いから、今頃寝室でぐっすりだろう。
私は朝食を食べて、支度を済ませて静かに家を出た。
昨日とは違って、静かな登校時間だった。晴れているのに心は曇っている。遠くからの視線は思いの外しんどい事をみんなは知らないだろう。私のことを興味本位で見るのはやめてほしい。子供の頃からのことだから慣れてはいるけど、慣れているからと言ってしんどく無い訳じゃない。私はそれを受け入れるしか無いと自分に言い聞かせた。
いつものようにそれで放課後まで過ごした。
私は図書館に向かう。いつも放課後は当番にあたっていなくても図書室に行く。家より集中できる環境ではないけど、参考書を借りられたりするのは大きなメリットだ。それに勉強に集中できなくなった時は小説を読むこともできるし。一人になれるのは家と変わらないけど、それも嬉しい。
普通なら当番を一人ですることはないけど、私はいつも一人だ。どうやら私以外当番に入りたがる人はほとんどいない上、入っていたとしてもサボることが多いらしい。
図書委員担当の先生がそう言っていた。だから最近は私以外誰も当番に入らない。私は全く問題なかった、むしろありがたかったのだけど、先生はかなり申し訳なさそうにしていた。
それにしても、今日も暇だ。晴れの日は全くと言っていいほど本を借りに来る人がいない。
そもそも学校の隣に、というか校舎の隣に大きな図書館があるからわざわざここにくる必要は無い。蔵書の数が圧倒的に違うし、学校の法人が経営しているから、同じ法人のこの学校の生徒は貸し出し無料になっている。
同じ敷地内ではないけど、昼休みでも出入りできるようになっているから昼休みも行くことができる。
この図書室の存在意義は一体。まあ考えないでおこう。
窓の外を見る。
日が落ちるのか遅くなってきているから、この時間でもまだ外は明るい。早く暗くなる冬の方が私は好きかもしれない。
そんなことを考えながらしばらく勉強していると、扉の開く音がした。静かな空間で音がすると、つい音がした方向を見てしまう。別に見る必要はないのに。これは動物の本能なのだろうか?逆らえないのか?くだらない考えを巡らせながらも本能には逆らえず、扉の方を確認する。
「あれ?降谷さんだ」
扉を開いた主は藍澤さんだった。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
私につられたのか、彼も挨拶をした。
彼の片手には本があった。おそらくここで借りたもので、今日は返しにきたのだと思う。何の本だろう?少し気になる。藍澤さん自体あまり本を読むイメージが無いから、余計に何を読んでいるのか気になる。
「降谷さんは何してんだ?」
「図書委員の当番をしながら勉強です」
「当番って、相方はいないのか?」
「いませんね。私は一人です」
相方がサボっていることは伏せた。
「本当は相方サボってるだろ?」
彼は鋭かった。初めから思っていたけど、彼は周りをよく見ている。
「そうですね」
「怒らないのか?」
彼は初めて会った時ほどではないが、怒っていた。
「先生方が怒ってくれますよ」
「アイツらは教師を舐めてるから意味が無い。それに教師なんて当てにならないしな」
どこか実感のこもった言葉だった。私は追求しないことにした。
「別に怒る必要がないのですよ。私としては一人の方が好都合ですから。騒がしいのは苦手ですし」
「そうか、それなら、まぁ」
釈然としない感じだったけど、怒りは収めてくれたみたいだった。
少し間が空いて、藍澤くんが口を開いた。
「寂しくはないのか?」
「ええ。この方が落ち着きます」
「そうか」
また少し間が空いた。まださっきの怒りが抜けきれていないのかな?藍澤さんは人のために怒れる人なんだ、すごいな。
彼は先ほどより明るい口調で言った。
「勉強を教えてもらおうかと一瞬思ったんだけど、邪魔しちゃ悪いし帰るよ」
「勉強を、ですか?」
あまりに突拍子もないことに、私は驚いた。勉強を教えたことは今までにないわけじゃないけど、マンツーマンは初めてだと思う。
「降谷さん、成績学年トップだろ?だから分からないところとか教えてもらおうかと思ったんだけど」
「別に構いませんよ。昨日のことで、私としてもお礼はしたかったですし」
「いいのか!」
彼は今までになく元気になった。よほど勉強がしたかったのか、分からないことにむしゃくしゃしていたのかどちらかだろう。
「分からないのはどの教科ですか?」
「数学の応用問題と歴史かな?」
「数学から行きましょうか」
「オッケー頼んだ!」
そこからはちょっとした授業になった。図書室のカウンターは勉強を教えるのには少し狭かったけど、藍澤さんはとても飲み込みが早くて教えるのはそこまで難しくなかった。
私たちは少し休憩することにした。
「飲み込みが早いですね」
「これでも学年三位だからね」
「そうだったんですね」
「降谷さんはちょっと凄すぎるよ。満点とか小学校以来とったことないよ」
私は返事に困った。どう答えても、当たり障りなく答えられない。
私が考えているのを見て、彼はゆっくりと口を開いた。
「降谷さんとって当たり前かもしれないけど、ここまで勉強ができるようになるまでの努力は並大抵のものじゃないと思う。他の人はこれを才能の一言で括るけどさ、そこに見え隠れした努力って凄まじいものだと思うんだ」
彼はとても優しい口調で、語りかけるように言った。私は驚きながらも、静かにそれを聴いた。
彼は言葉を続ける。
「つまり、才能があっても努力ができないと、ここまでできないってこと。だから、降谷さんはもっと自分のことを褒めていいんじゃない?少なくとも俺は、降谷さんは才能も凄いけど、その才能に胡座を掻かないで努力するところは最高にかっこいいと思う」
藍澤さんはこちらを向いて、ひどく優しく微笑んだ。夕日と相まって、どこかもの寂しさを感じた。
私は一言一句聞き逃さず、彼の言葉を頭の中で反芻した。
「まぁ、全部母さんの受け売りなんだけどね」
彼はおどけて笑った。
ただ、今の私にその言葉はほとんど聞こえていなかった。
私はよく分からないけど、少しスッキリした。それと同時に彼のことがまた少し、気になった。
その後、私たちは下校時間まで勉強をした。そして、そのままの流れで一緒に帰った。
帰りも勉強の話で盛り上がった。
私が最寄駅に着く少し前、
「また明日もお願いしていいか?」
と聴いてきた。私はもちろん、
「いいですよ」
と返した。彼は嬉しそうに、
「また明日!」
と元気よく言って、手を振った。
「また明日」
私も手を振った。
彼は満足そうにした。
私は少し浮かれたまま駅から家までの道についた。
無事に体育祭が終わって、梅雨入りしてからの図書室は普段より賑やか。昼休みだからというのもあるけど、流石に五月蝿い。いつもの静かな図書室に戻ってほしい。放課後だとかなり静かになるんだけどなぁ。今日も藍澤さんにも勉強を教えないといけないし。
藍澤さんと出会ってから二週間。彼とは放課後に図書室で一緒に勉強をする仲になった。教えることがなかったり勉強する気分じゃない時は、二人して本を読んだり喋ったりしている。最近まで体育祭の愚痴でよく盛り上がった。
放課後だけとはいえ、気軽に話のできる友達ができたことは、とても嬉しい。今までそんな友達はいなかったから、藍澤さんにはすごく感謝している。
まだ昼休みなのに、放課後が待ち遠しい。何かを楽しみに待つのはいつぶりだろう。
五限目と六限目はやけに長く感じた。
私はホームルームが終わってすぐに、図書室に向かった。
今日は何を教えようかな?人に教えることで、私もより深く理解できることを知った。何より一人でするより楽しい。
今までは、みんなが集まってワイワイ勉強をすることが理解できなかったけど、今はその理由が分かる。
私が図書室に着くと、藍澤くんはすでにカウンターに座っていた。毎回私より早くに着いている。誰よりも早くに教室を出ているのだろう。
「お待たせしました」
「お待たせって、そんなに待ってないよ」
彼は軽く笑った。彼は表情豊かで、感情に正直なのだと私は思う。
「今日は何を教えてもらおうかな?」
「何でもいいですよ」
「もう分からないところはないからなぁ。予習でもしようかな?」
「いいですね。どの教科からしますか?」
藍澤さんの分からないところはそこまで多くなかったから、学校で今までやった範囲はどの教科もすぐに終わってしまった。私はもう三年生の予習に入っているし、名案かもしれない。
「数学かな?つまづくと面倒臭いから」
「分かりました」
そこからしばらくは藍澤さんに数学を教えた。
「休憩しましょうか」
「あぁ〜疲れた」
彼は大きく伸びをした。改めて見ると、藍澤さんは身長が大きい。私は女子の中ではかなり大きい方だけど、男の子には敵わない。
「何ジロジロ見てるの?恥ずかしいんだけど」
少しギクッとした。どうやら私の視線が刺さったみたい。彼は少し恥ずかしそうにしている。
「いえ、身長が大きいなと思って」
「男子の中でもそこそこ大きいからな。でも、降谷さんも結構身長高いでしょ?」
「170センチ近くありますね」
どちらもかなりの高身長の親譲だろう。女の子っぽくないとよく言われた。
「モデルみたいでいいな。スタイルもいいし」
「日々鍛えてますから」
「じゃないとそこまで綺麗にならないよな。凄い努力だ」
彼は何でも正直に褒めてくるから、調子が狂う。
私が返答に困っていたその時、図書室の扉が開いた。
いつもの常連さんの一年生の女の子だった。渡りに船だ、助かった。控えめなその子はいつもペコリとお辞儀をして、図書室の一番奥へ引っ込んでいく。
私たちは会話を再開する。
「いつも来てるな、あの子」
「常連さんなんですよ」
「俺には負けるか?」
彼は勝ち誇ったかのように、鼻を膨らませた。
毎日、放課後に下校時間までいるのは図書委員である私を除いて、藍澤さんしかいない。本は読んでいないにしても、一番図書室に入り浸っている。
本当は私は早くに帰ってもいいのだけれど、図書室にいるのは楽しいし先生にも好きにしていいと言われているから最後まで居る。特待生だと先生から信頼されていて、多少の自由がきく。もちろん、成績に関しては厳しく見られるけど。
休憩を終わらせて、私たちは下校時間になるまで勉強をした。下校時間五分前の予鈴がなったから、私たちは職員室に鍵を返しに行って帰ることにした。
「う〜ん。今日は結構進んだかな?」
「そうですね。この調子だと夏休み前には半分も残っていないかもしれませんね」
「基本だけならいけそう」
学年三位の頭脳は伊達じゃなく、飲み込みも早いし応用もすぐに効かせられる。
「他の教科も同時だと少し厳しいかもしれませんね」
「何とかなるよ!降谷さん教えるの上手いから!」
そんなことを話していると職員室に着いた。
私はノックをして、失礼しますと言って入って鍵だけ返して出た。
「よし!帰るか!」
疲れなんてどこ吹く風といった感じで、彼は言った。
一年で一番日が長い時期とはいえ、七時半だと少し暗くなり始めている。雨は上がっていて、雨上がり独特の匂いがする。
私たちはいつものように今日の勉強の話だったりで盛り上がっていると、すぐに家の最寄り駅まで着いた。
別れ際に手を振り合うのが日課のようになっている。毎回少し寂しくなる。何故か彼がどこか遠くまで行ってしまいそうな気がして止まなかった。
「ただいま」
今日も誰からも返事がなかった。
私はいつものように、晩御飯の準備をして食べたからお風呂に入って、部屋に入った。
最近は学校で勉強をしている時間が増えたから、家では裁縫をする時間ができた。私はいつもの分だけの予習を済ませて、刺繍針を手に取る。
刺繍に没頭していると、知らない間に十一時になっていた。私はもう寝ることにした。
今日の図書室での事を振り返りながら眠りにつくと、いい夢を見られそうだ。
朝から満員電車に揉まれて学校へ行く。学校自体は嫌いじゃなくても、この登下校が嫌いという人が多そう。
車窓から見える空には、低く重たい鉛色の雲がいつ雨を降らそうかと構えている。傘を忘れた人からしたら気が気で仕方ないんだろうな。
幸い学校に着くまでは雨は降らなかった。
二限目の終わり頃、雨が降り出した。梅雨らしいのかは分からないけど、当分は止みそうにない雨がサーサーと降っている。窓際の席だから雨の音がよく聞こえる。それが程よく心地い。
グラウンドは一瞬で水溜りまみれになった。今日の体育は体育館になりそう。バレーボールでもすることになるかな?
私の特に内容のない思考回路をチャイムが打ち切った。
体育の時間は案の定、バレーボールになった。わいわいした感じの女子の試合に私はいない方がいい。私は端っこで休むことにした。
不意に見た男子側のコートでは、結構本気の試合になっていた。点が入る度に野太い雄叫びが聞こえる。あれじゃまるでゴリラだ。
藍澤さんはコート内でしっかりボールを受け止めたりしていた。叫んではいなかったけど。
放課後以外では全く関わりはないから、彼の運動をしている姿は新鮮だった。
飛び込んでレシーブする姿を見て、痴漢に飛び蹴りをしていた彼が脳裏をよぎった。思い出し笑いをしそうになるのを我慢する。あれができるなら運動神経が悪いわけがない。
あの時の戸惑いと爽快感を思い出す。
「降谷さーん」
私を呼ぶ声がした。私もバレーをしないといけないみたい。私を呼んだ学級委員の子以外は一歩下がっている。私の周りには何か結界でもあるのかな?
隣からお腹の鳴る音が聞こえた。お腹を鳴らしたのは学級委員の子だった。彼女はお腹に手を当てて赤面している。幸い男子の雄叫びにかき消されて、私以外には聞こえていなかったみたい。周りの子が私のせいで一歩下がっていたのも功を奏したのかもしれない。四限目の体育だからお腹が減るのは仕方ない。正直私もお腹が減った。
その子は恐る恐る私のことを見てきたけど、私は聞こえていないふりをした。彼女はほっとした表情で試合を始めるようにみんなに促した。少し焦ってはいたけど。
そのあとは、特にいつも通りの体育の時間だった。ただ私が無双するだけの。
一組は特進クラスで勉強はできるけど運動のできない子が多くて、私以外はさっきの学級委員の子以外、目立って運動できる子はいない。
男子は意外とできる子が多かったりする。だから体育の時間は雄叫びがよく聞こえてくる。
昼休み、私はいつものように早く昼食を済ませて図書室に行った。私はカウンターについて、本の貸し借りの対応をする。昼休みは本来、休憩時間なのに私はいつも休憩した感じがしない。それは図書委員の当番がなくても。昼休みに教室で一人でいるのは気が休まらない。それなら当番がある方が、どちらかといえば楽な気がする。私には放課後があるからいいけど。
私の予想とは裏腹に、放課後には雨は止んでしまった。快晴とまではいかないけど、朝とは打って変わったスッキリした空模様になっている。
私はホームルームの後、少し先生からの頼み事を処理してから図書室に向かった。図書室に着くのがいつもより少し遅くなってしまった。
扉を開けると、藍澤さんはもう居た。ただ、カウンターではなく六人掛けの普段生徒が使う方の机に座っていた。それに彼の隣にはもう一人いた。彼の友達かな?眠そうに机に突っ伏していた。
「おはよう」
彼は少し申し訳なさそうな感じだった。
「おはようございます。お隣の方は?」
私は率直に聞いた。
「ごめん。最近ここで勉強してることがこいつにバレてさ、こいつが俺も教えて欲しいって言ってきて断れなくて」
「そういうことですか。私は別に大丈夫ですよ」
「そうか、それならよかった」
少し歯切れが悪く感じた。私に迷惑をかけたとまた思っているみたい。
「おい、起きろよ。勉強するぞ」
藍澤さんは寝ている彼を強めにゆすって起こした。ゆっくりと顔を上げたその子は、眠そうに長い前髪に隠れた目を掻いてあくびをした。
「自己紹介しろよ、もう来てんだから」
「あぁ、俺は蒼井斗和(あおいとわ)。よろしく」
「私は降谷千隼です」
彼はまだ寝ぼけ眼といった感じだ。
「こいつは俺の友達。特進クラスだし頭は悪くないんだが、すぐに寝ちまうからところどころ授業の内容が抜けてるんだよ。それで俺がここで勉強してるのを知って、たまにでいいから俺に教えて欲しいと頼んできたんだ」
藍澤さんが代わりに説明してくれた。蒼井さんのお母さんみたいに見えた。
「なるほど、分かりました。それでしたら、今日は復習にしましょうか」
「ごめん、今日はそれで頼む」
彼は頭を下げて言った。大袈裟なんだから。私はもうそこには突っ込まないことにした。
「たまには復習もしないと、忘れてしまいますから」
「ありがと」
蒼井さんは小さめの声で言った。
「それでは始めましょうか」
蒼井さんのことを藍澤さんと私の二人で教えるというのは、意外にもうまくいった。蒼井さん自体、基礎は分かっているから教え易かった。
目元が前髪で隠れていると、何にを考えているか分かりずらかった。勉強を教える分には問題は無かった。藍澤さんは全部分かっているようだけど、私にはさっぱりだ。二人は小学校以来の付き合いということもあって、言葉なくとも伝わるものがあるのだろう。
下校時間の予鈴が鳴る。私たちは急いで勉強道具を片付けて図書室を閉めた。
鍵を返して、帰路に着く。蒼井さんがいるからと言って、いつもと変わらない下校となった。復習をしていると忘れてしまっていることは多くある。人の記憶とはこれほどにも当ていならないものだと痛感する。
蒼井さんはあまり会話には入ってこなかったけど、楽しそうに私たちの話に相槌を打ってくれた。彼自身あまりおしゃべりなタイプでは無いみたい。私だってそこまでおしゃべりでは無いけど、藍澤さんといるとつい喋ってしまう。ひょっとすると私が居なくて藍澤さんと二人きりだと、よく喋るのかもしれない。
話している内に私の最寄駅に着いた。蒼井さんは藍澤さんと一緒の駅で降りるからここでお別れだ。私が手を振って見送ると、藍澤さんは軽く手を振り返してくれた。蒼井さんは軽くお辞儀をしてくれた。
「ただいま」
誰も居ないと分かっていても、これを言うことは辞めない。言うのを辞めてしまうと、本当に誰もいなくなってしまう気がする。
最近は人と喋ることが増えたこともあってか、やけに寂しく感じる。一人で食べるご飯って、こんなにも冷めていたっけ?
そこから数日の間、蒼井さんも一緒に勉強をした。今やっている範囲までができた時点で、彼は来なくなった。でも、また世話になるからその時はよろしくと言っていたと藍澤さんは言っていた。かなりマイペースな人だな。藍澤さん曰く、蒼井さんは勉強がかなり嫌いらしい。
私としては楽しい日々が続いていた。
いつもと同じ目覚め、とは嘘でも言えなかった。体が重くてだるい。軽く頭痛もする。学校に行けないほどのものでは無い。いつもより余裕を持って準備をして、風邪薬を飲んだ。ここは対症療法しか無い。
私は特待生だから、あまり欠席はしたくない。それに今日は金曜日。今日行けば、明日と明後日はゆっくり休める。
言うことの聞かない体を奮い立たせて、学校へ向かった。
電車に乗って学校の最寄り駅まで行くことは何とかできた。あとは学校に行くだけ。
梅雨だというのに今日は晴れていた。鋭い日差しが肌を指す。六月の日差しはそこまで強くは無いけど、火照った体には堪えるものがある。火照っているとはいえ、寒気がする。ちょっとの坂道でさえ今の私には壁のようなものだ。
何とか教室に着いた頃には息があがっていた。体力には自信があるのに。顔色には出ていないはずだから、大丈夫。明日からは休みだから、と自分に言い聞かせる。幸い今日は体育もない。何とか放課後を持ち堪えて、私の体。
なんて意気込んだのに、放課後まで余裕で持ち堪えられた。普段から鍛えていた体力は伊達じゃ無かったみたい。朝に比べたらだいぶしんどいけど。
あとは勉強をして帰るだけ、あと一息。
図書室がいつもより遠く感じた。扉を開けると、藍澤さんはすでにいた。
私を見た瞬間、彼は顔色を変えた。
「大丈夫か?熱でもあるんじゃないか?」
「大丈夫です」
大丈夫なわけないんだけど。
「大丈夫なわけないだろ!顔色悪いぞ!今日は帰ろう!」
正直もうかなりしんどかった。意識が朦朧としてきて、藍澤さんの言葉に返事ができなかった。
「おい!もう今日は帰ろう!家まで送るから!」
「すいませんご迷惑をおかけして」
「困った時はお互い様だろ!」
彼は私の荷物を持って、一緒に駅に向かった。荷物を持ってもらってもなお、私はフラフラだった。千鳥足とまではいかないけど、足取りはおぼつかなかった。距離感が完全に狂っていた。視界が揺れて歪んで、さらに気分が悪くなる。想像以上に体調は悪いようだ。
なんとか駅に着いた。そこからはあまり記憶が無い。彼は家の前まで送ってくれた。門の中には入らなかった。心配だがここまでしか行けない、と言っていた。
何とか部屋までたどり着いて着替えて、薬を飲んで寝た。本当に無理はするものじゃない。
寝るとあっさりと治った。完全回復では無いけど、元気にはなった。昨日家まで送ってくれた藍澤さんには感謝しかない。
朝食を作りにキッチンに行く。休日でも家には誰もいない。仕事があまりに忙しいのだろう。
休日だけどやる事はいっぱいある。一週間分の買い出しだったり、掃除をしたりしないといけない。多少の疲れは気にしないことにした。今まではお母さんがやっていたけど、中学校の時からは任せられるようになった。習い事が無くなって、忙しくなくなったからだと思う。やり甲斐はあるし楽しいけれど、自分の時間が取られるのは高校生としては厳しい。
一通り終わった時には昼過ぎになっていた。軽く昼食を済ませて、刺繍をすることにした。
この間まで作っていたハンカチは痴漢から助けてもらったお礼に藍澤さんに渡そうかと思ってたけど、タイミングを失ってしまった。そのハンカチを作り終わってしまって物足りなくなった私は、新しくブランケットくらいのサイズのものを作っている。最近は作るもののサイズがどんどん大きくなっている。いつかは巻物みたいなものを作ってそう。
集中して作っているとかなりの時間が経っていた。外は明るいけど、サーサーと小雨が降っている。心地良い雨音が作業の手をさらに早める。昨日のしんどさはまだ残っているけど、じっとしていればどうって事はない。
私は夕食の準備をしないといけない時間まで、ずっと刺繍をしていた。
夕食の準備をしていると、ヘトヘトのお母さんが帰ってきた。
「ただいま」
そのままリビングへ行きソファに座った。
「おかえり」
「今日の晩御飯何?」
「ハンバーグだよ」
「いいわね」
これじゃ、どっちが子供か分からない。疲れていない時のお母さんはすごく大人っぽいのに、疲れるとすぐこうなる。
「久々のお肉だから、ワインでも飲もうかしら」
子供はこんなこと言わないか。ワインセラーからどれを飲もうか選んでいる。
「実視くんはもう少し仕事してから来るって。だから作り置きでいいって」
「分かった」
お父さんは無口だから、喋りながらご飯を食べづらい。毎回美味しいと言ってくれるし日常会話もするけど、どこか事務的になってしまうのが苦手。もちろん努力家で自慢のお父さんだけど。
「熱々で美味しい千隼のハンバーグをお預けするとはバカな男だなぁ、実視(さねみ)は」
ワインを飲みながらお父さんのことを揶揄っている。
いつの間にかダイニングの席について、ワインを飲んでいた。
私は焼き上がったハンバーグと炊き立てのご飯、味噌汁や副菜とかを並べた。
今日のハンバーグは今まで一番の出来だと思う。程よい焼き加減で少しの焦げ目もついていて中まで火は通っているけど、断面は少しレアで透明な肉汁が溢れてくる。
「今日のハンバーグ気合い入ってるね。ひょっとしてつなぎなし?」
「そうだよ。お肉だけのに挑戦してみたんだ」
お母さんは料理はできないけど、目利きはできる。一眼見ただけで判断できてしまう。
「本当に損してるよ、実視くんは」
そう言ってお母さんはワイングラスを傾ける。その所作はとても美しく隙が無い。
「食べていい?」
「いいよ」
「いただきます」
丁寧に手を合わせて言う。
私はお母さんが口をつけるのを待つ。お母さんは美しい所作でハンバーグを切り分け、口へ運ぶ。この瞬間は毎回緊張する、相手が身内と言えど変わらない。
咀嚼を終えたお母さんは少し興奮気味に言った。
「すごく美味しいじゃない!肉汁がジューシーで」
「よかった、ちょっと不安だったの」
「不安要素がどこにあるの?文句のつけようが無い美味しさだわ」
ほっとした私も手を合わせる。
「いただきます」
自分で作ったハンバーグを口に運ぶ。口に含んだ瞬間、溢れ出る肉じるが構内を満たした。これは我ながらいい出来だと思う。
食事を終え、片付けを済ませてリビングのソファに座る。刺繍の続きをすることにした。
「ごめんね。忙しくて一緒にご飯食べられなくて。いつもありがとう」
「いいよ。頑張ってるんだから」
「ありがとう」
お母さんは小さめの声で言った。
「最近、学校はどう?」
「楽しいよ。友達もできたし」
お母さんは少し驚いた顔をした。少しの間があって
「それはよかった」
と優しく言った。私はその言葉に全てが詰まっている気がした。
そこからは特に何も聞いてこなかった。深掘りをしてこなかったのはお母さんなりの気遣いだろう。正直ありがたい。喋る事はいっぱいあるけど、何を話せばいいか分からないし今の関係はできるだけ誰にも知られたくない。
そのあとは最近のお母さんの仕事の話だったり、美容の話だったりで盛り上がった。
お母さんと話すのは楽しくて、知らないうちにかなり夜が更けていた。久々の夜更かしともあっていつもより話は盛り上がった。
でも、昨日のこともあって私は寝ることにした。お父さんはまだ仕事をしているみたいで、帰ってこなかった。ハンバーグはすっかり冷め切っていた。
まったりとした休日を過ごして、また学校が始まった。今までと特段変わり無く、放課後に藍澤さんに勉強を教えては家に帰る楽しい日々だ。七月になってもなかなか梅雨は明けず、ジメジメした日々が続いていた。
「暑いな」
藍澤さんは下敷きをうちわ代わりに仰いでいる。
「暑いですね」
梅雨が明けないまま夏らしい暑さだけが先に来た今日も、図書室で勉強会。エアコンは効いている。今日からは蒼井さんも合流した。テスト期間に入ったから教えて欲しいとのことだ。私と藍澤さんで蒼井さんのことを挟んで教える期間になった。
「疲れたぁ」
蒼井さんは机に突っ伏して言った。彼はかなりお疲れのようだ。
「ちょっと休憩させて」
蒼井さんはそのまま寝た。
「こいつほんとどんなとこでも寝られるな」
藍澤さんはやれやれといった感じで首を振った。
「俺たちも少し休憩するか?」
「そうしましょうか。藍澤さんもかなり声を張っていましたので」
蒼井さんに教えるのに藍澤さんはかなり声を張り上げていた。そうでもしないと蒼井さんはすぐに寝てしまいそうだったからなのだろう。
「こいつに教えるのは体力使うわ」
「まあまあ、ちゃんと効いてくれているのは間違いないんですから。それが態度に出ていないだけだと思いますよ?」
「そうだな、こいつは昔からそうだったな。つい熱くなりすぎた」
「昔からこうなんですね」
「良くも悪くも、全く変わってないな」
「藍澤さんも昔からこんな感じなんですか?」
「そうだな、あんまり変わっていないと思う」
かなり曖昧で不明瞭なトーンで答えた。私に目を合わせることなく、どこか遠くを見つめていた。私の目には壊れかけのガラス細工のように見えて、何も言えなかった。
ちょっとした間が空いた。私が話題を変えられずにいると、藍澤さんが私に質問をした。
「降谷さんの幼少期ってどんな感じだった?」
「私はずっとこんな感じでしたよ。昔から遠巻きで見られることが多かったですね」
「みんな今と変わらんのか。意外と子供の頃から変わんないのかな?」
藍澤さんは笑いながら考察した。先程の重苦しい雰囲気は何処へ、こんなにも早く空気を変えられるのは彼しかいない気がした。私も大概切り替えが早いのかもしれない。
いつの間にか目覚めていた蒼井さんは、窓の外を見つめていた。無表情でわかりづらいけど、物思いに耽ったような表情に見えた。
そこからはまた、勉強会を再開した。私は藍澤さんの子供時代がどんなものだったか想像していて、あまり集中できなかった。
梅雨が明ける気配は微塵もしなかった。
懇談で午前授業の今日も私は図書室で勉強会。珍しく藍澤さんより早くに着いた。図書室は懇談待ちの人で賑わっていた。
長い梅雨も明け、テストも終わり、あとは夏休みを待つだけとなった。テストをしている間も私と藍澤さんは放課後に勉強をした。テストは午前中だけでいつもより時間がたっぷりあったから、テストの時直しだけじゃなく次のテストの勉強さえできた。図書室もいつも通り空いていた。たまに蒼井さんが来て、テスト勉強をしたりもした。
「待たせたな!」
夏らしい爽やかな声か図書室に響いた。
「待っていませんよ。あと、図書室では静かに」
彼は悪い悪いといった感じで手を前にした。誰も居なかったけど、注意しておかないと誰か居る時に困る。
前のように彼はカウンターの私の隣に座った。
「テストの結果どうだった?って聞くまでもないか」
学年の順位は上位五十人が廊下に張り出される。私はいつもの通り一位だった。藍澤さんは三位だった気がする。
「さすが降谷さんといったところだな」
「あなたも三位ではありませんか」
「一位は黙ってろ!」
二人揃って笑い合う。彼の明るさは何か特別なものを感じる。人を救えるような何かが。
「今回は自信あったけどなぁ、二位にはなれないかぁ」
二位も一組の子だから相当な猛者だとは思う。
「そこまで大差では無いですし、もっと自信を持っていいと思いますよ」
「悔しいんだよ。降谷さんに教えてもらっておきながら二位にすらなれないのが」
彼は机を叩いた。相当悔しいみたい。かなりの負けず嫌いなのだろう。また彼の新たな一面を知れた。
藍澤さんが今日は勉強はしたくないと言ったから、今日はもう勉強せずに喋って過ごした。夏休みに何をしようかとか文化祭の準備をどうしようかとか、他愛も無い話をしてリラックスした。
いつもみたいに下校時間ギリギリじゃなくて、早くに帰ることにした。
雲は少なく綺麗な晴空だ。でも生暖かく強い風が横から吹いていて不穏な感じがする。
「これはひと雨来そうだな」
藍澤さんが呟いた。私もそんな感じがして風に煽られた長い髪を耳に掛けながら、風の行先を見つめた。特に雲らしいものは見当たらない。
風上を見ると重く暗い鉛色の雲が低い位置に見えた。逆に、その雲の上は見上げるほど高くまで伸びていて、夏の太陽に照らされて眩しいほどの白色をしている。
入道雲。それは今もどんどん大きく成長して、次第には雷光を孕むようになってきた。肘目は遠くこもっっていた雷鳴は徐々に音が大きくなり、同時に鮮明に聞こえる用になってきた。
「急ぐぞ」
藍澤さんの声で私たちは早足で駅に向かった。
駅に着いた頃には空は昼間とは思えない暗さになった。風はいつの間にか冷たくなっていた。
なんと電車は止まっていた。入道雲が来た先の市では警報が出ている。この入道雲は相当な雨を降らせているらしい。これじゃ帰りたくても帰れない。仕方なくホームのベンチに腰掛けることにした。
「誰もいないな」
「こんな時間に電車に乗る人は居ませんよ。それに止まっていますし」
「そうか。午前授業だしな」
藍澤さんは何故か焦っているように見えた。
ポツポツと雨が降り出した。それは一瞬にして大雨に変わった。バケツをひっくり返したような雨よりも酷い、滝のような雨。
まるで空が号泣している。
轟音が私たちを包む。雨樋は溢れそうなほどの雨水を運んでいる。あまりの雨に私はしばらく沈黙した。
藍澤さんに目をやると、微動だにせずその雨を見つめている。まるで何かに取り憑かれたかのように見ている。明らかにいつもの藍澤さんとは違う。だけど、どこが違うのか聞かれても分からない。何かが違う、それだけは確かに分かる。
私は彼になんて声をかけたらいいんだろう?何も分からずただ時間だけが過ぎていく。
その間も雨は容赦なく地面に叩きつける。さっきより強くなっている。すべての音が雨音でかき消されて、世界から切り離されてしまったような感覚に落ちる。
「藍澤さん?」
怖くなった私は声をかけた。返事はなく、まだ雨を見つめている。
「藍澤さん」
さっきより大きい声で言ったけど、彼は微動だにしない。
「藍澤さん!」
ようやく彼はこちらを向いた。彼の表情に私は驚いた。目は見開かれ、瞳は濁っていた。肌の血の気は引いていて、体温が奪われたようだった。
「大丈夫ですか?」
私は焦って聞いた。
「あぁ、すまん。大丈夫だ」
彼は顔を背けた。
どう見ても大丈夫な顔ではなかった。けど、私にはそれ以上踏み込むことはできなかった。彼が大丈夫と言っているならそれ以上は踏み込まない。いや、踏み込めない。
私は何も言えず、ただ黙って見守ることしかできなかった。
一時間ほどで雨は止み、電車は動き出した。別れ際になるまで彼とは言葉を交わさなかった。
別れ際もじゃあな、の一言でいつもの笑顔は無かった。
一抹の不安を抱えながら私は寝床に入った。まるで何かに取り憑かれていたかのような顔。決して踏み込んではいけない何か。私は長い時間寝付けなかった。
何か見落としているの?
*
夕立渦巻く台風
遠くに見える入道雲。容赦なく照りつける太陽。シャワシャワと鳴く蝉。
終業式を終え、夏休みに入った。それに合わせるかのように本格的に夏が始まった感じだ。
今日は近くのスーパーに買い出し向かうため支度をする。無駄に広い玄関の扉が開けると、熱気が入ってきた。こんな日の昼に買い出しに行くのは良くない。けど、夕方に行って夕立に見舞われるのはごめんだ。いつ、あの遠くの入道雲がこちらへ来るかは分からない。
スーパーに着くまでの少しの距離を歩いただけで、もう汗だくになってしまった。クーラーのよく効いたスーパーはまさにオアシスだ。
何を買うかは大体目星をつけている私でも、アイスクリームコーナーの魅力には吸い込まれる。無駄遣いはしたく無いからなんとか我慢する。
必要な食材を買って帰路に着く。やはりアイスクリームの魔力には負けてしまって、買ってしまった。これは後からお小遣いで立て替えておこう。
家に着いてすぐにアイスを食べる。火照った体によく沁みる。
私はシャワーを浴びて自室に入った。特に何も考えずに刺繍をする。ブランケットサイズの刺繍は終わる気配がしない。夏休みが終わるまでには出来上がるかな?まだ進捗二割だけど。
晩御飯の準備をするまで私は刺繍に没頭した。今日も一人で晩御飯だ。お父さんとお母さんは取引先との会食でいない。一人分だけ作って、一人で食べる。茶碗に箸が当たる音が、一人には広すぎるリビングに響く。寂しくはない。ただ、これに慣れてしまっていることに寂しさを感んじた。
食べ終わって片付けを済ませた私は部屋に籠る。リビングに比べて狭い自室は少し落ち着く。寝るまで勉強をしよう。没頭する何かがあれば何も問題は無い。
私はしばらく勉強に没頭した。しかし、それは長くは続かなかった。
ノートが無くなってしまった。春休みに買ってストックしていた分も使い切ってしまった。ついため息が出てしまう。明日買いに行かないと。ノートは隣町の文具屋さんだと安いから、そこに買いに行こう。
今日は早めに寝ることにした。何かから逃げるように私はベットに入った。
朝食を食べて支度を済ませる。今日も朝から日差しが強く、暑い。
電車で一駅のところに文具屋さんはある。いつもなら歩いて向かうけど、あまりに暑すぎるから電車を使うことにした。
文具屋さんに着いたて、ノートをカゴに入れる。ついでに参考書とかも見ていこうと思い、そのコーナーに向かう。
どの参考書がいいか立ち読みしながら選んでいると、見たことのある人が隣に来た。
それは蒼井さんだった。彼も参考書を買いに来たのかな?彼はこちらに気がついた。
「やあ、久しぶり」
「お久しぶりです」
テスト期間以来だから、そこまで長い間会っていなかったわけでは無い気がする。
「これってどれがいいの?」
彼は参考書を指差して聞いてきた。
「人それぞれですけどこれはお勧めですよ。基礎からしっかりできるので」
そう言うと彼はその参考書を手に取り、買い物カゴに入れた。
「中は見ないんですか?」
私は驚いて率直に聞いた。
「降谷さんが言ったから、間違いは無い」
そんな理由で?私は完璧なんかじゃない。間違うことの方が多い。
「あくまで個人的な意見で人それぞれですよ?」
「あれだけ勉強ができて、教えるのも上手い降谷さんが言っているだ。迷う必要は無い」
あまりにキッパリと言われて、何も返せなかった。
「それに煌照が信用しているんだから、俺が信用しない訳が無い。あいつの人を見る目は一度も狂ったことが無い」
私は呆気を取られた。そこまで藍澤さんを信用しているのか。一緒に勉強をして、かなり仲のいい幼馴染なんだと思った。でも、この二人の絆は私の想像を遥かに上回っているみたい。
それに藍澤さんの人を見る目に狂いは無い。私は彼の何も知らないことに気がついた。
「だから、降谷さんは信用できる人。俺に勉強も教えてくれたし」
普段は無口でのんびりとしている蒼井さんのここまで強い口調に、気圧された。長い前髪で見えないけど、その目はきっと力強く私を見据えているのだろう。彼とは同じくらいの背格好なのに、彼の方が大きく見えてしまった。
「煌照と勉強をするのは楽しいか?」
突然の質問に返答がワンテンポ遅れた。
「楽しいですよ。彼は底抜けに明るいですし、教え甲斐がありますね」
「そう。それは良かった」
蒼井さんはなんだか嬉しそうで、悲しそうな顔をした。
「あいつは危なっかしいから、気をつけて欲しい」
「そうなんですか?分かりました」
危なっかしい?確かに行動力が凄すぎて空回りしていることもある。彼が言いたいことはこのことなのかな?
「それと他におすすめの参考書はあるか?」
そこからしばらく、参考書コーナーでおすすめのものを紹介した。彼は私が勧めたものは全て買って行った。かなりの金額になりそうだったから一度忠告した。でも彼は大丈夫と言ったから、それ以上私は何も言わなかった。
「今日はありがとう」
「お役に立てたなら何よりです」
「気をつけてな」
「ええ。そちらも気をつけて」
彼はおもたそうな荷物を片手に手を振った。私も手を振り返して家路に着く。まだお昼前だというのに夕立の気配を感じた。私はどこにも寄り道をせず直帰した。
若干雨に被ったけど、あまり濡れることなく家にたどり着いた。雷鳴が轟く。近くに落ちたみたい、停電しないか心配だ。こんな暑い中停電はたまったもんじゃない。熱中症は本当に洒落にならない。
雨音を聴きながら、昨日の勉強の続きをする。雨音だけではなく、強い風の音と雷鳴も聞こえてくる。雨音だけならリラックスして聴けるけど、風音と雷鳴はちょっと怖い。
雨による実害はこの辺りの地域じゃ少ない。でも、雷は停電したりするし、風はものが飛んで来たりして、とにかく怖い。
今日は大丈夫だけど、夏本番のこれからは、いつどうなってもおかしくはない。台風だって心配になる。
荒れる天気に不安を駆られる。私は逃げるように勉強に集中した。
今日は憎いほどの快晴。私には天気のことしか新鮮な話題は無い。ただ机の上の参考書を攻略していく日々は、手放しで楽しいとはとても言えない。全然楽しくない訳では無い。ただ、変わり映えの無い刺激のない日々に虚無感を覚える。
失って初めて、そのものの大切さを知る。
どこかで聞いた台詞が頭の中に浮かぶ。それでも、私はこの日々を手放してもいいと思ってしまう。
何処か遠くへ、誰も私を知らない場所へ行きたい。でも、私にそんな行動力は無い。誰かに連れ出して欲しい訳じゃない。ただ、きっかけが欲しいだけだ。
今の苦痛から逃れても、新たな苦痛が現れるだけだと分かっている。頭では分かっていても、体は既に動こうとしている。
誰しもが通った道だ、と言い聞かせて私を正当化する。正当化とは言えないか。こんな考え、ただの独りよがりで子供じみた道理に過ぎない。あまりにくだらない考えが頭の中で巡る。
嫌になった私は切り替えるべく、料理をする事にした。美味しい匂いを嗅げば、少しは気が晴れるだろう。
少し凝ったものを作ろうと思って、スマホを見る。でも、そこまで気が乗らなかった。いつの間にか雨は止んでいたけど、心はどんよりしたままとなった。
すっきりしたくて、冷たく爽やかなそうめんを作る事にした。
生姜を擦って、麺つゆを作って、沸かしたお湯にそうめんを入れて茹でる。茹で上がったそうめんを水道水で冷やす。夏だから水道水がぬるくて、あまり冷えない。
キンキンに冷えたそうめんが良かったから、氷で冷やした。
そうめんだけでは夏バテしそうではあるけど、もう他のものを作る気力は無かった。
冷えたそうめんを啜る音が広いダイニングに響く。そうめんは体が冷えるとは言う。一人だとより冷えやすいかもしれない。ささっと食べ終わって、お風呂で温まろう。
風呂上がりは身体がホカホカで眠い。どんよりしていた心も少し和らいで、さらに眠気を加速させる。こんな精神状態では勉強も刺繍も手につかない。もう寝よう。
ベットに入ると一瞬で眠りについた。
目が覚めるともう朝になっていた。いつもより遅くに起きると、なんだか背徳感がある。癖になるといけないな、これは。
遅めの朝食を済ませ、再び自室に戻る。ちっともやる気が湧かない。自分でもびっくりするくらい何もしたくない。やる気が迷子。
外出したいわけでもなく、ただ何もしたくない。一年に一度あるか無いかの日が今日だ。
椅子に座って机の上を眺める。勉強道具が整然と並べられている。種類ごとに分けられている参考書。眺めていてもやる気が湧かない。
時間だけが無為に過ぎていく。何かしないといけない気がするけど、身体が言うことを聞かない。裁縫をするにも手が動かない。
そのままお昼過ぎまでグダグダした。
あまりにもやる気が湧かないから、思い切って外出する事にした。こんな暑い中外出するのは嫌だけど、家に居てダラダラするよりマシだ。それにここまで暑いと外出する人が少なくて、お店も空いているんじゃない?
思い立ったが吉日。ささっと支度を済ませて、駅に向かう。中心街へはそこまで遠くない。
ここまでの日差しだと、日焼け止めは意味を成すのかな?日傘が無いとしんどいでしょこれは。そもそも外へ出るなって話だけど。
駅での待ち時間は日陰で暑くはない筈なのに、あまりの暑さに全く汗が引かない。シャワシャワと鳴く蝉の声で涼む。いかにも夏らしい。
吹いてくる風は熱風。今すぐに冷蔵庫にいや、冷凍庫に入りたい。早く電車来てくれないかな。
そんなこんなで着いた電車は、冷房がよく効いていて涼しかった。中心街の駅は百貨店や複合商業施設が目まぐるしく立ち並んでいる。
特に行く先を決めずに外出した上、昼ごはんも食べていない。腹が減っては戦はできぬ。この暑さの中外出するのは、戦と言ってもいいだろう。
近くのカフェに入って、食べながらどこに行くのかを決める。
そういえば、刺繍糸を切らしていたんだった。ちょうどいいや、手芸屋さんに行こう。今月のお小遣いは余っているから、大体なんでも買える。
食べ終わってすぐ、手芸屋さんに向かった。行きつけの手芸屋さんは地下の商店街のようなところにある。
私の予想通り、お客さんは一人もいなかった。今日は少し長居してもいいかな?店員さんも暇そうだし。
いつも以上にじっくり店内を見て回った。編み物にも興味あるけど、この暑い中セーターを編んだりするのは、なんか違う気がする。
刺繍針はいっぱい持っているからいらないかな。刺繍糸の方はいくらでも欲しいけど。
服屋さんみたいに店員に話しかけられたりしないから、自分のペースで見ることができていい。服屋さんが悪いわけじゃなくて、私はこっちの方がいい。
そこまで大きいお店ではなかったけど、一通り見るのには時間がかかった。求めていた刺繍糸を買うことができた。つい、いろんな色を買ってしまった。
ついでに書店にも寄ろうと思ったけど、思っていたより手芸屋さんで時間を使ってしまったから、そのまま帰る事にした。
暑さに少し疲れて、帰りの電車でうとうとしてしまった。そこまで乗る時間が長くなったのが救いかな。学校に行くまでの時間くらいだったら、寝ていたかも。
家に着いたらもう夕方で、日もかなり傾いていた。朝みたいなやる気が迷子なのも知らない間に治った。疲労感はあるけど、脱力感は無くなった。
そういえば今日はお母さんとお父さんが帰ってこれるかもしれない日だった。俄然、やる気のでできた私は夕飯の下拵えを済ませて、ご飯が炊けるまでの間は自室に戻った。
今日買った刺繍糸を片付けて、夜にする勉強の準備をした。シャーペンと消しゴムを出して、参考書を選ぶ。
それが終わるとちょうどよく、ご飯が炊ける三十分前になっていた。揚げ物に始まり副菜だったりサラダだったりを作る。今日はお父さんもお母さんも帰ってこれるかもしれないから、かなり張り切っていつもより豪華にしている。いつも忙しくしている二人のためだしね。
作り終わって食卓に料理を並べていく。ご飯をよそって、味噌汁をお椀に注ぎ、緑茶を入れる。いい感じにできて満足。あとは二人が帰ってくるのを待つだけ。
そろそろ帰ってきてもいい時間なのにな。一向に玄関の扉が開く音がしない。スマホを見ようとポッケットに手を入れる。あれ?無い。そういえば部屋で充電してたんだった。
部屋に取りに行くと、スマホに一件のメッセージが入っていた。お母さんから。ちょうど二十分前。嫌な予感がした。
「ごめんなさい。急な仕事が入って、終わりそうにないの。夜ご飯はラップをかけておいていてほしい。本当にごめんなさい」
うん、仕事忙しいもんね。
頭では分かってる。家族の為だもん。分かっているのに、どうしても気持ちを抑えきれない。
落ち着かなきゃ。こんな事、今まで何度もあったでしょ。怒らない、泣かない。仕方ない、これは仕方ない。唇を噛む必要なんて無い。ご飯を食べて落ち着こう、できなてなんだし。
部屋を出ると、出来立てのご飯の匂いが二階まで漂っていた。部屋の前から見下ろせるほど開放的なダイニングから、嫌と言うほど香ってくる。
階段を降りながらダイニングテーブルを見つめる。未だ湯気が立っている食卓。私一人では食べきれない量につい、ため息が出た。
席に着く前に私は、自分の分だけ取って、あとは全部ラップを掛けておいた。
一気に失せた食欲を無視して、半ばやけくそでかき込む。味なんて気にしない。私が作ったいつも通りの味。気合いが入ってるとか別に関係無い。今日はお腹に溜まればそれでいい。
食べ終わった食器を片付けて、お風呂にさっと入って自室に入った。
何をする気力も湧かなくて、すぐにベットに入った。勉強の準備が整えられていた机は、視界に入れるのも気が引けた。今朝とは全く違う脱力感。
泥沼に沈んだ心は、中々私を寝付かせてはくれなかった。気のせいかひどい寒気もした。
目覚めの悪い朝。昨日感じた寒気は気のせいじゃなかったみたい。身体がだるくて、起き上がるのに精一杯だ。
乾いた喉を潤すためにキッチンへ行く。コップに注がれる水の音にさえ、安らぎを感じる。
外はシトシトと雨が降っている。今日は涼しい、らしい。体温は高いのに寒気がするから分からない。
しんどい。何も考えたくない。
ネガティブな考えが頭の中を支配する。最近はよく体調を崩しがちかもしれない。気をつけないと。
しんどくて何もできない。ベットで寝転んでも寝付けない。
何もできないがために、自分以外誰もいないことを改めて実感させられる。一切の沈黙が私を冷やす。
あまりの静かさと話し相手がいないことが、私を負のスパイラルに陥れる。
それを打開すべく、重たい体を無理やり起こしてイヤホンを取る。音楽を聴けばこの感情も和らぐと信じて。とにかく明るいポップを聴こう。
イヤホンを付けると、一人の世界に入れる気がして落ち着ける。ノイズキャンセリングもオンにして、さらに音楽に没頭する。一人であることを自覚してはいけない、寂しくなるから。
何時間経ったか分からない。いつの間にか眠りについていた。外はまだ明るく、雨が止んでいる様子はなかった。熱も引いたみたいで寒気はだいぶ和らいだ。
無理やり起き上がって、伸びをする。酷い疲れで身体がギシギシだ。関節という関節が痛い。
部屋を出られる気はしない。最早、ベットからも出られない。疲労感に身体が支配されている。まるで底なし沼に嵌ったかのように身体が言うことを聞かない。
枕元の水を補充するために階下へ下る。階段を降りる時はかなり怖かった。風邪を引いてもすぐに治る免疫があるなら、対抗する免疫に回してほしい。体は強い方だけど、最近はそうも言えなくなってきた。
まだ頭はうまく回っていない。かなりの時間寝ていたけど、寝た気がしない。さっきの睡眠では、疲れが一切取れていないことが分かる。
キッチンの棚からミネラルウォーターを取って、また自室に戻る。冷蔵庫の中は見る気がしなかった。お腹は全く減っていない、それにまた傷つくだけだから。
私はまた、逃げるようにベットに入った。
それが夏休みの一番の思い出。そのあとはいつもと全く変わらない日常が続いた。私はあまりに後味の悪い夏休みに辟易した。
始業式を控えた教室では、皆が口々に夏休みの思い出を語り合っている。大半はどこに旅行に行ったかの話だった。
帰省をすることのない私の家族は、旅行とは無縁だ。祖父母の顔は一度も見たことが無い。両親には聞いたことはない。
祖父母の話をしないのは、両親との暗黙の了解みたいなもの。何も知らない子供の時は、何度か聞いたことはあったけど、うまくはぐらかされた気がする。もう聞く気はない。空気が悪くなりそうな話題をわざわざ出したくないし、そもそも話す機会が無い。
勝手に盗み聞きをして、一人勝手に寂しくなる。誰も話しかけてこないのはいつものこと。私も話す話題が無いから、最早ありがたく感じてきた。だからと言って、寂しく無いわけでは無いのかもしれないけど。
始業式が始まっても、ぐだぐだとそんな考えを頭の中に巡らせていた。誰が想像しようか。至高の姫君とかたいそうな二つ名を持っている人が、こんなにもくだらなくウジウジした考えをしていると。これならまだ蛆虫の方がマシまである。
早く放課後にならないかな。そうすれば、藍澤さんがこんな考えもどこかへ吹き飛ばしてくれるのに。藍澤さんと出会ってから、頼ってばかりな気がする。それに藍沢さんといると、不思議と心が落ち着く。
校長の話はとにかく長くて仕方なかった。くだらない歴史の話に始まり、夏休みの生活態度や思い出について長ったらしく雄弁していた。去年も同じ話してなかった?もう聞き飽きた。
その後、表彰式があったり学園祭についての全体連絡があったりで、始業式は終わった。
人混みを避けて体育館から戻るとき、声を掛けられた。
「これ、落としましたよ」
そこには同じクラスの委員長の女の子がいた。目鼻立ちははっきりしているけどどこか幼さを感じる。私と同じく長い髪を下ろしている。名前は確か雲母坂(きららざか)さんだったはず。
差し出された手にはハンカチがあった。そのハンカチは確かに私のものだ。
「ありがとうございます、雲母坂さん」
私は笑顔てお礼を言って受け取った。なぜか彼女は驚いた顔をして、恥ずかしそうにどういたしまして、と言った。
名前合ってたみたいでよかった。ほっとした私は、踵を返そうとした。
「可愛いハンカチですね」
ポケットに入れようとしたハンカチを見て、そう言われた。
「ありがとうございます。これは自信作だったので嬉しいです」
「自信作って、自分で作ったんですか!」
彼女は声を大きくした。
「ええ、まあ、少し手芸をしているもので」
「そうなんですね!今度教えてもらっても?」
デジャブを感じた。最近会う人はみんな、私に何かを教えてもらいたい人たちばかりだ。藍沢さんのことがあるから、悪い気はしない。
「いいですよ」
「本当ですか?やった!今日の放課後に教えてもらえますか?」
溌剌としているのに、どこか落ち着いている可愛い子だ。
「今日の放課後ですか?今日は図書委員の当番があるのですが」
「放課後しか空いていないんです!お願いします!」
そんなに頼まれたら断れない。
「他の人もいて構わないなら、いいですよ」
「はい!お願いします!」
そう言って、彼女は長い黒髪を風に靡かせながら教室へ駆けて行った。嵐のような子だ。久々の人との会話につい勢いで了承してしまった。藍澤さんにどう弁明しよう。
どうすることもできず、あっという間に放課後になった。
藍澤さんへの罪悪感によって重い足取りで、図書室へ向かう。それでも図書室にはすぐに着いた。ドアの取手に手をかける。何やら中が騒がしい。
覚悟を決めてドアを開けた。
そこには言い争う藍沢さんと雲母坂さん、そして机に突っ伏して寝ている蒼井さんがいた。言い争う二人が、驚いて扉の前に突っ立っている私に気付く。
「おはよう」
藍澤さんが先に言った。遅れて
「こんにちは」
雲母坂さんが言う。
「なんでお前がいるんだ?」
「いて悪い?あなたがいつも降谷さんを独り占めしてる方が悪いでしょ」
「独り占めはしてない!斗和も一緒に教えてもらってるよな?」
「あぁ、うん」
蒼井さんは起きて、寝ぼけ眼で答える。
「いつもは違うでしょ!どうなの?」
雲母坂さんは蒼井さんのことを睨んで言う。
「うん、まぁ」
「どっちの味方なんだよ、斗和!」
「ほらね!いつも二人で帰ってるんでしょ!ずるい!私だって古谷さんと喋りたいのに!」
「話しかける勇気がないのが悪いんだろ!」
私はあたふたすることしかできなかった。喧嘩ってどうやって止めるの?
「大丈夫だよ、いつものことだから」
蒼井さんがそそくさと逃げてきた。
「いつものこと、ですか?」
「そう。俺と煌照と瑞姫(みずき)は小学校からの付き合い。あの二人はよく喧嘩してる」
「どうにかできないの?」
「ほっとけば大丈夫。勝手に冷めていくから」
本当かな?不安になりつつも、見守ることしかできない。
しばらくすると、次第に静かになった。二人とも疲れたみたい。軽く息が上がっていた。
「ごめん、降谷さん。こんなとこ見せちゃって」
「ごめんなさい、降谷さん」
「大丈夫ですよ。仲が良いのですね」
「腐れ縁ってやつだな」
かなり仲が良さそうに見えたけど。私にはよく分からない。
「まぁ今回は手芸の勉強ってことで俺も習うか」
「あなた、手芸できたの?」
「全く」
「邪魔しないでね」
「当たり前だ」
そこはあっさり決まるんだ。
全く会話の輪に入れずに手芸を教えることになった。、藍澤さんと蒼井さんには図書室で借りた手芸の本の基礎を教えると、二人で試行錯誤しながらやっている。
私は雲母坂さんが持ってきた生地を貰って、教えることになった。裁縫の道具は普段から持ち歩いているから、借りなくて大丈夫だった。
「ここはこうします」
「こうですか?」
「そうです」
基礎ができていると教えやすい。
「雲母坂さんは普段どんなものを作っているのですか?」
「巾着袋とかですかね」
「いいですね」
順調にいろいろ教えることができたから、休憩することにした。藍澤さんと蒼井さんの方も、苦戦はしつつもいい感じにできているみたいだった。
「敬語やめてもいいですか?」
雲母坂さんが突然言った。
「敬語ですか?」
「はい、降谷さんが良ければ」
「構いませんよ」
「やったね。それじゃぁ遠慮なく」
なんんて律儀な。藍澤さんも蒼井さんも初めから敬語じゃなかったから、そんなこと聞かれると思わなかった。
「そんなこと聞く必要あったか?」
藍澤さんが聞いた。
「急に馴れ馴れしくしたら引かれるでしょ」
「引いたか?」
藍澤さんがこっちを向いて聞く。
「引いてませんよ。私が敬語なだけですから」
「じゃあ、ついでに降谷さんも止める?敬語。図書室でだけ」
「え?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。ついで?家族以外には敬語しか使ったことのない私には、結構難しいんだけど。
「ちょっと、何言ってるの?」
「悪い、流石に無神経だったか。ごめん」
「大丈夫……です。少し驚いただけ」
「無理しなくていいから。ほんとごめんって」
無理してるのかな?慣れてないだけで大丈夫。
「せっかくの機会ですし、ちょっとづつ敬語もやめていけたらいい、かな?みんなと仲良くなりたいし」
仲良くなりたいのは本心。生まれて初めて同年代の友達ができたのに、敬語で接するのは確かにおかしい。
「そう言うなら。だけど無理はするな。それにここだけでいいから」
藍澤さんは申し訳なさそうな顔をした。
「ほんと無理しなくていいから。このバカの言うことはあまり気にしちゃダメだよ」
雲母坂さんも心配そうに言った。大丈夫、家族と話すみたいにすればいいから。
「そんな心配しすぎも良くないぞ。普段通りでいいんじゃなか?」
蒼井さんの言う通りかもしれない。いつも通り接してくれたら、私も話しやすい。これから徐々にでいいかもしれない。
「斗和の言う通りか。まぁ、俺が悪いんだが」
「藍澤さんは悪くない、と思う」
つい尻込みしてしまった。でも、みんなは気にしていないみたい。
「そうか」
「まぁ、反省はしてよね」
雲母坂さんはため息を吐いた。
少し重くなった空気を変えたのは、意外にも蒼井さんだった。
「降谷さんの刺繍ってどんなのがある?よかったら見せて欲しいんだけど」
「いいですよ。少ないけど」
私は手持ちにある刺繍を施したものを机の上に出した。
「このハンカチ可愛いな。なんの花だ?」
「これは紫陽花です。これは朝顔」
「あの傘と一緒か。好きなんだ」
悩む。自然とこの柄を刺繍していたから、理由なんて無い。無意識のうちに好きになってたのかな?
「分からない」
「ひょっとして誕生日六月?」
雲母坂さんがハンカチを触りながら聞いた。突拍子もない質問だな。
「そう、六月の三日」
「なんで分かったんだ?紫陽花が梅雨に咲く花だから?」
私の代わりに藍澤さんが聞いてくれた。
「そうなんだよ。自分の生まれた季節が好きな人が多いって、なんかで読んだからもしかしてと思って」
「確かに、俺も一月生まれで冬が好きだな」
藍澤さんがうんうんとうなづいて、なぜか自慢げに言った。
「俺も当てはまってる」
「斗和は二月生まれだから冬?」
「そうだね」
蒼井さんも冬なんだ。寒いのは苦手そうなのに。でもなんか、こたつに籠ってそうなイメージ。
「瑞姫はどう?」
「私は夏。七月生まれだからね」
「結構イメージ通りかも」
白いワンピースとか似合いそうな長い髪。麦わら帽子を被っているのも想像できる。
「降谷さんもそう思う?」
「うん。夏が似合いそうだから」
「なんか嬉しいや。私たちは夏派だね」
雲母坂さんは隣に寄ってきた。普段こんなにも人と近づかないから、なんか気恥ずかしい。
「じゃあ、俺たちは冬派だな」
藍澤さんは蒼井さんと肩を組む。
「そうだね、夏の暑いのはしんどいからね」
「冬の寒い方がしんどいでしょ。ねぇ?降谷さん」
「寒いのはしんどいけど、冬はお鍋が美味しいから」
同意を求められたけど、嘘をつくわけにはいかなかった。一人で鍋を突くのは辛いけど。
「確かに、鍋は捨て難い」
「おでんもあるぞ?」
「やめて!冬に染めないで!」
そう言ってみんなで笑い合う。今までになく幸福だ。夏休みの嫌な思い出が全部吹き飛んでいくようだった。
それからの日々はより楽しいものとなった。
放課後の図書室に四人で集まって勉強をした後、下校時間まで喋り合う。放課後がさらに楽しみになった。
今まで無為に過ごしていた時間が充実し、色付いていく。この時間が永遠に続いて欲しいとは思いたくなかったけど、どうしてもそう願ってしまう。せめて、受験が始まるまではこうであって欲しいな。高望みしすぎかな?と心の中で問う。このくらいなら大丈夫でしょ。神様がいたならきっと叶えてくれるはず。
今日は久しぶりに藍澤さんと二人きりの放課後となった。蒼井さんも雲母坂さんも用事があるとのことだ。
ページを捲る音がより大きく聞こえる気がする。時たま話しかけて、勉強を教えるのはいつも通り。場所がカウンターで静かという以外は。前に戻っただけなのに落ち着かない。
「久しぶりだな、ここまで静かな図書室は」
「そうね」
ここ三週間敬語を使わないように努力したら、三人の前ではもう使わなくなった。自分でも驚くほど慣れるのが早かった。
「静かな方がいいかもの、ここは」
「私はどちらも好きだよ」
「まぁ楽しいのは悪くないしな。俺も騒がしいのは好き」
「でしょう?」
また、シャーペンの走る音だけが響く。
不意に見た窓の外は、まだまだ夏の残り香が強くする。窓越しからでも感じられる熱気は盛夏に比べると弱いけど、まだまだ肌を焼くには十分すぎるくらい強い。
少し風が強い。まだ秋の匂いを微塵も感じさせない青葉が、強く風に揺られている。明日あたりに来る台風のせいだろう。今日のお昼頃、すでに強風圏に入っている。帰ったら防災の準備をしないと。シャッターを全部閉めて、備品の確認を明日しよう。足りなかっったら大変だから。万が一がある。今回の台風はあまり見ないくらい大きい。
そろそろ休憩しよう、集中できていない。今日も順調に進んだことだし、時間もちょうどいい。
それを藍澤さんに伝えようとすると、彼も窓の外を眺めていた。窓に近い方に座っていた私と目が合う。
改めて正面から見た藍澤さんの顔は驚くほど整っていた。すっと伸びた高い鼻筋、凛とした眉に切れ長の目。私は一瞬の間、見惚れてしまった。
「休憩するか」
彼が優しく微笑む。不意を突かれた私は目線を逸らす。
「そうしましょうか」
隣から大きく伸びをする声が聞こえる。ちらと横目で見る。年中長袖の彼の腕は男らしいけど、ちょっと細く感じる。運動部と比べたらではあるし、服の上からではあるけど。
「明日、休みかな?」
「どうだろう。休みであって欲しいよね」
「そうか?家より学校の方が楽しくないか?」
「確かに楽しい。けど中途半端に天気が荒れてる中、学校に来るのは嫌かな」
あー確かに、と彼も同意する。家より学校が楽しいのは私だけじゃなかったんだ。みんな家の方がいいって言うと思っていた。
「家で勉強するよりここで勉強する方が楽しいし、頭に入るから、私は学校は好きかな」
「そうだよな、ここで勉強するとなんか頭に入るんだよな」
「教え合っているからかな?」
「降谷さんの教え方が上手いからだと思う」
素直に褒めてくれる。何度言われても慣れなくて、なんか照れくさい。
「そう、かな」
「そうだぞ。自信を持って、誇っていいと思うぞ。降谷さんはもっと自分をのことを褒めるべきだと思うぞ」
自信は無い。けど、みんながそう言ってくれてるなら、少しは自信持っていいかな?自分のことを褒めていいの?褒めるって、褒め方が分からない。人を褒めることさえできない私には、自分を褒めることなんてできない。
「うん」
私は小さく返事をすることしかできなかった。
そのあとは他愛のない話をして、特に何もなく下校時間を迎えた。藍澤さんは平常運転で、本当にいつも通り。私だけが変に意識していただけだと気づいて、一人恥ずかしくなる。
どんよりとした雲が空を覆っている。生ぬるい風が肌を掠める。あまりいい気はしない。学校から駅までの道がいつもより長い。向かい風のせいで歩みが遅くなる。
住宅街を抜け、大きいの交差点に入る。国道と国道の交差点はめちゃくちゃ大きい。上には高速道路も通っている。歩道橋がなきゃ通ってないだろう。二人で歩道橋を渡る。遠くに見える大きな雲は台風のものかな?方角は合っているし。明日には暴風圏に入るそうだから、見えていてもおかしくはない。何って心配事はないのに嫌な予感がする。
「なんか嫌な天気だな」
「そうだね。空気がなんか」
「不気味だよな」
藍澤さんは遠くの雲を見つめている。
長い歩道橋もようやく終わり、階段が見えてきた。階段を降りようとした時、突風に煽られて私は足を滑らせた。一瞬、心臓が跳ねる。受け身を取らなきゃ。
「危ない!」
藍澤さんの声が聞こえた。このまま落ちる、ことは無かった。
藍澤さんが私の右腕を掴んで支えてくれていた。助かった。軽く息が上が離、冷や汗がどっと出る。
「ありがとう」
私はまだ少し震える足でなんとか体勢を整えた。
「大丈夫か?怪我はしてないか?」
「大丈夫。藍澤さんが支えてくれたから。本当にありがとう」
「よかった」
藍澤さんも胸を撫で下ろしたように息を吐いた。私はまだ心臓が鳴っている。階段から足を滑らせただけなのになかなか落ち着かないな。
バクバクと耳元で響く心臓を落ち着かせながら階段を降りる。まだまだ落ち着く気配はない。
階段を降りて、上を見る。この高さから落ちてたら無事じゃ済まなかっただろう。藍澤さんには本当に感謝しかない。さっき握られた場所が熱く感じるのは気のせい?
さっきより風が強くなっている。これは気のせいじゃない。気温も急に下がった。嫌な天気になってきた。
本格的に荒れてきそう。空を見上げていると、近くに入道雲ができていた。かなとこ雲になり始めている。さっきまでは無かったのに。空が急に暗くなってきた。台風のせいで風が強い。歩くのもやっとなくらいの風になってきた。雨粒は飛んでくるけど、まだ降ってはこない。
新聞紙が飛んできた。ものすごいスピードで私たちの間を飛んで、どこかへ行った。
「危な!掠めたぞ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、気をつける」
気をつけようがない気がするけど。どこか一旦避難した方が良さそう。
「コンビニに入ろう」
「なんでだ?」
「避難した方がいいと思う、これは」
「分かった」
すぐそこのコンビニに一旦避難しようと、そっちへ向かった。向かい風が強すぎて、なかなか辿り着かない。手で眼を軽く隠す。目が乾いてきた。
あとちょっとかな?と思い前を見たその時、コンビニの先のビルの看板が取れてこっちへ飛んできた。
「危ない!」
私は咄嗟に右隣の藍澤さんを両手で、思いっきり突き飛ばした。
私は看板を避けようと地面に倒れ込んで受け身を取ろうとする。看板がすぐそこをを掠める。
ギリギリのところで避けられたけど、体勢が悪くなってしまった。そのまま受け身に入るしかなかった。
うまくいくわけもなく、失敗してしまった。地面についた左腕が痛む。
「大丈夫か!」
藍澤さんが駆け寄ってきた。今まで降ってきていなかった雨が急に降り出す。
「怪我は?左腕か?」
そんな藍澤さんの声を掻き消すほどの雨音が強い。一瞬でビチョ濡れになった。雨が冷たい。熱くなった左腕が冷やされてちょうどいいか?思っているより痛くて自分でもよく分からなくなってきた。
「一旦コンビニまでは行こう!立てるか?」
「うん」
立つことはできた、痛んでいるのは腕だけみたい。
藍澤さんに支えられながらコンビニに入った。濡れた体にコンビニのエアコンは寒すぎた。
藍澤さんは店員さんに何かを言っている。私は軽く意識が遠のいて視界が狭窄して、耳が聞こえづらくなっていたから聞き取れなかった。骨が折れているのかな?腕の痛みが徐々に強くなっている。痛む腕をさすることしかできない。
「氷もらったから、冷やすぞ」
氷をもらっていたのか。彼が私の腕を触る。
「めっちゃ腫れてるじゃないか!救急車呼ぶか?」
「大丈夫。家から病院近いから」
私は一度着替えたかった。
「家まで行けるのか?」
「うん」
確信は無かった。痛みのあまり正常な判断ができなかった。
「やっぱ心配だ。家の前まで送って行く」
断ろうかと思ったけど、痛みが邪魔した。痛んでいるところが脈打っている。
さっきの雨は止みかかっていた。もうずぶ濡れの私たちにはあんまり関係ない。
藍澤さんに荷物を持ってもらって、駅まで歩いて行った。風はさっきほどではなかったけど、強く吹いていた。もう何も飛んでこないよね?
幸い何も飛んでこなかった。幸いではないか。私たちがツイていなかっただけ。
電車を少し待っている間に服は少し乾いて、痛みにも慣れてきた。
ホームに来た電車は混んでいた。雨が降ったからかな?満員ってほどではないけど、普通に混んでいた。
私たちは車両の隅の方へ行った。藍澤さんが私を庇う形で立つことになった。
痛む腕を眺めて怖くなる。利き腕である左腕を怪我してしまった。来週からはテスト期間に入る。どうやってテストを受けよう。一位でなくなるのが怖い。お父さんになって言われるか分からない。
「大丈夫か?痛いのか?」
藍澤さんが覗き込んで聞いてきた。優しい表情だった。
「大丈夫。慣れてきたから」
「そうか。もうちょっとの辛抱だからな」
彼は優しさ胸に沁みる。藍澤さんと一緒でよかった。一人だったらまだあそこでうずくまっていたかもしれない。
藍澤さんのことを見たくて顔を上げると、彼は険しい表情で外を見つめていた。さっきの優しい表情は無かった。電車が止まって駅で待っていた時と少し似た雰囲気を感じた。話しかけようとは思えなかった。
ようやく、家の最寄駅に着いた。痛み堪えながら乗る電車は長く感じた。藍澤さんと一緒に降りる。風邪でフラフラになった時も送ってもらったけど、あの時の記憶はほとんどない。それに家の中にまでは入っていない。
急にドキドキしてきた。今まで誰も家に上げたことが無い。ドキドキしたせいで腕がまた痛む。
そんなことを考えているうちにすぐに家の前まで着いた。
「俺はここで待ってる」
「え?」
「着替え終わったら呼んでくれ」
「家に上がらないの?」
「ああ、濡れているしな」
なんで?濡れているから?もうよく分かんない。
痛みで思考が回らない私は考えるのをやめた。
「いいから上がって。濡れてるのは私も一緒でしょ」
私は怪我をしていない右腕で彼の腕を掴んで玄関の門を開けた。彼は何も言わず抵抗もせず、なすがままついてきた。俯いている彼の表情は見えなかった。
痛む腕を庇いながら着替えるのは難しかった。しかも怪我をしたのが利き腕なこともあって、より難易度が高かった。
着替えている間、藍澤さんにはタオルを渡してリビングで待ってもらった。彼は持っていた体操服に着替えるそうだ。持っていたなら、なんでコンビニとか駅で着替えなかったんだろう。もしかして私を見守るため?自惚れすぎか。
着替え終わった私は下の階へ降りる。
「お待たせ」
彼はソファに座って部屋を見渡していた。
「病院に行こうか」
「うん、ごめんね付き合わせちゃって」
「俺を庇っての怪我だ。無関心になんかなれるか」
そういえばそうだった。そんなこと忘れていた。
「私が受け身を失敗しただけだよ」
「俺を庇わなきゃ受け身なんてしなかっただろ」
「それはそうだけど」
「いいから気にすんなって。俺の自己満だと思ってくれたらいいから」
そんなことない。藍澤さんがてくれなきゃ今頃、途方に暮れていたことだろう。
「ありがとう」
「礼を言われるほどじゃねぇよ」
彼は私の荷物も担いで玄関に向かった。家のことを聞かれるかと思ったけど、何も聞かれなかった。
そのまま近くの病院へ行った。あたりはもうすっかり暗くて、風の音だけが響いていた。もう、総合病院の緊急外来に行くしかない。正面の入り口はもう閉ざされていて、中は真っ暗。緊急外来の入り口も暗くて、本当にここ?って二人してなった。関係者入り口と変わらない。
予め電話はしておいたからすぐに受付して、あまり待つことはなかった。問診書は藍澤さんに書いてもらった。利き腕を負傷している私には書けなかった。
諸々の検査が終わって二人で診察室へ入る。レントゲンの写真が画面に映される。
「骨折ですね。ここ、尺骨に黒い筋が入っていますね」
「本当だ」
藍澤さんが私より先に反応する。確かに骨に黒い筋が入っている。
「幸い、骨折したのは関節ではありませんし、手術などの大々的なことはしません。骨がずれていることもないので、上から固定するだけになります。これから固定の準備をしてきますので、処置室の前でお待ち下さい」
「分かりました」
痛い思いをしなくて済んだ。ずれた骨を戻すのはどう考えても痛い。想像しただけで背筋がゾッとした。
診察室を出た後、言われた通り処置室へ向かう。夜の病院は本当に暗くて静かで、不気味な雰囲気が漂っている。心霊現象が起きてもおかしくはない。
「骨折か。しかも利き腕でしょ?」
「うん。どうしよう」
本当にどうしよう。心の底から出た言葉だ。利き腕が使えなくなると何もできなくなる。途方に暮れるとはまさしくこのことだ。
「マジでごめん、今更だけど」
「謝らなくていいよ。運が悪かっただけだから」
「うん。ごめん。ありがとう」
また謝ってる。でも、これは彼の優しさの表れなんだろうな。注意しないでおこう。
「もうこんな時間か。帰ったら九時過ぎてるだろうな」
「外はもう真っ暗ですもんね」
「帰りも送って行くよ」
「お願いします」
「畏まるなって、ただの荷物持ちなんだから」
そんなことはない。でも、これじゃ同じことを繰り返すだけだから、そっと胸の中でつぶやいておこう。
そのまま処置室でギプスをしてもらった。ギプスは肘にまで及んだ。全治四週間だと言われた。ギプスを取るのは二週間後の経過観察で分かるらしい。二週間だとギリギリテスト前。どちらにせよ、テストには間に合わない。
全ての治療が終わり、受付で今日の治療費を払った。時間外とかで結構な値段になった。このことを予想して多めにお金は持って来ていたから足りた。あとでお母さんに言っておかないと。
「あっ、連絡するの忘れてた」
「ん?誰にだ?」
「親に連絡してなかった」
「マズくないかそれ?」
「ちょっと電話してくる」
私はスマホを取り出そうとしたけど、無かった。鞄の中かな?藍澤さんに鞄の中を探してもらったけど、やっぱり無い。肝心なところで詰めが甘かった。どうしよう。今日はこれしか言っていない気がする。
「公衆電話あるぞ。電話番号分かるか?」
「うろ覚えだけど」
「なら行こうぜ、心配は掛けられんだろ」
公衆電話を使う日が来るとは。十円玉は数枚持っている。藍澤さんに使い方を教えてもらいながら、電話を掛ける。
「もしもし?」
「もしもし?千隼?」
「そう。今病院なんだけど」
「病院?何かあったの?」
言いきる前に聞かれた。
「腕を骨折したの。詳しいことは帰って話すよ」
「大丈夫?今から迎えに行くわ。どこの病院?」
「近くの総合病院」
「すぐに行くわ。待ってて」
そう言うと、お母さんは電話を切った。かなり焦っていた。まぁ、それもそうか。突然、公衆電話から電話が掛かってきて、娘が骨折したなんて言い出したら。
「どうだった?」
「今から迎えに来てくれるって。藍澤さんはどうする?」
「迎えに来るまでここで待つよ。どうせ駅で待つことになるだろうし」
「よかったらお母さんに頼んで、うちの車で家まで送るよ?」
「大丈夫だ。自分で帰る」
「でも」
「大丈夫だと言っている」
さっきまでの明るい声色ではなく、低く響くような声色だった。ちょっとしつこかった?
「分かった。余計なこと言ってごめんね」
彼は私の言葉を聞いてハッとしたみたい。
「いや、そんなつもりは無かったんだ。ごめん」
「そこまでのことじゃないよ。それより、電車何時?」
これ以上は触れてはいけない気がして話を逸らした。
「あ、うん。九時半に来るやつに乗るよ」
「ちょっと時間あるね。私の方が先かもね」
「そうだな。迎えが来たら俺は駅に向かうよ」
私は頷いた。できるだけ話題は変えたかった。
しばらくして、お母さんが来た。
「千隼!大丈夫?」
駆け寄ってきた。お母さんが走るのを見るのは何気に初めてかも。
「私は大丈夫」
「分かったわ。ひとまず帰って、話からそれからね」
藍澤さんのことを紹介しようとしたけど、隣にはもう姿は無かった。そこには私の荷物が置かれているだけだった。
私は何かを感じた。今までのことが頭の中で繋がっていく気がした。でも、今ここで結論は出せない。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもない」
私は首を振った。彼のことは今話すべきではない。お母さんはそう、と一言だけ言った。
家に着いた後は根掘り葉掘り聞かれた。でも一つだけ嘘を吐いた。藍澤さんのことは一切話さなかった。自分一人で看板を避けてこうなってしまった、と話した。
お父さんは電話で話した。ちょうど出先の仕事で席を外せなかったはずなのに。
「無事か?後遺症とかは残らないのか?」
「大丈夫。綺麗に治るってお医者さんが言っていた」
「よかった。後遺症が残ると大変だからな」
後遺症が残れば、今までできていたことができなくなる。そうすればお父さんの期待に応えられない。まるで、それを心配しているかのように聞こえてしまった。
「うん。お父さんも仕事頑張ってね」
「ああ。何かあればすぐに言うんだぞ」
そう言って電話を切った。言っても何もしてくれない癖に。久しぶりの会話が電話越しな上、怪我の報告になってしまった。
前にお父さんと会話したのはいつだったっけ?成績のことを報告した時だったかな?もうあんまり覚えていない。
昔からあんまりお父さんとは喋らない。お父さんはいつも返事が簡潔で会話が続かない。その上、いつも忙しいから話す機会も少なかった。あんまり私のことを見ていない気がする。昔からどうすれば仲良くなれるか、認めてもらえるかずっと考えている。仕事では結果至上主義なところがあるらしいから、できるだけ結果を出し続けているのに。
そこからは軽食を摂って、お母さんに手伝ってもらってお風呂に入った。濡れないように肘までビニール袋を被せて入った。
なんとか服を着て、寝床に入ることができた。寝転ぶとどっと疲れが私を襲った。勢維新に疲労感があってすぐに寝られると思った。けど、疲労感に負けないほどに左腕が痛んだ。全部終わって気を抜くと、腕が痛んでいることに気がついてしまったのだ。
全然寝ることができず、藍澤さんのことを考えた。そうすれば少しは気が晴れる気がした。
でもそんなことは無かった。今までの藍澤さんの言動や行動について、今日の行動で一つの結論に至った。
そして今までの会話での違和感に気づいた。
今まで藍澤さんは家のことについて、家族のことについて一切触れたことが無い。私は彼の家のことについて何も知らない。分かっているのは一人っ子だということだけ。
そもそも家族や家庭のことについて、一切話題に上がらなかった。それは蒼井さんや雲母坂さんにも言えることだった。夏休みは家で過ごす時間が多いはずなのに、夏休みの話をした時も無かった。
今思い返せば、私の家族についても聞かれたことが無い。
流石におかしい。
それに今日のあの一言。あの時は私のおせっかいのせいだと思ったけど、違うかったとしたら?でも、どうしようにもない。家族のことを突っ込んで聞くのは変だし、良くない気がする。
結果として、明確な結論には至らなかった。だけど、違和感がハッキリした。あの三人の中での共通項。
何か分かりそうで分からないモヤモヤが頭の中を渦巻く。本当はわかっている気がするけど、それは絶対に触れてはいけない気がした。
考えているうちに眠りについていたみたいで、起きると朝だった。色々な不安が頭の中にあって、パンクしそうだ。私のこと、お父さんのこと、そして藍澤さんのこと。
私はそれを振り払うように学校へ行った。今、私一人で考えても仕方ない。
*
慈雨過ぎた秋雨
テストの解答用紙が回収される。ギプスは取れ、シャーレで固定された左腕は悲鳴をあげている。いつもなら半分以上の時間を見直しに当てられていたのに、今回はギリギリまで解答用紙に書き込んだ。それでも空白が残った教科もある。
私はテストの結果に恐怖していた。今までずっと一位だったけど、今回は絶対に違う。そう思っただけで吐きそうになる。
骨折をして初めて学校に行った時にはかなり驚かれた。特に雲母坂さんと蒼井さんには。雲母坂さんは図書室以外でも私の身の回りのことを助けてくれた。藍澤さんと蒼井さんも陰ながら支えてくれた。
学園祭もさらっと終わり、色々しないといけない事があって忙しくしていたら、すぐにテスト期間に入った。
それは私に恐怖と現実を突きつけた。
思うように勉強ができない。文字を書けないのが日々のストレスになった。
だけど時間は待ってくれなくて、一瞬でテストが始まって終わった。
全部分かっているのに、書けない。そんなもどかしさと焦りが私を追い込んでいった。
書けないのは分かっていないことと同じ。同じでは無いはずのことが同列にされて、それが悔しくて、どうしようもなく腹立たしかった。
でも現実は非情で、散々な結果を私に突きつけた。
学年順位は十五位。周りは頑張った方だと言うけど、一位じゃ無いといけない。これじゃお父さんに怒られる。怒られるより、呆れられる方が怖い。
一位は雲母坂さんで二位は藍澤さんだった。いつもあるべき場所に私の名前が無いことに私は悔しさと腹立たしさを覚えた。
言い訳はしたくない。運も実力の内。
だけど、心の中では怪我のせいにしてしまう。こんな私ではお父さんに認めてもらえるはずがない。
家に帰りたくない。だけど、どこにも逃げる場所なんか無い。
折れた腕も見つめる。私の心はこの腕よりぽっきり折れてしまっているのかもしれない。
帰り道、いつもの四人で帰っている。まだ夕焼けの残滓が残る空は仄かに明るい。でも私はお先真っ暗。なんて言えば正解なのかをひたすら頭の中で繰り返す。
「降谷さん?」
雲母坂さんの声で現実に戻される。彼女は心配そうな顔をしている。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。心配しないで」
彼女は訝しげに私を見たけど、すぐに元の表情に戻った。
「降谷さんはどっちの方がいいと思う?」
そう言って彼女は鞄から布を取り出した。まだ切られていない生地の状態。何か作るのかな?現実逃避をしたかった私はその話題に飛びついた。
「何か作るの?」
「そう、手提げ鞄を作ろうと思ってて、降谷さんにどの生地がいいか聞きたかったの」
最初に目に入ったのは向日葵の柄、もう一つは紫陽花の柄。他にも青緑基調の珊瑚や白い百合、赤さの目立つ薔薇なんかもあった。
私の物なら紫陽花を選んだだろう。でも、向日葵の方が彼女には似合っている。
「向日葵かな、そっちの方が雲母坂さんらしいと思う」
「だよねぇ。もし、降谷さんが自分のを作るとしたらどっち選ぶ?」
「私なら紫陽花の方かな。やっぱり好きだし」
「降谷さんこっちのイメージあるもんね」
確かに私の持ち物は紫陽花かそれに良く似た色で揃えている。
何気ない会話が続く。家に帰りたくない気持ちが誤魔化されていく。
ただ、そんな時間は長くなかった。最寄駅の一駅前で急に現実が戻ってきて、足が竦んだ。帰りたくない。最近はずっとお父さんが家に居る。こんな成績は見せられない。
「帰りたくないのか?」
「え?」
思考が読まれた私は声の主の方を見る。
そこにいたのは、真剣な顔で私を真っ直ぐに見据える藍澤さんだった。
「なら、俺たちの秘密基地に来るか?」
逃げられる?ダメなことだと頭では分かっている。でも、魅惑的な誘いに私は抗えなかった。
「行きたい」
「高校生になって新しいメンバーが増えたね。なんか嬉しいや」
雲母坂さんが嬉しそうに言う。
「まあ、大船に乗った気持ちでいるといいよ」
蒼井さんは今まで見たことの無い、悪戯っぽい表情をしていた。
「きっとまた着たくなる場所になるよ」
藍澤さんは優しく微笑んだ。
私は逃げ場を得た喜びと期待と微塵の不安を抱えて、家の最寄駅を通り過ぎた。
何駅か通り過ぎて降りた駅は今まで降りたことの無い小さめの駅。快速だと通過してしまう駅だ。
電車を降りて改札を出てから、急に怖くなった。何とも言えないモヤモヤが私の中をかき乱す。もう今更だ。私は頭を振ってモヤモヤを振り払う。
駅を出ると静かな住宅街が広がっているようだった。暗がりからは夕飯の匂いがしてきた。揚げ物の匂いかな?少しお腹が減った。
そんな住宅街を抜け松林を抜けると、小さな砂浜が見えてきた。この松林は防風林か。澄んだ夜の潮風が肌を撫でる。
優しい細波の音を奏でる海は吸い込まれそうなほどの漆黒だ。気を抜くと飲み込まれそうで怖い。月明かりを反射しているおかげで怖さは少し和らいでいる。
その隣の防風林と砂浜の間にには小さな公園があった。古びたブランコと滑り台。支柱は塗装が剥がれているところは茶色く錆びてしまっている。
その他には古びた雨晒しのベンチしか無い。ベンチは木製で海風のせいかかなり朽ちていた。座っても大丈夫だよね?
「ここが俺たちの秘密基地だ」
藍澤さんが誇らしげに言った。ここが?普通の秘密基地というものがどういったものか分からないから、これがすごいのかどうかが分からない。でも、誰もこなさそうな場所ではある。
「ここですか?」
「そう!私たちの中の誰かが家に帰りたくなくなった時に、みんなでここに来るんだ」
雲母坂さんがベンチの砂埃を払いながら言う。
「でも、ルールがある。家に帰りたくなる理由は絶対に聞かない。本人が喋りたかったら別だけど」
蒼井さんが付け加える。そんなルールがあるんだ。今の私にはありがたい。こんなみっともない自分は見せられない。
「とにかく馬鹿な話をして笑い合うんだ。気が済むまでな」
「みんなは帰らなくていいの?」
「ここへ連れて来たのは私たちだよ?気にしなくていいから」
そう言って雲母坂さんは隣に座ってと合図した。私は恐る恐る座る。四人ベンチに並んで座る。奥から藍澤さん、蒼井さん、雲母坂さんで私の順番。
藍澤さんが手を叩いた。それに少しビクッとなる
「さて、今日は何の話しようか」
「俺が決めていいか」
「いいよ、前は煌照でその前は私が決めたから。降谷さんに決めてもらうのは流石にいきなりだし」
「じゃあ遠慮なく。意外に出ていなかった話題にしよう。」
「なんだ?」
蒼井さんはちょっと溜めてから口を開いた。
「ゆで卵は半熟派?固茹で派?」
あまりに真剣な顔で言うものだから吹き出しそうになった。
「私は固茹で派。黄身は硬いに越したことはない」
低い声で雲母坂さんが答える。ノリがいい。
「俺は半熟派だ。あの黄身のとろみこそ真理」
藍澤さんもノっていく。この流れだと私も?隣から期待の眼差しをちらちらと感じる。
「私は半熟派よ。とろみのある黄身と白身の相性がいいのよ」
なんかお嬢様風になってしまった。
空気が一瞬凍る。何でみんな黙るの?
すると、ぷっと誰かが吹き出した。隣の雲母坂さんから聞こえた。
「ぷっ…あはは」
見ると、全員爆笑している。
「くくく、まさか本当にノってくれるとはな」
「言い出したの俺だけど、本当にするとは思わなかったよ」
「え?え?」
私は何が起きているのかさっぱり分からなかった。
「言っただろ。ここでは馬鹿な話をして笑い合うって。どんなにくだらなくてもな」
藍澤さんが笑って言う。馬鹿にしたような笑い方じゃなくて、心の底からわらっているようだ。
「何それ、ふっ、ふふ」
何か分からないけど、笑わずにはいられなかった。
何が楽しいのか分からない。でも、楽しい。今はそれでいい。何も考えることなく、心のままに笑っている。とても心地いい。
「そうそう、笑っていたほうがいいでしょ?」
「感情は表に出したほうがいいから」
雲母坂さんと蒼井さんが少し落ち着いた様子で海を見ている。
「感情を表に出さないのが大人じゃないんだ。ただ我慢強いだけ。でもそのままだといつかダメになるから、こうやって吐き出す必要があるでしょ」
藍澤さんの顔はとても優しかった。
「うん」
自然と笑うことができた。私の固まっている表情筋が少しほぐれた。
そこから一時間くらいずっと馬鹿な話で盛り上がった。内容なんてとてもくだらない。でも、楽しいからそれでいい。
駅まで送ってくれる途中も笑い声は絶えなかった。家に帰りたく無い気持ちが無くなったわけじゃ無かったけど、心が軽くなった。今まで悩んでいた私が馬鹿らしく思えてきて。
電車の中で少しだけ現実を見て気分が落ちたけど、逃げる場所が出来たから怖さは少なかった。一人じゃなくなっただけでこんなにも心強いんだ。
帰ると、もう九時を過ぎていた。怒られてもよかった。
玄関を開けると、お母さんが居た。玄関の観葉植物に水やりをしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「お友達とどこか行ったの?」
お母さんは鋭い。何でもお見通しだ。
「うん」
私は小さく返事をした。いざ家に帰ってみると、少し自信が無くなった。
「楽しかった?」
意外な問いがきた。
「うん」
「それなら良かった」
お母さんは優しく微笑んだ。少し拍子抜けだった。
あとはお父さん。
玄関からダイニングへ上がる。もう部屋に入りたい。
「ただいま」
「おかえり」
お父さんの低い声が響く。いつもより低い気がする。お父さんはダイニングのテーブルで何か作業をしていた。
「腕の調子はどうだ?」
「うん、大丈夫。ギプスも取れたし」
「順調で何よりだ」
会話が途切れる。お父さんの簡潔な会話は業務連絡のように感じて仕方がない。
今までの私は何も言わなかった。そういうものだと受け入れていたから。
でも、今日の私は何かを言わないと気が済まなかった。今日は感情が表に出てしまう日。抑える気は全く無かった。それに抑えられる気が全くしなかった。堪忍袋の緒が切れるとはこのことか。
「何でそんなに冷たいの?」
気がつくと口にしていた。
「え?」
お父さんは豆鉄砲を喰らった鳩みたいな顔をした。私はそんなことを気にせず続ける。
「いつも仕事みたいに簡単な報告だけで何も聞いてこない。私のことより仕事ばっかり。忙しいのも分かる。時間が無いのも分かる。でももう少し家にいる時間増やしてもいいじゃない?」
一度溢れると止められなかった。今までの不満が全部吐き出されていく。お母さんも玄関から戻って来ていたけど、構わず続ける。
「だって歩いてすぐそこだよ?家は。せっかくご飯作ってもいつも食べるのは一人。お母さんもそう。みんなで食べるために、温かいご飯を食べて欲しいから作ってるのに、何で?」
「それは」
お父さんは言葉に詰まる。お母さんは黙って俯く。
「お父さんとお母さんが頑張って稼いでいるのも知ってる。だけどもう少し家にいる時間増やしてもいいでしょ?私が骨折して、ようやく家にいる時間が増えたけど、今だけなんでしょ?治ったらまた家から離れていくんでしょ?今ここに居るのも私がご飯を作れないからでしょ?」
腕が痛む。右手で強く握られていたスカートはクシャクシャになっている。自分で言っておきながら悲しくなる。アウトプットすることで浮き彫りとなった事実に、胸を締め付けられる。
「ごめん」
お父さんは小さな声で謝った。
「ごめんね、千隼」
お母さんも謝った。
「いいよ謝らなくて、仕事が大事何でしょ?分かってるよ、そのくらい。私も応援してるから。テレビで紹介されてりしていると嬉しいし、誇らしくなる。でも、お父さんとお母さんにそんなこと関係ないんでしょ?ごはん作って学校で良い成績とっていれば良いんでしょ、私は」
「そんなこと!」
「ある!」
私声を大きくして、お父さんの言葉を途中で切る。
「今回の成績見て失望するんでしょ?十五位だからって、一位以外ダメだって。いつもそう。今までどれだけ良い成績を取っても、褒め言葉は無い。たまに褒めてくれても簡潔に一言。嬉しいけど、苦しい。変に期待持たせないでよ。無関心ならそう言ってよ。そしたら勉強をする理由が定まるから」
二人は何も言わなかった。少しだけ期待していた私はそこで完全に折られた。
「ほらね。もういいよ、吹っ切れたから。仕事頑張ってね」
そう言い捨てて、階段を上がる。
「千隼」
お父さんに呼ばれた。お父さんとお母さんが階段の下に来た気がした。お父さんの顔を見る気はしなかった。今更なに?土下座でもしようっていうの?
「もういいって言ったでしょ?」
前を向いたまま言う。
「でも私たちは」
「もういいって言ったでしょ!」
お母さんの言葉を遮る。
「期待した私を返してよ」
呟くように溢れた。
泣きそうになった。分かってはいたけど、いざ言葉にすると、行動にされると心が傷つく。
逃げるように部屋に入った。
部屋のベットに荷物を投げて、自分もベットに身を投げて天井を眺める。見慣れた天井が歪んで見えて、腕で目を拭いてそのまま目を覆う。明日が学校だったら良かったのに。何で休みなの?ついてないや。
外はシトシトと雨が降っていた。
休みの間も結局何もなくて、学校へ向かう。いつもより何本も早い電車。ガラガラに空いていて物寂しささえ感じる。家にいたくないから早く出たのは言うまでもない。
外の天気は一昨日からずっと雨。秋雨だそうだ。シトシトと弱い雨が降っている街を車窓から眺める。
残暑が終わり、秋が深まっていきそうな気配を感じた。
教室に着くと、もちろん誰もいなかった。今は一人にあまりなりたくない。喧騒が私のくだらない考えを吹き飛ばしてくれることを願っていた。
ガラガラガラと教室の扉の開く音がした。こんな時間に誰だろう?
「おはよう、降谷さん」
聞き慣れた声がした。振り返ると雲母坂さんが居た。
「まさか私より早い人がいるとは」
「いつもこの時間なの?」
「うん。この時間は誰も居ないから勉強が捗るんだよね。友達がいると話しちゃうから」
「勉強しようってならないよね」
「そうなんだよねー」
そう言いながら勉強道具を鞄から出している。
「降谷さんは私より早かったけどどの電車乗ったの?」
「私は快速を使ったから」
「私のとこは快速止まらないからなー」
「いい場所なのにね」
海もあって静かな住宅街だけど大きい街ではない。ちょっとした山も間にある。
「いいんだよ、都会の喧騒から遠ざかれるから」
「うるさいと勉強に集中できないからね」
「本当にそう!」
他愛もない話。今までの憂鬱な気分が少しづつ和らいでいく。
みんなが来るまでの間、雲母坂さんと話した。勉強を教えつつ刺繍の話をした。これで放課後まで何とかなるかもしれない。
何かを引き摺ったまま放課後を迎えた。家でのことだと分かっている。誰かに言いたいけど、言って失望されるのが怖い。そのくらいどうってことないって思われそうで怖い。私の癇癪なのは間違いないから。
図書室に向かいながら負のスパイラルに陥る。今日で何回目か分からない。一昨日からこん感じが続いている。
三人に話を聞いてもらおうかとも思ったけど、これは自分で考えないといけない気がしたからやめることにした。それに秘密基地でのルールもある。
私はできるだけ平静を装ってから図書室の扉を開けた。
「来た来た」
「始めてるよ」
ペンを持った雲母坂さんと蒼井さんが振り返る。もうみんな参考書を開いて始めていた。私が悩んで廊下を歩いていた時間は長かったみたい。
「お待たせ」
「今始めたところだから大丈夫」
藍澤さんは数学の参考書と睨めっこをやめて、顔を上げた。
「早速だが頼む。ここが分からない、全く」
彼は苦笑いをしながら参考書を指差した。
「もちろん。任せて」
私は荷物を置いて、彼の隣に座った。
勉強はできるけど、文字を書けないのがかなり辛い。書けないことはないけどとにかく遅い。テストで撃沈した一因がそれだから。教えるのには関係ないから今はいいけど。
「ここは?」
「ここはこの公式を使うよ」
「これ?違うくないか?」
「ほんとだ、ごめん。こっちだった」
「どうした?何かあったのか?熱はないか?」
「降谷さんだって間違うこともあるでしょ!」
すかさず雲母坂さんがツッコミを入れる。
「まぁそうなんだけど、ちょっと今日はふわっとしてるって言うかなんていうか」
藍澤さんは鋭い。今日の私は考え事しかしていない。
「うん。ちょっと考え事してて」
「そうか。それなら良かった」
「いやいや良くないでしょ」
今度は蒼井さんも一緒にツッコんで雲母坂さんとハモる。
「確かに悩み事は良くないな。よし、解決するぞ」
「勉強は?」
言おうと思っていたことを蒼井さんが言う。
「そんなもの後回し。今は降谷さんのお悩み解決が先」
別に大丈夫だよ、とは言えなかった。話を聞いて欲しい自分がその言葉を飲み込ませた。
「話したくなかったらいいんだけど、何に悩んでいるんだ?」
藍澤さんが聞いてきた。雲母坂さんも蒼井さんもペンを置いて聞いてくれるみたい。
まだ言っていいのか自信が無かった。私は重い口を開いた。
今までのこと、家での口論のことを手短に話した。三人は何も言わず、真剣に聞いてくれた。
話終わった時にはみんな何とも言えない悲しい表情をしていた。そして考え込んだ。
「これは深刻だな」
蒼井さんが深刻そうに言う。
急に藍澤さんが立った。
「よし!秘密基地行くぞ!」
そう言うと勉強道具を鞄へ突っ込んだ。
「え?」
彼のあまりの速さに呆気を取られる。
「降谷さんも行くよ!」
雲母坂さんが隣へ来た。もう荷物をまとめている。いつの間に?彼女は私の荷物を持ってくれた。
「ちょっと待ってよ」
私は何も出していなかったから立つだけだったけど、蒼井さんは出遅れた。
外に出ると雨は上がっていた。濡れた地面にはところどころ水溜りがある。
勢いのまま秘密基地まで来た。移動中は関係の無い話で盛り上がった。これは三人の気遣いなのだろう。
この間は夜に来たけど、明るい時に来るとまた違った空気を感じる。爽やかで暖かな潮風が吹いてくる。潮の香りが仄かに香る風はとても心地良い。
夕暮れまであと少し時間はあるけど、水平線が薄ら橙色になっている。太陽が沈むのはほぼ真反対の方角なのに。
前みたいにみんなでベンチに座る。さて、どうしよう。
「さぁ、何から話す?」
藍澤さんが私の心の声を代弁してくれた。
「何から話すかな?」
雲母坂さんは上を見て言う。
「こういうのは瑞姫の得意分野じゃない?」
「確かにそうだけど、煌照はどう思う?」
「斗和の言う通りだと思う」
「じゃあ、私から行こうかな」
雲母坂さんは悩み相談に慣れているのかな?確かに頼りになるし、友達も多そうではある。
「降谷さんはお父さんのことどう思ってる?」
「会社も作って大企業にできる手腕もあって、常に仕事熱心な人」
私は思っていることを正直に答えた。
「悪いところは?」
「ずっと仕事をして帰ってこない」
その言葉は驚くほどスッと出てきた。
「それだけ?」
「何をしても認めてくれない」
「うん。これは私の個人的な意見なんだけど」
彼女は優しい口調で言った。
「降谷さんのお父さんは口下手なんだと思う」
「口下手?」
「うん。降谷さんの話を聞いていたら、お父さんとあまり喋っていないでしょ?」
「ほとんど喋ってない」
確かにお父さんとはほとんど喋っていないけど、そんな安直なこと?と思ってしまう。
「多分ね、降谷さんのお父さんは降谷さんに対してあんまり干渉しないようにしているんだと思う。性別が違うと接するのが怖くなるんだと思う。私の母親がそうだったから」
「確かにそうなのかも」
私も男の人に話しかけに行くより、女の人に話しかけに行く方が気が楽だ。それは親も一緒なのかな?
「でも、降谷さんの怒りは当然だと思う。ご飯を作って待っているのに後出しで食べないって、作り手の気持ちをあまりにも考えて無さすぎる。私なら暴れてる」
「降谷さんも暴れたら?」
「煌照、茶々入れないで」
テヘヘ、と頭を掻く。場が少し和んんだ。雲母坂さんはため息を吐いた。
「まあ、暴れろとは言わないけど、そこはしっかり言った方が良いと思う。じゃ無いとしんどくなるのは自分だけだから。ちゃんと話し合って、擦り合わせた方がいいと思う」
「うん」
私は真剣になって聞く。今までずっと何年も抱えていた悩みを初めて人に話して、アドバイスをもらうんだから。
「あと、降谷さんは優しすぎるんだと思う。もっとガツンと言っていいよ」
「そう、かな?」
藍澤さんと蒼井さんも激しくうなづく。
「優しすぎるよ!だって怒ったこと見たことないし」
「うん、まあ」
確かにあまり怒ったことは無い。今回が初めてかもしれない。
「普段から当たり前のように人助けするし」
「教える時も絶対に否定しないから」
藍澤さんと蒼井さんが続く。嬉しいけどそこまでのことかな?
「優しいのは取り柄だけど、言わないといけない時は言わないと」
「うん。分かった」
「降谷さんのお母さんは正直よく分からない。でも、話し合ってみると良いと思うよ。言葉にしないと何も分からないから」
「話し合うのが良いってこと?」
「そう一秒でも早く」
「今日帰ったらしようかな?」
家にいるかどうか分からないけど。
「いいね!善は急げだよ!」
なんか、雲母坂さんはお母さんみたい。私より年上に思えてくる。
「流石は瑞姫、ママと言われるわけだ」
「フフン。お悩みならどんと来い!」
雲母坂さんは胸を張る。
「あと認めてくれないって言ってたけど」
「それはね、正直よく分かんない。いろんな理由が考えられるから」
雲母坂さんでも分からないんだ。人の親のことだしそれもそうか。
「でも、さっきも言ったみたいにお父さんは口下手だと思うから、口にできていないだけかもしれない。だけど、それ以外に何か理由があるとも思う。そこまで不干渉を貫く理由はなんなの?」
うーん、と雲母坂さんが考え込む。他人のことなのに自分のことのように悩んでくれる。彼女の方が優しすぎる気がする。
「俺も何か裏がありそうな気がする」
藍澤さんも顎に手を当てて考える。
「煌照が言うとなんか怪しく聞こえるんだけど」
蒼井さんはさっぱりとした感じでツッコむ。
「なんでだ?言い方か?」
「間違いなくそうだろうな」
またしてもツッコまれる藍澤さんに、思わず笑みが溢れる。
「まあ話し合ってみれば良いんじゃない?瑞姫も言ってたけど、言葉にしないと考えてるだけじゃ伝わらないから」
藍澤さんは悩んでいる雲母坂さんに代わってまとめる。
「ちょっと違う気がするけどそんな感じ。私から言えるのはここまでかな?」
「うん、ありがとう。これで少しは自分の今の状況が分かった」
「それなら良かった。ですぎたこと言ってないよね?」
「大丈夫。全部すごく参考になったよ。今まで誰にも言ったことないから、客観的な意見は新鮮だった。自分で考えるばっかりだったから」
「良かった。私たちは応援してるからね」
「ありがとう」
「絶対に味方だから!」
雲母坂さんは私の手を握って言った。
「ありがとう」
「よし!気分は晴れた?」
「うん」
私は力強く返事した。ここに来るといつも勇気づけられる。
「それならいつもみたいに喋り倒すか!」
藍澤さんは立ち上がって伸びをしながら言った。
そして砂浜の方へ歩いていく。徐に立って、彼の後を追う。砂が靴の中に入って気持ち悪いのは気にしないようにした。彼も全く気にしていない。今見ると、彼の靴はひどく汚れていて、ところどころほつれている。
「どこ行くの?」
雲母坂さんも後から追ってきて、私の隣に並ぶ。蒼井さんも後ろに来た。
「だってこんなにも綺麗な夕日、久しぶりだと思うんだけど」
「確かに」
あまり見ないくらい綺麗な夕日に息を呑む。話に集中している間にすっかり時間が経っていたみたい。
水平線に近づいていく太陽。真っ赤に染まる空と雲。水溜りさえも赤く染まる。
「こんな景色は久しぶりかも」
雲母坂さんも感動しているのか呟くような声量だった。
「清々しい気持ちで見たいな、今度は」
「清々しい気持ち?」
「降谷さんが親と仲直りしたら」
そういうことか。
「明日にはそうなればいいな」
「なるなる!」
雲母坂さんが元気づけてくれる。今日のうちに解決させたい気持ちが強くなる。今日も帰っているはずだから大丈夫。
それからみんなで夕陽が沈み切るまで見届けた。快晴より少し雲が残っている方が夕焼けは綺麗だった。
駅まで送ってもらってそのまま帰った。すっかり暗くなった空には星がポツポツと見えた。
なんかデジャブを感じたけど、意気込んで玄関のドアを開ける。
玄関には誰もいない。よし!頬を叩いて気合いを入れる。
「ただいま」
「おかえり」
お母さんはいる。キッチンで料理をしている。
「お父さんは?」
「もうすぐ帰ってくると思うよ」
お母さんはできたカレーを食卓に並べた。お母さんはあまり料理が得意ではない。特定の料理しか作れない。だから、最近は肉じゃがかカレーだ。他にも作れるけど、怖くて作っていないらしい。
「ただいま」
お父さんが帰ってきた。
「おかえり」
「今日はカレーか。これは豚肉か?」
「そうなの!分かる?初めてしてみたんだ」
お母さんがはしゃぐ。
「美味そうだな」
テンションの高くなっているお母さんに対して、かなり冷めたテンションな返事だった。
ひとまず、ご飯を食べることにした。腹が減っては戦はできないからね。
ご飯を食べ終わって食器を下げる。
さあ、いざ戦の時。決戦の火蓋は斬られた。私は何も恐れない。
ここまで意気込む必要があるの?
ある!今までのことを爆発させる。この前よりはっきりと言う。この前みたいに最後に逃げはしない。
スウッと息を吸う。お父さんに向かって言葉を放つ。
「ねえ、話があるんだけど」
「ああ。まあ、落ち着いて」
落ち着いてなどいられるか!
私は勢いのまま言葉を発する。だって私には友達がいるから。ここで玉砕しても相談に乗ってくれる友達がいるから。
「なんで今まで私のことを放置し続けたの?成績のことは聞いてくるのに」
「それはな、なんというか」
「はっきり言って」
私は引かずに言う。お父さんはお母さんに目線をやる。
「実視、もう隠さないでいこう」
お母さんは首を横に振った。
お父さんは一つ咳払いをして、重たい口をゆっくりと開いた。
「ごめん、千隼。実は、千隼は褒められるのが嫌だと思って、あまり褒めないことにしたんだ」
私は目を見開いた。え?私、いつそんなこと言ったっけ?
驚く私に構わず、お父さんはペースを変えず、言葉を続ける。
「年中の時、千隼が地域のマラソン大会で一番を取っただろう、覚えていないかもしれないが。その時は本当に凄いと思ったんだ、年長の子を置いてけぼりにして一位を取ったことを」
そんなこともあったかな?はっきりとは思い出せない。
「その時、私は千隼を褒めちぎってしまったんだ。何日にも渡って。そしたら、流石に嫌がられて、それから褒める度に微妙な顔をされるようになったから」
「そんなこと…」
私は途中で言葉を止めた。これは間違いなく私のせいだ。勝手に褒められるのを嫌がって、後から褒めて欲しいなんて、我儘がすぎる。
私は何も言えなず、机を見るしかなかった。今の私にお父さんを見る価値なんて無い。
「千隼が落ち込む必要は無いんだ。私が悪いんだ!どうか自分を責めないで欲しい」
俯く私を見て、お父さんが焦って言う。そんな事言われても、だって。
お母さんは立って、沸かしていたお湯で紅茶を淹れる。
「これで落ち着こう。これは私も悪いのよ」
そう言ってお母さんは再び席についた。
「千隼、今までごめんなさい。千隼のことを全く配慮せずに行動してしまって。今更この謝罪を受け取って欲しいとも思わない。許せとも思わない。でも、これだけは聞いて欲しいの」
お母さんは私を真っ直ぐに見て、頭を下げた。その所作はあまりに美しかった。私は口を結んだまま次の言葉を待った。
「どうか、自分の事を呪わないで。これだけはお願い」
「うん、分かった」
私は小さく返事をして俯いた。自信が無くなった。これから何を言ったら良いんだっけ?私は思考が止まってしまった。
すると、お父さんは私の隣に座って、再び口を開いた。
「少し昔話をしようか。言い訳をするわけではないが、聞いて欲しい」
私は横を見た。そして息を呑んで、首を縦に振った。
「私の一人称が『私』であることに違和感を持ったことはあるかい?」
私は首を横に振った。
「私はね、小学校の時から『私』を一人称に使っていたんだ。もちろん、周りからは浮いた存在だった。なぜそうしたのか、それは親がそう言ったからだ。親の発言力が強いことは言うまでもない。そのせいで千隼に迷惑をかけてしまったんだ」
確かに一人称が私の男の人は子供では少ない。親が言ったから?なぜそんなことを?
その疑問は次の言葉で解明された。
「私の親は、所謂、過保護だったんだ。私のことを溺愛していたんだ。学校までは毎日送り迎えをしてもらっていた。一から百まで身の回りの事は全ての世話を私の親はやったんだ。もちろん何をするにも親の許可が必要で、当時は友達が一人もいなかったんだ。今でこそ、少しはいるが。それに友達ができても、こんな友達は必要無い、と勝手にその子に言ってしまわれて。周りからは完全に孤立していたよ。友達なんてできるはずもなかった」
私には驚きしかなかった。あまりの情報量に頭がパンクしそうになる。
「スポーツをすることさえ許されなかった。勉強さえしていればいい、その一点張りだった。成績は常にオールパーフェクトを求められた。テストも満点でなければいけなかった。一つでもミスれば終わりだった。両親に、鬼のような権幕と鼓膜が破れるかのような声で何時間も怒られ、殴られた。でも、その後少し経つと、急に泣きながら謝ってきて私の手当てを始める。おかしいと思っていたんだが、私に抜け出す術は無く、ただ受け入れるしかなかった」
私は身の毛が弥立った。最早、同じ人間とは思えなかった。お父さんの顔を見ると、今までに見たことの無い、諦め切った表情をしていた。
「ただ、満点だった時はすごく褒めてもらえたんだ、過剰なほどに。私はそれを全く嬉しく思わなかった。寧ろそれはあまりに怖かった。私が満点を採る理由は褒めてもらうからではなく、怒られるのが怖かったからだった。私には常に二人の顔が歪んで見えた。常に機嫌を伺い、当たり障りのないように過ごしていた。家での安息など一つも無かった」
お父さんは失笑しながら話した。
これがお父さんの過去?到底、笑っていられなどいなかった。いや、寧ろ酷すぎて笑う他ないのかもしれない、今のお父さんのように。
私の中で点と点が結びついていく。これが今まで帰省が無かった理由、そして私に対して取った態度の理由。私はなんてことを言ってしまったんだ。後悔をしても後の祭りだった。
「そういえば、毎朝六時に起きていたんだが、少しでも遅れれば殴られて起こされたな」
またしても失笑しながら話した。
もう辞めて、自分を傷つけるのは。
「ごめんなさい。そうとは知らないで無責任なことを」
「千隼が謝る必要なんて無い。話さなかった私が悪いんだから」
お父さんは慌てて否定した。でも、これは知らなかったでは済まされない。
「でも、話すのは辛いでしょ?」
「辛いよ。この話をして笑われたことだってある。でも、千隼なら絶対に聞いてくれると思ったんだ。だけど、自信が無い自分も居たんだ。娘さえ信用できないとは、ほんと情けないよ」
情けなくなんか無い。これを人に話すことがどれだけしんどいか。しんどい思いをして話したのに、それを笑われてどれだけ傷つくか、分からないながらも分かる。
「そんなことはないよ」
私は泣きそうになった。あまりに悔しくって、ムカついて。お父さんの親へ、お父さんの話を笑った人たちへ、そして何より気づかなかった自分へ。私は唇を噛んだ。
「そんな顔をするな。折角の美人が台無しだぞ」
そう言って、微笑みながらお父さんは私の頭を撫でた。
そんなことはどうでもいい。私はただ、どうしようもない感情を募らせた。
少し間を空けて、お父さんは言葉を紡ぐ。私の頭を撫でながら。
「でも、良いんだ。今はこうやって千隼や智慧と暮らせているし、仕事も忙しいが、高校の時の友人とうまくやりくりしている。忙しいせいで千隼にはとんでもない迷惑を掛けてしまったがな」
そう言って、お父さんはお母さんの淹れた紅茶に口をつける。
「こうやって美味しい紅茶も飲めているしな」
お父さんはとても愛おしそうに笑った。
私は何も言わなかった、いや、言えなかった。今の私には唇を噛んで、滲む涙を堪えることしかできなかった。
「だからそんな顔をするなって。私の為だと分かっていても、私まで悲しくなる」
「うん、分かった」
私は熱くなった目頭を擦って、震える声で答えた。紅茶を飲んで落ち着こう。
私も紅茶を啜る。
「美味しい」
「でしょう?ダージリンのファーストフラッシュなの、これ」
紅茶に詳しいお母さんのことだから、きっと良いのに違いない。
「お母さんは知っていたの?」
「ええ、だから何も言わなかったの。私が実視のことを勝手に言うのはお門違いだからね」
そこからは少しづつ空気が和んでいった。
私は今まで気になっていたことを思い切って聞いみた。
「お母さんはどうしてお父さんと結婚したの?」
「ふふ、とうとう聞かれたわね」
お母さんは紅茶を一口飲んでから、喋り始めた。
「この人だ!と思ったのよ、出会った時に。所謂、一目惚れってやつね」
「一目惚れ?」
思っていたよりロマンチック答えだった。
「馴れ初め聞きたい?」
「聞きたい」
「それなら、まずは実視に話してもらわないとね、高校の時のことを」
そう言ってお父さんに目配せをした。
「ああ。まあ、高校に入っても親の態度は変わることはなくてな。寧ろ、エスカレートしていったんだ。時には家に閉じ込められることもあったんだ。そんな中、出会ったのが私の会社の共同創設者で副社長の川上颯太だったんだ。そして、颯太の友達の一人が智慧だったんだ。他にも三人の友人に出会ってな、楽しい日々だったんだ。今でも付き合いがあって、会社を一緒に経営していくほどには仲が良い。今度また紹介するよ」
うん、と私は頷いた。さっきとは打って変わって楽しそうに喋るお父さんに、私は安心した。
「さっきも言ったが、私の両親は勝手に私の友達に友達を辞めろと言うような人たちだ。その時も例外なくみんなに言いに回ったんだが、彼らはそれを突っぱねて追い返したんだ。しかも、そのことを一言も私に言わずに。親から聞いた時はビックリしたよ、まさかそんな人が居るなんて思わなかったからな」
内容はとんでもないけど、楽しく話すお父さんを邪魔するわけにはいかなかった。お父さんにとってはこれは明るく楽しい話なんだ。
「それでな、私の両親はその友達の親に言いに行ったんだ。友達を辞めるようにって。でも、颯太たちの親御さんはそれを追い返したんだ、子供の自由だろって。あの時は世界がひっくり返ったのかと思ったよ。そのくらいビックリした。そこから両親の行動はさらにエスカレートしていって、とうとう痣を隠せなくなってきてね。児童相談所も全く動いてくれなくて八方塞がりになっていた時に、智慧が言ったんだ」
いつになく饒舌なお父さんの話が面白くて、興味津々で聞く。
「『逃げよう』って、『どこか遠くへ、実視のことを誰も知らないくらい遠くへ逃げよう』って言って、私の腕を引っ張って行ったんんだ。拒否権は無かったよ。どちらにせよ断るつもりは初めから無かったんだが。その時から私は智慧にゾッコンだな」
「好きな人がどんどん弱っていくのを見てられなかったのよ。どう考えてもおかしいくらい痩せていたのを覚えてる?」
お母さんは懐かしそうな悲しそうな顔をする。
「あの時は食べ物が無かったんだ。罰として食事抜きだったからな」
「なんで?」
純粋に気になった。大切にするはずじゃない?溺愛していたら。
「歪みきっていたからな、両親の愛とやらは。私にとってはただの体罰の他ならなかった」
「私の両親は自由な人だったから、駆け落ちもオッケーしてくれたし、初期費用さえ渡してくれたよ。それで『戻ってこなくていい。後処理は任せろ!』なんて言って私たちを送り出してくれたし、至れり尽くせりだったよ」
「そうなんだ。なんか変わってるね」
まだ見ぬ私の祖父母はかなりクレイジーな人たちらしい。
「変わっているどころじゃないよ。本当に変人。面白いし良い人なんだけどね」
「その後他のみんなも追っかけて来て、みんなで会社を作って今に至るって感じだな。会社作るまでも作った後もいろんなことはあったんだがな。その話は今度友人たちと一緒にしようか」
気にはなるけど、今度話してくれるならいいか。
「これが私たちの今まで。初めての出会いは憔悴しきって教室いた実視を起時だったよ。放課後にずっと外を眺めているのを見てね、不謹慎だけど運命を感じたの。脳を焼かれるような感覚だったのを覚えてる。その人のことを考えるだけで心が温かくなるの」
「胸が温かくなる?」
「そう。考えているだけで好き!ってなったの。その時からずっと頭の中が実視のことでいっぱいになったのよ!もう直ぐに告白したんだから!」
「あの時は急すぎてびっくりしたな」
二人はそう言って笑い合う。私も笑ってはいるけど、お父さんの状態の方が気になった。痩せきって憔悴しきっているお父さんが全く想像がつかない。
そこからは馴れ初めの話にしてはあまりに苦い話だった。面白かったけど、ところどころ笑えない話もあった。
でもお父さんがすごく優しいこと、お母さんが思っていたよりも天真爛漫だったこと、今まで話せなかったことを話した。
初めての団欒はあまりに楽しくて、知らない間に日付を跨いでいた。
爽やかな朝。あまりの寝起きの良さに自分でも驚く。昨日は夜中まで起きていたのに。夢見も良かった。新しい朝が来たとはまさしくこのこと。
あの後、ご飯のことについて改めて謝られた。私はもう正直どうでもよかった。それからいくつかのルールを設けた。朝食と夕食は絶対に三人で摂ること、どうしても一緒に摂れない場合はできるだけ早く、事前に連絡をすることの三つ。それだけ。
私は部屋からダイニングへ降りる。今までは重かった足取りも軽くなった。
「おはよう」
「おはよう。今日はパンにする?」
私は軽く頷く。朝に会話したのはいつぶりだろう。もう覚えていないほど昔な気がする。
「おはよう」
遅れてお父さんも部屋から出てきた。今回の話を機に仕事の頻度を抑えることにしたらしい。今日は友人たちと話し合って、改めて決めるそうだ。
二人とも一度決まれば行動までがとても早い。まあ、駆け落ちをするほどの行動力はあるから、どうってことは無いんだろう。少し視野が狭いのは玉に瑕だけど。
今日も学校があるのは変わらない。有言実行したから、今日は晴れた気持ちで秘密基地に行ける。昨日のことは詳しくは話さないけど、ちゃんと話し合えたことは話そう。お父さんのことは口を固くしておきたい。
朝食を食べ終わって支度をする。左手を使わずに準備をするのも慣れてきた。
もう動かしても痛みは無くなったけど、まだ骨はくっいてはいないらしい。あと一週間でシャーレも取れて、包帯を巻く必要が無くなる。リハビリをしないと。
長い髪を梳かすのはお母さんにやってもらった。これだけはどうしても上手くできない。
「本当に綺麗な髪ね」
「お母さん譲りだよ」
お母さんも綺麗で長い髪をしている。
「私よりずっと深い黒ね。これは実視譲りね」
「確かにそうだね」
お父さんはしっかりとした艶やかな黒髪をしている。
今日は普段していないセットをしっかりとしている。全く隙が無いように感じさせる。
一通り準備が終わって私は玄関へ行く。私は二人より早くに家を出る。二人は玄関まで来て見送ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな。行ってらっしゃい」
お母さんとお父さんが見送ってくれる。久しぶりの行ってらっしゃいに心がむず痒くなる。それは心地いいむず痒さだと分かる。
「行ってきます」
私はそう言って玄関の扉を開ける。
秋霖が終わって秋が深まりつつある空は雲一つ無く、高く感じた。気温もちょうどよく、空気は澄んでいた。道に生える薄は風に揺れ、落ち葉は風に乗って空高くへ飛んでいく。薄梅雨を乗り越えた街の木々たちは、紅葉を迎えて冬を越す準備をしている。
思わずスキップしたくなるほど良い天気だ。
蜻蛉のように秋の風に乗っているような気分だった。私は軽い足取りで学校へ向かった。
*
氷雨匂わす片時雨
秋が深まり木々が色づく中、図書室の前の銀杏や紅葉も例外なく彩り鮮やかになっている。
腕はすっかり完治し、リハビリもほとんど終わってほぼ元通り動くようになった。文字を書くのは全く問題無い。
読書の秋と言ってはいるけど、放課後の図書室には私以外一人も居ない。一人なのは久しぶりな気がする。藍澤さんたちは少し遅れてから来るそう。
本を読んで待っていると、扉の開く音がした。藍澤さんたちはここまで早くなかったはず。
私は誰が来たのかを見るために顔を上げた。そこにはいつもの常連さんが居た。軽く会釈をして、また本に目を落とす。
彼女はいつもここへ来て、一冊だけ本を借りてから帰る子だ。確かひとつ下だった気がする。会話こそ無いけど、大体アイコンタクトでなんとかなる。彼女とはよく似た感性なのかもしれない。
彼女は図書室の奥へ消えていった。本を選びに行ったのだろう。
小説を十ページほど読んだ頃、彼女は戻ってきた。今日は少し長い気がした。最近は腕も治って調子がいいから、読むのが早くなっているのかもしれない。
彼女は一冊だけ本を持ってカウンターへ来た。他の人なら貸し出し期限とかの説明をするけど、常連さんにはもうしないことにしている。
彼女は軽く会釈をして図書室を出ていった。
また、一人になる。前までは一人になると嫌な考えが頭の中を巡っていたけど、今は一人になってもそんなことは無い。それに藍澤さんたちのことを考えていると心が温かくなる。
私は本を閉じ、徐に窓際に行く。外の紅葉は紅く、銀杏は黄色く染まっている。
窓を開け、外の風を感じる。秋らしい匂いがする風が図書室の中に入ってくる。大分涼しくなってきて、冬に差し掛かりつつあるのが感じられる。
藍澤さんに痴漢から助けられたことが昨日のように感じる自分と、遥か昔に感じる自分がいる。
あの時のことを思い出す。秋という季節は過去に浸るのにはちょうどいいのかもしれない。
色々思い出していると気づいた。藍澤さんに出会ってから、私の生活の中心には常に藍澤さんが関わっていることに。
何か急に恥ずかしいというか、むず痒い気持ちになった。
この間のお母さんの言葉が頭の中に浮かぶ。
「考えているだけで胸が温かくなるの」
急に顔が火照ってきた。そんなはずはない、だって友達だから。私が勘違いしているだけ。
「考えてるだけで好き!ってなったの」
私は頭を振って雑念を払う。秋の涼しい風で頭を冷やそう。しばらくは落ち着きそうにない。
窓に映った私の頬は紅葉のようになっていた。
なんとか火照った顔を元に戻せた私は再び小説の世界へ飛び込んでいた時だった。
「お待たせ!暇してなかった?」
扉が開くと同時に雲母坂さんの声がする。
「ううん、本読んでたから大丈夫だよ」
「思ったより長引いてさ、遅くなった。ごめん」
くたびれた様子の藍澤さんを見て、思わず顔が熱くなりそうになって視線を本へ外す。
「長引いたのは藍澤さんのせいじゃないですから、謝らないで下さい」
できるだけ平静を装う。表情は変わっていないはず。
「今日はチートデイ!このまま帰ろ!」
今日はみんなで決めたチートデイ。勉強はせずに秘密基地に行くことになっている。だから私も待っている間は勉強をしなかった。
「うーん。よし、帰ろう」
蒼井さんは机に手をついて、猫のように伸びをした。
私は荷物をまとめて、みんなについて行った。
いつもの松林を抜けて、公園へ着いた。
高く秋らしい淡い空は薄雲がかかっていて、飛行機雲は遥か彼方まで伸びていた。潮風は秋の暖かさを纏いつつ、冬らしい澄んだ空気を運んでいる。まさに晩秋といった感じの空気と空模様になっている。
「ちょっと肌寒いかも」
雲母坂さんが腕をさすりながら言う。
「そうかな?そんなことは無い気がするぞ」
蒼井さんは海の方を見て返す。
「瑞姫が寒がりだからなだけなんじゃない?冬はいつもこたつに篭ってるし」
「そうかも。降谷さんんは寒がり?」
「どっちでも無いかな。夏の暑いのも冬の寒いのも平気」
「そうなんだ。強いね」
「でも、夏の効きすぎたクーラーは駄目」
「分かる。あれは冬の寒さとは違うもん」
藍澤さんが隣に来て言った。一瞬心臓が跳ねたけど、直ぐに落ち着かせようとする。
「煌照は暑がりなのにクーラーつけないよな」
そうなんだ。それはかなり意外。蒼井さんのおかげで落ち着かせることに成功した。
「あれは別物。寒いっていうか冷える。俺は扇風機で十分」
「それはそうかも。私も扇風機で十分だけど」
嘘でしょ?あんな暑さの中、扇風機だけは正気じゃない。
「この夏の暑さで?」
「うん。煌照はそれでたまにくたばってるけど、私は大丈夫」
雲母坂さんはジトっと悪い笑みを浮かべて、藍澤さんを見る。
「あれはたまたまだ。いつもはあんなことにはならない」
「暑がりのくせに強がちゃってー」
「うっ、それは何も言い返せないな」
言い返せないんかい。心の中でツッコミを入れる。でも分からなくもない。クーラーの効いた部屋に居すぎるとしんどくなる。
何かと藍澤さんとは共通点を探してしまっていることに今更気づく。駄目だ、この間のお母さんの話を聞いてから私はおかしい。なんとかしないと。
何か心に蟠りというかモヤモヤを抱えたままみんなで喋った。それは決して嫌なものではないけど、噛み砕かなければいけない感情だと思っている。
みんなと話しながら頭を整理していった。だけど何一つ分からなかった。
気づくともう日は沈んで、夕日で紅く染まっていた空も星がポツポツと見えてきた。明日も晴れるかな。夕焼けの次の日は晴れると聞いたことがあるから。
秘密基地に来た時は夕陽が沈みきると解散することになっている。三人はいつも駅まで送ってくれる。駅までの道のりも喋って過ごす。
私たち四人は常に喋っている。帰ると喉が痛くなっていたこともあったほどだ。
秘密基地に集まってから別れるのは何度やっても慣れない寂しさがある。
もっと喋っていたい。でも家に帰りたくないなんてことは無い。前までは帰りたくなかったけど、今は帰ってお父さんとお母さんと過ごしたい。
学校も楽しいし、家も楽しい。かなり充実した生活を送っていると思う。
みんなはどうなんだろう。今は楽しそうにしているけど、家では何か悩みがあったりするのかな?秘密基地でのルールがあるから、みんなも何かしら家に帰りたく無い理由があるのかな。本人が言うまでは聞かないようにしよう。お父さんみたいなことがあるのかもしれないから。あれほどまでにひどくはなかったとしても。
何かあってからじゃ遅いけど、私だって助けになりたいから。
「ただいま」
「おかえり」
今日はキッチンにお父さんが立っていた。
「お父さんって料理できたんだ」
気がついたら口から出ていた。
「ああ、普通にできると言って差し支えはないだろう」
お父さんは慣れた手つきでフライパンを返す。できたなら私の気持ち分かったんじゃない?料理をすっぽかされる気持ちが。
もう包み隠さずに行こう。私は言い返そうと口を開こうとした。
「母親から吹き込まれたからな、これは。駆け落ちしてからは智慧が料理をして、私に料理をさせなかったんだ。智慧なりの気遣いだったんだろう。手探りで一生懸命にやっている智慧を邪魔するわけにもいかなくて、私は何も言えなかったんだ。千隼が料理を始めた時もなんて声を掛ければいいか分からずに、そのままズルズルと作ってもらいっぱなしになってしまったんだ。本当に申し訳ない」
お父さんは料理を盛りつけた後、私に深く頭を下げた。
そんなのずるいよ。何も言えなくなる。私が悪いみたいになってしまう。お父さんに悪気があるわけじゃないのは分かる。お父さんは幼少期を親と過ごして、会社を建ててからは仕事ばかりで、世間がすごく狭いことは最近になって分かったこと。もう、これは慣れたこと。
「何してるの実視?」
お母さんが上の階から降りてきた。
「謝るのは禁止って千隼と決めたでしょ。千隼を困らせないって言ったでしょ」
「そうだった。すまない」
「ほら、せっかくのご飯が美味しくなくなってしまうじゃない。実視の料理は本当に美味しいんだから。ほら千隼も食べて」
そう言ってお母さんは摘み食いをした。
「うん!この味、美味しい」
私も少しつまんでみる。確かに美味しい。できると言って差し支えない?完璧でしょ。ちょっとしたレストランの料理より美味しい。ひょっとして私の料理は下手くそだったから食べてくれなかったのかな?一人勝手に自信を失くす。
「美味しい」
でも、私は素直に感想を口にした。
「それは良かった。今度、一緒に作らないか?教えて欲しいんだ。冷めてしまってもあそこまで美味しいおかずの作り方を」
「うん。いいよ。私もお父さんに料理教えて欲しいよ。ここまで美味しい料理を作れるなんて知らなかったから」
美味しいと言ってもらえて少しだけ自信がついた。でも、まだ不安は拭えない。今までのことを完全に水に流せない自分がお父さんを疑ってしまう。
夕飯を食べ終わって、下げた食器を洗う。お父さんが隣に来て、洗った食器を拭いていく。とても手際が良い。
「私は口を開けば暗い話しか仕事の話しかできない。これも暗い話になるんだが、聞きたいか?」
「もう慣れたよ。お父さんには吐き出し口が必要でしょ」
私は受け入れた。お互いの誤解を招かない為にも話は聞く必要がある。最近はお父さんと話すのが楽しくて、よく夜遅くまで喋っている。そこで分かったことは、お父さんは人の話をしっかり聞いてくれる人だということ。私の学校での話をちゃんと聞いてくれるし。
「今回は私の話ではなくてな、千隼の友人の話なんだ」
「私の友だち?」
意外な話題だった。確かに色々話した。秘密基地のこと以外はほとんど話した。
「千隼の友達はひょっとして、何か家に問題を抱えているのかもしれないと思ってな。もちろん、これはあくまで私の直感だから聞き流してくれてもいい。でも、よく一緒にいる三人に対して、千隼は彼らの家のことについて聞いたことが無い、もしくは聞けないんじゃないかと思ってな」
私の食器を洗う手が止まる。確かに聞いたことがないし、秘密基地のルールでも聞かないことになっている。
私の中にあった疑問、藍澤さんについて。はっきりとしなかった答えにたどり着く。
「答えなくていいんだ。もし、思い当たる節があったらできるだけ一緒に居てあげて欲しいんだ。その子達はきっといつか助けを必要とするはずだから。できるだけその子達に寄り添ってあげて欲しい」
お父さんの表情は真剣だった。
「分かった」
「それと、私のことも頼って欲しい。何かあってからでは遅いかもしれないが、私にできることがあれば、私は全力でその子達を救う。これは過去の私が願っていたことだから。身近な人の中に味方がいることを教えてあげて欲しい。何かあった時、その子達はきっと余裕が無くなって、周りが見えなくなってしまうだろうから」
とても聞き流せるような内容ではなかった。これはきっとお父さんの体験談だろう。藍澤さん達が理不尽に苦しんでいるのは絶対に嫌だから。
「それと、私は君たちの仲に水を刺したいわけじゃない。だからできるだけいつも通り接してあげてほしい。こういうのには敏感だからな」
「分かった。ありがとう」
私は再び皿を洗う手を動かす。何か私の中で決意ができた。
程よい暖かさの昼休み。葉の色が染まりきった銀杏や紅葉を日差しが暖かく照らす。昼下がりの太陽は美しく紅葉した木々達をより温かく見せる。
天気のいい日はよく図書室の前の中庭で過ごしている。ここは穴場スポットで誰も居ない。
秋晴れの空の下、お父さんが作ってくれたお弁当を食べる。お父さんが休みの日はこうしてお弁当を作ってくれるようになった。
この前お父さんに教えたレシピの唐揚げが入っていた。冷めても美味しくなるように研究をしたやつ。
笑みが溢れる。早速試してくれたんだ。美味しい。
料理を教えていた時、今までの罪悪感がどうとか言っていたけど、私は全く気にしない。これまでできなかったことを取り返すのに必死だから。
お父さんは気にしすぎなところがある。まあ、仕方ないか。それもいいところだから。
藍澤さん達といる時間が増えて、それが楽しくて最近は気にしなかったけど、視線を感じる。
視線の主達はきっと、一切の悪意がないんだろう。興味本位の視線がどれほど人を追い込むのかも知らないで。
最近の私は全く気にしなくなった。前までならどこか場所を移したりしていたけど、もうそんなことはしない。
自分でも変わったな、という自覚がある。色々抱えすぎていたものが無くなって、すっきりした。家族と話し合えたことが起因しているんだろう。それに藍澤さん、雲母坂さん、蒼井さんという友達ができたことも大きい。
友達、この言葉を心の中で噛み締める。心が中心から温かくなる。
ゆっくりとお弁当を味わい終わって、日向ぼっこをしていると後ろから気配を感じた。
私はゆっくり後ろを振り返る。
そこには図書室の常連さんが居た。どうかしたのかな?
「あの、突然すいません。本を借りたいんですけど、図書委員さんが居なくて」
彼女は透き通った小さい声で尻すぼみに言った。
またしても視線を感じる。おそらく彼女が私に話しかけたからだろう。話しかけたことが気に食わないのかな?
別にどうでもいいじゃないか。下心を持って遠くから見続けるより随分とマシだ。マシだもおかしいか。
ていうか図書委員はどうなっている?今日は私の当番じゃないから、誰かがサボったみたい。
「ごめんなさい。私が手続きしますので少々お待ちを」
図書室に入ると本当に誰もいなかった。
私はカウンターで貸し出し手続きをした。
「すいません突然」
彼女は小さい声で言った。さっきの視線のせいでより縮こまっている。
「謝らないで下さい。謝るのは私の方です。これは図書委員の責任ですから」
彼女は何かを口にしようとしてやめた。何を言おうとしていたかは気になったけど、お礼を言うとすぐに帰って行った。
今日の当番は誰だ?確認のしようがないから今度先生に報告しておかないと。
初めから見受けられていたことだけど、近頃は特に酷い。私は別に構わないけど。放課後の図書室の当番は全部私になってるし、今更昼休みの分が増えても関係ない、お客さんも少ないし。
私はそのまま図書室で過ごした。外を眺めていればすぐに時間は過ぎた。
午後の眠たい授業を乗り越え、図書室へ向かう。蒼井さんは爆睡していた。藍澤さんに叩き起こされてもびくともしなかった。雲母坂さんは思いっきり噛んでたっけな。
一人思い出し笑いをする。
教室で話すことはないけど、こうして見ているだけでも彼らは面白い。クラスでも中心いる存在で周りからの信頼も厚い。
今までは気が付かなかった。私は自分のことばかりで周りのことを視線を向けてくる存在、として一括りしていたから。今はもうやめている。
図書室の扉を開ける。いつものメンバーがいる。この感じ、毎回安心感を覚える。
「来た。ほら始まるよ」
雲母坂さんが蒼井さんを起こす。彼は少し喉を鳴らしてから起きた。
「何?来た?」
うーんと伸びをしてからこっちを向いた。長い前髪の下の目はきっと寝ぼけ眼なんだろう。
「俺が起こした時は無反応だったくせに瑞姫だとよく起きるな」
藍澤さんが茶化す。蒼井さんはムッとした顔をした。
「まあ、それだけ瑞姫がうるさいってことかな?」
「やかましい!ほら、勉強するよ!」
毎回おなじみのやり取りに微笑ましくなる。
「雲母坂さんは物静かだと思うよ」
「ほらね」
ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。実際教室では中心にいるとはいえ、静かではある。ここでは少しはっちゃけている気はするけど。このメンバーだからこそなのかもしれない。
そこからは勉強三昧。みんな真面目だからサクサク進んで、今や三年生の範囲もほとんど終わってしまった。三年生になると受験勉強がほとんどで習うことが少ないとはいえかなり早い。予習も復習もバッチリでこの間のテストは私は散々だったけど、蒼井さんも順位を一桁まで上げることができた。
黙って勉強をする時間が続く。シャーペンが紙を走る音だけが響く。互いの息遣いさえ聞こえそうなほど静か。でも、息が詰まるような感じはしない。
日が傾いてきて夕日が窓から差し込む。
「うーん。休憩する?」
藍澤さんが沈黙を破る。大きく伸びをした体は細く見えた。
「藍澤さんは痩せてるね」
「あ、ああ。まあな」
藍澤さんらしくない歯切れの悪い返事だった。これはあまり追及はしない方が良さそう。
「疲れたー。今日はおしまい」
「もう終わるの?まだまだできるけど」
「斗和も少しは休憩したら?詰めすぎは良くないよ」
「それもそうかも」
みんな参考書を閉じて一息つく。
「そうそう、見て見て!これどう?」
そう言って雲母坂さんが取り出したのは手提げ鞄だ。どこか見覚えのある向日葵の生地を使っている。
「これ、降谷さんに選んでもらった生地で作ったんだ」
「あの時の……」
その時の記憶が頭を掠める。
「それとジャジャーン!」
雲母坂さんはもう一つ手提げ鞄を取り出した。この柄は、もしかして。
「これは降谷さんが選んだ生地の方。やっとできたから見せようと思って」
「ちょうどいいサイズで使いやすそうだね」
でも、二つ作る必要は無い気がするけど。
その疑問は一瞬で解決した。
「これ、プレゼント。降谷さんに」
「え?私に?」
なんで?は、喉に詰まって声にならなかった。訳が分からなかった。
「降谷さん、色々大変だったでしょ?骨折したりしてさ。そのお見舞いといつも勉強教えてくれてるお礼」
「そんな感謝されることでもないよ」
教えるのは私が好きでやっていること。初めは頼まれたからだったけど、今は教えるのが楽しくて教えているだけなのに。
「感謝されることだよ!降谷さん、骨折してからも変わらずに私たちに教えてくれたし。自分は勉強できなかったのに」
「あの時はあれしかすることがなかったから」
私は首を横に振った。あの時はあれが全ての現実から逃避できることだと思っていたからだったから。
「誰でもできることじゃないよ。自分が今できないって分かっていることを人に教えることはしんどいことでしょ?それでも降谷さんは変わらずに教えてくれたから、無理をさせてたんじゃないかって思って」
「無理なんかしてないよ」
無理なんかしていない。あれは私の自己満足。誰かに教えることで自分が満たされたかっただけなんだ。
「だから、もしよかったら受け取って欲しいの」
そう言って紫陽花柄の手提げ鞄を差し出してきた。
私には受け取る以外の選択しかなかった。もちろんこの鞄も感謝の気持ちも嬉しい。でもこれが自分の至らなさから来たものだと考えると。自分の未熟さを呪う。
「ごめんね、こんな無理矢理な形になって」
「謝ることなんて一つもないよ。素敵な鞄ありがとう。大切に使うね」
そう言って鞄を受け取る。彼女の手はかすかに震えていた。
もちろん本心から出た言葉だ。だから、変な風にとってほしくない。
彼女の申し訳なさそうな笑顔が痛い。
「何プレゼントを渡すのに気まずそうにしてるんだ?」
変な空気を変えたのは藍澤さんだった。私たちはそちらを見る。
彼は目を閉じながら言う。
「瑞姫の心のこもったプレゼント。それを受け取るに相応しい降谷さんの普段の行動。この二つがあるのに気まずくなってんのはおかしいだろって言いたいんだ。もっと明るくいこうぜ、せっかくの機会が台無しにならないためにな」
彼はこちらを向いて笑った。窓から差し込む夕日が逆光になってはっきりとは見えなかったけど、とても優しい顔をしていた。
彼は優しい口調のまま続ける。
「二人とも優しすぎるから、互いのことを考えすぎて自分に自信が無くなっているんじゃないか?それが悪いとは思わない。でも今回は悪い方向にいってしまっている気がする。もっと楽に行こうよ、その方が楽しいし明るいだろ?」
あまりに的確な言葉だった。藍澤さんは何でもお見通しだ。
毎回助けてもらってる。
「うん、ごめんね、降谷さん。ありがと」
彼女はニカっと笑った。さっきまでの笑顔とは全く違って明るい感じ。
「私もありがとう。早速使ってみてもいい?」
彼女はこくりと頷いた。
私は参考書を入れて、立ち上がって鞄を肩に掛けた。
「どうかな?」
「すごく似合ってる」
「あの傘と相性が良さそうだ」
「サイズも本当にピッタリだね」
三人からの評判は良さそうだ。セカンドバックとして今後使っていこう。
「ありがとう」
私は自然と笑っていた。最近は笑えているか自信が無かったけど、今回はうまく笑えたはず。ほら、みんなも笑っているし。
三人とも温かい笑みを浮かべていた。
しばらくは変な空気が続いたけど、藍澤さんと蒼井さんが面白い会話を続けてくれたおかげでいつもの楽しい空気に戻った。
私と雲母坂さんはトイレに向かった。この時間ともなると後者には生徒も先生もほとんどいない。グラウンドからは常に運動部の声はするもののかなり遠くてかすかなものだ。
「さっきはごめんね。あんな空気になっちゃって」
「ううん。私の方こそごめん。それと改めて、プレゼントありがとう」
彼女は頷いた。何か言いたそうだったけど、それは飲み込んだようだった。
雲母坂さんの気にしすぎなところは私にも通ずるものがある。
私は空気を変えるべく藍澤さんを倣った。
「藍澤さんはすごいね。的確な言葉で私たちのことをなんていうか、こう」
そこから先は出てこなかった。見切り発車でうまく言葉にできなかった。
何だろう?藍澤さんのああいうところはすごいけど、言語化しづらい。
「分かる。煌照は昔っからあんな感じで一歩引いた感じで宥めてくれるっていうか」
「確かに一歩引いた感じなのはすごく分かる」
雲母坂さんも強めに頷く。でも、まだ何か足りない気がする。
また一つ、彼を知りたい気持ちが増えた。
トイレを済ませ、並んで手を洗う。
「それにしても藍澤さんは不思議な感じがするよね」
「少し大人びてるんだよね昔から」
「そうなんだ」
なんか想像ができる。藍澤さんは昔から藍澤さんだったんだ。
校舎が静かだからか、水の出る音は思いの外大きく感じる。
「煌照みたいなお父さんがよかったなあ」
雲母坂さんは小さく呟いた。水道の音に少しかき消されるほど小さかった。
「お父さんはどんな人なの?」
私は気になって聞いた。
しかし、返答が無かった。雲母坂さんは黙ってハンカチで手を拭いている。
これは聞いてはいけなかったかも。
一つため息が聞こえた。
「まあ、話すほどでもない人だよ」
彼女は目を伏せ気味に言った。普段の彼女らしくない暗い声だった。
どんな表情をしていたか知りたかったけど、覗き込むのは憚られた。
「それより、降谷さんはお父さんとどんな感じなの?今も喋らない?」
さっきとは打って変わった明るい声で話しかけてきた。
私は最近のお父さんとのやりとりを話した。
雲母坂さんのお父さんについては聞かないことにした。
図書室に帰ると男二人で盛り上がっていた。私たちもそれに加わることにした。
「何盛り上がってるの?」
雲母坂さんは二人の会話の間に割って入る。
「たこ焼きの味変について」
「ぷっ」
私は思わず吹き出してしまった。蒼井さんが真剣な顔でそんなことを言うから。
「今度は何でそんな話題に?」
雲母坂さんは呆れたように聞いた。
「この前、スーパーの出店でたこ焼きがあったから」
そんなものがあるんだ。スーパーに出店なんてどんな感じなんだろう。
「それで思ったんだ。たこ焼きって途中で飽きてこない?」
「そんな飽きるほど食べる?」
雲母坂さんは呆れっぱなしだ。逆に蒼井さんは常に真剣に語っている。
「まあ、健全な男子高校生だと一舟じゃ足りんよな」
藍澤さんが言う。確かに食べ盛りの今、たこ焼き八個程度じゃお腹は満たされないけど。
「あれって主食だっけ?」
私は思ったことをそのまま口にした。
「あれは主食でしょ。お好み焼きは主食でしょ?」
蒼井さんが珍しく熱くなっている。
「それもそうかも」
「タコパとかあるけど、一体何個食べるつもりなの?」
雲母坂さんは終始呆れている。いつもはノリがいいのに。
「まあまあ、斗和はよく食うから」
「そうなの?」
「こう見えて結構な大食いだな。ご飯とか一食一合以上いけるぞ」
ん?一食一合って普通じゃない?運動部だと一食三合食べるって言うし、少ない気がする。
「そこまで多くない気がするけど?私も一食で一合くらい食べるよ」
三人は驚いた顔でこちらを向いた。
私の方こそ驚いている。一合は一食あたりに消費するお米の量として生まれた単位なのに。
「すごい食べるんだな。俺は半分が限界だ」
「私もそこまで食べられないかも」
「みんなもっと食べないと」
あまり食べないと言っている割にはみんな身長は高い。私はほぼ百七十センチだけど、雲母坂さんは私より少し低いだけ。蒼井さんは私より五センチほど大きいし、藍澤さんは十センチほど大きい。
「そんなに食うのか」
蒼井さんが呟く。本当に衝撃を受けているようだった。
「これが普通?」
雲母坂さんも同じく衝撃を受けている。
悩んでいるみんなを改めて見ると、かなり細身だと気づく。
普段は制服で着膨れしているから分かりづらかったのかも。それにみんな年中長袖を着ているのも気づかなかった理由の一つだろう。
お昼を一緒に食べることが無いから何を食べているのか気になった。
「普段何食べてるの?」
そんなに難しい質問ではないのに、みんなして考え込む。
最初に口を開いたのは雲母坂さんだった。
「私はよくパスタを食べてるかな」
「パスタ?」
「そう。あまり手間がかからないし」
パスタは確かに茹でるだけで手間は少ない。でも、主食がパスタなんてあまり聞いたことが無い。あくまで日本での話だけど。
「改めて聞かれると、普段何食べてるんだろう」
藍澤さんはそう言って顎に手を当てた。
「俺はご飯かな?」
日本人的にはこれが普通だと思う。
すると藍澤さんが
「逆に聞くけど降谷さんはどんなの食べてるの?」
と、私に聞いてきた。
「私はご飯と汁物と何か主菜を一品かな?」
「そうなんだ」
誰もそれ以上は聞いてこなかった。
そして話はまたたこ焼きの味変に戻り、蒼井さんが熱語りをしているうちに下校時間になった。
何か引っ掛かることの多い日になった。
今日から少し冷えてきて、制服の冬服だけでは肌寒い気温になってきた。何よりスカートが寒い。男子の制服みたいにズボンを履きたい。
それに雨が降っている。シトシトと弱くて冷たい雨が地面に小さな水溜りを作る。雨を降らせている雲は薄灰色で、分厚く重たそうな感じはしない。
ここ数日はずっとこんな感じで雲母坂さんは、髪の毛が跳ねて鬱陶しい!と嘆いていた。
私は藍澤さんに見つけてもらった傘をさすのが楽しみだから、雨は嫌いじゃない。
雨粒が傘に落ちて鳴らす音が心を落ち着かせる。
ふと、出会った頃の藍澤さんを思い出す。今と変わらず少し大人びた雰囲気を纏っているのは覚えているけど、何か変わった気もする。飛び蹴りをした瞬間は衝撃的で、私の中の何かを蹴破ったような感覚がした。
今になってみると、あれは人生の転機だった気がする。
その時から私は……何かこう、新たな感情が芽生えた気がする。確証は無いけど。
「おはよう!」
教室に入ると雲母坂さんの元気な声が聞こえてきた。
「おはよう」
私は鞄を自分の席に置いてから雲母坂さんの隣に座る。
最近は早めの電車に乗って、誰もいない教室で雲母坂さんと藍澤さんと話すのが日課になっている。藍澤さんはもう一本遅い電車で来るけど、蒼井さんはこれには来ない。
雲母坂さん曰く、彼は朝が弱いらしい。仕方がないことだ。
「今日も雨かー。なんか嫌な感じ」
「そうだね。寒くもなってきたし」
「本当そう!ズボン履くの許してほしい!」
ふふ、と笑う。雲母坂さんはかなり歯に衣着せぬ言い方で面白い。
しばらく二人で話していると、教室の扉が開いた。
「おはよう」
藍澤さんの声が聞こえた。
「あっおはよう煌照」
「おはよう」
振り返ると、マスクをした藍澤さんが居た。
「大丈夫?」
雲母坂さんが心配そうに聞く。
「ああ、問題無い」
「風邪を引いたの?」
私も聞く。風邪薬は何種類か常備しているからあげられるかもしれない。
「大丈夫だ。大したことはない。気にするな」
さっきより少し暗めの声で早口に言った。
私には何となくの気配で分かる。これは踏み込んでほしくない時の声。久しぶりに聞いた気がする。
雲母坂さんとアイコンタクトをした。どうやら幼馴染の雲母坂さんも分かっているみたいだ。
「煌照はこの巾着袋どう思う?」
雲母坂さんはさっきまで私と話して話題に藍澤さんを巻き込んでいく。
「いいと思う。大きさもちょうど良さそうだし」
「でしょ。降谷さんに教えてもらった刺繍も入れてみたんだ。ほらここ」
そこには小さな向日葵の刺繍が入っている。あまりに繊細で私もかなり驚いた。
「すごく上手にできてる。この小ささでするのしんどくなかった?」
「結構しんどかった。でも、楽しかったから大丈夫」
雲母坂さんは可愛くはにかんで言った。最近知ったことだけど、雲母坂さんはかなりモテるらしい。
全く異論は無い。彼女はとても可愛い。その上頭も良くて性格も良いから尚更だろう。
「すごいな、これは。俺がやったら布より指に穴を開ける回数の方が多くなりそうだ」
「ふふ、なにそれ。藍澤さんって器用じゃなかった?」
「裁縫はやってみてるけど、さっぱりだ。先端恐怖症だしな」
「無理はしないでね」
「そこまで酷いものじゃないから大丈夫だ。その日の気分にもよるから」
たまに雲母坂さんに教えているときに一緒にやれているのは、調子によるからなんだ。
これは意外な弱点だ。
「マスク変えなくて大丈夫?濡れてるよ」
雲母坂さんが言った。私も気になってたけど、それは触れない方がいいんじゃない?
「ああ、変えてこようかな。あとトイレにも行きたいし」
藍澤さんは意外にもすんなり答えて、トイレに行った。
「今日の放課後は私と二人きりかもしれないね」
「なんで?」
急にどうしてその話をするんだろう。それにその結論はいったいどこから?
「女の勘ってやつ?煌照のことは早く帰した方がいいでしょ、今日は」
「それはそうだね。無理は良くないから」
「あと、付き添いで斗和もいなくなると思う」
なるほど、納得した。さすが幼馴染。全部お見通しなんだ。
ていうか、全然勘じゃない。まあ、細かいことは気にしない。
藍澤さんはすぐに戻ってきて、また会話に花が咲く。
雨脚が徐々に強くなっていることに私たちは気づかなかった。
雲母坂さんの言った通り、放課後の図書室は二人きりになった。藍澤さんは大事をとって帰り、蒼井さんはそれに付き添った。彼女は本当に全部言い当てた。
「言った通りになったね」
「雲母坂さんはすごいね」
「斗和と煌照とは長いからね」
「いつから一緒に居るの?」
「小学校一年からだね。もう十年以上一緒に居るね」
すごく長い。そんなに長く一緒に居られるなんて、互いにとても馬が合っているんだ。
「仲がいいね。どうりで今日のことも言い当てられたんだね」
「まあ、そうだね」
彼女は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「私たちが一緒に居るのには色んな理由があるけど、一番の理由は波長があったんだよね」
色んな理由?これは聞いていいものなのかな?お父さんの一件から私は今までより人への質問を気遣うようになった。
「のんびりした斗和としっかり者の煌照、そして普通の私。いい感じに町をしたんだよね」
「普通?」
「あっ……普通っていうのは、その……」
雲母坂さんは口を軽く開けたままフリーズした。これは突っ込んではいけなかったこと。
やってしまった。
どうにかして訂正しないと。頭をフル回転させる。
「もういっか」
隣からため息と共に呟いた声が漏れ出た。
「いつか口を滑らすとは思ってたけど、私が最初になるなんてね。それに我慢できなくなっちゃった」
「口を滑らす?我慢?」
一体何を言ってるの?私の知らないところで何かゲームをしていたの?
高速で頭を回転させて今までの違和感を振り返る。
そんな私を横目に雲母坂さんはうーんと伸びをして、口を開いた。
「私、元から嘘を吐くとか何かを人に隠すとか苦手なんだよね」
「嘘…?」
もう何がなんだか分からなくなった。
「ふふ、もう気づいてるんじゃない?」
彼女は微笑みながら言った。
気づく?一体何に?
あまりに突拍子のない言葉に振り回される。
「まあ、私の口から言えるのは私のことだけなんだけど、聞いてくれる?」
私は訳も分からずコクリと頷く。
「秘密基地のルールにあったよね、家に居たくない時に来るって。あそこへ連れて行った時からもう、気づかれてもいいとは思ってたんだけど」
あのルール。気づいていながらもスルーしていた違和感。触れるべきではないと思って触れていなかったこと。
「家に居たくないんだよね」
図書室が沈黙に呑まれる。雨音が図書室を包む。
前までの私がそうだったから複雑な気持ちになった。それに私は解決してしまっている。それも三人に相談をして。
今更ながら後悔をする。
「みんな家に問題があるんだよね」
私はなんて言えばいいか分からなくなった。俯くことしかできない。
私には沈黙を破ることができない。
少し間が空いて、
「秘密基地行こっか」
立ちながら言われた。諦めたような笑みを浮かべて。
「うん。行こう」
無駄な言葉はもういらないだろう。今は何を言っても蛇足になりそうだ。
私たちは図書室を出て秘密基地へ向かった。
冷たい雨音はまだ響いていた。
私たちが秘密基地へ着くと、先客がいた。
その先客は、傘をさして一人ベンチに腰掛けていた。見慣れた後ろ姿。一応確認のために回り込んで傘の中を覗くと、
「あれ?斗和?」
「ああ、瑞姫。降谷さんも」
こんな雨の中、寒いはずなのに蒼井さんが腰掛けていた。ベンチは蒼井さんが座っているところも含め、ベンチの木はかなり濡れている。
蒼井さんにそれを伝える前に雲母坂さんが言う。
「煌照は?」
「煌照なら先に帰ったよ。面倒になる前に」
蒼井さんはずっと遠くの海と雲の狭間を見つめていた。物思いに耽っているようだ。
雲母坂さんが一呼吸置いてから言葉を発した。
「実はね、言っちゃったんだ」
水平線を見つめていた蒼井さんの目が雲母坂さんへ向いた。
「……そうか」
彼は諦めたように微笑んで、視線を私へ向けた。
「降谷さんならいけると思うんだ。絶対に」
「瑞姫のことを疑っている訳じゃないんだ。ただ、ちょっとな」
彼は少し目を伏せた。
「巻き込むわけにはいかないって思ってるわけ?」
考えるよりも先に口から溢れていた。蒼井さんのことはこの数ヶ月で少しは分かっている。次に来る言葉は大体想像がついていた。
蒼井さんは驚いた様子で私を見た。それに構うことなく続ける。
「みんなは私の話を聞いてくれた。だから今度は私がみんなの話を聞く番。私に恩返しさせてよ」
雲母坂さんも驚いているようだった。
私は力強い言葉で紡ぐ。
「それに私たちは友達でしょ?」
二人は目を見開いた後、笑った。馬鹿にされていなことは雰囲気で察した。
「そうだね。安心した」
「うん、私たち友達だもんね」
私も安心した。友達のところを否定されてしまったらどうしよう、と一抹の不安があったから。もちろん彼らのことは信じていたけど。
私は持っていたタオルを取り出してベンチに敷く。
「あと何枚かあるけど使う?」
「ありがとう。借りるね」
「俺は大丈夫だ。もう手遅れだからな」
「今からでも遅くないよ」
「じゃあ、借りようかな」
蒼井さんはと雲母坂さんもタオルを敷いて、三人で並んで座る。傘をさす分、間の距離を空けて座る。一人足りないのは思ったよりも寂しく感じる。
雨脚が弱まる気配は無く、凪いだ水面に多くの波紋を残しては消えている。傘に打ちつける雨音は私たちに沈黙を与えてくれない。
「何から話す?」
少し間が空いて、真ん中の雲母坂さんが言った。その口調は明るくも感じたけど、暗くも感じた。
「瑞姫が先でいいんじゃない?」
「うん、分かった」
聞きたい自分と、聞くのが怖い自分がいる。
雲母坂さんの口から一体どんな話が出てくるのか、私は息を呑んだ。
「私の家ね、お父さんが居ないんだ。物心ついた時にはもう居なかった。後から知ったことなんだけど、私が生まれる前に離婚したんだって。それで私を育てる為に、お母さんは働きっぱなしなんだ」
彼女は暗い顔で語った。いつもの明るい彼女はどこにも居なかった。
彼女は続ける。
「お父さんはギャンブルで借金を作って、そのまま蒸発した。妊娠中のお母さんと借用書だけ残して。物心ついた時から、よくお母さんは家の前で謝ってた。その時は分からなかったけど、あれは借金取りだって気づいた。しかも、お母さんの貯金を勝手にお父さんに持ってかれてたせいで、お母さんは朝から晩まで働き続けて、私のことを守ってた」
話は私の想像より遥かに暗かった。そして、何よりその父親に腹が立って仕方がなかった。
「今はマシだけど、お母さんが働きっぱなしなのは何も変わってない。出て行く前のお父さんはお母さんに暴力も振るっていたみたい。昔こっそり盗み見たお母さんの手帳にそう書いてあった。だから私はお母さんを助けるために家事をすることにしたけど、何も変わらなかった。毎日のように叩かれるドア。借金をしていることでの近所からの嫌がらせ。今はもう無くなったけど、鮮明に覚えてる」
彼女の握られた拳が徐々に強くなっている。蒼井さん何も言わずに彼女を見守っている。
「でもみんなは私のことを恵まれてるって言うんだ。これは今になっても。何も恵まれてないのに」
彼女の顔は徐々に歪んでいった。それは怒りとも哀しさとも捉えられるような表情となっていった。
「私の家は狭いワンルームのアパートだって斗和と煌照以外誰も知らない。知られちゃいけないの。みんなの理想の私が崩れちゃうから、かわいそうな私にはなりたくないから」
私は何も言わなかった。理想の自分を押し付けられる辛さは幼少期から経験してきたことだから、雲母坂さんの感情が手に取るように分かる。
「でも、降谷さんを見ちゃったら、不安になって。完璧に限りなく近い存在で、私なんかより圧倒的で、自分のことが馬鹿らしく思えてきて、何とか話しかけられないかってチャンスを伺ってた。卑怯だよね。降谷さんにぶら下がって、私も完璧なんだって思いたかった」
赤裸々に語られることはあまりに重くて、簡単には消化できなかった。
でも、一つだけ確かなことがある。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。こんんじゃ友達なんていう資格なんて無い。ごめんなさい」
雲母坂さんは雨音に消されるほど弱々しく掠れた声で言った。
「謝らないで。雲母坂さんは優しすぎるだけだよ。自分を追い込まないで、私も悲しくなるよ」
「でも、私は」
「雲母坂さんは私と一緒にいて楽しい?」
次の言葉は言わせなかった。言わせるわけにはいけなかった。
「楽しかった」
彼女は震える声で言った。
「私も楽しいよ、雲母坂さんと一緒にいるの。大人びているのに子供っぽいことを言っている時も、無茶なノリに乗せられた時も私は楽しかった。あの時の雲母坂さんは嘘じゃなかったでしょ?」
彼女はゆっくりと頷く。
「それってもう私たちが本当の友達である証拠なんじゃない?だって本当の友達以外に気安く素の自分を見せられないでしょ?」
彼女の潤んだ瞳がこちらへ向く。
私は一つ微笑んでから続ける。
「私もね、素の自分で接してたんだよ?分かりづらかったかもしれないけど。放課後の間はとても楽しかったんだ。それは今も同じ。それは三人と過ごしている時間は、素の自分を曝け出せたから。それは藍澤さんと雲母坂さんと蒼井さんじゃなかきゃ駄目だった。他の誰でもなくこの三人じゃなきゃこうはならなかった」
「でも、私は」
「関係ないよ。だってこうして雲母坂さんも自分のことを赤裸々に話してくれているでしょ。これがどれだけ勇気のいることか、誰にでも分かる。自分の弱いところを他人に見られたくないのは当たり前。それを曝け出してくれたってことは、私のことを信頼してくれてるってことでしょ?私も雲母坂さんのことはすごく信頼してる。つまり、」
私はゆっくりと言葉を紡いでゆく。全て伝わって欲しいから。
「私たちはもう互いに信頼し合ってる。この関係を友達と呼ばないわけにはいかないでしょ?」
はにかんでそう言うと、雲母坂さんは次第に破顔した。
「私っ、下心でっ……近づいたのにっ」
「あの程度、下心とは言わないよ。それは雲母坂さんが下心と思っているだけだよ」
「でもっ…でもっ……」
「もういいの。気にしないで」
彼女の声は上擦っていた。私はできるだけ優しく言葉を紡いだ。
ここでようやく蒼井さんが口を開いた。
「俺も、瑞姫の言う下心は下心じゃないと思うぞ。それを下心とか言ってると、瑞姫に近づく奴らはどうなるんだ?下心しかない連中なのに、男も女も。だから気にするなって」
その言葉がトドメとなったのか、彼女はボロボロと涙を流して泣き始めた。
私と蒼井さんは何も言わず彼女が落ち着くまで、彼女の背中を撫で続けた。
次第に雨が弱まってくるのと同時に彼女も落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
彼女はこくりと頷いた。
「それじゃあ」
私はベンチから腰を上げ、傘を畳んだ。雨なんか気にならない。私は彼女の前へ立って、手を差し伸べる。
「雲母坂瑞姫さん。私と友達になってくれますか?」
私はできるだけ優しく、できるだけ力強く言った。
私は彼女のことを信じている。ただそれだけ。
彼女は私のことを見上げ、口を開いた。
「私で良ければ」
彼女は震える声で言った。ゆっくりと立ち上がって私の手を取る。そして、精一杯の笑顔を浮かべる。いつもの彼女の笑顔とは程遠いけど、心の底から笑っているのが窺えた。
「それじゃあ、友達になった記念として瑞姫さんと呼んでも?」
「ううん、瑞姫って呼んで。私も千隼って呼んでもいい?」
「もちろんだよ。瑞姫」
私は噛み締めるように言った。
「ありがとう。千隼」
瑞姫も噛み締めるように言った。
後ろから陽光が差した。雨はいつの間にか止んでいた。
振り返ると海の上の雲が割れ、夕陽が私たちを照らしている。
「綺麗…」
瑞姫が呟いた。
「そうね」
「そうだな」
蒼井さんも立って海を見つめる。
「俺のターンは無さそうだな」
彼は軽く笑いながら言った。
「これからでしょ?」
「私たちは聞くよ。何時になっても」
私たちは強く言った。何でも受け止められる。だって友達だから。
「まあ、もう少しこの夕焼けを見届けようよ」
彼は遠くの水平線を見つめたままそう言った。
私たちは沈黙を持ってそれに答えた。
夕焼けと反対側の空はまだ雨が降っている様子だった。
夕焼けの余韻の残る空は星が散りばめられていた。
「そろそろ俺の番か」
蒼井さんはベンチに腰掛け、ため息を吐く。
「無理に言わなくてもいいよ」
「大丈夫だよ降谷さん。むしろ早く話したいくらいだ」
瑞姫と私もベンチ腰掛けた。瑞姫と私は位置を入れ替えた。
彼は軽くなった口を開く。
「初めて人に話した時もこんな感じだったな。はじめに瑞姫が言って、俺が後から言う。懐かしいな。その時は相手が煌照だったか」
私たちは相槌を打つ。
次第に夕焼けの余韻は闇に呑まれていき、夜の帷が降ろされる。
彼はふっと一つ鼻で笑ってから話を続けた。
「俺の家も父親がいないんだ。出て行った日はいまだに覚えているよ。俺が六歳の時、母さんと口論になった翌朝だった。朝早く、俺にこっそりお別れを告げてお小遣いと連絡先を渡してくれた、何度も謝りながら。そして、出て行った。俺は止めようとは思わなかった。これ以上やつれていく父さんを見てられなかったから。俺の母さんは、ヒステリーなんだ。父さんは出て行くまでの間ずっとそれに耐え続けていたんだ」
彼の前髪に隠れた目は、見えずとも苦痛を語っていた。
私たちも星空も黙って彼の話を受け止める。
「出て行く前の父さんはやつれていて、顔には絆創膏を貼っていたのを覚えてる。父さんが出て行った後、母さんのヒステリーは俺に向いた。むしろ俺に向いて良かったと思ってる。父さんがいた頃は父さんの稼ぎがいいからって、何にでも手を出してお金が溶けていっていたから。それなのに食事は毎回父さんの分だけ無かったんだ。ふざけてるよな。俺は今でも根に持ってるよ」
彼の口調は怒気を帯びていた。彼の口から初めて聞く口調に驚かされつつも、話に相槌を打つ。
「俺は父さんによく俺の残したご飯を渡しに行ってた。家では父さんのゾーンと母さんと俺のゾーンがあったんだ。テープで区切られていて、父さんがこっちのゾーンに足を踏み入れたら、母さんは物を投げて怒鳴り散らかしていた。俺が父さんのゾーンに入ると、それはそれですごい剣幕で怒られた。だから母さんが寝た後にこっそり渡しに行ってたんだ」
あまりにあり得ない話に呆気を取られた。瑞姫は落ち着いているように見えたけど、唇を噛んでいた。
「トイレも別々だったな。そのためにわざわざトイレを作らせていたよ、父さんの金で」
彼は付け加えた。
「俺に向いた母さんのヒステリーは父さんが出て行くのも納得のものだったよ。学校以外で俺に自由は一切無かった。放課後に遊ぶことは許されなかった。家では母さんを母さんと呼ぶと怒られた。『ママと呼びなさい』キツく言われた。一人称も『僕』じゃないと怒られた。母さんに何とか頼み込んで、小二くらいからは放課後は自由にはなったけど。機嫌が良いと何でも言うことを聞いてくれるからな。年に一度もないけど」
私のお父さんの話を思い出す。似通った環境だ。
学校で「俺」を使っているのはせめてもの抵抗なのかもしれない。
先ほどのような怒気は薄れていき、彼は淡々と続ける。
「最近は宗教にどっぷりで、何度も止めようとしたけど聞いてはくれなかった。父さんに相談しようと思ったけど、肝心な連絡をするための手段を持ってなかったんだ。スマホは持たせてくれなかったから」
そういえば今まで誰とも連絡先を交換していないことに気がついた。それはあまりに今更の気づきで、何でここまで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「宗教にハマり出してからヒステリーはエスカレートしていった。食費にまで手を出し始めて、父さんからの仕送りだけでは到底やりくりできなくなってきている。だから俺は何とか特待生になり続けないと、学校に行けなくなるかもしれないんだ。でも、家では母さんが俺に宗教の教えとかを説いてきて寝られなくて、学校の授業では寝てしまうんだ。煌照と瑞姫に頼んで起こしてもらえるんだけど、最近はそれじゃ起きられなくなってきている」
授業中寝るのにはそんな理由があったなんて。
寝ている彼のことを微笑ましく思っていた自分を殴ってやりたい。
「これが俺の過去と現状。あと、俺が前髪を長くしているのは目の下の隈を隠すためだと思っておいてくれ」
私は一つ頷いてそれ以上聞かないことにした。
暗がりから響く細波の音が三人を包む。
私には言えることは何も無かった。瑞姫もそのことを知った上で今まで彼と接してきてたんだ。
「これを知った上で、まだ友達でいたいと思うか?」
彼は自分のことを嘲るように言った。
私たちに迷いはなかった。
「無い」
静かな夜の暗闇に、確かに響いた。
「そうか…」
彼は小さく呟いた。暗くて表情は窺えないけど、少し明るく安心した感じを感じた。
またしても沈黙が三人の間を潮風と共に吹き抜ける。
解決策にはならないけど、これは言っておかなければならない。
「力になれるかどうかは分からないけど、もし何か助けて欲しかったら私に言って」
私はお父さんの話をしてお父さんとの約束の話もかいつまんで喋った。
「だから、何かあったら私が力になるから。私のお父さんも」
「頼って良いのか?迷惑じゃないか?」
「迷惑なん掛けて当然。一生迷惑を掛けずに過ごせる人はいない。迷惑を掛けても関係が続く相手こそ信頼できる人でしょ」
私は食い気味に喋った。
私は目の前にいる友達を救いたいだけだと、伝わってほしい。
「分かった。今はまだその時じゃないけど、助けが必要になったら話すよ」
「私もいるからね!」
瑞姫が後ろから言った声は、さっき泣いたせいか盛大に裏返ってしまった。
「ふふふ、分かった。ありがとう瑞姫」
彼は少し微笑んで言った。
瑞姫は私の背中におでこを当てて黙って頷いた。少しだけ見えた彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
「降谷さんもありがとう」
「ううん、友達としてこれは当たり前。それと、私のことは千隼でいいよ」
「分かった、千隼。俺のことは斗和でいい」
「うん。これからもよろしくね、斗和」
私は手を差し出した。
斗和は私の手を取ってしっかり握った。
「これからもよろしく」
隠れた目からは決意が感じられた。
私たちは夜が更けるまで喋り合った。
帰る頃にはベンチは乾いていた。
東の空はまだ雨が降っている様子だったけど、私たちの頭上には星が輝いていた。
時が経つのは早くて、気がつけば期末テストも終わって冬休みを待つだけとなった。
中庭で綺麗に紅葉していた木々たちは、葉を落とし冬枯れ木になった。見るからに寒そう。
藍澤君はあれからずっと、マスクをしていた。
前までと変わらない日々が続いていった。名前の呼び方が変わっただけだった。藍澤君が「俺も下の名前で呼んでよ」って言ったけど、下の名前で呼ぶのはなんだか恥ずかしくって、できなかった。藍澤君は「なんだそれ」って言って笑っていた。斗和と瑞姫も笑っていた。なんとか私は間を取って君付けで呼ぶことにした。藍澤君はちょっと拗ねたように口を尖らせたけど、怒ってはいなかった。
藍澤君の過去について知りたかったけど、機会が無かったから聞くことは無かった。
それに無理に聞くことだけが友達じゃない。何も言わずに隣にいることだって重要。
斗和と瑞姫も詳しくは知っているけど、藍澤君の口から直接言い出すまでは何も言わないそうだ。私もそれの方がありがたい。
「千隼、ここはどうしたらいい?」
「そこはこう返してから、こうだよ」
期末テストでは私は一位に返り咲き、瑞姫、藍澤君、斗和の順にトップを独占することができた。今日はその記念とクリスマスイブということで裁縫の日。今日は終業式で授業も早く終わったから時間はたっぷりある。息抜きをしないと勉強しっぱなしで疲れるから、みんなでちょっと変わった巾着袋を作っている。
みんな手先が器用だから、結構早くできそう。藍澤君も今日は調子がマシだから裁縫に参加している。最近は参加していないことが多かったから、ちょっと嬉しい。
「藍澤君は大丈夫?」
「いや、これはどうしたらいいんだ?」
マスクをしていて声が少しこもっているのも慣れてきた。
「ここはこうするの」
私か彼の隣に座って、手順を自分のもので説明する。
「あっそこ違う」
不意に手が当たる。男らしく骨張っているけど、細長くしなやかな手は私よりも一回り大きい。
「手、大きいね」
「そうか?こんなもんじゃないか?」
彼は手を目線の高さに持ってきて回した。
指の先に針で刺した跡が見えた。
「これ、大丈夫?」
私は彼の手を取って確認した。
何ヶ所か刺した跡が見受けられる。
「大丈夫だ、このくらい」
彼は何だか恥ずかしそうにしている。
「どうかしたの?」
「いや、もう手はいいぞ」
冷静になって手元を見ると、私はがっつり彼の手を握っている。
改めて彼を見ると照れくさそうにしている。
「あっ」
私はようやく気づいて、彼の手をパッと離す。それと私と彼との距離が近すぎることにも気づいて、元の体勢に戻す。
私と彼の間に気まずい空気が漂う。
「二人とも何してるの?」
斗和が聞いてきた。側から見ていた私たちが相当変だったんだろう。
「何でもないよ」「何でもない」
しっかりとハモってしまい、さらに変な空気になる。
斗和は首を傾げる。
私は顔が熱くなる。きっと藍澤君のが伝染したんだ。私の体温だけなはずがない。
ほら、斗和も固まってるし。
「何?三人して固まって」
今度は瑞姫が聞いてきた。
「何でもないよ」
今度はハモらなかった。なんかちょっと残念がっている自分がいるのはどうして?
「そう?ここ教えてほしいんだけどいい?」
「いいよ」
危ない。瑞姫の助け舟が無かったら、今頃もっと変な空気になっていただろう。瑞姫は何も気づいていないかもしれないけど。
気づくと心拍がかなり上がっている。
瑞姫のおかげで何とか空気は元のようになったけど、藍澤君とは相変わらず気まずい感じになった。
無事に巾着袋を作り終わって、互いに完成品を見せ合う。巾着袋にしては少し大きめのサイズにしているから、いろんなものが入るようになっている。きっちり畳めば体操服がギリギリ入るくらいのサイズ感。
「いいね。みんな形も綺麗で良い感じ」
「サイズもちょうどいいし、これは使い道多そう」
瑞姫は自分の巾着袋を手に取っていろんなものを試しに入れている。
生地もそれぞれ自分で選んだものを使っていて、どれが誰の物か一目で分かる。生地を用意したのは私と瑞姫。それぞれの誕生日の花の柄のものを買ってきた。
瑞姫は下から伸びて太陽を見つめるような少し控えめな向日葵の柄。
斗和は白地に椿の花と木が端に少し覗くような柄。
藍澤君は白いクロッカスが白地に薄く彩られた柄。
私は紫陽花が下の方に淡く咲いている柄。
「みんなそれぞれ違っていいね」
瑞姫が呟いた。
私は首を縦に振る。想像していたよりも綺麗にできてすごく満足している。
「大事にするよ」
斗和は大事そうに巾着袋を抱えた。
我ながら生地選びのセンスがあるんじゃないかな?すごく似合っている。
隣に目を向ける。
藍澤君は両手で巾着袋を持って、生地の柄をじっと見つめていた。
その目はとても優しく微笑んでいるようにも、とても悲しそうに懐かしんでいるようにも見えた。
触れてしまったらすぐに消えてしまいそうだった。まるで手のひらに乗った粉雪のように解けてしまいそうで怖かった。
私はその目に吸い込まれるような感覚を覚えた。
声を掛けたくても喉が詰まる。
怖い。
私が触れたことで壊れてしまいはしないか、解けて消えてしまわないか。
でも、何もせずともどこか遠くへ行ってしまいそうな気がした。
私はここでようやく気が付いた。
私は藍澤君のことをとても大事に思っていることを。
それは一言ではとても表せない程、大切な存在。
だから、どうかいなくならないで。
その後、藍澤君が帰らなければいけないと言ったから、みんな荷物をまとめて図書室を出た。
帰り道、うっすらと雨粒の小さい雨が降っていた。まだ陽が沈みきっていない方角の空は晴れていて、紅く染まっている。
沈む夕陽から強い風が吹いている。肌を突き刺すような寒さが私たちを襲う。本格的な冬を肌で感じる。
私は立ち止まって振り返る。
西風に飛ばされる小さな雨粒の行先は、すでに夜の帷が降りていた。
雨粒たちは夜の闇に吸い込まれていくようだった。
「あっ、悪い。忘れ物した」
藍澤君が立ち止まって言った。
瑞姫と斗和も遅れて立ち止まる。
「何忘れたの?」
「筆箱」
「明日取りに来たら良いと思うよ。誰も取らないと思うから」
あの図書室は私たちと常連さん以外ほとんど出入りが無い。無くなるなんてことはないと思う。相当な物好きでもいない限り。
「俺取りに帰ってくる」
「付き合うよ」
斗和が踵を返して言う。
「いいよ、先帰ってて」
「私たちは大丈夫だよ」
瑞姫ももう学校の方向へ足を向けている。
「いいよ。そもそも早く帰るって言い出したの俺だし。そこまで振り回すわけにはいかない」
藍澤君は私が止める隙も無く、学校へ戻って行った。
三人は彼が曲がり角を曲がって見えなくなっても、しばらくその場に止まった。
何か嫌な予感がしたのは私だけじゃないみたい。
学校の方の空は真っ暗だった。
私が藍澤君を見たのはそれが最後になった。
*
雨水凍らす寒の雨
のんびりとした冬休みが明けた。
初めてお母さんの祖父母の顔を見た。私が生まれた時に会ってはいたみたいだけど、覚えているはずがなかった。
帰省したわけではなく、二人が家に来てくれた。これはお父さんへの気遣いなんだろう。
二人ともすごく変わっていて、性格はお母さんとあまり似ていなかった。お母さんと違ってフラフラしている感じで、いかにも自由人という感じだった。
数日間一緒に過ごしてから二人は帰っていった。五人で喋っている時間はとても楽しかった。暗い話も最後は明るく終わって、外の寒さに負けるはずのない温かさが家の中を満たしていた。
ここまで充実した長期休みは初めてだった。
浮かれた気持ちのまま学校へ行った。でも、冬休みのことは瑞姫たちには黙っておこう。特に藍澤君には。
教室の扉を引く。
「あけましておめでとう」
瑞姫の声が寒い教室に響いた。先を越されてしまった。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「よろしくね」
一緒に笑い合う。
今年も来年も、これから先ずっとこうであってほしいな。
冬休みをどんなふうに過ごしたか互いに聞くことは無く、裁縫の話で盛り上がった。
「藍澤君来ないね」
いつもなら来ている時間なのに姿が一向に見えない。
「確かに、遅いね」
「寝坊かな?」
「まさか、あの煌照が?」
藍澤君は今まで一度も寝坊をしたことが無い。私を痴漢から助けてくれた時以外は遅刻をしたことも無い。
この朝に集まるのを始めてからも、一度も遅れたことは無かった。
「斗和と一緒に来てるのかもね」
私にはこれ以外思い浮かばなかった。彼が遅刻をするなんて全く想像ができなかったから。
「あーなるほど。あり得るかも」
私たちは喋って待つことにした。
教室の暖房がつくのはもう少し遅い時間になってからだから、教室は外より気持ち暖かい程度の気温だった。教室の中なのに白い息を吐きながら、喋って待った。
ゾロゾロと人が増え始め、斗和も来た。
はじめは人が来る前に喋るのを止めていたけど、冬休みの前あたりからは全く気にせず話し続けるようになった。瑞姫と私が仲がいいことがまあまあ知れ渡ってしまって、気にする必要が無くなったからだ。
藍澤君と斗和とは依然、教室では喋らない。
「煌照いないね」
藍澤君の姿が見えない。もう予鈴は鳴ったのに。
「来ないね」
「後で、斗和にも聞いてみるね」
私は頷いて、斗和の方を見た。
彼は来るなり机に突っ伏して寝ている。まだ寝れていないんだ。
私は空席になっている藍澤君の席を見つめる。
最後に彼と会った時の姿が頭の中に映し出される。
私はただ不安になる。不安になることしかできなかった。
始業式は寒い中体育館に集められ行われた。
その間もずっと藍澤君のことを考えていて校長先生の話は微塵も聞かなかった。
私は何か焦燥感のようなものに駆られた。でも、何もできない。
今は放課後になるのを待ちつつ、彼が来るのを願うしかない。
結局放課後になっても藍澤君は来なかった。どこかそんな予感はしていた。
私は早足で図書室に向かった。何があったのか斗和なら知っているかもしれない。
私は勢いよく図書室のドアを引く。中にはすでに二人とも居た。
何か話しているようだったけど、私が来た瞬間話すのをやめた。
「来た来た。始めよう」
「今日は何する?」
あからさまにぎこちない二人。何を話していたかは聞かないでおこう。
荷物を下ろし瑞姫の隣に座る。
「結局来なかったね、藍澤君」
二人はビクッとした気がした。ん?気のせいかな?
「ああ、煌照なら風邪で休むって今朝言っていたよ」
斗和が言った。今朝家に行ってきたのかな?斗和はスマホを持ってないから。
「そうなんだ。早く治ってほしいね」
「大丈夫だよ。煌照は強いから」
瑞姫が笑顔で言う。
何か怪しさは感じたけど、気のせいだと思っておこう。
それから一ヶ月が経った。藍澤君が学校に来ることは一度も無かった。
はじめはひどい風邪なのかとも思ったけど、流石にこれはおかしい。何度か瑞姫と斗和に聞いたけど、風邪が長引いてると言われて、私もそれ以上何も聞かなかった。
流石の私も何か知っているかもしれない瑞姫と斗和に問い詰めることにした。
というか、最近になって彼らの雰囲気も徐々に暗いものになっていたから、何か知っているに違いない。
図書室の扉を開けると、またしても二人は何か話していた。
その顔つきは楽しそうではなく、どちらかといえば深刻そうだった。
私は我慢の限界だった。
彼らが私に話をしてくれない理由は大体分かる。その意思を尊重したい。でも、もう動かないわけにはいかにのだ。
私は瑞姫の隣に座ることなく、荷物を置かず立ったまま会話を切り出す。
「藍澤君、来ないね」
ゆっくりと落ち着いた口調で言った。
私は落ち着いてなど居られなかったけど、落ち着きを払った。
冷静にならないと、事態を把握できなくなる。
誰からも反応が無かったから私は鞄を置き、瑞姫の隣にゆっくりと腰掛けた。
いつものような軽やかで和んだ空気は一つもなかった。むしろ重苦しい雰囲気が漂っていた。
「二人はどうしてか知ってる?」
返答はなかなか返ってこなかった。その時点で私にはある程度察しがついた。
私はもう一度質問をした。
「藍澤君に何かあったの?」
斗和はゆっくりと頷いた。瑞姫は動かなかった。おそらく二人の間で話はすでに済んでいるのだろう。それを私に言うべきか悩んでいるのだろう。
何が起きているかは全く分からないけど、重たい沈黙が事の重大さを物語っている。
「私に何かできることはある?」
二人はピクッと動いたけど、俯いて黙るだけで返答とは言えなかった。
ある意味返答ではあった。彼らの口からは何も言うことができないと。
少しの沈黙の後、
「千隼に会ってほしい人がいるんだ」
斗和は重苦しいトーンで言った。
「会ってほしい人?」
斗和と瑞姫は頷く。それ以上は自らの目で確かめろってことだね。
「どこに行けばいい?」
「明日。十時に秘密基地に来てほしい」
「分かった」
斗和の言ったことに私は即答した。
突然のことなのに、私は不思議と迷いが無かった。
今動かなければ取り返しがつかないんじゃないか、という恐怖が圧倒的に優っていた。
彼らはまた頷くと、鞄を持って図書室を出た。瑞姫は最後に何かを言いかけて辞めたように見えた。
静かな図書室に一人取り残される。
私はじっとしていられなくて、図書室の中を徘徊する。
何から考えればいいかすら分からない。藍澤君の身に何が起きているの?斗和と瑞姫はどこまで知っているの?
ふと、カウンターの前で足を止める。
ここで藍澤君と二人並んで勉強していた頃を思い出す。もう随分と昔のように感じる。
私は意味も無くカウンターを指でなぞる。
そういえば、あの時はよく私のことを見ていた気がする。二人きりだったからかな?
私はカウンターの後ろへ回って、いつもの私の席に座る。隣に座っている藍澤君がいない。
一年生の時はここにずっと一人だったから慣れているはずなのに、ものすごく寂しい。心にぽっかり穴ができたみたい。
いつの間にか藍澤君がいることが当たり前になっていた。
私は藍澤君の席に座ってみる。なんだかすごくドキドキした。
これは背徳感なのかな?でも、もっと温かい何かにも感じる。
あの頃の『藍澤さん』がしていたように私の席の方を見てみた。
「あっ」
私はカウンターの書類立ての中に一冊の小さいノートを見つけた。私は吸い込まれるようにそのノートを手に取って開いた。
六月三日。
昨日は三角関数の加法定理の応用問題を教えてもらった。
今日は何を教えてもらおうかな。
降谷さんはすごく教え方が優しくて分かりやすい。
家にいる時間が吹き飛んでいくくらい楽しい。
と、ノートに書かれていた。
「これは…」
明らかに藍澤君の日記。文字と内容が物語っている。
そういえば、藍澤君はいつも私よりかなり早くにここに着いていた。
これを書くために私より先に?でも、なんでだろう?こういうものは家で書くものなんじゃない?
そんなことよりすごく嬉しい。心臓がキュッとするような感覚。心が温かくなる。
心の底から何かが溢れてくる。私はその感覚をゆっくりと噛み締める。
ああ……私、彼のことが好きなんだ。
なんだかすごく納得した。
そうか、そういうことだったんだ。
私はそのノートを大切に抱きしめた後、元の場所に戻した。
私は少し余韻を噛み締めた後、図書室を閉めた。
いろいろなことを思い出しながら通学路を歩く。隣に彼がいないことが寂しい。
ああ、今すぐ会いたい。
家に帰ってもなかなか落ち着けなくて、お母さんに心配された。
一人でにやけていて、側から見れば相当変だったんだろう。私の表情はお父さんとお母さん以外にはあまり分からないほど、変化が無い。だから、すれ違った人にはバレてないことを祈る。
気持ちの良い朝。外は晴れていて、私も浮かれていてテンションが少し高い。これも家族以外には分からないけど。
朝食を食べて約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
電車は休日の朝だからスカスカだった。
いつもの駅で降りて秘密基地へ向かう。早足になっていることに気づく。
私、相当浮かれてるな。
冷たい空気を吸って少し冷静になる。でも、早足のままだった。
秘密基地に着くと、約束の一時間前だった。私はベンチに座る。
冬の朝の空気は冷たく澄んでいた。冬の心地いい日差しが私を温め、漣の音が私を癒す。潮風は冷たかったけど、関係なかった。
私がここでみんなに家族の愚痴を言いったことを思い出す。
誰も笑わずに真剣に聞いてくれて、自分のことのように悩んでくれた。本当にいい友達を持った、と胸を張って言える。
徐々に雲が翳り始め、太陽を隠す。冬らしい曇り方。
周りの気温は一気に下がったけど、私は温かいままだった。ここの思い出が私を温めてくれている気がした。
その後もいろいろなことを思い出していると、一瞬で約束の時間になった。
斗和と瑞姫がこっちへ来る足音がして、振り返る。
「おはよう」
私は誰よりも先に言った。
「おはよう。寒くなかった?」
「ううん、大丈夫」
私は首を横に振る。
瑞姫の方がよっぽど寒そうだった。ダウンを着て一回りくらい大きくなっていた。下にも相当着込んでいるみたいで、マフラーに顔が半分埋まっていた。
「おはよう」
対して斗和は本当に冬の服装か?ってほど薄着に見えた。上はパーカーで下はジャージだった。流石に中にハイネックは着ていたけど、隣にいる瑞姫との温度差がすごかった。
「行こうか」
「うん」
私は頷いて、彼らの隣に並んで歩いた。
古い家と新しい家が入り混じる住宅街の中を歩く。海が近いから潮の香りがほんのりと漂っていた。海から吹く風は凍てつくような温度で私たちの間をすり抜けていく。
先頭を歩いていた斗和が足を止めた。思っていたより近かった。
そこは比較的新しい一軒家。基礎が他より一段高くなっていて目立つ白く四角い家。少し大きめのベランダが付いていて窓も大きめだった。
ここが斗和の家なのかな?
しかし、彼は門の前に立つとインターホンを鳴らした。自分の家に入るのにインターホンは鳴らさないはずだから違うと分かった。
「はーい」
インターホンから若い女の人の声がした。
「香織さん、来たよ」
「今開けるから少し待ってて」
私たちは門の中へ入り、玄関前の階段を登った先で少し待った。
すると、すぐに玄関がガチャっと開いた。
「いらっしゃい、寒かったでしょ」
出てきたのは聞こえてきた声の通り、若い女の人だった。背は私より高くガタイが良かった。セミロングくらいの髪を後ろで一つに結んでいた。私はどこかで見たことがある気がした。
「この子は?」
「前に言ってた友達」
「初めまして。降谷千隼と申します」
「失礼、名乗るのを忘れていたね。私は越水香織。煌照の叔母だ」
「よろしくお願いします」
「そう畏まらないでくれ。私のことは香織さんとでも呼んでくれ」
ハキハキとしたしっかりした感じの人だ。いかにも気が強そうなのが窺える。
「君のことは煌照たちからから話は聞いているよ。ここで立ち話もなんだ。ささ、中に入って」
「お邪魔します」
人の家に上がるのは何気に初めてかもしれない。粗相がないようにしないと。
白で統一された家の中は整然としていた。ここに一人暮らししてるのかな?一人暮らしには少し広い気がした。
温かいリビングダイニングに入れてもらい、そこに荷物を下ろした。
「寒かったでしょ。温かい飲み物淹れるけど何がいい?コーヒー?紅茶?ハチミツ?なんでもいいよ」
キッチンで何やら物を漁っていた。
「俺はコーヒー」
「私はミルクティーで」
「千隼ちゃんは何にする?」
なんでもいいと言われると選びづらい。少し考えた後、
「私もミルクティーをお願いします」
「オッケー。ちょっと待ってね」
リビングのソファに三人で並んで腰掛けた。ソファはなぜか三人掛けのものと一人掛けのものが二つあった。
香織さんが準備をしている間、私には聞きたいことがあった。
「会ってほしい人って香織さんのこと?」
「そう。香織さんは俺たちの姉のような存在で、昔はよく遊んでくれた」
つまり、斗和のことも瑞姫のこともよく知っている存在ってことなんだろう。彼らの家庭のことも知っているのだろう。
「香織さんは刑事をしていて、よく私たちのことを守ってくれたんだ。私たちのヒーローみたいな存在かな?」
「そんなたいそうなことはしていないよ。私は何もできていないよ」
少し離れたキッチンからよく通る声で香織さんは言った。刑事ならしっかりしているのも納得できる。
「何言ってるの。私たちはすごく助かったんだよ?」
「現状何もできていないじゃないか。これじゃあ、刑事失格だね」
「香織さんは藍澤君の叔母だとおっしゃってましたけど、お若いですね」
まだ二十代のように感じる。二十代で刑事をするなんてかなりのエリートな気がする。
「そうだね。姉さん、煌照の母親より煌照の方が年が近いからな」
「そうなんですね」
あまり聞かないけど、こういうこともあるんだ。
「千隼はしっかりしてるな。敬語もしっかり使えていて。だが、私に敬語はいらんぞ。なんなら名前も呼び捨てでいいぞ」
「流石にそこまでは」
「少し踏み込みすぎたな。千隼と呼び捨てしても良かったか?」
「大丈夫、だよ」
香織さんはニカっと笑った。太陽のように元気な人だ。
四人の間に温かい空気が流れる。
「できたよ」
お盆の上に乗せて持ってきてくれた。飲み物がガラスのローテーブルに並べられる。
熱いミルクティーは冷えた体にじんわり沁みた。
香織さんは一人掛けのソファにゆっくり腰掛けた。
「外は寒かったか?」
「寒かったよ。もう凍るんじゃないかって思った」
瑞姫はミルクティーを口にして言う。口調の割に落ち着いている気がする。
香織さんもカフェオレを一口啜って息を吐く。
「で?こんな寒い中私に会いに来たってことは、何かあったのかい?」
斗和が一つ頷く。
香織さんは一つ息を吐いた。
「玄関で千隼の名前を聞いた時に大体察したよ」
私を見た香織さんと目が合う。キリッとした切れ長の目から放たれる視線は、鋭くも優しくもあった。整った顔立ちはどことなく藍澤君と似ている。女の人なのになんかカッコいい。
「俺より香織さんが話した方がいいと思ったから」
藍澤君のことについて、だよね?
斗和は言葉をぼかしがちだから確信を得られない。
香織さんは私から視線を外して、リビングの大きい窓から見えるテラスを見つめた。
「私から話せることは何も無い」
彼女は呟いた。
それはどういうこと?
「そうか」
斗和はその一言だけ言って黙った。瑞姫も目を伏せて黙っている。
斗和にも瑞姫にも香織さんにも問いただしたしたいのに、そんな雰囲気ではない。
この場にいる中で何も分かっていないのは私だけ?
急に疎外感が私を襲う。
私は知る必要が無いってこと?
「私は何もするなってこと?」
気づけば口から出ていた。
「そんなことは、ない。ただ……」
香織さんが尻すぼみに言った。
ほらね。
自分で聞いておいて悲しくなるとか、馬鹿だなあ私は。みんなを困らせてるし。
気まずい雰囲気の中、瑞姫が口を開いた。
「あのね、これは本当に私たちからは何も言えないの。煌照の身に何かが起きているのは確か。私たちにはその何かが分かる」
じゃあどうして教えてくれないの?なんで彼は一人で戦っているの?
なんとか言葉を飲み込んだ。
「でも、私に分かるのはそこまで。斗和と香織さんは煌照から話を直接聞いているからもっと知っていると思うけど」
斗和と香織さんを見る。まだ俯いて黙っている。
なんで……。
しかし、私の思考は瑞姫の次の言葉で打ち切られた。
「これは煌照の意志だから」
私は何も言えなくなる。
え?藍澤君の意志なの?
私は喪失感に呑まれた。
その後少しだけ香織さんの家で話をした後、すぐに帰った。
今、斗和と瑞姫にどう接したらいいか分からなかった。
自分の部屋に入ってベットに倒れ込む。
何か気がまぎれることを考えようと思ったけど、ぐちゃぐちゃになった感情が私の思考を凍らせる。
気づいてから失恋までがあまりに早すぎる。
外はいつしか雨が降っていた。
雨粒が天井を叩く音が部屋に響く。
私は涙が溢れそうになるのを堪えながら、この感情が雨に流れるのを待った。
それから瑞姫と斗和は図書室に来なくなって一週間くらいが経った。
放課後、一人で過ごすのはこんなにも心細かったっけ?平気だったはずなのに。
外の雨の音がやけに大きく聞こえる。
図書室の扉が開いた。
そこには常連の女の子の姿があった。少しだけ瑞姫たちが来るんじゃないかって、期待していた自分が打ち砕かれる。つい恨んでしまう。この子は何も悪くないのに。
彼女は本を返して、次の本を選びに図書室の奥へ消えていった。
カウンターに置かれた彼の日記を手に取る。
彼はどんな気持ちでこれを書いたんだろう。私は楽しかったよ。あなたは違ったの?
私はまだこの気持ちを整理できない。初恋がこんなにも呆気ないなんて、笑っちゃいたくなる。もう少しくらい、あなたのことを想っていてもいいよね?
でも、あなたが迷惑に思うなら……。
「あの、この本を借りたいんですが」
私は開いていないノートから顔を上げる。
「えっ?大丈夫ですか?」
目の前の女の子が驚いて言う。
私は泣いていることに気がついた。頬を伝った涙がカウンターの上に落ちる。
私は制服の袖で急いで涙を拭う。
「私は大丈夫ですよ」
少しだけ声が震える。一度溢れた涙は止まることなく溢れ出してくる。
「無理しないで下さい!何かあったんですか?」
ああ、情けないな。後輩の前で泣いて、心配されるなんて。本当に情けない。
目の前であたふたとしているのが歪んだ視界の端から見える。
そりゃそうだ。急に泣いている人が目の前に居たら、誰でもこうなる。
「あの、私でよかったら話聞きますよ?」
目の前の彼女は自信無さそうに言った。
私は何がしたいんだろう。彼女を困らせて。
私は返事ができず、しばらくの間涙を拭い続けた。目の前の彼女は戸惑いつつも私が泣き止むまで目の前にずっと居てくれた。
ようやく落ち着いた頃には制服の袖はかなり濡れていた。
手持ちの鏡で顔を確認する。泣いた割にはそこまで泣き腫らしてはいなかった。いつもと大して変わらない顔に安心したと同時に、少し失望した。私の表情はここまで変わらないんだ。
「ごめんなさい。こんなみっともない姿をお見せして」
「私は大丈夫ですけど」
彼女は小さい声で控えめに言った。
彼女の優しさが心に沁みる。気を抜くとまた涙が溢れてきそうだ。
「あのっ、私は誰にも言いませんので、安心してください」
彼女はオドオドしていた。信用されていないと思っているのかな?
「そんな心配はしていませんよ。私は大丈夫です」
彼女は何回も頷いた。
私は彼女の本の貸し出し手続きを済ませた。
彼女は本を受け取ると
「私はいつも応援しています。でも、無理はしないで欲しいです」
と尻すぼみに言って去って行った。
また一人になった。
私は大きく息を吐いて天井を見上げる。
やらかしてしまった。後悔が私を襲う。
でも、スッキリした。
私は何をすべきか、それがはっきりした。涙が雑念を洗ってくれた。
まだ失恋したとは決まっていない。だって、直接聞いたわけじゃないから。
往生際が悪くて結構。こんなあっさり諦めてどうする。迷惑上等。他人に迷惑を掛けずに生きていけないって言ったのは私だ。
さっき人前で泣いたことで恥じらいが消えて去っていた。
「よしっ!」
私は両手で頬を叩く。もう私は怖がらない。周りの無責んな目を気にするのは終わり。
私は決意を固めて家に帰った。
作った夕飯をテーブルの上に並べる。
「今日は気合い入ってるね」
お母さんが階段から降りながら言った。
いつの間に出てきたんだろう。呼びに行くはずだったのに。
「そうかな?」
「いつもより品数が多いもの。気づかないわけがないわ」
確かにちょっと多めに作った自覚はあったけど、改めて見るとかなり豪華な夕飯だ。
「ただいま。うん?今日は豪華だな。何かいいことでもあったか?」
帰ってきたお父さんはテーブルを見るなりそう言った。
今日はいいことは無かった。一つあるとすれば決意が固まったことかな。だから、
「ちょっと気分が良かったから」
と言った。
「そうなのね。冷めないうちに食べるわよ」
お母さんは席につき、お父さんは荷物を置いて手を洗いに行った。
私も席について手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
お母さんも手を合わせて言った。
自分で作っておいてどれから手をつけていいか悩んで、味噌汁を啜る。
お父さんも席について手を合わせる。
「いただきます。む、これは」
「うん、お父さんから教えてもらった蛸の和物。上手くできてるかな?」
「どれどれ」
お父さんは器を取り口に運ぶ。私はドキドキしながら見守る。
咀嚼し終わったお父さんは口を開いた。
「うん。美味しい。酢の効き具合が丁度いいな」
よかった。私は胸を撫で下ろした。
「今日は気分がいいっていてたけど、例の彼と何かあったの?」
お母さんがウキウキで聞いてきた。
「例の彼?」
「そう。いつも千隼の話に出てくる藍澤さん。あなた、いつも彼の話をする時すごく楽しそうだったから」
「え?」
私はお母さんの言葉に驚いた。私、藍澤さんのことを喋る時楽しそうだったの?ひょっとしてこの気持ちに気づいてなかったのは私だけだったの?
「ああ、千隼を痴漢から助けてくれたあの子か」
「あと、骨折した時も介護してくれたそうよ」
骨折した時のことは隠していたけど、お母さんと話しているうちにぽろっと溢してしまった。お父さんにはまだ言ってなかったっけ?
「そうだったのか。彼は優しいのだな」
「彼なら千隼をお嫁さんにあげても全然いいわ」
私はその言葉に口の中のものを吹き出しそうになった。
お母さんはニコニコだった。
「私も同感だな」
お父さんも満更でも無さそうな感じだった。
え?なに?二人とも私のこと揶揄ってるの?
「まあ、二人がそう言うなら」
私は歯切れの悪い返事をした。今自分がどんな顔をしているか分からず、味噌汁を啜って表情を隠した。
最近は感情が揺れ動きすぎてしんどい。
落ち着くまでは料理の味を感じられなかった。
食べ終えて、食器を片付け終わった私はお風呂に入った。
湯船に浸かって今日のことを思い出す。色々と吹っ切れたとはいえ、今日のことは恥ずかしい。それにお母さんのあの一言。
私は目元まで湯船に浸かってブクブクさせる。
むう……やっぱり恥ずかしい。
私は頭を真っ白にするために目を瞑って湯船に潜る。水のせいで音が遮断される。
「ぷはっ」
息の続く限り湯船に潜っていた。少しは雑念を祓えた。
私はそのまま湯船が少し冷めるまで浸かっていた。
ドライヤーを終えてリビングに戻る。私と入れ違いにお父さんがお風呂に入る。
「長風呂だったね」
「うん。ちょっとのぼせちゃった」
顔には出ていないけど、少しぼーっとしている。
「ヘアオイル塗るから座って」
私は言われるがままソファに座る。
お母さんは慣れた手つきでクリームを手に取り頭をマッサージしてくれる。気持ちがいいのとのぼせているのですごく眠たくなる。
「今日何かあったでしょ。私の目は誤魔化せないよ」
私はその一言で目が覚める。
ふふ、本当にお母さんは。なんで分かっちゃうかな?私は隠すのが得意なのに。
「何があったのかは聞かないけど、今のあなたを見ていれば分かるわ。もう覚悟は決めたのでしょ?」
どこまでも察しがいい。恐らく友達関係であることも見透かされているんだろう。
私は沈黙をもって答えとした。
お母さんはふふッと笑った。
「無茶してもいいけど、程々にね。あと、何か困ったら私たちを利用しなさい。私たちはどうなっても千隼の味方だから」
お母さんは優しい口調だった。
利用する……。頼って欲しいと表現しなかったのは私への気遣いなのだろう。私が控えめなのを知っているから。
「分かった。その時が来たら、利用させてもらうよ」
マッサージをする手が一瞬止まる。
すぐにまた手が動いた。さっきと手つきが変わった。
「ええ、その時を待っているわよ」
その後、いつもより入念にマッサージをされ、ヘアオイルも入念に塗ってもらった。
最後に肩も揉んでもらって躰が軽くなった。
私はお父さんがお風呂から出てくるのをリビングで待った。なぜか待ってしまった。
お父さんが出てきた。髪を下ろしていると少し若く見える。
私はお父さんと目が合った。お父さんは温かい玄米茶を二杯湯呑みに入れ、一杯を私に渡した。
「ありがとう」
私はもらったお茶を飲む。
お父さんが隣に座る。
「のぼせているみたいだったが、温かいお茶で大丈夫か?」
「大丈夫。のぼせてたの気づいていたの?」
「顔色には出ていなかったが、私には分かる」
やっぱり顔色には出ていないんだ。そのせいで色んな誤解を生んでいるかもしれない。
「私って、分かりづらい?」
お父さんはこっちを見た後、正面に向き直って湯呑みを傾けた。
ふう、と息を吐いた。
「正直、分かりづらいな」
お父さんは正直に答えてくれた。
やっぱりそうなんだ。
昔、表情筋が死んでいると言われたことを思い出す。もう誰に言われたかは覚えていないのに、この言葉だけは鮮明に覚えている。
「分かりづらいが、少し付き合えば分かる。千隼が優しくていい子であることが。それを見抜けない人間は千隼のことを見ていない」
私はお父さんを見る。少し怒っているように見えた。
「誰かに言われたのか?」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「言われたとしても気にするな。そいつは優秀な千隼のことを羨んで僻んでいるだけだ」
さりげなく褒められて嬉しくなる。お父さんはちょくちょく褒めてくれる。控えめだし、お父さんも表情が変わらないから分かりづらいけど、私のことを見てくれている実感が湧いてきて安心感がある。
この表情が変わりづらいのはお父さん譲りなのだろう。不便だと思ったこともあるけど、今は全くそうは思わない。
私は湯呑みをローテーブルに置き、胸に手を当てる。
「気にしてないよ。だって、大切な人だけに分かってもらえるって特別で、なんかロマンチックだと思わない?」
お父さんは一瞬だけ目を見開いた。それは本当に一瞬で、微々たる変化だったけど、私は見逃さなかった。
「……そうか。実は表情が変わらないことが千隼の足枷になっていないか、ずっと気になっていたんだ。これは間違いなく私譲りだろうから」
お父さんは少し目を伏せて言った。
私は静かに次の言葉を待った。
「ただ、今の一言ですごく安心したよ。なんだか私まで元気づけられた気がしてな」
「気のせいじゃないよ。私はお父さんを元気づける意味でも言ったんだから」
「ありがとう」
お父さんは優しく呟いた。
部屋に入り、明日の準備をして椅子に座る。意味も無くクルクルと回って明日のことを考える。
落ち着かないな。妙にソワソワして、じっとしていられない。
明日は瑞姫と斗和に話を聞く。そしてできれば藍澤くんの居場所も聞く。あとは藍澤君の元へ行くだけ。二人に聞いて分からなかったら香織さんに聞きに行こう。前行った時に家の場所は覚えている。
「よし!」
私は立ち上がって頬を両手で叩く。そのまま一つ息を吐いて目を閉じる。
外から聞こえる雨の音、風の音、下から聞こえるお父さんとお母さんの話し声、そして私の心臓の鼓動。
私はもう一度、覚悟を決める。そして決意を口にする。
「私は藍澤煌照を救う」
私の決意はしっかりと部屋に響いた。その余韻が残る中、私は明日に備えてベッドに入った。
興奮している割にはすぐに寝付くことができた。
眠りにつく前に心の中で呟く。
私は藍澤煌照のことが好き。
*
春驟雨流す春雨
私は激しい雨音に叩き起こされた。でも、目覚めは今までになく良かった。
部屋を勢いよく出た私は階段を早足で駆け下り一階へ行く。
キッチンにはお母さんが立っていた。
「おはよう。どうしたの?今日は元気がいいね」
「おはよう」
寝起きだから声はそこまで大きくはなかった。
私は洗面台へ行き口を濯ぐ。水はすでに温かかった。お母さんが先に使って温めてくれていたんだ。
私は温かい水で顔を洗う。丁寧に洗ったあと、顔を拭く。肌が引き締まって気持ちいい。すでに覚めていた目がさらに覚める。
流石にちょっと落ち着きたかったけど、目の醒めた私がそうはさせなかった。
「手伝うよ」
キッチンに行った私はお母さんの隣に立つ。
「今日は本当に機嫌がいいのね。じゃあ目玉焼きを焼いてくれる?」
私はお母さんが全部言いきる前に動いていた。
初めて秘密基地に行った時の会話を思い出す。私は半熟派だってその時のノリに合わせて言ったらみんな笑ってたっけ。今はただ懐かしい。
「おはよう」
お父さんが起きてきた。
「おはよう」
私はすぐに気づいて言う。
「おはよう」
お母さんはバターを切りながら言った。お父さんはそのまま洗面台へ向かった。
私は冷蔵庫から取り出した卵を火にかけたフライパンの上で三つ割る。互いにくっついてしまったけど、まあいいや。そのままにして蓋をする。半熟にしたいから気を遣う。
「今日は早いな」
顔を洗い終わったお父さんがそう言った。
「今日は実視は重要な商談でしょ?」
「ああ、今日の午前の会議で最終決定を下す予定だ」
「だから朝ごはんをちょっと豪華にしようかなって」
なるほど、だからお母さんは早起きをしたんだ。重要な商談があるのが明日とは知らなかった。昨日は豪華なご飯にしてちょうど良かった。
どうして知らせなかったか気にならなかった。お父さんは基本、家で会社の話よ仕事関係の話をしない。それは公私混同をしない人だから。
「なるほど。では私も手伝おう」
「じゃあサラダをお願い」
「分かった」
三人が一緒に作業をしても、まだ余裕のある広いシステムキッチン。これはお父さんの要望で作ったらしい。作った時からこうなることを想像していたのかな?
私は頃合いだと思ってフライパンの蓋を取りお皿に目玉焼きを移す。
我ながら見事な半熟の目玉焼きができた。三つくっついて入るけど。
「そういえば千隼にはまだ言っていなかったな」
お父さんはサラダを並べながら言った。
「昨日、千隼が部屋に入った後に友人から連絡が入ったんだ。大手食品会社との取引の機会を得られたとな。あとは会社内で最終決定するだけで、その会議が今日の午前に入っているんだ」
「そうなんだ、おめでとう。でも、かなり急だね」
「ああ、元から話は上がっていたんだが、社内の反発が少なからずあって踏み切れていなかったんだ」
「今日が勝負だね。応援してるよ」私は決して頑張れとは言わない。だってお父さんは頑張っているから。私はどこかで聞いた言葉を思い出す。
私は頑張っている人に頑張れとは言わない。それは頑張っていない人へ向けて放つ言葉だからだ。頑張っている人に頑張れと言う。それはその人の頑張りを否定することと同じだ。だから私は頑張っている人に頑張れとは言わない。
「ああ、ありがとう。どのような結果であれ、私は全力を尽くす。いい結果を持って帰ってくるから楽しみにしていてくれ」
お父さんは私の頭を撫でた。大きくて温かい手が私の頭を包む。私は強く頷いた。
「千隼も今日は気合が入っているな。何があるかは聞かないが、応援しているよ」
「うん」
恐らくお父さんは私が話したがらないと思ってそう言ったんだろう。
でも、お父さん。私はもう隠さないよ。
「友達を助けに行くんだ。今日」
お父さんは頭を撫でる手を下ろし、私のことを見る。
そして優しく笑う。
「そうか……。頑張れとは言わない。頑張っている人に頑張れと言うのはその人の頑張りを否定する言葉になる。今の千隼は頑張っているから、私は頑張れとは言わない」
さっき思い出していた言葉と重なる。あの言葉はもしかして。
「だから、この言葉を贈ろう。最後まで目的を見失うな。最後まで己の信念を貫け。そうすれば、自然と周りは千隼のことを助けてくれる」
お父さんは静かな、でも力強い声で言った。
「うん。ありがとう。なんかすごく心強くなった」
「それと困った時は私たちを頼りなさい」
「頼るじゃないよ。利用するのよ」
お母さんが焼いたトーストを持ってきながら言った。
「そうだな」
お父さんは一度目を伏せ、私のことを見る。
「私たちのことは存分に利用しなさい。私たちが千隼の味方であることは、たとえ世界がひっくり返っても同じだ」
私は笑みをこぼした。だってそんなこと分かってるもん。お父さんが敵になる未来はもう見ようと思っても見れない。
「安心して、その時が来たら利用するから」
「分かった。待ってるよ」
お父さんは優しい笑顔で言った。その笑顔は私たちにしか分からない。でも、それでいい。いや、それがいいんだ。
「ほら、もう朝ごはんはできてるわよ。覚めないうちに食べなきゃ」
もう食卓には朝ごはんが全て並べられていた。
「そうだな。腹が減っては戦はできんからな」
それは確かにそうだ。
私は席について手を合わせる。
「いただきます」
みんな揃って言う。私はカフェオレで口を潤してから、パンを口に運ぶ。これはいつものルーティーン。
「それにしてもさっきの実視の台詞、プロポーズの時と一緒だったよ」
「え?」
お母さんはコーヒーを口にしながらお父さんを横目に見る。
お父さんは珍しく照れていた。
「あの台詞、お気に入りなの?」
お母さんは揶揄うような口調で言う。
「そうだ。思い出の言葉だからな」
お父さんは照れ隠しのためにコーンポタージュを、顔を隠すようにして啜った。
暖かな空気が私たちを包む。
うん、私は大丈夫。こんな素敵なお父さんとお母さんが味方にいるから。
食べ終わった食器を洗って棚へ戻した後、学校へ行く支度をする。
制服に腕を通し、スカートのベルトを締める。スカーフを左右対称にし、前髪を整える。
持ち物を確認し、部屋を出て階段を降りる。リビングにはお父さんが居た。スーツをピシッ着こなし、ネクタイを綺麗に締め、髪の毛もしっかりセットされている。
「今日は一段と綺麗だな。昔の智慧の面影を感じるよ」
「ありがとう。お父さんも格好いいよ。今日は特に」
私は微笑んで返す。
「ありがとう。いってらっしゃい」
お父さんも微笑んで言った。その言葉には激励の意も含まれていた。
私は一度俯いてから全力の笑顔で
「いってきます!」
と言って玄関に向かった。
玄関ではお母さんがお花に水をやっていた。
「あら、もう行くの?早いね」
私は一つ頷いてから、お母さんだ並べてくれた靴を履こうとする。なんだか靴が綺麗になっていた。お母さんが磨いてくれたんだ。
「まだ時間に余裕はある?」
「うん」
お母さんは水やりをする手を止めた。
私も靴を履き終わった私は立ち上がってから振り返り、話を聞く。
「行く前に一つ教えたいことがあるの。それはあなたの名前についてよ」
「私の名前?」
「そう。あなたの名前は私と実視の二人で決めたの。それで、名前の意味について今話す他無いと思ってね」
お母さんはこっちを見て微笑んだ。
私は息を呑んで次の言葉を待った。
「実はね実視と駆け落ちをした時に、初めは海外に逃げようとしていたの。そのことをあなたが生まれて名前を決める時に思い出してね、折角なら海外に行ってもおしゃれな名前になるようにしようって二人で話していたの。海外だと日本とは逆で、ファーストネームが先に来るでしょ。だからそのことも考えながら決めようと思ったの」
「つまり…」
「あなたの名前をファーストネームから読むと」
「ちはやふるや」
「あっ」
私は声に出して初めて気が付いた。
「ちはやふる…」
お母さんは今までになく優しい笑顔をした後、目を閉じて祈るように口を開いた。
「この言葉はね、荒々しいという意味があるの。『千隼』の漢字をあえて『隼』にしたのは隼のように強く生きて欲しいと思ったから、少し男っぽき名前になるのは承知で付けたの。そして『千』には沢山と言う意味がある」
お母さんはゆっくりと目を開き、優しく私を見つめる。
「だから、あなたの名前に私たちは
『千里先を見据えて、沢山の喜びを感じて、沢山の苦痛を乗り越え、
隼の様に力強く、自由気ままに、自分らしく、
この荒々しい世界を、誰よりも疾く、誰よりも美しく、
静かな心と、千早振る羽根で、自由自在に飛び回って欲しい』
そんな意味を込めたの」
お母さんは一言一言、ゆっくりと力強く紡いだ。
私はこの名前が昔から気に入っていた。その名前にここまでの意味が込められているなんて、全く知らなかった。
私は泣きそうになった。すごく嬉しくて。
私はなんとか涙を堪える。泣いちゃ駄目。今から笑顔で行ってらっしゃいを言わないといけないの。
「だからね、千隼は大丈夫。なんたって私たちの自慢の娘なんだもん」
お母さんは私の手を握った。手の温かみが私に伝わる。
「私たちは一度すれ違ったけど、それが私たちを強くした。私はここで待ってるから、存分に暴れてきなさい。帰る場所はここにあるから」
そう言って、お母さんは私の手を離す。
私は大きく息を吐いて、肩の力を抜く。
そして、全力の笑顔で
「いってきます!」
目尻から一粒だけ涙が流れた。
お母さんも笑顔で
「いってらっしゃい」
と優しく言った。
私は振り返って玄関のドアを開ける。
外は酷い雨だった。日が出ているとは思えないほど暗かったけど、こんなもので私は止まらない。
ドアを閉め、紫陽花の傘を開いた私は一粒だけ流れた涙を払って足を踏み出した。
泣きながら笑おう
止まない雨が私たちを濡らすけど
この雨は私たちを洗うから
息苦しくても
傷口に滲みても
泥まみれになっても
私を忘れないで
自分を忘れないで
醜くてもいい
空っぽでもいい
グチャグチャでいい
私はここにいるから
どこに行ったとしても迎えに行くから
一緒に泣いて笑おう
溢れる感情に任せて
何も隠さずに
何もおかしくなんかない
空っぽじゃないんだよ
この雨は私たちの嘘
この雨は私たちの絆
この雨は私たちの証
この雨が私たちを殺すの
そして私たちを生かすの
とめどなく溢れて止まない雨は私たちを優しく包むから
*
この雨が止みませんように
目次
五月雨越えた走り梅雨
夕立渦巻く台風
慈雨過ぎた秋雨
氷雨匂わす片時雨
雨水凍らす寒の雨
春驟雨流す春雨
桜流しと彼岸時化
*
五月雨越えた走り梅雨
車窓に打ち付ける雨。満員電車内はいつもよりじめっている。肌寒く感じさせる今日の春終わりの雨は、梅雨とは違う不快感があった。
私は跳ねる髪の毛をなんとか治そうと、鏡を取り出す。
その時、後ろからの気配に悪寒を感じた。
さっき取り出した鏡越しに後ろを映すと、後ろに中年のサラリーマンが立っていた。目の前のドアの窓越しに私を見ている。それに満員電車とはいえ、この密着の仕方はおかしい。手が常に私に当たっている、手の甲ではなく、手のひらが。撫でるような当たり方、いや触り方。
これは痴漢。
武道の心得のある私は、すぐに制圧する準備をした。
けど次の瞬間、制圧する必要は無くなった。
「良いおっさんが何してんだ?」
低く怒りを含んだ声が、車内に響いた。声のした方に振り向くと、そこには私と同じ学校の制服を着た男子生徒が立っていた。彼はサラリーマンの腕を掴んでいた。
「何をするんだ。俺は何もしていないぞ!」
サラリーマンは挙動不審に答えた。俺は何もしていないぞって何かしている人が言うセリフな気がする。
「さっき、この子に痴漢してたろ?盗撮もしてただろ、その鞄で」
男子生徒は、先ほどと同じく低い声でサラリーマンを詰めた。盗撮もしていたのか、それには気づかなかった。不覚だった。
サラリーマンは何も言い返せなかった。
その時、ちょうど電車が駅に着いて、ドアが開いた。
案の定サラリーマンは一目散にホームへ飛び出し逃げた。
逃すまいと私もホームへ飛び出し、追いかけた。足の遅いサラリーマンに追いつくのは一瞬だった。前に回り込んで投げ飛ばそうと構えたけど、またもやその必要はなくかった。
「逃げんな!」
さっきの男子生徒がサラリーマンに後ろからダイナミックな飛び蹴りをかました。サラリーマンは盛大に顔面から転けた。
男子生徒はゴミを見つめるような目でサラリーマンを見て言った。
「本当に何してんだよコイツは。ダセェ」
そこからはとんとん拍子だった。駅員が駆けつけて警察も駆けつけ、サラリーマンはお縄についた。私と男子生徒はは少し事情聴取を受けた。男子生徒は跳び蹴りはやり過ぎだと警察からお叱りを受けていた。男子瀬戸が素直に謝ると、警察もやれやれという感じで彼を解放した。
全てが済んで学校に向かおうとした時には、すでに二限目に入っている時間だった。普段なら内心かなり慌てていたことだろう。遅刻したことが無いから分からないけど。しかし、今日は遅刻に正当な理由がある。とは言え、少し焦っている私もいる。
そんないろいろ矛盾している私に構うことなく、雨はまだ降っていた。傘は電車から飛び出した時に車内に置いてきてしまった。
あの傘、お気に入りだったのになぁ。空気だけでなく、心までじめったくなってしまう。
そんなことを考えていると、さっきの男子生徒が来た。
「大丈夫だったか?」
心配そうに聞いてきた。
「平気です」
冷たく答えてしまったと、答えた後で後悔する。しかし、
「よかったぁ。痴漢って結構トラウマになるって聞いたことがあるから」
とてもホッとしたように言った。
「でもさすがは至高の姫君、足めちゃくちゃ速いな」
至高の姫君、その呼び方にはあまり良い気はしない。
「私は姫君ではありません。降谷千隼(ふるやちはや)という名前があります」
一体誰がこんなあだ名をつけたのか。確かに私は大企業の社長を父親に持つけど、貴族という訳じゃない。それでも私は毅然に答えた。
「あ、ごめん降谷さん。この呼び方は良くないよな。ほんとごめん」
男子生徒はまるで雨に濡れた仔犬みたいにしょんぼりしてしまった。
「あなたが謝る必要は無いですよ。そのあだ名をつけたのはあなたでは無いんですから」
あまりにしょんぼりしてしまった彼を見て、私は咄嗟に宥めた。
「いや、でもお前を不快にさせてしまった訳だし」
「不快になどなってませんよ」
「でも顔に出てたから」
顔に出てた?自分で言うのもなんだけど、私はあまり表情が豊かでは無い。表情筋が死んでいると言われたこともある。
しばしの沈黙が私たちの間に流れ、雨が地面に打ちつける音が響いた。止む気配の無い雨はさっきより強くなった気もする。
「て言うか俺の自己紹介はまだだったよな」
いたたまれないのか、突然話題を変えた。
「俺は二年一組の藍澤煌照(あいざわひかる)。帰宅部のエースだ、よろしくな」
「改めて、私は二年一組の降谷千隼です」
つられて私も自己紹介をしたが、簡潔過ぎた気がした。
けど男子生徒もとい、藍澤さんは気にも留めなかったらしい。
「一応、同じクラスだけど覚えてた?」
「すいません、顔と名前が一致していなくて気づきませんでした」
「よくあるよね。俺もまだクラス全員の顔と名前一致できてないから。あと今日は雨に濡れて髪型めちゃくちゃだから尚更だ」
もう乾いているとはいえ、ペシャンコになっている。そして、単純に疑問に思ったことを彼に聞く。
「傘は持ってないのですか?」
「傘持ってないんだよなぁ。学校までどうしよう」
彼は途方に暮れたように言った。
「そうですね。私も持っていないのでコンビニで買いますか」
「あれ?持ってなかったっけ?花柄のやつ」
何で私が傘を持っていたことを知ってるのか気にはなったけど、スルーすることにした。
「先ほどの騒動で、電車の中に置いてきてしまったみたいです」
「駅員さんに言いに行こう!忘れ物センターに届けられるかもしれないから!」
「待って」
彼は私の言葉を聞く前に、一目散に近くの駅員さんの方にかけて行った。私も遅れて跡を追いかけた。
彼が駅員さんに事情を説明して、探してもらえることになった。
彼の行動力に驚きつつも、内心ホッとしていた。あの傘は私のお気に入りだから、失くしていたらかなり落ち込んだだろう。
「ありがとう」
自然と口から溢れた。
「笑った」
「ん?」
「今笑った!」
どうやら自然と笑みが溢れたらしい。
「私が笑わないと?」
「笑ったとこ見たことないもん!」
見たことないもんって、子供みたいな。でも、確かに学校ではあまり笑わないかもしれない。
「でも良かったぁ。怒らせたまんまなのかと思ったてたから、ほんとよかった」
彼は気が抜けたのか、地面にしゃがみ込んだ。
「まだそんなこと気にしていたのですか?」
「そんなことって」
「怒ってないですよ、ああいうことは日常茶飯事ですから」
彼はホッとした顔から一転、怪訝そうな顔になった。
「日常茶飯事?」
「ええ。家以外ではそうですよ」
「こんなに話しやすいのになんで?」
「私がお嬢様だからですかね」
「そんなの関係無くない?」
「周りの人にとっては、そうではないんでしょう」
「なんか釈然としないなぁ」
彼はしゃがんだまま、頭を掻いた。どうやら彼は人との壁があまりないらしい。少し羨ましく感じる。
「あっ!学校!」
彼は突然立ち上がって叫んだ。私は少しビクッとなった。
「どうしよう、三限までには間に合うか?」
ここから学校まではちょっと遠い。学校方面への電車はちょうどさっき出たばかり。二十分後の電車を待つしかない。二十分待つとなると三限目はギリギリになるかもしれない。ここでどれだけ考えたって仕方ないと思い、落ち着く為にもベンチに腰掛ける。藍澤さんは自然な流れで私の隣に腰掛けた。
またしても雨音だけが私達の間に響く。何故だかこの雨音を聞いていると、心が落ち着いた。
そんな私にとっては心地良い沈黙を破ったのは藍澤さんだった。
「雨って、なんか嫌だよな」
私に話しかけているかも分からないくらいに、独り言のような呟きだった。私はどう答えるのが正解かわからず、返答に困った。
そんな私には構わず、彼は続ける。
「ジメジメするし、今日みたいに嫌なことにも遭うし、心までジメジメする」
彼の言葉はまるで同意を求めているようだった。
「そうですか?私はそこまで嫌いでは無いですよ」
「今日みたいに嫌なことがあってもか?」
「今日のようなことは晴れていたとしても起きたでしょう。今日がたまたま雨だっただけでしょう」
「確かに、そうかもしれんな」
彼はどこか釈然としない感じだったが、私の言葉に同意した。
またしても沈黙が流れると思ったが、そんなことはなかった。
「よしっ、こんな話は終わり!」
彼は手を大きく叩いた。私は少しビクッとなって彼のことを見た。
「俺聞きたい事がいっぱいあるんだ」
そう言って彼は私のことを見た。
「聞きたい事、ですか?」
私は思わず聞いた。
「そう!いつも一人でいるから話しかけるの躊躇ってたんだ。周りの目もあったし。だから、二人きりになれたこのチャンスを逃す訳にはいかないと思ってさ」
さっきの空気はどこへ行ったのか、カラッとした大きな声で彼は言った。
「私に聞きたい事があるならいくらでもどうぞ」
「良かった、ありがとう。なら一つ目、何か武道やってる感じなのか?」
「柔道を少し」
「そうなんだ!そしたら二つ目。ズバリ、学年一位の成績の理由は勉強ですか?」
「まぁ、そうですね」
「やっぱりそうですよねぇ、俺も頑張らないと」
勢いといい、なんかインタビューじみたものを感じるけど、今までされた質問攻めに比べると何故だか不快感を感じなかった。
「それじゃぁ三つ目、趣味は?」
「裁縫ですかね」
「どんなの?」
まるで少年のように目を輝かせて聞いてきたから、見せないといけない感じがした。
私は持っていたハンカチを出した。
「こんな感じ?」
「何これ、紫陽花?」
「そうです」
「すっげえ、めちゃくちゃうまい」
「そうですか」
心の底から誉めているようだったけど、私は素直にそれを受け取れずそっけない返事をしてしまった。
彼はそれに気付かなかったのか、質問を続けた。
「四つ目、一人っ子?」
「ええ、一人っ子です」
「俺と一緒だ」
「そうなんですね」
「そうなんだよ、めっちゃ意外ってよく言われるんだよな」
確かに学校で見ている感じ、長男気質で世話焼きな感じがする。クラス委員だし、いつもクラスの先頭に立って何かしている。
そこから他愛のない話をして電車を待った。
いろんな質問をされたけど、やはりインタビューのような不快感は無かった。学生新聞のインタビューの時は、正直かなりしんどかった。
でも、なぜ不快感が無いのかは分かりそうで分からなかった。
藍澤さんと話していると、電車が来るまではあっという間だった。一人でスマホを見ている時はあんなに長いのに。ホームに着いた電車は座れるくらい空いている。
彼は空いている席を見渡して言う。
「空いていると逆に座るところ迷って座りづらくない?」
「そうですかね」
「ならない?」
「なりませんね」
「そうか」
私は彼の迷いに構わずドアに近い端っこの席に座った。
自然な流れで隣に座るかと思ったが、彼は私の前に立った。
「座らないのですか?」
「俺が隣に座ったらいろいろ言われそうでさ」
あぁ、他の生徒の目を気にしているのか。気にしなくていいのに。
「こんな時間に誰も登校しませんよ」
「いや、どこの誰が情報を漏らすか分からんからな」
「私を痴漢から助けた時点でもう手遅れだと思いますが?」
「あっ、もう手遅れか。じゃぁお隣失礼しても?」
「どうぞご自由に」
藍澤さんは一人分とまではいかないが、半人分くらい空けて隣に座った。さっきの開き直ったような言い方をしていたじゃないか、と心の中で突っ込む。遠慮をされるのは慣れているけど、苦手だ。どこか距離感を感じるし、私が悪いみたいになってしまう。ただ、声には出さなかった。
沈黙が車内を流れ、ガタンゴトンという電車の走る音が響く。
この車内にはパラパラと座っている人がいるだけで、私たちを含めても二十人くらいしかいない。少ないけど人がいるから静かなのか、私がいるから静かなのか。男子生徒のイメージはドア付近で立って大声で喋っていて邪魔なイメージしかないからか、静かなのが違和感で仕方ない。特に藍澤さんはさっきまでめちゃくちゃお喋りだったからなのかな?気まずさを感じているのは私だけだと思う。
何も喋らないまま、学校の最寄駅に着いた。雨はまだ降っている。
そんな沈黙を破ったのは私でも藍澤さんでもなく、着信音だった。
私の着信音と同じだったので、慌てて私はカバンからスマホを取り出した。しかし、私のスマホはぴくりとも動いていない。どうやらこの着信は私のものじゃなかった。慌てた自分が恥ずかしい。私のものではないとなると藍澤さんかな?と思い、彼の方を見る。
彼は私の比にならないくらい焦っていた。思わずぷっと吹き出しそうになるのを堪えた。
彼はカバンをひっくり返す勢いで探して、ようやく見つかった。
「もしもし?」
焦って出た声は裏返っていた。
「はい……はい……分かりました、お願いします」
彼は電話を切るなりこっちを向いて
「傘見つかったって!」
とホーム中に響くような声で言った、いや叫んだ。
「ちょっと!しっー!」
私は慌てて静かにするように言った。
「ごめごめん。つい嬉しくて」
てへっと彼は両手を合わせて謝った。
「そうですか」
呆れた。私の傘が見つかった程度で叫ぶなんて。そもそも私より喜んでない?悪い気はしないけど、周りに迷惑をかけないでほしい。
「今日傘失くした駅まで届けてくれるって。マジでよかったな」
「ええ、ありがとうございます」
「どういたしまして、もっと褒めてくれてもいいんだぞ?」
冗談だろうとは思ったけど、
「本当に助かりました、行動力があるのですね」
と、正直に答えた。
「いや、えっ、あっ、冗談なんだけど。えっ、あぁ、よかった」
彼は急に挙動不審になって顔を背けた。今朝の痴漢のサラリーマンを思い出し思わず笑った。
「ふふっ、何を焦っているのですか?」
少し間が空いて
「いや、その顔は反則だろ」
と彼は目を見開いて軽く呟いた。
「何がです?」
「自覚ないのか?自分がどう見られてるのか」
今度は少し声は大きかったが、今朝のような怒っているようなトーンでは無かった。どちらかといえば、ツッコミを入れるような感じ。
「確かに人よりは整った見た目だと思いますが、そこまでのものではありません」
「いやいや、そこまでのモンだって、自覚してないじゃないか!」
「自覚していますよ。今朝の痴漢のこともありますし、そういった目でなくても視線は常に感じていますから」
「いや、痴漢のことを言っているわけではなくてな?ほら、学校とかでさ?みんなにどう見られてるとかさ?いや、ごめん」
彼は急に申し訳なさそうになった。さっきもあった気がする。
「何謝ってるんですか?」
「今朝のこと思い出させてしまって」
まだ気にしていたのか。私は大丈夫だって言ったのに。
「気にしなくて大丈夫です。私はそこまで軟弱ではありませんから」
「そうか、ごめん。俺の気にしすぎだ」
そう言うとすぐに
「よしっ、切り替えるわ!」
と両手で頬を叩いた。
「学校に行くぞ!」
なんか空元気感が感じられるのは否めないが、さっきまでの元気な藍澤さんになった。
ひとまず私たちは改札を出て、出口に向かった。
しかし、私たちは出口で足止めを食らった。
「そういえば傘が無いんだった!」
私は今朝失くして、藍澤さんは持ってきていなかった。駅から学校まではそこまで遠くはないが、走ってもビチョ濡れになってしまくらいには遠い。どうにかしないと三限目に間に合わない。ただ、幸いなことに駅にはコンビニがあった。
「コンビニで買いますか」
「でも俺お金持ってないんだ」
「私が買いますよ」
「いやいや申し訳ないって」
「痴漢から助けていただいたお礼と傘を探してくれたお礼です」
断られると思い、圧をかけて言った。彼はそれに押し負けたのか、分かった、ありがとうと素直に了承した。
私はすぐにコンビニへ行きビニール傘を二本買ってきた。
一本彼に渡すと、ありがとうと言って受け取った。
二人で学校へ向かう。雨は徐々に強くなっている。雨粒がビニール傘を破るような勢いで打ちつける。今日は一日中止まなさそう。
「ひどい雨だな」
「そうですね」
彼も同じことを考えてたんだ。こんなにも人と喋ったことは高校入学以来あまり無い。特に同級生となると、幼稚園の時から特別視されていたせいで全く無い。
ちゃんと喋れているか、今更不安になる。
「この傘、本当にもらっていいのか?」
「もちろんです」
お礼と言って渡したのにまだ躊躇ってるの?そもそもお礼にしてはあまりにひどいから今度何か渡そう。
「ありがとな、ほんとに」
彼は消え入りそうな声で言った。それは雨音に掻き消されそうなほど小さく、微かに聞こえた。なぜか私は、どう返事をすればいいか迷って聞こえていないふりをした。
そのあとは二人とも黙って学校へ向かった。校門に着く直前に藍澤さんとは別れた。彼曰く、友達に騒がれたくはないらしい。私もそれに同意して、別々に職員室に行った後、教室に入ることにした。
ちょうど休憩時間になっていたからか、あまり騒がれることなく教室に入れた。影を消すのが得意で助かった。気軽に話せるような友達はいないから騒がれることはないけど、やはり大勢の中で一人だとはぶられている感があっていい気はしない。一人は好きだけれど、時と場合によるし、一長一短であることは間違いない。でももう、そんなことには慣れているから、自分の席に着いて本を読むことにした。
意外にもそのあと放課後まで何も無かった。噂はまわっているようだけど、いつものように遠巻きに視線を感じるだけで喋りかけられたりはしなかった。
一人を除いては。
「傘取りに行こうぜ、降谷さん」
藍澤さんは朝と変わらぬ大声で私を呼んだ。噂がまわりすぎて隠しても意味がなくなったらしい。かと言って開き直りすぎな気はするけど。
いつもとは違う視線を感じながら、私たちは学校を出た。学校から駅までの道のりを人波に歩いていく。スニーカーは今日洗わないと。
「こんなに視線を感じながら過ごすのは、すごいストレス」
私は慣れているから何とも思わないけど、藍澤さんは常に落ち着かないみたい。慣れているのがおかしいのかな?
「いつもこんななのか?」
「まぁ、そうですね。今日は特にですが」
「悪かったって」
「別に怒ってませんよ」
「それ怒ってる人のセリフやん!」
思わず笑ってしまう。つられて彼も笑う。人と話すのはこんなにも楽しいんだ。雨だと言うのに心は晴れやかで、心地いい。
人目があったからか、特に話すことなく駅まで歩いた。すると彼は駅の近くのバス停で立ち止まった。
「時間ずらすか」
「なぜです?」
「混んでるから。蒸し蒸ししてるだろ、雨で」
そう言って彼はバス停のベンチに腰掛けた。確かにいつもこの時間は下校する生徒が多すぎて満員になる上、今日はかなりの大雨。電車内はかなり空気が籠りそう。いつもこの時間には帰らないからよくわからないけど。
「まだ止みそうにありませんね」
「確かにな、憂鬱だ」
「そうですか?」
「憂鬱じゃないのか?」
「雨はそこまで嫌いではないですね、私は」
「そうなのか、俺は嫌いだ」
「早く止んでほしいですか?」
「あぁ、今すぐにでも止んでほしい」
そこから先には踏み込んではいけない気がした。私は話を切り替えることにした。
「もうすぐ体育祭ですね」
「やだなぁ、公園で遊んどきたい」
公園で遊ぶとは?いかにも少年っぽい。一体何をして遊ぶのか少し気になる。
「意外ですね。こういうイベントは好きかと思ってました」
「面倒くさくない?準備とかさ」
「私もあまり気乗りはしませんね。強制的にリレーに出ないといけなかったりしますし」
「それな!足速いだけで決めんで欲しいわ」
「まぁ、皆さん勝ちたいのでしょう」
「勝ったら嬉しいけどさぁ、俺たちの意思はどこなんだよ」
本当にその通りだ。強制的にやらされて勝っても、嬉しくないわけではないけどもやっとした感じが残る。
「体育祭の日こそ雨降って欲しいわ。でも友達に落ち込まれるのは嫌だなぁ」
「藍澤さんは友達が多いイメージがありますね」
「そんなこと無いとは言い切れないな。ただ大半はたまに喋る程度で、普段から話してるのは一人だけどな」
「そうなんですね」
「浅く広くって感じだな。あんま良くないな」
「それでも顔が広いことはすごいことですよ。そもそも私には友人がいませんから」
「いやいや自虐しなくても」
「事実ですから」
本当に事実だし。今までいたことあったっけ?自分で言っておきながらちょっと悲しくなる。
「それなら俺が友達候補に立候補する!」
「別に構いませんよ」
「思ってたより軽いな!」
逆にどんなのを想像していたの?
「藍澤さんなら信用できますから」
「さらっと嬉しいこと言ってくれるね」
「今日で実感したことですよ」
実際、痴漢から助けてくれたし、傘についても彼が見つけてくれたと言っても過言じゃない。
「なんか照れくさいな。俺は今日で降谷さんのイメージかなり変わったや」
「そうですか?」
「なんかもっと怖いかと思ってたけど、話しやすいし話してて楽しい」
「そう言っていただけて幸いです」
「喋り方は堅いけど」
「それは…」
私は返答に困った。敬語以外でどうやって接するのかが分からない。今までフランクにタメ口でしゃべったことは身内以外に無いから。
「まぁ、そこも含めて降谷さんだし。それはこれからもっと仲良くなってからだし。俺は気にしないからオッケー」
「そうですか」
そっけない返事をしてしまったけど、内心とても嬉しかった。今まで言われたことのない言葉に心が温まった気がした。
その後は他愛のない話で盛り上がってる内に電車が来て、今朝痴漢にあった駅まですぐに着いた。
傘も無事に回収できて、そのまま帰った。藍澤さんと喋っていると、時間は一瞬で過ぎた。私が最寄駅に着いたところで、彼とは別れた。彼は私より遠い駅らしい。私でも相当遠いのに、それ以上となるとかなりしんどいだろうに。私はそのまま家に直帰した。
駅から徒歩一分の住宅街。そこで一際大きい三階建の家が私の家。門から玄関までがやけに長い。庭は手入れが面倒にならないように芝生が敷かれているだけなのに、とにかく広い。
もう一つの建物にはお父さんの会社の社長室よ書斎が入っている。お父さんは基本そこに籠っている。
玄関のドアを開けて誰もいない部屋に向かって言う。
「ただいま」
返事は無い。
今日はお母さんも書斎に居るみたい。いつもの事なのに今日はやけに静かに感じる。
私はいつものように三人分のご飯を作って、その内二人分にラップを掛けてっダイニングの机に置いておく。いつも食べるご飯は何だか味がしないし、温かいのに冷たく感じる。どうせどうにもできないと分かっていても、寂しさを感じてしまう。
食べ終わった私は、食器を洗って部屋に入った。部屋に入ったところで勉強以外することがないんだけどね。裁縫をする気分でも無いし。
私は徐に取った数学の教科書で予習をすることにした。
予習をしていると、知らない間に三時間も経っていた。私はお風呂に入って寝ることにした。
ベットに入って今日のことを振り返る。
今日は色々あった。痴漢には遭うし、遅刻はするし、藍澤さんと話すし。ほとんど藍澤さんと喋ってた気がするな。騒がしい一日だった。
そんなことを考えている内に眠気に襲われた。私はその眠気に身を任せた。
窓から差す朝日に起こされる。大きい窓から見える空は、昨日の雨が嘘かのように雲一つも無い。いつもの如く誰もいないリビング。誰もいない訳ではないけど、ダイニングにも誰もいない。両親は二人とも朝に弱いから、今頃寝室でぐっすりだろう。
私は朝食を食べて、支度を済ませて静かに家を出た。
昨日とは違って、静かな登校時間だった。晴れているのに心は曇っている。遠くからの視線は思いの外しんどい事をみんなは知らないだろう。私のことを興味本位で見るのはやめてほしい。子供の頃からのことだから慣れてはいるけど、慣れているからと言ってしんどく無い訳じゃない。私はそれを受け入れるしか無いと自分に言い聞かせた。
いつものようにそれで放課後まで過ごした。
私は図書館に向かう。いつも放課後は当番にあたっていなくても図書室に行く。家より集中できる環境ではないけど、参考書を借りられたりするのは大きなメリットだ。それに勉強に集中できなくなった時は小説を読むこともできるし。一人になれるのは家と変わらないけど、それも嬉しい。
普通なら当番を一人ですることはないけど、私はいつも一人だ。どうやら私以外当番に入りたがる人はほとんどいない上、入っていたとしてもサボることが多いらしい。
図書委員担当の先生がそう言っていた。だから最近は私以外誰も当番に入らない。私は全く問題なかった、むしろありがたかったのだけど、先生はかなり申し訳なさそうにしていた。
それにしても、今日も暇だ。晴れの日は全くと言っていいほど本を借りに来る人がいない。
そもそも学校の隣に、というか校舎の隣に大きな図書館があるからわざわざここにくる必要は無い。蔵書の数が圧倒的に違うし、学校の法人が経営しているから、同じ法人のこの学校の生徒は貸し出し無料になっている。
同じ敷地内ではないけど、昼休みでも出入りできるようになっているから昼休みも行くことができる。
この図書室の存在意義は一体。まあ考えないでおこう。
窓の外を見る。
日が落ちるのか遅くなってきているから、この時間でもまだ外は明るい。早く暗くなる冬の方が私は好きかもしれない。
そんなことを考えながらしばらく勉強していると、扉の開く音がした。静かな空間で音がすると、つい音がした方向を見てしまう。別に見る必要はないのに。これは動物の本能なのだろうか?逆らえないのか?くだらない考えを巡らせながらも本能には逆らえず、扉の方を確認する。
「あれ?降谷さんだ」
扉を開いた主は藍澤さんだった。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
私につられたのか、彼も挨拶をした。
彼の片手には本があった。おそらくここで借りたもので、今日は返しにきたのだと思う。何の本だろう?少し気になる。藍澤さん自体あまり本を読むイメージが無いから、余計に何を読んでいるのか気になる。
「降谷さんは何してんだ?」
「図書委員の当番をしながら勉強です」
「当番って、相方はいないのか?」
「いませんね。私は一人です」
相方がサボっていることは伏せた。
「本当は相方サボってるだろ?」
彼は鋭かった。初めから思っていたけど、彼は周りをよく見ている。
「そうですね」
「怒らないのか?」
彼は初めて会った時ほどではないが、怒っていた。
「先生方が怒ってくれますよ」
「アイツらは教師を舐めてるから意味が無い。それに教師なんて当てにならないしな」
どこか実感のこもった言葉だった。私は追求しないことにした。
「別に怒る必要がないのですよ。私としては一人の方が好都合ですから。騒がしいのは苦手ですし」
「そうか、それなら、まぁ」
釈然としない感じだったけど、怒りは収めてくれたみたいだった。
少し間が空いて、藍澤くんが口を開いた。
「寂しくはないのか?」
「ええ。この方が落ち着きます」
「そうか」
また少し間が空いた。まださっきの怒りが抜けきれていないのかな?藍澤さんは人のために怒れる人なんだ、すごいな。
彼は先ほどより明るい口調で言った。
「勉強を教えてもらおうかと一瞬思ったんだけど、邪魔しちゃ悪いし帰るよ」
「勉強を、ですか?」
あまりに突拍子もないことに、私は驚いた。勉強を教えたことは今までにないわけじゃないけど、マンツーマンは初めてだと思う。
「降谷さん、成績学年トップだろ?だから分からないところとか教えてもらおうかと思ったんだけど」
「別に構いませんよ。昨日のことで、私としてもお礼はしたかったですし」
「いいのか!」
彼は今までになく元気になった。よほど勉強がしたかったのか、分からないことにむしゃくしゃしていたのかどちらかだろう。
「分からないのはどの教科ですか?」
「数学の応用問題と歴史かな?」
「数学から行きましょうか」
「オッケー頼んだ!」
そこからはちょっとした授業になった。図書室のカウンターは勉強を教えるのには少し狭かったけど、藍澤さんはとても飲み込みが早くて教えるのはそこまで難しくなかった。
私たちは少し休憩することにした。
「飲み込みが早いですね」
「これでも学年三位だからね」
「そうだったんですね」
「降谷さんはちょっと凄すぎるよ。満点とか小学校以来とったことないよ」
私は返事に困った。どう答えても、当たり障りなく答えられない。
私が考えているのを見て、彼はゆっくりと口を開いた。
「降谷さんとって当たり前かもしれないけど、ここまで勉強ができるようになるまでの努力は並大抵のものじゃないと思う。他の人はこれを才能の一言で括るけどさ、そこに見え隠れした努力って凄まじいものだと思うんだ」
彼はとても優しい口調で、語りかけるように言った。私は驚きながらも、静かにそれを聴いた。
彼は言葉を続ける。
「つまり、才能があっても努力ができないと、ここまでできないってこと。だから、降谷さんはもっと自分のことを褒めていいんじゃない?少なくとも俺は、降谷さんは才能も凄いけど、その才能に胡座を掻かないで努力するところは最高にかっこいいと思う」
藍澤さんはこちらを向いて、ひどく優しく微笑んだ。夕日と相まって、どこかもの寂しさを感じた。
私は一言一句聞き逃さず、彼の言葉を頭の中で反芻した。
「まぁ、全部母さんの受け売りなんだけどね」
彼はおどけて笑った。
ただ、今の私にその言葉はほとんど聞こえていなかった。
私はよく分からないけど、少しスッキリした。それと同時に彼のことがまた少し、気になった。
その後、私たちは下校時間まで勉強をした。そして、そのままの流れで一緒に帰った。
帰りも勉強の話で盛り上がった。
私が最寄駅に着く少し前、
「また明日もお願いしていいか?」
と聴いてきた。私はもちろん、
「いいですよ」
と返した。彼は嬉しそうに、
「また明日!」
と元気よく言って、手を振った。
「また明日」
私も手を振った。
彼は満足そうにした。
私は少し浮かれたまま駅から家までの道についた。
無事に体育祭が終わって、梅雨入りしてからの図書室は普段より賑やか。昼休みだからというのもあるけど、流石に五月蝿い。いつもの静かな図書室に戻ってほしい。放課後だとかなり静かになるんだけどなぁ。今日も藍澤さんにも勉強を教えないといけないし。
藍澤さんと出会ってから二週間。彼とは放課後に図書室で一緒に勉強をする仲になった。教えることがなかったり勉強する気分じゃない時は、二人して本を読んだり喋ったりしている。最近まで体育祭の愚痴でよく盛り上がった。
放課後だけとはいえ、気軽に話のできる友達ができたことは、とても嬉しい。今までそんな友達はいなかったから、藍澤さんにはすごく感謝している。
まだ昼休みなのに、放課後が待ち遠しい。何かを楽しみに待つのはいつぶりだろう。
五限目と六限目はやけに長く感じた。
私はホームルームが終わってすぐに、図書室に向かった。
今日は何を教えようかな?人に教えることで、私もより深く理解できることを知った。何より一人でするより楽しい。
今までは、みんなが集まってワイワイ勉強をすることが理解できなかったけど、今はその理由が分かる。
私が図書室に着くと、藍澤くんはすでにカウンターに座っていた。毎回私より早くに着いている。誰よりも早くに教室を出ているのだろう。
「お待たせしました」
「お待たせって、そんなに待ってないよ」
彼は軽く笑った。彼は表情豊かで、感情に正直なのだと私は思う。
「今日は何を教えてもらおうかな?」
「何でもいいですよ」
「もう分からないところはないからなぁ。予習でもしようかな?」
「いいですね。どの教科からしますか?」
藍澤さんの分からないところはそこまで多くなかったから、学校で今までやった範囲はどの教科もすぐに終わってしまった。私はもう三年生の予習に入っているし、名案かもしれない。
「数学かな?つまづくと面倒臭いから」
「分かりました」
そこからしばらくは藍澤さんに数学を教えた。
「休憩しましょうか」
「あぁ〜疲れた」
彼は大きく伸びをした。改めて見ると、藍澤さんは身長が大きい。私は女子の中ではかなり大きい方だけど、男の子には敵わない。
「何ジロジロ見てるの?恥ずかしいんだけど」
少しギクッとした。どうやら私の視線が刺さったみたい。彼は少し恥ずかしそうにしている。
「いえ、身長が大きいなと思って」
「男子の中でもそこそこ大きいからな。でも、降谷さんも結構身長高いでしょ?」
「170センチ近くありますね」
どちらもかなりの高身長の親譲だろう。女の子っぽくないとよく言われた。
「モデルみたいでいいな。スタイルもいいし」
「日々鍛えてますから」
「じゃないとそこまで綺麗にならないよな。凄い努力だ」
彼は何でも正直に褒めてくるから、調子が狂う。
私が返答に困っていたその時、図書室の扉が開いた。
いつもの常連さんの一年生の女の子だった。渡りに船だ、助かった。控えめなその子はいつもペコリとお辞儀をして、図書室の一番奥へ引っ込んでいく。
私たちは会話を再開する。
「いつも来てるな、あの子」
「常連さんなんですよ」
「俺には負けるか?」
彼は勝ち誇ったかのように、鼻を膨らませた。
毎日、放課後に下校時間までいるのは図書委員である私を除いて、藍澤さんしかいない。本は読んでいないにしても、一番図書室に入り浸っている。
本当は私は早くに帰ってもいいのだけれど、図書室にいるのは楽しいし先生にも好きにしていいと言われているから最後まで居る。特待生だと先生から信頼されていて、多少の自由がきく。もちろん、成績に関しては厳しく見られるけど。
休憩を終わらせて、私たちは下校時間になるまで勉強をした。下校時間五分前の予鈴がなったから、私たちは職員室に鍵を返しに行って帰ることにした。
「う〜ん。今日は結構進んだかな?」
「そうですね。この調子だと夏休み前には半分も残っていないかもしれませんね」
「基本だけならいけそう」
学年三位の頭脳は伊達じゃなく、飲み込みも早いし応用もすぐに効かせられる。
「他の教科も同時だと少し厳しいかもしれませんね」
「何とかなるよ!降谷さん教えるの上手いから!」
そんなことを話していると職員室に着いた。
私はノックをして、失礼しますと言って入って鍵だけ返して出た。
「よし!帰るか!」
疲れなんてどこ吹く風といった感じで、彼は言った。
一年で一番日が長い時期とはいえ、七時半だと少し暗くなり始めている。雨は上がっていて、雨上がり独特の匂いがする。
私たちはいつものように今日の勉強の話だったりで盛り上がっていると、すぐに家の最寄り駅まで着いた。
別れ際に手を振り合うのが日課のようになっている。毎回少し寂しくなる。何故か彼がどこか遠くまで行ってしまいそうな気がして止まなかった。
「ただいま」
今日も誰からも返事がなかった。
私はいつものように、晩御飯の準備をして食べたからお風呂に入って、部屋に入った。
最近は学校で勉強をしている時間が増えたから、家では裁縫をする時間ができた。私はいつもの分だけの予習を済ませて、刺繍針を手に取る。
刺繍に没頭していると、知らない間に十一時になっていた。私はもう寝ることにした。
今日の図書室での事を振り返りながら眠りにつくと、いい夢を見られそうだ。
朝から満員電車に揉まれて学校へ行く。学校自体は嫌いじゃなくても、この登下校が嫌いという人が多そう。
車窓から見える空には、低く重たい鉛色の雲がいつ雨を降らそうかと構えている。傘を忘れた人からしたら気が気で仕方ないんだろうな。
幸い学校に着くまでは雨は降らなかった。
二限目の終わり頃、雨が降り出した。梅雨らしいのかは分からないけど、当分は止みそうにない雨がサーサーと降っている。窓際の席だから雨の音がよく聞こえる。それが程よく心地い。
グラウンドは一瞬で水溜りまみれになった。今日の体育は体育館になりそう。バレーボールでもすることになるかな?
私の特に内容のない思考回路をチャイムが打ち切った。
体育の時間は案の定、バレーボールになった。わいわいした感じの女子の試合に私はいない方がいい。私は端っこで休むことにした。
不意に見た男子側のコートでは、結構本気の試合になっていた。点が入る度に野太い雄叫びが聞こえる。あれじゃまるでゴリラだ。
藍澤さんはコート内でしっかりボールを受け止めたりしていた。叫んではいなかったけど。
放課後以外では全く関わりはないから、彼の運動をしている姿は新鮮だった。
飛び込んでレシーブする姿を見て、痴漢に飛び蹴りをしていた彼が脳裏をよぎった。思い出し笑いをしそうになるのを我慢する。あれができるなら運動神経が悪いわけがない。
あの時の戸惑いと爽快感を思い出す。
「降谷さーん」
私を呼ぶ声がした。私もバレーをしないといけないみたい。私を呼んだ学級委員の子以外は一歩下がっている。私の周りには何か結界でもあるのかな?
隣からお腹の鳴る音が聞こえた。お腹を鳴らしたのは学級委員の子だった。彼女はお腹に手を当てて赤面している。幸い男子の雄叫びにかき消されて、私以外には聞こえていなかったみたい。周りの子が私のせいで一歩下がっていたのも功を奏したのかもしれない。四限目の体育だからお腹が減るのは仕方ない。正直私もお腹が減った。
その子は恐る恐る私のことを見てきたけど、私は聞こえていないふりをした。彼女はほっとした表情で試合を始めるようにみんなに促した。少し焦ってはいたけど。
そのあとは、特にいつも通りの体育の時間だった。ただ私が無双するだけの。
一組は特進クラスで勉強はできるけど運動のできない子が多くて、私以外はさっきの学級委員の子以外、目立って運動できる子はいない。
男子は意外とできる子が多かったりする。だから体育の時間は雄叫びがよく聞こえてくる。
昼休み、私はいつものように早く昼食を済ませて図書室に行った。私はカウンターについて、本の貸し借りの対応をする。昼休みは本来、休憩時間なのに私はいつも休憩した感じがしない。それは図書委員の当番がなくても。昼休みに教室で一人でいるのは気が休まらない。それなら当番がある方が、どちらかといえば楽な気がする。私には放課後があるからいいけど。
私の予想とは裏腹に、放課後には雨は止んでしまった。快晴とまではいかないけど、朝とは打って変わったスッキリした空模様になっている。
私はホームルームの後、少し先生からの頼み事を処理してから図書室に向かった。図書室に着くのがいつもより少し遅くなってしまった。
扉を開けると、藍澤さんはもう居た。ただ、カウンターではなく六人掛けの普段生徒が使う方の机に座っていた。それに彼の隣にはもう一人いた。彼の友達かな?眠そうに机に突っ伏していた。
「おはよう」
彼は少し申し訳なさそうな感じだった。
「おはようございます。お隣の方は?」
私は率直に聞いた。
「ごめん。最近ここで勉強してることがこいつにバレてさ、こいつが俺も教えて欲しいって言ってきて断れなくて」
「そういうことですか。私は別に大丈夫ですよ」
「そうか、それならよかった」
少し歯切れが悪く感じた。私に迷惑をかけたとまた思っているみたい。
「おい、起きろよ。勉強するぞ」
藍澤さんは寝ている彼を強めにゆすって起こした。ゆっくりと顔を上げたその子は、眠そうに長い前髪に隠れた目を掻いてあくびをした。
「自己紹介しろよ、もう来てんだから」
「あぁ、俺は蒼井斗和(あおいとわ)。よろしく」
「私は降谷千隼です」
彼はまだ寝ぼけ眼といった感じだ。
「こいつは俺の友達。特進クラスだし頭は悪くないんだが、すぐに寝ちまうからところどころ授業の内容が抜けてるんだよ。それで俺がここで勉強してるのを知って、たまにでいいから俺に教えて欲しいと頼んできたんだ」
藍澤さんが代わりに説明してくれた。蒼井さんのお母さんみたいに見えた。
「なるほど、分かりました。それでしたら、今日は復習にしましょうか」
「ごめん、今日はそれで頼む」
彼は頭を下げて言った。大袈裟なんだから。私はもうそこには突っ込まないことにした。
「たまには復習もしないと、忘れてしまいますから」
「ありがと」
蒼井さんは小さめの声で言った。
「それでは始めましょうか」
蒼井さんのことを藍澤さんと私の二人で教えるというのは、意外にもうまくいった。蒼井さん自体、基礎は分かっているから教え易かった。
目元が前髪で隠れていると、何にを考えているか分かりずらかった。勉強を教える分には問題は無かった。藍澤さんは全部分かっているようだけど、私にはさっぱりだ。二人は小学校以来の付き合いということもあって、言葉なくとも伝わるものがあるのだろう。
下校時間の予鈴が鳴る。私たちは急いで勉強道具を片付けて図書室を閉めた。
鍵を返して、帰路に着く。蒼井さんがいるからと言って、いつもと変わらない下校となった。復習をしていると忘れてしまっていることは多くある。人の記憶とはこれほどにも当ていならないものだと痛感する。
蒼井さんはあまり会話には入ってこなかったけど、楽しそうに私たちの話に相槌を打ってくれた。彼自身あまりおしゃべりなタイプでは無いみたい。私だってそこまでおしゃべりでは無いけど、藍澤さんといるとつい喋ってしまう。ひょっとすると私が居なくて藍澤さんと二人きりだと、よく喋るのかもしれない。
話している内に私の最寄駅に着いた。蒼井さんは藍澤さんと一緒の駅で降りるからここでお別れだ。私が手を振って見送ると、藍澤さんは軽く手を振り返してくれた。蒼井さんは軽くお辞儀をしてくれた。
「ただいま」
誰も居ないと分かっていても、これを言うことは辞めない。言うのを辞めてしまうと、本当に誰もいなくなってしまう気がする。
最近は人と喋ることが増えたこともあってか、やけに寂しく感じる。一人で食べるご飯って、こんなにも冷めていたっけ?
そこから数日の間、蒼井さんも一緒に勉強をした。今やっている範囲までができた時点で、彼は来なくなった。でも、また世話になるからその時はよろしくと言っていたと藍澤さんは言っていた。かなりマイペースな人だな。藍澤さん曰く、蒼井さんは勉強がかなり嫌いらしい。
私としては楽しい日々が続いていた。
いつもと同じ目覚め、とは嘘でも言えなかった。体が重くてだるい。軽く頭痛もする。学校に行けないほどのものでは無い。いつもより余裕を持って準備をして、風邪薬を飲んだ。ここは対症療法しか無い。
私は特待生だから、あまり欠席はしたくない。それに今日は金曜日。今日行けば、明日と明後日はゆっくり休める。
言うことの聞かない体を奮い立たせて、学校へ向かった。
電車に乗って学校の最寄り駅まで行くことは何とかできた。あとは学校に行くだけ。
梅雨だというのに今日は晴れていた。鋭い日差しが肌を指す。六月の日差しはそこまで強くは無いけど、火照った体には堪えるものがある。火照っているとはいえ、寒気がする。ちょっとの坂道でさえ今の私には壁のようなものだ。
何とか教室に着いた頃には息があがっていた。体力には自信があるのに。顔色には出ていないはずだから、大丈夫。明日からは休みだから、と自分に言い聞かせる。幸い今日は体育もない。何とか放課後を持ち堪えて、私の体。
なんて意気込んだのに、放課後まで余裕で持ち堪えられた。普段から鍛えていた体力は伊達じゃ無かったみたい。朝に比べたらだいぶしんどいけど。
あとは勉強をして帰るだけ、あと一息。
図書室がいつもより遠く感じた。扉を開けると、藍澤さんはすでにいた。
私を見た瞬間、彼は顔色を変えた。
「大丈夫か?熱でもあるんじゃないか?」
「大丈夫です」
大丈夫なわけないんだけど。
「大丈夫なわけないだろ!顔色悪いぞ!今日は帰ろう!」
正直もうかなりしんどかった。意識が朦朧としてきて、藍澤さんの言葉に返事ができなかった。
「おい!もう今日は帰ろう!家まで送るから!」
「すいませんご迷惑をおかけして」
「困った時はお互い様だろ!」
彼は私の荷物を持って、一緒に駅に向かった。荷物を持ってもらってもなお、私はフラフラだった。千鳥足とまではいかないけど、足取りはおぼつかなかった。距離感が完全に狂っていた。視界が揺れて歪んで、さらに気分が悪くなる。想像以上に体調は悪いようだ。
なんとか駅に着いた。そこからはあまり記憶が無い。彼は家の前まで送ってくれた。門の中には入らなかった。心配だがここまでしか行けない、と言っていた。
何とか部屋までたどり着いて着替えて、薬を飲んで寝た。本当に無理はするものじゃない。
寝るとあっさりと治った。完全回復では無いけど、元気にはなった。昨日家まで送ってくれた藍澤さんには感謝しかない。
朝食を作りにキッチンに行く。休日でも家には誰もいない。仕事があまりに忙しいのだろう。
休日だけどやる事はいっぱいある。一週間分の買い出しだったり、掃除をしたりしないといけない。多少の疲れは気にしないことにした。今まではお母さんがやっていたけど、中学校の時からは任せられるようになった。習い事が無くなって、忙しくなくなったからだと思う。やり甲斐はあるし楽しいけれど、自分の時間が取られるのは高校生としては厳しい。
一通り終わった時には昼過ぎになっていた。軽く昼食を済ませて、刺繍をすることにした。
この間まで作っていたハンカチは痴漢から助けてもらったお礼に藍澤さんに渡そうかと思ってたけど、タイミングを失ってしまった。そのハンカチを作り終わってしまって物足りなくなった私は、新しくブランケットくらいのサイズのものを作っている。最近は作るもののサイズがどんどん大きくなっている。いつかは巻物みたいなものを作ってそう。
集中して作っているとかなりの時間が経っていた。外は明るいけど、サーサーと小雨が降っている。心地良い雨音が作業の手をさらに早める。昨日のしんどさはまだ残っているけど、じっとしていればどうって事はない。
私は夕食の準備をしないといけない時間まで、ずっと刺繍をしていた。
夕食の準備をしていると、ヘトヘトのお母さんが帰ってきた。
「ただいま」
そのままリビングへ行きソファに座った。
「おかえり」
「今日の晩御飯何?」
「ハンバーグだよ」
「いいわね」
これじゃ、どっちが子供か分からない。疲れていない時のお母さんはすごく大人っぽいのに、疲れるとすぐこうなる。
「久々のお肉だから、ワインでも飲もうかしら」
子供はこんなこと言わないか。ワインセラーからどれを飲もうか選んでいる。
「実視くんはもう少し仕事してから来るって。だから作り置きでいいって」
「分かった」
お父さんは無口だから、喋りながらご飯を食べづらい。毎回美味しいと言ってくれるし日常会話もするけど、どこか事務的になってしまうのが苦手。もちろん努力家で自慢のお父さんだけど。
「熱々で美味しい千隼のハンバーグをお預けするとはバカな男だなぁ、実視(さねみ)は」
ワインを飲みながらお父さんのことを揶揄っている。
いつの間にかダイニングの席について、ワインを飲んでいた。
私は焼き上がったハンバーグと炊き立てのご飯、味噌汁や副菜とかを並べた。
今日のハンバーグは今まで一番の出来だと思う。程よい焼き加減で少しの焦げ目もついていて中まで火は通っているけど、断面は少しレアで透明な肉汁が溢れてくる。
「今日のハンバーグ気合い入ってるね。ひょっとしてつなぎなし?」
「そうだよ。お肉だけのに挑戦してみたんだ」
お母さんは料理はできないけど、目利きはできる。一眼見ただけで判断できてしまう。
「本当に損してるよ、実視くんは」
そう言ってお母さんはワイングラスを傾ける。その所作はとても美しく隙が無い。
「食べていい?」
「いいよ」
「いただきます」
丁寧に手を合わせて言う。
私はお母さんが口をつけるのを待つ。お母さんは美しい所作でハンバーグを切り分け、口へ運ぶ。この瞬間は毎回緊張する、相手が身内と言えど変わらない。
咀嚼を終えたお母さんは少し興奮気味に言った。
「すごく美味しいじゃない!肉汁がジューシーで」
「よかった、ちょっと不安だったの」
「不安要素がどこにあるの?文句のつけようが無い美味しさだわ」
ほっとした私も手を合わせる。
「いただきます」
自分で作ったハンバーグを口に運ぶ。口に含んだ瞬間、溢れ出る肉じるが構内を満たした。これは我ながらいい出来だと思う。
食事を終え、片付けを済ませてリビングのソファに座る。刺繍の続きをすることにした。
「ごめんね。忙しくて一緒にご飯食べられなくて。いつもありがとう」
「いいよ。頑張ってるんだから」
「ありがとう」
お母さんは小さめの声で言った。
「最近、学校はどう?」
「楽しいよ。友達もできたし」
お母さんは少し驚いた顔をした。少しの間があって
「それはよかった」
と優しく言った。私はその言葉に全てが詰まっている気がした。
そこからは特に何も聞いてこなかった。深掘りをしてこなかったのはお母さんなりの気遣いだろう。正直ありがたい。喋る事はいっぱいあるけど、何を話せばいいか分からないし今の関係はできるだけ誰にも知られたくない。
そのあとは最近のお母さんの仕事の話だったり、美容の話だったりで盛り上がった。
お母さんと話すのは楽しくて、知らないうちにかなり夜が更けていた。久々の夜更かしともあっていつもより話は盛り上がった。
でも、昨日のこともあって私は寝ることにした。お父さんはまだ仕事をしているみたいで、帰ってこなかった。ハンバーグはすっかり冷め切っていた。
まったりとした休日を過ごして、また学校が始まった。今までと特段変わり無く、放課後に藍澤さんに勉強を教えては家に帰る楽しい日々だ。七月になってもなかなか梅雨は明けず、ジメジメした日々が続いていた。
「暑いな」
藍澤さんは下敷きをうちわ代わりに仰いでいる。
「暑いですね」
梅雨が明けないまま夏らしい暑さだけが先に来た今日も、図書室で勉強会。エアコンは効いている。今日からは蒼井さんも合流した。テスト期間に入ったから教えて欲しいとのことだ。私と藍澤さんで蒼井さんのことを挟んで教える期間になった。
「疲れたぁ」
蒼井さんは机に突っ伏して言った。彼はかなりお疲れのようだ。
「ちょっと休憩させて」
蒼井さんはそのまま寝た。
「こいつほんとどんなとこでも寝られるな」
藍澤さんはやれやれといった感じで首を振った。
「俺たちも少し休憩するか?」
「そうしましょうか。藍澤さんもかなり声を張っていましたので」
蒼井さんに教えるのに藍澤さんはかなり声を張り上げていた。そうでもしないと蒼井さんはすぐに寝てしまいそうだったからなのだろう。
「こいつに教えるのは体力使うわ」
「まあまあ、ちゃんと効いてくれているのは間違いないんですから。それが態度に出ていないだけだと思いますよ?」
「そうだな、こいつは昔からそうだったな。つい熱くなりすぎた」
「昔からこうなんですね」
「良くも悪くも、全く変わってないな」
「藍澤さんも昔からこんな感じなんですか?」
「そうだな、あんまり変わっていないと思う」
かなり曖昧で不明瞭なトーンで答えた。私に目を合わせることなく、どこか遠くを見つめていた。私の目には壊れかけのガラス細工のように見えて、何も言えなかった。
ちょっとした間が空いた。私が話題を変えられずにいると、藍澤さんが私に質問をした。
「降谷さんの幼少期ってどんな感じだった?」
「私はずっとこんな感じでしたよ。昔から遠巻きで見られることが多かったですね」
「みんな今と変わらんのか。意外と子供の頃から変わんないのかな?」
藍澤さんは笑いながら考察した。先程の重苦しい雰囲気は何処へ、こんなにも早く空気を変えられるのは彼しかいない気がした。私も大概切り替えが早いのかもしれない。
いつの間にか目覚めていた蒼井さんは、窓の外を見つめていた。無表情でわかりづらいけど、物思いに耽ったような表情に見えた。
そこからはまた、勉強会を再開した。私は藍澤さんの子供時代がどんなものだったか想像していて、あまり集中できなかった。
梅雨が明ける気配は微塵もしなかった。
懇談で午前授業の今日も私は図書室で勉強会。珍しく藍澤さんより早くに着いた。図書室は懇談待ちの人で賑わっていた。
長い梅雨も明け、テストも終わり、あとは夏休みを待つだけとなった。テストをしている間も私と藍澤さんは放課後に勉強をした。テストは午前中だけでいつもより時間がたっぷりあったから、テストの時直しだけじゃなく次のテストの勉強さえできた。図書室もいつも通り空いていた。たまに蒼井さんが来て、テスト勉強をしたりもした。
「待たせたな!」
夏らしい爽やかな声か図書室に響いた。
「待っていませんよ。あと、図書室では静かに」
彼は悪い悪いといった感じで手を前にした。誰も居なかったけど、注意しておかないと誰か居る時に困る。
前のように彼はカウンターの私の隣に座った。
「テストの結果どうだった?って聞くまでもないか」
学年の順位は上位五十人が廊下に張り出される。私はいつもの通り一位だった。藍澤さんは三位だった気がする。
「さすが降谷さんといったところだな」
「あなたも三位ではありませんか」
「一位は黙ってろ!」
二人揃って笑い合う。彼の明るさは何か特別なものを感じる。人を救えるような何かが。
「今回は自信あったけどなぁ、二位にはなれないかぁ」
二位も一組の子だから相当な猛者だとは思う。
「そこまで大差では無いですし、もっと自信を持っていいと思いますよ」
「悔しいんだよ。降谷さんに教えてもらっておきながら二位にすらなれないのが」
彼は机を叩いた。相当悔しいみたい。かなりの負けず嫌いなのだろう。また彼の新たな一面を知れた。
藍澤さんが今日は勉強はしたくないと言ったから、今日はもう勉強せずに喋って過ごした。夏休みに何をしようかとか文化祭の準備をどうしようかとか、他愛も無い話をしてリラックスした。
いつもみたいに下校時間ギリギリじゃなくて、早くに帰ることにした。
雲は少なく綺麗な晴空だ。でも生暖かく強い風が横から吹いていて不穏な感じがする。
「これはひと雨来そうだな」
藍澤さんが呟いた。私もそんな感じがして風に煽られた長い髪を耳に掛けながら、風の行先を見つめた。特に雲らしいものは見当たらない。
風上を見ると重く暗い鉛色の雲が低い位置に見えた。逆に、その雲の上は見上げるほど高くまで伸びていて、夏の太陽に照らされて眩しいほどの白色をしている。
入道雲。それは今もどんどん大きく成長して、次第には雷光を孕むようになってきた。肘目は遠くこもっっていた雷鳴は徐々に音が大きくなり、同時に鮮明に聞こえる用になってきた。
「急ぐぞ」
藍澤さんの声で私たちは早足で駅に向かった。
駅に着いた頃には空は昼間とは思えない暗さになった。風はいつの間にか冷たくなっていた。
なんと電車は止まっていた。入道雲が来た先の市では警報が出ている。この入道雲は相当な雨を降らせているらしい。これじゃ帰りたくても帰れない。仕方なくホームのベンチに腰掛けることにした。
「誰もいないな」
「こんな時間に電車に乗る人は居ませんよ。それに止まっていますし」
「そうか。午前授業だしな」
藍澤さんは何故か焦っているように見えた。
ポツポツと雨が降り出した。それは一瞬にして大雨に変わった。バケツをひっくり返したような雨よりも酷い、滝のような雨。
まるで空が号泣している。
轟音が私たちを包む。雨樋は溢れそうなほどの雨水を運んでいる。あまりの雨に私はしばらく沈黙した。
藍澤さんに目をやると、微動だにせずその雨を見つめている。まるで何かに取り憑かれたかのように見ている。明らかにいつもの藍澤さんとは違う。だけど、どこが違うのか聞かれても分からない。何かが違う、それだけは確かに分かる。
私は彼になんて声をかけたらいいんだろう?何も分からずただ時間だけが過ぎていく。
その間も雨は容赦なく地面に叩きつける。さっきより強くなっている。すべての音が雨音でかき消されて、世界から切り離されてしまったような感覚に落ちる。
「藍澤さん?」
怖くなった私は声をかけた。返事はなく、まだ雨を見つめている。
「藍澤さん」
さっきより大きい声で言ったけど、彼は微動だにしない。
「藍澤さん!」
ようやく彼はこちらを向いた。彼の表情に私は驚いた。目は見開かれ、瞳は濁っていた。肌の血の気は引いていて、体温が奪われたようだった。
「大丈夫ですか?」
私は焦って聞いた。
「あぁ、すまん。大丈夫だ」
彼は顔を背けた。
どう見ても大丈夫な顔ではなかった。けど、私にはそれ以上踏み込むことはできなかった。彼が大丈夫と言っているならそれ以上は踏み込まない。いや、踏み込めない。
私は何も言えず、ただ黙って見守ることしかできなかった。
一時間ほどで雨は止み、電車は動き出した。別れ際になるまで彼とは言葉を交わさなかった。
別れ際もじゃあな、の一言でいつもの笑顔は無かった。
一抹の不安を抱えながら私は寝床に入った。まるで何かに取り憑かれていたかのような顔。決して踏み込んではいけない何か。私は長い時間寝付けなかった。
何か見落としているの?
*
夕立渦巻く台風
遠くに見える入道雲。容赦なく照りつける太陽。シャワシャワと鳴く蝉。
終業式を終え、夏休みに入った。それに合わせるかのように本格的に夏が始まった感じだ。
今日は近くのスーパーに買い出し向かうため支度をする。無駄に広い玄関の扉が開けると、熱気が入ってきた。こんな日の昼に買い出しに行くのは良くない。けど、夕方に行って夕立に見舞われるのはごめんだ。いつ、あの遠くの入道雲がこちらへ来るかは分からない。
スーパーに着くまでの少しの距離を歩いただけで、もう汗だくになってしまった。クーラーのよく効いたスーパーはまさにオアシスだ。
何を買うかは大体目星をつけている私でも、アイスクリームコーナーの魅力には吸い込まれる。無駄遣いはしたく無いからなんとか我慢する。
必要な食材を買って帰路に着く。やはりアイスクリームの魔力には負けてしまって、買ってしまった。これは後からお小遣いで立て替えておこう。
家に着いてすぐにアイスを食べる。火照った体によく沁みる。
私はシャワーを浴びて自室に入った。特に何も考えずに刺繍をする。ブランケットサイズの刺繍は終わる気配がしない。夏休みが終わるまでには出来上がるかな?まだ進捗二割だけど。
晩御飯の準備をするまで私は刺繍に没頭した。今日も一人で晩御飯だ。お父さんとお母さんは取引先との会食でいない。一人分だけ作って、一人で食べる。茶碗に箸が当たる音が、一人には広すぎるリビングに響く。寂しくはない。ただ、これに慣れてしまっていることに寂しさを感んじた。
食べ終わって片付けを済ませた私は部屋に籠る。リビングに比べて狭い自室は少し落ち着く。寝るまで勉強をしよう。没頭する何かがあれば何も問題は無い。
私はしばらく勉強に没頭した。しかし、それは長くは続かなかった。
ノートが無くなってしまった。春休みに買ってストックしていた分も使い切ってしまった。ついため息が出てしまう。明日買いに行かないと。ノートは隣町の文具屋さんだと安いから、そこに買いに行こう。
今日は早めに寝ることにした。何かから逃げるように私はベットに入った。
朝食を食べて支度を済ませる。今日も朝から日差しが強く、暑い。
電車で一駅のところに文具屋さんはある。いつもなら歩いて向かうけど、あまりに暑すぎるから電車を使うことにした。
文具屋さんに着いたて、ノートをカゴに入れる。ついでに参考書とかも見ていこうと思い、そのコーナーに向かう。
どの参考書がいいか立ち読みしながら選んでいると、見たことのある人が隣に来た。
それは蒼井さんだった。彼も参考書を買いに来たのかな?彼はこちらに気がついた。
「やあ、久しぶり」
「お久しぶりです」
テスト期間以来だから、そこまで長い間会っていなかったわけでは無い気がする。
「これってどれがいいの?」
彼は参考書を指差して聞いてきた。
「人それぞれですけどこれはお勧めですよ。基礎からしっかりできるので」
そう言うと彼はその参考書を手に取り、買い物カゴに入れた。
「中は見ないんですか?」
私は驚いて率直に聞いた。
「降谷さんが言ったから、間違いは無い」
そんな理由で?私は完璧なんかじゃない。間違うことの方が多い。
「あくまで個人的な意見で人それぞれですよ?」
「あれだけ勉強ができて、教えるのも上手い降谷さんが言っているだ。迷う必要は無い」
あまりにキッパリと言われて、何も返せなかった。
「それに煌照が信用しているんだから、俺が信用しない訳が無い。あいつの人を見る目は一度も狂ったことが無い」
私は呆気を取られた。そこまで藍澤さんを信用しているのか。一緒に勉強をして、かなり仲のいい幼馴染なんだと思った。でも、この二人の絆は私の想像を遥かに上回っているみたい。
それに藍澤さんの人を見る目に狂いは無い。私は彼の何も知らないことに気がついた。
「だから、降谷さんは信用できる人。俺に勉強も教えてくれたし」
普段は無口でのんびりとしている蒼井さんのここまで強い口調に、気圧された。長い前髪で見えないけど、その目はきっと力強く私を見据えているのだろう。彼とは同じくらいの背格好なのに、彼の方が大きく見えてしまった。
「煌照と勉強をするのは楽しいか?」
突然の質問に返答がワンテンポ遅れた。
「楽しいですよ。彼は底抜けに明るいですし、教え甲斐がありますね」
「そう。それは良かった」
蒼井さんはなんだか嬉しそうで、悲しそうな顔をした。
「あいつは危なっかしいから、気をつけて欲しい」
「そうなんですか?分かりました」
危なっかしい?確かに行動力が凄すぎて空回りしていることもある。彼が言いたいことはこのことなのかな?
「それと他におすすめの参考書はあるか?」
そこからしばらく、参考書コーナーでおすすめのものを紹介した。彼は私が勧めたものは全て買って行った。かなりの金額になりそうだったから一度忠告した。でも彼は大丈夫と言ったから、それ以上私は何も言わなかった。
「今日はありがとう」
「お役に立てたなら何よりです」
「気をつけてな」
「ええ。そちらも気をつけて」
彼はおもたそうな荷物を片手に手を振った。私も手を振り返して家路に着く。まだお昼前だというのに夕立の気配を感じた。私はどこにも寄り道をせず直帰した。
若干雨に被ったけど、あまり濡れることなく家にたどり着いた。雷鳴が轟く。近くに落ちたみたい、停電しないか心配だ。こんな暑い中停電はたまったもんじゃない。熱中症は本当に洒落にならない。
雨音を聴きながら、昨日の勉強の続きをする。雨音だけではなく、強い風の音と雷鳴も聞こえてくる。雨音だけならリラックスして聴けるけど、風音と雷鳴はちょっと怖い。
雨による実害はこの辺りの地域じゃ少ない。でも、雷は停電したりするし、風はものが飛んで来たりして、とにかく怖い。
今日は大丈夫だけど、夏本番のこれからは、いつどうなってもおかしくはない。台風だって心配になる。
荒れる天気に不安を駆られる。私は逃げるように勉強に集中した。
今日は憎いほどの快晴。私には天気のことしか新鮮な話題は無い。ただ机の上の参考書を攻略していく日々は、手放しで楽しいとはとても言えない。全然楽しくない訳では無い。ただ、変わり映えの無い刺激のない日々に虚無感を覚える。
失って初めて、そのものの大切さを知る。
どこかで聞いた台詞が頭の中に浮かぶ。それでも、私はこの日々を手放してもいいと思ってしまう。
何処か遠くへ、誰も私を知らない場所へ行きたい。でも、私にそんな行動力は無い。誰かに連れ出して欲しい訳じゃない。ただ、きっかけが欲しいだけだ。
今の苦痛から逃れても、新たな苦痛が現れるだけだと分かっている。頭では分かっていても、体は既に動こうとしている。
誰しもが通った道だ、と言い聞かせて私を正当化する。正当化とは言えないか。こんな考え、ただの独りよがりで子供じみた道理に過ぎない。あまりにくだらない考えが頭の中で巡る。
嫌になった私は切り替えるべく、料理をする事にした。美味しい匂いを嗅げば、少しは気が晴れるだろう。
少し凝ったものを作ろうと思って、スマホを見る。でも、そこまで気が乗らなかった。いつの間にか雨は止んでいたけど、心はどんよりしたままとなった。
すっきりしたくて、冷たく爽やかなそうめんを作る事にした。
生姜を擦って、麺つゆを作って、沸かしたお湯にそうめんを入れて茹でる。茹で上がったそうめんを水道水で冷やす。夏だから水道水がぬるくて、あまり冷えない。
キンキンに冷えたそうめんが良かったから、氷で冷やした。
そうめんだけでは夏バテしそうではあるけど、もう他のものを作る気力は無かった。
冷えたそうめんを啜る音が広いダイニングに響く。そうめんは体が冷えるとは言う。一人だとより冷えやすいかもしれない。ささっと食べ終わって、お風呂で温まろう。
風呂上がりは身体がホカホカで眠い。どんよりしていた心も少し和らいで、さらに眠気を加速させる。こんな精神状態では勉強も刺繍も手につかない。もう寝よう。
ベットに入ると一瞬で眠りについた。
目が覚めるともう朝になっていた。いつもより遅くに起きると、なんだか背徳感がある。癖になるといけないな、これは。
遅めの朝食を済ませ、再び自室に戻る。ちっともやる気が湧かない。自分でもびっくりするくらい何もしたくない。やる気が迷子。
外出したいわけでもなく、ただ何もしたくない。一年に一度あるか無いかの日が今日だ。
椅子に座って机の上を眺める。勉強道具が整然と並べられている。種類ごとに分けられている参考書。眺めていてもやる気が湧かない。
時間だけが無為に過ぎていく。何かしないといけない気がするけど、身体が言うことを聞かない。裁縫をするにも手が動かない。
そのままお昼過ぎまでグダグダした。
あまりにもやる気が湧かないから、思い切って外出する事にした。こんな暑い中外出するのは嫌だけど、家に居てダラダラするよりマシだ。それにここまで暑いと外出する人が少なくて、お店も空いているんじゃない?
思い立ったが吉日。ささっと支度を済ませて、駅に向かう。中心街へはそこまで遠くない。
ここまでの日差しだと、日焼け止めは意味を成すのかな?日傘が無いとしんどいでしょこれは。そもそも外へ出るなって話だけど。
駅での待ち時間は日陰で暑くはない筈なのに、あまりの暑さに全く汗が引かない。シャワシャワと鳴く蝉の声で涼む。いかにも夏らしい。
吹いてくる風は熱風。今すぐに冷蔵庫にいや、冷凍庫に入りたい。早く電車来てくれないかな。
そんなこんなで着いた電車は、冷房がよく効いていて涼しかった。中心街の駅は百貨店や複合商業施設が目まぐるしく立ち並んでいる。
特に行く先を決めずに外出した上、昼ごはんも食べていない。腹が減っては戦はできぬ。この暑さの中外出するのは、戦と言ってもいいだろう。
近くのカフェに入って、食べながらどこに行くのかを決める。
そういえば、刺繍糸を切らしていたんだった。ちょうどいいや、手芸屋さんに行こう。今月のお小遣いは余っているから、大体なんでも買える。
食べ終わってすぐ、手芸屋さんに向かった。行きつけの手芸屋さんは地下の商店街のようなところにある。
私の予想通り、お客さんは一人もいなかった。今日は少し長居してもいいかな?店員さんも暇そうだし。
いつも以上にじっくり店内を見て回った。編み物にも興味あるけど、この暑い中セーターを編んだりするのは、なんか違う気がする。
刺繍針はいっぱい持っているからいらないかな。刺繍糸の方はいくらでも欲しいけど。
服屋さんみたいに店員に話しかけられたりしないから、自分のペースで見ることができていい。服屋さんが悪いわけじゃなくて、私はこっちの方がいい。
そこまで大きいお店ではなかったけど、一通り見るのには時間がかかった。求めていた刺繍糸を買うことができた。つい、いろんな色を買ってしまった。
ついでに書店にも寄ろうと思ったけど、思っていたより手芸屋さんで時間を使ってしまったから、そのまま帰る事にした。
暑さに少し疲れて、帰りの電車でうとうとしてしまった。そこまで乗る時間が長くなったのが救いかな。学校に行くまでの時間くらいだったら、寝ていたかも。
家に着いたらもう夕方で、日もかなり傾いていた。朝みたいなやる気が迷子なのも知らない間に治った。疲労感はあるけど、脱力感は無くなった。
そういえば今日はお母さんとお父さんが帰ってこれるかもしれない日だった。俄然、やる気のでできた私は夕飯の下拵えを済ませて、ご飯が炊けるまでの間は自室に戻った。
今日買った刺繍糸を片付けて、夜にする勉強の準備をした。シャーペンと消しゴムを出して、参考書を選ぶ。
それが終わるとちょうどよく、ご飯が炊ける三十分前になっていた。揚げ物に始まり副菜だったりサラダだったりを作る。今日はお父さんもお母さんも帰ってこれるかもしれないから、かなり張り切っていつもより豪華にしている。いつも忙しくしている二人のためだしね。
作り終わって食卓に料理を並べていく。ご飯をよそって、味噌汁をお椀に注ぎ、緑茶を入れる。いい感じにできて満足。あとは二人が帰ってくるのを待つだけ。
そろそろ帰ってきてもいい時間なのにな。一向に玄関の扉が開く音がしない。スマホを見ようとポッケットに手を入れる。あれ?無い。そういえば部屋で充電してたんだった。
部屋に取りに行くと、スマホに一件のメッセージが入っていた。お母さんから。ちょうど二十分前。嫌な予感がした。
「ごめんなさい。急な仕事が入って、終わりそうにないの。夜ご飯はラップをかけておいていてほしい。本当にごめんなさい」
うん、仕事忙しいもんね。
頭では分かってる。家族の為だもん。分かっているのに、どうしても気持ちを抑えきれない。
落ち着かなきゃ。こんな事、今まで何度もあったでしょ。怒らない、泣かない。仕方ない、これは仕方ない。唇を噛む必要なんて無い。ご飯を食べて落ち着こう、できなてなんだし。
部屋を出ると、出来立てのご飯の匂いが二階まで漂っていた。部屋の前から見下ろせるほど開放的なダイニングから、嫌と言うほど香ってくる。
階段を降りながらダイニングテーブルを見つめる。未だ湯気が立っている食卓。私一人では食べきれない量につい、ため息が出た。
席に着く前に私は、自分の分だけ取って、あとは全部ラップを掛けておいた。
一気に失せた食欲を無視して、半ばやけくそでかき込む。味なんて気にしない。私が作ったいつも通りの味。気合いが入ってるとか別に関係無い。今日はお腹に溜まればそれでいい。
食べ終わった食器を片付けて、お風呂にさっと入って自室に入った。
何をする気力も湧かなくて、すぐにベットに入った。勉強の準備が整えられていた机は、視界に入れるのも気が引けた。今朝とは全く違う脱力感。
泥沼に沈んだ心は、中々私を寝付かせてはくれなかった。気のせいかひどい寒気もした。
目覚めの悪い朝。昨日感じた寒気は気のせいじゃなかったみたい。身体がだるくて、起き上がるのに精一杯だ。
乾いた喉を潤すためにキッチンへ行く。コップに注がれる水の音にさえ、安らぎを感じる。
外はシトシトと雨が降っている。今日は涼しい、らしい。体温は高いのに寒気がするから分からない。
しんどい。何も考えたくない。
ネガティブな考えが頭の中を支配する。最近はよく体調を崩しがちかもしれない。気をつけないと。
しんどくて何もできない。ベットで寝転んでも寝付けない。
何もできないがために、自分以外誰もいないことを改めて実感させられる。一切の沈黙が私を冷やす。
あまりの静かさと話し相手がいないことが、私を負のスパイラルに陥れる。
それを打開すべく、重たい体を無理やり起こしてイヤホンを取る。音楽を聴けばこの感情も和らぐと信じて。とにかく明るいポップを聴こう。
イヤホンを付けると、一人の世界に入れる気がして落ち着ける。ノイズキャンセリングもオンにして、さらに音楽に没頭する。一人であることを自覚してはいけない、寂しくなるから。
何時間経ったか分からない。いつの間にか眠りについていた。外はまだ明るく、雨が止んでいる様子はなかった。熱も引いたみたいで寒気はだいぶ和らいだ。
無理やり起き上がって、伸びをする。酷い疲れで身体がギシギシだ。関節という関節が痛い。
部屋を出られる気はしない。最早、ベットからも出られない。疲労感に身体が支配されている。まるで底なし沼に嵌ったかのように身体が言うことを聞かない。
枕元の水を補充するために階下へ下る。階段を降りる時はかなり怖かった。風邪を引いてもすぐに治る免疫があるなら、対抗する免疫に回してほしい。体は強い方だけど、最近はそうも言えなくなってきた。
まだ頭はうまく回っていない。かなりの時間寝ていたけど、寝た気がしない。さっきの睡眠では、疲れが一切取れていないことが分かる。
キッチンの棚からミネラルウォーターを取って、また自室に戻る。冷蔵庫の中は見る気がしなかった。お腹は全く減っていない、それにまた傷つくだけだから。
私はまた、逃げるようにベットに入った。
それが夏休みの一番の思い出。そのあとはいつもと全く変わらない日常が続いた。私はあまりに後味の悪い夏休みに辟易した。
始業式を控えた教室では、皆が口々に夏休みの思い出を語り合っている。大半はどこに旅行に行ったかの話だった。
帰省をすることのない私の家族は、旅行とは無縁だ。祖父母の顔は一度も見たことが無い。両親には聞いたことはない。
祖父母の話をしないのは、両親との暗黙の了解みたいなもの。何も知らない子供の時は、何度か聞いたことはあったけど、うまくはぐらかされた気がする。もう聞く気はない。空気が悪くなりそうな話題をわざわざ出したくないし、そもそも話す機会が無い。
勝手に盗み聞きをして、一人勝手に寂しくなる。誰も話しかけてこないのはいつものこと。私も話す話題が無いから、最早ありがたく感じてきた。だからと言って、寂しく無いわけでは無いのかもしれないけど。
始業式が始まっても、ぐだぐだとそんな考えを頭の中に巡らせていた。誰が想像しようか。至高の姫君とかたいそうな二つ名を持っている人が、こんなにもくだらなくウジウジした考えをしていると。これならまだ蛆虫の方がマシまである。
早く放課後にならないかな。そうすれば、藍澤さんがこんな考えもどこかへ吹き飛ばしてくれるのに。藍澤さんと出会ってから、頼ってばかりな気がする。それに藍沢さんといると、不思議と心が落ち着く。
校長の話はとにかく長くて仕方なかった。くだらない歴史の話に始まり、夏休みの生活態度や思い出について長ったらしく雄弁していた。去年も同じ話してなかった?もう聞き飽きた。
その後、表彰式があったり学園祭についての全体連絡があったりで、始業式は終わった。
人混みを避けて体育館から戻るとき、声を掛けられた。
「これ、落としましたよ」
そこには同じクラスの委員長の女の子がいた。目鼻立ちははっきりしているけどどこか幼さを感じる。私と同じく長い髪を下ろしている。名前は確か雲母坂(きららざか)さんだったはず。
差し出された手にはハンカチがあった。そのハンカチは確かに私のものだ。
「ありがとうございます、雲母坂さん」
私は笑顔てお礼を言って受け取った。なぜか彼女は驚いた顔をして、恥ずかしそうにどういたしまして、と言った。
名前合ってたみたいでよかった。ほっとした私は、踵を返そうとした。
「可愛いハンカチですね」
ポケットに入れようとしたハンカチを見て、そう言われた。
「ありがとうございます。これは自信作だったので嬉しいです」
「自信作って、自分で作ったんですか!」
彼女は声を大きくした。
「ええ、まあ、少し手芸をしているもので」
「そうなんですね!今度教えてもらっても?」
デジャブを感じた。最近会う人はみんな、私に何かを教えてもらいたい人たちばかりだ。藍沢さんのことがあるから、悪い気はしない。
「いいですよ」
「本当ですか?やった!今日の放課後に教えてもらえますか?」
溌剌としているのに、どこか落ち着いている可愛い子だ。
「今日の放課後ですか?今日は図書委員の当番があるのですが」
「放課後しか空いていないんです!お願いします!」
そんなに頼まれたら断れない。
「他の人もいて構わないなら、いいですよ」
「はい!お願いします!」
そう言って、彼女は長い黒髪を風に靡かせながら教室へ駆けて行った。嵐のような子だ。久々の人との会話につい勢いで了承してしまった。藍澤さんにどう弁明しよう。
どうすることもできず、あっという間に放課後になった。
藍澤さんへの罪悪感によって重い足取りで、図書室へ向かう。それでも図書室にはすぐに着いた。ドアの取手に手をかける。何やら中が騒がしい。
覚悟を決めてドアを開けた。
そこには言い争う藍沢さんと雲母坂さん、そして机に突っ伏して寝ている蒼井さんがいた。言い争う二人が、驚いて扉の前に突っ立っている私に気付く。
「おはよう」
藍澤さんが先に言った。遅れて
「こんにちは」
雲母坂さんが言う。
「なんでお前がいるんだ?」
「いて悪い?あなたがいつも降谷さんを独り占めしてる方が悪いでしょ」
「独り占めはしてない!斗和も一緒に教えてもらってるよな?」
「あぁ、うん」
蒼井さんは起きて、寝ぼけ眼で答える。
「いつもは違うでしょ!どうなの?」
雲母坂さんは蒼井さんのことを睨んで言う。
「うん、まぁ」
「どっちの味方なんだよ、斗和!」
「ほらね!いつも二人で帰ってるんでしょ!ずるい!私だって古谷さんと喋りたいのに!」
「話しかける勇気がないのが悪いんだろ!」
私はあたふたすることしかできなかった。喧嘩ってどうやって止めるの?
「大丈夫だよ、いつものことだから」
蒼井さんがそそくさと逃げてきた。
「いつものこと、ですか?」
「そう。俺と煌照と瑞姫(みずき)は小学校からの付き合い。あの二人はよく喧嘩してる」
「どうにかできないの?」
「ほっとけば大丈夫。勝手に冷めていくから」
本当かな?不安になりつつも、見守ることしかできない。
しばらくすると、次第に静かになった。二人とも疲れたみたい。軽く息が上がっていた。
「ごめん、降谷さん。こんなとこ見せちゃって」
「ごめんなさい、降谷さん」
「大丈夫ですよ。仲が良いのですね」
「腐れ縁ってやつだな」
かなり仲が良さそうに見えたけど。私にはよく分からない。
「まぁ今回は手芸の勉強ってことで俺も習うか」
「あなた、手芸できたの?」
「全く」
「邪魔しないでね」
「当たり前だ」
そこはあっさり決まるんだ。
全く会話の輪に入れずに手芸を教えることになった。、藍澤さんと蒼井さんには図書室で借りた手芸の本の基礎を教えると、二人で試行錯誤しながらやっている。
私は雲母坂さんが持ってきた生地を貰って、教えることになった。裁縫の道具は普段から持ち歩いているから、借りなくて大丈夫だった。
「ここはこうします」
「こうですか?」
「そうです」
基礎ができていると教えやすい。
「雲母坂さんは普段どんなものを作っているのですか?」
「巾着袋とかですかね」
「いいですね」
順調にいろいろ教えることができたから、休憩することにした。藍澤さんと蒼井さんの方も、苦戦はしつつもいい感じにできているみたいだった。
「敬語やめてもいいですか?」
雲母坂さんが突然言った。
「敬語ですか?」
「はい、降谷さんが良ければ」
「構いませんよ」
「やったね。それじゃぁ遠慮なく」
なんんて律儀な。藍澤さんも蒼井さんも初めから敬語じゃなかったから、そんなこと聞かれると思わなかった。
「そんなこと聞く必要あったか?」
藍澤さんが聞いた。
「急に馴れ馴れしくしたら引かれるでしょ」
「引いたか?」
藍澤さんがこっちを向いて聞く。
「引いてませんよ。私が敬語なだけですから」
「じゃあ、ついでに降谷さんも止める?敬語。図書室でだけ」
「え?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。ついで?家族以外には敬語しか使ったことのない私には、結構難しいんだけど。
「ちょっと、何言ってるの?」
「悪い、流石に無神経だったか。ごめん」
「大丈夫……です。少し驚いただけ」
「無理しなくていいから。ほんとごめんって」
無理してるのかな?慣れてないだけで大丈夫。
「せっかくの機会ですし、ちょっとづつ敬語もやめていけたらいい、かな?みんなと仲良くなりたいし」
仲良くなりたいのは本心。生まれて初めて同年代の友達ができたのに、敬語で接するのは確かにおかしい。
「そう言うなら。だけど無理はするな。それにここだけでいいから」
藍澤さんは申し訳なさそうな顔をした。
「ほんと無理しなくていいから。このバカの言うことはあまり気にしちゃダメだよ」
雲母坂さんも心配そうに言った。大丈夫、家族と話すみたいにすればいいから。
「そんな心配しすぎも良くないぞ。普段通りでいいんじゃなか?」
蒼井さんの言う通りかもしれない。いつも通り接してくれたら、私も話しやすい。これから徐々にでいいかもしれない。
「斗和の言う通りか。まぁ、俺が悪いんだが」
「藍澤さんは悪くない、と思う」
つい尻込みしてしまった。でも、みんなは気にしていないみたい。
「そうか」
「まぁ、反省はしてよね」
雲母坂さんはため息を吐いた。
少し重くなった空気を変えたのは、意外にも蒼井さんだった。
「降谷さんの刺繍ってどんなのがある?よかったら見せて欲しいんだけど」
「いいですよ。少ないけど」
私は手持ちにある刺繍を施したものを机の上に出した。
「このハンカチ可愛いな。なんの花だ?」
「これは紫陽花です。これは朝顔」
「あの傘と一緒か。好きなんだ」
悩む。自然とこの柄を刺繍していたから、理由なんて無い。無意識のうちに好きになってたのかな?
「分からない」
「ひょっとして誕生日六月?」
雲母坂さんがハンカチを触りながら聞いた。突拍子もない質問だな。
「そう、六月の三日」
「なんで分かったんだ?紫陽花が梅雨に咲く花だから?」
私の代わりに藍澤さんが聞いてくれた。
「そうなんだよ。自分の生まれた季節が好きな人が多いって、なんかで読んだからもしかしてと思って」
「確かに、俺も一月生まれで冬が好きだな」
藍澤さんがうんうんとうなづいて、なぜか自慢げに言った。
「俺も当てはまってる」
「斗和は二月生まれだから冬?」
「そうだね」
蒼井さんも冬なんだ。寒いのは苦手そうなのに。でもなんか、こたつに籠ってそうなイメージ。
「瑞姫はどう?」
「私は夏。七月生まれだからね」
「結構イメージ通りかも」
白いワンピースとか似合いそうな長い髪。麦わら帽子を被っているのも想像できる。
「降谷さんもそう思う?」
「うん。夏が似合いそうだから」
「なんか嬉しいや。私たちは夏派だね」
雲母坂さんは隣に寄ってきた。普段こんなにも人と近づかないから、なんか気恥ずかしい。
「じゃあ、俺たちは冬派だな」
藍澤さんは蒼井さんと肩を組む。
「そうだね、夏の暑いのはしんどいからね」
「冬の寒い方がしんどいでしょ。ねぇ?降谷さん」
「寒いのはしんどいけど、冬はお鍋が美味しいから」
同意を求められたけど、嘘をつくわけにはいかなかった。一人で鍋を突くのは辛いけど。
「確かに、鍋は捨て難い」
「おでんもあるぞ?」
「やめて!冬に染めないで!」
そう言ってみんなで笑い合う。今までになく幸福だ。夏休みの嫌な思い出が全部吹き飛んでいくようだった。
それからの日々はより楽しいものとなった。
放課後の図書室に四人で集まって勉強をした後、下校時間まで喋り合う。放課後がさらに楽しみになった。
今まで無為に過ごしていた時間が充実し、色付いていく。この時間が永遠に続いて欲しいとは思いたくなかったけど、どうしてもそう願ってしまう。せめて、受験が始まるまではこうであって欲しいな。高望みしすぎかな?と心の中で問う。このくらいなら大丈夫でしょ。神様がいたならきっと叶えてくれるはず。
今日は久しぶりに藍澤さんと二人きりの放課後となった。蒼井さんも雲母坂さんも用事があるとのことだ。
ページを捲る音がより大きく聞こえる気がする。時たま話しかけて、勉強を教えるのはいつも通り。場所がカウンターで静かという以外は。前に戻っただけなのに落ち着かない。
「久しぶりだな、ここまで静かな図書室は」
「そうね」
ここ三週間敬語を使わないように努力したら、三人の前ではもう使わなくなった。自分でも驚くほど慣れるのが早かった。
「静かな方がいいかもの、ここは」
「私はどちらも好きだよ」
「まぁ楽しいのは悪くないしな。俺も騒がしいのは好き」
「でしょう?」
また、シャーペンの走る音だけが響く。
不意に見た窓の外は、まだまだ夏の残り香が強くする。窓越しからでも感じられる熱気は盛夏に比べると弱いけど、まだまだ肌を焼くには十分すぎるくらい強い。
少し風が強い。まだ秋の匂いを微塵も感じさせない青葉が、強く風に揺られている。明日あたりに来る台風のせいだろう。今日のお昼頃、すでに強風圏に入っている。帰ったら防災の準備をしないと。シャッターを全部閉めて、備品の確認を明日しよう。足りなかっったら大変だから。万が一がある。今回の台風はあまり見ないくらい大きい。
そろそろ休憩しよう、集中できていない。今日も順調に進んだことだし、時間もちょうどいい。
それを藍澤さんに伝えようとすると、彼も窓の外を眺めていた。窓に近い方に座っていた私と目が合う。
改めて正面から見た藍澤さんの顔は驚くほど整っていた。すっと伸びた高い鼻筋、凛とした眉に切れ長の目。私は一瞬の間、見惚れてしまった。
「休憩するか」
彼が優しく微笑む。不意を突かれた私は目線を逸らす。
「そうしましょうか」
隣から大きく伸びをする声が聞こえる。ちらと横目で見る。年中長袖の彼の腕は男らしいけど、ちょっと細く感じる。運動部と比べたらではあるし、服の上からではあるけど。
「明日、休みかな?」
「どうだろう。休みであって欲しいよね」
「そうか?家より学校の方が楽しくないか?」
「確かに楽しい。けど中途半端に天気が荒れてる中、学校に来るのは嫌かな」
あー確かに、と彼も同意する。家より学校が楽しいのは私だけじゃなかったんだ。みんな家の方がいいって言うと思っていた。
「家で勉強するよりここで勉強する方が楽しいし、頭に入るから、私は学校は好きかな」
「そうだよな、ここで勉強するとなんか頭に入るんだよな」
「教え合っているからかな?」
「降谷さんの教え方が上手いからだと思う」
素直に褒めてくれる。何度言われても慣れなくて、なんか照れくさい。
「そう、かな」
「そうだぞ。自信を持って、誇っていいと思うぞ。降谷さんはもっと自分をのことを褒めるべきだと思うぞ」
自信は無い。けど、みんながそう言ってくれてるなら、少しは自信持っていいかな?自分のことを褒めていいの?褒めるって、褒め方が分からない。人を褒めることさえできない私には、自分を褒めることなんてできない。
「うん」
私は小さく返事をすることしかできなかった。
そのあとは他愛のない話をして、特に何もなく下校時間を迎えた。藍澤さんは平常運転で、本当にいつも通り。私だけが変に意識していただけだと気づいて、一人恥ずかしくなる。
どんよりとした雲が空を覆っている。生ぬるい風が肌を掠める。あまりいい気はしない。学校から駅までの道がいつもより長い。向かい風のせいで歩みが遅くなる。
住宅街を抜け、大きいの交差点に入る。国道と国道の交差点はめちゃくちゃ大きい。上には高速道路も通っている。歩道橋がなきゃ通ってないだろう。二人で歩道橋を渡る。遠くに見える大きな雲は台風のものかな?方角は合っているし。明日には暴風圏に入るそうだから、見えていてもおかしくはない。何って心配事はないのに嫌な予感がする。
「なんか嫌な天気だな」
「そうだね。空気がなんか」
「不気味だよな」
藍澤さんは遠くの雲を見つめている。
長い歩道橋もようやく終わり、階段が見えてきた。階段を降りようとした時、突風に煽られて私は足を滑らせた。一瞬、心臓が跳ねる。受け身を取らなきゃ。
「危ない!」
藍澤さんの声が聞こえた。このまま落ちる、ことは無かった。
藍澤さんが私の右腕を掴んで支えてくれていた。助かった。軽く息が上が離、冷や汗がどっと出る。
「ありがとう」
私はまだ少し震える足でなんとか体勢を整えた。
「大丈夫か?怪我はしてないか?」
「大丈夫。藍澤さんが支えてくれたから。本当にありがとう」
「よかった」
藍澤さんも胸を撫で下ろしたように息を吐いた。私はまだ心臓が鳴っている。階段から足を滑らせただけなのになかなか落ち着かないな。
バクバクと耳元で響く心臓を落ち着かせながら階段を降りる。まだまだ落ち着く気配はない。
階段を降りて、上を見る。この高さから落ちてたら無事じゃ済まなかっただろう。藍澤さんには本当に感謝しかない。さっき握られた場所が熱く感じるのは気のせい?
さっきより風が強くなっている。これは気のせいじゃない。気温も急に下がった。嫌な天気になってきた。
本格的に荒れてきそう。空を見上げていると、近くに入道雲ができていた。かなとこ雲になり始めている。さっきまでは無かったのに。空が急に暗くなってきた。台風のせいで風が強い。歩くのもやっとなくらいの風になってきた。雨粒は飛んでくるけど、まだ降ってはこない。
新聞紙が飛んできた。ものすごいスピードで私たちの間を飛んで、どこかへ行った。
「危な!掠めたぞ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、気をつける」
気をつけようがない気がするけど。どこか一旦避難した方が良さそう。
「コンビニに入ろう」
「なんでだ?」
「避難した方がいいと思う、これは」
「分かった」
すぐそこのコンビニに一旦避難しようと、そっちへ向かった。向かい風が強すぎて、なかなか辿り着かない。手で眼を軽く隠す。目が乾いてきた。
あとちょっとかな?と思い前を見たその時、コンビニの先のビルの看板が取れてこっちへ飛んできた。
「危ない!」
私は咄嗟に右隣の藍澤さんを両手で、思いっきり突き飛ばした。
私は看板を避けようと地面に倒れ込んで受け身を取ろうとする。看板がすぐそこをを掠める。
ギリギリのところで避けられたけど、体勢が悪くなってしまった。そのまま受け身に入るしかなかった。
うまくいくわけもなく、失敗してしまった。地面についた左腕が痛む。
「大丈夫か!」
藍澤さんが駆け寄ってきた。今まで降ってきていなかった雨が急に降り出す。
「怪我は?左腕か?」
そんな藍澤さんの声を掻き消すほどの雨音が強い。一瞬でビチョ濡れになった。雨が冷たい。熱くなった左腕が冷やされてちょうどいいか?思っているより痛くて自分でもよく分からなくなってきた。
「一旦コンビニまでは行こう!立てるか?」
「うん」
立つことはできた、痛んでいるのは腕だけみたい。
藍澤さんに支えられながらコンビニに入った。濡れた体にコンビニのエアコンは寒すぎた。
藍澤さんは店員さんに何かを言っている。私は軽く意識が遠のいて視界が狭窄して、耳が聞こえづらくなっていたから聞き取れなかった。骨が折れているのかな?腕の痛みが徐々に強くなっている。痛む腕をさすることしかできない。
「氷もらったから、冷やすぞ」
氷をもらっていたのか。彼が私の腕を触る。
「めっちゃ腫れてるじゃないか!救急車呼ぶか?」
「大丈夫。家から病院近いから」
私は一度着替えたかった。
「家まで行けるのか?」
「うん」
確信は無かった。痛みのあまり正常な判断ができなかった。
「やっぱ心配だ。家の前まで送って行く」
断ろうかと思ったけど、痛みが邪魔した。痛んでいるところが脈打っている。
さっきの雨は止みかかっていた。もうずぶ濡れの私たちにはあんまり関係ない。
藍澤さんに荷物を持ってもらって、駅まで歩いて行った。風はさっきほどではなかったけど、強く吹いていた。もう何も飛んでこないよね?
幸い何も飛んでこなかった。幸いではないか。私たちがツイていなかっただけ。
電車を少し待っている間に服は少し乾いて、痛みにも慣れてきた。
ホームに来た電車は混んでいた。雨が降ったからかな?満員ってほどではないけど、普通に混んでいた。
私たちは車両の隅の方へ行った。藍澤さんが私を庇う形で立つことになった。
痛む腕を眺めて怖くなる。利き腕である左腕を怪我してしまった。来週からはテスト期間に入る。どうやってテストを受けよう。一位でなくなるのが怖い。お父さんになって言われるか分からない。
「大丈夫か?痛いのか?」
藍澤さんが覗き込んで聞いてきた。優しい表情だった。
「大丈夫。慣れてきたから」
「そうか。もうちょっとの辛抱だからな」
彼は優しさ胸に沁みる。藍澤さんと一緒でよかった。一人だったらまだあそこでうずくまっていたかもしれない。
藍澤さんのことを見たくて顔を上げると、彼は険しい表情で外を見つめていた。さっきの優しい表情は無かった。電車が止まって駅で待っていた時と少し似た雰囲気を感じた。話しかけようとは思えなかった。
ようやく、家の最寄駅に着いた。痛み堪えながら乗る電車は長く感じた。藍澤さんと一緒に降りる。風邪でフラフラになった時も送ってもらったけど、あの時の記憶はほとんどない。それに家の中にまでは入っていない。
急にドキドキしてきた。今まで誰も家に上げたことが無い。ドキドキしたせいで腕がまた痛む。
そんなことを考えているうちにすぐに家の前まで着いた。
「俺はここで待ってる」
「え?」
「着替え終わったら呼んでくれ」
「家に上がらないの?」
「ああ、濡れているしな」
なんで?濡れているから?もうよく分かんない。
痛みで思考が回らない私は考えるのをやめた。
「いいから上がって。濡れてるのは私も一緒でしょ」
私は怪我をしていない右腕で彼の腕を掴んで玄関の門を開けた。彼は何も言わず抵抗もせず、なすがままついてきた。俯いている彼の表情は見えなかった。
痛む腕を庇いながら着替えるのは難しかった。しかも怪我をしたのが利き腕なこともあって、より難易度が高かった。
着替えている間、藍澤さんにはタオルを渡してリビングで待ってもらった。彼は持っていた体操服に着替えるそうだ。持っていたなら、なんでコンビニとか駅で着替えなかったんだろう。もしかして私を見守るため?自惚れすぎか。
着替え終わった私は下の階へ降りる。
「お待たせ」
彼はソファに座って部屋を見渡していた。
「病院に行こうか」
「うん、ごめんね付き合わせちゃって」
「俺を庇っての怪我だ。無関心になんかなれるか」
そういえばそうだった。そんなこと忘れていた。
「私が受け身を失敗しただけだよ」
「俺を庇わなきゃ受け身なんてしなかっただろ」
「それはそうだけど」
「いいから気にすんなって。俺の自己満だと思ってくれたらいいから」
そんなことない。藍澤さんがてくれなきゃ今頃、途方に暮れていたことだろう。
「ありがとう」
「礼を言われるほどじゃねぇよ」
彼は私の荷物も担いで玄関に向かった。家のことを聞かれるかと思ったけど、何も聞かれなかった。
そのまま近くの病院へ行った。あたりはもうすっかり暗くて、風の音だけが響いていた。もう、総合病院の緊急外来に行くしかない。正面の入り口はもう閉ざされていて、中は真っ暗。緊急外来の入り口も暗くて、本当にここ?って二人してなった。関係者入り口と変わらない。
予め電話はしておいたからすぐに受付して、あまり待つことはなかった。問診書は藍澤さんに書いてもらった。利き腕を負傷している私には書けなかった。
諸々の検査が終わって二人で診察室へ入る。レントゲンの写真が画面に映される。
「骨折ですね。ここ、尺骨に黒い筋が入っていますね」
「本当だ」
藍澤さんが私より先に反応する。確かに骨に黒い筋が入っている。
「幸い、骨折したのは関節ではありませんし、手術などの大々的なことはしません。骨がずれていることもないので、上から固定するだけになります。これから固定の準備をしてきますので、処置室の前でお待ち下さい」
「分かりました」
痛い思いをしなくて済んだ。ずれた骨を戻すのはどう考えても痛い。想像しただけで背筋がゾッとした。
診察室を出た後、言われた通り処置室へ向かう。夜の病院は本当に暗くて静かで、不気味な雰囲気が漂っている。心霊現象が起きてもおかしくはない。
「骨折か。しかも利き腕でしょ?」
「うん。どうしよう」
本当にどうしよう。心の底から出た言葉だ。利き腕が使えなくなると何もできなくなる。途方に暮れるとはまさしくこのことだ。
「マジでごめん、今更だけど」
「謝らなくていいよ。運が悪かっただけだから」
「うん。ごめん。ありがとう」
また謝ってる。でも、これは彼の優しさの表れなんだろうな。注意しないでおこう。
「もうこんな時間か。帰ったら九時過ぎてるだろうな」
「外はもう真っ暗ですもんね」
「帰りも送って行くよ」
「お願いします」
「畏まるなって、ただの荷物持ちなんだから」
そんなことはない。でも、これじゃ同じことを繰り返すだけだから、そっと胸の中でつぶやいておこう。
そのまま処置室でギプスをしてもらった。ギプスは肘にまで及んだ。全治四週間だと言われた。ギプスを取るのは二週間後の経過観察で分かるらしい。二週間だとギリギリテスト前。どちらにせよ、テストには間に合わない。
全ての治療が終わり、受付で今日の治療費を払った。時間外とかで結構な値段になった。このことを予想して多めにお金は持って来ていたから足りた。あとでお母さんに言っておかないと。
「あっ、連絡するの忘れてた」
「ん?誰にだ?」
「親に連絡してなかった」
「マズくないかそれ?」
「ちょっと電話してくる」
私はスマホを取り出そうとしたけど、無かった。鞄の中かな?藍澤さんに鞄の中を探してもらったけど、やっぱり無い。肝心なところで詰めが甘かった。どうしよう。今日はこれしか言っていない気がする。
「公衆電話あるぞ。電話番号分かるか?」
「うろ覚えだけど」
「なら行こうぜ、心配は掛けられんだろ」
公衆電話を使う日が来るとは。十円玉は数枚持っている。藍澤さんに使い方を教えてもらいながら、電話を掛ける。
「もしもし?」
「もしもし?千隼?」
「そう。今病院なんだけど」
「病院?何かあったの?」
言いきる前に聞かれた。
「腕を骨折したの。詳しいことは帰って話すよ」
「大丈夫?今から迎えに行くわ。どこの病院?」
「近くの総合病院」
「すぐに行くわ。待ってて」
そう言うと、お母さんは電話を切った。かなり焦っていた。まぁ、それもそうか。突然、公衆電話から電話が掛かってきて、娘が骨折したなんて言い出したら。
「どうだった?」
「今から迎えに来てくれるって。藍澤さんはどうする?」
「迎えに来るまでここで待つよ。どうせ駅で待つことになるだろうし」
「よかったらお母さんに頼んで、うちの車で家まで送るよ?」
「大丈夫だ。自分で帰る」
「でも」
「大丈夫だと言っている」
さっきまでの明るい声色ではなく、低く響くような声色だった。ちょっとしつこかった?
「分かった。余計なこと言ってごめんね」
彼は私の言葉を聞いてハッとしたみたい。
「いや、そんなつもりは無かったんだ。ごめん」
「そこまでのことじゃないよ。それより、電車何時?」
これ以上は触れてはいけない気がして話を逸らした。
「あ、うん。九時半に来るやつに乗るよ」
「ちょっと時間あるね。私の方が先かもね」
「そうだな。迎えが来たら俺は駅に向かうよ」
私は頷いた。できるだけ話題は変えたかった。
しばらくして、お母さんが来た。
「千隼!大丈夫?」
駆け寄ってきた。お母さんが走るのを見るのは何気に初めてかも。
「私は大丈夫」
「分かったわ。ひとまず帰って、話からそれからね」
藍澤さんのことを紹介しようとしたけど、隣にはもう姿は無かった。そこには私の荷物が置かれているだけだった。
私は何かを感じた。今までのことが頭の中で繋がっていく気がした。でも、今ここで結論は出せない。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもない」
私は首を振った。彼のことは今話すべきではない。お母さんはそう、と一言だけ言った。
家に着いた後は根掘り葉掘り聞かれた。でも一つだけ嘘を吐いた。藍澤さんのことは一切話さなかった。自分一人で看板を避けてこうなってしまった、と話した。
お父さんは電話で話した。ちょうど出先の仕事で席を外せなかったはずなのに。
「無事か?後遺症とかは残らないのか?」
「大丈夫。綺麗に治るってお医者さんが言っていた」
「よかった。後遺症が残ると大変だからな」
後遺症が残れば、今までできていたことができなくなる。そうすればお父さんの期待に応えられない。まるで、それを心配しているかのように聞こえてしまった。
「うん。お父さんも仕事頑張ってね」
「ああ。何かあればすぐに言うんだぞ」
そう言って電話を切った。言っても何もしてくれない癖に。久しぶりの会話が電話越しな上、怪我の報告になってしまった。
前にお父さんと会話したのはいつだったっけ?成績のことを報告した時だったかな?もうあんまり覚えていない。
昔からあんまりお父さんとは喋らない。お父さんはいつも返事が簡潔で会話が続かない。その上、いつも忙しいから話す機会も少なかった。あんまり私のことを見ていない気がする。昔からどうすれば仲良くなれるか、認めてもらえるかずっと考えている。仕事では結果至上主義なところがあるらしいから、できるだけ結果を出し続けているのに。
そこからは軽食を摂って、お母さんに手伝ってもらってお風呂に入った。濡れないように肘までビニール袋を被せて入った。
なんとか服を着て、寝床に入ることができた。寝転ぶとどっと疲れが私を襲った。勢維新に疲労感があってすぐに寝られると思った。けど、疲労感に負けないほどに左腕が痛んだ。全部終わって気を抜くと、腕が痛んでいることに気がついてしまったのだ。
全然寝ることができず、藍澤さんのことを考えた。そうすれば少しは気が晴れる気がした。
でもそんなことは無かった。今までの藍澤さんの言動や行動について、今日の行動で一つの結論に至った。
そして今までの会話での違和感に気づいた。
今まで藍澤さんは家のことについて、家族のことについて一切触れたことが無い。私は彼の家のことについて何も知らない。分かっているのは一人っ子だということだけ。
そもそも家族や家庭のことについて、一切話題に上がらなかった。それは蒼井さんや雲母坂さんにも言えることだった。夏休みは家で過ごす時間が多いはずなのに、夏休みの話をした時も無かった。
今思い返せば、私の家族についても聞かれたことが無い。
流石におかしい。
それに今日のあの一言。あの時は私のおせっかいのせいだと思ったけど、違うかったとしたら?でも、どうしようにもない。家族のことを突っ込んで聞くのは変だし、良くない気がする。
結果として、明確な結論には至らなかった。だけど、違和感がハッキリした。あの三人の中での共通項。
何か分かりそうで分からないモヤモヤが頭の中を渦巻く。本当はわかっている気がするけど、それは絶対に触れてはいけない気がした。
考えているうちに眠りについていたみたいで、起きると朝だった。色々な不安が頭の中にあって、パンクしそうだ。私のこと、お父さんのこと、そして藍澤さんのこと。
私はそれを振り払うように学校へ行った。今、私一人で考えても仕方ない。
*
慈雨過ぎた秋雨
テストの解答用紙が回収される。ギプスは取れ、シャーレで固定された左腕は悲鳴をあげている。いつもなら半分以上の時間を見直しに当てられていたのに、今回はギリギリまで解答用紙に書き込んだ。それでも空白が残った教科もある。
私はテストの結果に恐怖していた。今までずっと一位だったけど、今回は絶対に違う。そう思っただけで吐きそうになる。
骨折をして初めて学校に行った時にはかなり驚かれた。特に雲母坂さんと蒼井さんには。雲母坂さんは図書室以外でも私の身の回りのことを助けてくれた。藍澤さんと蒼井さんも陰ながら支えてくれた。
学園祭もさらっと終わり、色々しないといけない事があって忙しくしていたら、すぐにテスト期間に入った。
それは私に恐怖と現実を突きつけた。
思うように勉強ができない。文字を書けないのが日々のストレスになった。
だけど時間は待ってくれなくて、一瞬でテストが始まって終わった。
全部分かっているのに、書けない。そんなもどかしさと焦りが私を追い込んでいった。
書けないのは分かっていないことと同じ。同じでは無いはずのことが同列にされて、それが悔しくて、どうしようもなく腹立たしかった。
でも現実は非情で、散々な結果を私に突きつけた。
学年順位は十五位。周りは頑張った方だと言うけど、一位じゃ無いといけない。これじゃお父さんに怒られる。怒られるより、呆れられる方が怖い。
一位は雲母坂さんで二位は藍澤さんだった。いつもあるべき場所に私の名前が無いことに私は悔しさと腹立たしさを覚えた。
言い訳はしたくない。運も実力の内。
だけど、心の中では怪我のせいにしてしまう。こんな私ではお父さんに認めてもらえるはずがない。
家に帰りたくない。だけど、どこにも逃げる場所なんか無い。
折れた腕も見つめる。私の心はこの腕よりぽっきり折れてしまっているのかもしれない。
帰り道、いつもの四人で帰っている。まだ夕焼けの残滓が残る空は仄かに明るい。でも私はお先真っ暗。なんて言えば正解なのかをひたすら頭の中で繰り返す。
「降谷さん?」
雲母坂さんの声で現実に戻される。彼女は心配そうな顔をしている。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。心配しないで」
彼女は訝しげに私を見たけど、すぐに元の表情に戻った。
「降谷さんはどっちの方がいいと思う?」
そう言って彼女は鞄から布を取り出した。まだ切られていない生地の状態。何か作るのかな?現実逃避をしたかった私はその話題に飛びついた。
「何か作るの?」
「そう、手提げ鞄を作ろうと思ってて、降谷さんにどの生地がいいか聞きたかったの」
最初に目に入ったのは向日葵の柄、もう一つは紫陽花の柄。他にも青緑基調の珊瑚や白い百合、赤さの目立つ薔薇なんかもあった。
私の物なら紫陽花を選んだだろう。でも、向日葵の方が彼女には似合っている。
「向日葵かな、そっちの方が雲母坂さんらしいと思う」
「だよねぇ。もし、降谷さんが自分のを作るとしたらどっち選ぶ?」
「私なら紫陽花の方かな。やっぱり好きだし」
「降谷さんこっちのイメージあるもんね」
確かに私の持ち物は紫陽花かそれに良く似た色で揃えている。
何気ない会話が続く。家に帰りたくない気持ちが誤魔化されていく。
ただ、そんな時間は長くなかった。最寄駅の一駅前で急に現実が戻ってきて、足が竦んだ。帰りたくない。最近はずっとお父さんが家に居る。こんな成績は見せられない。
「帰りたくないのか?」
「え?」
思考が読まれた私は声の主の方を見る。
そこにいたのは、真剣な顔で私を真っ直ぐに見据える藍澤さんだった。
「なら、俺たちの秘密基地に来るか?」
逃げられる?ダメなことだと頭では分かっている。でも、魅惑的な誘いに私は抗えなかった。
「行きたい」
「高校生になって新しいメンバーが増えたね。なんか嬉しいや」
雲母坂さんが嬉しそうに言う。
「まあ、大船に乗った気持ちでいるといいよ」
蒼井さんは今まで見たことの無い、悪戯っぽい表情をしていた。
「きっとまた着たくなる場所になるよ」
藍澤さんは優しく微笑んだ。
私は逃げ場を得た喜びと期待と微塵の不安を抱えて、家の最寄駅を通り過ぎた。
何駅か通り過ぎて降りた駅は今まで降りたことの無い小さめの駅。快速だと通過してしまう駅だ。
電車を降りて改札を出てから、急に怖くなった。何とも言えないモヤモヤが私の中をかき乱す。もう今更だ。私は頭を振ってモヤモヤを振り払う。
駅を出ると静かな住宅街が広がっているようだった。暗がりからは夕飯の匂いがしてきた。揚げ物の匂いかな?少しお腹が減った。
そんな住宅街を抜け松林を抜けると、小さな砂浜が見えてきた。この松林は防風林か。澄んだ夜の潮風が肌を撫でる。
優しい細波の音を奏でる海は吸い込まれそうなほどの漆黒だ。気を抜くと飲み込まれそうで怖い。月明かりを反射しているおかげで怖さは少し和らいでいる。
その隣の防風林と砂浜の間にには小さな公園があった。古びたブランコと滑り台。支柱は塗装が剥がれているところは茶色く錆びてしまっている。
その他には古びた雨晒しのベンチしか無い。ベンチは木製で海風のせいかかなり朽ちていた。座っても大丈夫だよね?
「ここが俺たちの秘密基地だ」
藍澤さんが誇らしげに言った。ここが?普通の秘密基地というものがどういったものか分からないから、これがすごいのかどうかが分からない。でも、誰もこなさそうな場所ではある。
「ここですか?」
「そう!私たちの中の誰かが家に帰りたくなくなった時に、みんなでここに来るんだ」
雲母坂さんがベンチの砂埃を払いながら言う。
「でも、ルールがある。家に帰りたくなる理由は絶対に聞かない。本人が喋りたかったら別だけど」
蒼井さんが付け加える。そんなルールがあるんだ。今の私にはありがたい。こんなみっともない自分は見せられない。
「とにかく馬鹿な話をして笑い合うんだ。気が済むまでな」
「みんなは帰らなくていいの?」
「ここへ連れて来たのは私たちだよ?気にしなくていいから」
そう言って雲母坂さんは隣に座ってと合図した。私は恐る恐る座る。四人ベンチに並んで座る。奥から藍澤さん、蒼井さん、雲母坂さんで私の順番。
藍澤さんが手を叩いた。それに少しビクッとなる
「さて、今日は何の話しようか」
「俺が決めていいか」
「いいよ、前は煌照でその前は私が決めたから。降谷さんに決めてもらうのは流石にいきなりだし」
「じゃあ遠慮なく。意外に出ていなかった話題にしよう。」
「なんだ?」
蒼井さんはちょっと溜めてから口を開いた。
「ゆで卵は半熟派?固茹で派?」
あまりに真剣な顔で言うものだから吹き出しそうになった。
「私は固茹で派。黄身は硬いに越したことはない」
低い声で雲母坂さんが答える。ノリがいい。
「俺は半熟派だ。あの黄身のとろみこそ真理」
藍澤さんもノっていく。この流れだと私も?隣から期待の眼差しをちらちらと感じる。
「私は半熟派よ。とろみのある黄身と白身の相性がいいのよ」
なんかお嬢様風になってしまった。
空気が一瞬凍る。何でみんな黙るの?
すると、ぷっと誰かが吹き出した。隣の雲母坂さんから聞こえた。
「ぷっ…あはは」
見ると、全員爆笑している。
「くくく、まさか本当にノってくれるとはな」
「言い出したの俺だけど、本当にするとは思わなかったよ」
「え?え?」
私は何が起きているのかさっぱり分からなかった。
「言っただろ。ここでは馬鹿な話をして笑い合うって。どんなにくだらなくてもな」
藍澤さんが笑って言う。馬鹿にしたような笑い方じゃなくて、心の底からわらっているようだ。
「何それ、ふっ、ふふ」
何か分からないけど、笑わずにはいられなかった。
何が楽しいのか分からない。でも、楽しい。今はそれでいい。何も考えることなく、心のままに笑っている。とても心地いい。
「そうそう、笑っていたほうがいいでしょ?」
「感情は表に出したほうがいいから」
雲母坂さんと蒼井さんが少し落ち着いた様子で海を見ている。
「感情を表に出さないのが大人じゃないんだ。ただ我慢強いだけ。でもそのままだといつかダメになるから、こうやって吐き出す必要があるでしょ」
藍澤さんの顔はとても優しかった。
「うん」
自然と笑うことができた。私の固まっている表情筋が少しほぐれた。
そこから一時間くらいずっと馬鹿な話で盛り上がった。内容なんてとてもくだらない。でも、楽しいからそれでいい。
駅まで送ってくれる途中も笑い声は絶えなかった。家に帰りたく無い気持ちが無くなったわけじゃ無かったけど、心が軽くなった。今まで悩んでいた私が馬鹿らしく思えてきて。
電車の中で少しだけ現実を見て気分が落ちたけど、逃げる場所が出来たから怖さは少なかった。一人じゃなくなっただけでこんなにも心強いんだ。
帰ると、もう九時を過ぎていた。怒られてもよかった。
玄関を開けると、お母さんが居た。玄関の観葉植物に水やりをしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「お友達とどこか行ったの?」
お母さんは鋭い。何でもお見通しだ。
「うん」
私は小さく返事をした。いざ家に帰ってみると、少し自信が無くなった。
「楽しかった?」
意外な問いがきた。
「うん」
「それなら良かった」
お母さんは優しく微笑んだ。少し拍子抜けだった。
あとはお父さん。
玄関からダイニングへ上がる。もう部屋に入りたい。
「ただいま」
「おかえり」
お父さんの低い声が響く。いつもより低い気がする。お父さんはダイニングのテーブルで何か作業をしていた。
「腕の調子はどうだ?」
「うん、大丈夫。ギプスも取れたし」
「順調で何よりだ」
会話が途切れる。お父さんの簡潔な会話は業務連絡のように感じて仕方がない。
今までの私は何も言わなかった。そういうものだと受け入れていたから。
でも、今日の私は何かを言わないと気が済まなかった。今日は感情が表に出てしまう日。抑える気は全く無かった。それに抑えられる気が全くしなかった。堪忍袋の緒が切れるとはこのことか。
「何でそんなに冷たいの?」
気がつくと口にしていた。
「え?」
お父さんは豆鉄砲を喰らった鳩みたいな顔をした。私はそんなことを気にせず続ける。
「いつも仕事みたいに簡単な報告だけで何も聞いてこない。私のことより仕事ばっかり。忙しいのも分かる。時間が無いのも分かる。でももう少し家にいる時間増やしてもいいじゃない?」
一度溢れると止められなかった。今までの不満が全部吐き出されていく。お母さんも玄関から戻って来ていたけど、構わず続ける。
「だって歩いてすぐそこだよ?家は。せっかくご飯作ってもいつも食べるのは一人。お母さんもそう。みんなで食べるために、温かいご飯を食べて欲しいから作ってるのに、何で?」
「それは」
お父さんは言葉に詰まる。お母さんは黙って俯く。
「お父さんとお母さんが頑張って稼いでいるのも知ってる。だけどもう少し家にいる時間増やしてもいいでしょ?私が骨折して、ようやく家にいる時間が増えたけど、今だけなんでしょ?治ったらまた家から離れていくんでしょ?今ここに居るのも私がご飯を作れないからでしょ?」
腕が痛む。右手で強く握られていたスカートはクシャクシャになっている。自分で言っておきながら悲しくなる。アウトプットすることで浮き彫りとなった事実に、胸を締め付けられる。
「ごめん」
お父さんは小さな声で謝った。
「ごめんね、千隼」
お母さんも謝った。
「いいよ謝らなくて、仕事が大事何でしょ?分かってるよ、そのくらい。私も応援してるから。テレビで紹介されてりしていると嬉しいし、誇らしくなる。でも、お父さんとお母さんにそんなこと関係ないんでしょ?ごはん作って学校で良い成績とっていれば良いんでしょ、私は」
「そんなこと!」
「ある!」
私声を大きくして、お父さんの言葉を途中で切る。
「今回の成績見て失望するんでしょ?十五位だからって、一位以外ダメだって。いつもそう。今までどれだけ良い成績を取っても、褒め言葉は無い。たまに褒めてくれても簡潔に一言。嬉しいけど、苦しい。変に期待持たせないでよ。無関心ならそう言ってよ。そしたら勉強をする理由が定まるから」
二人は何も言わなかった。少しだけ期待していた私はそこで完全に折られた。
「ほらね。もういいよ、吹っ切れたから。仕事頑張ってね」
そう言い捨てて、階段を上がる。
「千隼」
お父さんに呼ばれた。お父さんとお母さんが階段の下に来た気がした。お父さんの顔を見る気はしなかった。今更なに?土下座でもしようっていうの?
「もういいって言ったでしょ?」
前を向いたまま言う。
「でも私たちは」
「もういいって言ったでしょ!」
お母さんの言葉を遮る。
「期待した私を返してよ」
呟くように溢れた。
泣きそうになった。分かってはいたけど、いざ言葉にすると、行動にされると心が傷つく。
逃げるように部屋に入った。
部屋のベットに荷物を投げて、自分もベットに身を投げて天井を眺める。見慣れた天井が歪んで見えて、腕で目を拭いてそのまま目を覆う。明日が学校だったら良かったのに。何で休みなの?ついてないや。
外はシトシトと雨が降っていた。
休みの間も結局何もなくて、学校へ向かう。いつもより何本も早い電車。ガラガラに空いていて物寂しささえ感じる。家にいたくないから早く出たのは言うまでもない。
外の天気は一昨日からずっと雨。秋雨だそうだ。シトシトと弱い雨が降っている街を車窓から眺める。
残暑が終わり、秋が深まっていきそうな気配を感じた。
教室に着くと、もちろん誰もいなかった。今は一人にあまりなりたくない。喧騒が私のくだらない考えを吹き飛ばしてくれることを願っていた。
ガラガラガラと教室の扉の開く音がした。こんな時間に誰だろう?
「おはよう、降谷さん」
聞き慣れた声がした。振り返ると雲母坂さんが居た。
「まさか私より早い人がいるとは」
「いつもこの時間なの?」
「うん。この時間は誰も居ないから勉強が捗るんだよね。友達がいると話しちゃうから」
「勉強しようってならないよね」
「そうなんだよねー」
そう言いながら勉強道具を鞄から出している。
「降谷さんは私より早かったけどどの電車乗ったの?」
「私は快速を使ったから」
「私のとこは快速止まらないからなー」
「いい場所なのにね」
海もあって静かな住宅街だけど大きい街ではない。ちょっとした山も間にある。
「いいんだよ、都会の喧騒から遠ざかれるから」
「うるさいと勉強に集中できないからね」
「本当にそう!」
他愛もない話。今までの憂鬱な気分が少しづつ和らいでいく。
みんなが来るまでの間、雲母坂さんと話した。勉強を教えつつ刺繍の話をした。これで放課後まで何とかなるかもしれない。
何かを引き摺ったまま放課後を迎えた。家でのことだと分かっている。誰かに言いたいけど、言って失望されるのが怖い。そのくらいどうってことないって思われそうで怖い。私の癇癪なのは間違いないから。
図書室に向かいながら負のスパイラルに陥る。今日で何回目か分からない。一昨日からこん感じが続いている。
三人に話を聞いてもらおうかとも思ったけど、これは自分で考えないといけない気がしたからやめることにした。それに秘密基地でのルールもある。
私はできるだけ平静を装ってから図書室の扉を開けた。
「来た来た」
「始めてるよ」
ペンを持った雲母坂さんと蒼井さんが振り返る。もうみんな参考書を開いて始めていた。私が悩んで廊下を歩いていた時間は長かったみたい。
「お待たせ」
「今始めたところだから大丈夫」
藍澤さんは数学の参考書と睨めっこをやめて、顔を上げた。
「早速だが頼む。ここが分からない、全く」
彼は苦笑いをしながら参考書を指差した。
「もちろん。任せて」
私は荷物を置いて、彼の隣に座った。
勉強はできるけど、文字を書けないのがかなり辛い。書けないことはないけどとにかく遅い。テストで撃沈した一因がそれだから。教えるのには関係ないから今はいいけど。
「ここは?」
「ここはこの公式を使うよ」
「これ?違うくないか?」
「ほんとだ、ごめん。こっちだった」
「どうした?何かあったのか?熱はないか?」
「降谷さんだって間違うこともあるでしょ!」
すかさず雲母坂さんがツッコミを入れる。
「まぁそうなんだけど、ちょっと今日はふわっとしてるって言うかなんていうか」
藍澤さんは鋭い。今日の私は考え事しかしていない。
「うん。ちょっと考え事してて」
「そうか。それなら良かった」
「いやいや良くないでしょ」
今度は蒼井さんも一緒にツッコんで雲母坂さんとハモる。
「確かに悩み事は良くないな。よし、解決するぞ」
「勉強は?」
言おうと思っていたことを蒼井さんが言う。
「そんなもの後回し。今は降谷さんのお悩み解決が先」
別に大丈夫だよ、とは言えなかった。話を聞いて欲しい自分がその言葉を飲み込ませた。
「話したくなかったらいいんだけど、何に悩んでいるんだ?」
藍澤さんが聞いてきた。雲母坂さんも蒼井さんもペンを置いて聞いてくれるみたい。
まだ言っていいのか自信が無かった。私は重い口を開いた。
今までのこと、家での口論のことを手短に話した。三人は何も言わず、真剣に聞いてくれた。
話終わった時にはみんな何とも言えない悲しい表情をしていた。そして考え込んだ。
「これは深刻だな」
蒼井さんが深刻そうに言う。
急に藍澤さんが立った。
「よし!秘密基地行くぞ!」
そう言うと勉強道具を鞄へ突っ込んだ。
「え?」
彼のあまりの速さに呆気を取られる。
「降谷さんも行くよ!」
雲母坂さんが隣へ来た。もう荷物をまとめている。いつの間に?彼女は私の荷物を持ってくれた。
「ちょっと待ってよ」
私は何も出していなかったから立つだけだったけど、蒼井さんは出遅れた。
外に出ると雨は上がっていた。濡れた地面にはところどころ水溜りがある。
勢いのまま秘密基地まで来た。移動中は関係の無い話で盛り上がった。これは三人の気遣いなのだろう。
この間は夜に来たけど、明るい時に来るとまた違った空気を感じる。爽やかで暖かな潮風が吹いてくる。潮の香りが仄かに香る風はとても心地良い。
夕暮れまであと少し時間はあるけど、水平線が薄ら橙色になっている。太陽が沈むのはほぼ真反対の方角なのに。
前みたいにみんなでベンチに座る。さて、どうしよう。
「さぁ、何から話す?」
藍澤さんが私の心の声を代弁してくれた。
「何から話すかな?」
雲母坂さんは上を見て言う。
「こういうのは瑞姫の得意分野じゃない?」
「確かにそうだけど、煌照はどう思う?」
「斗和の言う通りだと思う」
「じゃあ、私から行こうかな」
雲母坂さんは悩み相談に慣れているのかな?確かに頼りになるし、友達も多そうではある。
「降谷さんはお父さんのことどう思ってる?」
「会社も作って大企業にできる手腕もあって、常に仕事熱心な人」
私は思っていることを正直に答えた。
「悪いところは?」
「ずっと仕事をして帰ってこない」
その言葉は驚くほどスッと出てきた。
「それだけ?」
「何をしても認めてくれない」
「うん。これは私の個人的な意見なんだけど」
彼女は優しい口調で言った。
「降谷さんのお父さんは口下手なんだと思う」
「口下手?」
「うん。降谷さんの話を聞いていたら、お父さんとあまり喋っていないでしょ?」
「ほとんど喋ってない」
確かにお父さんとはほとんど喋っていないけど、そんな安直なこと?と思ってしまう。
「多分ね、降谷さんのお父さんは降谷さんに対してあんまり干渉しないようにしているんだと思う。性別が違うと接するのが怖くなるんだと思う。私の母親がそうだったから」
「確かにそうなのかも」
私も男の人に話しかけに行くより、女の人に話しかけに行く方が気が楽だ。それは親も一緒なのかな?
「でも、降谷さんの怒りは当然だと思う。ご飯を作って待っているのに後出しで食べないって、作り手の気持ちをあまりにも考えて無さすぎる。私なら暴れてる」
「降谷さんも暴れたら?」
「煌照、茶々入れないで」
テヘヘ、と頭を掻く。場が少し和んんだ。雲母坂さんはため息を吐いた。
「まあ、暴れろとは言わないけど、そこはしっかり言った方が良いと思う。じゃ無いとしんどくなるのは自分だけだから。ちゃんと話し合って、擦り合わせた方がいいと思う」
「うん」
私は真剣になって聞く。今までずっと何年も抱えていた悩みを初めて人に話して、アドバイスをもらうんだから。
「あと、降谷さんは優しすぎるんだと思う。もっとガツンと言っていいよ」
「そう、かな?」
藍澤さんと蒼井さんも激しくうなづく。
「優しすぎるよ!だって怒ったこと見たことないし」
「うん、まあ」
確かにあまり怒ったことは無い。今回が初めてかもしれない。
「普段から当たり前のように人助けするし」
「教える時も絶対に否定しないから」
藍澤さんと蒼井さんが続く。嬉しいけどそこまでのことかな?
「優しいのは取り柄だけど、言わないといけない時は言わないと」
「うん。分かった」
「降谷さんのお母さんは正直よく分からない。でも、話し合ってみると良いと思うよ。言葉にしないと何も分からないから」
「話し合うのが良いってこと?」
「そう一秒でも早く」
「今日帰ったらしようかな?」
家にいるかどうか分からないけど。
「いいね!善は急げだよ!」
なんか、雲母坂さんはお母さんみたい。私より年上に思えてくる。
「流石は瑞姫、ママと言われるわけだ」
「フフン。お悩みならどんと来い!」
雲母坂さんは胸を張る。
「あと認めてくれないって言ってたけど」
「それはね、正直よく分かんない。いろんな理由が考えられるから」
雲母坂さんでも分からないんだ。人の親のことだしそれもそうか。
「でも、さっきも言ったみたいにお父さんは口下手だと思うから、口にできていないだけかもしれない。だけど、それ以外に何か理由があるとも思う。そこまで不干渉を貫く理由はなんなの?」
うーん、と雲母坂さんが考え込む。他人のことなのに自分のことのように悩んでくれる。彼女の方が優しすぎる気がする。
「俺も何か裏がありそうな気がする」
藍澤さんも顎に手を当てて考える。
「煌照が言うとなんか怪しく聞こえるんだけど」
蒼井さんはさっぱりとした感じでツッコむ。
「なんでだ?言い方か?」
「間違いなくそうだろうな」
またしてもツッコまれる藍澤さんに、思わず笑みが溢れる。
「まあ話し合ってみれば良いんじゃない?瑞姫も言ってたけど、言葉にしないと考えてるだけじゃ伝わらないから」
藍澤さんは悩んでいる雲母坂さんに代わってまとめる。
「ちょっと違う気がするけどそんな感じ。私から言えるのはここまでかな?」
「うん、ありがとう。これで少しは自分の今の状況が分かった」
「それなら良かった。ですぎたこと言ってないよね?」
「大丈夫。全部すごく参考になったよ。今まで誰にも言ったことないから、客観的な意見は新鮮だった。自分で考えるばっかりだったから」
「良かった。私たちは応援してるからね」
「ありがとう」
「絶対に味方だから!」
雲母坂さんは私の手を握って言った。
「ありがとう」
「よし!気分は晴れた?」
「うん」
私は力強く返事した。ここに来るといつも勇気づけられる。
「それならいつもみたいに喋り倒すか!」
藍澤さんは立ち上がって伸びをしながら言った。
そして砂浜の方へ歩いていく。徐に立って、彼の後を追う。砂が靴の中に入って気持ち悪いのは気にしないようにした。彼も全く気にしていない。今見ると、彼の靴はひどく汚れていて、ところどころほつれている。
「どこ行くの?」
雲母坂さんも後から追ってきて、私の隣に並ぶ。蒼井さんも後ろに来た。
「だってこんなにも綺麗な夕日、久しぶりだと思うんだけど」
「確かに」
あまり見ないくらい綺麗な夕日に息を呑む。話に集中している間にすっかり時間が経っていたみたい。
水平線に近づいていく太陽。真っ赤に染まる空と雲。水溜りさえも赤く染まる。
「こんな景色は久しぶりかも」
雲母坂さんも感動しているのか呟くような声量だった。
「清々しい気持ちで見たいな、今度は」
「清々しい気持ち?」
「降谷さんが親と仲直りしたら」
そういうことか。
「明日にはそうなればいいな」
「なるなる!」
雲母坂さんが元気づけてくれる。今日のうちに解決させたい気持ちが強くなる。今日も帰っているはずだから大丈夫。
それからみんなで夕陽が沈み切るまで見届けた。快晴より少し雲が残っている方が夕焼けは綺麗だった。
駅まで送ってもらってそのまま帰った。すっかり暗くなった空には星がポツポツと見えた。
なんかデジャブを感じたけど、意気込んで玄関のドアを開ける。
玄関には誰もいない。よし!頬を叩いて気合いを入れる。
「ただいま」
「おかえり」
お母さんはいる。キッチンで料理をしている。
「お父さんは?」
「もうすぐ帰ってくると思うよ」
お母さんはできたカレーを食卓に並べた。お母さんはあまり料理が得意ではない。特定の料理しか作れない。だから、最近は肉じゃがかカレーだ。他にも作れるけど、怖くて作っていないらしい。
「ただいま」
お父さんが帰ってきた。
「おかえり」
「今日はカレーか。これは豚肉か?」
「そうなの!分かる?初めてしてみたんだ」
お母さんがはしゃぐ。
「美味そうだな」
テンションの高くなっているお母さんに対して、かなり冷めたテンションな返事だった。
ひとまず、ご飯を食べることにした。腹が減っては戦はできないからね。
ご飯を食べ終わって食器を下げる。
さあ、いざ戦の時。決戦の火蓋は斬られた。私は何も恐れない。
ここまで意気込む必要があるの?
ある!今までのことを爆発させる。この前よりはっきりと言う。この前みたいに最後に逃げはしない。
スウッと息を吸う。お父さんに向かって言葉を放つ。
「ねえ、話があるんだけど」
「ああ。まあ、落ち着いて」
落ち着いてなどいられるか!
私は勢いのまま言葉を発する。だって私には友達がいるから。ここで玉砕しても相談に乗ってくれる友達がいるから。
「なんで今まで私のことを放置し続けたの?成績のことは聞いてくるのに」
「それはな、なんというか」
「はっきり言って」
私は引かずに言う。お父さんはお母さんに目線をやる。
「実視、もう隠さないでいこう」
お母さんは首を横に振った。
お父さんは一つ咳払いをして、重たい口をゆっくりと開いた。
「ごめん、千隼。実は、千隼は褒められるのが嫌だと思って、あまり褒めないことにしたんだ」
私は目を見開いた。え?私、いつそんなこと言ったっけ?
驚く私に構わず、お父さんはペースを変えず、言葉を続ける。
「年中の時、千隼が地域のマラソン大会で一番を取っただろう、覚えていないかもしれないが。その時は本当に凄いと思ったんだ、年長の子を置いてけぼりにして一位を取ったことを」
そんなこともあったかな?はっきりとは思い出せない。
「その時、私は千隼を褒めちぎってしまったんだ。何日にも渡って。そしたら、流石に嫌がられて、それから褒める度に微妙な顔をされるようになったから」
「そんなこと…」
私は途中で言葉を止めた。これは間違いなく私のせいだ。勝手に褒められるのを嫌がって、後から褒めて欲しいなんて、我儘がすぎる。
私は何も言えなず、机を見るしかなかった。今の私にお父さんを見る価値なんて無い。
「千隼が落ち込む必要は無いんだ。私が悪いんだ!どうか自分を責めないで欲しい」
俯く私を見て、お父さんが焦って言う。そんな事言われても、だって。
お母さんは立って、沸かしていたお湯で紅茶を淹れる。
「これで落ち着こう。これは私も悪いのよ」
そう言ってお母さんは再び席についた。
「千隼、今までごめんなさい。千隼のことを全く配慮せずに行動してしまって。今更この謝罪を受け取って欲しいとも思わない。許せとも思わない。でも、これだけは聞いて欲しいの」
お母さんは私を真っ直ぐに見て、頭を下げた。その所作はあまりに美しかった。私は口を結んだまま次の言葉を待った。
「どうか、自分の事を呪わないで。これだけはお願い」
「うん、分かった」
私は小さく返事をして俯いた。自信が無くなった。これから何を言ったら良いんだっけ?私は思考が止まってしまった。
すると、お父さんは私の隣に座って、再び口を開いた。
「少し昔話をしようか。言い訳をするわけではないが、聞いて欲しい」
私は横を見た。そして息を呑んで、首を縦に振った。
「私の一人称が『私』であることに違和感を持ったことはあるかい?」
私は首を横に振った。
「私はね、小学校の時から『私』を一人称に使っていたんだ。もちろん、周りからは浮いた存在だった。なぜそうしたのか、それは親がそう言ったからだ。親の発言力が強いことは言うまでもない。そのせいで千隼に迷惑をかけてしまったんだ」
確かに一人称が私の男の人は子供では少ない。親が言ったから?なぜそんなことを?
その疑問は次の言葉で解明された。
「私の親は、所謂、過保護だったんだ。私のことを溺愛していたんだ。学校までは毎日送り迎えをしてもらっていた。一から百まで身の回りの事は全ての世話を私の親はやったんだ。もちろん何をするにも親の許可が必要で、当時は友達が一人もいなかったんだ。今でこそ、少しはいるが。それに友達ができても、こんな友達は必要無い、と勝手にその子に言ってしまわれて。周りからは完全に孤立していたよ。友達なんてできるはずもなかった」
私には驚きしかなかった。あまりの情報量に頭がパンクしそうになる。
「スポーツをすることさえ許されなかった。勉強さえしていればいい、その一点張りだった。成績は常にオールパーフェクトを求められた。テストも満点でなければいけなかった。一つでもミスれば終わりだった。両親に、鬼のような権幕と鼓膜が破れるかのような声で何時間も怒られ、殴られた。でも、その後少し経つと、急に泣きながら謝ってきて私の手当てを始める。おかしいと思っていたんだが、私に抜け出す術は無く、ただ受け入れるしかなかった」
私は身の毛が弥立った。最早、同じ人間とは思えなかった。お父さんの顔を見ると、今までに見たことの無い、諦め切った表情をしていた。
「ただ、満点だった時はすごく褒めてもらえたんだ、過剰なほどに。私はそれを全く嬉しく思わなかった。寧ろそれはあまりに怖かった。私が満点を採る理由は褒めてもらうからではなく、怒られるのが怖かったからだった。私には常に二人の顔が歪んで見えた。常に機嫌を伺い、当たり障りのないように過ごしていた。家での安息など一つも無かった」
お父さんは失笑しながら話した。
これがお父さんの過去?到底、笑っていられなどいなかった。いや、寧ろ酷すぎて笑う他ないのかもしれない、今のお父さんのように。
私の中で点と点が結びついていく。これが今まで帰省が無かった理由、そして私に対して取った態度の理由。私はなんてことを言ってしまったんだ。後悔をしても後の祭りだった。
「そういえば、毎朝六時に起きていたんだが、少しでも遅れれば殴られて起こされたな」
またしても失笑しながら話した。
もう辞めて、自分を傷つけるのは。
「ごめんなさい。そうとは知らないで無責任なことを」
「千隼が謝る必要なんて無い。話さなかった私が悪いんだから」
お父さんは慌てて否定した。でも、これは知らなかったでは済まされない。
「でも、話すのは辛いでしょ?」
「辛いよ。この話をして笑われたことだってある。でも、千隼なら絶対に聞いてくれると思ったんだ。だけど、自信が無い自分も居たんだ。娘さえ信用できないとは、ほんと情けないよ」
情けなくなんか無い。これを人に話すことがどれだけしんどいか。しんどい思いをして話したのに、それを笑われてどれだけ傷つくか、分からないながらも分かる。
「そんなことはないよ」
私は泣きそうになった。あまりに悔しくって、ムカついて。お父さんの親へ、お父さんの話を笑った人たちへ、そして何より気づかなかった自分へ。私は唇を噛んだ。
「そんな顔をするな。折角の美人が台無しだぞ」
そう言って、微笑みながらお父さんは私の頭を撫でた。
そんなことはどうでもいい。私はただ、どうしようもない感情を募らせた。
少し間を空けて、お父さんは言葉を紡ぐ。私の頭を撫でながら。
「でも、良いんだ。今はこうやって千隼や智慧と暮らせているし、仕事も忙しいが、高校の時の友人とうまくやりくりしている。忙しいせいで千隼にはとんでもない迷惑を掛けてしまったがな」
そう言って、お父さんはお母さんの淹れた紅茶に口をつける。
「こうやって美味しい紅茶も飲めているしな」
お父さんはとても愛おしそうに笑った。
私は何も言わなかった、いや、言えなかった。今の私には唇を噛んで、滲む涙を堪えることしかできなかった。
「だからそんな顔をするなって。私の為だと分かっていても、私まで悲しくなる」
「うん、分かった」
私は熱くなった目頭を擦って、震える声で答えた。紅茶を飲んで落ち着こう。
私も紅茶を啜る。
「美味しい」
「でしょう?ダージリンのファーストフラッシュなの、これ」
紅茶に詳しいお母さんのことだから、きっと良いのに違いない。
「お母さんは知っていたの?」
「ええ、だから何も言わなかったの。私が実視のことを勝手に言うのはお門違いだからね」
そこからは少しづつ空気が和んでいった。
私は今まで気になっていたことを思い切って聞いみた。
「お母さんはどうしてお父さんと結婚したの?」
「ふふ、とうとう聞かれたわね」
お母さんは紅茶を一口飲んでから、喋り始めた。
「この人だ!と思ったのよ、出会った時に。所謂、一目惚れってやつね」
「一目惚れ?」
思っていたよりロマンチック答えだった。
「馴れ初め聞きたい?」
「聞きたい」
「それなら、まずは実視に話してもらわないとね、高校の時のことを」
そう言ってお父さんに目配せをした。
「ああ。まあ、高校に入っても親の態度は変わることはなくてな。寧ろ、エスカレートしていったんだ。時には家に閉じ込められることもあったんだ。そんな中、出会ったのが私の会社の共同創設者で副社長の川上颯太だったんだ。そして、颯太の友達の一人が智慧だったんだ。他にも三人の友人に出会ってな、楽しい日々だったんだ。今でも付き合いがあって、会社を一緒に経営していくほどには仲が良い。今度また紹介するよ」
うん、と私は頷いた。さっきとは打って変わって楽しそうに喋るお父さんに、私は安心した。
「さっきも言ったが、私の両親は勝手に私の友達に友達を辞めろと言うような人たちだ。その時も例外なくみんなに言いに回ったんだが、彼らはそれを突っぱねて追い返したんだ。しかも、そのことを一言も私に言わずに。親から聞いた時はビックリしたよ、まさかそんな人が居るなんて思わなかったからな」
内容はとんでもないけど、楽しく話すお父さんを邪魔するわけにはいかなかった。お父さんにとってはこれは明るく楽しい話なんだ。
「それでな、私の両親はその友達の親に言いに行ったんだ。友達を辞めるようにって。でも、颯太たちの親御さんはそれを追い返したんだ、子供の自由だろって。あの時は世界がひっくり返ったのかと思ったよ。そのくらいビックリした。そこから両親の行動はさらにエスカレートしていって、とうとう痣を隠せなくなってきてね。児童相談所も全く動いてくれなくて八方塞がりになっていた時に、智慧が言ったんだ」
いつになく饒舌なお父さんの話が面白くて、興味津々で聞く。
「『逃げよう』って、『どこか遠くへ、実視のことを誰も知らないくらい遠くへ逃げよう』って言って、私の腕を引っ張って行ったんんだ。拒否権は無かったよ。どちらにせよ断るつもりは初めから無かったんだが。その時から私は智慧にゾッコンだな」
「好きな人がどんどん弱っていくのを見てられなかったのよ。どう考えてもおかしいくらい痩せていたのを覚えてる?」
お母さんは懐かしそうな悲しそうな顔をする。
「あの時は食べ物が無かったんだ。罰として食事抜きだったからな」
「なんで?」
純粋に気になった。大切にするはずじゃない?溺愛していたら。
「歪みきっていたからな、両親の愛とやらは。私にとってはただの体罰の他ならなかった」
「私の両親は自由な人だったから、駆け落ちもオッケーしてくれたし、初期費用さえ渡してくれたよ。それで『戻ってこなくていい。後処理は任せろ!』なんて言って私たちを送り出してくれたし、至れり尽くせりだったよ」
「そうなんだ。なんか変わってるね」
まだ見ぬ私の祖父母はかなりクレイジーな人たちらしい。
「変わっているどころじゃないよ。本当に変人。面白いし良い人なんだけどね」
「その後他のみんなも追っかけて来て、みんなで会社を作って今に至るって感じだな。会社作るまでも作った後もいろんなことはあったんだがな。その話は今度友人たちと一緒にしようか」
気にはなるけど、今度話してくれるならいいか。
「これが私たちの今まで。初めての出会いは憔悴しきって教室いた実視を起時だったよ。放課後にずっと外を眺めているのを見てね、不謹慎だけど運命を感じたの。脳を焼かれるような感覚だったのを覚えてる。その人のことを考えるだけで心が温かくなるの」
「胸が温かくなる?」
「そう。考えているだけで好き!ってなったの。その時からずっと頭の中が実視のことでいっぱいになったのよ!もう直ぐに告白したんだから!」
「あの時は急すぎてびっくりしたな」
二人はそう言って笑い合う。私も笑ってはいるけど、お父さんの状態の方が気になった。痩せきって憔悴しきっているお父さんが全く想像がつかない。
そこからは馴れ初めの話にしてはあまりに苦い話だった。面白かったけど、ところどころ笑えない話もあった。
でもお父さんがすごく優しいこと、お母さんが思っていたよりも天真爛漫だったこと、今まで話せなかったことを話した。
初めての団欒はあまりに楽しくて、知らない間に日付を跨いでいた。
爽やかな朝。あまりの寝起きの良さに自分でも驚く。昨日は夜中まで起きていたのに。夢見も良かった。新しい朝が来たとはまさしくこのこと。
あの後、ご飯のことについて改めて謝られた。私はもう正直どうでもよかった。それからいくつかのルールを設けた。朝食と夕食は絶対に三人で摂ること、どうしても一緒に摂れない場合はできるだけ早く、事前に連絡をすることの三つ。それだけ。
私は部屋からダイニングへ降りる。今までは重かった足取りも軽くなった。
「おはよう」
「おはよう。今日はパンにする?」
私は軽く頷く。朝に会話したのはいつぶりだろう。もう覚えていないほど昔な気がする。
「おはよう」
遅れてお父さんも部屋から出てきた。今回の話を機に仕事の頻度を抑えることにしたらしい。今日は友人たちと話し合って、改めて決めるそうだ。
二人とも一度決まれば行動までがとても早い。まあ、駆け落ちをするほどの行動力はあるから、どうってことは無いんだろう。少し視野が狭いのは玉に瑕だけど。
今日も学校があるのは変わらない。有言実行したから、今日は晴れた気持ちで秘密基地に行ける。昨日のことは詳しくは話さないけど、ちゃんと話し合えたことは話そう。お父さんのことは口を固くしておきたい。
朝食を食べ終わって支度をする。左手を使わずに準備をするのも慣れてきた。
もう動かしても痛みは無くなったけど、まだ骨はくっいてはいないらしい。あと一週間でシャーレも取れて、包帯を巻く必要が無くなる。リハビリをしないと。
長い髪を梳かすのはお母さんにやってもらった。これだけはどうしても上手くできない。
「本当に綺麗な髪ね」
「お母さん譲りだよ」
お母さんも綺麗で長い髪をしている。
「私よりずっと深い黒ね。これは実視譲りね」
「確かにそうだね」
お父さんはしっかりとした艶やかな黒髪をしている。
今日は普段していないセットをしっかりとしている。全く隙が無いように感じさせる。
一通り準備が終わって私は玄関へ行く。私は二人より早くに家を出る。二人は玄関まで来て見送ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな。行ってらっしゃい」
お母さんとお父さんが見送ってくれる。久しぶりの行ってらっしゃいに心がむず痒くなる。それは心地いいむず痒さだと分かる。
「行ってきます」
私はそう言って玄関の扉を開ける。
秋霖が終わって秋が深まりつつある空は雲一つ無く、高く感じた。気温もちょうどよく、空気は澄んでいた。道に生える薄は風に揺れ、落ち葉は風に乗って空高くへ飛んでいく。薄梅雨を乗り越えた街の木々たちは、紅葉を迎えて冬を越す準備をしている。
思わずスキップしたくなるほど良い天気だ。
蜻蛉のように秋の風に乗っているような気分だった。私は軽い足取りで学校へ向かった。
*
氷雨匂わす片時雨
秋が深まり木々が色づく中、図書室の前の銀杏や紅葉も例外なく彩り鮮やかになっている。
腕はすっかり完治し、リハビリもほとんど終わってほぼ元通り動くようになった。文字を書くのは全く問題無い。
読書の秋と言ってはいるけど、放課後の図書室には私以外一人も居ない。一人なのは久しぶりな気がする。藍澤さんたちは少し遅れてから来るそう。
本を読んで待っていると、扉の開く音がした。藍澤さんたちはここまで早くなかったはず。
私は誰が来たのかを見るために顔を上げた。そこにはいつもの常連さんが居た。軽く会釈をして、また本に目を落とす。
彼女はいつもここへ来て、一冊だけ本を借りてから帰る子だ。確かひとつ下だった気がする。会話こそ無いけど、大体アイコンタクトでなんとかなる。彼女とはよく似た感性なのかもしれない。
彼女は図書室の奥へ消えていった。本を選びに行ったのだろう。
小説を十ページほど読んだ頃、彼女は戻ってきた。今日は少し長い気がした。最近は腕も治って調子がいいから、読むのが早くなっているのかもしれない。
彼女は一冊だけ本を持ってカウンターへ来た。他の人なら貸し出し期限とかの説明をするけど、常連さんにはもうしないことにしている。
彼女は軽く会釈をして図書室を出ていった。
また、一人になる。前までは一人になると嫌な考えが頭の中を巡っていたけど、今は一人になってもそんなことは無い。それに藍澤さんたちのことを考えていると心が温かくなる。
私は本を閉じ、徐に窓際に行く。外の紅葉は紅く、銀杏は黄色く染まっている。
窓を開け、外の風を感じる。秋らしい匂いがする風が図書室の中に入ってくる。大分涼しくなってきて、冬に差し掛かりつつあるのが感じられる。
藍澤さんに痴漢から助けられたことが昨日のように感じる自分と、遥か昔に感じる自分がいる。
あの時のことを思い出す。秋という季節は過去に浸るのにはちょうどいいのかもしれない。
色々思い出していると気づいた。藍澤さんに出会ってから、私の生活の中心には常に藍澤さんが関わっていることに。
何か急に恥ずかしいというか、むず痒い気持ちになった。
この間のお母さんの言葉が頭の中に浮かぶ。
「考えているだけで胸が温かくなるの」
急に顔が火照ってきた。そんなはずはない、だって友達だから。私が勘違いしているだけ。
「考えてるだけで好き!ってなったの」
私は頭を振って雑念を払う。秋の涼しい風で頭を冷やそう。しばらくは落ち着きそうにない。
窓に映った私の頬は紅葉のようになっていた。
なんとか火照った顔を元に戻せた私は再び小説の世界へ飛び込んでいた時だった。
「お待たせ!暇してなかった?」
扉が開くと同時に雲母坂さんの声がする。
「ううん、本読んでたから大丈夫だよ」
「思ったより長引いてさ、遅くなった。ごめん」
くたびれた様子の藍澤さんを見て、思わず顔が熱くなりそうになって視線を本へ外す。
「長引いたのは藍澤さんのせいじゃないですから、謝らないで下さい」
できるだけ平静を装う。表情は変わっていないはず。
「今日はチートデイ!このまま帰ろ!」
今日はみんなで決めたチートデイ。勉強はせずに秘密基地に行くことになっている。だから私も待っている間は勉強をしなかった。
「うーん。よし、帰ろう」
蒼井さんは机に手をついて、猫のように伸びをした。
私は荷物をまとめて、みんなについて行った。
いつもの松林を抜けて、公園へ着いた。
高く秋らしい淡い空は薄雲がかかっていて、飛行機雲は遥か彼方まで伸びていた。潮風は秋の暖かさを纏いつつ、冬らしい澄んだ空気を運んでいる。まさに晩秋といった感じの空気と空模様になっている。
「ちょっと肌寒いかも」
雲母坂さんが腕をさすりながら言う。
「そうかな?そんなことは無い気がするぞ」
蒼井さんは海の方を見て返す。
「瑞姫が寒がりだからなだけなんじゃない?冬はいつもこたつに篭ってるし」
「そうかも。降谷さんんは寒がり?」
「どっちでも無いかな。夏の暑いのも冬の寒いのも平気」
「そうなんだ。強いね」
「でも、夏の効きすぎたクーラーは駄目」
「分かる。あれは冬の寒さとは違うもん」
藍澤さんが隣に来て言った。一瞬心臓が跳ねたけど、直ぐに落ち着かせようとする。
「煌照は暑がりなのにクーラーつけないよな」
そうなんだ。それはかなり意外。蒼井さんのおかげで落ち着かせることに成功した。
「あれは別物。寒いっていうか冷える。俺は扇風機で十分」
「それはそうかも。私も扇風機で十分だけど」
嘘でしょ?あんな暑さの中、扇風機だけは正気じゃない。
「この夏の暑さで?」
「うん。煌照はそれでたまにくたばってるけど、私は大丈夫」
雲母坂さんはジトっと悪い笑みを浮かべて、藍澤さんを見る。
「あれはたまたまだ。いつもはあんなことにはならない」
「暑がりのくせに強がちゃってー」
「うっ、それは何も言い返せないな」
言い返せないんかい。心の中でツッコミを入れる。でも分からなくもない。クーラーの効いた部屋に居すぎるとしんどくなる。
何かと藍澤さんとは共通点を探してしまっていることに今更気づく。駄目だ、この間のお母さんの話を聞いてから私はおかしい。なんとかしないと。
何か心に蟠りというかモヤモヤを抱えたままみんなで喋った。それは決して嫌なものではないけど、噛み砕かなければいけない感情だと思っている。
みんなと話しながら頭を整理していった。だけど何一つ分からなかった。
気づくともう日は沈んで、夕日で紅く染まっていた空も星がポツポツと見えてきた。明日も晴れるかな。夕焼けの次の日は晴れると聞いたことがあるから。
秘密基地に来た時は夕陽が沈みきると解散することになっている。三人はいつも駅まで送ってくれる。駅までの道のりも喋って過ごす。
私たち四人は常に喋っている。帰ると喉が痛くなっていたこともあったほどだ。
秘密基地に集まってから別れるのは何度やっても慣れない寂しさがある。
もっと喋っていたい。でも家に帰りたくないなんてことは無い。前までは帰りたくなかったけど、今は帰ってお父さんとお母さんと過ごしたい。
学校も楽しいし、家も楽しい。かなり充実した生活を送っていると思う。
みんなはどうなんだろう。今は楽しそうにしているけど、家では何か悩みがあったりするのかな?秘密基地でのルールがあるから、みんなも何かしら家に帰りたく無い理由があるのかな。本人が言うまでは聞かないようにしよう。お父さんみたいなことがあるのかもしれないから。あれほどまでにひどくはなかったとしても。
何かあってからじゃ遅いけど、私だって助けになりたいから。
「ただいま」
「おかえり」
今日はキッチンにお父さんが立っていた。
「お父さんって料理できたんだ」
気がついたら口から出ていた。
「ああ、普通にできると言って差し支えはないだろう」
お父さんは慣れた手つきでフライパンを返す。できたなら私の気持ち分かったんじゃない?料理をすっぽかされる気持ちが。
もう包み隠さずに行こう。私は言い返そうと口を開こうとした。
「母親から吹き込まれたからな、これは。駆け落ちしてからは智慧が料理をして、私に料理をさせなかったんだ。智慧なりの気遣いだったんだろう。手探りで一生懸命にやっている智慧を邪魔するわけにもいかなくて、私は何も言えなかったんだ。千隼が料理を始めた時もなんて声を掛ければいいか分からずに、そのままズルズルと作ってもらいっぱなしになってしまったんだ。本当に申し訳ない」
お父さんは料理を盛りつけた後、私に深く頭を下げた。
そんなのずるいよ。何も言えなくなる。私が悪いみたいになってしまう。お父さんに悪気があるわけじゃないのは分かる。お父さんは幼少期を親と過ごして、会社を建ててからは仕事ばかりで、世間がすごく狭いことは最近になって分かったこと。もう、これは慣れたこと。
「何してるの実視?」
お母さんが上の階から降りてきた。
「謝るのは禁止って千隼と決めたでしょ。千隼を困らせないって言ったでしょ」
「そうだった。すまない」
「ほら、せっかくのご飯が美味しくなくなってしまうじゃない。実視の料理は本当に美味しいんだから。ほら千隼も食べて」
そう言ってお母さんは摘み食いをした。
「うん!この味、美味しい」
私も少しつまんでみる。確かに美味しい。できると言って差し支えない?完璧でしょ。ちょっとしたレストランの料理より美味しい。ひょっとして私の料理は下手くそだったから食べてくれなかったのかな?一人勝手に自信を失くす。
「美味しい」
でも、私は素直に感想を口にした。
「それは良かった。今度、一緒に作らないか?教えて欲しいんだ。冷めてしまってもあそこまで美味しいおかずの作り方を」
「うん。いいよ。私もお父さんに料理教えて欲しいよ。ここまで美味しい料理を作れるなんて知らなかったから」
美味しいと言ってもらえて少しだけ自信がついた。でも、まだ不安は拭えない。今までのことを完全に水に流せない自分がお父さんを疑ってしまう。
夕飯を食べ終わって、下げた食器を洗う。お父さんが隣に来て、洗った食器を拭いていく。とても手際が良い。
「私は口を開けば暗い話しか仕事の話しかできない。これも暗い話になるんだが、聞きたいか?」
「もう慣れたよ。お父さんには吐き出し口が必要でしょ」
私は受け入れた。お互いの誤解を招かない為にも話は聞く必要がある。最近はお父さんと話すのが楽しくて、よく夜遅くまで喋っている。そこで分かったことは、お父さんは人の話をしっかり聞いてくれる人だということ。私の学校での話をちゃんと聞いてくれるし。
「今回は私の話ではなくてな、千隼の友人の話なんだ」
「私の友だち?」
意外な話題だった。確かに色々話した。秘密基地のこと以外はほとんど話した。
「千隼の友達はひょっとして、何か家に問題を抱えているのかもしれないと思ってな。もちろん、これはあくまで私の直感だから聞き流してくれてもいい。でも、よく一緒にいる三人に対して、千隼は彼らの家のことについて聞いたことが無い、もしくは聞けないんじゃないかと思ってな」
私の食器を洗う手が止まる。確かに聞いたことがないし、秘密基地のルールでも聞かないことになっている。
私の中にあった疑問、藍澤さんについて。はっきりとしなかった答えにたどり着く。
「答えなくていいんだ。もし、思い当たる節があったらできるだけ一緒に居てあげて欲しいんだ。その子達はきっといつか助けを必要とするはずだから。できるだけその子達に寄り添ってあげて欲しい」
お父さんの表情は真剣だった。
「分かった」
「それと、私のことも頼って欲しい。何かあってからでは遅いかもしれないが、私にできることがあれば、私は全力でその子達を救う。これは過去の私が願っていたことだから。身近な人の中に味方がいることを教えてあげて欲しい。何かあった時、その子達はきっと余裕が無くなって、周りが見えなくなってしまうだろうから」
とても聞き流せるような内容ではなかった。これはきっとお父さんの体験談だろう。藍澤さん達が理不尽に苦しんでいるのは絶対に嫌だから。
「それと、私は君たちの仲に水を刺したいわけじゃない。だからできるだけいつも通り接してあげてほしい。こういうのには敏感だからな」
「分かった。ありがとう」
私は再び皿を洗う手を動かす。何か私の中で決意ができた。
程よい暖かさの昼休み。葉の色が染まりきった銀杏や紅葉を日差しが暖かく照らす。昼下がりの太陽は美しく紅葉した木々達をより温かく見せる。
天気のいい日はよく図書室の前の中庭で過ごしている。ここは穴場スポットで誰も居ない。
秋晴れの空の下、お父さんが作ってくれたお弁当を食べる。お父さんが休みの日はこうしてお弁当を作ってくれるようになった。
この前お父さんに教えたレシピの唐揚げが入っていた。冷めても美味しくなるように研究をしたやつ。
笑みが溢れる。早速試してくれたんだ。美味しい。
料理を教えていた時、今までの罪悪感がどうとか言っていたけど、私は全く気にしない。これまでできなかったことを取り返すのに必死だから。
お父さんは気にしすぎなところがある。まあ、仕方ないか。それもいいところだから。
藍澤さん達といる時間が増えて、それが楽しくて最近は気にしなかったけど、視線を感じる。
視線の主達はきっと、一切の悪意がないんだろう。興味本位の視線がどれほど人を追い込むのかも知らないで。
最近の私は全く気にしなくなった。前までならどこか場所を移したりしていたけど、もうそんなことはしない。
自分でも変わったな、という自覚がある。色々抱えすぎていたものが無くなって、すっきりした。家族と話し合えたことが起因しているんだろう。それに藍澤さん、雲母坂さん、蒼井さんという友達ができたことも大きい。
友達、この言葉を心の中で噛み締める。心が中心から温かくなる。
ゆっくりとお弁当を味わい終わって、日向ぼっこをしていると後ろから気配を感じた。
私はゆっくり後ろを振り返る。
そこには図書室の常連さんが居た。どうかしたのかな?
「あの、突然すいません。本を借りたいんですけど、図書委員さんが居なくて」
彼女は透き通った小さい声で尻すぼみに言った。
またしても視線を感じる。おそらく彼女が私に話しかけたからだろう。話しかけたことが気に食わないのかな?
別にどうでもいいじゃないか。下心を持って遠くから見続けるより随分とマシだ。マシだもおかしいか。
ていうか図書委員はどうなっている?今日は私の当番じゃないから、誰かがサボったみたい。
「ごめんなさい。私が手続きしますので少々お待ちを」
図書室に入ると本当に誰もいなかった。
私はカウンターで貸し出し手続きをした。
「すいません突然」
彼女は小さい声で言った。さっきの視線のせいでより縮こまっている。
「謝らないで下さい。謝るのは私の方です。これは図書委員の責任ですから」
彼女は何かを口にしようとしてやめた。何を言おうとしていたかは気になったけど、お礼を言うとすぐに帰って行った。
今日の当番は誰だ?確認のしようがないから今度先生に報告しておかないと。
初めから見受けられていたことだけど、近頃は特に酷い。私は別に構わないけど。放課後の図書室の当番は全部私になってるし、今更昼休みの分が増えても関係ない、お客さんも少ないし。
私はそのまま図書室で過ごした。外を眺めていればすぐに時間は過ぎた。
午後の眠たい授業を乗り越え、図書室へ向かう。蒼井さんは爆睡していた。藍澤さんに叩き起こされてもびくともしなかった。雲母坂さんは思いっきり噛んでたっけな。
一人思い出し笑いをする。
教室で話すことはないけど、こうして見ているだけでも彼らは面白い。クラスでも中心いる存在で周りからの信頼も厚い。
今までは気が付かなかった。私は自分のことばかりで周りのことを視線を向けてくる存在、として一括りしていたから。今はもうやめている。
図書室の扉を開ける。いつものメンバーがいる。この感じ、毎回安心感を覚える。
「来た。ほら始まるよ」
雲母坂さんが蒼井さんを起こす。彼は少し喉を鳴らしてから起きた。
「何?来た?」
うーんと伸びをしてからこっちを向いた。長い前髪の下の目はきっと寝ぼけ眼なんだろう。
「俺が起こした時は無反応だったくせに瑞姫だとよく起きるな」
藍澤さんが茶化す。蒼井さんはムッとした顔をした。
「まあ、それだけ瑞姫がうるさいってことかな?」
「やかましい!ほら、勉強するよ!」
毎回おなじみのやり取りに微笑ましくなる。
「雲母坂さんは物静かだと思うよ」
「ほらね」
ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。実際教室では中心にいるとはいえ、静かではある。ここでは少しはっちゃけている気はするけど。このメンバーだからこそなのかもしれない。
そこからは勉強三昧。みんな真面目だからサクサク進んで、今や三年生の範囲もほとんど終わってしまった。三年生になると受験勉強がほとんどで習うことが少ないとはいえかなり早い。予習も復習もバッチリでこの間のテストは私は散々だったけど、蒼井さんも順位を一桁まで上げることができた。
黙って勉強をする時間が続く。シャーペンが紙を走る音だけが響く。互いの息遣いさえ聞こえそうなほど静か。でも、息が詰まるような感じはしない。
日が傾いてきて夕日が窓から差し込む。
「うーん。休憩する?」
藍澤さんが沈黙を破る。大きく伸びをした体は細く見えた。
「藍澤さんは痩せてるね」
「あ、ああ。まあな」
藍澤さんらしくない歯切れの悪い返事だった。これはあまり追及はしない方が良さそう。
「疲れたー。今日はおしまい」
「もう終わるの?まだまだできるけど」
「斗和も少しは休憩したら?詰めすぎは良くないよ」
「それもそうかも」
みんな参考書を閉じて一息つく。
「そうそう、見て見て!これどう?」
そう言って雲母坂さんが取り出したのは手提げ鞄だ。どこか見覚えのある向日葵の生地を使っている。
「これ、降谷さんに選んでもらった生地で作ったんだ」
「あの時の……」
その時の記憶が頭を掠める。
「それとジャジャーン!」
雲母坂さんはもう一つ手提げ鞄を取り出した。この柄は、もしかして。
「これは降谷さんが選んだ生地の方。やっとできたから見せようと思って」
「ちょうどいいサイズで使いやすそうだね」
でも、二つ作る必要は無い気がするけど。
その疑問は一瞬で解決した。
「これ、プレゼント。降谷さんに」
「え?私に?」
なんで?は、喉に詰まって声にならなかった。訳が分からなかった。
「降谷さん、色々大変だったでしょ?骨折したりしてさ。そのお見舞いといつも勉強教えてくれてるお礼」
「そんな感謝されることでもないよ」
教えるのは私が好きでやっていること。初めは頼まれたからだったけど、今は教えるのが楽しくて教えているだけなのに。
「感謝されることだよ!降谷さん、骨折してからも変わらずに私たちに教えてくれたし。自分は勉強できなかったのに」
「あの時はあれしかすることがなかったから」
私は首を横に振った。あの時はあれが全ての現実から逃避できることだと思っていたからだったから。
「誰でもできることじゃないよ。自分が今できないって分かっていることを人に教えることはしんどいことでしょ?それでも降谷さんは変わらずに教えてくれたから、無理をさせてたんじゃないかって思って」
「無理なんかしてないよ」
無理なんかしていない。あれは私の自己満足。誰かに教えることで自分が満たされたかっただけなんだ。
「だから、もしよかったら受け取って欲しいの」
そう言って紫陽花柄の手提げ鞄を差し出してきた。
私には受け取る以外の選択しかなかった。もちろんこの鞄も感謝の気持ちも嬉しい。でもこれが自分の至らなさから来たものだと考えると。自分の未熟さを呪う。
「ごめんね、こんな無理矢理な形になって」
「謝ることなんて一つもないよ。素敵な鞄ありがとう。大切に使うね」
そう言って鞄を受け取る。彼女の手はかすかに震えていた。
もちろん本心から出た言葉だ。だから、変な風にとってほしくない。
彼女の申し訳なさそうな笑顔が痛い。
「何プレゼントを渡すのに気まずそうにしてるんだ?」
変な空気を変えたのは藍澤さんだった。私たちはそちらを見る。
彼は目を閉じながら言う。
「瑞姫の心のこもったプレゼント。それを受け取るに相応しい降谷さんの普段の行動。この二つがあるのに気まずくなってんのはおかしいだろって言いたいんだ。もっと明るくいこうぜ、せっかくの機会が台無しにならないためにな」
彼はこちらを向いて笑った。窓から差し込む夕日が逆光になってはっきりとは見えなかったけど、とても優しい顔をしていた。
彼は優しい口調のまま続ける。
「二人とも優しすぎるから、互いのことを考えすぎて自分に自信が無くなっているんじゃないか?それが悪いとは思わない。でも今回は悪い方向にいってしまっている気がする。もっと楽に行こうよ、その方が楽しいし明るいだろ?」
あまりに的確な言葉だった。藍澤さんは何でもお見通しだ。
毎回助けてもらってる。
「うん、ごめんね、降谷さん。ありがと」
彼女はニカっと笑った。さっきまでの笑顔とは全く違って明るい感じ。
「私もありがとう。早速使ってみてもいい?」
彼女はこくりと頷いた。
私は参考書を入れて、立ち上がって鞄を肩に掛けた。
「どうかな?」
「すごく似合ってる」
「あの傘と相性が良さそうだ」
「サイズも本当にピッタリだね」
三人からの評判は良さそうだ。セカンドバックとして今後使っていこう。
「ありがとう」
私は自然と笑っていた。最近は笑えているか自信が無かったけど、今回はうまく笑えたはず。ほら、みんなも笑っているし。
三人とも温かい笑みを浮かべていた。
しばらくは変な空気が続いたけど、藍澤さんと蒼井さんが面白い会話を続けてくれたおかげでいつもの楽しい空気に戻った。
私と雲母坂さんはトイレに向かった。この時間ともなると後者には生徒も先生もほとんどいない。グラウンドからは常に運動部の声はするもののかなり遠くてかすかなものだ。
「さっきはごめんね。あんな空気になっちゃって」
「ううん。私の方こそごめん。それと改めて、プレゼントありがとう」
彼女は頷いた。何か言いたそうだったけど、それは飲み込んだようだった。
雲母坂さんの気にしすぎなところは私にも通ずるものがある。
私は空気を変えるべく藍澤さんを倣った。
「藍澤さんはすごいね。的確な言葉で私たちのことをなんていうか、こう」
そこから先は出てこなかった。見切り発車でうまく言葉にできなかった。
何だろう?藍澤さんのああいうところはすごいけど、言語化しづらい。
「分かる。煌照は昔っからあんな感じで一歩引いた感じで宥めてくれるっていうか」
「確かに一歩引いた感じなのはすごく分かる」
雲母坂さんも強めに頷く。でも、まだ何か足りない気がする。
また一つ、彼を知りたい気持ちが増えた。
トイレを済ませ、並んで手を洗う。
「それにしても藍澤さんは不思議な感じがするよね」
「少し大人びてるんだよね昔から」
「そうなんだ」
なんか想像ができる。藍澤さんは昔から藍澤さんだったんだ。
校舎が静かだからか、水の出る音は思いの外大きく感じる。
「煌照みたいなお父さんがよかったなあ」
雲母坂さんは小さく呟いた。水道の音に少しかき消されるほど小さかった。
「お父さんはどんな人なの?」
私は気になって聞いた。
しかし、返答が無かった。雲母坂さんは黙ってハンカチで手を拭いている。
これは聞いてはいけなかったかも。
一つため息が聞こえた。
「まあ、話すほどでもない人だよ」
彼女は目を伏せ気味に言った。普段の彼女らしくない暗い声だった。
どんな表情をしていたか知りたかったけど、覗き込むのは憚られた。
「それより、降谷さんはお父さんとどんな感じなの?今も喋らない?」
さっきとは打って変わった明るい声で話しかけてきた。
私は最近のお父さんとのやりとりを話した。
雲母坂さんのお父さんについては聞かないことにした。
図書室に帰ると男二人で盛り上がっていた。私たちもそれに加わることにした。
「何盛り上がってるの?」
雲母坂さんは二人の会話の間に割って入る。
「たこ焼きの味変について」
「ぷっ」
私は思わず吹き出してしまった。蒼井さんが真剣な顔でそんなことを言うから。
「今度は何でそんな話題に?」
雲母坂さんは呆れたように聞いた。
「この前、スーパーの出店でたこ焼きがあったから」
そんなものがあるんだ。スーパーに出店なんてどんな感じなんだろう。
「それで思ったんだ。たこ焼きって途中で飽きてこない?」
「そんな飽きるほど食べる?」
雲母坂さんは呆れっぱなしだ。逆に蒼井さんは常に真剣に語っている。
「まあ、健全な男子高校生だと一舟じゃ足りんよな」
藍澤さんが言う。確かに食べ盛りの今、たこ焼き八個程度じゃお腹は満たされないけど。
「あれって主食だっけ?」
私は思ったことをそのまま口にした。
「あれは主食でしょ。お好み焼きは主食でしょ?」
蒼井さんが珍しく熱くなっている。
「それもそうかも」
「タコパとかあるけど、一体何個食べるつもりなの?」
雲母坂さんは終始呆れている。いつもはノリがいいのに。
「まあまあ、斗和はよく食うから」
「そうなの?」
「こう見えて結構な大食いだな。ご飯とか一食一合以上いけるぞ」
ん?一食一合って普通じゃない?運動部だと一食三合食べるって言うし、少ない気がする。
「そこまで多くない気がするけど?私も一食で一合くらい食べるよ」
三人は驚いた顔でこちらを向いた。
私の方こそ驚いている。一合は一食あたりに消費するお米の量として生まれた単位なのに。
「すごい食べるんだな。俺は半分が限界だ」
「私もそこまで食べられないかも」
「みんなもっと食べないと」
あまり食べないと言っている割にはみんな身長は高い。私はほぼ百七十センチだけど、雲母坂さんは私より少し低いだけ。蒼井さんは私より五センチほど大きいし、藍澤さんは十センチほど大きい。
「そんなに食うのか」
蒼井さんが呟く。本当に衝撃を受けているようだった。
「これが普通?」
雲母坂さんも同じく衝撃を受けている。
悩んでいるみんなを改めて見ると、かなり細身だと気づく。
普段は制服で着膨れしているから分かりづらかったのかも。それにみんな年中長袖を着ているのも気づかなかった理由の一つだろう。
お昼を一緒に食べることが無いから何を食べているのか気になった。
「普段何食べてるの?」
そんなに難しい質問ではないのに、みんなして考え込む。
最初に口を開いたのは雲母坂さんだった。
「私はよくパスタを食べてるかな」
「パスタ?」
「そう。あまり手間がかからないし」
パスタは確かに茹でるだけで手間は少ない。でも、主食がパスタなんてあまり聞いたことが無い。あくまで日本での話だけど。
「改めて聞かれると、普段何食べてるんだろう」
藍澤さんはそう言って顎に手を当てた。
「俺はご飯かな?」
日本人的にはこれが普通だと思う。
すると藍澤さんが
「逆に聞くけど降谷さんはどんなの食べてるの?」
と、私に聞いてきた。
「私はご飯と汁物と何か主菜を一品かな?」
「そうなんだ」
誰もそれ以上は聞いてこなかった。
そして話はまたたこ焼きの味変に戻り、蒼井さんが熱語りをしているうちに下校時間になった。
何か引っ掛かることの多い日になった。
今日から少し冷えてきて、制服の冬服だけでは肌寒い気温になってきた。何よりスカートが寒い。男子の制服みたいにズボンを履きたい。
それに雨が降っている。シトシトと弱くて冷たい雨が地面に小さな水溜りを作る。雨を降らせている雲は薄灰色で、分厚く重たそうな感じはしない。
ここ数日はずっとこんな感じで雲母坂さんは、髪の毛が跳ねて鬱陶しい!と嘆いていた。
私は藍澤さんに見つけてもらった傘をさすのが楽しみだから、雨は嫌いじゃない。
雨粒が傘に落ちて鳴らす音が心を落ち着かせる。
ふと、出会った頃の藍澤さんを思い出す。今と変わらず少し大人びた雰囲気を纏っているのは覚えているけど、何か変わった気もする。飛び蹴りをした瞬間は衝撃的で、私の中の何かを蹴破ったような感覚がした。
今になってみると、あれは人生の転機だった気がする。
その時から私は……何かこう、新たな感情が芽生えた気がする。確証は無いけど。
「おはよう!」
教室に入ると雲母坂さんの元気な声が聞こえてきた。
「おはよう」
私は鞄を自分の席に置いてから雲母坂さんの隣に座る。
最近は早めの電車に乗って、誰もいない教室で雲母坂さんと藍澤さんと話すのが日課になっている。藍澤さんはもう一本遅い電車で来るけど、蒼井さんはこれには来ない。
雲母坂さん曰く、彼は朝が弱いらしい。仕方がないことだ。
「今日も雨かー。なんか嫌な感じ」
「そうだね。寒くもなってきたし」
「本当そう!ズボン履くの許してほしい!」
ふふ、と笑う。雲母坂さんはかなり歯に衣着せぬ言い方で面白い。
しばらく二人で話していると、教室の扉が開いた。
「おはよう」
藍澤さんの声が聞こえた。
「あっおはよう煌照」
「おはよう」
振り返ると、マスクをした藍澤さんが居た。
「大丈夫?」
雲母坂さんが心配そうに聞く。
「ああ、問題無い」
「風邪を引いたの?」
私も聞く。風邪薬は何種類か常備しているからあげられるかもしれない。
「大丈夫だ。大したことはない。気にするな」
さっきより少し暗めの声で早口に言った。
私には何となくの気配で分かる。これは踏み込んでほしくない時の声。久しぶりに聞いた気がする。
雲母坂さんとアイコンタクトをした。どうやら幼馴染の雲母坂さんも分かっているみたいだ。
「煌照はこの巾着袋どう思う?」
雲母坂さんはさっきまで私と話して話題に藍澤さんを巻き込んでいく。
「いいと思う。大きさもちょうど良さそうだし」
「でしょ。降谷さんに教えてもらった刺繍も入れてみたんだ。ほらここ」
そこには小さな向日葵の刺繍が入っている。あまりに繊細で私もかなり驚いた。
「すごく上手にできてる。この小ささでするのしんどくなかった?」
「結構しんどかった。でも、楽しかったから大丈夫」
雲母坂さんは可愛くはにかんで言った。最近知ったことだけど、雲母坂さんはかなりモテるらしい。
全く異論は無い。彼女はとても可愛い。その上頭も良くて性格も良いから尚更だろう。
「すごいな、これは。俺がやったら布より指に穴を開ける回数の方が多くなりそうだ」
「ふふ、なにそれ。藍澤さんって器用じゃなかった?」
「裁縫はやってみてるけど、さっぱりだ。先端恐怖症だしな」
「無理はしないでね」
「そこまで酷いものじゃないから大丈夫だ。その日の気分にもよるから」
たまに雲母坂さんに教えているときに一緒にやれているのは、調子によるからなんだ。
これは意外な弱点だ。
「マスク変えなくて大丈夫?濡れてるよ」
雲母坂さんが言った。私も気になってたけど、それは触れない方がいいんじゃない?
「ああ、変えてこようかな。あとトイレにも行きたいし」
藍澤さんは意外にもすんなり答えて、トイレに行った。
「今日の放課後は私と二人きりかもしれないね」
「なんで?」
急にどうしてその話をするんだろう。それにその結論はいったいどこから?
「女の勘ってやつ?煌照のことは早く帰した方がいいでしょ、今日は」
「それはそうだね。無理は良くないから」
「あと、付き添いで斗和もいなくなると思う」
なるほど、納得した。さすが幼馴染。全部お見通しなんだ。
ていうか、全然勘じゃない。まあ、細かいことは気にしない。
藍澤さんはすぐに戻ってきて、また会話に花が咲く。
雨脚が徐々に強くなっていることに私たちは気づかなかった。
雲母坂さんの言った通り、放課後の図書室は二人きりになった。藍澤さんは大事をとって帰り、蒼井さんはそれに付き添った。彼女は本当に全部言い当てた。
「言った通りになったね」
「雲母坂さんはすごいね」
「斗和と煌照とは長いからね」
「いつから一緒に居るの?」
「小学校一年からだね。もう十年以上一緒に居るね」
すごく長い。そんなに長く一緒に居られるなんて、互いにとても馬が合っているんだ。
「仲がいいね。どうりで今日のことも言い当てられたんだね」
「まあ、そうだね」
彼女は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「私たちが一緒に居るのには色んな理由があるけど、一番の理由は波長があったんだよね」
色んな理由?これは聞いていいものなのかな?お父さんの一件から私は今までより人への質問を気遣うようになった。
「のんびりした斗和としっかり者の煌照、そして普通の私。いい感じに町をしたんだよね」
「普通?」
「あっ……普通っていうのは、その……」
雲母坂さんは口を軽く開けたままフリーズした。これは突っ込んではいけなかったこと。
やってしまった。
どうにかして訂正しないと。頭をフル回転させる。
「もういっか」
隣からため息と共に呟いた声が漏れ出た。
「いつか口を滑らすとは思ってたけど、私が最初になるなんてね。それに我慢できなくなっちゃった」
「口を滑らす?我慢?」
一体何を言ってるの?私の知らないところで何かゲームをしていたの?
高速で頭を回転させて今までの違和感を振り返る。
そんな私を横目に雲母坂さんはうーんと伸びをして、口を開いた。
「私、元から嘘を吐くとか何かを人に隠すとか苦手なんだよね」
「嘘…?」
もう何がなんだか分からなくなった。
「ふふ、もう気づいてるんじゃない?」
彼女は微笑みながら言った。
気づく?一体何に?
あまりに突拍子のない言葉に振り回される。
「まあ、私の口から言えるのは私のことだけなんだけど、聞いてくれる?」
私は訳も分からずコクリと頷く。
「秘密基地のルールにあったよね、家に居たくない時に来るって。あそこへ連れて行った時からもう、気づかれてもいいとは思ってたんだけど」
あのルール。気づいていながらもスルーしていた違和感。触れるべきではないと思って触れていなかったこと。
「家に居たくないんだよね」
図書室が沈黙に呑まれる。雨音が図書室を包む。
前までの私がそうだったから複雑な気持ちになった。それに私は解決してしまっている。それも三人に相談をして。
今更ながら後悔をする。
「みんな家に問題があるんだよね」
私はなんて言えばいいか分からなくなった。俯くことしかできない。
私には沈黙を破ることができない。
少し間が空いて、
「秘密基地行こっか」
立ちながら言われた。諦めたような笑みを浮かべて。
「うん。行こう」
無駄な言葉はもういらないだろう。今は何を言っても蛇足になりそうだ。
私たちは図書室を出て秘密基地へ向かった。
冷たい雨音はまだ響いていた。
私たちが秘密基地へ着くと、先客がいた。
その先客は、傘をさして一人ベンチに腰掛けていた。見慣れた後ろ姿。一応確認のために回り込んで傘の中を覗くと、
「あれ?斗和?」
「ああ、瑞姫。降谷さんも」
こんな雨の中、寒いはずなのに蒼井さんが腰掛けていた。ベンチは蒼井さんが座っているところも含め、ベンチの木はかなり濡れている。
蒼井さんにそれを伝える前に雲母坂さんが言う。
「煌照は?」
「煌照なら先に帰ったよ。面倒になる前に」
蒼井さんはずっと遠くの海と雲の狭間を見つめていた。物思いに耽っているようだ。
雲母坂さんが一呼吸置いてから言葉を発した。
「実はね、言っちゃったんだ」
水平線を見つめていた蒼井さんの目が雲母坂さんへ向いた。
「……そうか」
彼は諦めたように微笑んで、視線を私へ向けた。
「降谷さんならいけると思うんだ。絶対に」
「瑞姫のことを疑っている訳じゃないんだ。ただ、ちょっとな」
彼は少し目を伏せた。
「巻き込むわけにはいかないって思ってるわけ?」
考えるよりも先に口から溢れていた。蒼井さんのことはこの数ヶ月で少しは分かっている。次に来る言葉は大体想像がついていた。
蒼井さんは驚いた様子で私を見た。それに構うことなく続ける。
「みんなは私の話を聞いてくれた。だから今度は私がみんなの話を聞く番。私に恩返しさせてよ」
雲母坂さんも驚いているようだった。
私は力強い言葉で紡ぐ。
「それに私たちは友達でしょ?」
二人は目を見開いた後、笑った。馬鹿にされていなことは雰囲気で察した。
「そうだね。安心した」
「うん、私たち友達だもんね」
私も安心した。友達のところを否定されてしまったらどうしよう、と一抹の不安があったから。もちろん彼らのことは信じていたけど。
私は持っていたタオルを取り出してベンチに敷く。
「あと何枚かあるけど使う?」
「ありがとう。借りるね」
「俺は大丈夫だ。もう手遅れだからな」
「今からでも遅くないよ」
「じゃあ、借りようかな」
蒼井さんはと雲母坂さんもタオルを敷いて、三人で並んで座る。傘をさす分、間の距離を空けて座る。一人足りないのは思ったよりも寂しく感じる。
雨脚が弱まる気配は無く、凪いだ水面に多くの波紋を残しては消えている。傘に打ちつける雨音は私たちに沈黙を与えてくれない。
「何から話す?」
少し間が空いて、真ん中の雲母坂さんが言った。その口調は明るくも感じたけど、暗くも感じた。
「瑞姫が先でいいんじゃない?」
「うん、分かった」
聞きたい自分と、聞くのが怖い自分がいる。
雲母坂さんの口から一体どんな話が出てくるのか、私は息を呑んだ。
「私の家ね、お父さんが居ないんだ。物心ついた時にはもう居なかった。後から知ったことなんだけど、私が生まれる前に離婚したんだって。それで私を育てる為に、お母さんは働きっぱなしなんだ」
彼女は暗い顔で語った。いつもの明るい彼女はどこにも居なかった。
彼女は続ける。
「お父さんはギャンブルで借金を作って、そのまま蒸発した。妊娠中のお母さんと借用書だけ残して。物心ついた時から、よくお母さんは家の前で謝ってた。その時は分からなかったけど、あれは借金取りだって気づいた。しかも、お母さんの貯金を勝手にお父さんに持ってかれてたせいで、お母さんは朝から晩まで働き続けて、私のことを守ってた」
話は私の想像より遥かに暗かった。そして、何よりその父親に腹が立って仕方がなかった。
「今はマシだけど、お母さんが働きっぱなしなのは何も変わってない。出て行く前のお父さんはお母さんに暴力も振るっていたみたい。昔こっそり盗み見たお母さんの手帳にそう書いてあった。だから私はお母さんを助けるために家事をすることにしたけど、何も変わらなかった。毎日のように叩かれるドア。借金をしていることでの近所からの嫌がらせ。今はもう無くなったけど、鮮明に覚えてる」
彼女の握られた拳が徐々に強くなっている。蒼井さん何も言わずに彼女を見守っている。
「でもみんなは私のことを恵まれてるって言うんだ。これは今になっても。何も恵まれてないのに」
彼女の顔は徐々に歪んでいった。それは怒りとも哀しさとも捉えられるような表情となっていった。
「私の家は狭いワンルームのアパートだって斗和と煌照以外誰も知らない。知られちゃいけないの。みんなの理想の私が崩れちゃうから、かわいそうな私にはなりたくないから」
私は何も言わなかった。理想の自分を押し付けられる辛さは幼少期から経験してきたことだから、雲母坂さんの感情が手に取るように分かる。
「でも、降谷さんを見ちゃったら、不安になって。完璧に限りなく近い存在で、私なんかより圧倒的で、自分のことが馬鹿らしく思えてきて、何とか話しかけられないかってチャンスを伺ってた。卑怯だよね。降谷さんにぶら下がって、私も完璧なんだって思いたかった」
赤裸々に語られることはあまりに重くて、簡単には消化できなかった。
でも、一つだけ確かなことがある。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。こんんじゃ友達なんていう資格なんて無い。ごめんなさい」
雲母坂さんは雨音に消されるほど弱々しく掠れた声で言った。
「謝らないで。雲母坂さんは優しすぎるだけだよ。自分を追い込まないで、私も悲しくなるよ」
「でも、私は」
「雲母坂さんは私と一緒にいて楽しい?」
次の言葉は言わせなかった。言わせるわけにはいけなかった。
「楽しかった」
彼女は震える声で言った。
「私も楽しいよ、雲母坂さんと一緒にいるの。大人びているのに子供っぽいことを言っている時も、無茶なノリに乗せられた時も私は楽しかった。あの時の雲母坂さんは嘘じゃなかったでしょ?」
彼女はゆっくりと頷く。
「それってもう私たちが本当の友達である証拠なんじゃない?だって本当の友達以外に気安く素の自分を見せられないでしょ?」
彼女の潤んだ瞳がこちらへ向く。
私は一つ微笑んでから続ける。
「私もね、素の自分で接してたんだよ?分かりづらかったかもしれないけど。放課後の間はとても楽しかったんだ。それは今も同じ。それは三人と過ごしている時間は、素の自分を曝け出せたから。それは藍澤さんと雲母坂さんと蒼井さんじゃなかきゃ駄目だった。他の誰でもなくこの三人じゃなきゃこうはならなかった」
「でも、私は」
「関係ないよ。だってこうして雲母坂さんも自分のことを赤裸々に話してくれているでしょ。これがどれだけ勇気のいることか、誰にでも分かる。自分の弱いところを他人に見られたくないのは当たり前。それを曝け出してくれたってことは、私のことを信頼してくれてるってことでしょ?私も雲母坂さんのことはすごく信頼してる。つまり、」
私はゆっくりと言葉を紡いでゆく。全て伝わって欲しいから。
「私たちはもう互いに信頼し合ってる。この関係を友達と呼ばないわけにはいかないでしょ?」
はにかんでそう言うと、雲母坂さんは次第に破顔した。
「私っ、下心でっ……近づいたのにっ」
「あの程度、下心とは言わないよ。それは雲母坂さんが下心と思っているだけだよ」
「でもっ…でもっ……」
「もういいの。気にしないで」
彼女の声は上擦っていた。私はできるだけ優しく言葉を紡いだ。
ここでようやく蒼井さんが口を開いた。
「俺も、瑞姫の言う下心は下心じゃないと思うぞ。それを下心とか言ってると、瑞姫に近づく奴らはどうなるんだ?下心しかない連中なのに、男も女も。だから気にするなって」
その言葉がトドメとなったのか、彼女はボロボロと涙を流して泣き始めた。
私と蒼井さんは何も言わず彼女が落ち着くまで、彼女の背中を撫で続けた。
次第に雨が弱まってくるのと同時に彼女も落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
彼女はこくりと頷いた。
「それじゃあ」
私はベンチから腰を上げ、傘を畳んだ。雨なんか気にならない。私は彼女の前へ立って、手を差し伸べる。
「雲母坂瑞姫さん。私と友達になってくれますか?」
私はできるだけ優しく、できるだけ力強く言った。
私は彼女のことを信じている。ただそれだけ。
彼女は私のことを見上げ、口を開いた。
「私で良ければ」
彼女は震える声で言った。ゆっくりと立ち上がって私の手を取る。そして、精一杯の笑顔を浮かべる。いつもの彼女の笑顔とは程遠いけど、心の底から笑っているのが窺えた。
「それじゃあ、友達になった記念として瑞姫さんと呼んでも?」
「ううん、瑞姫って呼んで。私も千隼って呼んでもいい?」
「もちろんだよ。瑞姫」
私は噛み締めるように言った。
「ありがとう。千隼」
瑞姫も噛み締めるように言った。
後ろから陽光が差した。雨はいつの間にか止んでいた。
振り返ると海の上の雲が割れ、夕陽が私たちを照らしている。
「綺麗…」
瑞姫が呟いた。
「そうね」
「そうだな」
蒼井さんも立って海を見つめる。
「俺のターンは無さそうだな」
彼は軽く笑いながら言った。
「これからでしょ?」
「私たちは聞くよ。何時になっても」
私たちは強く言った。何でも受け止められる。だって友達だから。
「まあ、もう少しこの夕焼けを見届けようよ」
彼は遠くの水平線を見つめたままそう言った。
私たちは沈黙を持ってそれに答えた。
夕焼けと反対側の空はまだ雨が降っている様子だった。
夕焼けの余韻の残る空は星が散りばめられていた。
「そろそろ俺の番か」
蒼井さんはベンチに腰掛け、ため息を吐く。
「無理に言わなくてもいいよ」
「大丈夫だよ降谷さん。むしろ早く話したいくらいだ」
瑞姫と私もベンチ腰掛けた。瑞姫と私は位置を入れ替えた。
彼は軽くなった口を開く。
「初めて人に話した時もこんな感じだったな。はじめに瑞姫が言って、俺が後から言う。懐かしいな。その時は相手が煌照だったか」
私たちは相槌を打つ。
次第に夕焼けの余韻は闇に呑まれていき、夜の帷が降ろされる。
彼はふっと一つ鼻で笑ってから話を続けた。
「俺の家も父親がいないんだ。出て行った日はいまだに覚えているよ。俺が六歳の時、母さんと口論になった翌朝だった。朝早く、俺にこっそりお別れを告げてお小遣いと連絡先を渡してくれた、何度も謝りながら。そして、出て行った。俺は止めようとは思わなかった。これ以上やつれていく父さんを見てられなかったから。俺の母さんは、ヒステリーなんだ。父さんは出て行くまでの間ずっとそれに耐え続けていたんだ」
彼の前髪に隠れた目は、見えずとも苦痛を語っていた。
私たちも星空も黙って彼の話を受け止める。
「出て行く前の父さんはやつれていて、顔には絆創膏を貼っていたのを覚えてる。父さんが出て行った後、母さんのヒステリーは俺に向いた。むしろ俺に向いて良かったと思ってる。父さんがいた頃は父さんの稼ぎがいいからって、何にでも手を出してお金が溶けていっていたから。それなのに食事は毎回父さんの分だけ無かったんだ。ふざけてるよな。俺は今でも根に持ってるよ」
彼の口調は怒気を帯びていた。彼の口から初めて聞く口調に驚かされつつも、話に相槌を打つ。
「俺は父さんによく俺の残したご飯を渡しに行ってた。家では父さんのゾーンと母さんと俺のゾーンがあったんだ。テープで区切られていて、父さんがこっちのゾーンに足を踏み入れたら、母さんは物を投げて怒鳴り散らかしていた。俺が父さんのゾーンに入ると、それはそれですごい剣幕で怒られた。だから母さんが寝た後にこっそり渡しに行ってたんだ」
あまりにあり得ない話に呆気を取られた。瑞姫は落ち着いているように見えたけど、唇を噛んでいた。
「トイレも別々だったな。そのためにわざわざトイレを作らせていたよ、父さんの金で」
彼は付け加えた。
「俺に向いた母さんのヒステリーは父さんが出て行くのも納得のものだったよ。学校以外で俺に自由は一切無かった。放課後に遊ぶことは許されなかった。家では母さんを母さんと呼ぶと怒られた。『ママと呼びなさい』キツく言われた。一人称も『僕』じゃないと怒られた。母さんに何とか頼み込んで、小二くらいからは放課後は自由にはなったけど。機嫌が良いと何でも言うことを聞いてくれるからな。年に一度もないけど」
私のお父さんの話を思い出す。似通った環境だ。
学校で「俺」を使っているのはせめてもの抵抗なのかもしれない。
先ほどのような怒気は薄れていき、彼は淡々と続ける。
「最近は宗教にどっぷりで、何度も止めようとしたけど聞いてはくれなかった。父さんに相談しようと思ったけど、肝心な連絡をするための手段を持ってなかったんだ。スマホは持たせてくれなかったから」
そういえば今まで誰とも連絡先を交換していないことに気がついた。それはあまりに今更の気づきで、何でここまで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「宗教にハマり出してからヒステリーはエスカレートしていった。食費にまで手を出し始めて、父さんからの仕送りだけでは到底やりくりできなくなってきている。だから俺は何とか特待生になり続けないと、学校に行けなくなるかもしれないんだ。でも、家では母さんが俺に宗教の教えとかを説いてきて寝られなくて、学校の授業では寝てしまうんだ。煌照と瑞姫に頼んで起こしてもらえるんだけど、最近はそれじゃ起きられなくなってきている」
授業中寝るのにはそんな理由があったなんて。
寝ている彼のことを微笑ましく思っていた自分を殴ってやりたい。
「これが俺の過去と現状。あと、俺が前髪を長くしているのは目の下の隈を隠すためだと思っておいてくれ」
私は一つ頷いてそれ以上聞かないことにした。
暗がりから響く細波の音が三人を包む。
私には言えることは何も無かった。瑞姫もそのことを知った上で今まで彼と接してきてたんだ。
「これを知った上で、まだ友達でいたいと思うか?」
彼は自分のことを嘲るように言った。
私たちに迷いはなかった。
「無い」
静かな夜の暗闇に、確かに響いた。
「そうか…」
彼は小さく呟いた。暗くて表情は窺えないけど、少し明るく安心した感じを感じた。
またしても沈黙が三人の間を潮風と共に吹き抜ける。
解決策にはならないけど、これは言っておかなければならない。
「力になれるかどうかは分からないけど、もし何か助けて欲しかったら私に言って」
私はお父さんの話をしてお父さんとの約束の話もかいつまんで喋った。
「だから、何かあったら私が力になるから。私のお父さんも」
「頼って良いのか?迷惑じゃないか?」
「迷惑なん掛けて当然。一生迷惑を掛けずに過ごせる人はいない。迷惑を掛けても関係が続く相手こそ信頼できる人でしょ」
私は食い気味に喋った。
私は目の前にいる友達を救いたいだけだと、伝わってほしい。
「分かった。今はまだその時じゃないけど、助けが必要になったら話すよ」
「私もいるからね!」
瑞姫が後ろから言った声は、さっき泣いたせいか盛大に裏返ってしまった。
「ふふふ、分かった。ありがとう瑞姫」
彼は少し微笑んで言った。
瑞姫は私の背中におでこを当てて黙って頷いた。少しだけ見えた彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
「降谷さんもありがとう」
「ううん、友達としてこれは当たり前。それと、私のことは千隼でいいよ」
「分かった、千隼。俺のことは斗和でいい」
「うん。これからもよろしくね、斗和」
私は手を差し出した。
斗和は私の手を取ってしっかり握った。
「これからもよろしく」
隠れた目からは決意が感じられた。
私たちは夜が更けるまで喋り合った。
帰る頃にはベンチは乾いていた。
東の空はまだ雨が降っている様子だったけど、私たちの頭上には星が輝いていた。
時が経つのは早くて、気がつけば期末テストも終わって冬休みを待つだけとなった。
中庭で綺麗に紅葉していた木々たちは、葉を落とし冬枯れ木になった。見るからに寒そう。
藍澤君はあれからずっと、マスクをしていた。
前までと変わらない日々が続いていった。名前の呼び方が変わっただけだった。藍澤君が「俺も下の名前で呼んでよ」って言ったけど、下の名前で呼ぶのはなんだか恥ずかしくって、できなかった。藍澤君は「なんだそれ」って言って笑っていた。斗和と瑞姫も笑っていた。なんとか私は間を取って君付けで呼ぶことにした。藍澤君はちょっと拗ねたように口を尖らせたけど、怒ってはいなかった。
藍澤君の過去について知りたかったけど、機会が無かったから聞くことは無かった。
それに無理に聞くことだけが友達じゃない。何も言わずに隣にいることだって重要。
斗和と瑞姫も詳しくは知っているけど、藍澤君の口から直接言い出すまでは何も言わないそうだ。私もそれの方がありがたい。
「千隼、ここはどうしたらいい?」
「そこはこう返してから、こうだよ」
期末テストでは私は一位に返り咲き、瑞姫、藍澤君、斗和の順にトップを独占することができた。今日はその記念とクリスマスイブということで裁縫の日。今日は終業式で授業も早く終わったから時間はたっぷりある。息抜きをしないと勉強しっぱなしで疲れるから、みんなでちょっと変わった巾着袋を作っている。
みんな手先が器用だから、結構早くできそう。藍澤君も今日は調子がマシだから裁縫に参加している。最近は参加していないことが多かったから、ちょっと嬉しい。
「藍澤君は大丈夫?」
「いや、これはどうしたらいいんだ?」
マスクをしていて声が少しこもっているのも慣れてきた。
「ここはこうするの」
私か彼の隣に座って、手順を自分のもので説明する。
「あっそこ違う」
不意に手が当たる。男らしく骨張っているけど、細長くしなやかな手は私よりも一回り大きい。
「手、大きいね」
「そうか?こんなもんじゃないか?」
彼は手を目線の高さに持ってきて回した。
指の先に針で刺した跡が見えた。
「これ、大丈夫?」
私は彼の手を取って確認した。
何ヶ所か刺した跡が見受けられる。
「大丈夫だ、このくらい」
彼は何だか恥ずかしそうにしている。
「どうかしたの?」
「いや、もう手はいいぞ」
冷静になって手元を見ると、私はがっつり彼の手を握っている。
改めて彼を見ると照れくさそうにしている。
「あっ」
私はようやく気づいて、彼の手をパッと離す。それと私と彼との距離が近すぎることにも気づいて、元の体勢に戻す。
私と彼の間に気まずい空気が漂う。
「二人とも何してるの?」
斗和が聞いてきた。側から見ていた私たちが相当変だったんだろう。
「何でもないよ」「何でもない」
しっかりとハモってしまい、さらに変な空気になる。
斗和は首を傾げる。
私は顔が熱くなる。きっと藍澤君のが伝染したんだ。私の体温だけなはずがない。
ほら、斗和も固まってるし。
「何?三人して固まって」
今度は瑞姫が聞いてきた。
「何でもないよ」
今度はハモらなかった。なんかちょっと残念がっている自分がいるのはどうして?
「そう?ここ教えてほしいんだけどいい?」
「いいよ」
危ない。瑞姫の助け舟が無かったら、今頃もっと変な空気になっていただろう。瑞姫は何も気づいていないかもしれないけど。
気づくと心拍がかなり上がっている。
瑞姫のおかげで何とか空気は元のようになったけど、藍澤君とは相変わらず気まずい感じになった。
無事に巾着袋を作り終わって、互いに完成品を見せ合う。巾着袋にしては少し大きめのサイズにしているから、いろんなものが入るようになっている。きっちり畳めば体操服がギリギリ入るくらいのサイズ感。
「いいね。みんな形も綺麗で良い感じ」
「サイズもちょうどいいし、これは使い道多そう」
瑞姫は自分の巾着袋を手に取っていろんなものを試しに入れている。
生地もそれぞれ自分で選んだものを使っていて、どれが誰の物か一目で分かる。生地を用意したのは私と瑞姫。それぞれの誕生日の花の柄のものを買ってきた。
瑞姫は下から伸びて太陽を見つめるような少し控えめな向日葵の柄。
斗和は白地に椿の花と木が端に少し覗くような柄。
藍澤君は白いクロッカスが白地に薄く彩られた柄。
私は紫陽花が下の方に淡く咲いている柄。
「みんなそれぞれ違っていいね」
瑞姫が呟いた。
私は首を縦に振る。想像していたよりも綺麗にできてすごく満足している。
「大事にするよ」
斗和は大事そうに巾着袋を抱えた。
我ながら生地選びのセンスがあるんじゃないかな?すごく似合っている。
隣に目を向ける。
藍澤君は両手で巾着袋を持って、生地の柄をじっと見つめていた。
その目はとても優しく微笑んでいるようにも、とても悲しそうに懐かしんでいるようにも見えた。
触れてしまったらすぐに消えてしまいそうだった。まるで手のひらに乗った粉雪のように解けてしまいそうで怖かった。
私はその目に吸い込まれるような感覚を覚えた。
声を掛けたくても喉が詰まる。
怖い。
私が触れたことで壊れてしまいはしないか、解けて消えてしまわないか。
でも、何もせずともどこか遠くへ行ってしまいそうな気がした。
私はここでようやく気が付いた。
私は藍澤君のことをとても大事に思っていることを。
それは一言ではとても表せない程、大切な存在。
だから、どうかいなくならないで。
その後、藍澤君が帰らなければいけないと言ったから、みんな荷物をまとめて図書室を出た。
帰り道、うっすらと雨粒の小さい雨が降っていた。まだ陽が沈みきっていない方角の空は晴れていて、紅く染まっている。
沈む夕陽から強い風が吹いている。肌を突き刺すような寒さが私たちを襲う。本格的な冬を肌で感じる。
私は立ち止まって振り返る。
西風に飛ばされる小さな雨粒の行先は、すでに夜の帷が降りていた。
雨粒たちは夜の闇に吸い込まれていくようだった。
「あっ、悪い。忘れ物した」
藍澤君が立ち止まって言った。
瑞姫と斗和も遅れて立ち止まる。
「何忘れたの?」
「筆箱」
「明日取りに来たら良いと思うよ。誰も取らないと思うから」
あの図書室は私たちと常連さん以外ほとんど出入りが無い。無くなるなんてことはないと思う。相当な物好きでもいない限り。
「俺取りに帰ってくる」
「付き合うよ」
斗和が踵を返して言う。
「いいよ、先帰ってて」
「私たちは大丈夫だよ」
瑞姫ももう学校の方向へ足を向けている。
「いいよ。そもそも早く帰るって言い出したの俺だし。そこまで振り回すわけにはいかない」
藍澤君は私が止める隙も無く、学校へ戻って行った。
三人は彼が曲がり角を曲がって見えなくなっても、しばらくその場に止まった。
何か嫌な予感がしたのは私だけじゃないみたい。
学校の方の空は真っ暗だった。
私が藍澤君を見たのはそれが最後になった。
*
雨水凍らす寒の雨
のんびりとした冬休みが明けた。
初めてお母さんの祖父母の顔を見た。私が生まれた時に会ってはいたみたいだけど、覚えているはずがなかった。
帰省したわけではなく、二人が家に来てくれた。これはお父さんへの気遣いなんだろう。
二人ともすごく変わっていて、性格はお母さんとあまり似ていなかった。お母さんと違ってフラフラしている感じで、いかにも自由人という感じだった。
数日間一緒に過ごしてから二人は帰っていった。五人で喋っている時間はとても楽しかった。暗い話も最後は明るく終わって、外の寒さに負けるはずのない温かさが家の中を満たしていた。
ここまで充実した長期休みは初めてだった。
浮かれた気持ちのまま学校へ行った。でも、冬休みのことは瑞姫たちには黙っておこう。特に藍澤君には。
教室の扉を引く。
「あけましておめでとう」
瑞姫の声が寒い教室に響いた。先を越されてしまった。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「よろしくね」
一緒に笑い合う。
今年も来年も、これから先ずっとこうであってほしいな。
冬休みをどんなふうに過ごしたか互いに聞くことは無く、裁縫の話で盛り上がった。
「藍澤君来ないね」
いつもなら来ている時間なのに姿が一向に見えない。
「確かに、遅いね」
「寝坊かな?」
「まさか、あの煌照が?」
藍澤君は今まで一度も寝坊をしたことが無い。私を痴漢から助けてくれた時以外は遅刻をしたことも無い。
この朝に集まるのを始めてからも、一度も遅れたことは無かった。
「斗和と一緒に来てるのかもね」
私にはこれ以外思い浮かばなかった。彼が遅刻をするなんて全く想像ができなかったから。
「あーなるほど。あり得るかも」
私たちは喋って待つことにした。
教室の暖房がつくのはもう少し遅い時間になってからだから、教室は外より気持ち暖かい程度の気温だった。教室の中なのに白い息を吐きながら、喋って待った。
ゾロゾロと人が増え始め、斗和も来た。
はじめは人が来る前に喋るのを止めていたけど、冬休みの前あたりからは全く気にせず話し続けるようになった。瑞姫と私が仲がいいことがまあまあ知れ渡ってしまって、気にする必要が無くなったからだ。
藍澤君と斗和とは依然、教室では喋らない。
「煌照いないね」
藍澤君の姿が見えない。もう予鈴は鳴ったのに。
「来ないね」
「後で、斗和にも聞いてみるね」
私は頷いて、斗和の方を見た。
彼は来るなり机に突っ伏して寝ている。まだ寝れていないんだ。
私は空席になっている藍澤君の席を見つめる。
最後に彼と会った時の姿が頭の中に映し出される。
私はただ不安になる。不安になることしかできなかった。
始業式は寒い中体育館に集められ行われた。
その間もずっと藍澤君のことを考えていて校長先生の話は微塵も聞かなかった。
私は何か焦燥感のようなものに駆られた。でも、何もできない。
今は放課後になるのを待ちつつ、彼が来るのを願うしかない。
結局放課後になっても藍澤君は来なかった。どこかそんな予感はしていた。
私は早足で図書室に向かった。何があったのか斗和なら知っているかもしれない。
私は勢いよく図書室のドアを引く。中にはすでに二人とも居た。
何か話しているようだったけど、私が来た瞬間話すのをやめた。
「来た来た。始めよう」
「今日は何する?」
あからさまにぎこちない二人。何を話していたかは聞かないでおこう。
荷物を下ろし瑞姫の隣に座る。
「結局来なかったね、藍澤君」
二人はビクッとした気がした。ん?気のせいかな?
「ああ、煌照なら風邪で休むって今朝言っていたよ」
斗和が言った。今朝家に行ってきたのかな?斗和はスマホを持ってないから。
「そうなんだ。早く治ってほしいね」
「大丈夫だよ。煌照は強いから」
瑞姫が笑顔で言う。
何か怪しさは感じたけど、気のせいだと思っておこう。
それから一ヶ月が経った。藍澤君が学校に来ることは一度も無かった。
はじめはひどい風邪なのかとも思ったけど、流石にこれはおかしい。何度か瑞姫と斗和に聞いたけど、風邪が長引いてると言われて、私もそれ以上何も聞かなかった。
流石の私も何か知っているかもしれない瑞姫と斗和に問い詰めることにした。
というか、最近になって彼らの雰囲気も徐々に暗いものになっていたから、何か知っているに違いない。
図書室の扉を開けると、またしても二人は何か話していた。
その顔つきは楽しそうではなく、どちらかといえば深刻そうだった。
私は我慢の限界だった。
彼らが私に話をしてくれない理由は大体分かる。その意思を尊重したい。でも、もう動かないわけにはいかにのだ。
私は瑞姫の隣に座ることなく、荷物を置かず立ったまま会話を切り出す。
「藍澤君、来ないね」
ゆっくりと落ち着いた口調で言った。
私は落ち着いてなど居られなかったけど、落ち着きを払った。
冷静にならないと、事態を把握できなくなる。
誰からも反応が無かったから私は鞄を置き、瑞姫の隣にゆっくりと腰掛けた。
いつものような軽やかで和んだ空気は一つもなかった。むしろ重苦しい雰囲気が漂っていた。
「二人はどうしてか知ってる?」
返答はなかなか返ってこなかった。その時点で私にはある程度察しがついた。
私はもう一度質問をした。
「藍澤君に何かあったの?」
斗和はゆっくりと頷いた。瑞姫は動かなかった。おそらく二人の間で話はすでに済んでいるのだろう。それを私に言うべきか悩んでいるのだろう。
何が起きているかは全く分からないけど、重たい沈黙が事の重大さを物語っている。
「私に何かできることはある?」
二人はピクッと動いたけど、俯いて黙るだけで返答とは言えなかった。
ある意味返答ではあった。彼らの口からは何も言うことができないと。
少しの沈黙の後、
「千隼に会ってほしい人がいるんだ」
斗和は重苦しいトーンで言った。
「会ってほしい人?」
斗和と瑞姫は頷く。それ以上は自らの目で確かめろってことだね。
「どこに行けばいい?」
「明日。十時に秘密基地に来てほしい」
「分かった」
斗和の言ったことに私は即答した。
突然のことなのに、私は不思議と迷いが無かった。
今動かなければ取り返しがつかないんじゃないか、という恐怖が圧倒的に優っていた。
彼らはまた頷くと、鞄を持って図書室を出た。瑞姫は最後に何かを言いかけて辞めたように見えた。
静かな図書室に一人取り残される。
私はじっとしていられなくて、図書室の中を徘徊する。
何から考えればいいかすら分からない。藍澤君の身に何が起きているの?斗和と瑞姫はどこまで知っているの?
ふと、カウンターの前で足を止める。
ここで藍澤君と二人並んで勉強していた頃を思い出す。もう随分と昔のように感じる。
私は意味も無くカウンターを指でなぞる。
そういえば、あの時はよく私のことを見ていた気がする。二人きりだったからかな?
私はカウンターの後ろへ回って、いつもの私の席に座る。隣に座っている藍澤君がいない。
一年生の時はここにずっと一人だったから慣れているはずなのに、ものすごく寂しい。心にぽっかり穴ができたみたい。
いつの間にか藍澤君がいることが当たり前になっていた。
私は藍澤君の席に座ってみる。なんだかすごくドキドキした。
これは背徳感なのかな?でも、もっと温かい何かにも感じる。
あの頃の『藍澤さん』がしていたように私の席の方を見てみた。
「あっ」
私はカウンターの書類立ての中に一冊の小さいノートを見つけた。私は吸い込まれるようにそのノートを手に取って開いた。
六月三日。
昨日は三角関数の加法定理の応用問題を教えてもらった。
今日は何を教えてもらおうかな。
降谷さんはすごく教え方が優しくて分かりやすい。
家にいる時間が吹き飛んでいくくらい楽しい。
と、ノートに書かれていた。
「これは…」
明らかに藍澤君の日記。文字と内容が物語っている。
そういえば、藍澤君はいつも私よりかなり早くにここに着いていた。
これを書くために私より先に?でも、なんでだろう?こういうものは家で書くものなんじゃない?
そんなことよりすごく嬉しい。心臓がキュッとするような感覚。心が温かくなる。
心の底から何かが溢れてくる。私はその感覚をゆっくりと噛み締める。
ああ……私、彼のことが好きなんだ。
なんだかすごく納得した。
そうか、そういうことだったんだ。
私はそのノートを大切に抱きしめた後、元の場所に戻した。
私は少し余韻を噛み締めた後、図書室を閉めた。
いろいろなことを思い出しながら通学路を歩く。隣に彼がいないことが寂しい。
ああ、今すぐ会いたい。
家に帰ってもなかなか落ち着けなくて、お母さんに心配された。
一人でにやけていて、側から見れば相当変だったんだろう。私の表情はお父さんとお母さん以外にはあまり分からないほど、変化が無い。だから、すれ違った人にはバレてないことを祈る。
気持ちの良い朝。外は晴れていて、私も浮かれていてテンションが少し高い。これも家族以外には分からないけど。
朝食を食べて約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
電車は休日の朝だからスカスカだった。
いつもの駅で降りて秘密基地へ向かう。早足になっていることに気づく。
私、相当浮かれてるな。
冷たい空気を吸って少し冷静になる。でも、早足のままだった。
秘密基地に着くと、約束の一時間前だった。私はベンチに座る。
冬の朝の空気は冷たく澄んでいた。冬の心地いい日差しが私を温め、漣の音が私を癒す。潮風は冷たかったけど、関係なかった。
私がここでみんなに家族の愚痴を言いったことを思い出す。
誰も笑わずに真剣に聞いてくれて、自分のことのように悩んでくれた。本当にいい友達を持った、と胸を張って言える。
徐々に雲が翳り始め、太陽を隠す。冬らしい曇り方。
周りの気温は一気に下がったけど、私は温かいままだった。ここの思い出が私を温めてくれている気がした。
その後もいろいろなことを思い出していると、一瞬で約束の時間になった。
斗和と瑞姫がこっちへ来る足音がして、振り返る。
「おはよう」
私は誰よりも先に言った。
「おはよう。寒くなかった?」
「ううん、大丈夫」
私は首を横に振る。
瑞姫の方がよっぽど寒そうだった。ダウンを着て一回りくらい大きくなっていた。下にも相当着込んでいるみたいで、マフラーに顔が半分埋まっていた。
「おはよう」
対して斗和は本当に冬の服装か?ってほど薄着に見えた。上はパーカーで下はジャージだった。流石に中にハイネックは着ていたけど、隣にいる瑞姫との温度差がすごかった。
「行こうか」
「うん」
私は頷いて、彼らの隣に並んで歩いた。
古い家と新しい家が入り混じる住宅街の中を歩く。海が近いから潮の香りがほんのりと漂っていた。海から吹く風は凍てつくような温度で私たちの間をすり抜けていく。
先頭を歩いていた斗和が足を止めた。思っていたより近かった。
そこは比較的新しい一軒家。基礎が他より一段高くなっていて目立つ白く四角い家。少し大きめのベランダが付いていて窓も大きめだった。
ここが斗和の家なのかな?
しかし、彼は門の前に立つとインターホンを鳴らした。自分の家に入るのにインターホンは鳴らさないはずだから違うと分かった。
「はーい」
インターホンから若い女の人の声がした。
「香織さん、来たよ」
「今開けるから少し待ってて」
私たちは門の中へ入り、玄関前の階段を登った先で少し待った。
すると、すぐに玄関がガチャっと開いた。
「いらっしゃい、寒かったでしょ」
出てきたのは聞こえてきた声の通り、若い女の人だった。背は私より高くガタイが良かった。セミロングくらいの髪を後ろで一つに結んでいた。私はどこかで見たことがある気がした。
「この子は?」
「前に言ってた友達」
「初めまして。降谷千隼と申します」
「失礼、名乗るのを忘れていたね。私は越水香織。煌照の叔母だ」
「よろしくお願いします」
「そう畏まらないでくれ。私のことは香織さんとでも呼んでくれ」
ハキハキとしたしっかりした感じの人だ。いかにも気が強そうなのが窺える。
「君のことは煌照たちからから話は聞いているよ。ここで立ち話もなんだ。ささ、中に入って」
「お邪魔します」
人の家に上がるのは何気に初めてかもしれない。粗相がないようにしないと。
白で統一された家の中は整然としていた。ここに一人暮らししてるのかな?一人暮らしには少し広い気がした。
温かいリビングダイニングに入れてもらい、そこに荷物を下ろした。
「寒かったでしょ。温かい飲み物淹れるけど何がいい?コーヒー?紅茶?ハチミツ?なんでもいいよ」
キッチンで何やら物を漁っていた。
「俺はコーヒー」
「私はミルクティーで」
「千隼ちゃんは何にする?」
なんでもいいと言われると選びづらい。少し考えた後、
「私もミルクティーをお願いします」
「オッケー。ちょっと待ってね」
リビングのソファに三人で並んで腰掛けた。ソファはなぜか三人掛けのものと一人掛けのものが二つあった。
香織さんが準備をしている間、私には聞きたいことがあった。
「会ってほしい人って香織さんのこと?」
「そう。香織さんは俺たちの姉のような存在で、昔はよく遊んでくれた」
つまり、斗和のことも瑞姫のこともよく知っている存在ってことなんだろう。彼らの家庭のことも知っているのだろう。
「香織さんは刑事をしていて、よく私たちのことを守ってくれたんだ。私たちのヒーローみたいな存在かな?」
「そんなたいそうなことはしていないよ。私は何もできていないよ」
少し離れたキッチンからよく通る声で香織さんは言った。刑事ならしっかりしているのも納得できる。
「何言ってるの。私たちはすごく助かったんだよ?」
「現状何もできていないじゃないか。これじゃあ、刑事失格だね」
「香織さんは藍澤君の叔母だとおっしゃってましたけど、お若いですね」
まだ二十代のように感じる。二十代で刑事をするなんてかなりのエリートな気がする。
「そうだね。姉さん、煌照の母親より煌照の方が年が近いからな」
「そうなんですね」
あまり聞かないけど、こういうこともあるんだ。
「千隼はしっかりしてるな。敬語もしっかり使えていて。だが、私に敬語はいらんぞ。なんなら名前も呼び捨てでいいぞ」
「流石にそこまでは」
「少し踏み込みすぎたな。千隼と呼び捨てしても良かったか?」
「大丈夫、だよ」
香織さんはニカっと笑った。太陽のように元気な人だ。
四人の間に温かい空気が流れる。
「できたよ」
お盆の上に乗せて持ってきてくれた。飲み物がガラスのローテーブルに並べられる。
熱いミルクティーは冷えた体にじんわり沁みた。
香織さんは一人掛けのソファにゆっくり腰掛けた。
「外は寒かったか?」
「寒かったよ。もう凍るんじゃないかって思った」
瑞姫はミルクティーを口にして言う。口調の割に落ち着いている気がする。
香織さんもカフェオレを一口啜って息を吐く。
「で?こんな寒い中私に会いに来たってことは、何かあったのかい?」
斗和が一つ頷く。
香織さんは一つ息を吐いた。
「玄関で千隼の名前を聞いた時に大体察したよ」
私を見た香織さんと目が合う。キリッとした切れ長の目から放たれる視線は、鋭くも優しくもあった。整った顔立ちはどことなく藍澤君と似ている。女の人なのになんかカッコいい。
「俺より香織さんが話した方がいいと思ったから」
藍澤君のことについて、だよね?
斗和は言葉をぼかしがちだから確信を得られない。
香織さんは私から視線を外して、リビングの大きい窓から見えるテラスを見つめた。
「私から話せることは何も無い」
彼女は呟いた。
それはどういうこと?
「そうか」
斗和はその一言だけ言って黙った。瑞姫も目を伏せて黙っている。
斗和にも瑞姫にも香織さんにも問いただしたしたいのに、そんな雰囲気ではない。
この場にいる中で何も分かっていないのは私だけ?
急に疎外感が私を襲う。
私は知る必要が無いってこと?
「私は何もするなってこと?」
気づけば口から出ていた。
「そんなことは、ない。ただ……」
香織さんが尻すぼみに言った。
ほらね。
自分で聞いておいて悲しくなるとか、馬鹿だなあ私は。みんなを困らせてるし。
気まずい雰囲気の中、瑞姫が口を開いた。
「あのね、これは本当に私たちからは何も言えないの。煌照の身に何かが起きているのは確か。私たちにはその何かが分かる」
じゃあどうして教えてくれないの?なんで彼は一人で戦っているの?
なんとか言葉を飲み込んだ。
「でも、私に分かるのはそこまで。斗和と香織さんは煌照から話を直接聞いているからもっと知っていると思うけど」
斗和と香織さんを見る。まだ俯いて黙っている。
なんで……。
しかし、私の思考は瑞姫の次の言葉で打ち切られた。
「これは煌照の意志だから」
私は何も言えなくなる。
え?藍澤君の意志なの?
私は喪失感に呑まれた。
その後少しだけ香織さんの家で話をした後、すぐに帰った。
今、斗和と瑞姫にどう接したらいいか分からなかった。
自分の部屋に入ってベットに倒れ込む。
何か気がまぎれることを考えようと思ったけど、ぐちゃぐちゃになった感情が私の思考を凍らせる。
気づいてから失恋までがあまりに早すぎる。
外はいつしか雨が降っていた。
雨粒が天井を叩く音が部屋に響く。
私は涙が溢れそうになるのを堪えながら、この感情が雨に流れるのを待った。
それから瑞姫と斗和は図書室に来なくなって一週間くらいが経った。
放課後、一人で過ごすのはこんなにも心細かったっけ?平気だったはずなのに。
外の雨の音がやけに大きく聞こえる。
図書室の扉が開いた。
そこには常連の女の子の姿があった。少しだけ瑞姫たちが来るんじゃないかって、期待していた自分が打ち砕かれる。つい恨んでしまう。この子は何も悪くないのに。
彼女は本を返して、次の本を選びに図書室の奥へ消えていった。
カウンターに置かれた彼の日記を手に取る。
彼はどんな気持ちでこれを書いたんだろう。私は楽しかったよ。あなたは違ったの?
私はまだこの気持ちを整理できない。初恋がこんなにも呆気ないなんて、笑っちゃいたくなる。もう少しくらい、あなたのことを想っていてもいいよね?
でも、あなたが迷惑に思うなら……。
「あの、この本を借りたいんですが」
私は開いていないノートから顔を上げる。
「えっ?大丈夫ですか?」
目の前の女の子が驚いて言う。
私は泣いていることに気がついた。頬を伝った涙がカウンターの上に落ちる。
私は制服の袖で急いで涙を拭う。
「私は大丈夫ですよ」
少しだけ声が震える。一度溢れた涙は止まることなく溢れ出してくる。
「無理しないで下さい!何かあったんですか?」
ああ、情けないな。後輩の前で泣いて、心配されるなんて。本当に情けない。
目の前であたふたとしているのが歪んだ視界の端から見える。
そりゃそうだ。急に泣いている人が目の前に居たら、誰でもこうなる。
「あの、私でよかったら話聞きますよ?」
目の前の彼女は自信無さそうに言った。
私は何がしたいんだろう。彼女を困らせて。
私は返事ができず、しばらくの間涙を拭い続けた。目の前の彼女は戸惑いつつも私が泣き止むまで目の前にずっと居てくれた。
ようやく落ち着いた頃には制服の袖はかなり濡れていた。
手持ちの鏡で顔を確認する。泣いた割にはそこまで泣き腫らしてはいなかった。いつもと大して変わらない顔に安心したと同時に、少し失望した。私の表情はここまで変わらないんだ。
「ごめんなさい。こんなみっともない姿をお見せして」
「私は大丈夫ですけど」
彼女は小さい声で控えめに言った。
彼女の優しさが心に沁みる。気を抜くとまた涙が溢れてきそうだ。
「あのっ、私は誰にも言いませんので、安心してください」
彼女はオドオドしていた。信用されていないと思っているのかな?
「そんな心配はしていませんよ。私は大丈夫です」
彼女は何回も頷いた。
私は彼女の本の貸し出し手続きを済ませた。
彼女は本を受け取ると
「私はいつも応援しています。でも、無理はしないで欲しいです」
と尻すぼみに言って去って行った。
また一人になった。
私は大きく息を吐いて天井を見上げる。
やらかしてしまった。後悔が私を襲う。
でも、スッキリした。
私は何をすべきか、それがはっきりした。涙が雑念を洗ってくれた。
まだ失恋したとは決まっていない。だって、直接聞いたわけじゃないから。
往生際が悪くて結構。こんなあっさり諦めてどうする。迷惑上等。他人に迷惑を掛けずに生きていけないって言ったのは私だ。
さっき人前で泣いたことで恥じらいが消えて去っていた。
「よしっ!」
私は両手で頬を叩く。もう私は怖がらない。周りの無責んな目を気にするのは終わり。
私は決意を固めて家に帰った。
作った夕飯をテーブルの上に並べる。
「今日は気合い入ってるね」
お母さんが階段から降りながら言った。
いつの間に出てきたんだろう。呼びに行くはずだったのに。
「そうかな?」
「いつもより品数が多いもの。気づかないわけがないわ」
確かにちょっと多めに作った自覚はあったけど、改めて見るとかなり豪華な夕飯だ。
「ただいま。うん?今日は豪華だな。何かいいことでもあったか?」
帰ってきたお父さんはテーブルを見るなりそう言った。
今日はいいことは無かった。一つあるとすれば決意が固まったことかな。だから、
「ちょっと気分が良かったから」
と言った。
「そうなのね。冷めないうちに食べるわよ」
お母さんは席につき、お父さんは荷物を置いて手を洗いに行った。
私も席について手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
お母さんも手を合わせて言った。
自分で作っておいてどれから手をつけていいか悩んで、味噌汁を啜る。
お父さんも席について手を合わせる。
「いただきます。む、これは」
「うん、お父さんから教えてもらった蛸の和物。上手くできてるかな?」
「どれどれ」
お父さんは器を取り口に運ぶ。私はドキドキしながら見守る。
咀嚼し終わったお父さんは口を開いた。
「うん。美味しい。酢の効き具合が丁度いいな」
よかった。私は胸を撫で下ろした。
「今日は気分がいいっていてたけど、例の彼と何かあったの?」
お母さんがウキウキで聞いてきた。
「例の彼?」
「そう。いつも千隼の話に出てくる藍澤さん。あなた、いつも彼の話をする時すごく楽しそうだったから」
「え?」
私はお母さんの言葉に驚いた。私、藍澤さんのことを喋る時楽しそうだったの?ひょっとしてこの気持ちに気づいてなかったのは私だけだったの?
「ああ、千隼を痴漢から助けてくれたあの子か」
「あと、骨折した時も介護してくれたそうよ」
骨折した時のことは隠していたけど、お母さんと話しているうちにぽろっと溢してしまった。お父さんにはまだ言ってなかったっけ?
「そうだったのか。彼は優しいのだな」
「彼なら千隼をお嫁さんにあげても全然いいわ」
私はその言葉に口の中のものを吹き出しそうになった。
お母さんはニコニコだった。
「私も同感だな」
お父さんも満更でも無さそうな感じだった。
え?なに?二人とも私のこと揶揄ってるの?
「まあ、二人がそう言うなら」
私は歯切れの悪い返事をした。今自分がどんな顔をしているか分からず、味噌汁を啜って表情を隠した。
最近は感情が揺れ動きすぎてしんどい。
落ち着くまでは料理の味を感じられなかった。
食べ終えて、食器を片付け終わった私はお風呂に入った。
湯船に浸かって今日のことを思い出す。色々と吹っ切れたとはいえ、今日のことは恥ずかしい。それにお母さんのあの一言。
私は目元まで湯船に浸かってブクブクさせる。
むう……やっぱり恥ずかしい。
私は頭を真っ白にするために目を瞑って湯船に潜る。水のせいで音が遮断される。
「ぷはっ」
息の続く限り湯船に潜っていた。少しは雑念を祓えた。
私はそのまま湯船が少し冷めるまで浸かっていた。
ドライヤーを終えてリビングに戻る。私と入れ違いにお父さんがお風呂に入る。
「長風呂だったね」
「うん。ちょっとのぼせちゃった」
顔には出ていないけど、少しぼーっとしている。
「ヘアオイル塗るから座って」
私は言われるがままソファに座る。
お母さんは慣れた手つきでクリームを手に取り頭をマッサージしてくれる。気持ちがいいのとのぼせているのですごく眠たくなる。
「今日何かあったでしょ。私の目は誤魔化せないよ」
私はその一言で目が覚める。
ふふ、本当にお母さんは。なんで分かっちゃうかな?私は隠すのが得意なのに。
「何があったのかは聞かないけど、今のあなたを見ていれば分かるわ。もう覚悟は決めたのでしょ?」
どこまでも察しがいい。恐らく友達関係であることも見透かされているんだろう。
私は沈黙をもって答えとした。
お母さんはふふッと笑った。
「無茶してもいいけど、程々にね。あと、何か困ったら私たちを利用しなさい。私たちはどうなっても千隼の味方だから」
お母さんは優しい口調だった。
利用する……。頼って欲しいと表現しなかったのは私への気遣いなのだろう。私が控えめなのを知っているから。
「分かった。その時が来たら、利用させてもらうよ」
マッサージをする手が一瞬止まる。
すぐにまた手が動いた。さっきと手つきが変わった。
「ええ、その時を待っているわよ」
その後、いつもより入念にマッサージをされ、ヘアオイルも入念に塗ってもらった。
最後に肩も揉んでもらって躰が軽くなった。
私はお父さんがお風呂から出てくるのをリビングで待った。なぜか待ってしまった。
お父さんが出てきた。髪を下ろしていると少し若く見える。
私はお父さんと目が合った。お父さんは温かい玄米茶を二杯湯呑みに入れ、一杯を私に渡した。
「ありがとう」
私はもらったお茶を飲む。
お父さんが隣に座る。
「のぼせているみたいだったが、温かいお茶で大丈夫か?」
「大丈夫。のぼせてたの気づいていたの?」
「顔色には出ていなかったが、私には分かる」
やっぱり顔色には出ていないんだ。そのせいで色んな誤解を生んでいるかもしれない。
「私って、分かりづらい?」
お父さんはこっちを見た後、正面に向き直って湯呑みを傾けた。
ふう、と息を吐いた。
「正直、分かりづらいな」
お父さんは正直に答えてくれた。
やっぱりそうなんだ。
昔、表情筋が死んでいると言われたことを思い出す。もう誰に言われたかは覚えていないのに、この言葉だけは鮮明に覚えている。
「分かりづらいが、少し付き合えば分かる。千隼が優しくていい子であることが。それを見抜けない人間は千隼のことを見ていない」
私はお父さんを見る。少し怒っているように見えた。
「誰かに言われたのか?」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「言われたとしても気にするな。そいつは優秀な千隼のことを羨んで僻んでいるだけだ」
さりげなく褒められて嬉しくなる。お父さんはちょくちょく褒めてくれる。控えめだし、お父さんも表情が変わらないから分かりづらいけど、私のことを見てくれている実感が湧いてきて安心感がある。
この表情が変わりづらいのはお父さん譲りなのだろう。不便だと思ったこともあるけど、今は全くそうは思わない。
私は湯呑みをローテーブルに置き、胸に手を当てる。
「気にしてないよ。だって、大切な人だけに分かってもらえるって特別で、なんかロマンチックだと思わない?」
お父さんは一瞬だけ目を見開いた。それは本当に一瞬で、微々たる変化だったけど、私は見逃さなかった。
「……そうか。実は表情が変わらないことが千隼の足枷になっていないか、ずっと気になっていたんだ。これは間違いなく私譲りだろうから」
お父さんは少し目を伏せて言った。
私は静かに次の言葉を待った。
「ただ、今の一言ですごく安心したよ。なんだか私まで元気づけられた気がしてな」
「気のせいじゃないよ。私はお父さんを元気づける意味でも言ったんだから」
「ありがとう」
お父さんは優しく呟いた。
部屋に入り、明日の準備をして椅子に座る。意味も無くクルクルと回って明日のことを考える。
落ち着かないな。妙にソワソワして、じっとしていられない。
明日は瑞姫と斗和に話を聞く。そしてできれば藍澤くんの居場所も聞く。あとは藍澤君の元へ行くだけ。二人に聞いて分からなかったら香織さんに聞きに行こう。前行った時に家の場所は覚えている。
「よし!」
私は立ち上がって頬を両手で叩く。そのまま一つ息を吐いて目を閉じる。
外から聞こえる雨の音、風の音、下から聞こえるお父さんとお母さんの話し声、そして私の心臓の鼓動。
私はもう一度、覚悟を決める。そして決意を口にする。
「私は藍澤煌照を救う」
私の決意はしっかりと部屋に響いた。その余韻が残る中、私は明日に備えてベッドに入った。
興奮している割にはすぐに寝付くことができた。
眠りにつく前に心の中で呟く。
私は藍澤煌照のことが好き。
*
春驟雨流す春雨
私は激しい雨音に叩き起こされた。でも、目覚めは今までになく良かった。
部屋を勢いよく出た私は階段を早足で駆け下り一階へ行く。
キッチンにはお母さんが立っていた。
「おはよう。どうしたの?今日は元気がいいね」
「おはよう」
寝起きだから声はそこまで大きくはなかった。
私は洗面台へ行き口を濯ぐ。水はすでに温かかった。お母さんが先に使って温めてくれていたんだ。
私は温かい水で顔を洗う。丁寧に洗ったあと、顔を拭く。肌が引き締まって気持ちいい。すでに覚めていた目がさらに覚める。
流石にちょっと落ち着きたかったけど、目の醒めた私がそうはさせなかった。
「手伝うよ」
キッチンに行った私はお母さんの隣に立つ。
「今日は本当に機嫌がいいのね。じゃあ目玉焼きを焼いてくれる?」
私はお母さんが全部言いきる前に動いていた。
初めて秘密基地に行った時の会話を思い出す。私は半熟派だってその時のノリに合わせて言ったらみんな笑ってたっけ。今はただ懐かしい。
「おはよう」
お父さんが起きてきた。
「おはよう」
私はすぐに気づいて言う。
「おはよう」
お母さんはバターを切りながら言った。お父さんはそのまま洗面台へ向かった。
私は冷蔵庫から取り出した卵を火にかけたフライパンの上で三つ割る。互いにくっついてしまったけど、まあいいや。そのままにして蓋をする。半熟にしたいから気を遣う。
「今日は早いな」
顔を洗い終わったお父さんがそう言った。
「今日は実視は重要な商談でしょ?」
「ああ、今日の午前の会議で最終決定を下す予定だ」
「だから朝ごはんをちょっと豪華にしようかなって」
なるほど、だからお母さんは早起きをしたんだ。重要な商談があるのが明日とは知らなかった。昨日は豪華なご飯にしてちょうど良かった。
どうして知らせなかったか気にならなかった。お父さんは基本、家で会社の話よ仕事関係の話をしない。それは公私混同をしない人だから。
「なるほど。では私も手伝おう」
「じゃあサラダをお願い」
「分かった」
三人が一緒に作業をしても、まだ余裕のある広いシステムキッチン。これはお父さんの要望で作ったらしい。作った時からこうなることを想像していたのかな?
私は頃合いだと思ってフライパンの蓋を取りお皿に目玉焼きを移す。
我ながら見事な半熟の目玉焼きができた。三つくっついて入るけど。
「そういえば千隼にはまだ言っていなかったな」
お父さんはサラダを並べながら言った。
「昨日、千隼が部屋に入った後に友人から連絡が入ったんだ。大手食品会社との取引の機会を得られたとな。あとは会社内で最終決定するだけで、その会議が今日の午前に入っているんだ」
「そうなんだ、おめでとう。でも、かなり急だね」
「ああ、元から話は上がっていたんだが、社内の反発が少なからずあって踏み切れていなかったんだ」
「今日が勝負だね。応援してるよ」私は決して頑張れとは言わない。だってお父さんは頑張っているから。私はどこかで聞いた言葉を思い出す。
私は頑張っている人に頑張れとは言わない。それは頑張っていない人へ向けて放つ言葉だからだ。頑張っている人に頑張れと言う。それはその人の頑張りを否定することと同じだ。だから私は頑張っている人に頑張れとは言わない。
「ああ、ありがとう。どのような結果であれ、私は全力を尽くす。いい結果を持って帰ってくるから楽しみにしていてくれ」
お父さんは私の頭を撫でた。大きくて温かい手が私の頭を包む。私は強く頷いた。
「千隼も今日は気合が入っているな。何があるかは聞かないが、応援しているよ」
「うん」
恐らくお父さんは私が話したがらないと思ってそう言ったんだろう。
でも、お父さん。私はもう隠さないよ。
「友達を助けに行くんだ。今日」
お父さんは頭を撫でる手を下ろし、私のことを見る。
そして優しく笑う。
「そうか……。頑張れとは言わない。頑張っている人に頑張れと言うのはその人の頑張りを否定する言葉になる。今の千隼は頑張っているから、私は頑張れとは言わない」
さっき思い出していた言葉と重なる。あの言葉はもしかして。
「だから、この言葉を贈ろう。最後まで目的を見失うな。最後まで己の信念を貫け。そうすれば、自然と周りは千隼のことを助けてくれる」
お父さんは静かな、でも力強い声で言った。
「うん。ありがとう。なんかすごく心強くなった」
「それと困った時は私たちを頼りなさい」
「頼るじゃないよ。利用するのよ」
お母さんが焼いたトーストを持ってきながら言った。
「そうだな」
お父さんは一度目を伏せ、私のことを見る。
「私たちのことは存分に利用しなさい。私たちが千隼の味方であることは、たとえ世界がひっくり返っても同じだ」
私は笑みをこぼした。だってそんなこと分かってるもん。お父さんが敵になる未来はもう見ようと思っても見れない。
「安心して、その時が来たら利用するから」
「分かった。待ってるよ」
お父さんは優しい笑顔で言った。その笑顔は私たちにしか分からない。でも、それでいい。いや、それがいいんだ。
「ほら、もう朝ごはんはできてるわよ。覚めないうちに食べなきゃ」
もう食卓には朝ごはんが全て並べられていた。
「そうだな。腹が減っては戦はできんからな」
それは確かにそうだ。
私は席について手を合わせる。
「いただきます」
みんな揃って言う。私はカフェオレで口を潤してから、パンを口に運ぶ。これはいつものルーティーン。
「それにしてもさっきの実視の台詞、プロポーズの時と一緒だったよ」
「え?」
お母さんはコーヒーを口にしながらお父さんを横目に見る。
お父さんは珍しく照れていた。
「あの台詞、お気に入りなの?」
お母さんは揶揄うような口調で言う。
「そうだ。思い出の言葉だからな」
お父さんは照れ隠しのためにコーンポタージュを、顔を隠すようにして啜った。
暖かな空気が私たちを包む。
うん、私は大丈夫。こんな素敵なお父さんとお母さんが味方にいるから。
食べ終わった食器を洗って棚へ戻した後、学校へ行く支度をする。
制服に腕を通し、スカートのベルトを締める。スカーフを左右対称にし、前髪を整える。
持ち物を確認し、部屋を出て階段を降りる。リビングにはお父さんが居た。スーツをピシッ着こなし、ネクタイを綺麗に締め、髪の毛もしっかりセットされている。
「今日は一段と綺麗だな。昔の智慧の面影を感じるよ」
「ありがとう。お父さんも格好いいよ。今日は特に」
私は微笑んで返す。
「ありがとう。いってらっしゃい」
お父さんも微笑んで言った。その言葉には激励の意も含まれていた。
私は一度俯いてから全力の笑顔で
「いってきます!」
と言って玄関に向かった。
玄関ではお母さんがお花に水をやっていた。
「あら、もう行くの?早いね」
私は一つ頷いてから、お母さんだ並べてくれた靴を履こうとする。なんだか靴が綺麗になっていた。お母さんが磨いてくれたんだ。
「まだ時間に余裕はある?」
「うん」
お母さんは水やりをする手を止めた。
私も靴を履き終わった私は立ち上がってから振り返り、話を聞く。
「行く前に一つ教えたいことがあるの。それはあなたの名前についてよ」
「私の名前?」
「そう。あなたの名前は私と実視の二人で決めたの。それで、名前の意味について今話す他無いと思ってね」
お母さんはこっちを見て微笑んだ。
私は息を呑んで次の言葉を待った。
「実はね実視と駆け落ちをした時に、初めは海外に逃げようとしていたの。そのことをあなたが生まれて名前を決める時に思い出してね、折角なら海外に行ってもおしゃれな名前になるようにしようって二人で話していたの。海外だと日本とは逆で、ファーストネームが先に来るでしょ。だからそのことも考えながら決めようと思ったの」
「つまり…」
「あなたの名前をファーストネームから読むと」
「ちはやふるや」
「あっ」
私は声に出して初めて気が付いた。
「ちはやふる…」
お母さんは今までになく優しい笑顔をした後、目を閉じて祈るように口を開いた。
「この言葉はね、荒々しいという意味があるの。『千隼』の漢字をあえて『隼』にしたのは隼のように強く生きて欲しいと思ったから、少し男っぽき名前になるのは承知で付けたの。そして『千』には沢山と言う意味がある」
お母さんはゆっくりと目を開き、優しく私を見つめる。
「だから、あなたの名前に私たちは
『千里先を見据えて、沢山の喜びを感じて、沢山の苦痛を乗り越え、
隼の様に力強く、自由気ままに、自分らしく、
この荒々しい世界を、誰よりも疾く、誰よりも美しく、
静かな心と、千早振る羽根で、自由自在に飛び回って欲しい』
そんな意味を込めたの」
お母さんは一言一言、ゆっくりと力強く紡いだ。
私はこの名前が昔から気に入っていた。その名前にここまでの意味が込められているなんて、全く知らなかった。
私は泣きそうになった。すごく嬉しくて。
私はなんとか涙を堪える。泣いちゃ駄目。今から笑顔で行ってらっしゃいを言わないといけないの。
「だからね、千隼は大丈夫。なんたって私たちの自慢の娘なんだもん」
お母さんは私の手を握った。手の温かみが私に伝わる。
「私たちは一度すれ違ったけど、それが私たちを強くした。私はここで待ってるから、存分に暴れてきなさい。帰る場所はここにあるから」
そう言って、お母さんは私の手を離す。
私は大きく息を吐いて、肩の力を抜く。
そして、全力の笑顔で
「いってきます!」
目尻から一粒だけ涙が流れた。
お母さんも笑顔で
「いってらっしゃい」
と優しく言った。
私は振り返って玄関のドアを開ける。
外は酷い雨だった。日が出ているとは思えないほど暗かったけど、こんなもので私は止まらない。
ドアを閉め、紫陽花の傘を開いた私は一粒だけ流れた涙を払って足を踏み出した。
