*
涙には温度があるらしい。
そんなの当たり前の話だけど、こんなことを聞くとやけにロマンというものを感じる。涙の温度は体温と同じなのだとか。ということは、涙に温度を与えているのは勿論体温の持ち主である自分自身である。だが、その体温を与えているのは果たして誰なのか? 神様というには非現実的すぎるだろうか。
現在の気温は二十八度。真夏の暑さは通り過ぎたものの、外に出れば未だ暑いと嘆いてしまう。遠くを見れば視界が歪んでいた。そんな世界から隔たれた教室にいる僕は、涼しいクーラーの風を受けている。視線の先は数字、休み時間の教室に馴染む様子もなく、シャーペンを滑らせて今日も数学と向き合う。
教室の左右どちらというわけでもなく、前後どちらというわけでもない今の席は、周囲から取り残されているのを強調するようで居心地がよろしくない。
スキップのような軽やかな足取りで近づく人影に気づいて、背中に力を込めた。
「よっ琴(こと)ちん。相変わらず顔死んでんなー」
「余計なお世話なんだけど」
はははは、と笑いながら僕の背中をバシバシ叩いてくるこの真島(ましま)という奴は、いつも異様な爽やかさを放っている。少女漫画に出てきてキラキラで彩られているような。ただこんな僕だからこそ、そう見えているだけなのかもしれない。
中学の頃からどうしてかよく絡んでくる真島。高校に入ってからもそれは変わらず、高三の今となってはそれなりに仲良くやっている、と思う。
「でさー思うんだけどさ。如月(きさらぎ)さんって可愛くない? なんかさーこう、クールビューティーな感じさ、またいいと思うんだよなー」
何の前触れもなく話題が飛んできて、それに同意も否定もできない僕は面白みのない返事で空気を濁らせてしまう。それを気にすることもなく話し続ける真島には感心する。
「あー、うん」
「付き合ってる奴いんのかなー」
「さあ」
「聞いてこよっ」
本当なら座ってはいけない机の上から華麗に降りると、例のクールビューティーの元へ小走りに駆けて行った。何と行動の早いことやら。たまに、ごくたまに、自分にはないその無駄な行動力が羨ましくなるときがある。無駄と言っては失礼だろうか。
教壇の真ん前から二列目の席、少し離れたところの会話に耳を傾ける。書きかけの数式が僕に解かれることを待つように、大人しく止まっていた。
「ねぇねぇ如月さん。如月さんって彼氏いるの?」
「何急に……いないけど」
「いやちょっと気になっただけー。ありがとっ」
パタパタと踵を踏んだ上靴を鳴らしてまたこっちに戻ってくる。絶妙にセットされた髪の毛が、真島の動きに合わせてぴょこぴょこと揺れた。報告とかほんとに要らないんだけど。
「いないんだって彼氏!」
「へー。良かったね」
「あわよくば俺がっ」
「あ、好きなの」
「え? 違うよ。あんな可愛い彼女いてみてよ。俺のイメージ良くない?」
バカだなーそんなことも分からないのかー、と笑顔でそんなことを言ってくる真島。クラスの全員これを聞いてドン引きすればいいのに。僕の机の前に肘をついて向けてくるその屈託のない笑顔に腹が立って僕は言葉を吐き捨てた。
「お前最低」
「え? そんなことないよ琴ちん! これは誰もが思うって」
「そんなスペック高いなら、お前にはもったいないわ。あとさっきから琴ちんとか言うな」
「冷たい琴ちんー」
両腕を僕に伸ばした真島に黙れ、と言いながら如月さんをちらりと見る。参考書を持つ彼女の左手の薬指には、赤い糸が巻きついていた。すらりとした指に巻きついて、糸電話のように伸びている赤い糸。もう見飽きたくらいに僕の知っているあの糸は、運命の赤い糸だ。
そして如月さんの赤い糸は誰かと結ばれている。その相手が運命の人だ。残念ながら……いや、当然ながら先ほど行動を起こした最低野郎、真島ではない。相手は眼鏡をかけた真面目そうな文学少年だった。何となくお似合いな二人だな、と微笑ましく思う。
「琴ちん? おーい。ダメだこれ聞いてない。ごめんねぇ委員長」
この赤い糸は、どうやら僕だけがみえており、手に触れることができない。すり抜けてしまう。それでいてしっかりと人々の指に巻きついている。
僕の視界には常に何本かの赤い糸が行き交っていて、邪魔になりそうだろうが、実はそうでもない。物心ついたときからみえるせいか、もうこれが僕の当たり前となっている。どういった理由でみえるのか、どういう原理なのかはまったく分からない。ただ分かるのは、運命的に結ばれる人々は、必ず赤い糸で結ばれているということ。これくらいだ。
おとぎ話に出てきそうなファンタジーな世界をなぜロマンの欠片もない僕に与えたのか。これが神様の仕業というなら、その神様もなかなかの変わり者だ。
「……君……方君! 天方(あまかた)君! ってば!」
「はいっ」
深刻な考え事はしていなかったはずだが、いつの間にかぼけっとしていたことに、声をかけられてからやっと気づく。目の前には気まずそうに笑っている真島と、かろうじて名前が分かる女子が立っていた。
「天方君、席替えしたい?」
「え、どっちでも」
「うわ、めんどっ」
その反応に一瞬戸惑う。かなりご立腹な様子の学級委員の、二人のうちの片方さん。僕が気づかなかったせいだろうか。それとも皆に聞いて回った結果、どっちでもという回答が多いのだろうか。僕がその立場になったらと考えると、申し訳なさが倍増した。
「じゃあ、する方で」
「はいよ」
疲れた様子で、次は後ろの席の人に同じ質問をしていた。いかにも大変そうだ。真島は中腰の姿勢で僕に笑いかける。なぜいつも、こんなに楽しそうなのだろうか。
「今度は近くなるといいね、琴ちん」
「誰と誰が?」
「勿論、琴ちんと俺だよ」
「うるさいから嫌だ」
「酷いっ」
これで席替えしたいという回答が多ければ、席替えを行うのだろう。担任がそういうイベント的なことに疎くて、生徒から声を挙げなければ気にも留めない。それはそれは緩く、四六時中ダルそうにしている先生である。
僕はクラスで目立つ方じゃないし、ましてや誰かと喋るのも珍しいくらいだ。まぁ、だからといっていじめられる方でも、変にからかわれる方でもない。僕に話しかけるのは、どこかがひん曲がっているだろう真島くらいだ。
チャイムが鳴る。ガタガタとうるさく椅子を引きながら少しずつ人が座っていく。真島もキラリと光る銀色のピアスの残像を残して去って行った。その足取りは軽い。
クラスの人たちが自分に与えられた席に座り、一見整っていそうな教室。まだ残るこの暑さのせいか、部活のカバンが無造作に床に置かれているとか、斜めになった机を見ると無性に心がざわつく。
帰りのホームルームで連絡事項がない場合、あの担任は授業後の教室にすぐに入ってくる。授業が長引くとドア付近で存在を主張して、授業をしている先生に早急な終了を促す。先生、他の先生と上手くやれているんだろうか。
「席つけー。あ、ついてた。いない奴いるかーいないな」
はい終わり気ぃつけて帰れよー、と教室から出ていこうとする先生。片手をひらひらさせて眠そうに欠伸をした。滞在時間はおよそ十秒。どんだけテキトーなんだあの教師は。
すると、学級委員の二人が廊下に出た先生を小走りに追いかける。面倒臭そうに頭を掻きながら先生がうんうんと頷いているのが半分すりガラスの窓から窺えた。学級委員らが戻ってくる。
「席替え決定ー。くじ引いて」
バラバラと席を立ちながら次々とくじを引いている。残り物じゃダメかな。列の最後尾についてくじを引くのも面倒臭いんだけど。椅子だけ引いたまま立たずにいると、早い段階でくじ引きしたのか、真島が列から離脱していた。
「ほい、くじ。琴ちんの分」
「お、サンキュ」
真島がわざわざ僕の分まで取りに行ってくださるとはまさに感激ー。真島はこうした小さな気遣いのようなものを平気でしてくる。その積み重ねの借りを、僕は返せていない。いつか返せ、だなんて思ってもいないんだろう。この男はきっと。
「移動してー。早くね」
何だかよく分からない学級委員の威圧感を、僕だけでなく皆も感じ取ったのだろう。それからガタガタギーギー動かして、さっさと移動を終えてしまった。
「おー! 後ろの席のいっちゃん端とかラッキー!」
盛大な喜びの声が聞こえて、思わず隣に座っていた声の主を見る。
「んんんんんんん?」
誰が見ても明るいとイメージづけられるだろう女子。高三で初めて同じクラスになり、恐らく彼女の存在が僕の記憶にインプットされたのはこれが初めてだろう。なんだが。
「あああ……い……と」
赤い糸。その言葉の断片が変な風に零れてしまった。そう。簡潔に言うと僕は驚いた。なぜなら、彼女の周囲から無数の赤い糸……運命の赤い糸が飛び出していたからだ。伸びている、と表現した方が正しいのかもしれない。彼女の手の周囲をまるで髪の毛のように漂っている赤い糸。行き先は辿れば分かるのかもしれないが、何せ量が多すぎて辿るよりも先に目がイカれてしまう。
挙動不審な僕を不思議そうに見てくる彼女の視線から逃げるように前を向いた。おかしい。
「よろしくね。天方琴君!」
「あ……あぁ。よろしく」
視線から逃れたと安心する間もなく、隣の彼女は僕の名をがっちりと掴むような勢いで呼んだ。フルネームで挨拶とか何気に怖くない?とか思いながら、僕の頭の中は、漂う赤い糸のことばかりだった。同じクラスにいたはずだが、大量の赤い糸の存在に気がつかなかった。
「いやー、まだまだ暑いねぇ」
「……」
「天方君! 暑いね!」
「あ、僕? そうだね」
え? 今のって僕が反応しなきゃいけないところなのか? この状況が怖いだけに素早く帰り支度をしていたが、赤い糸の使い手に話しかけられて動きが停止する。僕が急いでいることなど眼中にもないという雰囲気で、彼女専用の時計に僕を巻き込んでいく。
「私の名前とか知ってるーよね?」
「あ、痛いとこついてくるな」
「声に出てるよ?」
「あ、ごめん。ついうっかり」
「やっぱりねー。知らなさそうだもん」
無駄に他人と話している感じがして、彼女には申し訳ないが妙に心地が悪い。真島ともこんな会話はしないだろうに、女子ってこういうもんなのか? それとも彼女がこういうもんなのか。
「私は神代(かみしろ)柳(や)縁(え)。君は天方琴。おぉー」
「……何?」
「よっ天方! もう俺ら友達だな!」
「え」
「いやー、男子ってこんなノリなのかなーって」
「そんな変なノリじゃないよ。男子は」
「今さらっと酷いこと言ったよ!?」
何だろう、この人。神代って言ったっけ。不思議っていうよりなんかこう、もうちょっとしっくりくる形容詞があると思うんだけどな。それが何かまだよく分かんないんだよな。
「何かごめん」
「何かは余計だけど全然いいよ。許してあげる」
「おぉ」
そこから神代が前の席の女子に話しかけられ、会話は途切れた。が、僕は学校からの帰り道で神代の赤い糸について考えていた。本人に聞こうか聞かまいか。即行動派の真島なら選択肢は秒で決まるのだろうが、僕はあいにく天方で真島じゃない。これはよく考える必要がある。
もし仮に神代に聞いたとしよう。これで本人に心当たりがなかったら? うわ、僕めっちゃ頭お花畑みたいじゃん。運命の赤い糸、操ってたりする? もしかしてみえたりする?って。いかにもファンタジーの世界好きです、だろ。絶対引くだろ、いくらあんなに天使爛漫で素直そうな人でも。映画……おとぎ話の見すぎじゃない?と苦笑いで言われるのがいいとこだ。しばらくは様子見ということでこの案は可決致しました。
朝のホームルームが覇気のない担任の声で始まった。先生が低い声でしぶしぶ連絡事項を伝えているという中で、それを真剣に聞いている人の方が珍しいのかもしれないが、ある程度静かにしている僕は、隣から小さな声で話しかけられ続けるという非日常的なことに少々戸惑う。
要約すると、隣がうるさい。
「でねでね、人間って涙があるでしょ? 左右どちらの目から流れるかによって、そのときの感情がどんな感情か分かるんだって! 面白くない?」
余裕で一人が通れるだけは空いているはずの机同士の間が、少し身体をコンパクトにしなければ通行不可となっている、神代―天方間。神代は全力で右を向き、先生を眺め続ける僕にめげずに意見し続けている。どちらの目から涙が流れてもそのときに泣きたい気持ちになったことに変わりはないのだから、その他の情報とかいらなくないか? そんなことを思いつつ、できるだけ小さな声で返事をした。
「あ、うん。面白いね」
「え、どっちから流れたらどういう感情なのか知りたくないの!?」
「あ、いや別……知りたいです。もうそれは切実に」
「では教えてあげよう! 右目から流れたら嬉し涙、左目から流れたら悲し涙らしいよ!」
「へぇ。それは何、心理学的に証明されてるやつ?」
「天方君って原理とか理論とか求めちゃう人?」
「あ、いや、ただ気になっただけというか」
「んーでも、理論立てて考えたい人ではありそうだけど、どうかな!」
「まぁ。そうかも」
頑なに顔は正面を向けたまま、会話のラリーは続ける。どうかな!とか言われても、自分を全部把握してるわけじゃないし、分からないことの方が多いかもしれない。むしろ日常から自分について考えるとか、自分好きすぎかよ。
ふと横目で神代を見ると、神代は決め台詞のようにシャーペンを目の間に突き出して言った。
「取りあえず人間の涙は美しい! ね?」
「……おぉ」
涙が美しいとかロマン家かよ。
神代が誇らし気な顔をしているのを見て思い至る。あのとき不思議な感じとは若干違うと言ったイメージ、それが話していくうちに鮮明になった。神代は、変わり者だ。それも結構深刻な。
変人だということは一般人とは異なる。僕は次の一秒後に思いがけないことを口にしていた。
「あの。神代」
「何かな?」
「あ、赤い糸みえる? というかなんか、操ってたりする?」
「……」
「あ、何でもない。ごめん忘れて」
変人だと分かった瞬間に気が緩んでしまったからか、それとも妙な親近感を感じたからか。しばらく経過観察しようと、つい先ほど可決したばかりだったのに。これやったわ完全に。
「赤い糸のこと? え? 皆みえるよ?」
沈黙の後にしては拍子抜けする返事とその内容に、僕の頭上に?が浮かんだ。皆みえるよって何だ。そんなはずはない。僕がおかしいのか、彼女がおかしいのか、もはや何を言わんとしているのかもよく分からない。
「え、その糸が?」
「うん。え? 自分だけだと思ってた?」
「何で誰も何も言わないんだよ」
皆がみえるのなら真島のように、付き合ってる奴いる?とか聞く人なんていなくなるはずだ。それに、赤い糸について世間で何も議論されないはずがないじゃないか。
「聞くまでもないからだよ」
「は?」
「なーんてね。びっくりして嘘ついちゃった」
「何言ってるのか、ますます分かんないんだけど」
「うん。みえる。そして君の言う操ってるってのも私。この糸がみえるのは君が初めてだよ」
「何やってんのそれ」
「私が誰か聞きたいって?」
「いや……まぁいいや。そう、聞きたいです」
「私はね。うふふふふふふ」
「何だよ」
「いやちょっと初めてだもんで」
すごい溜めるじゃんこの人。と思ったのは果たして僕だけだろうか。あとどれくらい不気味な笑みを聞けば教えてくれるのだろう。僕はと言うと興味なさげに相槌を打つ。
「へー」
「ゔっゔん。ではでは」
どこかでシャープペンシルが落ちた音がした。まだ続いている先生のダルそうな声が教室の隅々まで聞こえていそうなほど、一瞬信じられないほど、静かになった気がする。
「私はね……」
「はい、終わるぞー号令ー」
起立ー、という声で皆がバラバラに立ち上がろうとする。タイミングの悪さから眉間にしわが寄る。何かに吸い込まれていった教室の音たちが再びもぞもぞ動き始め、椅子特有の音が床を振動させた。そしてまた、神代があらゆる音を吸い込んでしまった。ようだった。
神代を見ると、奇妙なほどに笑っている。
「神様なの」
*
僕の日常はつまらない。
生きがいなんてこの歳で見つかるわけないし、生きる意味を必死に探してもそう簡単に見つかるはずもない。まだ生きてせいぜい十数年なわけだし、むしろ分かってたまるか。それでも喉は渇くし、お腹は空くし、眠くはなるし。生活していれば当然の基本的な欲求はほぼ毎日、やはり絶え間なくおとずれる。
僕よりこの世で生きている方が良い人は多分何千人、いや何万人といると思う。でもその人の代わりに死ぬなんてこと当たり前だけどできなければ、誰かのドナーになることも、僕の中ではできやしないと思っている。毎日を何となく過ごして、目の前のことに奮闘していればある程度は生きていける。将来の夢なんてこんな毎日の僕に見つかるわけもなく、何となく勉強している。それはまさに僕だ。
父親からはとうに見放されているし、母親ももうこの世にはいない。だからつまり、僕の家は父子家庭であり父は厳しいと、そういうわけである。兄が一人、現在社会人で婚約者がいるらしい。兄は一人暮らしのためどんな生活を送っているのかはよく分からない。大して仲も良くないからか、日常的にやり取りすることはまったくと言っていいほどない。兄は父の顔色ばかり窺っている。そして僕は父親からの信頼、期待とやらを既に失っている。漫画とかによくある、友人の深刻な家庭事情とかにありそうだ。と、まるで他人事のように時々思う。
僕の性格の問題なのか、不愛想な人柄からなのか、それとも単に平凡だからなのか。父親は僕の存在を良くも悪くも思っていないだろう。元々、興味関心がないタイプなのかもしれない。
まぁ僕、真面目ではあるけど勉強に面白みをまだ、感じていないだけだから。学校ではいたって普通、たまに変わり者扱いされることはあるが。これでも冗談はそれなりに通じる。と、そのように自負しているのだが。
「神様なの」
現在のこの状況を誰か冗談だと言ってくれ。神代の言ったことが冗談だと。でなければ僕は、一体どう反応するのが正解なのか、これまで解いてきた難問をもってしても分からない。
朝のホームルームが終わると、穏やかな騒めきが教室を満たす。起立したままの僕は、神代の言ったことに囚われて身動きが取れない。神代は軽々と着席し、なぜか得意げな顔で僕を見上げている。
言っていることをまず言葉として認識する。『私はね、神様なの』。
そしてその言葉の意味を考える。『神代は神様だということ』。
さらに真実を突き詰めていく。『 』。
案の定、空白ができる。神代の言っている意味までは分かる。だがしかし、困ったことに意味を認識するまでには至っていない。正直に申し上げよう。
「は? 全っ然、理解できない」
「理解するも何も! 神代柳縁は神様だ。そのままどうぞ」
「何がどうぞだよ。そういう冗談ほんといいから」
「こんな冗談面白くないよー。私なら魔女とかにするかな」
「いや知らないけど。……でもさ」
「ノンノン。でも、だって、だがしかし、は受け付けないよ」
だがしかし、というアイテムまで取り上げられてしまうとは。僕から徹底的に否定形の言葉を奪い取ろうとしているようだ。この神代という人間、いや神様は。
神代が机の横にぶら下げたカバンから何かを出そうとゴソゴソしている。一時間目は移動教室のためか、教室にいる人も段々と少なくなっていく。真島の姿はないが、机上には筆箱が残されている。また朝から自販機行ったのか、あいつは。
「これを見ればっ! どう? 信じられる?」
「何これ」
一冊の、かなり使い込んだようなノートを手渡される。神代の雰囲気に合わずシンプルな白一色のノートの表紙をマジマジと見る。少し緊張気味に一ページ目を開いた。
『名取美里 → 香川緑 三年後 四人家族・妹二人・長女』
人の名前と何かの年数と、何これ一番上に書いてある人の家族構成? 個人情報じゃね? もしかしてストーカー?
「言っとくけどストーカーとかじゃないからね!」
「あ、ごめん」
「思ってたんだねー?」
「うん。っであのさ」
うんってマジか天方君!と楽しそうにケラケラ笑っている。誰かががこんな風に笑っているのを見るのは随分と久しぶりかもしれない。新種の生物に遭遇した感覚があった。
教室にはもう数えられるほどの人しか残っていない。ゆっくりと廊下から戻ってきて教科書をまとめる人と、他のクラスから教科書を借りて急いで教室を出る人と、友達に置いて行かれたのか、少し腹を立てて出発する人と。
黒板の上にかかっている時計に目をやり、ゆっくりと次の時間の教科を思い出した。渡されたノートを静かに神代の机に置いた。各自専用の棚のもとへ近づき、目当ての教科書とノートに手を伸ばす。そこでふと、思い至る。
「思ったんだけど、そういうのって他言していいもんなの」
「えっ………………ダメか」
「え」
「え」
「何か罰とか下らないよな?」
まだ自分の席に座っている神代を見ると、彼女は次の準備をする素振りも見せずに机を指でなぞった。暇つぶしのように。
「んー、下るとしても私かな」
「呑気だな」
「いやー。前例ないもんなぁ。神様の赤い糸がみえるなんて」
「へぇ」
分かっていはいたけど、僕はかなり珍しい者というわけだ。といってもこれは、神代が神様ということを前提に、そして僕に赤い糸がみえることを神代が信じているということを前提に、現在話が繰り広げられていることになる。こんなに簡単に信じてしまっていいのだろうか。お互いに。いや、これで嘘だったら神代はそれなりのストーカー行為をしていることになって、結構なヤバい奴になってしまう。それはそれで非常に困る。
「赤い糸がみえるなら、君には他人の運命がみえるってわけか」
「いや運命っていうか。誰が誰を好きとか、そんな心の中までは分かんないよ」
「まぁまぁまぁ、そこら辺からは私たちの仕事だからねぇ。色々人間関係とか考えながら決めるんだよ。運命ってのは」
誰が誰を好きとかは分かる、ということは。そして赤い糸の行方を決定する、ということは。
「ってことはさ、神代は神様の中でも縁結びの神様ってこと?」
「んーそうだね。んーまぁそんなとこ。強いていうなら縁結び的な! 的な神様」
「いや、的なっていらなくない?」
「ノンノン。お主、まだまだ甘いなぁ。全然いらなくないよ! 縁結びだけが仕事じゃないの。人間の運命を決めなきゃならないから」
「運命?」
何を話すにしても明るい神代から発せられる言葉に、事の重大さを感じられない。呑気な彼女を見ていると、まるでそのなぞった指先の延長線上に、誰かの運命を躍らせているように思えてしまう。
「そうっあ! そーだそーだ。今日河合(かわい)さんに接触しなきゃなんだった!」
「は?」
「縁結び的な! お仕事だよ。情報の全部を神様の力で何とかするにも無理があるからね。ほら、当事者の気持ちとか感情とか雰囲気とか。だから自分の足で何とかしなきゃ! 現場百回! 今日の放課後も接触する予定だけど!」
もう行っちゃったよね河合さんー!と言うと、神代は例のノートだけを手に、慌てて教室をあとにした。河合さんでも追いかけるつもりなのだろうか。そして取り残される、僕。
「あれれ、琴ちんまだ行ってなかったの? 授業遅れるよ?」
「誰が言ってんだよ、真島」
授業の開始に時間が定められていること知らないかのように、まるで何も気にせずにふらりと帰ってきた真島。待っててくれて嬉しいよっと、二本抱えたジュースのうち一本を僕の席の机上に差し出す。移動の準備を終えた僕は、真島を見て力が抜けたのか、素直に受け取った。
教室の電気を消すとき、一番後ろの神代の席が目に入った。筆箱も教室に置いたままだ。
僕自身、神様の仕事などまったくもって理解できないはずなのに、どこかでその存在と仕事を認めてしまっている部分があるのかもしれない。接触とか、当事者とか、現場とか。それなりに仕事してるんだな、と思った。神様って何でもかんでもちょちょいと決めてしまうイメージしかなかったからか、神代みたいに奮闘している姿を見ると意外に思う。妙なほど彼女に感心している自分がいた。
といってもまぁ気になるものじゃないか、普通はさ。僕も一応、好奇心がまだ健在な人間なんだから。少しくらい赤い糸について知る権利はある思うんだ。例えばその原理とか、それを操る神様の仕事内容とか。
というわけで、神様である神代を観察することにした。つきましては、河合さんと接触する神代の言動を把握することにした。決してストーカー行為などではないということを理解してほしい。
放課後、真夏に比べると少し辺りが暗くなるのが早くなった気がする。部活動に励む高校生の掛け声で、何だか自分はもう高校生ではないような錯覚に陥ってしまう。部活、取りあえずでも何か入っておけば良かったな、と思ってもとき既に遅し。仕方がないから今までの思い出の断片と、残りの日々が何かしら変わるかもしれないという希望的観測だけで、青春を一生懸命謳歌させるとしよう。
校舎と別校舎を繋ぐ渡り廊下に太陽の光が反射する。各階に設置されている渡り廊下。ここ二階は特に人通りが少ない。というのも、二階の別校舎には生徒会室と備品が置かれている教室しかないからだ。
その渡り廊下には、背丈の差がさほどない女子二人の影が落ちていた。何やら話し声が聞こえる。渡り廊下を渡る前の踊り場のような空間に身を潜めた僕は、二人の会話を聞いた。
河合さんの声が静かに響く。その声に応じる神代。
「でも悠斗(ゆうと)は石田(いしだ)さんが好きだよ」
「河合さんは悠斗君が好きなんでしょ? 告白するのってそれだけが理由じゃダメなの?」
どうやら神代は河合さんとの接触に無事成功したらしかった。穏便に話を持っていくことはできるのだろうか。というか神代の目的は何だ? 情報が何とかって言っていたが、最終的なゴールは果たしてどこなのだろう。神代の狙いはさっぱり分からない。
渡り廊下の窓から差し込む太陽を背に、二人は窓枠に身体を預けていた。
「ダメじゃ、ないのかな? でもフラれるって分かってるのに告白なんてできないよ」
「そう、だよね」
神代は僕の知らない切なそうな表情をして俯いた。自分の影を見つめて、何かを考えているようにも見えた。河合さんの目には、どこか諦めが見える。
僕は神代に一票。好きなら好きで何も悪くないし、それを伝えちゃいけないなんてことあるはずがない。自分で置き換えて考える事は当然のことながら無理だが、それくらいなら分かる。
しばらくの沈黙。その間に窓の外では木々が風に揺れ、校外の道路に何台かの車が通った。
「そろそろ時間だね、生徒会の仕事。また何かあったらいつでも話聞くから!」
「ありがとう。じゃあね、神代さん」
お互いに手を振り合って会話は終了した。河合さんは別校舎に生徒会の用事があるのか、暗い別校舎の方へと歩いて行った。やがて、姿は見えなくなる。
神代は、河合さんがいなくなってもまだ渡り廊下に立っていた。いつしか夕陽に変わった光に背を向ける神代。それから窓をカラカラと開けて窓枠に身体を乗せる。窓が全開なのもお構いなしに身体を風に任せている感じだ。
怖くないんだろうか。死に対する恐怖がないんだろうか。そもそも神様って死ぬんだろうか。神様って何だ? なんでこの世の女子高校生として仕事してんだ? もしかして妖精みたいに実際は何百歳とか? それは怖いからやめてほしいかも。
神代は相変わらず黄昏ている。いつもこんなことをしているのだろうか。あれ、今自分のしていることは神様である神代の観察ではなく、ただの神代の観察になっているのではなかろうか。僕は何をしているんだ。河合さんとの会話が終わった時点でさっさと帰ればいいのに。
「やっぱりね。思うんだけど、盗み聞きは良くないよ? 天方君」
彼女の視線は真っ直ぐ前を見たまま、言葉だけが僕に向けられた。いつから知っていたのだろう。僕って影薄いからバレないかと思っていたのに。まぁもしバレたら、までは考えていなかったけど。僕、楽観的主義者だから。
しゃがみ込んでいた姿勢から立ち上がって、踊り場から歩みを進める。そして、渡り廊下の真ん中にいる神代の前で立ち止まった。神代は自分の影と僕の影を見ている。
「盗み聞きなんてしてないよ。渡り廊下渡ろうと思ったら二人が話してたから」
「様子を窺ってたってわけね」
「そうそう。じゃ僕はこれで失礼するよ。別校舎にいる先生に用があってね」
そう言って軽く手を上げると、早歩きでその場から離れようとする。が、神代が何も言わないわけもなく、呼び止められる。きっぱりとした物言いだった。
「別校舎には、先生誰もいないよ」
「君はそんなことまで分かるんだね」
「まさか。さっき別校舎にいる先生に用があってね」
誰かさんの言い方を真似して少々面白がっている様子。だが、朝や昼間などとは少し違ってテンションが低い気がした。別人とまではいかないが、それなりに雰囲気は違っていた。
冷たいような冷たくないような、温度がないように思える風が全開の窓から吹いてきた。無意識にかいていた僕の汗を乾かしていくようだ。
「あ、そう」
「神様がどんなことするか知りたいんでしょ?」
「……まぁ」
「今の会話のほとんどをを見ていたわけだし大体のことは分かるよね? 今、河合さんがどういう状況なのか」
「分かる……ような分からないような」
「どっちなのそれ……じゃ、分かると踏んだ」
「おう?」
「河合さんは悠斗君が好きで、悠斗君は石田さんが好きらしいから、自分が告白してもフラれると思っているのが河合さん。河合さんと悠斗君は幼馴染で、悠斗君は結構前から河合さんのことが好きみたいだけど、河合さんは気づいてないの。二人とも自分の気持ちの重要性を分かってない。そして石田さんは悠斗君のことが好きみたい。ざっとこんな感じ」
「素晴らしいくらい綺麗な三角関係ってことか」
「第一声がそれか……というわけでつまり、今の話とか二人が成長するためのことも踏まえて運命を私が決めると、そういうことですわ」
「へぇ。ってかさっきから思ってたんだけど口調どしたの?」
「あぁ……ちょっと口が滑ってね」
「めっちゃキャラ違くない?」
神代の目が大きく、カッと開いた。すごい目力に、目の前に立っていた僕は思わず後ろにのけぞってしまった。神代の声が一段、高くなる。
「そんなに違う!? 出会ったばかりの君にも分かるほど!?」
「あ、戻った。けど出会ったばかりではないね? 今一応九月だからね?」
「分かってるってー。いやぁ、ちょっとショックかなぁ。そんなに違うかぁ」
僕の感じるいつもの神代に戻って心なしか安心する。神代は意外にもギャップある系の女子らしい。これまであまり女子とは関わっていなかったから想像はついていなかったけど、いざ見るとなぁ。
「見たくはなかったよなぁ」
「ん? 今なんて天方君?」
「なんでもありませんすみません。それより、その運命についてはもう決めたの?」
また気分を害してキャラ変されても困るので、無理やり話を元に戻す。彼女は無自覚らしいが、醸し出される妙な圧が怖いんだよな。
神代は真っ直ぐな視線で僕を見た。その視線に刺されるような気がして、一歩下がった。
「あぁ。これから考えるつもりではあるけど。ほぼほぼ見当はついたってとこかな」
「そう」
「何何ー? もしかして知りたかったとか?」
今度はからかうような目で見てくる神代。今にも僕を笑い倒しそうな雰囲気だ。
「全然。しかもどうせ神代が決めたら赤い糸でみえるし。ってかそもそも僕、他人の恋愛事情とか興味ないからほんとに」
「そっかそっか。んなら数日後に天方君は分かるんだね」
夕陽が落ちきってしまうまで残りわずかの時間だった。半分くらい出ている夕陽を僕はただ何となく見ていた。神代の体制はずっと変わらない。ふとした瞬間にひっくり返りでもして、二階からも、ここからも消えてしまいそうで怖くなる。
「じゃ。僕帰るよ」
「あれ? 別校舎にいる先生への用は? 先生一緒に探してあげようか」
まだ言ってんのかそれ。分かりきっているはずの嘘をあえてここで引き出そうとするとは、神代はなかなかイイ性格をしているようだ。満面のニヤリ顔で僕を見る神代には完敗だ。
「そんなの嘘に決まってんだろ」
「え!? そうだったの!?」
「何だよその初めて知りましたよ感。ただ嘘だって言わせたかっただけでしょ」
驚きを作っている顔からニヤリとした顔になる。本当に表情のよく変わる奴だ。
「あは。バレた? まっいいや帰ろ帰ろー!」
背中をバシバシと叩かれながら夕陽の光もほぼ残っていない薄暗い渡り廊下の真ん中を、来た方へと引き返して歩く。背にはジンジンとした痛みが背負わされている。
「力強いな……」
僕は結局、神様の仕事の内訳を知ったことになるのだろうか。僕は一体何をしに来たんだ、とも思いながら先を歩く神代を見た。楽しそうな、悲しそうな、嬉しそうな、ちっこい背中はこの黄昏時に溶けてしまいそうだった。彼女の存在が、やけに儚いもののように思えた。
*
数日後の朝。
河合さんの左手の薬指に赤い糸は現れなかった。想定と違うな、と思った。なぜなら数日前に神代と話していたのは河合さんだったからだ。でも、代わりに悠斗と赤い糸で結ばれていたのは石田さんだった。どういうわけか、そうなっていた。
石田さんが悠斗のところへ近寄って何かを言っている。二人はカップルのように笑っていた。周りが初々しいカップルを冷かしている。既に告白をして交際を始めたようだった。
他の友達と話しながら悠斗たちの方を見る河合さんの姿があった。全然泣いてなかったし、悲しいはずが、その雰囲気も全然分からなかった。僕には頑張って隠しているように、逃げているように見えた。何かを取り繕っていることが分かるからか、失恋という言葉がしっくりくる顔だと思った。明日にでも髪をバサッと切ってくるのだろうか、とありがちなことを考えてみる。
欠伸をしながら呑気そうに教室に入ってくる神代。神代はどんな考えがあって河合さんの失恋を決めたのだろう。確か、二人の自分の気持ちの重要性とか言ってたっけ。
荷物を置いて席に座った神代は、まるで休日が始まったかのような伸びをしている。
「神代。あのさ」
「あーおはよー。天方君から声かけてくるなんて珍しいねぇ」
「そんなことよりどういうことだよ? あの二人を結ばせるなんて」
眠たそうな顔から一変し、キリっとした表情になる。神代にとって神様の仕事は、この世で一番大切なものなのかもしれない。まぁ神様にとって大切というのなら分からなくはないけど。
「やっぱり、人間って愚かだから」
「だから何だよ」
「だから、愚かさを自覚して前に進むべきだと思うの。たまには後ろを振り向いて、過去の自分と向き合わなきゃならない。そのための道標って必要だと思わない?」
何を言っているのかよく分からないが、バカな人間はたまに反省でもして生きとけよ、とそんなところだろうか。神代の目は、かなり真剣で現実ではない場所に目を向けているようだ。
「んー、それが今回の事とどう関係があるんだよ」
「彼女、彼らは自分の気持ちの重要さに気づいていない。ゆえに人間の恋愛というものに踏み込もうとしていないことに等しい。まだロマンが足りないってことさ。彼らには」
遠くを見据えたようにして名言を吐いた神代は、もう満足したのかまた急な接客スマイルになってこう言った。
「人生の愛と呼ぶにはまだ早かった。と、そういうことだよ」
それから年齢的にも精神的にもね、と付け加えた。本当にそんなことを考えているのかは分からない。本当に神代が決めたことなのかも正確には分からない。僕が信じさえしなければ恐らく、証明だってしようともしないはずだ。
「今日、また河合さんと話すことにしてるの。あの渡り廊下でね」
「あ、そう」
どうせ来るんでしょ、とでも言いたげにこちらを見てくる。あぁ、そりゃ勿論行きますとも。そう神代に目で訴えた。神代の考えが全く理解できない今、深いことを話すのはできるだけ避けたいと思った。神代が別人に見えでもしたら嫌なような気がした。本当に神様なんじゃないかって、そう思ってしまうのは。
どんよりとした雨雲が、青い空を隠す。午後には雨が降り出しそうだった。
「あ、傘忘れた」
今朝の天気予報の記号が突然思い出されて、僕は慌てた。神代はきっと放課後に河合さんと話すだろうに。それまでに雨は降っているだろうか。降っているだろうな。
ずぶ濡れになる覚悟をして変に意気込んだら、頭を前後に振りすぎて机にぶつけた。机が僕を嘲笑う。痛い。
今日学校にでも泊まろうかな。
こんな視界も遮られるほどのザーザー降りの中を濡れながら走って帰るのも嫌だし、カバンを頭にのせながらキャー冷たーい、なんて言ってもただ単純にキモいだけだ。どうせなら濡れない方がいい。いやどうせも何も、僕は濡れたくないんだ。
「ね? 意味なかったんだよ。でも良かったよ。これで私が一番、好きな人の幸せを願ってることになるでしょ?」
雨の音に混じって切なく声が零れた。渡り廊下が、夕陽に照らされているときと比べ物にならないほど冷酷に見える。雨のせいかもしれないし、厚い雲で陽が見えないせいかもしれない。
冷たい廊下に座り込んで壁にもたれかかっている河合さんと、その前でしゃがみ込む神代。
「河合さん。悠斗君は河合さんのこと好きだったよ」
「そう、妹みたいにね。それは知ってる」
神代が首を振ったように、一瞬だけ見えてしまった。数日前、神代は悠斗が石田さんを好きだと思い込んでるのが河合さんだと言っていた。それはつまり、悠斗も河合さんのことが、本当は好きだったということなのだろうか。それを自覚していない人間は愚かなもので、見直すべきだと、そういうことなのかもしれない。神代は呟くように言う。
「人の心は、いつか変わってしまうんだよ」
河合さんはそれから何も言わず、不思議そうに神代を見ていた。
「大丈夫。全部、なるようになってるんだから」
じゃあね、と神代が言うとその場を離れようとする。河合さんは笑顔で神代を呼び止めた。
「神代さん! ありがとう。でもね、ほんとに良かったと思ってる。私の気持ちを知られなくて良かったし、家族みたいな存在で良かった。私は恋なんてしてなかったのかもしれない」
立ち上がって歩き始めようとしたのを止めた神代は、同じように立ち上がった河合さんの肩にそっと手の平を乗せた。
「好きな人の幸せを願うのは当然だよ。恋してなかったなんて言わないで? 否定したら、あなたの、誰かを想って幸せを願う気持ちまで嘘になるでしょ。しちゃいけなかった恋なんて、どこにも、ひとつもないんだよ」
神代らしい言葉が降っていた。
神代の手から離れた河合さん。崩れるようにぺたんと地面に吸い込まれた彼女を追うように、神代は優しい手つきで河合さんの背中を撫でた。河合さんが少しずつ、小さく、嗚咽を零し始める。
「私、好きだったのに」
「うん」
「誰にもとられたくなかった」
「うん」
「まだ、好きでいいかな」
「うん、いいんだよ。その気持ちは河合さんだけのものだから」
薄暗くなった廊下に、泣き声と雨の音だけが響いていた。
僕はこの後、神代と話す気にもなれなかった。二人の女子をその場に残して昇降口へ向かった。靴を履き替えて視線を上げると、視界を埋め尽くすほど雨が降りしきっていてうんざりする。
雨の中へ飛び込んだ。
いざその場に行くと楽しくて楽しくて仕方がなくなった。だから僕は歩いて帰ることにした。ゆっくり、のんびり。雨に打たれながら。多分行き交う車の運転者には変人、不審者扱いされるだろうが、通報されないなら別に何だっていい。そんなことを思いながら三十分歩いた。
普通に走って帰れば良かったと、ビショビショになった玄関を見てそう思った。
*
「なぁ。本当に神代が決めた運命なのか?」
翌日の何の変哲もない休み時間。僕は神代にそんなことを尋ねていた。神代は、昨日のことを気にしているようには見えなかったが、心なしか顔色が悪そうに見える。
神代はいつもの笑みではない、真剣な眼差しで僕を見てきた。恐怖というものを、実感した。神代が怒っていたわけでも、不機嫌だったわけでも、ましてや昨日僕が先に帰ったことへの不満をもっているようにも到底思えない。でもなぜか彼女の、嫌になるほど真っ直ぐで真剣な表情に怖さを感じた。自分でもわけが分からなくなりそうだった。
「そうだよ、私が決めた。運命だよ」
グッと何かが突き刺さった感覚がした。どこに、なのかはよく分からない。
なぜに神代はそんな運命を決めたのか? 分かりそうで、届きそうで、結局何も分かっていないし、手すらも伸ばせていない。
前の授業の教科書とノートを開いたまま、僕は片付けることもせずに神代を見ていた。身体ごとを向けるにはまだ、僕の中の何かが足りないような気がして。
「何でだ?」
彼女はふっと笑った。どこか、おとぎ話にでも出てきそうな魔女みたいな笑顔だった。内心、何を思っているのか。彼女の一パーセントも理解することはできない気がした。人間って驚くほど無能だ。
「だから言ったじゃない? 彼らには自分の気持ちに責任をもってもらわないといけない。その人の気持ちはその人だけの気持ちなの。私のものでも、神様のものでもない」
周囲を少しだけ見渡し、僕だけが神代に注目していることを確認してから小声になる。ひそひそ話と言うには少し可愛いがすぎる。そんな可愛らしいものではない。
「悠斗君と石田さんは来年には別れる。一年もつかも正直分からないけど。それで河合さんと悠斗君は大学で再会。それから彼らは結ばれる。つまり、運命は今の状況から変わるの」
神代がそんな面倒臭い運命を決めているとはまったく思っていなかった。
今の状況と違うどころか、真反対じゃん。変わるって、河合さんの大逆転勝利! ヒュー! おめでとう! じゃん。まぁ恋愛について勝敗を分けていいのかは、よく分からないけど。恐らく勝ち負けの問題ではないことも、分かるのだけど。
「なんでそんな遠回りするんだよ」
遠い未来だった。神代が見ているのは、その遠い遠い未来で決して今ではない。そんな目をしている彼女に、僕は果たして見えているのだろうか。まだ僕たちが考えもしないようなことを、しかも他人の運命を、覗き見てしまったようで少し喉が詰まるような思いがした。
神代は、神様の仕事について、いや人間の感情と運命について話すとき、必ず遠くを見るように微笑む。優しい母親の、子供をなだめる母親の、まるでそんな目をして。
風が少し冷たかった。昨日の土砂降りで誕生した水溜りが風を受けて身震いする。光が反射して、青色だけをそこに残していく。窓の外に広がる景色を想像して、秋の気配を感じた。
「それが、運命ってものだから」
だから、運命って何なんだよ。
変人である神代は、人間の運命を決める仕事をしている。実は神様だけど、あくまでこの世では人間。神様と言っていた方が、彼女には合ってると思うけどな。
人の縁を繋ぐのも神様、失恋する運命を決めるのも神様。涙がつきものの運命の仕事は残酷なことかもしれないと、冷たく微笑む彼女を見てそう思った。
その涙を僕が見たのは、放課後の屋上への階段だった。
僕がたまたま屋上に用があって、というのは冗談で。ただの気分転換のため階段を上りかけたとき、いつもは感じない違和感を覚えた。人がいるという気配のようなものを、感じた。僕にしては珍しいことで、普段ならまず気に留めたりしないし、気配というものに気づいたとしても変に気を使ったりしない。でも何か普通の気配とは少し違った。
それは多分彼女が神様だからだろう。
「は」
思わず零れた無声音を、手で押さえる。というのも僕は神様の涙を初めて見たから。それも違うわけじゃないが。
神代も泣くんだ。信じられなかったのだ。一応ここでは人間なわけだし、そりゃ涙が流れることもあるんだろうけど。けど。例えば、通学途中で人の少ないバスの中で外を眺めながら涙が流れて、自分であれ?となるとか。何かの拍子に泣いてることに気づくとか、そんな感じに泣くのかと思っていた。
屋上への扉に寄りかかって、埃っぽい汚れを気にすることもなく座り込んで。俯いていた彼女の横顔は、僕の知らない彼女だった。
でも彼女は声をひとつも漏らさなかった。嗚咽も、鳴き声も、鼻をすすり上げる音も、何もなかった。ただひたすら涙が流れているばかりで、僕にはどうしたらよいのか分からなくて、そっと階段の下の方から目を閉じて、彼女の存在を感じていた。無音の涙だった。
こんなに静かに、綺麗に、泣けるものなのか。人っていうのは。なぜ泣いているのか、それは何となく分かる気がする。報われない恋の運命。苦い恋の結末。すれ違う互いの気持ちの行き場。それらすべてを彼女独りが背負うには重すぎる。誰かの運命を決めるということは、当事者を幸せにするのと同時に、第三者を不幸にしてしまうかもしれないということだ。当事者を幸せにするという確信もない。人々の未来をも背負っているといっても決して過言ではない。そんな大きすぎること、僕にはできない。
誰かが笑って、誰かが泣いて。それでプラマイゼロになるんだろうか。誰にも分かりやしない痛みを誰かに与えることなど、ちっぽけな僕は到底したくないと素直に思った。これは綺麗事でも何でもなく、普通にそう思う。
弱い夕陽の光が、涙に反射して輝く。気づかれないよう、そっと息を吐いてから一段下の階段に片足をつける。そろそろ帰ろうと思い振り返ったところから、もう一度神代を見た。顔を上げた神代はどこか、違う世界を眺めているようだった。その向こうに、何があるのか。
何か、綺麗だと思った。
何の前触れもなくふとそんなことを思う。冗談でもなくて、嘘でもなくて。何が綺麗とかは分からないけど。僕がそんなこと思う日が来るとは、と他人事に思いながらゆっくり階段を降りて行った。
神様の涙は、美しいと思った。
こんなことを言ったらキモいかな。いや柄に合わなさ過ぎて何ともないか。僕はロマン家でも何でもないよ。これだけは言っておくとしよう。
*
「ねね? 縁結び的なって分かったでしょ?」
真っ先に飛び込んでくる彼女の目元は赤かった。普通なら多分気づかないような。気のせい。たったそれだけで終わらせてしまいそうな。明るい声色とは反対に、悲しみを物語るようなその目を、僕は真っ直ぐに見ることができない。
「え? んー」
朝のホームルームが終わり、一度は教室を出た担任が再び戻ってきて、何事かとクラスが少し騒めく。担任は黒板に大きく文字を書いてから、欠伸をして出て行った。あれ、一時間目って担任の授業じゃなかったっけ。
自習だって。え、ラッキー。ホームルームのとき言えば良くね。それな。昼からの単語テストの勉強でもするかぁ。真面目やん。と、クラスメイトの声たちが行き交う。
神代を見ると、そんなこと知っていたかのように無反応だった。
「何で今さらそんなこと聞くのかって?」
「いや、うん。でもまだ神代が縁結びに関する仕事以外でしてることなんてなくないか?」
ふふふふと妙に目を吊り上げて笑ってくる神代。僕には彼女が誰かと誰かを結ぶ、縁結びの仕事をただ一生懸命にこなしているようにしか見えない。
他にしていることといったら。豆知識の自慢とか、人間がどうとか哲学がこうとか、変な話ばかりだ。一般的に、現代の女子高生って街中のお店の食べ物が映えるとか、可愛いとか、そういうのじゃないのか。
神代が少し目を伏せて暗いトーンで言った。
「もうじき嫌でも分かるよ……」
朝の陽の光で彼女の髪が少し茶色に見えた。暗いときがあるのは、大体誰かを傷つけると分かっているときだ。そんなときの神代は何だかとてももどかしくて僕がおかしくなりそうだ。
「ごめんね」
は? どこに謝らなければならないところがあったというのだろう。僕は神代が定めた運命によって苦しくなったわけでもないし、ましてやその当事者になったわけでもない。僕に謝る理由が見当たらない。
多分、神代のその顔を見るのが嫌だったのだと思う。だから、僕は強い口調になってしまう。
「謝るくらいなら決めなきゃいいのに」
口が滑ってそんなことを零してしまう。これが仕事なんだから仕方ないでしょっ!と言ってまた背中をバシバシと叩いてくるだろうか。むしろそうされた方が、いっそのこといいような気がする。
「そうだよね。ごめん」
「あ、いや……ごめん」
別に謝ってほしいわけじゃなかった。僕の失言に笑って、冗談めかして返事してくれることを願っていた。神代は変な顔をしている。今まで見たことのないような、複雑な。取りあえず変な顔だった。
「なぁ。今すごい変な顔してるよ」
「君もだよ、天方君」
「あ、ウソ」
「ほんと。ってか自分がレディに何言ってるか分かってる?」
「ん? 分かんないな」
「それ遠回しにブスだって言ってるんだよっ。もうほんとに天方君って失礼っ!」
「そんなつもりはなかったよ。それに……いや何でもない」
「何でもないんかーい!」
漫才師がボケに突っ込むときのような動き。やけにメリハリのある慣れた腕の動きで、普段から彼女はこんなことをしているんだろうかと想像した。何でもなくはないよ。ただ僕が言うのはキモすぎるなと思っただけなんだ。眉をひそめて、口を思いきり閉じた。
神代は定位置に手を戻したと思うと、急にお腹を押さえて震え始めた。
「大丈夫か?」
いきなりお腹が痛くなったのだろうか。しばらくして目に涙を溜めた神代の顔が表れる。
「あははははははっははっははははっ! ヤバいその顔ツボる」
笑っていた。それも人がせっかく腹痛の心配をしていたというのに。そんな人間らしい配慮は無惨にも打ち砕かれた。
「そんなに笑うことかよ」
「うんうん。ほんとっ顔! 顔!」
神代は僕の顔をバカにするのが楽しいのだろうか。飽きることなく笑っている。笑いが収まったと思うとまた僕の顔を見ては笑い転げる。自分もよっぽど失礼なことをしているのだと自覚していただきたいところではある。
「あぁ。もう分かったからさ」
そうして時間とともに神代の笑いもおさまっていく。ふーとため息をついて深呼吸をしていた。そういうところは案外人間らしい。
「でもさ……一つ聞いていい?」
神代のその仕事についてまだ、分からないことがあるんだ。
「辛く、ないのか?」
神代は先程のゲラゲラ笑っていた雰囲気が嘘のように消えていった。潮の満ち引きで静かに波が帰っていくように。こういうとき、笑って冗談めかして言うのか、怖くなるほど真剣に言うのか、どっちか予測不能なのもまた、神代である。
「まぁ、いちいち気に留めても仕事にならないからね」
否定しないということは、本音は辛いということなのだろうか。それを必死で隠そうとしているのか、何だかぎこちない笑顔をしていると思った。
朝陽が教室中を照らす。カーテンが開け放たれた教室で確実に眩しいはずなのに、瞬きをすることはできなかった。
「なんか」
そこで言葉をグッと堪えた。彼女に言ってもいいんだろうか、と少し思った。今までの僕なら。そりゃ相手が真島というのもあるだろうが、思ったことははっきり口に出すタイプだった。迷うこともなく、考えることもなく、ただ阿保みたいに口にしていた。
でも、何でかな。分からなかった。
「何?」
鋭い目線が突き刺さる。あぁ。この人には嘘も装いも通用しなさそうだ。
「いや、なんて言うか」
僕が躊躇っていると、その留めているものを拾い上げるように、彼女は話す。
「悲しいでしょ? それでもね、私たちにとっては全部、それが当たり前。誰かの運命が悲しくも、辛くもなくなっちゃうんだよ」
じゃあ。何で独りで、声を押し殺して泣いたりするんだよ。
聞きたかったけど、言えなかった。神代の、神代しか背負っていない運命とか、使命とか、そういうのを僕が勝手に持っちゃいけない気がした。神代は神様なんだ。僕には苦しみが消えていく苦しみを、理解することなんて当然できなかった。理解した気になることすら、きっと許されちゃいけない。
「そう、か」
いつか消えてしまう声を、教室に吐いた。色々混ざった感情の声が、神代に届いていたか分からない。でも確かに、僕も、彼女も、ここに存在していた。
*
母の姿というのは、もはや写真でしか記憶を繋ぎ合わせることができない。どんな顔をしていて、どんな話し方をして、どんな風に僕たちの頭を撫でたのか。
僕が小学二年生のときだった。母は自覚症状がほとんどない状態で膵臓がんであることが明らかになり、病気が判明した頃には既に病気が進行していた。それから弱った母の姿を見るのは短かったように思う。
母が生きていた頃は、兄さんや僕の成長の記録なんかをビデオで撮りためていたようで、時々それを再生してみたりする。記憶の片隅にも残っていない映像を目の前にして、僕はこんなことが確かにあったと、記憶を書き直している。いや、作り出している。
「神代はさ、母親とかいないんだよな?」
「え、母親? 神様に決まってんじゃん」
「いや、あのー特定の誰かっていうか」
放課後の教室。オレンジ色の太陽が机に光を落としている。数字で埋まったノートに染まるオレンジがやけに綺麗に思えた。手にしたシャープペンシルが動くことはなく、ただ僕の手の中で身を固めている。
神代は僕の前の席に勝手に腰かけて横向きに座っていた。夕陽に背を向けながら、自分の影を見つめている。その横顔が何か物語る様子はない。
「あぁ、いないと思うよー。知らないけどねそういうのは。気がついたらこの年齢で一人で生きてたし、小さい頃の記憶もないし。だから本当に私に小さい頃が存在したのかは、分からないってことだよ」
「僕も、ほんとは小さい頃なんてなかったのかもしれない」
僕がそんなことを言うと、神代は、ふはっと吹き出して笑った。それから僕の方を見て口を開いた。冗談言わないでよ。そんな風に僕には聞こえた。
「そんなわけないよ天方君。君は私とは違うじゃないか。君は人間なんだぞ。こーんな小さい赤ちゃんとしてこの世に生まれ落ちて、時間の流れによってここまで成長した。それは紛れもない事実じゃん?」
「君は神様だもんな、そうだな」
教室には僕と神代の二人。放課後にこうして教室に残って勉強することも、少なくはない。学校で勉強するほうが都合が良いこともある。分からない箇所があれば、すぐに先生を利用して解決できるところとか。勉強を教えることを口実に神代と話ができるところとか。しかし現段階で勉強を教えることを口実にはできていない。なぜなら彼女が勉強をしないからだ。勉強教えるよ、と言うと私が勉強するわけないよね?と言って微笑み返される。この手は使えなかったかと口ごもると、神代は勉強は私が見てあげよう!とか言って腕を組んだ。ので、現在勉強を見てもらっている、ことになっている。
「天方君のお母さんは優しそうだね」
「それは僕から推測する母親像? それとも勝手に僕の記憶のデータベースに入って覗き込んで得た感想?」
「うぐっ、どどどどうしてそれを。私そんなこと言ったっけ? 人間の記憶を覗き込むのは容易いことだからある程度の情報は分かるなんて言ってないよね?」
確かに神代からそれを聞いたのは今この瞬間が初めてだ。だが、何となく分かるものだろう。自分しか知り得ないようなことでも、対象者のことをすぐに把握してしまう。それはつまり、記憶や思考を覗き込んでいる他ないということだ。
ものすごいスピードで瞬きを繰り返す神代。動揺を隠しきれていない。
「もう僕の母親とか言うまでもなく分かるんじゃん」
「え? いやそれは違うよ天方君! 今私が君のお母さんは優しそうだと言ったのは神様としての力を使ったんじゃないよぅ。天方君から推測する母親像だよ完全に!」
「でもさっきそう言わなかったよ、神代」
「それはっ、天方君が悪いと思う」
だって急に天方君が私の力を暴露?とでも言うのかな、してくるんだよそれはそこに食いついちゃうのは仕方ないっていうか。と、ひたすらモゴモゴ言い訳をしている彼女。その姿がやけに面白くて頬が緩んでいた。神代はそんな僕に気づくことなく、自身の両手の人差し指同士をちょんちょんくっつけながら口を尖らせている。
「知ってるかもしれないけど、僕の母親もういなくて。神代もそうならちょっと似てるかなーなんて思ったりした、勝手に」
そう言うと神代は突然静かになった。尖らせていた口も定位置に戻り、くっつけていた指先も膝の上。ぶつぶつ言っていた言葉の流れが止まって、静かな空気を生み出す。放課後の教室はなんて静かで心地良いんだろう。
「知ってたけど、知らなかったよ。いやぁでも天方君が寂しがってるとは知らなかったなぁ」
神代はよく分からない返事をしながら天井を見上げた。僕がその様子を見ていたのに気がついたのか、すぐに僕を見た神代の視線がぶつかった。
「神代みたいな神様が他にいて、それが家族の神様みたいな神様だったら、僕は母親にもう一度会うことをお願いするだろうなぁ、と思うよ」
一呼吸してから、神様は柔らかい声で言う。神様って本当に優しい声をしてるんだ。
「……私はぁそうだね、そのお願いは叶えられないかなぁ」
頷いた。分かってる。神代にとって不可能だってことも、家族の神様が叶えてくれそうにない願い事だってことも。いつか人間は死んでしまうものなんだ。それが友人でも恋人でも家族でも、母親でも。それなのに別れが早かったという理由だけで会わせてくれだなんて、神様と僕の何かを取引でもしないと無理だろう。無論、神様が欲しがりそうなものなんて僕は持ち合わせていないのだけど。
「お母さんに会ったら、どうするの?」
「どうしようか。取りあえずは高校三年生になりましたって言うかも」
「ヤバいめっちゃ天方君らしくて逆に面白い。他は?」
「他は、兄さんに婚約者ができました。父さんは相変わらず仕事人間やってます」
「婚約者、そうか。宏さんには婚約者がいたんだったね」
突然、教えたはずのない兄の名前を神代が口にするもんだから驚く。心臓に悪いから本当にやめてほしい。何もかも知られてるとほんとに怖いんだよ。
机上で手を組んで、静かに神代を見る。
「名前、教えてないけど」
「ごめーん。これは思いっきり力使ってます! やだな、名前くらい良いじゃんかぁ! 天方家をストーカーしてるわけじゃないからね。対象者だよ、君のお兄さんは」
「え」
「あー! ダメダメこれ以上は。忘れてくれたまえ」
忘れてほしい、と頼まれて素直に一秒後には忘れられるならどれほど心地良く生きられるでしょうね。心底この自由奔放な神様に振り回されているように感じるのは僕だけだろうか。
「私がもし、家族の神様に会ったら伝えておくよ」
勝手に話を逸らされた。いつもいつも、会話は彼女のペースだ。
「なんて言うんだよ」
「天方君が差し出せる最大のものは命だけですが、叶うならそれと引き換えに彼のお母さんと会わせてあげてくださいいい!」
「何でだよ。勝手に僕の命差し出すんじゃない」
「ふふははへへへへ、ごめんごめん。冗談だよぅ」
神代の場合、何でもしでかしそうで冗談に聞こえないんだよなぁ。明るく冗談だ、と主張する彼女に半ば呆れた視線を向けてみる。
オレンジ色を受けてはしゃぐ神様。神代が動くたびに、神代の影も動いている。僕と神様の二人しかいない空間は、もはや現実と言えるのだろうか。そんなことどうだっていいと思えるくらいに、僕は神様だけを眺めていた。
彼女は楽しそうにカラカラと笑い声を上げている。
*
外は曇っているのだろうか。うっすらと開けた目に入った部屋はやけに暗い。
睡眠の世界から引き戻されて気分は最悪だ。僕の頭もとでスマホがバイブレーションとともにうるさく音を放出している。僕の睡眠を阻害した音を止めるべく、仕方なく電話に出た。電話がかかってくることなんてないから、電話の音楽が変な感じに聞こえた。
もしもし、兄さん? 何だよこんな朝っぱらから。え? 千尋さんが? 父さんに代わる。
電話は、僕の兄からだった。切羽詰まった感じがして妙に胸騒ぎがする。父に、電話が繋がれっぱなしの状態で持っていく。鏡の前で身だしなみを整えていた父の、厳しい視線とは一度も合わせずに兄さんから、とぶっきらぼうに言う。
「どうしたんだ? 交通事故? 分かった。琴に行かせるから。うん……うん。お前は落ち着くんだぞ、いいな?」
そこから容赦なく電話を切る。僕にスマホを返しながら、父は口を開いた。
まるで日常と変わっていないような、決して非常事態だと感じさせないような。冷たい視線に思わず息を呑んだ。いくらその仕草に驚いたとしても、この冷淡な人が僕の父親なのには変わりがない。まぁ今は面倒を見てもらっているタチだから、何とも言いようがないけど。
「琴。宏のところに行ってくれ。千尋さんが交通事故に遭ってかなり重症らしい」
「……分かった」
父さんは? 仕事に行くのかよ。兄さんが頼りにしたいのは今、父さんじゃないのか。こんなこと勿論言えるわけもなく、ただただ頷いた。父さんは今、何を考えているのか。僕が頭を悩ませるほどに疑問は深まっていく。平然と毎日と変わらないようにネクタイを締めるその仕草に、僕は思わず目を伏せた。
外は少し、ひんやりとした風が吹いていた。取りあえずは虚しさを感じた。こちらを向いている落ち葉と向かい合いながら、僕は地面がゆっくりと動くことを確認する。
この歩く足が行く先は、病院だった。
千尋さんというのは、兄さんが二、三年ほど前に婚約した相手だ。俗にいう婚約者というやつである。兄さんと千尋さんは普通に仲が良くて、僕にもまぁ良くしてくれてはいる。僕は兄さんの生き方も、ましてや兄さんが誰と結婚しようが結ばれようが、大して興味がないがゆえにそこまで二人のことを知っているというわけでもない。
兄さんの、あのときの電話の声を聞いたとき、冷や汗が走った。今まであんなに切羽詰まった様子を見たことがなかったからだ。交通事故。確かに危機感を覚えるワードではあるが、それがどういう状況なのかがよく分からないのも、事実だった。
自動ドアから病院に入ると、病院独特の匂いがして少々気持ち悪い。病院の患者でもないのに顔色が悪くなるのを感じる。
無数の俯く顔から、見知った背格好を探した。
「兄さん」
病院のアナウンスやら、緊急の患者を運ぶ音やら、医師と看護師の足音やら、とにかく僕にとって、その時全てが雑音だったことに変わりはない。つまりはうるさかったのだ。
手術室の前の長い廊下の先に、両手の指を絡めて座る、その姿があった。
「あ……琴」
取りあえず顔を見るのは久しぶりなのだが、顔色が悪すぎる。何か変なものでも食ったのか、と思ってしまう。むしろ兄さんの方が病院の患者みたいだった。
「それで……千尋さんは?」
生きているのか、手術しているのか、容体は? 多分何も分かっていないんだろうな。
兄さんはげっそりした顔で僕を見上げていた。これまでに見たことのないくらい、顔に血が通っていないようだった。
手術室の電気は赤く光ったまま。中で何が起こっているのか、千尋さんが生きているのか、全く分からない。蛍光灯を反射させる廊下に無性に腹が立って、目線を下から上に向ける。今度は蛍光灯が鬱陶しくて、目を閉じた。
「……分からない」
あ、こいつ死にそうだ。
何かそう思った。千尋さんが生死をさまよっているのに、兄さんがこんなんでどうすんだよ。と、思わざるを得ない。だがしかし、僕が兄さんの気持ちを推し量ることなんてできないのだから、今の兄さんをツベコベ言えるわけではなかった。
兄さんの左手の薬指には、千尋さんと繋がれているだろう運命の赤い糸が巻きついている。そうだ。この二人は結ばれる運命なんだ。何も心配することはない。僕は確実なことを見
つけた。僕が信じるしかなかった。
突然、兄さんが立ち上がった。ふらふらと薄暗い廊下を歩き始める。なぜそんなことをしているのか、とうとう頭がいっちまったのかと思う。多分結構いってる。それから目に見えない何かにぶつかったかのように、一瞬よろめいて、反射する蛍光灯に座り込んでしまった。
「痛……」
その姿に、何も返せなくなった自分がいた。
どうするのが正解なのか、何を選択するのが最善なのか。何も、何も分からない。
「何やってんの、兄さん……ほら」
まるで幼い子供の面倒でも見ているような気分にさえなった。差し出した僕の手をじっと見つめた後、そっと兄さんは自身の手を重ねた。
その手に、赤い糸はなかった。
するりと解け落ちた赤い糸が、もう誰とも繋がっていないだろうことを物語る。僕も兄さんもしばらく、動かなかった。動けなかった。
少し、僕の手が震えているように感じる。もしかしたら兄さんとの繋がれた手からその震えが伝わってきたのかもしれない。もしかしたらそうではないのかもしれない。それでも。僕は確かに怯えていた。もう、すべてが終わってしまったのだと。
赤い電気が点滅して消える。医師と看護師が出てきた。扉が開いてまず千尋さんの姿を探し、それから兄さんは縋るように聞いた。
「千尋は? 助かったんですよね? 先生!」
医師は、最善を尽くしましたが……と残念そうに下を俯き、その言葉だけを言い残してこの場を去っていった。医師の腕を掴んでいた兄は、脱力していた。
しばらくして千尋さんが姿を見せた。しかしその姿は、生きているような気がしない。
そして、千尋さんは逝ってしまった。
誰がこんな残酷なことをするのか。答えはただ一つ、神様という存在だった。
兄さんは冷たくなった千尋さんを抱きしめ、そして泣き叫んだ。僕は何もできずに、ただただその姿を見つめていた。
その日、兄さんと千尋さんは会う約束をしていた。なぜそんなに早朝だったかというと、千尋さんは朝陽がとても好きで、時々二人で朝陽を見るために早朝に出かけていたのだとか。朝陽が昇る瞬間、彼女はこの世で生きる最高の時間だと語っていたことがあるらしい。
兄さんが何をしようとしたのかは分からないが、何やら特別な日になるはずだったようだ。僕の推測ではあるが、恐らくプロポーズとかそこら辺のことだったと思う。
兄さんが横断歩道で千尋さんを待っていたところ、横断歩道を渡っていた千尋さんを、信号無視をしたトラックの運転手がはねてしまったという。つまり、兄さんの目の前で千尋さんが事故に遭ったということだ。一生のトラウマにならないといいが。これから兄さんは狂ってしまうんじゃないだろうか、と心配だった。本気で兄さんが心配だった。
でも、お葬式やらが終わると、信じられないほど元に戻った。まるで、出会う前だったかのように。
葬式があった日、実家に帰ってきた兄さんと、父さんが話していたのを聞いた。
「宏。お前の人生の全てが千尋さんではないんだ。多少辛いかもしれんが、いつまでもずるずると引きずるなよ。千尋さんは死んだんだ」
「……はい」
あり得なかった。まるで血も涙もないことを言う自分の父親が。まるで父親の言うことが世の全てだとでもいうような自分の兄さんが。
頭がおかしいと思った。狂ってると思った。実際狂っていた。僕には、愛とかそういうのはよく分からないけど、そんな言葉一つで、姿が消えたくらいで、なくしてしまっていいものなのか。そんなわけないだろう? 僕の母さんが死んだときも、この父親はこんなことを自分に言い聞かせていたのだろうか。本当にバカな奴らだ。
いつか忘れてしまうかもしれない。確かにそれは人間の避けられない運命と言っていい。だがしかし、死んだからといって、その人と過ごした時間がなかったことになるわけじゃない。と、僕は思うんだ。冷酷な自分の家族に疑問を抱く、僕自身も嫌だった。
*
僕の気分は最悪なのに、この晴れ晴れとした空といったら鬱陶しい限りである。誰かが生まれても誰かがいなくなっても、当然のように毎日はやってくる。そんな日常に、僕らはいつも巻き込まれている。
昼休み後の掃除の時間が終わると、昼休みの喧騒を残したまま、各自五時間目の授業の準備へと移る。その喧騒には、神様のテンションも入っていた。準備した教科書をトントンと整えてから、横目で彼女を見る。
「でねでね! その人はこう言ったの。運命は変えられるってね! くうっ! いかにも人間じみてて逆に感動しちゃった!」
本当にどこまでも、神代はKYだ。空気の読めない、読もうとしない、流石天真爛漫そうなお調子者だ。まぁそれも神様の仕事になると嘘みたいに真剣になるのだけれど。
「運命なんて、神様の気まぐれかもしれないってのにねっ」
「お前はバカにしてるのか? 愚かな人間の、愛ってものを」
神代の表情を見てはっとした。そんなわけないのに、勝手に零れてしまった言葉を取り消したい。でも、それはもう叶わない。
「私たちが一番しちゃいけないことはね。愛をこの世から葬ることなの。誰かの運命を決めても、決めなくても、愛はこの世で続いていくのかもしれない。それでもね、ダメなの。愛というのはそんなに簡単なものじゃないってこと、失ってから気づく愛が美しいということ、どんなに苦しくても、涙は美しいってこと。それを残すために、この世で存在し続けてもらうために、私たちは運命を決めるの」
神代は神様なんだ。今更ながら改めて実感した。僕には届かない世界にいる。この世界の愛と涙のために存在する神様。なんて。とても神様の後を追って行けそうにない。やっぱり違う生き物なんだ。きっと僕たちは。
「神代は、神様だもんなぁ」
教室の窓から、真っ青な空と真っ白な雲が見えた。
あそこにも神様っているんだろうか。先ほどの怒りのような焦りのような感情はどこかに抜け落ち、心のどっかに穴が開いたみたいに、虚しさと冷たい風が通り過ぎていった。
「天方君、ごめんなさい。君を。深く傷つけてしまって」
「僕は傷ついてない。兄さんの運命、いや千尋さんの運命を決めたのは、神代なんだろ」
「気づいてたんだね」
「まぁ。千尋さん、今頃泣いてるよ。兄さんのあっさりしすぎた愛ってやつに」
「お兄さんは、千尋さんを忘れないよ。立ち直ったわけじゃないよ。それでもね、千尋さんとの幸せの分まで、生きようとしてるよ」
「そんなの分かんないよ。何だそれ。何だよ。なんでそんな分かりにくいんだ」
「数年後。宏さんは一人の女性と出会う。それが何を意味するのか、分かる?」
「その人が、未来の運命の人ってことか?」
「ご名答! 未来の運命は過去の運命と変わってるんだよ。でも宏さんは千尋さんを忘れない。それだけは断言できる」
「なんで。千尋さんを死なせる運命なんかにしたんだ」
悔しかった。千尋さんは良い人だと思う。思い出とかなんて全然、探しても探しても見当たらないけど兄さんが愛し、千尋さんも愛したんだ。愛がある人だ。そう、これは現在進行形でこれからも続いていく。
神代が少し微笑んだ。この神様が何を考えているのか、僕には分からないし、きっとこれからも理解できないだろう。それでも、彼女が運命を決めることは変わらない。
運命の答えが返ってくる。神代は笑った。どこかの花の蕾が少しだけ開いたように見えた。
「それが運命ってものだから」
前にも聞いた一言が引っ掛かる。僕には百年経っても導けないような、そんな言葉の定義。彼女にとって運命とは。
「じゃあ、運命ってなんだよ」
「私たちの全てが届く範囲のもの」
「は?」
本当に理解ができなかった。でも、神代なりの答えなんだろうなぁなんて考えていた。
「残酷な運命なんだな」
「……そう、かな」
無残に運命を決めてしまう神様とやらは悲しく、憎いそんな存在なのかもしれない。それでも、こんなことをしなければならない神様である神代の運命が、一番残酷なように感じてしまう。神様の運命って何なんだろう。僕には少し気になるところだった。
*
それからも神代は変わらなかった。
秋の気配がしつつも残る夏の暑さ。風も時折冷たいと感じるようになった。
いつも通りの笑みを浮かべて、ヘラヘラとしている神代。隣の席ということもあり、話をしない日はなかった。僕は仕方なく。仕方なく話に相槌を打っていた。ほんとは楽しんでいたんじゃないかって? それは余計なお世話だよ。
休み時間にはほぼ毎回と言っていいほど話かけてくる。が、それは隣が僕だから、というわけではなく、隣の人ならきっと誰だって話かけたのだろう。
「恋って何だと思う?」
「んなもん知るかよ」
「え? 知りたいって?」
「……」
「恋って、皆落ちるものだと思ってるけど、そんなんじゃないよ」
「へぇ。それで?」
「哲学者のフロムによると、恋は落ちるものじゃない。恋は踏み込むものなの。私にはそれがよく分かる」
「それは神様だからか?」
「まぁ近くで見てるからだろうねー。ってかさ天方君。神様神様言ってると変人扱いされるよ? ははははは」
周りの様子を見ると、こちらの様子を窺いつつもクスクスと笑っている人が何人かいる。あー、そういう感じね。神代のことを神様とか思ってる頭お花畑の変人として見られるっていうオチね。神様ならその類の話は聞こえないようになる、とかいうマジックないんかい。
「もういいよ別にそんなことで悲しむような女々しい奴なんかじゃないし?」
「それにしては随分と長い言い分をどうもありがとう」
「おい」
なんなんだ。いつもからかいまくられている僕は、神代に仕返しを仕掛けようとするが、逆を突かれて結果自爆。なんという間抜けなんだ、僕は。
「てか神代に質問」
「ナニナニ。急に改まった感じ。恋についてでしょ? 彼氏はいるのかって? いるよ! 青春まっしぐらだよ!と言いたいところなんだけど、偶然にも! 彼氏はいないよ」
「……色々突っ込みたいところがあるんだけど」
「どうぞどうぞ」
「まず長い。そしてまだ僕は何も質問をしていない。のにもかかわらず勝手に一人でベラベラ答え始めるし! ちゃんと聞いて?」
「ほう。オーケー、了解したよ」
風が僕たちの空間を通り抜けていった。
一瞬、この教室のすべての音、この世界の時間が止まったみたいに思えた。誰かの笑い声も、誰かの話し声も、何かモノが落ちる音も、どこかで鳴く鳥の声も。このときだけは、なぜだか聞こえなかった。視界に写るものがスローモーションのようで、見慣れた景色も遠くの誰かにとっては見たことない景色なのだと、何となく思う。
「ではでは」
「お、いいねぇー。この今にもプロポーズとかしだしちゃいそうなほど改まった感じ!」
「そういうのやめろよ。何か言いにくいし」
あー! と叫んだ。妙に気恥しい雰囲気をどうにかして崩したかった。教室の騒めきに紛れる程度の、だけれども目の前の人物には伝わるほどの叫びを。
「っ神代は恋とかできんの? していいの?」
「……」
なんでそこで表情固めて黙るかなぁ。それじゃあ何にも汲み取れないんだが。
その反応を見て、これを言ったことに後悔しかける。やはり柄にもないことはするもんじゃないな、と。ゆっくり神代が口を開く。僕の、少々長めの前髪が神代の顔を隠した。
「それは神様として? それとも神代柳縁として?」
「……どっちもかな」
神様として恋をしてはいけないという規則があるとか、神代柳縁として恋ができる状況にはあるが、誰かを好きになれないとか。そういうの含めた恋できんの? だった。
「なるほどね。まぁ神様の規約に恋は禁止、的なのはないよ。まぁ私たちが人間としてここに来るときに、恋する気持ちそのものを消している可能性も否定はできないんだけどね。まずここまで。オッケー?」
つまりは何だ。恋なんてものできるもんならしてみろやってことか? 神様にも規約とかあるんだな。仕事感満載だな。僕が考えた突っ込みを、今はあえて口にしないことにする。
「何その難しい数学の問題教えてる感」
「えーいいじゃん。先生になるとか気分いいし」
「君の気分とかどうでもいいんだけど」
酷ーい! 神代からブーイングを食らう。だからモテないんだよ、と少々貶される。いや別にいいし。モテなくても別に死にゃせんし。
「まぁいっか。天方君がモテないのはざまあみろってことで。っで、もう一つの神代柳縁として恋できるのかについては」
僕の扱い酷くない? ざまみろってことでって地味に、いや普通に傷つくよ? なぜにこう、神代と話してると突っ込みどころが多くなるんだろうか。
「聞いてる? 天方君」
「あぁ。聞いてるよ。神代柳縁が恋できるのかについては、だろ?」
「いつの話してんの! もうそれ五年前くらいの話だから!」
「神代の時間の感覚ってそんなにぶっ壊れてたんだな」
「はい!? そういうことじゃない! それはとっくに言い終わって、私はまだ恋を知らないから何とも言いようがないけど恐らくできるんじゃないのって言ったの!」
そんなことを、僕が傷つくー神代酷ーい、とか思ってる間に言っていたなんて知らなかった。どんだけショック受けてたんだ、と過去の自分に同情の念を入れる。
神代は案外テンションがすぐに上がる。すぐにもう!といった感じになる。最初は戸惑っていた自分がいたが、それも段々と慣れてきた。
「一番大事なとこじゃん」
「そうだよ! 二回も言わせないでよ! しかも五年も前のことを」
「あー。ってことはさ、好みのタイプがいないってわけだ」
「え、好みのタイプが好きな人なわけ?」
「知らないけど……知らないよそんなこと」
神代がニヤニヤしてくる。口を手の平で隠しながら、うようよと動く目元。マジで勘弁してほしい。冷やかしとか僕ほんとに無理なんだけど。
やわらかい日差しが教室を包んだ。ほとんどの人は太陽の光は眩しくて嫌いだ、とカーテンをすぐに閉めてしまうが、僕は案外この眩しさが好きだったりする。だからいつもカーテン閉めんなよ、っと小声で悪態をついてみたりする。
「なんだ天方君も好きな人とかいたことないんじゃん!」
「バカにすんなよ」
「してないよー。ただ分かんないのがさ、仮に恋したとしてそれが恋だっていつ、どうして分かるのかな?」
「僕に聞かれても……何かあるんじゃないの? その人のことばっかり考えるとか、自分が自分じゃないみたいとか、胸が苦しいとか、気づいたら目で追ってるとか?」
自分でもおかしな奴だと思う。何だそれは、どこからその情報を持ってきた?
あ。真島か。
神代は腕を組んで首を傾げた。どこか物足りないとでも言わんばかりの態度である。
「何それ。なんかあんましロマンがないね」
「神代って自分のことでもロマンとか求めちゃう人なんだな」
「いいじゃん。人生、ロマンがあってなんぼだよ」
「何言ってんだ」
「まぁまぁまぁ。仕事を終えるまでには一回でいいから恋とやらをしてみたいよね」
「……恋って自分で踏み込むものなんじゃなかったのかよ」
ん、待てよ? 今なんて言ったんだ。軽いノリで思わず別のことに突っ込んじゃったけど、今すごい重要なこと言ってたよな。
笑っている表情とは裏腹に、脳内会議で冷静なチビ僕が話し始める。
仕事を終えるまでには? どういうことだ。つまり人間としてここにいる期間、ということになるはずだ。神代が神様でなくなるのか? それとも人間でなくなるのか?
いつか終わりがくる、神様の仕事。真相というものが、今まさに見え隠れしている。
「恋は踏み込むものだなんて誰が言ったの?」
相変わらずの調子で会話を続ける神代。特に自分が失言したとは少しも思っていない様子。気づいていないだけかもしれないし、そうではないかもしれない。
僕は少しだけ知らないふりをして、会話から離脱しないことを選択した。
「誰だっけ、フ? フロなんとかっていう名前だったような」
聞かない方がいいのだろうか。僕には分からない。神代のどこまで踏み込んでいいのか分からない。踏み込んだら逃げてしまいそうな、近づいたら遠くへ行ってしまいそうな。そんな感じが、どこからかする。
あえて聞かなかったことの重要性は、僕にはきっとまだ分からない。
神代が神様でなくなるにしても、人間でなくなるにしても、言ってしまえば僕には関係のないことだ。他人のことは僕には関係ない。そうじゃないか。
「フロムね。え? 誰フロムって。天方君変なの」
「君には言われたくない言葉だな」
「ひ、酷いよっ!」
悲劇のヒロインみたいなトーンで僕に訴えている様子。やめてくれよ、僕が悪目立ちするじゃないか。神代はそのことを予想して、慌てる僕を楽しみたいのだろう。
「……」
白けた視線を向けてみる。意外と彼女はこんな視線が苦手な印象がある。一人だけ舞い上がって、場違いなのを恥ずかしく思うタイプの人だろう。
「ごめん。今のは忘れて」
「ん。そうするよ」
予想通りの神代の反応に思わず吹き出しそうになる。きっと怒られるであろうことが予測できたので必死に堪えた。
「あ。でもね」
悲しいのか微笑ましいのか、よく分からない笑顔で下を向く神代。神代は笑顔のバリエーションが豊富らしい。どれか一つにしてほしいものだ。どんなことを思っているのか、または考えているのか、手に取るように分かってしまいそうで。まぁ実際そんなことは僕には不可能なのだけど。他人の気持ちなんてこれっぽっちも分からない。そっちの方が楽だ。色々考えない方が案外物事は簡単だったりするのだから。
「本音を言うと、めっちゃ本音を言うと。私、恋なんてしたくないんだ」
一つ突っ込むとしたら、めっちゃ本音、は果てして日本語になっているのかということくらいだ。本音にちょっともめっちゃもあるのか、と言いたいところではある。彼女はそんなこと気にも留めないんだろう。
「なんで?」
神代は深呼吸をしてから僕の目? いや、もっと奥の方を見ている気がした。
「んー。これといってはっきりした理由とかはないんだけどね。へー、って流されるだけのような理由なのかもしれないけどね」
「あぁ」
ほんと重要なこと言うとき溜めるな、この人。と思うのは果たして僕だけだろうか。
「もう戻れなくなりそうで。その人と出会う前に戻りたくないじゃん。さよならとか、私柄じゃないしさ。そう。柄じゃないし」
「柄とか気にするのな」
「私だって柄くらい。そうねぇまぁ? 気にしない、ねぇ確かに?」
「だよな。いきなりビビった。あれ? 神代って柄とか気にする……あれ? ってな」
「最近めっちゃバカにするねぇ? 天方君?」
調子乗ってるよね? ん? とどこぞの漫画のモブ不良感溢れる顔でジリジリと顔を近づけてくる。その行動もまた神代らしいっちゃらしいけど、僕は真っ直ぐ神代の目を見ることができなかった。決して照れていたわけでは、ない。
「まぁでも、神代らしいかもな。その理由」
「うん。私もそう思う」
「でも恋って自制できるもんじゃないんじゃないの? 多分気づいたら踏み込んでんだよ」
「そんな気もする」
じゃあ天方君はもう、踏み込んだら戻れないね。どこか名残惜しそうに口にした神代の顔は、そのとき窓の方を向いてしまったせいで見えなかった。
窓の外ではぼんやりと影が落ちて、陽が傾きかけていた。単なる休み時間の単なる隣同士の単なるこの会話が、いつか途切れる日がくるのだろうか。いやまぁそりゃあ、時間が止まって僕たちだけが進み続けるなんてないけど。断言できるけど。
「やっぱり、な」
ボソッと言葉を零して僕も教室を見渡した。机に座り格好つける真島、一人で勉強する如月さん、読書する文学少年、群れて会話する女子の皆さん、ときにはしゃぐ男子ども、その会話の余韻が漂う僕たち。それぞれの時間がそれぞれの形で流れていく。僕にはスローモーションに見えて、何だかドラマのワンシーンのようだった。
神代が恋する日がくるかもしれない。今のように普通に話すこともなくなるのかもしれない。僕の代わりにって言ったらアレだけど、僕じゃない誰かと笑っている光景を想像すると、できない。想像すら叶わないのはなぜなんだろうか。少し、心に違和感があった。
*
落ち葉を踏みつけて歩いた。外の寒さに少々震えながら僕は時間を確認する。
『十時十五分』
約束の時間の十五分前に到着する。両手をポケットに入れて周囲を見渡す。冬の季節がいたずらするかのように風を吹かせた。待ち合わせの相手は時間きっかりに来る気がする。なぜか? なんて言ったって、彼女は神様なのだから。
人間としてここにいるにしても、自称神様なのだし僕が神様だからどうたらこうたら言っても許されないことはないだろうという希望的観測。
十月になったばかりの日曜日。神代と話すようになってから一ヶ月が経とうとしている。時間の流れは本当に早いと思う。なんて、本当にと言えるほど今までに何度も思ったかと言われれば実はそうじゃないのだけど。
日曜日なだけあって、ショッピングモールの中はそれなりに賑わっていた。家族連れが見立ち、週末であることを実感する。
神代は縁結び的な神様の仕事をするため、プライベートでも当事者やその身辺を観察することがあるのだとか。それで本日、対象者が映画へと出かける情報を元に僕たちも共に映画へ向かうことになったというわけだ。神代曰く、何かと役立ちそうだし、こき使っちゃうね。僕も勉強の息抜きをしたいところだったし、神代の事情を知っているのも僕が唯一だろうから、という親切な理由で付き合うことにした。この歳になると男女二人組の方が何とも思われなかったりする。別に一人で映画鑑賞をする人も多いには多いと思うが。僕はむしろそっちの方が好きかもしれない。感想言い合う人とか必要ないような気もするし、所詮価値観とか感性とか違うから共感できるところも限られてくるだろうし。
到着したことは知らせずに、気ままにスマホで英単語を覚えていると、どこからか舞い込むように彼女は登場した。
「よっ。お待たせ天方君」
「お、おはよう」
いつもと感じが違うな、と言おうとしたが私服だから当たり前のことだった。時刻は十時三十分。僕の予想通りきっかりだ。
「天方君の普段着ってそんな感じなんだ」
「ん? うん」
僕は薄めのパーカーに黒の長ズボンといったごく普通の服装だ。一方神代は襟付きのTシャツにロングスカートのいかにも清楚感ある服装だった。若干僕がイメージしたのとは違っていたが、それもそれで普通に似合っていた。
「では行きますか! 調査開始!」
映画館へ歩き始めた神代は、学校で過ごすとき以上に明るく笑っていた。楽しいのだろうか、とそんなことを内心思いながら、進み始めた神代を駆け足で追いかける。神代が遅いよ天方君、と僕を急かした。いきなり何のCMだよ。
「お、見つけた見つけた。あそこにいる二人が今回の対象者。当事者は男の子だよ」
チケットを買い、神代がポップコーンを食べたいというので飲み物とセットで購入。キャラメルと塩で無限ループしたいらしい。なかなかの量が入っているため、食べ切れるのか見物ではある。僕は食べないし。
「何の映画かも分かってたんだな」
「神の情報をナメちゃあいけないよ」
「そっすか」
その情報とやらは空から降ってくるんだろうか。それを神代はセンサーでキャッチでもして情報を得ているのかもしれない。僕には見えないアンテナが耳かそこら辺から生えているのだろうか。頭の中で勝手に想像した神様の姿は、どこか可愛らしいマスコットのようだった。
「はい、行くよ」
「おう」
対象者の二人が中へ入ったのを確認すると、僕たちも同じスクリーンへ入る。これ完全に尾行だよな。いや、神様の仕事か。
対象者が丁度見える席を取ったらしい。なんとも計算深い。
映画の本編が始まる前の予告の段階で、既に瞼が重くなり始めていた。というのも、映画館で映画を観るという行為をすることが本当に珍しいからだ。最後にいつこうしたのかも、記憶にない。
本編が始まる合図に、明かりが暗くなる。それから僕はスクリーンを眺めながら浅い眠りの中にいた。意識が飛ぶか飛ばないかの境目。映画の内容は分からなかったし、対象者のことも見ていなかった。ただ、隣に神代の存在だけを感じていた。
「それでは観察結果をまとめます!」
映画館と同じモールの中にあるカフェで、僕たちは向かい合って座る。僕はアイスコーヒーを、神代はパンケーキと甘そうなスムージーを頼んだ。そこはかなり女子だった。
映画館でポップコーンを平らげていたはずの神代は、まだお腹が満たされていないらしい。
「なぁ、食べながら言うのやめない?」
「効率が悪ぐなるでしょ」
「く、に濁点付くよりマシ」
「そうかな」
そうだよ、と返してからコーヒーを飲む。せっかく僕が好きなブラックにしたのに、神代が苦そうだね、と言ってガムシロップやらミルクやらをドボドボ入れてしまった。甘くてこれ以上飲めそうにないが。まぁ頑張ろう。
神代がパンケーキに、追いシロップをする。
「やー、やはりあの二人は仲良かったねぇ」
「今回は三角関係じゃないの?」
「そうなの。二人は二人だけの世界で、お互い色々不満はあるんだけど、みたいな」
「へぇ」
そこに何の運命があるのかよく分からないが、取りあえず仕事の参考にはなっただろう。
「あの映画ほんと感動した! 特にあの男の子が女の子の名前を呼ぶとき! 振り返った女の子の目に溜まった涙の美しさっと言ったらもう! くぅー! たまらん!」
そんなシーンがあったのか。神代は果たして、対象者を観察することはできていたのだろうか。観察結果が今のところ仲良かったねぇ、のみであることを考えると、何となく予想できるが。それにしても相変わらずのロマン家具合に笑いが零れる。涙が美しいなんて言う奴ほんと見たことない。
「それでさ! 最後の終わり方ほんとにヤバいって! 主題歌がしっとり流れてきてーあー! 思い出すだけで感動する! そして最後のあのさよなら。泣ける!」
「何? それは映画の感想まとめ?」
「え?」
キョトンとした顔で首を傾げている神代。何のこと?と言っているのが嫌でも伝わってくる。本題から外れてるんだけど。
アイスコーヒーの氷が溶けてカランと音を立てる。ミルクティーみたいな色のコーヒーが周囲の雑音を吸い取っていく。この空間が安心するというかなんというか。心地良い時間であることは確かだった。
「まぁまぁまぁ! 天方君は眠りこけていたことだし、仕事のことは私の独断でいくことにするよ!」
「観察結果も映画の感想まとめだったしな」
「いいじゃん! この映画を楽しまないなんて損すぎて同情しちゃいそう」
「勝手にしてくれよ」
呑気にはーい、と返事をし、神代はパンケーキを食べ進めた。スムージーと一緒に流し込んでいるだけのように見えるが、本人なりに味わっているのだろうと予想する。
最近、意識していなかった赤い糸が僕の前を通り過ぎる。人が多い所に来るとこれだ。幸せそうな人たちを見るとそこまで嫌な気はしないから構わないんだけど。神代がこれを操ってるなんて、やっぱりどこか信じられない気もする。
恐らくだが、神代の他にも人間として神様の仕事をしている人がいる。この世界のすべてをたった一人の少女に託すのは、なんだか無茶な話のような気がする。大人の神様もいれば小学生の神様も、もしかしたらいるのかもしれない。赤い糸を操っていて、それを僕が見たのがたまたま神代だったというだけの話なんだろう。
「あー! やっぱり仕事疲れるー!」
口の周りについたスムージーを拭いながら神代は言った。あまりにも明るく言うものだから、疲れていなさそうに見える。仕事終わりの一杯とは、こんな感じなのだろうか。
「何だよ。決めるだけだろ」
「簡単におっしゃる! がしかし! 未来も考えなきゃならないし」
「あぁ、そーだな。でも運命なんて、気まぐれで一発なんだろ」
「嫌味ったらしいなぁ」
目を細めて僕をガン見してくる。神代が一人で探偵ごっこでもしてるみたいで笑えた。
「私がね、決めた運命を、また違う神様が変えちゃう可能性もあるからね」
「やっぱり神代以外にもいるんだな」
「まぁね。会ったことないけど」
「そりゃあ、な」
「だから分かんないの。私が決めた運命が確実に未来でそうなるかは」
声が少しだけ低くなった気がした。やはり自分が決めた運命を勝手に変えられるのは嫌なんだろうか。仕事を横取りされる感覚と似たようなものなのだろう。いや、きっとそういうんじゃない。
「まっ! 気まぐれで運命なんて変わっちゃうからねぇ!」
明るい神代に戻る。時折見せる暗い神代の表情が段々と脳裏に残っていく。目の前の笑顔の裏にこんな悩ましい表情があるなんて、多分きっと、僕だけしか知らない。
神様なんてそう多くこの世でいるわけはないだろうけど、同じ人の運命を何度か変えてしまう可能性を排除できないのだろう。
「でもね。誰の運命でも、残りの人達はちゃんと、考えて決めておきたいの」
神代は最近、神様の仕事の終わりを悟らせるようなことをよく言う。もうすぐ、神様の仕事は終わるんだろうか。そうしたら、神代はどうなるんだろう。
「神様の仕事に、終わりはあるのか?」
「あるよ。千人の運命を決めたら」
意外にもあっさりと即答した。間をおいてゆっくり答えるのかと思っていたので予想外。神代は頬杖をついて僕の向こう側を見つめた。目は、合っていなかった。
「神代はあとどれくらいなんだ?」
千人の運命を決めるまで。
意味深に深呼吸したように見えて思わず息を呑む。
「え? そんなの分かんないよぉー!」
頬杖をついていた手から顔を上げ、空いている手をヒラヒラさせた。無駄に力んでいたせいで想定外の反応に顔のパーツが吹っ飛んでいきそうだった。
「は?」
「これくらいかな? もうすぐだなってだけで、正確な人数は分からないの」
「何だよそれ」
ため息を漏らした。正確な人数が分かっていて、あと一人、だなんて言われたらどうしよう、とか気が気じゃなかったんだけど。それでも、神代が千人近くの人の運命を決めてきたのに変わりはない。
「それで、その仕事を終えたらどうなるんだよ?」
「どうなると思う?」
疑問形に疑問形で返すなよ。こっちが聞いているのに。ほんと、こういうところは回りくどい奴だ。僕は首を傾げてみる。
「さぁ?」
さぁ、と言ったのは僕の本心だった。何も分からなかった。神様が仕事を終えたら、なんて誰か想像できる奴いるんだろうか。
「そのまま人間としてこの世で生きるか、神様としてあの世に戻るか、のどっちか」
へぇ。案外、それ以外に思ったことはなかった。今の神代は人間と神様のまぁ言えば真ん中と言っていい立場にある。人間か、神様か。選択権は自分自身に与えられているということか。なかなか優しいな。
僕はそのとき、優しいと思った。選ぶ権利があることに。本当に、そう思っていた。神代にとっては、苦しい選択だったのに。そのことに気がつかないほど、僕は彼女のことを知らなかったみたいだ。
「神代は……どうするんだ?」
「私? 私は神様を続けるよ」
何でもないことのように返事がきて拍子抜けする。もう決めていたことにも驚いたし、それを、僕に打ち明けることにも驚いた。まぁ僕から聞いといてなんだが。
目の前の飲みかけのコーヒーを飲む。氷が地味に溶けて、甘ったるくて、正直言うと不味かった。でも、この微かな甘みを、美味しいかもしれないと思った瞬間でもあった。
神代は長いスムージーのグラスの三分の二を飲み、パンケーキの上に乗ってる緑の葉っぱみたいなものだけをお皿に残していた。
隣の席にカップルが座る。僕たちは、周りからどんな風に見られているのだろうか。いつもなら気にしないことが、今日はなぜだか妙に気になった。多分、今日がプライベートだからだろう。プライベートに誰かと出かけるなんて、未だかつてしたことがあっただろうか。
「じゃあ、あの世に戻るんだな」
その日がきたら、神代は笑顔で僕に手を振るだろうか。それともさよなら、と言って涙を流すだろうか。そのどちらも想像できるようなできないような。でもやっぱり前者のような気がした。
「そうだね」
高くも低くもない普通の、ただただ普通のトーンで言った、そうだね。神代は自分の指同士を絡めながらふぅ、とため息をついた後、残りのスムージーを一気に飲み干した。
僕は結局、甘ったるいコーヒーを全部は飲まなかった。
*
「最近ほんと寒くなったよね」
「それな、マジ勘弁」
何気ない会話をすることがなくなった。今、席の隣で繰り広げられているような、僕が無駄に喋っているようで嫌いだったごく普通の会話が、一切なくなった。
別に寂しいとか、そういうんじゃない。
神代はこれまで以上に色んな人と積極的に話すようになった。それも男女問わず。まぁ分からんではないが、分からなかった。だって誰も神代の笑顔の裏を知らない。僕は勝手に、独りで言い聞かせていた。何を、なのか。それは僕が聞きたいことだ。
無駄な会話がなくなったのは、シンプルな理由だ。神代と話さなくなったから。神代と話さなくなった理由もいたってシンプルだ。席替えをしたから。簡潔に終わる。自分でも驚くほど呆気なくて。まぁ単に静かになりましたっていうことだけなんだけど。
だがしかし、何か妙に腹が立つ。僕とすれ違っても何も言わず、目すら合わせないのにも関わらず他のクラスメイトとは笑顔でにこやかに話している。遠くから見ると、嘘くさいったらありゃしない。別に寂しいとか、そういうんじゃない。
本当にそういうんじゃないと、思っていたんだ。少なくとも僕自身は。
神代が凄い勢いでこっちへと歩いてくる。小柄なはずのに、怖いほど威圧感があって恐ろしい。僕は何もしていない、僕は何もしていないと心の中で反芻しては、意味もなく辺りをキョロキョロとした。
放課後、日直で日誌を書いていたのだが、どうも今日は皆さんお帰りが早いようで。帰っていないのは僕だけだと思っていた。が、職員室か自販機かトイレか他の教室にでも行っていたのだろう。神代の荷物が机にかかっていたようだ。
「ねぇ、どうしよう」
いきなり怒鳴り飛ばすのかと身構えていたが、発せられたのは不安のようなものと焦りのようなものが混ざった声だった。神代は浮かない顔をしていた。長袖を手の平まで伸ばしてぎゅっと掴んでいる。
「何、どうしたの」
「私、神様の仕事ができない」
「ん?」
「ある人だけ、一人だけ。誰が好きとか、この先どうしたら幸せかとか、誰を好きになったことがあるかとか出てこないの! 情報が、分からないの」
後半の誰を好きになったことあるとか、って何だ。好きな人の履歴的な感じなのだろうか。そんなことも分かるとは、やはりだてに神様やってないな。
取りあえず相槌を打って、話の続きを促す。
「うん」
「その人の運命を絶対! 絶対にね!?…………あ、ごめん」
温度高めの絶対にね!?と言った後、急に我に返ったように謝る神代。何が言いたいのかよく分からない。どうせ神代のことだから、私が他の神様より早く決めなきゃ!とか考えているんじゃないだろうか。僕の知らないうちに他の神様が身近に現れたとか。
「何だよ」
「ううん。これは、誰も言わない方がいいのかもしれないと思って。それが天方君でも」
「そうか」
僕たちの間に沈黙が流れる。時間を感じさせるように、教室にある掛け時計の秒針が音を刻む。グラウンドでの運動部の掛け声が、微かに聞こえる。
神代が、自分自身の手を握る音がした。そんな気がした。
「なぁ、急に消えたりしないよな?」
神代が目の前から急に消えるのを、黙って待つわけにはいかなかったらしい。僕は、震える自分の手の拳を握り直した。神代の口から少しだけ震えた声が聞こえる。
「ごめん。ごめんね天方君」
「なんで」
なんで謝るんだよ。僕にはわけが分からないんだ。なぁ、何か言ってくれよ。
声にならない願いを心の中で叫んでいる。口も開かないまま、今日はそこまで極寒なわけでもないのに、ガタガタ身体が震えているのを感じる。自分がとてつもなく情けないように思えた。僕には何もできない。彼女を引き留めることも、不可能なんだ。
「何も言わずに消えるなよな」
そう言い残し、まだ書き上げていない日誌を持って廊下へ出た。目の奥が熱くなった感じがする。必死に歩いても、さっきまで目の前にいた神代の顔が頭から離れない。
あぁ。どうしよう。深刻な問題が発生した。僕の視界が歪んで、世界はこんなにもチカチカとするものだったと知る、前代未聞の事態が。僕はこの瞬間も、神代が消えないことを、ただひらすらに願っていたんだ。
神代がいつ消えるかなんて、考えても分からないことをいつまでも考えるなんて無駄だ。希望の欠片も見当たらないと確信する前に、僕は受験勉強をしなければならないのだ。
そう、僕は仮にも高三生なのである。
ついこの前まではピッチピチの高一で、桜と入学式の文字とともに校門に立っていたのに。今度は桜の蕾と卒業式の看板と一緒に高校を後にする感覚が近づいてきた。いや、それはまだかなり先のことなんだが。
来年も、神代がこの世に存在しているかは分からないし、きっと存在していたとしても僕と会うことはないだろう。無根拠にそう思う。神代は人付き合いも上手いし、第一見た目が整っているから第一印象はいいはず。と、心配なのは僕の方なのだがそこは置いておこう。
放課後の屋上への階段は心地が良い。たまにバレないように職員室から鍵を取って屋上へ出てみるが、先生に見つかったらなんと言い訳しよう、なんて深刻に考えて気が気じゃない。階段なら無難に乗り越えられるだろうという僕の楽観的主観がある。別に階段にいて何が悪いのか、と尋ねればいいだけのことだ。いや、教師を怒らせて謹慎にでもなったら大変か。
ともあれ僕はまさに黄昏ている。
いつか神様の涙を感じていた時間が、頭の中を通り過ぎていく。生温い温度だけを残して、空の一歩手前の空気に溶けていった。
消えていく。
思い出して、そのときの空気や感覚に浸って、それを懐かしんで。一つひとつの出来事が僕の中を通る度に、僕の中でその思い出が消えているような気がする。ちゃんとした記憶はあるのに、どこかの何かが足りない。そんな感覚に陥ってしまいそうな僕自身が少し怖い。もし神代が消えてしまったら。きっと僕は、少しずつ神代のことを忘れていく。彼女の表情も、笑い方も、声も、口癖も、話し方も、僕との会話も。すべて覚えていられるはずがないんだ。僕は人間で神様じゃない。もちろんスーパーコンピューターとかでもない。かと言って記憶を鮮明に、かつ正確に維持できるような天才的な脳を持っているかと言われれば、そうでもない。僕は平凡な人間だから、神代が覚えていたとしても僕は覚えていないだろう。仮に神代が神様としてあの世に戻り、何かの拍子でまたこの世におとずれて僕の目の前に現れたりなんかしても、僕が気づくことはない。
今夜見る夢や昨日見たはずの夢、明日見る予定の夢も、時間の進行とともに忘れていく。
神代の関する記憶は、夢のように消えるのかもしれない。今ではない、もっと先の未来で。
長い間雲に隠れていた夕陽が、視界を眩しくさせた。階段に屋上のフェンスの影が、形作られる。僕の影は、どことなく他より黒く見えた。僕の性根を見せられているようだ。これは距離の問題なのだろうか? きっとそういうことではないのだけど、そうだと思いたかった。
さてとと、座っていた階段から降りて立ち上がった。それと同時にバサリと鈍い音がする。
「あ……」
一応受験生だからと膝に開いておいた英語の参考書が、階段を何段か下りて背表紙をこちらに向けていた。物が落ちると、なぜだか妙に力が抜ける。トボトボと階段を下りて参考書に手を伸ばす。無意識にため息が零れていた。
僕は神代と気まずくなった後、別の階の廊下でしばらく時間を潰してから教室に戻った。なにせ日誌を書き上げていなかったのだ。シャープペンシルすら持たずに教室を出たのはまずかった。教室に戻ると神代の姿はなく、荷物も机にかかっていなかった。つまりは既に帰っていたということだ。心のどこかで期待していた自分がいることに心底驚いた。僕は期待なんてする人間じゃないのに。
それから職員室へ行って日誌を提出。机上がぐっちゃぐちゃの担任に、おぉ、遅かったな、と言われる。無表情でいると、まぁ勉強もいいが休暇もしっかりな。ちゃんと寝ろよ。なんて言われる始末だ。別に勉強で寝てないわけじゃないんだけど、と内心思いながらはい、とだけ言って頷いて見せた。
そして現在に至る。
やはりそのまま帰るのは物足りない感じがしてしまった。何が足りないのか? やっぱり睡眠だろうか。いや、もっと別の何かだろう。
神代と合わせる顔がない。あっちも顔なんて合わせたくないだろう。神代はあと少しで消えてしまうというのに、黙ってそのときを待っているなんて僕は嫌なのに。何もできない。結局、赤い糸がみえてもみえなくても、神代との関わりは消える運命なのかもしれない。
深く息を吐くと薄暗くなった空が見えた。参考書を握り直し、バラバラになった心のパーツを持って足を動かし、歩き始めた。目を瞑ってみると、さっきの夕陽が残像になっていた。
*
散々な学校生活は、思い始めると結構長引いたりする。気持ちの持ちようなのかもしれないし、実はどこかの神様が時間を伸ばしているのかもしれない。
ブレザーを着用する器官に入ると同時に、寒さが一気に押し寄せてきた。寒波到来といったところだろうか。いや、寒くなるのはまだまだこれからだ。
受験も近くなりつつあり、以前とは雰囲気が異なる教室。夏休み前まではボールで遊んでいたクラスメイトも、今では大人しく単語帳を開いている。後ろから二番目の席に座る僕は、休み時間で席を外している前の席の奴に静かに謝った。うちの真島が勝手に座ってごめん。机に座った真島をちらりと見て、再びノートに目を落とす。
お前は勉強しているのか、真島。実際のところはよく分からない。授業は寝ずに受けているようだし、分からないところがあればヒントをくれる。謎に教え方が上手いせいで、僕は真島をできる奴だと思ってしまっている。勉強面に関しての話だ。
「ねぇ。琴ちん、最近嫌なことでもあったの?」
「別に、何もない」
「じゃあ、とうとうフラれちゃったか」
「フラれてないけど」
「じゃあ、失恋でもしたんだね」
「失恋?」
今までどこかぼけっとしていた脳が徐々に冴えてくる。僕のことを馴れ馴れしく琴ちん、と呼ぶ真島の言葉に妙な説得力を感じた。失恋、か。
「失恋してないけどって? んー、それじゃあ」
「——そうかもしれない」
「そうかもしれないって何それ、え? 待って。マジで?」
真島が目を丸くさせている。僕は厳密に言うと、失恋に対してそうかもしれないと思っているのではない。その前段階の現象を僕が引き起こしているのではないかという疑いがある。いやそれだと僕が確実にフラれるみたいな感じになってそれも困るのだけど。
「そうだったのぉ。よしよし琴ちん、鍋パでもしてやけ食いして、忘れようね」
「あ、いや失恋じゃねーから」
「何かいきなり塩!」
「元々だわ」
うわーんさっきのボケっとしてる琴ちんがいいー!とうるさく騒ぐ真島。何かこいつの甘えって結構鬱陶しいんだよな。別に可愛くないし。
「真島って、初恋いつ?」
「あ、ナニ恋バナぁ? そんなのとっくに忘れちゃった」
「えぇ。ま、いいや。で、そういうのって何がきっかけ?」
真島はなんだよぉ俺に興味持ってくれたんじゃないのかよぉ、と小言を落とした。それから僕の筆箱を漁ってボールペンを見つけると、それをクルクルと回し始める。
「んー、きっかけって別に特別なことじゃないし、別になくてもいいものだと思う。あってもなくてもいいものならさ、ない方が純粋になれるような気もするんだよ。あ、だからって別にきっかけがあるのがダメとかそんなんじゃないよ。だけど、恋愛に限らず俺はそう思う。今好きならそれで良くない?」
真島は案外忠実なところがある男なのかもしれない。正直、真面目な答えが返ってくることを全然期待してなかった。僕の知っている真島と恋愛観を超えてきた。
僕は手に持っていたシャーペンを置き、真島を見上げる。
「ということはつまり、過程より結果ってこと?」
「恋する気持ちはね。その先の領域はそうじゃないとは思うけど」
それから真島は意味深に視線を少し下げてポツリと言った。
「恋には落ちたけど、愛にはならなかった。とか悲しいし。愛ってのは過程だと思うけどな」
「ふーん。真島って意外と普通に人間らしいし、悪くないこと言うんだな」
つい先ほどまでの表情を一変させ、いきなりニヤニヤしだした。
「琴ちんがデレるなんて!」
「そういうのウザいんだけど」
マジなトーンで言い放ち、いたずらっぽくそっぽを向いてみる。
「ごめんって琴ちん! もう言わないから! 多分」
「多分って」
真島はいたずらっぽく笑った。僕はもしかすると結構仲の良い奴がいて、そいつは僕が思っているよりずっと真剣に色々なことを考えていたりするのかもしれない。なぜそいつが僕に話しかけ続けるのかは分からないが、それは僕にとって満更でもないことだったりするのかもしれない。
相変わらず格好つけて机に座る真島は、また歯を見せて笑った。
そして僕は自覚する。
かなり前から恋という現象を引き起こしていたことに。
案外、真島の言っていることは僕に当てはまっているのかもしれない。きっかけなんてものは僕には見つからなくて、探しても結論しか出てこなかったわけだけど。神代がここから消えるなんて、僕には蕁麻疹でも出そうなほど嫌だった。そうだ、僕はこんなところでボケっと座っているわけにはいかないのだ。神代がここに残る選択をしてはくれないだろうか。この世で人間として生きてはくれないだろうか。まず神代が消えるのを何としても止めたい。僕が気持ちを伝える以前に、僕の気持ちより、神代がこの世に存在してくれていなければならない。説得でも何でもして引き留めたいのだが。
前から二番目に座っている、今はもう何のとりとめのない話をしなくなった神代を見た。授業でとるノートなんてまだないのに、ひたすら何かを書き込んでいる様子が窺える。
例のノートだろう。神代が消えるタイムリミットは今も刻々と迫っている。僕の視界に赤い糸が増える度に、焦りの念が裏目に出そうで怖くなる。神代はあと何人の運命を決めるのだろう。分からない。どうして僕は神代に恋なんてしてしまったのだろう。
神様に恋しても、叶うはずないというのに。
僕は愚かだ。神代はこんな僕の気持ちを知ったらどんな風に運命を変えてしまうのだろうか。そのまま僕が神代を好きなままでいさせてくれるだろうか。
進学校の受験生にイベントなんぞ与えられない。まぁ僕たちにとっては健康的なことだ。今のシーズン、勉強以外何にも燃えなくて良いのだ。だがしかし、僕には一つ、しておかなければいけないことがあったのだ。どうせ神様のことだろう? その通りだ。話をする必要があると僕は思うんだ。決して単に話をしたかったからではない。
神代は基本、放課後に当事者または対象者の観察で駆け回っていたりするだろうから、放課後に教室で待ってみることにしたのだ。これって結構キモかったりするのか?
誰もいない教室で独り、感慨にふけっていると突然後ろの方の窓が開いた。廊下との仕切り窓ではなく、外へ続いている窓である。そして安心してほしい。ここは校舎の一階だ。
「あれ? 人いた。と思ったら天方君じゃん! 丁度良い、そこの財布を取ってはくれぬだろうか。今からジュースでも買いに行こうと思ってね」
「あー、はいはい。なんか変に渋い言い方するなぁ」
神代のカバンからそれらしきものが少し顔を出していたので、それをするりと取って神代に渡す。窓からヒョコヒョコ見え隠れする神代は、ウサギのキャラクターみたいだった。
「よっ! ありがとよ! ついでに天方君の分も買ってこようか?」
「いや、僕も行くよ。ちょっと待って」
サブバックに入っていた千円ほどある財布を持って、教室を出た。誰ともすれ違わない教室の入り口。人気のない廊下。昇降口で靴を履き替えると、神代がいるだろう校舎の裏側に回った。靴に履き替えなくとも自販機には行ける。本当なら。
「お待たせ。行こう」
「あざっす先輩、ゴチになりますっ」
「あ、僕がおごるのね」
「ん? いや言ってみたかっただけ。もしかしてほんとに奢ってくれるの?」
「どっちでもいいけど」
「じゃあ、自分で買うね」
「じゃあ自分で買うんだ」
そこは奢ってもらうだろ普通、と思いながら予想外の答えに頭を掻く。神代は意外なことをするから面白い。結構なコメディアン気質な方だと思う。漫才とか好きそうだな。意外にコント派だったりするのだろうか。落語派とか?
「やっぱり意外性って大切だったりするよな」
「意外に、大切だね」
「意外性なだけに?」
「おっ、分かっていらっしゃるぅ!」
得意げな顔を見せてみる。神代が、あははと声に出して笑った。この時間がいつまでも続けばいいのに、と思う。神代との何の変哲もない話をするのが僕はとても好きだった。温かいものが心からじわぁとくる感じが、たまらなく心地良かったりした。
「そんな唐突に意外性なんて。どうかしたのかな? 天方君」
「どうもしてないよ。ただ、神代見てるとふとそんなことを思ったんだ」
「何ー? 天方君! いきなり告白なんて珍しいじゃんー!」
「うん」
「なんの告白だよってそれなっ! え?」
神代が歩く動きを止めて僕の方をじっと見た。
彼女が待っていたのは次のような言葉たちだろう。いや、告白とかじゃないんだけど。これは告白なのか? 神代の告白の概念を知りたいわ。これで告白は飛びすぎて怖くない?
そういう類のことを突っ込まずに僕は素直にうん、と言った。まぁ告白の意味が僕と彼女で違うのだが、ここはノリにでも乗ってしまおうという僕自身の心境に変化の表れだと思う。
「うん? ほらあと十数メートルなのに」
少し離れたところには、目的のジュースという糖分の塊のような液体が並べられた、自動販売機が見えている。立ち止まっている神代。ここまで来たら早くジュースを買いたいだろう。
「そそそそーだねっ!? 行こうか! 温かいほうじ茶はあるかなぁー!」
「え?」
「え?」
「せっかく来たのにお茶買うの?」
「元々お茶買おうと思ってたよ?」
「ジュースって言ってなかった?」
「あー。なんか飲み物全般をジュースってたまに言っちゃわない?」
「いやぁ。言っちゃうね」
「でしょ?」
確かに確かに、と二人して頷きながら自動販売機に歩み寄る。上靴のままでも汚れないように、自販機の前にはマットが敷かれている。
「何にしよう。お、ほうじ茶温かいのあるじゃん」
神代はお望みのほうじ茶があったらしく小銭を入れ始めていた。僕はというと二つ並べられた自販機の中身を一通り見て、どうもピンとくるものがなかったので相変わらず突っ立っている。
「天方君は?」
「僕はー、ちょっと待って」
「優柔不断なんだ?」
「うん、そうなんだと思う」
「炭酸にしたら? ちょっと寒いかもだけどひんやりして気持ちいいかも」
「そうだね。どれにしよう」
僕の目の前には、ペットボトルと缶の炭酸飲料がそれぞれ何個ずつか並んでいる。棒立ちなのもなんなので、迷いながらも小銭を投入する。ペットボトルだとちょっと量が多すぎるしなぁ。
「ほんとに優柔不断なんだね。じゃあもうこれにしちゃえ!」
神代は僕の重症な優柔不断さに少々驚き気味に、一つの缶の炭酸を指さした。
「これ? 梅ソーダ?」
「そうそう。一部には美味しいって人気だよ」
「その一部って何。なんか怖いんだけど」
「大丈夫大丈夫。この神代様が保証する!」
「神様と言えどあんまり信用できないなぁ」
サイズの割に高めの百三十円を納金し、ボタンを押す。ガタンと音を立てて下に落ちてきた。プシューとかなって泡出てこないよな?
「意外と結構冷たい」
「おー。いいねぇシャキンとする」
「神代も買ったら?」
「私はいいかな。寒いし」
「あー。寒いな」
「うん」
「うん」
変な空気が流れる。妙に心臓が鳴っているような気もする。周りが静かすぎる気もする。
「どっか違うとこで飲もっか」
「ん」
「さぁさぁ、ティータイムの始まり始まり!」
「どこで飲むの?」
「イエーイくらい言ってよ!」
やっぱり天方君は釣れないなぁ、と考える動作をしながら神代は歩き始めた。
「なぁ。階段行かない?」
僕の提案で、階段へ行くことになった。
「いやぁ、天方君が階段に誘うなんて」
「何だよ。教室じゃつまんないだろ」
「変なの。普通来ないって。屋上への階段なんて」
「確かに。それは言えてる」
「屋上ならまだしも」
「確かに。それも言えてる」
沈む前の夕陽が僕たちを覗いている中、僕は梅ソーダの缶を開けた。プシュと短く音を立てて梅の香りをほんのりと放った。
「天方君、ちょっと」
「ん?」
梅ソーダを指してこっちに寄こせ、という動作をして僕に目配せした。僕は何をするのか見当もつかないまま梅ソーダを渡す。
「おー」
神代は缶の開けたところの近くまで耳を寄せて、目を閉じながら歓声を上げている。何をしているのか、どういった意図があるのか、全くの謎だ。
「何やってんの?」
「やっぱりいいよね。この音」
はい、と言って缶を僕の耳元に持ってくる。左耳に意識を集中させるとパチパチという小さく空気が弾ける音と、シュワシュワという空気がぶつかり合う音がした。意識して聞かないと聞けなくて、それでいて缶という空間の中で壮大に弾ける炭酸は、確かに存在しているが、今にも消えてしまいそうに儚かった。
「ほんと。なんか幻想的だね」
「でしょ。まぁ、ある小説の受け売りみたいなもんだけどね」
「へぇ。センスいいな。その小説家さん」
「うん。その人の存在自体が幻想的だよ」
「そっか」
「これがしたくて炭酸をお勧めしたんだぁ。缶の方が音がよく響くから梅ソーダ大好き!」
「そ。なかなかいい趣味してると思ったら、そんなロマンが隠れてたんだ」
「まぁねぇ~」
儚い音を堪能したところで梅ソーダを飲んでみる。
「お。意外と美味しいかもしれない」
「でしょでしょ! 私に狂いはなかった!」
「ははっ。そうだねおめでとう」
神代の周囲には何本もの赤い糸が漂っている。これらは神代が結んできた運命か、これから結ばれる運命だ。神代は本当に強い。こんな言葉で終わらせられるかも分からない。
「ねぇ。この前私が言ったこと覚えてる?」
「絶対に運命を決めたい人がいるって話?」
「そう」
あの放課後の気まずさは、今はもうない。神代からそんな話を振られるなんて思っていなかったから、少々驚きを隠せない僕。これは神様の仕事と関係しているのだろう。
神代は一呼吸おいて話し始めた。
「私、神様の仕事って最初は美しい、綺麗なものばかりだと思ってたの。甘かったんだ。実際そんな恋だって見てきたけど、やっぱり恋は綺麗だけじゃ成り立たないことの方が多い。最近、そんなことをよく思う」
「うん」
僕はただ、神代の話すことに相槌を打つことしかできなかった。その話がこの前の話とどう関係があるのか、と質問したいところではあったが、ときには辛抱強く待つことだって大切だ。僕はせっかちだから。
「それなのに、何で人間たちは恋なんてするのか。私には分からなかった。もしかしたら今も、正確には分かっていないかもしれないけど。でもね、きっと自分よりもその人の幸せを願っちゃうことなんだろうなって思ったの。河合さんもそうだったけど、やっぱり自分より大切な存在なんだって。まぁ、神様の割にありきたりな答えだけど」
「言葉にできないことって、ある」
「そう。でも言葉にしないと分からないことだってある」
その言葉は今の僕を見透かして言っているのかもしれないな、と思った。僕だって聞きたい。神様の仕事のことだって、神様の恋の話だって。勿論この神様がこの世に存在してくれることを一番に願っている。神代は神様の仕事が最も大切なことだろうだから、僕のことなんて眼中にないのかもしれないけど。
「なぁ、ほんとに神様としてあの世に戻るのか?」
神代がこっちを向く。それと同時に周りの赤がふわりと揺れた。この瞬間、僕たちの空間に音が消える。一瞬後、まだ飲みかけの炭酸の弾ける音が聞こえた。
神代は切なそうな、それでいて意思の固まった表情をする。
「うん。私はこの世から、消えるよ」
ドクンと心臓を強く打つ。僕は呼吸ができているか分からないほど、頭が真っ白になる。本当は分かっていたはずの答えに落胆した。分かっている。神様なんだぞ? そうだ。僕は誰よりもその事実を知ってるじゃないか。一番近くで、神代が神様だという証明をされている。分かっていた。僕の望む答えが返ってくることはないこと。それでも、期待してしまった自分が、一番バカみたいだった。
「いつくらい……とかは分からないんだったな。ははっ」
「天方君」
神代は泣きそうな顔をしていた。正直言って僕の方が泣きたかった。叶わない僕の気持ちは自分でどこか遠くへと葬らなければならない。神様って残酷だ。運命の神様なんていないだろ。
目の前に座っているのに。今は確かに届く距離なのに。
「さて、帰ろうか」
気力を振り絞って笑顔を取り繕った。僕はなんともなってない。ちゃんと元気だぞ、と笑って見せた。神代は俯き気味にうん、と返事をした。僕が元気ではないことなんて、彼女には隠しようもない。
本当は缶を握りつぶしたかった。その音で僕の苦みを誤魔化したかった。
炭酸の音はもう、聞こえない。
*
「琴ちん! 卒アル見た? 相変わらず顔死んでて笑ったんだけど」
「あーあーそうかよ」
三月。僕たちは桜の咲く前に卒業した。気づいたら高校生活終わってた、なんてよく聞く話だが、想像以上だ。今日、個人的には感動とかしない卒業式を行ったわけであるのだが、大学受験の合格発表はまだ先だ。僕は推薦入試で既に合格してるから、真島はまだ結果を知らないことになる。僕は国立に行くが、家族は恐らく僕に一切興味がないためにどこに行っても変わらないんじゃないだろうか。まぁ、そんなものだ。
卒アルを開くと、今はもういない神代の姿が写っていた。僕らのいた3-Dのページに姿が載っていることが、神代がここに存在していた確かな証拠になるだろう。本当に懐かしく思える。
「神代さんねぇ。元気でやってるといいけどねぇ」
「ん。そうだな」
無意識に真島からの言葉に反応していた。ん? 何でピンポイントで神代? まぁ、三学期になる前に海外へ行くと言ってこの学校を後にしたのだ。確かに話題としてなくはないだろう。
と言ってもだ。海外へ行くのは嘘。それは僕だけが知っている。神代は神様として——。
「琴ちんも新しい恋、探さないとね」
「ん。そうだな…………は?」
「え? 好きだったんでしょ? 神代さんのこと」
真島ってもしかしてエスパーなのか? あるはずのないことが頭をよぎる。僕並みに鋭くて驚いた。何かのドッキリかと思わされるくらいには。
「真島って変な奴だな」
「いや分かりやすかったよ案外。うん、面白かった」
「人の恋を笑いものにするんじゃない」
「ははっ。ごめんごめん。今でも好きなんだもんね?」
「はぁ。真島って奴は……」
ニヤニヤした真島が照れんなよー!と肩を叩いてくる。こいつは最後までうるさかった。例え受験シーズン真っただ中のときでも、無駄に問題出してきてウザかったなぁ。まぁそのおかげで助かったことも勿論あったのだが。それでも色々と悩んでいた時期もあったみたいだが、今は嘘のように吹っ切れているようだ。将来の夢も見つかったのだとか。この間、ジュースでも奢るよ、と先輩風を吹かせながら報告してきた。
神代は案外、風に吹かれるようにあっさりと消えてしまった。
神代がいなくなる前に話したかと聞かれたら、そこまで存分に話せたわけではなかった。直接別れの言葉を言い合ったわけでもない。何かを、約束したわけでもない。それでも、覚悟はしていた。神様としてあの世に戻ったのを知ったのも、先生からの連絡事項の一部としてだった。神代は海外に行くらしいから二学期付で転校した。まぁ僕からしてみれば、海外だって? 神代が英語喋るとかなんの冗談だよ、と一切英語の勉強をしていなかった彼女を思い出した。もう、これも今となってはそれなりの笑い話だ。
僕だけがみえていた運命の赤い糸は、もううっすらとしかみえない。神代が消えてから、徐々にみえなくなっている。つまりはそういうことだったのかもしれない。これも、神様のいたずらかもしれないのだ。
僕は今でも、神代が好きだ。
この想いを伝えることこそなかったが、それでいい。僕は結構いい恋をしたと思っている。恋愛の良し悪しなんてもの、それこそ僕には分かりそうもないけど。これからこの先も、きっとこの恋は特別なんじゃないだろうか。最初で最後の恋になったとしても、僕はきっと、いや絶対に後悔しない。だって恋した相手は、神様なのだから。
「ほら琴ちん! 写メ撮るからこっち来て!」
桜はまだ蕾のまま。僕らはこれから何度桜を見るだろう。何度も桜を見るだろう。その傍らできっと、思い出す。神代の姿を、いつまでも記憶に刻んでいたいと思った。
担任に呼び出されるとぎょっとする。この気持ちは皆さんお分かりだろう。何事かと思いきや、まさかの日直の仕事だった。日直って、卒業式にも仕事が回ってくるような厄介なものだっただなんて。別にいいけど。
「何ですか、先生」
「あー悪いな天方。これ、ゴミ捨て場に置いてきてくんない?」
卒業式では整えていた身だしなみも、もうとっくに崩れてしまった担任がはい、と手荒に段ボールを渡してくる。何だこれ、先生の私物とか言ったら絶対やんないからな。
「何ですかこれ」
持ってみると大きい割に軽かった。先生が苦労する感じでもなさそうなのに。この先生が面倒臭がりなのは、今に始まったことじゃない。
「神代の忘れていった私物。数学のノートなんだが、事細かくポイントが書き込まれててなぁ、捨てられなかったんだわ。どうしようか迷ってて放置してたら卒業式終わっちまった」
「何ですかそれ」
神代の名前が出て、一瞬背中が強ばったが、冷静さを保ったようにして言葉を返した。呑気な先生に、慌てた姿は見せたくない。
「じゃあ、あとよろしくなー」
「はーい……」
じゃねえよ、と悪態を内心でつきながら職員室を出る。神代の私物なら見ない方がいいのかとも思ったが、この際だ。見てみることにした。
「ん? これだけ?」
両手いっぱいに抱えるくらいの段ボールの中身はノート一冊だけだった。このノート、やけに見覚えがある。神代に合わないシンプルなノート。一度見せてくれたことがあったっけな、と過去に浸る。でも、先生は数学のノートって言っていたはず。
——これを見ればっ! どう? 信じれる?
神代が、神様として使いこなしていたノートだった。授業中にも、ガリガリという音が出そうなほど書きまくってたよな。神代が神様という一つ目の証拠だった。もしかしたら嘘なのかもしれなかったが、僕には赤い糸が真実を物語っているように思えた。
ノートを開く。当事者の情報が、シンプルかつ分かりやすいように整理して書かれていた。クラスメイトもいる中、河合さんだったり僕の兄さんの恋人だった千尋さんだったり、僕も間近で見てきた人の運命もそこにあった。
すべて、神代が決めた運命だった。
ページも終わりに近づいたとき、僕の名前はそこにあった。
『天方琴 → ※情報が出てこない 三人家族・次男・父子家庭』
はっとした。僕の名前があるということは、神代が運命を決めたということ。いや違う。神代は僕の運命を決めようとしたのかもしれない。神代はある一人だけ情報が全く分からないと言っていた。それが恐らく僕だった、とそういうことだろう。分かるはずの情報が分からないんじゃ、きっと運命なんて決めようがない。僕の名前の後も、何人かの名前が書かれていた。
最後のページをめくると、そこには誰かに宛てた手紙のような文章があった。
君へ
これを読んでいるのはきっと天方君だよね。
見つけてくれてありがとう。忘れたふりして天方君に読んでもらおうと思ってたんだ。
このノートは数学のノートだよ。他の人から見れば、の話だけどねっ。
私ってロマンチストな神様だから? なんてね。
さて、何だかしんみりしちゃうよね。きっと天方君のいる世界に私はいない。
まぁまぁまぁ。渋い顔してぇ! ほんと面白いからその変顔はよして! ははっ。
まずは、ごめんね。
私が神様の仕事が好きなのはよく知ってたと思うけど、本当にいなくなっちゃって。
私だって人間としてそこにいられたらどれほど良かったか。
それでもね、天方君には言ってなかったんだけど人間として生きるのには条件があったの。
今までの記憶をリセットして別の場所でスタートする、っていう。
つまり、私の記憶も、天方君や他の皆の私に関する記憶もなくなるってこと。私にそれは、選べなかった。ごめんね。
そして、ありがとう。
私、君といて楽しかった。唯一神様のこと知ってくれてて、信じてもらえる存在だったからすごくすごく嬉しかったし、
頼もしかったし、心強かった。このことはどんなに時間が過ぎても忘れない。約束する。
あとは、あれだね。
ノート、見たでしょ? どうせ天方君のことだから。
天方琴って見つけてびっくりした? ドッキリ大成功?
そう! 天方君だけ何も分からなかったの! 前に言ったよね。絶対に私が運命を決めてあげたい人。
それは天方琴君、君ですよー! 私、決めたかったの。どうしても私が消える前に、天方君の運命を。
好きな人と結ばせてあげようって思ったんだ。そうじゃなきゃ、天方君が幸せじゃなきゃ、私は私として失格だから。
でも、分からなかったの。少しずつ気づき始めたんだけどね。
きっと天方君には好きな人がいて、その人はまさかの神様だった、そうでしょ?
ちょいと自意識過剰かなぁとも思ったんだけど、そうかなって思った。まっ私がそう思いたかったのも、あるけどね!笑
サプライズだよ。泣いちゃった? もっと早く言ってほしかったって? でもごめんね。私、神様だから。
あー! 天方君の顔見たくなった! お。後ろを振り向けば! 寝ている天方君が私には見える! 受験生だぞ。起きるんだ!
なんて。今は世界史の時間。懐かしいなって?
そうだね。天方君にはもう会えなくなるね。天方君からしたらもう私には会えないんだもんね。なーんて!
悲しいのは、嫌だよ。苦しいのも、嫌だよ。
それでも私は、君の存在も君との会話も覚えておくから!
新しい恋、見つけるんだよ。
私が運命決めちゃう前に、自分でも恋するんだよ。
まぁ! 天方君の恋心は天方君だけのものだけどね!
私と出会ってくれてありがとう。楽しかったよ。
なんでだろ、なんか泣けてきちゃった。
私はいつまでもほうじ茶より梅ソーダが好きだよ。炭酸のやつね。
神代柳縁。
神様として運命を決めます。
恋したことは、忘れないよ。
やっぱり君に、幸せになってほしいから。ちゃんと。ちゃんと。
さよなら。
神代柳縁より
もし感情の大きさで膨らむ心臓だったなら、僕の胸は張り裂けていただろう。確かにそこにある文字が、彼女が。僕をどうしようもなくこんな気持ちにさせるんだ。今すぐ神代に返事をしたくてたまらなかった。それが叶わないと分かっている。分かっているけど。
僕にしかみえない神様のノートってどんなんだよ。他人には数学のノートって、どんなんだよ。それは僕だけが、君の特別だからってことでいいんだろうか。僕だけにみえる神代の姿ってことでいいんだろうか。自意識過剰だよって、いつもみたいに答えてくれよ。
声が聞こえそうなほど、神代らしい言葉だったのに、声が聞こえることなんて絶対になくて。僕の気持ちもとっくにバレてて。格好つかないなぁ。本当にいつも、神代の前だと。
「ほんと、バカだなぁ」
記憶のためにここから消えるなんて。神代らしくて本当に泣けてくる。
誰もいない教室の机にノートを広げたまま、みっともなくしゃがみ込んで、泣いているなんて。神代が見たら、みっともないよっ! 天方君!と言って面白おかしく笑うだろうな。僕はこれからもずっと神代と日常を重ね合わせて生きていくかもしれない。それでもいいから、神代のことを少しも、忘れたくはなかった。
ぐちゃぐちゃになった視界は、温度もなくただただ世界に溢れ続ける。
——右目から流れたら嬉し涙、左目から流れたら悲し涙らしいよ!
ふと過去で神代が言っていたことを思い出す。
「これじゃあ、どっちか、分かんないな」
どちらからも絶え間なく溢れてくるこの涙は、嬉し涙でもあり悲し涙でもあるのかもしれない。僕の体温と同じ涙が、体温よりももっと熱く流れ落ちる。
三月三日。卒業式。
神代への恋が溢れ出した瞬間の連続で構成された、今日だった。
*
夢で僕の母に会った。おかしな夢だった。
僕が上書きし続けている記憶の中での母の姿と一緒で、優しい笑顔をしていた。僕と母は河川敷のような草むらの中で風を受けて立つ。本当に現実味のない雰囲気で、僕ははっきりと夢なのだと確信していた。
「久しぶりね、琴」
「久しぶりどころじゃ、ないよ」
「ふふふ、そうね。あんな可愛かった琴に口答えされちゃった。それだけ大きくなったってことなのよね。あーあ! お母さんももうちょっと生きてたかったなぁ」
草むらのすぐ横に広がっている川の先は、霞がかってよく見えない。それがいかにもあの世のようで、僕が三途の川にでもきてしまったのではないかと思った。でも僕は普通にベッドに入り、眠りに落ちた。夢、だと思う。
「びっくりしたのよお母さん。家族の神様って名乗るのがいきなり目の前に現れて、君を夢へ連れていくって言うんだもの。誰のですかって聞いたら琴の夢だっていうからきちゃった」
はて、これは本当に僕の夢で間違いなのだろうか。僕の断片的な記憶から作り出される夢で間違いない、よな? 僕の記憶の一体どこにこんなものが混ざっていたのだろう。
まさか神代の仕業か? そんなわけはない。運命を決める神様が、人間の夢を支配した上に家族の神様と接触できるとは思えない。
「母さんはさ、なんで父さんと結婚したの」
僕の言葉を聞いた母は、少し驚いたように僕を見た。それからすぐに目を細めて柔らかく笑った。どこを見ても僕の父親とは似ていないなと思う。気も合わなさそうだ。
「あの人は分かりにくい人なのよ。不器用って言ったらいいのかな。そこがお母さん、好きなんだけどね。表面では分からないけど、実はすごく誠実な人なのよ」
「僕はそうは思わない。だって兄さんの婚約者だった千尋さんが亡くなったとき、父さんはあり得ないほど冷淡だった。母さんがいなくなったときもそんなだったのかって思うと、我慢できなくて。自分の父親だけど、最低だろって」
ダムの決壊。僕の気持ちをせき止める理由のないこの夢、という状況が、次々に僕の口から言葉を出すことを促す。もう二度と、夢でさえも母に会えなくなるかもしれない。そのことが脳裏をよぎって気持ちが焦る。夢の中だと言うのに。
「母さんに会いたいと思った。母さんに会ったら何か分かると思ったんだ。父さんのこととか、兄さんのこととか。だけど、それは母さんに甘えてるだけだった」
母さんとの思い出はもう思い出せない。だけど、母さんにずっと会いたかった。どうしても会わなければならなかった。でもそれは本当に会いたいという感情では、なかった。
心臓の辺りが熱を帯びていて熱い。僕は、気づいてしまった。自分が母さんに対して何をしようとしていたのか。ただ、利用しようとしているだけだった。自分が一番、最低だ。
「もう会えやしない人に夢でも構わないから会いたい。そう思うのはきっと、その人との思い出がたくさんあったからこそ、なんじゃないかな。琴は私のことをほとんど覚えていないでしょう? だから会いたいと思ってくれてて嬉しかったの。それが例えどういう理由でもね」
「でも、僕が会いたかったのは」
「いいの、琴。あなたが私に会いたかったのは、琴がちゃんとお父さんと宏のことを想ってるから。二人のこと、ちゃんと理解して向き合いたかったの。頼る人は私しかいない。だから私に会いたいと思った。そう思うのは当然じゃない?」
僕の肩に優しくそっと手を乗せた母はそう言って微笑む。僕は、自分が恥ずかしい気持ちと情けない気持ちと泣きそうな気持ちで後ずさりそうになった。視界が少し、ぐらぐらした。
「でも。でも僕はね母さん、ほんとに母さんに会いたかったよ」
「分かってるよ、琴がそう言ってくれるんだよ。信じるに決まってるじゃない。きっとね、家族の神様とやらは、琴を導くためにここへ呼んだと思うのよ」
家族の神様には会ったことがない。どんな仕事をするのかも分からない。僕にしたように、家族に夢で会わせてくれる神様なのかもしれない。こうして話をさせてくれるのかもしれない。
「よく聞いて琴。もうこうして話すことはないかもしれないから」
「うん」
真っ直ぐな視線が僕を突き刺す。僕はこの人の瞳を受け継いでいる。そんな感覚が、した。母さんは朗らかな性格でどこか呑気だ。僕と似ているとするならば、呑気なところだろうな。
「お父さんは本当に表現するのが下手な人でね。宏や琴にきっと厳しかったんじゃないかなぁ、と思うよ。でもね、それは母親がいないからちゃんと育てられないかもしれない。そういう不安と焦りがあったのもあると思うし、周りからシングルファザーだからダメな大人に育ったんだ、とか。言われないように必死だったんだと思う。私がお父さんの立場でも、同じことしたと思う。冷淡だったって琴は言ってたけど、お母さんは分かるよ。どうしようもないことを嘆くのは一瞬だけでいいって」
「父さんは、母さんがいなくなっても泣かなかった」
「うん。だって父親だもの。子どもみたいに泣けないでしょ、あんなに小さかった宏と琴の前でわんわん泣くなんて」
確かに想像してもおかしな感じがする。小さな子どもが声を上げて泣く中に、大きな大人の姿があるのが。それも子どもと同じように声を上げて泣く姿が。
「僕、あんまり父さんと関わりたくなかった」
「うん」
「でも僕、少しは話してみようかと思う。母さんのことなら話せそうな気がする」
「いつでも見守ってるからね」
恐らく僕は、すぐには話すことはないと思う。父さんと。だけどいつの日か、このことを思い出して父さんと関わろうと思える日がくるんだろうなと確信していた。僕はただ、何か踏み出すきっかけが欲しかったのかもしれない。
目の前で優しく、目を細めて笑う母さんはどこかで見たことがある顔だった。母さんの姿が段々と霞んできて、見えなくなりそうになったとき、僕は思った。
あ、鏡で見る顔にそっくりだ。
家族の神様にお願いしたのはきっと、君なんだろう。
君はいつまでも。いつでも、僕の神様なんだ。
*
そして、この物語は始まる。
十八歳の君へ向けたこの物語は、神様の仕事に奮闘している君に届いているのだろうか。この世に戻ってくることは、きっとないのだろう。でも、僕がヨボヨボのお爺さんになったら、君に気づいてもらえないかもしれないから。
パソコンを開く。
拝啓、十八歳の神様へ
結末なんて分からないけど、取りあえず君の好きな梅ソーダを飲みながら、僕の恋について書こうと思っているよ。君はなんて言うかな。ロマンがあるって梅ソーダで乾杯してくれるだろうか。そうだといいな。ロマン家の神様さん。
「やっぱり人生、ロマンがあってなんぼでしょ?」
炭酸が弾ける音に交じって、そんな声が聞こえた気がした。
