*
だから俺は神様を捨てた。
もう、愛なんてもので苦しんでいる自分を感じるのが嫌だった。
世界は思ったよりも人任せで、俺は驚くほど重いものを背負わされて、この環境や状態を招いた家族を憎んで、恨んで。そんな風に朽ちていく俺自分が存在することが一番の苦しさで。綺麗事を並べている赤の他人も、誰かの悪口を言う、友達と名乗る人間も、すべてがバカバカしくて笑えてくる。他人なんて信じなきゃいいのに。少しでも期待なんてする自分が悪いんだよ。と、お節介と自重しながらも遠くからそんなことを思ってしまう。
人間って可哀想だ。
信じて裏切られてまた期待してまた裏切られて相手を悪く思って、信じないんだからっと泣き叫んで、また時間が経てばそんなことも忘れて期待して裏切られる。学ばない人間だと遠巻きに噂される。期待する意味が俺には分からない、やっぱり純粋な人間じゃない証拠なのかもしれない。
名前と趣味以外はさほど知らない人物から声がかかる。
「おい真島ぁ! 今日遊ばねー?」
「あー! 悪ぃー。今日先約入ってるんだよ」
「マジかー! お前来なかったら皆来ないじゃん」
いや、知らないよそんなこと。
心の中で思っていることを悟られないように笑顔を作って手を振った。受験前の高校三年生に遊びのお誘いをするのはどうかと思う。いやお前らは決まってるからいいんだろうけどさ。
「頑張って! まぁ楽しんできなよ」
軽々と言ってのけ、ひらひらと身軽に手を振りながら教室を去る。
廊下に出て目に入ったのは、なぜかぼーっとして突っ立っている天方琴だった。
「あれ琴ちん、どったの」
「いやー、人って運命とか求めちゃう、悲しい生き物なんだなと思ってさ」
天方琴、この人間は案外まともで、俺が唯一認めている人間と言っていい。
もうすっかり寒さに慣れたように冷たい風に当たっている。彼には今の季節、冬がよく似合っていた。いつも物静かなように見えて時々熱っぽさを感じる。
「えー何それー。ついに目覚めちゃったか」
「うんーそうかな」
天方とは。いや琴ちんとは中学からつるんでいるが、最近になってようやく、少しずつではあるが心を開いてきてくれていると思う。自意識過剰だろうか、違うだろうか。どちらにせよ琴ちんはそんなこと気にも留めない気がする。まぁ所詮他人のことだから、何考えてるかなんてもの確実に分かるわけもない。いくら俺がそうかもしれない、だなんて思ってもそれは予想であって事実でもその証拠でもない。
琴ちんは指の関節をポキポキと鳴らしながら首を横に傾けた。廊下の窓から弱い風が吹いてきて、目の前の寝癖を揺らしていく。
「ロマン家の心理って何だと思う?」
何かを思い浮かべるようにそう口にする琴ちんの表情は、どこからか反射する強い夕陽の光のせいか、あまりよく見えなかった。
「さぁ? 世界は愛で満ちているとか、常に考えてる心情なんじゃない?」
「じゃあ、神様っていると思う?」
「え? なんて」
「ん? なんでもない」
かぶりを振りながら琴ちんは歩きだした。俺には聞こえなかったようで実は聞こえたのかもしれない。分かってしまったのだ。彼が、何を思って彼女の存在を口にしたのかを。それを、俺以外誰も、知らない。俺が知っていることを、知らない。
俺には世界という名の元に存在するすべてのものがまどろっこしくて、面倒臭くて、気持ち悪いものだと思っている。何かねばねばしたものが地球にまとわりついているような、そんな感覚がしてならない。
愛とか恋とか、特にそういう類のものはクサい。
綺麗事をだらだらと並べて、バッサリ簡潔に要約されたものを表現した結果がそれだと思う。綺麗事を並べている人間は大勢いるが、俺はそんな綺麗事も、それを平気な顔して言う人間も嫌いだ。全身に虫が走るみたいに気持ち悪い。
それもそのはず、そんなものこの世界には存在していないと思っているからだ。
仕方がないだろう? ここに俺が生きている時点でそれはもう免れることのできない運命なのだから。そうだ、こういう俺の逃れられない状態のことを運命というんだ。
「真島ぁー! お前ちょっと今日ぼーっとしてね?」
放課後の音楽室というのはこんなにもうるさいものだったのだろうか。バンドの練習に、いまいち気合が入らない。自分の勝手でしていることなのだが。今の俺には、過去を振り返る気力すら残っていないらしい。記憶の糸が切れている。
「んぁ? あぁ、悪い悪い。ちょっと眠くてさぁ!」
「はぁ? 大丈夫かよ」
「全然平気。え? ここでもう俺ダメとか言ったら助けてくれる?」
「やめろその上目遣い、キモい」
「冗談でやっただけだし」
俺は面白おかしく言うのが得意らしい。そして結構、内心と思っていることが違っていたりする。いわゆる、腹黒だったりするわけだ。まぁ、悪口を内心言いまくってるとかそういう凶悪なものじゃないけど、結構反応している割にはどうでもよかったりする。
「分かってるよ、俺なんか誰も助けねぇよ」
ボソッと軽く零してみる。受験生が何してんだよ、と我ながら呆れた。
その言葉は虚しくも音楽室に響く音に紛れて消えた。言葉って無力だと、こういうときに思う。言葉に力なんて存在しない。人間の性質を言葉の力だけで変えることなんてできない。なぜなら、当人にとってはすべて馬の耳に念仏だから。日本語として聞いていないのかもしれない。俺にはよく分からない。純粋な人間の感情も、愛なんて嘘くさい言葉も、俺自身の力も。
窓が開け放たれていて、まるで防音室でやっている意味がない。
夕陽が入ってきて、眩しい。目を閉じたくなるほど、今の俺には眩しく見えた。
神様っていると思う?
琴ちんの声が思い出される。こんな世界にも非現実的である神様は存在する。だから、琴ちんの問いに対する答えはYesだ。なぜ存在するのだと断言できるか。それはほら、あれだよ。やっぱり他の誰でもない、俺が。
その神様だからだ。
俺は、一人の少女の秘密を知っている。
その秘密に気がついたのは、俺が高校一年生のとき、入学したての頃だった。俺には何というか、その感じ、というものがした。自分のような神様の血が流れている半人間がいるのだという感じが。どこかにいるその半人間は、見た瞬間に彼女だと分かった。神代柳縁、神様によって生み出された人間界の神様だった。俺の実家が人間界の神様を管理する仕事を神から託されているようで、俺の家には数多くの神様のデータが存在する。その情報によると、神代の神様としての個々の特徴は、赤い糸で人間の運命を定める。とても重要なその仕事を彼女がこなせているのかはよく分からないが、見る限り明るそうな性格のため、人間との接触には困らなさそうだと思った。
そして俺にはもう一人、隠しているつもりなのだろうけどだだもれている秘密を持った少年と出会っていた。それが琴ちんこと、天方琴。一言で言うと彼はかなり変わっていた。中学の頃から微塵も変わっていない、そんな感じだ。そして彼には、運命の赤い糸がみえている。生まれてからずっと、視界は赤いままだというわけだ。なぜ分かるかって? 神様ナメるなよ。
この二人が出逢ったらどうなるだろう。ふと、そう思うことが度々あった。でも二人は、なかなか出会わなかった。接点すらも、驚くほど生まれなかった。
そしてそのまま迎えることになった高校三年生の春。二人は同じクラスになった。俺としてはちょっと出会うのが遅すぎたようにも感じられたが、直接二人が話すようになったのは高校最後の夏を終えた、九月という季節だった。入道雲が夏の空に消えて、花火の匂いも海に帰った頃。少し、蝉の声が聞こえていた気がする。聞こえていたのは俺だけだろうか、蝉にも愛があったのかもしれない。
「おー! 後ろの席のいっちゃん端とかラッキー!」
「んんんんんんん?」
「あああ……い……と」
前の席から離れて二人を見たときは、口に含んだジュースをそのまま吹くかと思った。ほんとに。二人のやりとりを見るのも面白かったし、何しろあの二人だ。出会ったら出会ったでなんとも奇妙な光景で。こんな日がくるとはなぁ、みたいな二人を見守る親の心になったのだ。二人なら俺が介入する間もなく、きっと色んな出来事がおとずれていくのだろうな、と思い普通に放置した。今さら友人のため、とかいって神様とやらの仕事に打ち込むのもおかしい気がした。親にだって一体何を言われることやら。
親にはしっかりしとした職に就くように言われている。でも俺からしてみればしっかりとした仕事、って何なんだという感じだ。誰がそんなことを、そして何を基準にして言っているのか。どうせ自分だろう。主観的にしか物事を捉えられないような、そんな人間にはなりたくない。
案の定、二人は恋に落ちた。ベタな表現だが、その他に表現しようもない。愛とか恋とか、俺にはまるで信じられないものだが、神代は信じていた。やはり信じている人にしかおとずれないものは、何かしらあるのかもしれない。例えば幽霊とか。信じている人にはみえることもあるらしいけど、信じていない人はみたことがないとか、そういう感じの。そちらの世界のことはよく、分からないけど。
琴ちんは神代がいなくなった後も、多分今でも、神代のことが好きなんじゃないかと思う。さっき琴ちんが口にした彼女の存在。忘れられずにいるのも無理はない。きっと神代も今頃天界で、琴ちんを思い出しながら恋しく思っているだろう。記憶はそのままにしたいという神代の決断は正しかったんじゃないかと思う。二人は物理的距離はかけ離れてしまったが、心理的距離は格段と近くなった。ように思う。
つまりは愛になったと、そういうことだ。他の神様が故意に植えつけたわけでもないし、神代自身がポンと生み出したわけでもない。天然の愛というもの。愛とか恋とか、俺には綺麗事のように思えるし、信じがたいものだ。それでも現に目の前で見せつけてもらっては信じるもこうもなくなる。非常に困ったのだ。
俺にはそういう類のものを信じて生きていくという義務がある。でも俺はそれを放棄した。両親に何を言われたって構わない。神様という、まぁ言えば俺の上司に何を言われても、もう知ったこっちゃない。純粋な人間ではないが、見た目は人間なのだ。ここで人間らしく生きている方がきっと楽であろうことは確かである。
神様を捨てた原因? そんなものはとっくに忘れたよ。
「ただいま」
もうすっかり日の沈んだ空を背後に玄関のドアを開けると、親の靴がきっちりと、もう気持ちが悪いくらいに綺麗に並べてあってげんなりする。今日、残業か飲み会か何かって言ってなかったか? あれ、それ昨日だっけ。
「遅かったわね。いつもこんな時間なの? こんな時間まで何してたの? まさか巧、あんたまだバンドなんてやってんじゃないしょうね。大体」
「母さん、水道出しっぱだよ。勿体ないんじゃなかったの」
またいつものようにグダグダと小言を言い始めた母の言葉をさえぎる。なぜ俺が聞く気がないことを承知で、毎回顔を合わせる度に小言を繰り返すのだろうか。俺は聞き流しているというのに。母が水道を止めに行っている間に、階段を上って自室へ戻った。俺はどんどん多様な逃げ方を習得していっているような気がする。
あってもなくてもいい物がない俺の部屋は、通常通りガランとしている。紹介するつもりはないが一応言っておくと、部屋の奥にシングルサイズのベッド、その横に勉強机、その机の上にライト、机とセットの椅子。以上。もちろん机の上には教科書とかが並べてあるし、部屋の隅のクローゼットには服が入っている。それと両親にバレないように自分の小遣いで買った、中古のベース。両親が家を空けているときに弾いている。見つかったことはまだないが、これから見つからないという保証もない。母がご飯だとか言って俺の部屋のドアを開けたときには一瞬ヒヤリとする。まぁクローゼットの中身まで気にするほど俺に興味がないことは、もうとっくに知っている。
制服から着替えてベッドに寝転がった。
何もない部屋でいつも何をして過ごしていたのか時々忘れてしまうことがある。昨日は課題でもして暇を潰していたのだろうか。それともどこかの誰かが投稿している動画でも見ていたのだろうか。それすら忘れてしまった。気ままに生きすぎているかもしれない、とも思うが俺の人生だから誰にも関係ない。ましてや神様になんて。
「巧、ご飯だからおりてきなさい。少し話があるの」
「俺にはないよ」
わざわざ僕の部屋のドアを開けてまで呼びに来た母を、ベッドにうつ伏せにダイブしたままの体制を一ミリも変えずに返事をした。ちなみに言っておくが俺は反抗期だ。反抗期の最中のどれくらいの位置にいるのかは不明だが、取りあえずここ三年から五年くらいは反抗期な気がする。
大げさにため息をついた母は、何も言わずに階段をおりて行った。俺もため息をつきたい気分だ。濁点なんかをつけた単純な平仮名を叫んだりしてみたい。
ふいに、叫びたくなるときがある。これと言ってツイてなかったこととか、嫌なこととかがあったわけでもないのに。学校帰りに通る大通りの横断歩道を渡るときが一番そう思う。ここにいる全員が、きっと俺のことを頭のおかしな人間として認識し、軽蔑しながら通り過ぎていくのだろうと思うと、最高に面白くないか? 俺は最高に面白い。大勢に同じような反応を同時にさせるなんて、一般人にはまず不可能なことだから。
母が呼びに来てから数分が経った後の電子時計を見る。そろそろ母がまた何か言い出す頃だと思ってベッドから起き上がって階段をおりた。
「早く来て支度手伝ってよ」
あぁ、と軽く返事をしてテーブルについた。きっと今日は父が早く帰ってくるのだろう。アルコールに合う食事が用意されている。普段は俺一人で夕食を済ませることが一番多いのだけど。
無言で箸を進める時間が続く。厳しい沈黙を少しでも和らげるためにテレビをつけているが全然面白くない。ただうるさいだけだったのでニュース番組に変えた。重苦しい雰囲気が一気に押し寄せてきて逆効果だったことを悟る。
嫌な念仏が始まる合図のように、母が箸を置いた。
「まだバンドなんてしてるの」
「してないよ」
早速さらりと嘘をつき始める真島巧さん。嘘には慣れっこだ。おまけにポーカーフェイスだから大抵の嘘がバレることはない。
「じゃあ何でこんなに帰りの時間が遅いの」
「高校生なら八時半なんて普通」
「そんなことないからお母さん言ってるの」
「今は母さんが思ってるような時代じゃないし」
「……してないならもう少し早く帰って来なさい」
「なんでだよ。母さんには関係ないだろ」
「関係ないわけないでしょ!?」
「じゃあいつも、もっと早く帰ってこれば」
う、と痛いところをつかれた表情をする母。いつも今日は外せない飲み会だとか、どうしても行かなきゃいけない会とか何とかで飲み会に行っていることを知っている。仕事の集まりではなく、お友達との女子会であることがほとんどなのも知っている。なぜか? 何度も言っているが俺は神様だ。そんなのは嫌でも悟ってしまうのが生まれつき神様である俺の使命というもの。本当に、分からなくていいことまで流れてくるのは迷惑なことだ。
「ま、いいや。楽しんできなよ。俺も好きなようにするからさ」
嫌味たらしく零れた言葉が食卓に落ちた。別に母の日常の過ごし方に不満があるわけではない。早く帰ってこなくても全然構わないし、むしろそっちの方が嬉しい。俺が言いたいのは、そっちが好きなようにするなら俺だってする、ということだけだ。要は口を出さないでほしいだけなのである。
ごちそうさま、と逃げるように言い残して食器を片づけた。母はもう何も言えないのか、言う気力もないのか無言で箸を動かしている。
どこかの電球でも切れたのだろうか。いつもよりもリビングの明かりが暗いような気がする。重苦しい雰囲気が流れて思わず咳払いをした。この気まずい空気を、どうにかして誤魔化したかったのかもしれない。
自室へ戻るとスマホの画面が明かりを放ちながらバイブの音を鳴らしていた。
あー。俺にも一応人付き合いというものがあったね、そういえば。少々面倒臭く思いながら、ベッドに放り投げられたスマホに表示された画面を覗き込む。
琴ちん
これは珍しい。高二の初めに電話番号を無理やり聞き出して登録してから、実際に使用したのは恐らく今まで一度もなかった。ましてや、琴ちんからかかってくるとは思わなかった。緑色の電話マークをスライドさせた。
「もしもし? 俺だけど」
なんでもしもしって言うんだろう。と、ふと思いながら口にする電話ならお決まりの言葉。
「あ、オレオレ詐欺のかけ子だ」
「琴ちんからかけてきたよね?」
「ははは。ごめんごめん。つい、ね」
ついって何。俺そんなに詐欺してそうな雰囲気なんですかね天方さん。
いつもとまるで変わらない様子の琴ちんが電話をかけてきたのは、なぜだろうか。現時点ではまだ分からない。
「急で悪いんだけどさ。これから付き合ってくんない?」
「ごめん。いくら琴ちんでもそういう趣味は」
「はい差別発言。そして思いっきりはずしてくる真島さーん。ナルシストがバレるぞ」
「分かってるって。冗談だよ」
少し笑った声が電話越しに聞こえて心なしか安心する。俺に電話をかけてくるくらいなのだから何か不安になることがあるのかもしれないと思ったからだ。
「先ほどの差別発言については、どうお考えですか真島氏」
「深く反省しております」
「ほんと反省しとけよ。僕の人間としての秤にかけられることになるからな」
琴ちん少々お怒りモード。琴ちんは人一倍表現に敏感だったりする。きっと彼は優しいのだ。口調は別にして、他人よりもずっと。
「ほんと琴ちんって正義感あるしいい人だよね。裁判官にでもなったら?」
「人間としての最低限の物事の見方をしてるだけ。いちいち大袈裟」
「はい。人間として最低でした」
「まぁ、分かればいいんだよ」
まずい。俺らあるあるが発生した。
「脱線したね。それで付き合ってほしいんだ」
いつもこうして二人で話を散らかしまくった後で琴ちんが本来の話に戻す。気づかぬうちに色々と派生してしまってるんだよなぁ。琴ちんとの会話だと。
「神社に」
なるほど。そうきたか。
「いやどう来たんだよ」
真冬であるのにパーカー一枚で外に来るバカが一体どこにいる。ここにいる!
しかも雪が降っているせいで黒色のはずのパーカーが、雪景色みたいに上だけ白くなっている。琴ちんは抜けているところがある、だけでは到底済まされない域のことをまるで当然のようにしてくるから恐ろしい。
「歩いて来た。何? 僕そんな息上がってる?」
「いやこっちの話。ってか寒くない?」
「寒くないかなと思ったけど、案外寒いもんだな」
当たり前だろ。寒いから雨じゃなくて雪が降ってるんだよ。寒いことに今気づいたおバカ少年は、自分の両手をさすって摩擦を起こしている。
「ってかこんな夜になんで神社?」
「あ。こんな夜遅くに呼び出したのはほんと悪かった。親怒ったか?」
「あー……」
琴ちんから電話がかかってきた後、出かける準備をしているところに、何の用だか母がまた部屋に顔を出した。不機嫌な顔を見て何を言う気にもなれずに、横をスルリと通り抜けた。が、何も言われないはずがなく引き留められる始末に。
「もう夜よ。どこに行くの」
「ちょっと外の空気吸いに」
「こんな時間に呼び出す友達となんて仲良くしないでおきなさい」
「俺の友達のことまでとやかく言うなよ」
「どうせろくな人間じゃないのよ? 分かってるの?」
「その人のこと判断するのは自分だし」
「ちょっと待ちなさい!」
またもや口論。顔を合わせる度に言い合っていてはお互い身が持たないと思うのだが。しかも俺の方がまだ若いしメンタル強いと思うんだけどなぁ。大人の思考はまったく理解できないものだ。
「全然。特に何も言われなかったよ」
琴ちんからの親怒ったか? に対する答えは本当はこれとは真反対だけど。ときに気遣いというものは必要だ。特に人間の信頼関係を築いている最中では。
「そ。なら良かった」
琴ちんが神社の階段を上り始めたので、慌てて俺も段差に足をかける。夜の神社は地味に怖いように感じるが、そうでもなかった。もはや神秘的で興味がわく。本当はあんまり朝以外に行くものじゃないみたいだけど。
「願掛け」
「ん?」
両手をポケットにいれて前を見る琴ちんから、白い息が漏れた。自分がしていたマフラーを外してみると、首筋に冷たい空気が入り込んできて、身体がキュッとなった。おバカさんにマフラーを差し出すと、いいよいいよと手のひらを振られた。
「明日、推薦の入試なんだ」
「は?」
「だから、その願掛け」
「琴ちん、俺聞いてないよ」
「だから今言ったじゃん」
「今じゃん」
入試の前日にこんなに薄着で出歩くとか、ほんとに信じられないほどアホだね琴ちん。今回だけはボロクソ言わせてもらうよ。
「あははは。まぁそうカッカなさんなって。明日頑張る、とか言っとくからさ」
「言っとく、じゃなくて。マジ頑張ってよ?」
「ん、勿論。ごめんやっぱそのマフラー借りるわ」
「そんなこと言わずに俺のコートも着てなさい」
事の重大さにようやく気づいたのか、琴ちんは素直にコートを受け取った。マフラーで口を隠しながらありがとう、と言った琴ちんは照れ臭そうに下を向いた。
それから長い階段を上りきるまで、俺は惜しみなく琴ちんを叱りつけた。
何で前日の夜に願掛けするかな。いや、効果あると思って。それにその薄着はほんとバカ以外の何者でもない。はい、僕の責任です。しかも推薦貰ってんだからさ、責任とかないわけ? 僕にそんな考え、微塵もございませんでした。マジでこのタイミングで知らせるとかもあり得ない、アホ過ぎるでしょ。なぁ、段々僕悲しくなってきたんだけど。何言ってんの、自分が招いた事。扱い酷い、真島怖い。ははは、これが俺の愛ってやつだよ。お前が語んな気持ち悪い。琴ちんいきなり塩やめて。
結局いつものポジションに戻る。確かに俺が愛を語ってはいけない事には一理ある。存在していると思っていない奴が語ったものなんてたかが知れていると思わないか? 自分でも思うのだから他人はきっと、もっとだろう。
お賽銭を入れて手を合わせる。
「琴ちんが明日、全力で頑張って合格しますように」
目を閉じてそう口にした後、手のひらを二回叩いて音を鳴らす。俺の上司である神様に、この音が届いていますように。なんて、俺らしくないがまぁいいだろう。
「口に出すなよ」
「あ、ごめん。照れるよね」
「当たり前だろ、じゃなくて。ほんと真島お前マジで」
「はいはいひゃいひゃい」
「腹立つなぁ」
ひとしきりこうして笑いあった後、階段を再び下りる。この動作は地味に足にくる。あれ? 俺こんなに年寄りクサい事考える奴だっけな、と思うくらいには。
うるさいくらい静かな神社をもう一度振り返る。神様の存在を感じそうで、前に向き直った。俺は神様だが、勉学の神様ではないからこれ以上どうすることもできない。俺も人間と同じように願うだけだ。他の神様に、俺の存在がバレないよう、そっと息を潜めて階段を下りた。
帰り道、どこかに行きたくなった。
どこでも良かった。ただ、手持ちのお金で行けるようなところは特になくて、寄り道をしながら帰ることにした。このまま帰って両親にグチグチ言われるのが目に見えていたからだ。もうそろそろ父が帰宅するような気がして尚、面倒臭くなってしまった。
道路の横を、タクシーが走り抜ける。へいタクシー、俺をできるだけ遠くまで連れて行ってくれ。手持ちのお金は数百円さ。何? そんなんじゃどこにも連れていけない? そんなことは分かってる。
「分かってるよ」
なぜだか口から零れた独り言が、まるでこの世界に発せられることのなかったもののように一瞬で消えた。世に出ているのに誰にも見られることのなかった映画のような、そんな言葉が姿を消した。
風が吹いて、思い出す。今が冬という季節だったことに。今更自分が薄着で出歩いているのに気がついて身震いした。琴ちんにコートやらマフラーやらを貸したっきりで、自分は薄着だったことを忘れていた。寒さがやけに、主張してくるのだが。
「帰ろっかな」
いつか帰らなければならないんだ。寒いのなら今のうちに帰った方が身のためだろう。一時の反抗心だなんてものは後になってバカバカしくも思えてくるのだろうから。
それからは寄り道をせずに真っ直ぐに家に帰った。まるで帰宅時の小学生みたいで笑えた。自分にまだ、笑う余裕が存在するのだと心底安心した。
「遅かったな」
いっそのこと家の電気が消えてくれていたら良かった。原因は別に何でもいい。停電でも、ただ単純に両親が寝たからでも良かった。こういう家の明かりをついているのが、俺にとっては気持ちが悪い。俺が家に帰るとき、暗い方がずっといい。
「出かけるとは伝えてたよ」
「こんな夜遅くに出歩くのはよしなさい」
「以後気を付けます」
「勉強はしてるのか。国立、受けるんだろうな」
父は父で勉強のことやら将来のことやらを、やけに口うるさく言ってくる。一体、何を考えていて、どういうつもりなのかも分からない。
「自分の行きたいところに行く」
「まともな道を選べよ」
説得力がねぇんだよ。自分はそんなことを言っているが、まったく正当性を感じない。父はいつも帰りが遅いからなのかは知らないが、家にいる時は大抵機嫌がよろしくないのだ。つまりは全然楽しそうじゃない。自分の人生なのにまるで誰かに仕えているように、俺には見えてならない。
「まともな道かは、自分で決めるよ」
俺は意思表示をはっきりとするのが得意だ。大人に暴言を吐いても無意味なのは、結構前から知っている。大人の耳に入れても痛くないような言葉で、冷静に話せば大体の話は大人の耳に届いている。了解しているのかは、それは知ったこっちゃない。
静かな父の横を通り過ぎて階段を上る。この瞬間が、一番嫌いだ。
*
「なぁ真島大丈夫なのか? 俺らはもう受かってるから良いけど、お前は違うだろ?」
手元のスマホをいじりながら適当に返事をする。
「あぁ。大丈夫なんじゃない? 分かんないけど」
放課後の音楽室は珍しく静かだ。まぁ、いつものバンドの練習がないだけだが。バンド内のボーカルでリーダー、日髙(ひだか)翔(しょう)と何となく暇を潰している真っ最中。他の奴らは友達とやらとどこぞへ行く予定だとか。あんまり興味ないけど。
「真面目に。どこ受けるのかは決まってるよな?」
「んー。まぁ願書とかあるからそろそろ決めないとな」
「天方からアドバイスもらえば」
「え? あぁ。琴ちんは今日受かってるよ」
終わる時間がいつになるのか聞いていなかった。後で電話でもかけようかな、と思いながらいじっていたスマホの画面を消した。
日髙がパックの抹茶オレを飲みながら、俺を不安そうに見つめているのが分かる。空気で伝わってくる。本当に人間は。もう少し自分の感情を抑えてもいいのではないだろうか。
「天方今日だったけ? もう合否分かんの?」
バーカ。そんなわけねぇだろうがよ。少々腹黒さが顔を出す。俺の性格を暴きたがっているように、夕陽が雲から姿を現す。
「俺には分かんだよ」
「何だよー。まぁ天方ガリ勉っぽいしな」
分かっていらっしゃらない。実は琴ちんは、大の勉強嫌い。そのことを知っているのは、付き合いが長い俺だけだろう。別に神様だからって知った情報じゃない。
「あ、話逸らしやがって。んで希望は?」
「特に。親が面倒臭いから未だ決められず」
「ありゃりゃ。お前はどこ行きたいの」
「難しいこと聞いてくるよね」
心で舌打ちをしたくなるほどお節介だ。別に嫌いなわけじゃないが、人間臭くて自分にまで伝染しそうで。それは人間味が増すことに等しく、俺には避けたいことだ。
「芸術系の大学とか憧れるけど」
「お、いいじゃん」
「けど、まぁやめとくかな」
顔を見なくても分かる。今、日髙は眉間にしわを寄せた。理解できない、またはなぜだか分からない、そんなことを内心思いながら。
夕陽が俺の後ろから陽を浴びせてきて、頭の後ろが熱い。床に落ちた自分の影がやけにはっきりとしていて、この世界に存在していることを認めざるを得ない。
「だって俺だぜ? 才能皆無じゃん」
「いや……」
人は誰かの自虐に弱い。どうしたらいいのか分からなくなるのと同時に、自虐した相手に対して面倒臭さを感じる。そうやって人は一人ずつ誰かを遠ざけていく。
「ははは。そんな顔すんなよ。行かなきゃ死ぬってほど熱くもないしな、俺」
これは紛れもない事実だ。何かにそんなに熱くなって一体どうする。そう考えている。その一方で憧れを捨てきれない自分がいる。その証拠に、日髙にこんな事を話しているのだから。日髙や他のメンバーのことが羨ましくないと言ったら、それは嘘になる。それでも、自分にでさえ嘘をつくことだってきっと必要なんだ。これから俺はきっとあの世になんて行かずにここで生きていくのだし、ここでこれから必要なものを考えた方が断然いいと思う。だってそうだろ? 俺は神様の仕事を全うする日なんてこない。矛盾しているが俺は人間にもなりたくなければ、神様にもなりたくない。それでも現時点で人間であり神様であるのだから、おかしな話だ。ほんと、鼻で笑えるほど。
「そうだな! まっお前は地頭いいから平気だろ!」
「おうよ」
明るく取り繕った日髙が、飲んでいた抹茶オレのパックを押し潰しながらズコーと音を立てて吸い込んだ。気まずいような、そうでもないような空気をお互いが誤魔化したかったのかは分からない。誤魔化したがりの俺はきたねーよ、と言いながら笑って見せた。
夕陽が、言葉を放つ口の動きまでうつして、もう一人の俺が生まれているみたいだ。それならお前が、人間か神様か、どっちかになってよ。そんなことをふと思った。
「なんか、叫びてーな」
「は?」
叫びたくなった。自分が一体誰なのか、少しだけ確かめてみようか、と思った。誰かに問いかければ誰かが答えを返してくれるような気がした。
音楽室に寂しく置いてあるパイプ椅子から立ち上がって窓へと近づく。カラカラと音を立てながら開いた窓の外は、案外静かで叫ぶには勿体無いくらい穏やかだ。
鳥が飛んできたのが合図のように、俺は息を吸い込んだ。叫ぶためには息を吸う。
グランドで部活をする生徒のかけ声が、曲のサウンドのように思える。夕陽が眩しくて、案外周りの気配は感じない。実際人なんていないのかもしれない。
「誰だよおおおおおおおおおお!!」
「何なんだよおおおおおおおお!!」
自分の叫び声以外の音とか、声なんてものは聞こえない。当たり前だ。俺は何を叫んでいるのか、分からなくなった。この世界の存在を確かめているのかと疑うぐらいには、声が大きかった。日髙はきっと目を丸くして俺の後ろ姿を見ているのだろう。おいおい、こいつほんとに大丈夫か?
「大丈夫だあああああああああ!!」
本当に聞こえたわけではない。自分が想定したものの返事を叫んでいるだけ。ただの自己満足でしかない。陽の光が眩しいからだろうか。泣きたい気分だ。
俺にしか理解できない事。他の誰にも理解できない事。どうして俺なんだろうか? 俺以外の誰かじゃダメだったんだろうか。俺にする必要なんて、なかっただろうに。こんな使命みたいなもの、捨てちまえ。はるか前の思いが蘇る。俺が神様を捨てなくてはならない理由。俺が神様であってはならない理由。
「うるさい」
過去を振り返りそうになった瞬間、ふと聞こえた声。日髙のものではないとすぐに気がついたが、すぐに向き直ることはしなかった。その方がいいような気がした。
だって俺は泣いていたから。
「窓開けてうるさくしないで。気が散る」
今までに聞いたことがない声。知らない声だったが、女性であることには容易に気がつく。同じクラスではないことも確かだ。こんなに澄んでいる声、俺は知らない。
「あぁ、ごめんごめん。俺、今叫んでたんだ」
少女に背を向けたままそう答えた。涙を流しているなんて到底分からないように。そっと手の甲で拭いながら、笑顔を作り出す。
「知ってる。それがうるさい。せっかく防音室なんだから窓開けずに叫びなよ」
「一理ある。ってかそれが正しい」
振り返りながらそう言った。風が俺の頭に当たって髪をなびかせているのが分かる。
少女はスケッチブックを持っていた。結構大きめの、それっぽい人が使うような。
「知ってんのか知らないけど、隣さ美術室だから。静かにしてねこれからは」
「君、案外早口なんだね」
「そ。私得意なの。聞く?」
「いや、遠慮しとく」
神様の直感を皆様が信じてくれるとするのならお告げしよう。
こいつぁ、変人だ。
見た目はごく普通の女子、よく見ると可愛いんじゃないか?と思うくらいなのだが人は見た目によらないらしい。例に挙げるとすると、琴ちん並みに変人であるのが伝わってくる。俺が神様だからそう思うのか、それとも誰でも感じることなのかは不明である。
「怖い人だったらどうしようかと思ったけど、変な奴で良かった」
「失礼だなぁ。怖い人だったらどうしてたの」
「タメ口謝って退散」
何か聞いたり話したりすると、思いのほか返事がはやく返ってくる。脳内転換がはやいのだろうか。
少女の髪を見るとお団子で、よく見ると鉛筆が刺さっている。その光景が何だかとても変わっていて、彼女にぴったりだった。
少女は何をすることもなく突っ立っている。日髙が俺たちの様子を見ながら空のパックを、ストローを加えて垂らしていた。俺は窓のすぐ横の壁に、もたれかかっている。
「ってか夜(や)凪(なぎ)は美術室で何してたの?」
「あぁ、翔もいたんだ。私はアレだよ。部活もどきの創作活動」
「ん? 知り合い?」
いきなり名前を呼び始める日髙、に対して普通に応答し始める謎の少女。俺だけがついていけない状況に不満を覚える。なぜだかはよく分からない。
「俺と夜凪、同中で親同士が仲良いんだ」
「あぁ。なるほど」
そういうのが、僕には少し羨ましい。昔から一緒みたいな、まるでそんな言い回しができる相手がいるって、多分そんなに簡単なことじゃないから。同中と言えば琴ちんだけだけど、親同士が仲良いとかはない。仲良いどころか面識もないはず。確か琴ちんは父子家庭だった。彼の家庭にも色々あるみたいだ。
「それじゃ。私行くね」
「おう、またな」
そこの会話に俺の姿はない。何だかどうしようもない劣等感を感じる。クラス内ではこんな事、絶対にないのに。むしろ俺が会話に入らない会話はないんじゃないかってくらい。その中でも自分をさらけ出すことなんてないのだが。
少女は音楽室のドアの前まで歩いた後、急に何かを思い出したようにあ、と口に出して振り返った。ただ何となくぼんやりと後ろ姿を見ていた俺は、振り返った彼女と目が合う。なぜだか妙に心臓が跳ねた。きっと突然なことだったからだろう。
「もう叫ばないでよね」
「あー。その保証はないけど」
「そこはうんって言っときなさいよ」
真顔で言った俺とは反対に、俺をバカにするような顔で笑って返事をする少女、ヤナギさん。漢字は苦手な方だからすぐには思いつかないが、恐らく『柳』とかそこら辺の漢字だろう。
夕陽に背を向けた彼女は、もう振り向かなかった。
*
この世界の神様のデータはそう多くない。
神様は普通、天界にいるものだからこの世界で神様として生きている俺みたいな存在は稀だったりする。俺の両親のように、昔は神様だったが今ではもう神様の力は失われている人間もいる。それは彼らが千人に対して仕事を全うした後に、人間としてこの世界で生きることを望んだからだ。神様だった記憶と神様の力はほぼ完全に失われる。そのことを覚悟のうえで人間となった両親。馴れ初めは聞いたことがない。なぜ今になって神様だった記憶があるのか。なぜお互いが神様だったことに気づいたのか。きっと何かあるのだろうけど、俺には分からない。これは知ってはいけないことなのか、俺の生まれ持った神様の力でも分からないままだ。きっと神様を生み出す神が制限をかけているのだと思う。どこまでもファンタジー設定で笑えてくる。
父の書斎に神様のデータを保存している機械があるのだが、それに近づくとすぐに怒られた記憶がある。おかしなプリンがどうとか言っていたと思っていたのだが、恐らくプライバシーの侵害のことだろう。幼い俺は耳が悪かったのか、バカだったのか。父のいないときにその機械を眺めていると、必ず母がやってきて、神様の仕事、真面目にする気になったの?とまるで責めるように聞いてくる。それが嫌で、今となっては書斎には立ち入らないようにしている。まぁ俺が小学生のときの神様初心者だった頃は、これに頼ってしまいたいと思ったことが何度もあったのだが。だが俺はもう子どもではない、神様だ。機械で情報を見なくても、自然と分かってしまう。まぁ両親のこと以外は、だが。両親が今でも神様の仕事をしているのかはよく分からない。ただ、データを管理しているだけなのかもしれない。神様だからってこれと言って便利になることとかはなかったけど、不便になったこともない。普通の人間もこんなものなのかもしれないとも、思ったりするが、多分そういうことじゃないんだろう。
きっと俺は人間になれない。
三学期はきっとすぐに過ぎる。高校生最後の日々なんてものは呆気なく終わっていく。俺がどうこうしているうちに、あっという間に桜が咲く季節になる。これは想像しているよりもずっと、早くおとずれるような気がした。そんなことが怖いような。でもどこか呑気なような。自分と自分を切り離して考えているからなのかも。しれない。自分が自分であるという確信みたいなものが、俺には感じられなかった。そんなもの、あるはずがない。
「真島、今日練習来るか?」
おうよ。
いつもなら、すんなりと答える。しかし俺は勉強をしなければならなかった。何しろまだ受験の真っ最中だ。呑気にベースを鳴らしているわけにはいかない。
「今日は……しばらくやめとくわ」
返答を予想していたのか、日髙は顔色一つ変えずに了解ー、と生温い返事をした。荷物をさっさとまとめた後、笑顔で色んな人に手を振りながら教室を出る。
琴ちんは、昨日の試験を結構不安がっていたが、合格しているということを俺は知っている。だから、俺からは何も言っていない。琴ちんから結果を聞いた時に、誰よりも拍手を送るつもりだ。
「あ、真島君じゃん」
不意に声をかけられてドキリとする。俺は案外、ポーカーフェイスな方だから、恐らく相手には伝わっていない。
「今日は叫ばなくて大丈夫なんだ」
「叫ぶなって言ったのヤナギさんじゃん」
そう口にするとヤナギさんは、少し驚いた様子で瞬きをした。どうもこの人は感情が露骨に表情に出るタイプの人らしい。つまり、人間クサいタイプだ。
「そのヤナギさんってもしかしてだけど」
「何」
「私のこと?」
「…………は?」
どこからか冷たい風が吹いてきて髪がなびくのが分かった。その冷たさでなのかは分からないが、ふと我に返った。俺が俺らしくない口調と表情をしていたのだと、今更に気づく。いつもならヘラヘラと作り笑いを浮かべて口調もまるでアホっぽい。それが今はまったくの無表情、かつ喋るにしては大人しい。
「私の名前知らないのか。さては」
何を言っているのか分からない。理解不能だ。もはや日本語分かってんのかレベル。それかもしくはヤナギさんの、相手に読ませる行間が広すぎるか。汲み取らせることが多すぎて、一般人の俺には分からない。普通に汲み取れない。
「ヤナギさんじゃないの?」
「苗字苗字」
「ヤナギさんじゃないの?」
「それは下の名前」
思わず口を開けて固まってしまう俺。ヤナギは苗字だと思い込んでいたために、衝撃が大きい。ヤナギさんはまるで慣れたことのように苦笑いを浮かべて俺を見ている。俺が、こんな苦笑いを相手にさせたのは、久しぶりだった。
「苗字、ヤナギじゃないの?」
「沢木(さわき)夜凪。私の名前」
「……なるほど。沢木さんなんだ」
苗字は案外ありそうな感じで少しだけ拍子抜けする。
ヤナギさんはよく下の名前を苗字だと間違われるのだろう。それだからきっと、俺の言ったヤナギさん、にも苦笑いで対応したのだ。苗字を知ったとはいえ、今更沢木さんと呼ぶのは妙にしっくりこない。今更、と言ったってそう時間は過ぎていないし、関係性もイマイチ微妙なところではあるんだが。
「いいぜヤナギで。下の名前だからって何の問題もないさ」
「あぁ。そう」
こういうタイプの人間は初めてだ。何だか話し方もおかしいし、接し方も男気で溢れている。そもそも昨日、音楽室に、誰がいるかも分からないまま乗り込んでくる時点で、相当ツヨイ性格なのだろう。全体的に女子らしくない。
「じゃあ。俺帰るから」
「え?」
ヤナギさんは昨日と同じくでっかいスケッチブックとペンケースを持っている。今日は鉛筆がお団子に刺さっていなかったが、彼女の雰囲気が前回と同様に変人っぽかったので、髪に鉛筆が刺さっているのは彼女の変人さとは関係なさそうだ。
「え? 何、俺帰っちゃダメなの」
「だってバンドしてるんでしょ? いつものよーに、音楽室行くのかと」
「俺、二次試験まだなんだわ」
「あぁ。それは帰れだ確かに。二次いつなの?」
「いや。受けるとこ決めてない」
案外お喋り好きなヤナギさんは、結構な早さで次々と質問してきそうで怖くなる。どこ受けるか決めてないの? 学部は決めてるの? 将来なりたいのとかは? 早く決めて対策しなきゃじゃない? 等々。一般人であれば聞いてきそうな質問がすぐに思いつく。それを実際に聞かれたわけでもないくせに、質問の答えを考えてしまう俺。
「あぁ。まぁ悩んだらいいんじゃない? 人生一度だけだし」
ニッと白い歯を見せて笑うヤナギさんの言葉は、どこかの誰かが言うよりもずっと説得力があって安心した。なぜなのかは具体的には分からない。だが、確かに言っていることの正しさが伝わってきたのだ。
きっと彼女は今だからこそできることを、これからしていくんだろうな。そんなことを考えていたら、自分でも無意識のうちに笑みがこぼれていたらしい。ヤナギさんの顔を見ると、安心でもしたかのように微笑んでいた。
「現実見るのも勿論大切だけど、感情っていうのは目には見えないからさ。その時点で、もう現実だとか少しくらい無視してもいいんじゃないかって、思ってるよ私は」
夢想家のようなその発言は、非現実的なようで確かにこの現実を見ている。彼女はそんな想いを芸術に捧げているんだろうな、と容易に感じた。こいつぁ、すげぇ芸術家になんぞ。
「俺さ結構、現実主義者なんだよ」
「それならまぁうん。いいことだね?」
「夢とかバカバカしいと思うタイプなんだ」
「まぁ。所詮バカみたいな奴じゃないと夢なんて追えないと思うぜ?」
「俺はバカじゃないから夢は追えないみたいなんだ」
「真島君の夢が未来ってわけじゃなかっただけだよ」
解釈の仕様がなくて黙ってしまう。時間は刻々と過ぎているはずなのに、周囲と俺自身がそれを感じさせない。ヤナギさんは時間を止める能力でも、持っているのだろうか。
夕陽がヤナギさんの顔を照らして、少しだけオレンジ色に染まる。俺の顔も、ヤナギさんから見るとこんな風になっているのかと思うと、想像できなくて内心笑う。
「真島君は夢が現在進行形なんだよ。今しかできないことって、あるじゃん。真島君の未来には多分、違う夢も生まれるんじゃないかな」
今の君の選択によってね。
少し間が空いた次の瞬間に放たれた言葉が、深く突き刺さった。どこに刺さったのかは分からない。それでも俺の何かが音を立てた気がした。目の前に光が差し込んだような。例えるとしたらきっとそんな感じ。
「まぁ! 人生なんて? なるようになると、私はいつも思ってる。何も間違いなことなんてないんじゃないかと思う」
お疲れ。そう言いながら俺の肩をポンポンと叩き、通り過ぎるヤナギさん。頑張れ、と言うべきこの状況に、わざわざお疲れと言う理由は不明だったが、少なくとも俺は元気が出た。無意識のうちに望んでいた言葉だったのかもしれない。
ヤナギさんが通り過ぎてしばらくして、自分が廊下に取り残されたことに気がついた。彼女が軽く叩いた肩への感触が地味に残っている。
別に痛いわけでもなかったのに、なぜか肩を手でさすっていた。
*
「俺、ここの国立大学の工学部受けます」
今まさに家族会議とでもいう状況。いやまぁ、そんな可愛いもんじゃないのだが。俺にはこれといってしたいことがないため、どうしようかと一晩悩んだ。が、一晩だ。俺は特に何の考えもなく理系に進んでいたため、勿論授業も理系向けである。就職とか考えたときにやっぱり工学部が無難そうだし。という不純な理由だ。
珍しく揃う家族の表情は、いつになく硬い。将来の話だからだということは聞かなくても分かる。テーブルの上にパンフレットを開けて工学部のページを開く。共通テストの自己採点の結果で受ける大学を本格的に決めるのだが、俺の受けるところなら許容範囲内だろう。
「何になるのか決めてるの」
「どこかに就職でもしようかと」
「巧あなた、文系じゃなかった?」
「理系だよずっと」
今の母の言葉で脱力する。いくらなんでもそれはないだろう、と。文理選択のときに、学校からは家で相談してくるように言われたのだが、俺は必要性を感じなかったため相談などしなかった。その結果このザマである。
リビングの電気が暖色で、そのせいか少しだけ眠たい。両親との真剣な場面と思われるこの状況に不釣り合いな感情を抱きながら頭を掻いた。この瞬間、することが皆無だ。
「お前は神様の仕事を継ぐ気はないのか」
低温が響いて目を見開く。そんなことを言うとは、俺どころか母も想像していなかったらしい。二人して父を見つめている。
「神様の仕事なんて誰もしてるように見えないけど」
「まぁ俺たちはもう随分昔に、神としての力は失ってるからな」
「俺ならそれが仕事になるって?」
所詮、非現実的な仕事だ。本来この世界にあるはずがないのだから、当然給料なんてものも、貰えるはずがない。食っていけるわけがない。
真顔であり得ないことを言ってくる父は、俺が神様の仕事をすることを望んでいるということなのだろうか。母よりずっと説得するような口調だった気がした。
「お前なら本業にできる。結婚しないという条件付きではあるが」
母と父が、人間でいることと引き換えにした神様という存在と力。愛する人ができてしまえば、そりゃあこの世界で人間であることを望むのは言うまでもない。それほど愛というものに価値があるのか、俺には信じがたいものなのだ。きっと神様でなくなることは一生ないと言っていい。例え俺が神様の子である為に絶対的な神様であることを逃れられないのを、無視したとしても。
「俺には神様なんて、無理だと思う」
「別に必ず本業にしろとは言ってない。少し考えてみてくれないか?」
父の、こんなにも角の取れた喋り方を聞くのは何年ぶりだろうか。顔に似合わないような穏やかな声で言われた言葉は、どうしてだろうか。肯定せざるをえなかった。
「考えてみる」
座っていた席から立つと、黙っていた母が急に能天気な声でねぇ、と言った。明日の晩ご飯は何がいい? とかでも言いたしそうな温度だった。
「理系だったら、文系の学部は受けられないの?」
唐突な質問だった。母が何を言っているのか、俺が聞き返すよりも早く父が反応した。
「それは無理があると思うが」
それは無理がある。そうかもしれない。今まで理系の勉強を散々してきたのだ。今更文系とは一体どういうことだろう。しかも本人じゃないんだぜ?
「いや、就職のことよりも考えるべきことってあるじゃない。大学に行くのは学ぶために行くんだもの。興味のないものを学んだって楽しくないんじゃない? 今まで、巧にはちゃんとした生活を送ってほしくて口うるさく言ってきたけど」
あぁ、口うるさく言ってた自覚はおありでしたのね。
どういう風の吹き回しかは知らないが、取りあえずは俺のことについて真剣になってくれているととっていいだろうか。母はそのまま休むことなく続けた。
「でも自分の興味あるものに向かっていくほうが、就職なんかよりもずっといいんじゃないかと思って。それくらい、価値のあるものなんじゃないかな、と思ったの。文系も受けられるなら視野が広くなるでしょう?」
本当に俺の両親はどこへ行ってしまったのだろう。いつもならきっと、俺が何を言ったって怒ったような口調でグダグダと説教じみたこと言っただろうに。二人ともが俺に否定的に接してくるはずなのに。もしかしたらこの二人は、受験時代に何か、後悔するような決断をしたのだろうか。今でも無意識のうちに記憶の隅から引きずってきて、俺に伝えようとしているのだろうか。
「でも俺、特に興味があることなんて、ないんだ」
本当のことを言ったつもりだった。音楽なんて、あんなもの俺の中では趣味以外の何者でもない。あれで飯を食う? あまりにも非現実的すぎて脳がNo!と叫んでいる。別にギャグを言ったわけではない。
「まだ日にちはあるんだし、考えてみなさい。もうあなたが決めたことなら、私たちは何も言わないから」
さっきより少しだけ強い口調になったのが分かる。それは怒ったわけでも、説教するためのトーンでもなくて。ただ、俺への念押しだった。俺へ伝えるための母親らしい口調だった。俺は数年前に機能しなくなったと思われていた、心の温かさ感知メーターがじんわりと再起動していくのを感じていた。
ゆらゆらと階段を上る。段差を乗り越えることが難しく思えた。なぜか? 地面を踏みしめて歩くほどの精神力が、残っていなかった。息を吐いたときみたいに、自分の気力が空気へと逃げていった。これはきっと、安心なのだろう。
俺が憎んでいたり、嫌っていたものは、実は大嫌いのようでそこから最も離れたところにあったのかもしれない。近くにありすぎて気づかないもの。大嫌いが、そうではなかったこと。俺は小学生がしたイタズラを反省するように、俺自身を顧みる。今まで前でも後ろでもなく、横ばかりを見ていた俺は、そっと後ろを振り返った。
そこで何でもないベッドだけが、この夜の俺を迎えた。
*
二次試験対策のために、わざわざ学校へ来る人は少ない。
もう大学が決まっている人も含め、来ても来なくても構わないみたいな期間が、まさに今だ。それにしても想像していたよりも遥かに多い。学校へ来ている人が。どうして来る必要もないのに来ているのか分からないが、恐らく最後の高校生活をっ! みたいなところだろう。俺だったら絶対に来ない。例え今まで高校生らしくできていなかったとしても。寒い季節に外に出たいわけがないし、合格しているのならゴロゴロと家で寝ていたい。俺は仕方がなく、学校へ来ている。二次試験のためだけに。
「真島、最近どう」
意外だったのがこの男。琴ちんがなぜだか学校へ来ている。推薦入試が終わり、まだ合格発表はされていないものの、琴ちんみたいな人は絶対に学校へ来なくなると思っていたのだ。予想外すぎて、未だに驚いている自分がいる。
「絶好調だよ。琴ちんこそ、どうよっ」
「俺は吐きそう。お前の顔も酷ぇけどな」
「え? そんなにブスじゃない自信あったんだけどな」
「顔色が悪いって言ってんの。ちゃんと寝てんの?」
相変わらずの突っ込みで、思わず笑ってしまう。その顔の筋肉を使うのが久しぶりだったのか、やけに肌が突っ張っているように感じた。無理やり引っ張って、ひきつっちゃった感じ。思えば最近、ろくに眠れていないし、ご飯も少ししか食べていない。眠たいのだが、眠れない。その背景には確実に、進路についてがある。両親と話した夜から三日ほど経ったが、何かを決めたわけでもなく、焦りだけが募っていく。
「ははっ。そんなに怖い顔しないでよー。寝てる寝てる、ちゃんとね」
「何か悩んでんの?」
「いやー大学選ぶのは俺には向いてないみたい」
なぜなら、何にも興味がないから。これを極めたいと思えるような何かが俺にはない。琴ちんみたいに勉強がずば抜けてできて、研究職につきたいなんて立派に言えたらいいんだろうけど、現実問題無理な話。俺には決断するための意志みたいなものが欠けている。それはもう致命的なほどに。
「今の時期になって自分が思うようにとか、到底できないでしょ。したいことなんてとっくに探さずに捨ててるって言うのにさ」
そうだ。遅すぎたんだ。俺は今まで、何にも悩まなかった。それは考えることを放棄して生きてきたという証。そんな証は、消してしまいたい。が、消しゴムなんて便利なものでも消せやしないのが過去。厄介だ。
「真島お前……」
グチグチと、塩辛いことを言ってくるんだろうなぁ、と少々覚悟しながら続きを待っていた。でも待っていた言葉や空気とはまるで違うものが俺に降りかかった。
バッカだなぁお前!
一瞬、空気が弾けた。
ヤナギさんとの会話で見えた光のように。両親の話で再開したメーターがマックスになったかのように。その一瞬だけは、光に包まれて何も見えなかった。
笑いながら言う琴ちんの顔は、いつの間にこんなに笑顔が上手になったんだろう、というくらい笑っていた。これも神代のおかげだというのなら神様も悪くないものなのかもしれない。
「それならまた拾えばいいだろ。拾い集めて、そんで探すんだよ。遅すぎることなんかなんもないって。綺麗事に聞こえる? いいじゃん、人生ロマンがあってなんぼなんだからさ。遅すぎたとしてもそれは単なる結果論でしかないんだしさ」
琴ちんは少し、あの神様に似ている。関わった結果なのか、琴ちんが意識しているのかは不明であるが、少なくとも今の琴ちんの影には、確かに神代の姿がある。こうして愛とは、生まれるのかもしれない。
「琴ちんってさ」
「ん?」
「頭いいのかバカなのか、よく分かんないよね」
「マシマクンには言われたくない言葉だなぁ」
琴ちんは俺が唯一、認めている人間と言っていい。琴ちんは精神面でも、ものすごいものを持っていると思う。強い、というのとは少し違う。鋼メンタルというわけでもない。どちらかと言うとガラスのハートの持ち主である。それなのにこう相談に乗ってるときは、どこか気が抜けている。所詮他人のことだから、というのもあるだろうが琴ちんに限ってそんなことはきっとないのだろう。なぜこんなにも琴ちんの人間性を評価しているのかは分からない。なぜ、こんなにも信じ切っているのか。
「多分琴ちんだからかな」
「何バカにしてるんですか真島さん?」
「いやぁ? バカにしてないよ全然。むしろ」
むしろ褒めてますって。
俺の内心を琴ちんが分かるはずもないから、それをいいことに、口に出してしまう。照れ隠しが上手な俺はこうして自分なりに俺の気持ちを伝えることがある。それは自己満足でしかないのだと分かっているものの、どうしても直接伝えることはできないでいる。俺は片思い中の女子高校生か。
「何だよ」
「まぁ琴ちんは行間を読むことを学んだほうがいいよ」
はぁ?と言いながら苦笑いする琴ちんを見るのは面白い。呆れているように見えて実はただ単純に世話焼きなのだというところが、彼だ。
いつもよりも幾分かどんよりして見えていたはずの教室の空気も、浄化されていくのが分かる。琴ちんが神様だと言われても疑わない気がする。というかそんな気しかしない。彼にはそれほどの俺への影響力を持っているのだ。
そろそろ陽が沈みきるのか、窓の外の景色はみるみる暗くなっていく。一日が終わろうとしている。受験生にとってはこれから始まりだといっても過言ではないというのに。
「見えないもんなんて読めねぇよ。見えてるもん見てりゃあ生きていける」
「別に生き方聞いてないです」
笑みを浮かべながらそう答えると、いじられキャラの気分が少しばかり損なわれたのか、俺の頭に拳を乗せてグリグリと押し込んできた。つむじ触んないで、と言いながら笑い返す俺。
悩みが消えたわけではない。吹っ切れたというわけでもない。ただ俺は、頭を抱え込んで解決できるような人間じゃないから。ゆっくり、そして少しだけ気楽に。日常を過ごしながら考えるほうが性に合っている気がしてきた。
「真島はさ、何にでもなれると思うけどな。職業ってわけじゃなくて一人の人間として」
人間が人間に及ぼす影響というものは大きい。俺が紛れもない人間であることの証明の一つに、琴ちんの言葉に影響を受ける、ということが挙げられるだろうことをこのとき、再確認した。
真っ暗になったはずの窓の外に、一瞬だけ光を、見た気がした。
*
自分の取り柄って一体何なんだろうか。嫌いな人間にも笑顔を向けることができるところだろうか。周りと無理にでも合わせようとする協調性があるところだろうか。
どちらにしても、取り柄と呼べるほどの価値はない。そんなことは分かっているのだが、自分に向いていることの道に進むのが正しい気がしてならない。職業なんて、今までさほど考えてこなかったからか、何の職業があるのかも下手したらよく分かっていなかったりする。人間は難しい。そう、神様の俺が言っている。
騒がしい音楽室に、日髙に誘われて渋々ついてきたものの、俺はまともに合わせを聞かずにぼけっとパイプ椅子に座っている。数日ぶりに顔を出した割には、案外他のバンドメンバーもけろっとした顔つきをしていた。そこまで俺のことに興味がないのかもしれなかった。ネガティブな考え方だろうか、いや、他人は誰しも他人もことには興味がないのは当たり前のことだ。だって自分のことでは、ないのだから。
「ちょっと休憩しよ、リーダー」
「お前らなぁ、分かってんのか? 二週間後には本番だぞ?」
「俺たちの最後のライブ? 結局全員は出れないんだしさぁ」
ギター兼ムードメーカーの東雲(しののめ)香御(かおる)が厄介払いでもするような目で、こちらをちらりと見た。俺は視線の先に気づかないフリをして、理由もなしに掛け時計の方を見た。あからさまに売られたからって、わざと喧嘩を買ったりしない。無駄な労力を用いてまで口論する必要が、俺にはまったく感じられないのだ。
「その分まで頑張んだろうがよ。しかも俺はさ」
次の瞬間、日髙の発した言葉に俺は思わず息を呑んだ。他のメンバーでさえ耳を疑っただろう。誰も想像していなかった言葉。俺にとってそれが救いになるのか、プレッシャーになるのか。そんなことが関係ないくらいに驚いた。日髙が密かに抱いていた想いを、俺たちは初めて知ったような気がする。日髙がリーダーの理由が、俺にはしっかりと理解できた。
日髙はめったに怒らない。俺と同じ類の人間なのだと思う。いや、少し違うかもしれない。俺は意図的にキレたりしないようにしてるけど、日髙はそうじゃない。彼はそもそもその感情が存在しない。表に出さないようにしてるだけの俺に比べて、日髙には表に出す感情すら発生していない。なんて純粋な人間なのだろうか。
ニヤッとまるで擬音でも出そうなくらいの笑みを零した後、俺たち一人ひとりを見て日髙は口を開いた。
「喉、渇かね? 俺そろそろ抹茶オレ解禁したい」
……あのさぁ。
「おいっ! なんかかっけぇ言葉でもくんのかと思ったじゃん!」
「それっぽい雰囲気だけ醸し出しといて」
「お前の抹茶オレ解禁とか心底どうでもいいんだけど」
俺が喋ろうと思ったら、一斉に日髙へと降りかかる突っ込み。ギター兼ムードメーカーの東雲、キーボード兼大人しさ学年一の京坂(きょうさか)弥生(やよい)、ドラム兼冷淡さと冷静さ学校一の桐ヶ谷鳴度(きりがやなると)。順に口にした言葉はどれも全然違うもので、このバンドの個々がいかに個性的かを表している。
「ってか抹茶オレつい最近飲んでなかった?」
俺がそう突っ込むと日髙は口の前に指を立てて、焦りの声を上げた。
「しぃだよ真島っ。俺一カ月封印宣言をさ、バンド内でしてたじゃん? それで」
「ごめん日髙。そんな宣言してたの今知ったわ」
「え? ちょ、酷くない? いや、まぁそれでな? 宣言してたんだけど、あの日は物凄くな? 抹茶が俺を呼んでてさ? まぁ真島なら見逃してくれるかなぁと思ったら、案の定何も言ってこなかったわけ」
あの日、とは何か特別なことがあったわけではなく、ただ俺と日髙が音楽室で話をしていた日だ。バンドの練習がなく、俺が叫んだ。そう、あの日。ヤナギさんの存在を初めて認識した日のことである。
「って思ってたら真島まさかの宣言聞いてないじゃん? 俺あんとき、無駄にビクビクする必要なかったじゃん」
「おい真島ぁ。何やってんだよお」
「え? 俺が責められんの?」
先程まで嫁をいびる姑になっていたはずの東雲が、俺に肩をポンポンと叩きながらでかい口を開けて笑いかけてくる。本当にこいつはお調子者だ。見てるこっちまで清々しくなってくるよ。
今日、無理にでもここに来て良かったかもしれない。丁度良い息抜きになったし、バンド内の普遍さにも気が付いた。
陽は傾いている。あの日、俺を見つめていたもう一人の自分は、今日は薄くなって微笑んでいる。今の俺は、人間で生きている方が楽しいみたいだ。
「で。抹茶オレかいに行くの? 行かねぇの?」
「抹茶オレ会なんてあんの? 俺行きたい」
「は。何が抹茶オレ会だ」
「これ相当飢えてるよ」
このやり取りを見ていると、まるでお笑い番組でも見させられているようで笑える。事前に打ち合わせなんかしてるはずもないにも関わらず、このリズム感。こいつらもう芸人になれよ。絶対売れるぞ。
「もうええわ。早くその抹茶オレかいに行こうや」
その場をまとめる感じで、俺がそう言うと日髙が嬉しそうに頷いて見せる。そして最後のボケがやってくる。
「抹茶オレ会とか行ってみたかったんだよな」
「もうええわっ」
見事に日髙以外の全員の声が重なる。一体俺たちは何をしているんだ。何が楽しくて何が楽しくないのか、その瞬間に分かるものと分からないものがある。でも、この何でもない、ただ駄弁っている時間が、俺はすごく好きらしい。楽しく感じてしまうのだ。
抹茶オレを買いに行くために、ぞろぞろと廊下へ出ると、丁度今から帰るところなのかカバンを持ったヤナギさんが美術室から出てきた。
「よぉ、バンドマンたち。なんか全員揃ってるのも揃ってるで気持ち悪いな」
「いつも思うけど会う度、気持ち悪いって言うのやめてくんない」
「それは翔がいるときだけだよ意味分かる? いや別に翔が気持ち悪いわけではないから断じてこれはほんと真面目に。何が気持ち悪いのかっていうとそれはあれだよ、取り巻く空気感っていうのかな」
それもそれで普通に酷いと思うけど。ヤナギさんは自分の感情に忠実すぎるくらい忠実で、ズバズバと突き刺すように言うところが怖い。恐らく本人は無意識なのだろう。容赦というものを知らない。容赦ないね、と言ったらこう返ってきそう。え? 何それ美味しいの? 絶対そう言うに違いない。俺の直感がそう言っている。が、そこまで重要なことでもない。
「てか俺、沢木さんが美術部なの最近知った」
東雲が一言、そう口にするとその場の空気が変わる。流石ムードメーカーなだけある。別にそのときの雰囲気が悪いというわけでもなかったが、どこか居づらい感じがしていたのは俺だけではなかったらしい。しかも相変わらずあんな早口で喋られたら、ぶっちゃけわけ分からん。
「そうだねまぁ部活として果たして成り立ってるのかも分かんないんだけど。部員とか私以外いないから今年で終わりだね。廃部です廃部。なんで美術でエグい才能持ってる子、物凄く多いのに皆部活には入ってくんないんだろうねぇ」
「へぇ。大変、そうだね?」
「いや? もう美大行けるし問題ない。そう言えばバンドマンたちは既にお決まり? 音大行くんだっけ」
「あぁ……」
俺以外のバンドメンバーが少々決まり悪そうな表情をしたことを、俺は見逃さなかった。きっとまだ受験の終わっていない俺に対して気を使っているのだろう。俺は普通にしていてくれた方が助かるのだが、どうも人々は要らないところで特有の謙虚さを持ち出してくるようだ。
眩しい夕陽が顔を出して、ヤナギさんが目を細めたのが分かる。彼女は俺と目が合うと今更気づいたように、はっとした顔つきに変わった。
「真島君は絶賛受験中だったなそういえば。もうすっかり忘れていたよ。最近なにかと記憶力がなくってねははははこれ年老いたらかなりヤバそうだって? ほんとそれ」
一人で勝手に喋って勝手にコロコロと笑い声をあげるヤナギさん。一体どうしたらこんなに次から次へと言葉が出てくるんだろうか。いやまぁ、正しい日本語を使えているかどうかは別として。
日髙や東雲はこの会話みたいなものに入っているが、京坂と桐ヶ谷は少し俺たちとは距離を置いて何やら二人で話している。見る限り、特に盛り上がっているわけでもなさそうだ。
「まぁこれからってとこかな」
当たり障りのないようにしたつもりだ。どうもヤナギさんの前では調子が狂う。張りついた笑顔では、到底太刀打ちできない類の人間に会うのは久しぶりだった。
「そう、それなら頑張りたまえよ。案外時間はすぐに過ぎてしまうものだからね」
なんかこの人、おとぎ話の旅先で出会った謎のおばあさんみたいな感じがする。この喋り方のせいなのか、発言内容のせいなのか。決して悪い意味ではない。
「そう気負わずにな」
普段無駄そうなことまで長々と口に出しているから、その分ヤナギさんが短い言葉でバンっと言ってくると胸に深く刺さる。重要なことを重要なときに伝えるために、彼女は普段話す言葉を長くしているのかもしれない。彼女自身は無自覚の可能性が高いが。
俺が何も言えずに言葉を探しながら目を泳がせていると、ヤナギさんは少し何かを噛みしめるように笑った。そんな風に、俺には見えた。俺以外にもこの場にはいるはずなのに、もしかしたら二人だけの空間なんじゃないかと疑ってしまうほど、彼女の存在しか視界に入ってこない。どうも、ここ最近の俺はおかしい。その理由は寝ていないせいだと断言しよう。
「それじゃ、私は帰る。君たちも青春タイムを過ごしなよはははっなぁに大丈夫さ今日くらい。無駄な時間にはならないはずだからな。待って今何時? ……うおっヤベェ電車に遅れるぞい、暗くなる前に帰らないとダメなんだよ本当に厄介だよねまったく」
時間を誰かに聞いたと思ったら、ポケットからスマホを取り出して時間を確認したヤナギさん。俺たちがえっとちょっと待ってね、と時間を確認する前に一人でブツブツ言って立ち去る後ろ姿がどうもおかしくて笑ってしまった。
「あいつさぁ、聞いてないことまで勝手に喋ってんだよ。いっつも」
「だと思えば今みたいに立ち去るよな」
俺は既に経験があった。廊下で偶然会ったとき、彼女と会話していたはずなのだが、気がつくとヤナギさんは肩への感触だけを残して去っていた。
「沢木さんってゆったりしてない方のマイペースなんだね」
苦笑いを顔に浮かべながら口にする東雲。彼もヤナギさんとあまり話したことがないのか、あからさまに会話に戸惑っていた。
「抹茶オレ……買いに行こっか」
今まで傍観すらしていなかった京坂が口を挟んだ。俺たちはもう誰も、抹茶オレ会については触れなかった。皆、彼女の性格に驚いたのだろう。おぉ、とだけ軽く返事をして、小さくなっていくヤナギさんの後ろ姿から目を背けた。
自販機へ向かう俺たちの足取りはどうも重たく、会話はそこまで弾まなかった。どれだけ影響力が凄まじかったのかは、この様子でお分かりいただけるだろう。
五人全員が抹茶オレを買って、日髙の抹茶オレ解禁を祝い、俺たちの本日の放課後は終了した。少なくとも俺は、放心しているに近いような状態だったのではないだろうか。
電車通学の日髙と駅まで一緒に歩いた後、行き先が違うためお互い別れを告げてそれぞれのホームに向かった。電車に乗り込み、もうすっかり暗くなった景色が一瞬にして流れていくのをぼーっとドア付近に立ちながら眺めていると、ふと思い出した。
——しかも俺はさ、最後にするつもりなんてさらさらないぜ?
あのときの空気感は忘れられそうにない。どうしてこいつはこんなにも堂々と夢みたいなことを言うんだろう。呆れた気持ちと同時にほんの僅かだけ、羨ましさが共存していた。俺には一生かけても言えそうにないことだったからだ。俺が例え卒業前最後のライブに出られないとしても、これを最後にしたくない! とは、口が裂けても言えない。思いが足りないと言われたらそこまでだが、強い思いがあったとしても自制するだろう。俺はそういう人間なのだと思う。
俺たちは残り一カ月ほどで卒業する。
卒業後の進路なんてものは当然ながら皆バラバラだ。東京の音大に行くやつもいれば、地元の音大に行くやつもいる。俺以外は音大だから、この先もずっと音楽というものと生きていくんだろうけど、生憎俺はそうではないから。俺には想像もできなかった。この先私服姿でまたこのメンバーで集まることが。文字通り、夢みたいなことだ。
誰にも聞かれないように発した言葉は、多分この世界の誰も聞いていない。
もし、聞こえたとしたならば、それはきっと神様しかいないだろう。
「ちょっと嬉しいかも」
誰も見ていないというのに、急に照れ臭くなった俺は唇を噛みしめて、少しだけ下を向いた。視界の隅から、靴が俺を眺めて笑っているように思えた。
*
いよいよ息抜きだとか、そんな悠長なことは言えない時期になってきた。暖冬だと言われていた今年も、ここ最近では例年の冬の寒さを取り戻して俺たちの身体も心も震わせてくる。俺はというと、何の変化も遂げていない。
「真島、ここ分かる?」
「ん?」
「これ、やり方合ってんのに答えが違うんだよな」
「あぁこれね」
推薦入試や自己推薦型入試、指定校推薦で既に受験を終えている人がこのクラス、3-Dには三分の一の割合で存在している。つまりは十人ちょっと。その十人の中に琴ちんと日髙は含まれている。芸術系に進む奴らに文理選択は関係がなく、どこのクラスへ行ったとしても芸術系の授業のときにここから抜けるだけで、専門のコースは設立されていない。それなのに音大やら美大やらそこそこ名高い芸術大学への進学が多いのは大したものだ。もういっそのこと芸術コース作れや。
琴ちんはついこの間の合格発表の結果を、電話で教えてくれた。もうすっかり電話をかける行為にハマってしまったんだとか。暇そうな人に手当たり次第でかけようと、連絡先の登録しているところを確認したが、俺と神代と父親と兄、兄の婚約者だった柳瀬(やなせ)千尋(ちひろ)さんという女性の連絡先しか登録されていなかったらしい。柳瀬千尋……。
それは琴ちんらしいと言えば琴ちんらしくもある。彼は部活にも入っていなかったので、まぁ普通だろう。神代にもう会えないというのにまだ連絡先を残しているのは、きっと多分そういうことだ。琴ちんはもう、誰とも付き合えないだろうなぁ、と思いながらそんな話を聞いていた。受験が終わったら、どこか行こう、と誘われて琴ちんもアウトドアっぽくなったね、と笑ってからかった。
「あ……オレやり方、結構間違ってたくね?」
「んー完全に違ったってわけでもなかったし、ちょっと誤解してたって感じかな?」
「そうかも。ありがとな、真島。また聞きに来るかも」
「おー俺でよければいつでも。二十四時間営業中」
「営業してんのかよ」
学校でしか仲良くしていない人というのは存在する。彼もその一人である。俺の性格上、公私共に仲良くできないことの方が多いから何とも言えない。
「教えてるの、えらいじゃん」
「琴ちんにはかなわないよ」
「ははは。大げさ」
琴ちんが俺の席に寄って来て声をかけてくる。彼は受験を終えてほっとしたのか、以前よりも俺と積極的に話してくれるようになった。今みたいに話しかけてくれることなんて皆無だったからな。
「でもほんと、真島って教えんのうまいからな」
「おだてても何も出ないからね」
「何も求めてねーよ」
「それはそれで傷つくからやめて」
うふふふふ、と気味の悪い笑いをかましてきた琴ちん。を、本当に琴ちんから発せられた笑い声なのかを疑って二度見してしまった真島巧さん。
「どしたの琴ちん、キモイよ」
「あ? まぁ今のはキモかったな」
「何か嬉しいことでもあったの?」
「いや? 強いて言うなら」
強いて言うなら、今日の夢に神代が出てきたから。それくらい俺には分かる。他人の脳みそを勝手にみているような気にしかならなくて、大変いたたまれない思いである。
「言わないでおくよ。言わない方がずっと留まっててくれる気がする」
「ごめんごめん。ははっそうだね」
ごめん。本当に。
「勉強。邪魔して悪かったな」
顔の隅を掻きながら去っていこうとする琴ちんを、俺は今どんな顔で見ているのだろう。このどこにもぶつけられない感情が、漏れ出してしまっていないだろうか。
授業中に比べると緊張感がほんのりと薄れている現在の休み時間。琴ちんが後ろの方へと歩くのを、何も言い返せずに眺めていると琴ちんが振り返った。そして目が合ったことに少々驚いてしまう。何だこれ。めっちゃデジャヴ。
「真島、教師とか向いてんじゃねぇの」
琴ちんは、いつでも俺の隠しているものを素手では触れずに見つけてくる。あるときは行動だったり、あるときは言葉だったり。その一つひとつに、俺は必ず影響を受けている。彼はまるで魔法使いの宅急便だ。俺が神様であることを隠しているのと同じように、琴ちんも魔法使いであることを、実は隠しているんじゃないだろうか。
なんてなっ、とおどけた調子で言った彼の言葉が、まさか俺の決意を促すものになるとはきっと琴ちんも俺も思っていなかった。俺は他人からの影響を受けやすいのだろうか。それは将来のことを決めるにあたって不誠実なことなのだろうか。
俺の決意は、もしかしたらこのときには既に確立していたのかもしれない。
「教師ねぇ」
ぼんやりと鋭く、その言葉を反芻していた。
受験日当日。
俺は非常に緊張していた。
冷たい風が俺の身体に吹き込んできて身震いをせざるを得ない。マフラーを口元まで引き上げて、コートのポケットに手を突っ込んだ。インナーに張ったカイロがじんわりと暖かさを帯びてくるのを感じる。
藁にもすがりたい思いで周囲を見渡すが、誰も助けてくれる人はいなさそうだ。受験会場にいる学生のすべての人がとても賢い奴のように見えてしまう。俺なんか実は思っているよりもずっとずっと頭が悪いのではないか、と。共通テストのときはそんなこと思いもしなかった。なぜ今回はこんなにも緊張するのか。俺が思うに、俺の決意が固まっているからだと思う。それは決して、悪いことではない。
「頑張れ」
朝っぱらから電話がかかってきて、相手は案の定琴ちんだった。長々と何かを話して勇気づけてくれるのかと思いきや、沈黙の後のこの一言だけで吹きそうになった。何か言いすぎたらプレッシャーになるだろう、と彼なりに色々と考えてくれたんだろう。琴ちんへの応答を、自分がどうしたのかはもう記憶にない。頑張れ、という言葉だけで自分は腹をくくったのかもしれない。琴ちんが推薦入試のすぐ後に言っていた言葉を思い出す。
「なんか皆頭良さそうだった。マジで。こんな話よく聞くけど、ほんとにそうなんだわ。でもシャーペンとか準備してたらふと思ってよ。周りの人意識すんのも間違っちゃいないけど、多分一番向き合わなきゃいけないのって目の前の問題だよなって」
俺は琴ちんの言っている意味がよく分からなくて、一番ってやっぱ自分とかじゃないの? スポーツ選手とかってよくそんなこと言うじゃん、と呑気に口にしていた。珍しく次から次へと出てくる琴ちんの言葉は、正直そのときは全く刺さらなかった。自分が考えもしないようなことは、想像しにくい。
「んーでもさ、自分のことは自分が一番分かってる。自分に勝とうと意識しなくたって、自分ってのは誰かに言われなくても自分一人だけなんだよ」
彼は絶対に俺より長い時間生きてきたに違いない。でなければこんなことを受験当日、それも直前に思えるわけがない。
「うしっ」
受験会場に零した小さな声は、誰かに聞かれたかもしれない。それでも俺は気にしない。今できることを全力でするだけ。そう、向き合うのは目の前の問題だけ。真島巧のことは真島巧が一番分かっている。人間でも神様でもある俺が、一番分かっている。
自分の運命が予め神様によって決められているのなら。その神様は俺でもなければ天界にいる神代でもない。ましてや神代を生み出すような神でもない。この世に生まれたからにはきっと自分が神様でなければならない。自尊心がどうとか、そういう話ではなくて。直感的なことだが、そう思う。
試験合図とともに紙を一斉にめくる音が耳に入ってくる。急いでめくる必要はない。俺はいつでも他人に合わせてきたが、このときばかりはマイぺースに。
今日が過去で一番、問題と向き合えた気がした。
「お、いたいた」
二日目の試験を終えた俺が帰宅中に、電話をかけてきた琴ちんはこれから会おう、と待ち合わせ場所をわざわざ指定してきた。何が何でも俺と会うつもりのようで、思わず微笑んでしまう。何の話があるわけでもないのだろうが、ようやく俺たちは一区切りがきたのだ。少しは祝ってやってもいいんじゃないだろうか。
彼は、今日はちゃんと厚着してきたようでマフラーまで首に巻いている。琴ちんはイヤホンを耳に突っ込んで文庫本を片手に、神社への階段の下に立っていた。その絵面がシュールで、自分のスマホを取り出してその姿を写真に収めた。
「わっっ!」
「うわぁっっ!」
琴ちんの視界に入らないように上手く移動して驚かす。イヤホンをしているから恐らく俺が写真を撮ったことには気づいていない。それに、普通に声をかけるだけでは顔を上げてくれなさそうだった。大声を出して驚いた琴ちんはイヤホンを外しつつ、悪態をつき始める。俺は、琴ちんって意外とビビりなんだよなぁ、と思いながら心の中で面白がった。
「普通に声かけろよ」
「だって琴ちん、イヤホンしてたんだもん」
「もんじゃねぇよ。今いいとこだったのにぃ」
「何聞いてたの?」
「…………早く行くぞ」
「え? スルー!?」
琴ちんのことだから、漫才とかそこら辺だろうな。彼は漫才を聞きながら本なんか読めるのだから恐ろしい。聖徳太子並みに優れている。色々、優れている。
琴ちんは風のようにスタスタと早く歩いて行ってしまう。てっきり神社に行くのかと思っていたので予想外。琴ちんには他に行くところがあるらしい。
「どこ行くの?」
「んー海?」
「バカなの。しかも海って……今真冬だよ?」
「じゃあ、山」
「山!? 登山するための準備とかしてないよ」
「どこ行きたい?」
「決めてないんかい」
立ち止まって振り返った琴ちん。ポケットに入れたままの冷たいであろう手は、貼らないカイロによって少しずつ温められている。案外彼が、長く外で待っていたことに気づいて申し訳ない気持ちが込みあがってくる。走ってこれば良かった。
「どこでもいいんだ、別にどこでも。真島がせっかく受験終わったし、どっか行ってパーッとしたいなと思って」
「そうだね」
琴ちんは頭を掻きながら決まり悪そうにそっぽを向いてしまう。最近、心がじんわりと温かくなることが増えてきた。無意識のうちに、別れを意識してしまっているのかもしれない。琴ちんとの何気ない高校生活も残り僅かだ。中学から今まで六年、俺がしつこく話しかけ続けてきた。彼はもうきっと、俺のことを認めてくれているだろう。自意識過剰かもしれないが、琴ちんの中での一番の友人は俺なんじゃないかと思う。なぜなら、俺もそう思っているから。
「じゃあさ、どっか食べに行こう」
そう言うと彼は、どこか少しだけ嬉しそうに頷いた。
*
「琴ちん! 卒アル見た? 相変わらず顔死んでて笑ったんだけど」
卒業式は思っていたよりも椅子に座っている時間が長くて、正直疲れた。普通に座っていればいいものを、なぜだか身体の各部が緊張で力んでしまっていたのだ。
「あーあーそうかよ」
決して暖かいとは言えない季節ではあるが、春が訪れる匂いは確かにする。生き物がこれから目覚め始めて、活動していくような。そんな感覚が。
琴ちんに改めてお礼を言い合うことなんてきっとしないだろうけど、そんなことをしなくても伝わっているような気がした。しかも、俺が思うに卒業後も俺たちは電話したり、意味もなくどこかで会ったりしているだろう。根拠なんてものはないけど、ふんわりとそんなことを考えているのだから恐らくそうなる。だって俺は神様だぜ? 何となくで分かっちまうんだなぁ。これが。
「神代さんねぇ。元気でやってるといいけどねぇ」
「ん。そうだな」
神代のことは、さほど知らない。ただ俺とは違う種類の神様で、赤い糸で運命を定めていたということだけ。だが、琴ちんにとってはそうじゃない。彼には大切な人だ。それは今でも、これからも変わらない。
「琴ちんも新しい恋、探さないとね」
「ん。そうだな…………は?」
「え? 好きだったんでしょ? 神代さんのこと」
琴ちんはもう二度と、恋なんてものはしないかもしれない。きっと神代のことだから、琴ちんの運命を定めたりなんてしていない。したくてもできなかったはずだ。なぜなら、神代自身が琴ちんのことを好きだったから。琴ちんが神代のことを好きだったというのもある。神代はそう、思っていたはずだ。自分に好意が向けられていたならば、赤い糸で示しようもないからだ。俺たち神様は、自分が恋した相手に対して自分の個々としての特徴の能力を使うことができない。予めそういう風に設定されているのだ。人間の気持ちを神様だけが、動かさないように。
「真島って変な奴だな」
琴ちんの髪が、春風に吹かれて揺れる。卒業式だというのに寝ぐせのままだ。本当に外見を気にしない彼はもうきっと、モテないだろう。
「いや、分かりやすかったよ案外。うん、面白かった」
「人の恋を笑いものにするんじゃない」
「ははっ。ごめんごめん。今でも好きなんだもんね?」
「はぁ。真島って奴は……」
照れんなよー!と言って小さな肩をバシバシと叩いた。琴ちんの色恋沙汰の話を聞くことなんてこれが最後だ。いや、これから会う度に神代のことを語り出すのなら、話は別だけど。でも彼は思い出は胸に閉じ込めておくタイプなんじゃないだろうか。
愛なんてこれっぽっちも信じていなかった俺は、目の前で見せつけられてしまいぐぅの音も出ない。俺は過去に、神様を捨てたわけだが、もし琴ちんの言うようにまた拾えるのだとしたら。
父にも神様の仕事を勧められている。教師になることを決めた俺は、神様の仕事を器用にこなせるか分からないし、神様という存在をもう一度愛することができるのかも正直分からないでいる。それでも俺は、再びこの世界の恋とか愛とかと、向き合わなければならないのかもしれない。
卒業式。俺たちはそれぞれ、これからの道を歩んでいくことになる。もう、一度としてこの顔ぶれでここに立つことはない。そこまで思い入れがあったわけでもないのに、急にしんみりとして寂しくなってしまう。表向きだけで日々を過ごしていたことに後悔しながらも、実は表向きではなかったのかもしれない、とも思う。可能性があるということは、肯定的に物事を捉えているということなんじゃないだろうか。俺は案外、今の自分が好きだったりする。人間も神様も、悪くない存在だ。
目の前にいる人、一人ひとりの顔つきを見てみる。三年にして初めて、こんなに同級生の顔を見た。涙目の人や、何かを成し遂げたような表情をする人、思いっ切り笑っている人、何ともないような顔をしている人。そして、誰かを想う表情をしている人。
まだ花の咲いていない、蕾のままの桜の木を見上げている彼に、声をかけた。
「ほら琴ちん! 写メ撮るからこっち来て!」
こちらを見て微笑んだ彼は今日、想い人の想いに涙することになる。俺はこの感じ、で誰かが幸せになると信じて、これから何かを感じていこう。
だって俺は、神様なのだから。
*
高校を卒業して、俺は大学生になった。
地元の国立大学の教育学部に無事合格した俺は、着々と将来の目標に向かって突き進んでいるところだ。相変わらずの愛想笑いが目立つが、今のところ気にしていない。その方が何の問題もなく人間関係を築けるし、何より楽だからだ。
「真島ってサークルとか入るの?」
大学の初めの講義で隣になり、それから何となく一緒に過ごすようになった榊颯音(さかきはやと)。受ける講義が大体同じなので、その講義以外でも行動を共にしている。彼は、夏が似合いそうなスポーツマンのように見える。笑うと肌の色と対照的な真っ白い歯が覗いて、何と眩しいことか。絶対小学生の頃に虫取り網を振り回しながら外駆け回ってただろ、っていう。それくらい元気で明るい好青年だ。
「俺は入らないかな。特に趣味とかないし」
「え! 趣味とかなくても入ろうよ! 出会いって案外ないよ?」
「出会いねぇ」
俺って明るい人間に対して、ドライに接してしまうみたいだ。なぜか話す人間によってテンションがかなり変わる。今まで意識したことがなかったが、これが表裏ある人間っていうのかもしれない。
「だってさ! ある講義で可愛い!って思った子見つけるとするじゃん? 仲良くなりたいのに、その講義以降一度もっ会えないかもしれない。こんな恐ろしいことってある?」
喋り方にいちいち強弱があって、若干騒がしい。子犬みたいな感じがして放ってはおけないのだけど、榊が永遠に喋ってそうで、俺的に可愛い女子がどうこうよりもぶっちゃけこいつの方が恐ろしい。口が裂けても言えないけど。
桜はもう散ってしまい、緑の葉が空に存在を主張し始めている。高校卒業後の数日間は名残惜しさとかがあったが、大学の準備やら何やらで忙しくしていれば結構簡単に振り切れるものだ。琴ちんに会えないのは、やっぱり少し、寂しい気がする。
「じゃあさ、榊は何のサークル入んの?」
「俺? 俺は陸上かな」
「っぽいぽい。あーそーかぁ。俺も青春とか取り戻してぇなぁ!」
クラスでは目立つ方だったが、そこまで青春らしいことをした記憶がない。可愛いと思っていた女子はいたけど、聞いてみると彼氏はいないらしい。聞く前から実は神様の力に頼って分かってはいたが、好きな子がいるらしいじゃん! それも大人しめの文学少年。可愛いと思う人と好きだと思う人って全然違うのかもなぁと思ったのを、覚えている。結局、その二人を結ばせる運命は神代が決めてしまった。本当にあいつは神様の仕事をよくこなす。学校でもお構いなしに人間の恋愛事情を聞き出していた。
「真島、高校生活エンジョイしてたオーラあるけどね?」
「人を見かけで判断してはいけない。俺は、モテたんだろうがあまり興味がなかった」
「真島ってさ、結構ナルシストなとこ、あるよね」
「そうかぁ?」
それはもうとーても自覚していることでございます。慣れてくると、こうしてナルシストな一面が出てしまうのは直した方が身のためか? まぁこの好青年には何を取り繕うともきっと水の泡になるのだろう。地味に、鋭いところを無自覚で刺してくるタイプの人間だろう。
「そのうち興味沸いてきたらなんか入るかもしれんな」
「うんうん! 陸上おススメだから頭の片隅に置いといてなっ!」
真島がいると何か心強そう、と言いながらニコニコと純粋そうな笑顔を向けてくる榊。だが申し訳ない。俺は運動部には入らない。汗をかくのが本当に無理なんだ俺は。潔癖症なのかは不明だが、汚れたくない一心で高校の体育はできるだけサボっていた。白状してしまうと、そういうことなのだ。
「諦めてくれ、榊」
「え?」
そこでスマホのアラームが鳴った。曲は予めアラーム内に準備されているサウンドだった。大学内の椅子で、パソコンを開きながら駄弁っていた俺たちのうちのどちらかのスマホから鳴っているのだろう。俺は設定した記憶がないから、向かい側に座っている榊だろう。
榊は、慌ててカバンの中にあるであろうスマホを探し始めた。そう、アラームを止めるために、人間は必ず必死になる。それが例え眠りの世界にいたとしても。だから目覚ましとして機能するんだ。
「どこどこどこ。これ何のアラーム?」
「俺が知ってたら怖いわ。次の講義入れてるとかじゃないの」
「そうだった! もう真島がゆったりまったりしてたから、俺もまんまとそのペースにハマっちゃったじゃん! スマホどこ!?」
「知らんがな。ポケットの中とかじゃないの」
「え? ポケット? ポッケポッケ…………あった!」
ズボンの表面を手で触って感触を確かめたようだ。榊の眉間に寄っていたしわが消え、彼は分かりやすく笑った。慌てた様子は変えずに、そのままバタバタとパソコンを片づけ始めた。というかアラームかけるってすごくない? 時間厳守系の人なんだなぁ、と心の中で感心する。まだ時間があるというのにこんなに焦っているということは、五分前には席に座っていたいタイプか。
「すげぇ! 何で分かったの!っと時間ヤベぇ、真島サンキュ。んじゃ俺行くね!」
榊は軽く敬礼の動作をしたと思うと、すぐに言葉を吐き捨てて小走りに講義室へと去っていった。こんなバタバタした、風のような奴と一緒にいるのは生まれて初めてではないだろうか。あまり深く関わったことがない人種であることは確かだ。
「何で分かったって。ねぇ?」
去っていく後ろ姿からも慌てている様子がまる分かりの榊。誰かとぶつかりそうになる度にすみません!と律義に頭を下げている。騒がしい嵐が過ぎ去ったような静寂が、俺には少し心細い気がした。気がつかないうちに頬が緩んでいたことを知り、顔を引き締める。誰もいないはずなのに、誰かの笑い声が聞こえた気がする。
俺が誰かに、神様であることを明かすのだとしたら多分こいつだろうな、と思った。
それは唐突におとずれた。大学の敷地内にあるベンチに腰かけていた俺は、日向ぼっこでもするかのように太陽の光を見ている。
桜の葉が、風に吹かれて音を立てたのを合図に彼女は喋り出した。
「変な顔してるなぁ真島君、ほんと相変わらずで何よりだよ我は、うん。少しだけ懐かしい気がしているのはできれば内密にしてくれたら嬉しいのだがどうかね?」
独特な喋り方と声のトーン。何よりも彼女にしかできないであろう早口。口をきいた回数こそ少なかったが、俺には印象深い人間だったのでよく覚えている。
振り返ると、ニヤニヤと笑いながら突っ立ている彼女を見つける。なぜだか知らないけど、俺のすぐ後ろではなく三メートルほど離れたところにいた。スケッチブックは持っておらず、髪に鉛筆も刺さっていない。久しぶりに会う彼女は、どこか大学生を感じさせるものがあった。あえて言うのであればちゃんと、大学生に見えた。
「ヤナギさん……え?」
内心では冷静だと思っていた俺も、実際はかなりテンパっていたらしい。放つ言葉がそのことを物語っている。ヤナギさんは少しずつこちらに歩み寄ると、俺がわざわざ振り返っていたのにも関わらず、隣のベンチにドカッと座った。実際にそういう音がした。
「お久しぶりぶり、どーもヤナギさんです。やっぱり国立大学の図書館はいいねぇ、ほんとに参考になるっていうか。あ、真島君見つけたときは驚いてしまったよ」
長々と話すスタンスもお変わりないご様子の、どーもヤナギさん。初めて見る彼女の私服はそこまで変わっているわけでもなく、ごくごく普通の女子大生を思わせる。ズボンとか履いていそうな彼女は、案外ロングのスカートを履いていた。
「あぁ、参考って美術の?」
「そうそう。何か描くにしてもやっぱり歴史を知らないと始まらないからなぁ我の場合。皆がさ、大して気にしてないことも根掘り葉掘り聞きたくなっちゃって、聞いてたら他の同級生に図書館行けって言われてさ」
日髙以外の人と話しているところを見たことがなかった俺はどうしてもヤナギさんから発せられる他の同級生の存在が違和感でしかない。そんなことお構いなしに次々と話し始めそうな雰囲気のヤナギさん。お喋りが好きなんだなぁ、と思う。
「そう、なんだ。へぇ」
「違う違う。我が言いたかったのは、真島君がここにいて驚きを隠せないってこと」
「めっちゃ上手に隠せてるから安心して」
「あ、そうなら別にいいやって違う違う。我が言いたかったのは」
「俺がここにいて驚きを隠せないってこと、ね」
「そそそそ。何でいるの? 真島君って私立受けたのかと思ってたんだけど。まさか国立だとは思わないじゃん? だって息抜きとはいえ、受験期に音楽室に来てたくらいだからね? それはあぁ、判定がいいのかなとか思うじゃんそれも私立の」
ベンチに片方の肘をつきながら話すヤナギさんは、何だかとても楽しそうだ。変わらないお団子姿には、少し紫色の髪の色が混ざっていて髪の毛を染めたことを知る。ほんの少しだけ、恐らく髪の先っぽだとか。量的にも染めているのは、そんなに多くはない。
「あのときは俺も何かに酔ってたんじゃないかと、思ってる」
「まぁ、今こうして楽しく大学生活送ってるなら何も言うことはないよなぁ。翔とかとはどう? 会ってたりすんの?」
何かについて返事をすると、それに対するコメントと共にまた新たな話題を吹きかけてくる。これでは永遠と話が終わらなさそうだ。断じて嫌だ、というわけではない。だが、俺には用事があるのだ。それも四月から新しく始めていることで、慣れているかと聞かれたら未だ微妙なところであるものが。
「まぁ日髙オンリーだったら時々会ってるけどなぁ。他の奴東京とか、県外の大学だからそんなに会わない、ってか会えないんだわ」
ふーん、と言ってヤナギさんはコクコクと頷いて見せた。彼女が何を考えているのか、分からなくなるときが割と多くある。それは彼女のことを知らないから生じる問題でもあるのだけど。
「それじゃあ、我はこの辺で。また自分の大学戻らなきゃいけないから」
「おぉ。お気をつけて」
よっこいしょ、とそこまで重くなさそうな自分の身体を机に手をついて持ち上げたヤナギさん。何か高校のときよりもエンジョイしてそうだとは言え、それと一緒に老人っぽさまで倍増したご様子。家のこたつでせんべい食べすぎなんじゃないの。
立ち上がって去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、自分がここではない世界にいたような気がしていた。言うならば夢とか想像の世界だとか、そういう類のまるで現実帯びていないような、そんな空間。わけもなく楽しそうに歩いていく彼女を見送っていると、ふと思い出して声をかけた。
「ヤナギさん!」
後ろ姿を見送る癖のある俺は、いつも相手がこちらを向いたときに驚くだけであったのが、俺から話しかけて振り返られるのは、変な感じがしてどこか歯痒い。
ヤナギさんは振り返って、それはまぁ分かりやすい疑問を浮かべた表情になった。首を斜め上に傾けた彼女は、俺に要件を言うよう表情で促した。
「連絡先、交換しない?」
スマホをポケットから出して椅子から立ち上がった。遠くにいて小さかったヤナギさんの姿が自分とほぼ同じくらいの大きさになると、彼女は笑った。
「構わないよ全然、むしろウェルカム。この前連絡先の一覧見たときに家族と数人の友達以外入ってなくてさ。数人って言っても一人だけなんだけどね? だからものすごく大歓迎さぁ!」
「あぁ、それは何よりですー」
どうしていつもこう、ヤナギさんが話すと、こんな間抜けな返事の仕方になるのだろう。早口すぎて聞き取るのに必死になりすぎているというのもあるだろうし、とにかくヤナギさんの話が長いのかもしれない。普段からヤナギさんと話していれば、究極のコミュニケーション力を身に着けることができそうだ。
腕の袖に手を突っ込んで何やらゴソゴソしている。急にどうしたのだろうと思いかける間もなく、スマホが姿を現した。絶句。少しの沈黙の後に俺は疑問をこぼした。
「そんなところに入れててスマホ落とさないの」
「落とさないからここに入れてるんだけどね。まぁ落としたことはないかな。こっちの方がすぐ取り出せるんだよちょっと待って今電源入れるから」
ヤナギさんはスマホの右側にある電源ボタンを長押しすると、リュックを前に持ってきてメモ帳らしきものと鉛筆を取り出してこちらを見た。
電源を常に入れていないならほぼスマホの意味がないのでは、とか色々と突っ込みたいことは山々だったが、そんな隙も与えてくれないのが、彼女である。
「はい、先に真島君の連絡先どうぞ」
まるで探偵が聞き込みをしたことを書き留めるような構えを見せた彼女は、まったく冗談でしているように思わせない表情で俺を見た。
「あのさ、ヤナギさん。普通連絡先交換するならね? お互いメモるんじゃなくてスマホを交換して番号入れるとか、交換しなくてもアプリでアカウント追加するとかだと思うんだけど」
「あ、え? そうなの? メモったのを家に帰ってニヤニヤしながら自分のスマホに入力していくものかと思ってたんだけど、ほんとに真島君の言うやり方なら今の人も考えたもんだよねぇ」
流石にこんなに長いこと喋られると突っ込みたいことも忘れてしまう。俺が何も言えずに放心状態なのに対し、ヤナギさんは呑気そうに感心した様子で頷いている。
「じゃあ、はい。スマホ交換ね」
俺が何も言わないでスマホを持って突っ立っていると、奪うようにしてスマホをもぎ取ったヤナギさん。あぁ、はい。もう男気溢れるヤナギさんにお任せしまーす。
「トークアプリは? ヤナギさん、もしかして入れてないの?」
「あー皆がしてるやつね。文字打つの苦手だし入れてなーい」
渡されたヤナギさんのスマホを受け取り、言われるがままに自分の電話番号を入力した。彼女は明らかに打ちなれていないような手つきで、番号入力に少々苦戦している様子。番号は流石にスムーズに打てた方が良くないか?
「大丈夫? もうそろそろ終わりそう?」
「平気平気。これくらい別に何ともないよ。普段から電源を入れていないからって私をナメすぎているようだね真島君」
そりゃあ文字入力苦手でトークアプリ入れてないくらいだからね。自分がスマホを使い慣れていないことを自覚しているらしい。なぜ電源を入れていないのか見当もつかないが、ヤナギさんならまぁ変な理由でしているであろうことが想像できる。彼女は根っからの変人だ。生まれつきこうなのだろうか。
「できたぜ? ほらよっやればできるだろぉう? 挑戦してみるもんだねぇ」
自慢げな顔で俺のスマホを掲げながら言ったヤナギさんは、何だか楽しそうに見える。
お喋りなヤナギさんは友好関係が広そうなのにも関わらず、普段誰かと一緒にいるところを見たことがない。これまでにヤナギさんと会う機会がなかったというのも勿論あるのだが。彼女のことはあまりよく知らない。何と言ったってこれで話したのは四回目か五回目くらいだろうからだ。まぁ同中の日髙に対しても、俺の態度と変わっていなかったことから多分誰にでもこんな感じなのだと思う。
昼間の太陽が異様に眩しくて目を細める。夏のおとずれを感じさせるこの雰囲気は、それと同時に梅雨のじめじめさも含んでいる。
「わざわざ引き留めてごめん。ありがとう」
「全然いいよ真島君。何も謝ることはない。さぁこのスマートフォンを受け取りたまえ、いつでも連絡していいぞ。課題に追われているとはいえ我は常に自由だぁっ」
自由なのはうん、まぁ俺もだけどさ。礼を言うのもうん、何か恥ずかしいけどさ。
差し出された俺のスマホは、どことなく輝いているように見える。恐らく、南に昇りきっている太陽の光が反射しているんだろう。それを受け取るとじんわりと温かさが伝わってきて少し心臓が跳ねる。それが何の温かさなのか、そもそも物理的な温かさなのかは分からない。それでも、ここに突っ立っているだけの俺は。確かに熱を帯びているような気がした。どこになのか、誰になのか、よく分からないまま。
「今度さ。どっか、行かない?」
俺が、琴ちん以外の誰かを誘うことになるとは、一体誰が想像していたことだろう。俺だって考えもしなかった。こんな変人と向き合って、俺が変なことを言っているのだというこの状況。どうやって収拾するってんだ。
ヤナギさんの顔を見ずに、腕の当たりを握りしめて下を向く俺。視界には俺の履いている靴と、ヤナギさんの履いている靴。それと何の変哲もない灰色のコンクリート。コンクリートの隙間には、驚くほどの生命力を駆使して立ち上がってきた雑草たちが、俺を見上げるようにして首を傾けている。
この時間が、とてつもなく長い時間にも思えた。どれくらいの時間が経ったのかも、時間が流れていたのかすら分からない。もしかしたら誰かが止めたのかもしれないが、そんなことに俺たちは知ることもできない。なぜなら、俺たちは魔法使いではないから。
「それいい。行こう! 二人で」
「行こう…………え?」
ちょっと待って。ヤナギさん。いつもの、口数が無駄に多いヤナギさんはどこ行ったんですか? なんでそんなきっぱりと返事しちゃうんですか? もっと回りくどく言っていただいた方が、誘った側の俺も気が楽なんですが?
「二人でっ行こう。真島君は案外、面白いセンスをお持ちのようだしきっと楽しいに違いない。我は楽しそうなことなら何だってできそうな気がするのだよ」
何か、これから楽しそうなことでも起きるかのように話す彼女。ヤナギさんは二人でとか、そういうことはそれほど、というかまったく気にしてなんかいなくて、むしろ変に意識しているのは俺の方で。あまりこんな経験をしてこなかったからか、むず痒くて仕方がない。それでも新鮮な感じがする。彼女は常に、新しい風を届けてくれるらしいから、俺は大人しくそれを受け取っておこうと思う。
「じゃあ、また連絡する」
「分かった。じゃあ、もうそろ行くわって今何時? え? ヤバい次の電車乗り遅れたら授業間に合わない……じゃっ真島君! また今度なっ」
颯爽と走り去るヤナギさんの後ろ姿を見送る。なんかとってもデジャウな感じがするのは俺だけなのだろうか。ヤナギさんはいつも自分の都合で走り出す。自分の都合でっていうのは、悪い意味とかではなく、自分のペースでっていう意味。その姿がゴールを急ぐウサギみたいだ。ウサギと亀のウサギ。でもヤナギさんは休むことなんてない。そのまま突っ走って一番乗りにゴールしてしまうのだろう。前ばかりを見ている彼女は、きっと転んだって傷口を見たりしない。
俺のスマホの連絡先一覧を見ると、サ行にヤナギさんの名前がフルネームで書かれている。ヤナギさんが時間をかけて打った電話番号が表示された画面が、しばらく経つと暗くなってしまう。その度に画面を軽く指で触れたりして、元の明るさに戻す。そんなことを何度か繰り返してからやっと我に返った。周囲に人がいないか、俺のことを見ていないか、注意深く確認した。
沢木夜凪
彼女の下の名前の漢字を、ようやく知った。『ヤナギさん』は、『夜凪さん』だった。俺にとっては予想もしていない漢字だったし、不意なことでその字を何度も見直してしまう。嬉しい、という感情はこういうことなのだろうか。よく分からない。
今度、どこかに出かけることに誘ってはみたが、ヤナギさんにとって先程のYesの返事がただの社交辞令だったのではないかと今更ながら思う。
でも、これからの人生は長く続いていくのだろうし、いつかヤナギさんとどこかへ出かける日はくるのかもしれない。俺が彼女の空いている日にちを聞かなければきっと、始まらない。それでも、そこまでするほどの覚悟? のようなものはまだ、俺にはなかったみたいだ。未来のことを口だけで約束するのは、簡単なんだろうな。
一人になった空気に、虚しさを感じながらそんなことを考えていた。
息を切らしながら走る。
見失ってしなわないように目を凝らすが、段々とその姿は人混みに紛れてしまう。対象者の特徴は、レトロピンクの服を身にまとったハーフアップをした明るめの茶髪。いかにも日常を楽しんでいそうな女子大生だ。
この女性、恋した相手とは尽く実らず、言い寄られた人と付き合ってきたことしかないのだが、その男性がこれまたくせ者で。今まで純愛という純愛を経験してこられなかった人なのである。まぁそういうことだってあるだろう。仕方がない、こればっかりは。恋愛というものは、そう簡単にいかないものなのだ。俺の分際で何言ってんだって感じだけど。ほんとに。
「はっ、ヤバい見失った? どこ行った?」
大学生になった今、少しずつ神様の仕事をするようになった。どれもこれも上手くいくようなものばかりじゃないけど、やりがいという名前に似たものは感じる。
母さんと父さん、そして神代がこなしてきたであろう仕事の数々。きっと同じものは一つもないんだろう。それでも、俺が神様の仕事としてこれから芽生えさせる愛にはきっと、彼らが決めてきた運命とか、そういうものがあった気がする。確かなことは全然、分からないけど。
「えーっと」
知りたいことは、躊躇なく神様にしか使えない力で知るようになった。まぁ今までも散々乱用してきたけど。例えば去年、如月さんに彼氏がいるかどうかを聞くとき。既にいない、と分かっていたから俺はあえて彼女に聞いたんだ。文学少年に少しでも彼女への関心を向けるために。なんて回りくどいやり方なんだろうか、と自分でも思う。結局神代が結ばせてしまったけど。
人混みの中なのもお構いなしに目を瞑る。頭の中に対象者の情報を検索した。彼女の後ろ姿と、近くの情景が浮かぶ。動画のように鮮明な映像は、現在と同時進行だ。この場所へ向かえば、その対象者がいる。
目を開けて、視界を確認する。目印になった看板をめがけてまた走り出す。足を踏み出して地面を蹴った。汗で、何もかもぐちゃぐちゃだ。
「あっ、いたいた」
見失った人を見つけると、必ず何かしらの声を上げてしまう。神様の仕事を再開して初めのうちは、見つけた人に実際声をかけてしまってその日は調査できなかったり。やっぱり不信感を持たれるとこっちの負けだ。この点に関しては学校での知り合いの方が上手くいく。俺が以前神様の仕事をしていたのはほんの少しだったからか、かなりコツみたいなものを忘れている。人との関わり方なんてものはもう完璧なんだけどなぁ。
女子大生のすぐ後ろにまで追いつくと、スマホを片手にゆったりと歩き出す。その女子大生、三沢一菜(みさわかずな)は、何かに気づいたように歩行のスピードを緩めた。上着のポケットに手を入れてピンク色のスマホを取り出す。誰かからか電話が掛かってきたのだろう。少しだけ電話に出るかどうかを迷った後、結局電話に出た彼女。力を使って彼女の視界に入り込んでみる。そこには『尚』という名前が書かれていて、彼女の思考を辿るに、三沢一菜の元カレのようだ。大変だよなぁまったく、別れてもこういうことしてくる奴。
「もしもし? どう、したの?」
電話での声に耳を傾ける。三沢一菜の怪訝そうな声に対して呑気に笑い返す元カレ。何がそこまで面白いのか、聞いていて気分の悪い声が電話越しのこの距離でも聞こえる。え、普通に半分くらい引くよね。怖いんだもん。
「お前さぁ、もう彼氏できたってことはあるわけねーだろーから合コンに誘ってやるよ」
そう言うとまたもやドワッと笑いがおきて、耐え切れなかったであろう三沢一菜は、スマホを耳から話して音量を下げた。
彼らは、まだ別れて数カ月も経っていないはずである。今どきの大学生の恋愛事象なんぞ俺は知らんが、数カ月にしては切り替えが早すぎると思うのは、果たして俺だけなのだろうか。
「いや、大丈夫……私まだそういう気分じゃなくて」
「はぁ? まさかお前まだ引きずってんの? うわ。ストーカーとかはやめてね?」
「……用、それだけ?」
「あ? まぁ」
「せっかくのお誘いだけど、断らせていただくね。じゃあ」
ブチっという効果音が出たのかと思うくらい勢いよく電話を切った三沢一菜。彼女はかなりお怒りの様子。俺からすればまぁ、お怒りモードレベルで済む話じゃないけど。
彼女はどうしてこんなにも、苦しまなければならないのだろう。もうそろそろ幸せになっていただきたいところではある。
とても有意義な調査ができた。この後の女子会にも密かについて行くつもりだったが、この件については家に持ち帰って検討した方が良さそうだ。
踵を返して来た道を帰り始める。
彼女の視界に入り込むことができるのなら、どうしてその視界で調査をせずに実際に現場に来ているかというと、それには深ぁい事実、はこれといってない。ただ単純に雰囲気を感じ取ることができるからだ。雰囲気というものを甘く見てはいけない。そう、俺は思っている。
向かい風が吹いてきて、俺の前髪をぱっかんと二つに割っていく。
彼女にいい相手が都合よく見つかればなぁ、と思いながら両手をポケットに入れる。それと同時に突っ込んだポケットの中で手に持っていたスマホが震え出した。
『明日っ俺、東京からそっち帰るぜー』
トーク画面を見ると、バンドのメンバーを集めたグループ、『Wing Link』から連絡がきていた。俺と同じように通知をつけていた他の誰かが、すぐに返信している。名前を確認するまでもなく東雲だろう。日髙と俺以外の三人は東京の音大だから、きっと今週末を利用して帰ってくるのだと思う。
『俺も帰れそうだから集まろーぜ』
『どっか食べるところ予約しといてーぜ』
明らかに不自然にしてまで続く『ぜ』。桐ヶ谷と京坂、と順に秒で返信がくる。未読スルーしないところは、俺も見習わなければならない。
予約するお店がぱっと思いつくわけでもなくて、俺はなんと返信しようか迷う。日髙はまだ見ていないのか、まだ返信はない。
取りあえず日髙が何かしら反応したからでいいや、とスマホを再びポケットの中に入れた。恐らく帰宅途中に帰ってきているであろう。
シャワーを浴びてさっぱりしたところでベッドの上に腰かけ、タオルでガシガシと頭を拭く。開け放たれた窓から、夜に吹く少しだけ肌寒い風を感じた。もうすぐ梅雨の時期だからか、毎日じめじめさが増加している。
普通大学生ってもんはきっと、毎日帰ってくるのが遅くて、晩御飯なんていらねー、とか言うんだろうけど、俺にはあまりピンとこない。高校生のときと比べてサークルにも入ってないし。帰るのは遅くても八時前だ。最近ではインスタント食品を食べたくなくてご飯を作るようになった。両親は忙しい日々を送っているらしいから俺がテキトーに作ったものを帰ってきてから、大体皆バラバラに食べている。高校生時代よりも全然、険悪な雰囲気は減った。週末には外食することだってある。俺がカリカリしなくなったというのも勿論あるだろうけど、両親共が何も言わなくなったというのが大きいかもしれない。進路について話したあの日から少しずつ、俺ら家族の関係は形を変えているんじゃないだろうか。
ベッドに放り投げていたスマホからブーッブーッという音が聞こえて、スマホを拾い上げて画面を見た。もうとっくに返信がきているだろうと思っていた日髙が、グループに返信したようだ。
『おっけー。どっかテキトーに予約しとくーぜ』
その文字を見て俺は心底安心する。もし俺に予約することを頼まれていたら、お気に入りのお店なんてなくて困るからだ。ほっとして体の力が抜ける。そこまで構えていたわけでもなかったけど、抜けていった力の分、力んでいたんだと自覚した。『よろしくー』だけ打って送信した。すぐに既読の数が『4』になるのを確認して場面を閉じる。
「ただいまー」
いつの間に玄関から入ってきたのか、母さんが俺の部屋に入ってくると、ビールの入ったビニール袋をカーペットにドサッと置いた。おつまみらしきものも入っている。え、俺の部屋で飲むのまさか。やめてくださいよー。俺これから琴ちんに久々、電話でも掛けようかと思ってたのに。
「ビール、飲む?」
「いや俺まだ未成年ね。母上だけお飲み下さい」
「まだ未成年だったかしら。まぁいいわ。はいこれスルメ」
「え、スルメ大丈夫。てかなんでここで飲んでんのさ」
「気分よ気分。なんか文句あるの。いいじゃない、たまには」
「いやまぁいいけどさ別に」
いいけどさ別に。俺神様の仕事しなきゃなんだよね。今日の調査結果もまとめておきたいし、新しい対象者も決めなきゃならないし、明日バンドで集まるときの服とか決めなきゃいけないし。まぁいいんだよ? 全然。
「最近どう? 神様の仕事は」
「あぁ、特に問題ないよ」
「そう」
沈黙が訪れて下を向いた。母さんは床に座り込んで胡坐をかいている。ビールを飲んだ後、手の中でぐるぐると回しながら、母さんはまた口を開いた。
「お母さんとお父さんはね、神様だったの」
うん、とだけ相槌を打つ。過去の話をするのかもしれない、とその一瞬で判断することができた。俺の力では知ることのできなかった母さんと父さんの昔の話。
「どんな仕事をしてたのかまでは思い出せないけど、私たちは確実に神様だった。神様と言っても、巧みたいに遺伝みたいな感じではなくて、天界から送り出された神様だった。巧も知ってる通り、千人に自分の持つ個々としての特徴の能力を使ったら、天界へ戻るか、記憶と引き換えにこのまま人間としてここに残るかを選ばなきゃいけなかった。お母さんとお父さんは記憶と引き換えにここに残ることを選んだの。記憶をなくす前、誰を想っていたのか、誰と結ばれたかったのかも分からない。それでもお父さんと出会ったとき、運命かもしれないなぁと思ったのよ。お父さんと結婚したら、お互い自分が神様だってことだけを思い出した。それから、天界の神に頼まれて人間界の神様のデータを保管するようになった。巧は生まれたときから神様だから、きっとずっと、これからも神様、なんだろうけど」
思い懐かしむように、そして最後は他人事のような呑気そうな口調で一通りのことを話し終えた様子の母さん。ビールの缶を口まで持ってきて傾けた母さんは、少し顔を紅潮させてビールを飲み干す。喉が渇いていたのか、単純にお酒を飲むスピードがはやいだけなのか。多分答えは後者で、俺が今まで一緒に過ごさなかったために知らないことなのだろう。俺は、多くのことを見逃して生きてきたらしい。最近になって痛いほど分かる。
「そっか」
スルメを一つ、袋から取り出して口まで運んだ俺。確かに炭酸が飲みたくなる感じがする。飲み物が他にあるわけでもないのに、次から次へとスルメを口へ放り込む。久しぶりに食べるスルメは、今まで食べてきたスルメよりずっと、美味しかった。
母さんが急に何を伝えようとしたのか、具体的なことまでは俺には分からない。でも、話を聞く前と聞いた後では何かが決定的に違う気がする。気がする、のではなく実際決定的に何かしらの変化を遂げたのだと思う。俺だって人間だ。神様としての直感ではないもので感じることだってある。
「もうすぐお父さん、帰ってくるかしらね」
よっこいしょ、となかなかおばさん臭さを感じさせるワードをもらしながら立ち上がった母さんの顔は、どこかすっきりしていた。もしかしたら俺の気のせいかもしれない。
母さんはアルコールが入ったせいか、ご機嫌らしく鼻歌を歌い始めた。帰宅してから服も着替えないで俺の部屋に来た理由はよく分からないが、母さんなりにそういう気分だったんだろう。
窓から吹いてきた風に押されるようにして階段の方へと歩き出す後ろ姿。母っぽいなぁ、と一人でしみじみとしてしまっていた。
そりゃあ母さんは母なのだから母っぽくて当たり前なのだが、今までの俺はそういう風に見ていなかった。なんて親不孝な子供だったんだろうかと、昔の自分を顧みては情けなくなる。高校生なんてそんなものなのかもしれないけど。そんな昔の俺は多分、いや確実に狂っていたと思う。思春期だかなんだか知らないけど、もし過去に戻れるとしたら、世界の何かを変えるわけでもなくて、俺自身を変えるだろう。その時間に戻ってなお、この気持ちが存在しているのかは不明なところだけど。
階段を下り始めた母さんは、突然何かを思い出したかのようにそうそう、と独り言を呟いて俺の部屋まで戻ってきた。開けっ放しだった俺の部屋のドアからひょこっと顔を出して酔っ払い独特の笑い顔で、母さんは口を開いた。
「巧も、もう大人になったのね」
ヘニャリと顔を歪めたその人の顔を見たとき、俺は何とも言えない気持ちになった。じんわりと滲み出てくる嬉しさと、ほんの少しの申し訳なさと。大人になるにつれて色んな感情が増えたりするって聞いたことあるけど俺はまだまだ多くない。未だに分からない感情というものが時々出てくる。その度に未熟なんだな、と痛感する。
「何? 急に」
母さんから顔をそむけたのは、単なる照れ隠しだった。何だか、いきなりそんなことを言われたって子供からしたらよく分からない。きっと母さんは母さんなりに、今まで俺のことをほったらかしにしていたと自覚していたのだろう。今となっては俺も母さんも、もうそれなりに笑い話になっていると思う。どれだけ怒って、それだけ凄まじい喧嘩をしようとも、時間が過ぎてしまえば案外、笑い話になるものだ。
「うーん。なんだろうねー」
大して何も考えていなさそうな声で返事をすると、今度こそ母さんは階段を下りて行った。ふっと、笑みがこぼれる。残りのスルメを取って、今を噛みしめるように食べた。下の階から小さく、母さんの鼻歌が聞こえてくる。
このとき、このスルメをずっと食べていたいなぁと、何の前触れもなく、思った。
*
「カンパーイ!!」
それらの声と共に重なり合ったグラスの音。極太いビールのグラスでななくて、コーラとかオレンジジュースとかが入った普通の小さなコップを掲げた。久しぶりと言えば久しぶりの顔ぶれが並んでいる。なんの違和感もないように笑っている彼ら。その彼ら、の中には勿論俺も入っていて、そのことが逆に違和感だった。
「久しぶりだなーこうやって集まるのも」
「って言っても私服は何か変な感じがすんなー」
「分かる」
あははは、と言って笑った日髙と俺。特に集まってまで話すことがあるわけでもないのに、こうして集まるのは無意味なことかもしれない。それでもまぁ、意味なんかなくたって楽しければそれだけでいいんじゃないかと思う。そう思っているのは、この五人の中で俺だけだろうか。
それからわちゃわちゃと、あの頃の何でもない放課後のバカ話の続きをした。ただただ何でもない、そんな話を。
「っていうか皆彼女とかいんの」
ふっと真顔になってそう聞いてくるどこでもムードメーカーの東雲。どこでもムードメーカーなんて言ったら東雲は秘密道具みたいに言うな、とか言ってきそうだな、と思って笑ってしまう。その笑みが顔に出ていたことに気づいて真顔に戻そうとして顔の筋肉を引き締めた。が、もう遅かった。
「真島お前今笑ったな。おい、そういうことか? お前はいんのかぁ」
「いないいない。考えたこともなかったわ」
「はっ嘘つけ。めちゃめちゃチャラ男のくせに」
そーだそーだあああ、と何やらうるさい声が聞こえる。そうだった、俺はチャラ男として生きてきたんだっけ。高校生のときはやはり黒歴史ばかりの時代だ。思い出したくもなくなってくる。勘弁してほしい。
俺は絶賛、神様の仕事に奮闘中だしっ、と内心思っていたら俺以外の四人の顔が写真のようにピタリと動きを止めた。ように俺には見えた。一瞬だけ。
「お前らいないの?」
いるわけないだろー、だの、お前甘く見てんだろー、だの、いないから男五人で集まってんだろーがよ、だの返事は散々。なんだなんだこいつら、悪くない奴らなのになぁ。
ふと、三沢一菜の顔が横切った。
なぜこのタイミングなのか。その答えはもう明白だった。だって俺は神様で、現在の対象者は三沢一菜で、早急に彼女の相手を見つけなければならないからだ。彼女に合う相手をこの四人から選ぶにしてもテキトーに決められやしない。それが俺の仕事ってもんだし。意気込んで一人ひとりの顔をじっくりと見てみる。
東雲香御は、明るくていつもその場の雰囲気を盛り上げてくれる。音楽に対する情熱は人一倍あって、それが表情でモロに分かるタイプ。高校生のときは、何人かとお付き合いをしていたことがあるが、あまりそれらの恋愛に好印象を抱いた覚えはない。
京坂弥生は、大人しくて音楽に関しては秀才である。数学とかそこら辺の勉学は微妙だったが、まぁ音楽家としては最高だ。作曲が得意ならしく、暇さえあれば音楽制作に取り組んでいる。他人への気遣いもできて、女子が女子でいることを情けなく思うほど女子力の高い人物である。今までに彼女どころか好きな子の噂も聞いたことがない。
桐ヶ谷鳴度は、常に冷淡で冷静。こいつにだけは少しのお砂糖対応も求めてはいけない。冷淡は冷淡だが、それはまぁ態度だけで、性格は恐ろしいほどいい。んもうっなんて勿体無いのって感じの親切心の持ち主。ただ、冷淡な態度なだけあって口は悪い。愛情表現してほしいタイプの人には、向かないかもしれない。彼女はできたことはある。まぁビジュアルがかなりいい方だから。でも大抵、極寒の地での塩対応に耐え切れずに振っていく女子がほとんど。彼から別れを切り出すこともしばしば。
最後に日髙翔。こいつは普通にいい奴。このバンドのメンバーの中なら有無を言わさず彼が普遍的で、社交的でもあって、気遣いもできて、才能もある。いいところを少しずつ集めた感じの好青年。その場を取りまとめるのも上手だし、頼りになる存在だと思う。生徒会でいう生徒会長みたいな。そんな中心的な存在。こいつは彼女がどうとかの前に、ヤナギさんが好きだ。めっちゃ分かりやすくて驚く。逆に何でヤナギさんが分かってないのかが分からない。
一番三沢一菜に合っているのは日髙なのだが。彼はヤナギさんのことが好きだから、その気持ちを勝手に変えてしまうことはしたくないし、神様としてそれをするのもいかがなものかと思う。日髙はダメだ絶対に。まだヤナギさんのことを好きでいさせなければ、こいつはこいつでけりをつけなければ。彼らは前に進めないと思う。
「桐ヶ谷かな」
ポロっと名前が出てしまって、一緒に出た米粒を慌てて手でキャッチした。ヤベ、すげぇ恥ずかしいんだけど。
「何?」
「や、一番初めに彼女できそうな奴」
「は。お前だろどう考えても」
軽く笑ってまたまたー、と手を仰いだ。誰も知ることができない心の中では、上手く誤魔化せたことにほっと胸を撫で下ろしていた。あっぶねぇー。いやまぁ大丈夫だと思うよ? 誰も俺が神様とか思わないだろうから。
バカ話はそれからも一時間ほど続いた。
ほんとにこいつらは変わらないなぁ、と思うと俺の家族と俺が大きく変化したことに気づかされた。俺が変わったのが、一番大きいのかもしれないけど。
店の外に出ると雨が降っていた。街頭や信号が濡れた地面に反射して、空の星が隠れている分世界が明るく見える。傘を差すと、一気に紺色が浮かぶ。寂しい色の傘を、買い替えようかとこのとき、思った。
「じゃーまたなー」
「おーっ」
大きく振られた手に、小さく振り返した俺。またな。そう口にしかけてやめた。また会えるかどうかなんて不確かで、この俺が確かなことのように言えるわけがなかった。つまり俺は臆病者なんだ。不確かなことは不確かなままにする、そんな臆病者。まったく理解できないって? 俺もだよ。
この次に会う日はまた近いうちにくるのだと思う。でもまたその次がいつくるのか。段々と会っていくにつれて頻度は少なくなっていき、いつかは全然、ぱったりと会わなくなるのかもしれない。メッセージだって送り合わなくなる。時々会話してまた集まろうな、なんて言っても、それは社交辞令として捉えられていく。そうして、メッセージをしていたはずのグループから、いつの間にか誰もいなくなっている。
そんなことを想像すると、そうなってほしくない俺が、焦りの声を上げる。俺はこいつらの顔を、あとどれだけ見ることができるだろう。
雨粒が傘にぶつかって音を立てた。このまま、この雨音を聞きながら突っ立って眠れそうだった。そんなどうでもいいことを考えながら、俺はもう一度振り返る。
「気ぃ付けて帰れよー」
この先の未来が分からない諸君へ送ることは、この願いだった。おう、と何でもない返事をしたあいつらに、今度は大きく手を振る。最後がずっとずっと、きませんように。
雲が覆って、まったく見えない星に向かってだろうか。俺自身に向かってだろうか。それとも、他でもない神様だろうか。そっと、そんなことを夜空に願っていた。
「案外俺も、ロマンチストなのかなぁ」
一週間後、神様の力で三沢一菜と桐ヶ谷鳴度の二人の間には愛が生まれた。出会いから恋から愛っと、一週間でスピード婚ならぬスピード愛が誕生したのだ。一応言っておくが、神様はそれぞれ異なる個々としての特徴の能力を持っている。例えば、神代の場合は、人間の運命を決める。結構仕事の幅が広い。恋とか愛とか、おまけに人間の生死にまで関わる、重要な役割だ。ちなみに俺は、人間と人間の間に愛を芽生えさせる。さらに言っておくとそれは恋ではない。つまりは一生ものというわけだ。でもそれは条件付きで後から他の神様が決めなければ、の話。ほいほいっと神代みたいな奴に変えられてしまえば、そこまでだ。
大学生の日常は、大学の中でだと薄いものだと感じる。
とうとう梅雨入りを果たしたこの時期、傘は必需品だ。そして俺は、傘を透明なビニール傘にした、紺とか黒とかは、空に向けて差す色ではないと思ったから。コンビニで売っていても何らおかしくないその傘を、俺は案外気に入っている。
そんなビニール傘の前を、カップルが一つの傘を持って歩いている。この二人を、俺はどこかで見たことがあるような気がしたが、そんなことを相手はこれっぽっちも気にする素振りがなかったので俺の方も、じろじろと見るのをやめた。
「悠斗、今日ご飯食べに行こ」
「河合お前太るっつってたじゃん」
「それはいいから、河合って呼ぶのやめい」
「河合は河合、今更変えらんねー」
名前を聞いて思い出した。彼らは去年、同じクラスだった人。俺は記憶力がないんだろうか、と気づきかけてしまう。神代がこの二人を結ばせなかったときは、何がしたいのか理解するまでに時間を要した。確かに、今の彼らの方が愛があるように見えてしまう。高校時代の俺の周囲の人間は恐らく、その運命のほとんどが神代に決められた。俺は神様を放棄していたわけだから、案外頼りになる存在だったんだろうなぁ。無自覚に、俺自身が。
神代柳縁。それでも俺は、彼女が憎い。
例え頼りになる存在だったとしても、例え友人の好きな人だったとしても。例え彼女にとっては仕事をこなしたに過ぎないことだったとしても。
彼女を、恨み続ける。人間の運命を、簡単に決めてはいけない。そうなるべきなのか、未来を通して考えなければならないんだ。
そして、真島巧。こいつがどうしようもなく世界一嫌いだ。
俺自身を恨んで、憎んで、どうしようもなく虚しくなる。何もできずに、神様という存在を自分の中で捨てたこと。未来を変えようともしなかったこと。その恨みを、神代に向けてしまっているということ。俺は、逃げ続けている。
あの日からずっと、神様から見放されている。
ぼんやりと、いつの間にか暗くなった道を歩いていると、急に凄まじいクラクションが聞こえたのを合図に、身体の動きが勝手に停止した。何が起こっているのかが理解できずに、ただその場に立ち尽くしていると、誰かの声が聞こえた。その声で、視界が鮮明になっていくのが分かる。
俺は、たった一人、彼女のことを思い出していた。もしかしたら思い出しすぎていたのかもしれない。
「真島君っ。危ないって! 何やってんのっ!」
なぜか俺は、赤になった信号機を見つめて、横断歩道の途中で止まっていた。横から浴びせられる車のライトが眩しくて、目を細める。向こうから徐々に近づいてくる姿は、よく見えなかった。
——彼女が、そこに、いた。
気づけば俺は、暗闇の横断歩道になんて立っていない。
明るい夏の日の、海岸にあるブロック塀の上。空には入道雲が浮かんで、遠くからは微かに風鈴の音が聞こえる。夏らしく麦わら帽子を被ったワンピース姿の彼女は、もう、俺の記憶の中の彼女でしかなかった。
「巧君、大丈夫。私は後悔なんてしないよ。だって大好きな人と一緒なんだから」
過去の俺は、彼女になんと伝えたんだったっけ。彼女が、大好きな人と結ばれることで彼女が不幸になることを、その未来を。一体、どんな言葉で伝えたんだろう。ただ、彼女の向日葵みたいな表情と、その言葉しか思い出せない。
「千尋さん、俺」
そこで途切れた。
俺がはっきりと思い出す前に、現実の方の誰かが先に俺を呼んだからだ。
「真島ああああああああああああああああ!」
自分の名前を、こんな大声で叫ばれたのは小学生の頃の運動会以来だろうか。いや、たった一人に、それもこんな声量で叫ばれるのは、人生初だ。道路のど真ん中で何やってんだって我ながら思うけど、結構呑気にそんなことを考えていた。
無意識に閉じていた目を開けて姿を認識したと同時に、腕を掴まれる。引っ張られるのに抵抗せずに歩くと、気づけば横断歩道を渡り終えていた。程よい街頭の明かりで、誰なのかを認識する。
見たことのある顔で、頬が緩むのを感じた。
「ヤナギさん」
俺の見た感じだと、ヤナギさんは怒っていた。俺が理解できないふくれっ面で、どうしてそこまで怒っているのか、分からなかった。
神様なのに、それが分からないという理由。徐々にヤナギさんのことが気になり始めているのを、俺は絶対に認めたりしない。
「どしたの? そんな血相変えて」
「あんたふざけてんの」
ヤナギさんらしくない言い方で驚く。
先程まできっと俺をヤバそうな人と見ていたはずの赤の他人は、もう興味もなくなった様子で歩き去っていくのが分かる。ただ、目の前にいる彼女だけが大声を出し続けている。なぜだか、その姿が懐かしかった。しかしそれが、過去の人物と重なっているだけなのだと思うと、ヤナギさんに申し訳なくなる。
「嫌だな。ヤナギさんこそ、なんで怒ってんの」
俺は別に、死にたくてあそこにいたわけではない。特に何も考えずに歩いていたのに、いつの間にか偶然にも、信号が赤のときに横断歩道を渡っていた。それだけじゃないか? 結果的に、俺は死んでいないし少しの怪我も負っていない。周りに迷惑をかけたことは、まぁ認めるけど、何も他人であるヤナギさんがそこまで怒る必要はない。はずだろ?
俺が彼女の怒る理由を尋ねると、彼女は眼を見開いた。
「自分が何したか分かって言ってる?」
「いや、何したっていうか」
「とぼけないでよ。あんた死にたいの?」
「いや?」
この人って多分、めちゃめちゃ怒ると、二人称も性格も喋り方も変わるんだろうなぁ。ここまで怒りの感情をぶつけている人間を見ると、羨ましくなる。俺はそんなんじゃないから。そこまでして伝えたいことは、もう過去に置いてきたから。
次々と通り過ぎる人が変わっていくが、ヤナギさんが何か言う度にその大声で何人かがこちらを見る。見られて当然。それだけ彼女の気迫がすごいんだ。
「って、俺がいなくなったところで誰も何も思わないよ」
バチン、と変な音がした。
何が起こったのかをすぐには分からなかった。ただ、俺が不自然に横を向いている。ビンタされたのだと自覚するまでに時間がかかった。暗いコンクリートの地面が、視界に映る。俺が誰かにぶたれるとは、思ってもみないことだったから、じんじんする頬がもはや痛いのか痛くないのか分からない。
「今、自分が何言ったか、分かってんの」
その声に、怒りはもうなかった。怒りを通り越した呆れ、とでも言うのだろうか。乾ききったヤナギさんの声に、それはヤナギさんが発している声じゃないんじゃないかとさえ疑ってしまう。
「俺は死んだ方がいい人間だってことだよ」
ポツリ。そんな本音が、音を立てて落ちる。雨宿りしたボロいバス停の屋根から、雨漏りして水滴が落ちてくるような。それくらい自然と出てきてしまった言葉だった。
「は?」
「俺よりも生きていた方がいい人が大勢いるのに、なんで無力な俺だけ生きてんの? こんな俺みたいな人間、生きてたって価値なんてないじゃん」
まずい。止まらない。
小雨が降り出した。傘も差さずに、俺は下を向く。落ちてくる水滴が地面の色を変えていく度に、俺の中から何かが溢れ出ていく気がした。
実際、溢れ出していた。俺にはどうすることもできないことが、この世の中には数えられないほどあって、大事な人ひとりさえ守れたらいいのに、それすらできなくて。それどころか、恰好悪く逃げて。もういない彼女を求めて、また神様という存在に戻ってきてしまった。何かを、取り戻したくて。でもそれは、最低のことで。
「世の中には、生きてなきゃいけない人が、なんでだか亡くなってる。なんでだよ。おかしいだろ? 彼らは、生きてなきゃいけないんだ」
最近気に止まるのは、メディアで報道される芸能人の死。栄光を残してきた人の難病の知らせ。皆が必要としているのに。俺は、胸が苦しくて仕方がないんだ。
「もう、その言葉は消せないんだよ」
雨脚が段々と強くなってきて、身体に打ちつける雨粒も心なしか大きくなったように感じる。コンクリートはもう濃い色を残して濡れていて、その中には誰かさんの涙まで混じっている。熱い。体温と同じ温度のはずの、その液体が、熱い。
ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は口を開く。
「この先、これからずっと、その言葉は生き続ける。あんたがそう思ってるのはこの一瞬だけだったとしても、放たれた言葉は違う」
何を言っているのか、今の俺にはちっとも理解できない。これが分かったなら、その人はきっと還暦を迎えたご高齢の方だろう。俺には、死んでも理解できそうにない。
「簡単にそんなこと言うな。死んだほうがいい、とか言うなよ。そんな人間なんてこの世に一人もいないんだよ。死について簡単に語るなよ。生きなきゃいけなかった人は、生きていたかった人で、明日死ぬことなんて考えてなかった人で、人を愛していた人で。その人たちの気持ち、考えたことあるのかよ……」
久しぶりのヤナギさんらしく、長々と続く言葉。でもそれは普段のソレとはまったく別のものだった。こんなバカな俺にも分かる。彼女は、誰かを、亡くしている。
勢いがついたと思う間もなく、彼女の声が萎れていく。
打ちつける雨が、ヤナギさんの髪を照らしていく。
「分かるよ。確かに、私たちにとっては生きなきゃいけない人たちだって。誰よりも生きていてほしいと思う気持ちも。それが、真島君にとって嘘じゃないってことも」
俺の心臓が音を立てる。立て続けている。
俺はどこかでヤナギさんと彼女を、千尋さんを、重ねてしまっていたのかもしれない。
少し変わっていて、それでも優しいところだとか。俺が無意識に欲しかった言葉を、くれるところだとか。他人のことを、怒鳴りつけて怒れるくらい人間想いなところとか。ちゃんと、言葉にするところだとか。放った言葉が、綺麗な言葉に聞こえるところだとか。
愛がある、ってところとか。
だけど、ヤナギさんはヤナギさん。
そして、千尋さんは千尋さん。
少しずつ、ちゃんと分かってきていた。この二人は似ているけど、それはほんの少しなだけであって全然違うのだと。過去にも、この瞬間にも、きっちりと向き合わなければならないのだということも。
ヤナギさんが、俺に傘を差した。
「だから、その人の分まで生きる義務がある。だから、忘れちゃいけない」
あぁ。どうして彼女の言葉は、こんなにも説得力があるのだろう。俺は、何も言えずにただ感心しているばかりだ。彼女は、いつだって俺の欲しい言葉をくれる。
彼女にとってその言葉が誰を示すのかは、分からない。多分、俺が聞かなきゃ一生分からないと言っていい。察することは到底できないと、分かっている。なぜなら——。
「俺、大好きな人がいたんだ。それも結構ガキのときで、愛とか恋とか全然、分かってなかった。俺は、まだ大人じゃなかったから逃げたんだ」
俺は、自分と向き合うためにヤナギさんに手伝ってもらうことにした。俺自身だけでは、真正面から向き合うなんてできない。でも、彼女がいるのなら。
カバンに入っていたタオルで吸えるだけの水分を吸わせて身体が冷えないように善処したが、どうしたってこのままでは風邪をひく。どこかの店に入ったとしても、季節的に冷房が入っているだろう。なおさら風邪をひく。
ということで、足湯スポットにくる俺たち。二人で木の長椅子に腰かけ、目の前の景色をただただ眺める。これといって珍しい景色が広がっているわけでもなく、ただ申し訳程度の木々が植えられている。
俺が、過去を話し出すまでに、一体どれほどの時間がかかったのかは覚えていない。きっと二人とも、このときばかりはどうかしていたんだろう。
さっき、俺たちを打ちのめしていた雨は通り雨だったかのように姿が見えなくなっていた。地面は風に侵食されていくかのように、渇きを取り戻していく。
天気の神様って、ほんとにこういうとき、空気読むよな。
*
千尋さんと出会ったのは、俺が中学二年生のときだった。
俺は思春期の人間を目の前にして、色々と複雑な感情が存在することに日々、頭を抱えながら過ごしていた。学校の人々を対象者とすることが多かったのが、段々と視野を広めていき、高校生や大学生の人々まで対象者とするようになった。それ以上の年齢の人の恋愛というものは、俺に理解できることではなかったから、それはどこかに存在しているであろう別の神様に託すことにした。俺はその頃、神様というものに酔っていたのかもしれない。何が間違いで、何が正解なのか、そんなことはいちいち考えずにただ、誰かが喜んでいればいいと思っていた。この力は素晴らしい、と。
俺はある夏の日、柳瀬千尋を対象者として直接、観察することにした。そのとき彼女は大学生で友人と出かけることも多かったみたいだ。それが好都合だった俺は、よく一緒の映画を鑑賞していた。俺にとっては仕事にすぎなかったつもりでいたのだけど。
柳瀬千尋は、そのことに気がついていたらしい。何度、彼女と同じ映画を同じ時間に見ただろうか。一カ月経っても彼女の人間関係が整理できずに焦っていた。すると向こうから、俺に声をかけてきたのだ。
「君、最近よく会うね?」
その言葉を投げかけられたとき、俺は過去一焦っていて、上手く返事ができずに目がキョロキョロと泳いだのを、覚えている。
その季節は花粉がひどい時期で、柳瀬千尋はマスクをしていた。春らしい薄地のコートに桜の形をしたピン止めをしているのが印象的だった。
どうしてこれほどまでに、彼女のことを鮮明に覚えているのか。どうして彼女を対象者としたときに、情報がなかなか出てこなかったのか。もう、はっきりと言ってしまえば、柳瀬千尋、彼女に一目惚れしていたからだ。一目惚れというのは、今だから分かることなのであって、その当時は考えもしなかった。俺が誰かを好きになることすら不鮮明で、彼女と関わるうちにやっと、知ることができたのだ。でも俺は。今の俺は。その確かな記憶を、永遠に削除してしまおうと必死だった。俺は忘れることで、逃れられるとでも思っていたのだろうか。本当に俺は、どこまでも身勝手だ。
「気のせいでは……ないっすか」
年上の人間と、直接言葉を交わすことは経験がなかったからか、かなりあからさまに視線を逸らしていたと思う。やっぱり俺も、思春期の男子だったから? 恥ずかしかったんじゃないかな。という自分自身でのフォローを許してくれ。
「気のせいで声までかけないよ。それに私とこんなに映画の趣味が合う人なんてめったにいないんだもん。しかも見た感じ少年だし。やっぱり気になるじゃない?」
年上なのにどこか砕けたような喋り方をした柳瀬千尋。俺が彼女に心を開けきるまでに、そう時間はかからなかった。それは、今だからこそ分かることなのかもしれない。
彼女とは連絡先を交換すると、二人で出かける約束を何度もして、何度も会った。数えきれないほど多くの場面に千尋さんがいる。どこへいっても、そこには彼女がいた。
ときには映画を見て泣いたり、ときには遊園地でどっちが年下か分からないくらいにはしゃいだり、ときには美術館で絵画の意味不明さを話したり、ときには海で砂に絵を描いてお互いの絵の下手さを笑い合ったり、ときには図書館で彼女が楽しそうに本を探すのを俺はそっと眺めたり。一緒にいると、嫌でも気づいてしまうのだ。一体、千尋さんが誰を想っているのかを。好きな人の好きな人は、本当に分かるものだな、と少しだけ人間の性質みたいなものに感心した。
「宏から電話だっ。ちょっとごめんね」
次の瞬間、ガラリと表情が変わった千尋さん。こういうとき、俺はどこからか痛みを感じる。チクりと、針で刺されたかのように。
天方宏。千尋さんの好きな人で琴ちんのお兄さん。中学時代から、琴ちんとは仲良くしているが彼の兄をこの目で見たことがなかった。でも、俺の好きな人が好きなんだから、きっと素敵な人なんだろうなぁ、と思っていた。
俺は、柳瀬千尋さんのことが好きだった。柳瀬千尋さんと過ごす時間が好きだった。柳瀬千尋さんが好きなものが好きだった。これが愛と呼べるのか、ガキの俺には分からなかったけど人間を愛するってきっとこういうことなんだと、痛感した。恐ろしいほどに知ってしまったんだ。だから。
「聞いて聞いてよ巧君! 私、宏から婚約指輪渡されちゃった!」
すぐに返事は、できなかった。あのときの俺はバカだったから、まだガキだったから、千尋さんと宏さんが付き合っていて恋人同士になっていたことが分からなかった。ずっと一緒にいたのに、そう思っていたのは俺だけだと言われたような、気がした。そうだよな、だって俺何歳年下なんだよって、話だよなぁ。やっぱり弟みたいな存在だったんだろうなぁ。
「おめでとっ」
変に明るく言えたのは、完全に、もう百パーセント、笑顔を取り繕ったからだ。今までに見たことのないような満面の笑みで、彼女がそんなこと言うから。俺は他に、何も言わなかった。彼女と過ごした日々を、忘れようと決めた。忘れられるはずなんてないのに。
俺は、想いを伝えられないまま失恋した。確か、中学三年生の冬の初めだった。
それから俺は少しずつ、千尋さんとの距離を遠ざけていった。友達としてでもいいから、そばにいようとも思ったけど、俺の初恋が無残にも砕け散った後ではもう、耐え切れなかったらしい。千尋さんからの出かける誘いを受けても、何かしらの用事をつくって断り続けた。そのせいで彼女からの誘いはこなくなった。それが目的だったのに、どこか期待して落ち込んだ自分が恥ずかしくてどうしようもなかった。
そして、千尋さんが死ぬ運命だということを知った。
『天方宏 → 佐川幸 一年後 ※現在は柳瀬千尋が婚約者 三人家族・長男』
『柳瀬千尋 → × 二年後 ※現在は天方宏が婚約者 四人家族・次女』
高校入学直後。俺は早々から、俺と同じような神様の存在は感じていて、それが神代柳縁だということも分かっていた。
神代が誰かとぶつかって物を落としたとき、目の前にいた俺は開きっ放しのノートを見てしまった。相手が千尋さんではなく、神代だったから、彼女の考えていることは筒抜けで、それは神様の仕事、つまり人間の運命を決めるためにつくられたノートだった。『×』というのは、『死』を意味することも同時に知ってしまった。そんなノート、見なければ良かった、と後悔する。俺は、千尋さんに死んでほしくなんてなかった。例え神様が定めた運命だとしても、そんなの絶対におかしいから。なぜ、千尋さんを死なせなければいけないんだ。そんなことは、俺にはすぐに分かる。天方宏が大事な人を失うことで彼はこれから出会う人間への愛が、今よりもっと強くなるから。バカバカしい答えだ。それに、俺はこんな答えを求めているんじゃなかった。あの神代のノートをビリビリに破いてゴミ箱に投げ捨てたい。それくらい俺は、荒れ果てていた。
俺が知りたいのはただ一つ。柳瀬千尋をどうやって救うか。
でも、無理だった。俺は、どうしようもなく千尋さんのことが好きだったから。神様は自分の想い人だけには個々としての特徴の能力は使えない。その神様である俺が好きだったのは、紛れもなく柳瀬千尋さん。彼女だけだったから。
「千尋さん。この先、どんな不幸が起きても、宏さんと一緒で後悔しない?」
高校一年生の夏の初め。俺は、久しく連絡していなかった千尋さんを、海に誘った。なんの抗いだったのか、俺にしてくれよ、なんて頼み込むつもりだったのかもしれない。
青い海の上の空では、真っ白な入道雲が呑気に泳いでいる。夏らしい麦わら帽子を被った千尋さんは、黄色い笑い声をあげる。彼女の笑い声は、風鈴みたいだ。
「巧君、大丈夫。私は後悔なんてしないよ。だって大好きな人と一緒なんだから」
恋する乙女には、かなわなかった。
「千尋さん、俺」
「んー?」
言葉はもう、何も出なかった。声が枯れたように、空気が喉にこびりついた。
これから歩き出そうとする彼女を、引き留めることなんてできない。俺は千尋さんを救うことなんてできない。どうして彼女を好きになってしまったんだろう。彼女を好きでなければ、彼女を救えたのに。でも、彼女を好きでないとこんな気持ち、生まれてないんだろうな。
だから俺は神様を捨てた。
もう、愛なんていうもので苦しんでいる自分を感じるのは嫌だった。
逃げた。そして、千尋さんと二度と会うこともないようスマホごと海へ沈めた。両親には結構怒られたけど、何を言われたかも聞いていないほど俺は当分、放心状態だった。なぜだか涙は出なかった。物凄く泣きたくて仕方がなかったのに、泣けなかった。
ねぇ、千尋さん。俺があのとき、言おうとしたのはね。千尋さん、
俺、千尋さんのこと大好きだったよ。
*
パチンっと昔話を話し終えたような雰囲気を醸し出すかのように、両手の平を合わせた。
隣で話を黙って聞いていたヤナギさんは、こちらに顔を向けると目元を手で押さえながら口を開いた。泣いて、いる。ヤナギさんが、泣いていた。
「真島君ほんとにその人のこと好きだったんだ。私にはその苦しみとか悲しさとか悔しさなんてものは分からないけど。けど、泣いてしまうよ。この涙は同情の涙なんかじゃないよ。誰がこんなことに同情できるの。君は、すごいよ」
それからヤナギさんは、泣いている姿を少しも隠さないで、しばらくの間泣いていた。俺は泣きそうな域までいったが、彼女があんまり泣いてるもんだから、こみ上げてきたのは安心に似たような気持ちだった。俺のためにこんなにも泣いてくれるのは、人間らしいけど、いや人間らしいからか、悪い気はしなかった。
勿論、俺が神様とか神代が神様だなんて言っていない。そこは辻褄が上手く合うように設定を変えたりした。かなり話したことと事実が違っているかもしれないが、そんなことはどうだっていい。俺は、少しだけ生まれ変われた気がする。
「ところで、ヤナギさん。さっきの道路での話聞いて、誰か大切な人がいたのかなと思ったんだけど、それって誰だったか聞いてもいい?」
俺は神様だから、知りたいことはすぐ分かる。でも、神様だから好きな人のことは何一つ分からない。それは人間として、向き合う必要があるからだ。
「あぁバイトの先輩だよ女の人ね。私が高一でバイト入りたてのときからお世話になってたんだ。その先輩、交通事故で去年亡くなっちゃって。また今度ねって手、振り合ったのに。一週間後、私の受験勉強の息抜きにって、ご飯に誘ってくれてたのに。また泣きそう」
今度は一度引っ込みかけた涙を流すまいと、手をパタパタと仰いで目に風を送ったヤナギさん。彼女にも大切な人がいて、その人はもうここにはいない。その苦しさは、よく分かる。俺は一人で勝手に、千尋さんがこの世から去ることを知って、逃げた。それでも俺は、別れを告げなかった。また、風鈴みたいな笑顔の千尋さんと会えるような気がしたから。
「約束してたことが叶わない。約束の日に、もう来ないって分かってたけど集合場所に行ったの。何時間も待った。お葬式もして、ちゃんとお別れしたはずなのに全然実感ないんだもん。ちーさん、今度結婚するはずだったのになぁ。って真島君の好きな人もそうだったっけね」
はっと気が付く。俺は、名前を言っていない。ヤナギさんも名前を言っていない。
「正確には好きだった人、ね。というかヤナギさん、その人ってもしかして……柳瀬千尋って名前だったりする?」
「え? そうだけど」
「え」
「え? もしかして真島くんが好きだったのって……」
パッチリと開いた目に、静かに頷いて見せる。世間は狭いようにできている。例えば地方から上京して、その先で地元仲間と偶然に再会できるように、できている。
「私たち二人ともちーさんのこと言ってたってこと? 待って、こんなことある? え?……そっかぁ。あるのかぁ。んー、運命ってこんな感じなのかな」
ヤナギさんは盛大に一人で焦った後、ふっと目を細めて笑う。ヤナギさんの笑顔は、そうだな……あったかい火みたいだ。ほっと、心が落ち着くんだ。
「ヤナギさんは寂しい? もう会えなくて」
「寂しいよ当たり前だよ。会えないわけないって思ってたけど、もう、会えないんだって最近やっと分かってきて、落ち込む日もだいぶ少なくなった。今じゃ笑えるしっ」
それからニッと歯を見せてきて笑うもんだから、俺もつられて笑ってしまう。ヤナギさんはきっと、魔法使いだ。俺にだけ魔法を使える、魔法使い。俺は君だけに力を使えない、神様。
「俺も。今じゃ笑える」
俺はヤナギさんと出会って、少しだけ素直になったような気がする。多分、それは気のせいなんかじゃないんだろうけど。
冷えていた身体は、長いこと足湯に浸っていたからか、もう随分と温かくなっている。厚い雲もどこかに流されて、明るい星が存在を主張してくるのが伝わってくる。
「だからね。忘れないで、生きてくの。その人の分までずっと。ずーっと! 約束してた『今度』が、消えてなくなるわけじゃないって、信じてるから。だから君も、誰かへの憎しみはもう捨てちまえ。君の少しの罪悪感と記憶だけは、この先もずっと背負っておけばいい」
それがいいんだよ、と肩をポンと叩かれる。その反動で、言葉が口を滑り出した。
「君はいつも、俺の欲しい言葉をくれる。何でなんだろうって結構前から考えてたんだ。多分それはきっと、そういう運命なのかもしれないって思った」
あははそうだね運命だぁ!と楽しそうに椅子の上で飛び跳ねた彼女を、俺はそっと眺めている。いつか恋したあの日々のように、今はヤナギさんだけを見つめている。
大事な人を失うのは、俺だけじゃない。それでも皆、時間と共に生きている。時間が平等だなんてものは嘘だ。だからその分、この時間を全力で生きようと、思える。
ヤナギさんがこっちを向いて、面白い顔をしてるよもしかして今から変顔大会でもしようとか考えているのかい? それなら受けて立つよ、とげらげら大きな口を開けて笑う。その変顔大会に俺は勝てそうにないや。きっとすぐに笑っちまうだろうから。
いつか君に、伝えられるだろうか。神様としては分からない君の誰かへの想いが、俺に向いていますように。それは紛れもなく俺の願いだった。
「ねぇ、ヤナギさん」
段々と小さくなる笑い声。こちらを向く純粋そうな独特な瞳。そして、彼女は息を吸っては吐いた。一つひとつの行動にまで運命のようなものを感じる。それから俺は自分の手を、固く、固く握った。
俺、ヤナギさんのこと、もっと知りたいって思うよ。
*
「お待たせ琴ちん」
「遅い真島」
「ごめんごめん」
駅近くにあるカフェで待ち合わせをしていた俺たち。高校生のときとまったく変わらない、相変わらず寝ぐせのついた琴ちん。俺がアイスコーヒーを頼むと、ブラックにするってことはガムシロップとミルクを僕に大量に入れてほしいってことだよな? と琴ちんが不吉な笑みを浮かべた。何を考えているのか。琴ちんもでしょ、と言うとバレたか、と笑った。
彼は神代のことをいつまでも覚えておきたい。当然の話だがそうらしく、神代についてを書き留めている。そのことを俺は知っているのだ。琴ちんらしいと言えば琴ちんらしいが、よくもまぁそんなにロマンチックなことしようと思うなぁ、と半分苦笑いしてるけど。
「ねぇ、ちょっとボイスメモに懐かしいの見つけてさ。文化祭のときに俺が作曲してバンドで演奏した音源。これ、動画で撮っといてほしかったのにさ、琴ちん機械音痴だから動画の撮り方分からなくて。結局ボイスメモになっちゃうっていう」
高校時代ほど、振り返って懐かし面白がるものはない。琴ちんはまるで他人事みたいに、そんなこともあったなそう言えば、と苦笑いをしている。恥ずかしがっている様子はない。
先に到着してケーキを頬張っていた彼は、すぐに食べ終えると興味深そうに俺のスマホをのぞき込んだ。琴ちんは感情に忠実だ。だが決して、単純だというわけではない。
「それ、聴きたい」
物欲しそうな表情で、俺が手に持っているスマホを指さす。俺は、少しだけ笑いながらイヤホンを取り出した。琴ちんが何だか、楽しそうだ。
「はい」
琴ちんはイヤホンを受け取ると、ありがとうとお礼の言葉を述べた。それから上手くハマらない左耳のイヤホンを手で無理やり抑えて、この題名何だっけ、と聞いてくる。
「Aganophony(アガノフォニー)」
「どういう意味?」
「それはまた後ほど」
不満そうな顔を浮かべた琴ちんを無視して、『Aganophony』の欄を指先で触れる。
「それではお聴きください。『Aganophony』」
琴ちんが、俺を見て笑った。
世界に溢れる運命とか そんなモノはどうだって良くて
君と僕の運命だけを 今もずっと探している
定めるのが神様なら 僕は何もできないじゃん
なぜ赤い糸の狭間で 君を見つけたんだろう
もう少しで届きそうで なのに君は去ってしまう
想いをまだ伝えてない なのに記憶だけがここにある
僕が恋した瞬間は これからも連続する
君が恋した瞬間も これからは連続して
神様にお願いするよ この想いだけは消さないで
世界に溢れる愛とか恋とか そんなモノは過去に置き去りで
変わるきっかけを見つけられずに 今までずっと逃げていた
君と出会ったのは必然か 偶然かもしれないけど
なぜ神様に愛があることに 気づかなかったんだろう
別れを告げられなかった あの人はもうここにはいない
君に想いを告げるとき もう二度と後悔はしたくない
俺の愛する世界は 確かにここに在る
君が愛する人間が この神様だったなら
だからお願いするね この想いが伝わりますよに
神様だとか仏様だとか 信じてくれたっていいだろ
縋りつきたいからでもいいよ 信じるモノがないからでもいいよ
誰にも言えない嘘をつくなら 神様にだけは教えてよ
僕だけ絶対に許すから
もう少しで届きそうで なのに君は去ってしまう
君に想いを告げるとき もう二度と後悔はしたくない
僕が生きるこの時間は 永遠ではないけど
君と生きるこの時間は 永遠でありますように
神様にお願いするから どうか君だけは消えないで
曲が終わったのを合図に、彼がイヤホンを外した。どこか、悲しんでいるような、懐かしんでいるような、愛おしんでいるような、そんな感じがした。きっと神代を想っているのだろう。彼らは永遠に、赤い糸で結ばれている。
「いつ聴いてもいいな。で、題名はどういう意味?」
「切り替え早っ。『Aganophony』、アガペーとモノフォニーを組み合わせた、俺たちが考えた独自の単語だよ。だからなんて言えばいいかな。その二つから導き出してくれれば、それがこのタイトルの意味って感じかな」
「『Aganophony』……へぇ、なるほど。そういうのもいいね」
誰もが一つのことを導かなくたっていい。琴ちんは琴ちんなりに、俺は俺なりにこのタイトルに意味づけすれば、それでいいんだ。
「でしょ?」
俺が自慢げに言い放った言葉は、カフェらしいBGMの中に溶けていく。
一度、放たれた言葉はこの世界を生き続ける。以前ヤナギさんが言った言葉だ。もう取り消せない言葉だからこそ、今放つ言葉そのものに大きな意味がある。例えそれが嘘だとしても。
「なぁ、真島ぁ」
「ん?」
「付き合ってくんない?」
「神社に、でしょ? もう琴ちんも叔父になるのかぁ。よかったね」
琴ちんのお兄さん、千尋さんの元婚約者が新しい運命の人と結婚して今度、子どもが生まれる予定だ。可愛い女の子のように、俺は思う。
「年寄りみたいでそんな嬉しくないんだけど」
「何でよぉ。人間の誕生ほど素晴らしいものはないよ。だってさ」
机の上に置いてあるアイスコーヒーの氷が溶けて、カランと音を立てる。店の外では真夏らしく蝉たちが鳴いていているのに、不思議とうるさいとは感じない。どこかで、風鈴が鳴っているからだろうか。
俺は、ずっと運命を背負って生きていく。人間としても、神様としても。忘れたくないことも、忘れてしまうかもしれない。だから俺も、この先の今を生きる俺に向けて手紙を書こうと思う。この想いを、伝えていこう。教えていこう。それが、今の俺の目標であり、未来だ。
カランカラン。
今度は店のドアベルの音が、誰かと共にやってきた。その人は輝かしい目を、している。
俺の言葉の続きを待つ目の前の彼に、俺は微笑みを向けた。
彼らのこれからの運命は、きっといくつも変えられるだろう。神様にも、勿論自分自身でも。失った運命まで背負って、死ぬまで生きていく。なぜなら、それが運命ってものだから。
「——生まれてくる人間は皆、神様からの愛なんだから」
End/
