土曜日、私はひとりで音羽ちゃんのお見舞いに行くことにした。もしかしたら起きているかもしれない、そんな希望を持って。
白い病院の静かな廊下を歩き、目的の病室に行く。軽くノックをして扉を開けると――懐かしい、綺麗な丸い瞳と目が合った。
「由衣ちゃん……」
久し振りに、そのやわらかい風のような声が鼓膜を震わせた。
「音羽、ちゃん……!」
ずっと待っていた。その名前を、面と向かって呼べるときを。
音羽ちゃんは、おいで、というように両手を広げた。私はためらうことなくその腕に飛び込む。こうして触れ合うことは、以前はほとんどなかった。
「音羽ちゃん……!ありがとう……っ」
堪えきれずに、涙が零れた。目を覚ましてくれてありがとう。生きててくれてありがとう。いろんな感情が溢れ出してくる。
「由衣ちゃん……」
何度だって、その声で名前を呼んでほしい。私の大好きな、その声で。
音羽ちゃんは、昨日、金曜日に目を覚ましたのだという。
落ち着いてきたあと、私は音羽ちゃんから、あの日にあったことを聞いた。だいたいは、岩田さんが手紙に書いてくれたことと、結月くんの推理通りだった。音羽ちゃんは岩田さんの気持ちを知って、混乱してしまったとのことだった。踏切に足を引っかけて転び、電車と接触してしまったらしい。
私も、音羽ちゃんが事故に遭ってから昨日までのことをまとめて話した。
「そっか……。結月くんと、たくさんお話したんだね」
「ご、ごめんね……?」
「怒ってるわけじゃないよ。羨ましいなっていうだけで。……私の気持ちのことも、話したの?」
「ううん、結月くんは知らないよ」
「よかった……」
音羽ちゃんはほっと胸を撫で下ろす。
「……音羽ちゃんは、告白する気はないの?」
「ゆ、結月くんに?そんなこと、できないよ……」
「でも、それじゃあずっと気持ちを抱えてるままだよ」
「そうだけど……うーん、なんていうか……」
結月くんのことを思っているのか、音羽ちゃんがどこか遠い目をする。とても優しい表情だった。音羽ちゃんのこういう表情が、私は大好きだ。苦しんでいる顔ではなく。
「確かに、結月くんのことは……好き、なんだけど、付き合いたいとは思ってなくて」
「……それって、違う気持ちなの?」
「私にとっては、違うかな。私だと、結月くんの相手として足りないと思うし……それに、見てるだけなのも、苦しいけど、楽しいから」
好きだけど、付き合いたいとは思わない。苦しいけど、見ていたい。恋をしたことがない私には、よくわからなかった。恋って難しい。
「……それにね」
音羽ちゃんが言葉を続ける。
「由衣ちゃんと過ごす時間が減っちゃうのは、嫌だから」
「えっ」
音羽ちゃんが頬を赤くして微笑む。それにつられて私の顔も熱を持った。
私も、その気持ちは同じだった。
「……私も、音羽ちゃんと、たくさん一緒にいたいよ」
「ほんと?嬉しい……」
「前は話せなかったことも、たくさん話そうね」
「うん。後悔しないためにね」
そう、もう、後悔したくない。音羽ちゃんを失いたくない。音羽ちゃんに幸せになってほしい。
「それでね、由衣ちゃん。さっそく、お願いがあるんだけど……」
「うん。なんでも聞くよ」
「ありがとう。あのね――」
以前は、音羽ちゃんからお願いされることもほとんどなかった。夢の中や、起きてからの一日で、音羽ちゃんにもいろいろと心境の変化があったのかもしれない。
私と音羽ちゃんで、また新しい世界を紡いでいきたい。
早くも週明けの月曜日から、音羽ちゃんは再び学校に行き始めた。駅で待ち合わせをして、そこから教室まで二人で登校した。
朝、岩田さんが結月くんになにかを渡しているのが見えた。名月ちゃんに任せておけば、岩田さんもきっと大丈夫だろう。
「あの、片岡くん。今、いいかな」
「えっ、ああ、うん」
放課後、音羽ちゃんは私を連れて片岡くんを呼び出した。喧騒から少し離れた廊下の奥へ行く。
最近自分と同じくらいの身長の人としか接していなかったせいか、片岡くんがやけに大きく見えた。
土曜日に音羽ちゃんからお願いされたのは、片岡くんと話したいからついてきてほしい、ということだった。あくまで付き添いなので、私の出番は特にないと思う。
「あの、片岡くん。ごめんね、あの日、一緒に帰れなくて……」
「え……」
音羽ちゃんの謝罪を受けて、片岡くんが戸惑いを見せる。
「いや、俺の方こそ……気が利かなくてごめん」
「ううん、片岡くんは、悪くないよ」
音羽ちゃんが否定しても、片岡くんは申し訳なさそうにしている。考えてみれば、岩田さんの想いに巻き込まれた片岡くんは、今回の出来事のいちばんの被害者と言えるかもしれない。だから私も、片岡くんが謝る必要はないと思う。
「……宮原さん。傷つかせて、こんなこと言うのもおこがましいけど……嫌じゃなかったら、これからも、仲良くしてほしい」
片岡くんの言葉を受けて、今度は音羽ちゃんが目を丸くする。
「嫌じゃないよ……。むしろ、いいの?」
「うん。そうしてもらえると嬉しい」
「ありがとう……」
音羽ちゃんと片岡くんは、知らないうちに簡単には離れられないほど仲良くなっていたようだった。そのことに私が驚かされるとともに、ちょっと拗ねてしまいそうになる。
会話が一段落したところで、音羽ちゃんがなぜか私と片岡くんを交互に見た。片岡くんにはその意図が伝わっていたようで、少し逡巡する様子を見せたものの、音羽ちゃんを見てうなずいた。
「じゃあ、私は先に教室に戻ってるから、あとは二人で……」
「えっ?音羽ちゃん?」
「頑張ってね」
その言葉は、どちらに向けたものなのか。私だけが状況を掴めていない。困惑しつつ片岡くんを見ると、その目からはなにか強い意思を感じた。
「ごめん中野さん、いきなりこんな感じになっちゃって」
「う、ううん。どうしたの……?」
「……突然こんなこと言われても、困るとは思うんだけど……」
片岡くんの口調や声音は、聞いたことないほど真剣だった。最近は気弱な様子の彼ばかり見ていたから、一段とそう感じるのかもしれない。
なにを言われるのだろうと考えると肩に力が入ってしまう。
片岡くんが一度目を閉じ、また開き、息を大きく吸って、告げた。
「――俺は、中野さんのことが、好きなんだ」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。頭の中で言われたことを繰り返し、噛み砕いて、ようやく理解する。
「え……」
片岡くんが、私のことを、好き?
簡単には信じられない。一年生のときもクラスメイトだったけれど、話したことはほとんどなかった。それなのに、好きになるなんてことがあるのだろうか。
でも、岩田さんもそうだ。結月くんとはほとんど話したことはなかったのだと思う。
片岡くんは、言い切ったというように口を結び、私のことを見ていた。それ以上はなにも言わないようだった。
『本気で相手のことを好きじゃないと、幸せにはならないと思うんですよね』
二人で出掛けたときに名月ちゃんが言っていたことを思い出す。そうだ、私は自分の気持ちに従わなければならない。そうしないと、どちらにとっても、良い未来にはならない。
狭まった喉になんとか息を送り、言葉を押し出す。
「私は……好きって言ってくれるのは嬉しいし、気持ちは受け取るけど……でも、片岡くんの期待には、答えられない。……ごめんね」
片岡くんはきつく唇を結び、なにかを堪えているようだった。これ以上ここにいてはいけない。そう直感して、私はためらいつつも、片岡くんに背中を向け、その場を去るしかなかった。
教室に戻ると、私を見るなり、音羽ちゃんが駆け寄ってきた。
「由衣ちゃん……。頑張ったんだね」
私の表情から、音羽ちゃんは結果を読み取ったらしい。なにも答えられずにいると、音羽ちゃんがそっと私の頭を撫でてくれた。
「……恋愛って、苦しいよね」
本当だ。恋愛って苦しい。自分が恋をしていなくても、その影響を受けることが多々ある。
私もいつか恋をするのだろうか。
するとしたら、叶う恋がいい。でも、それは儚い願いかもしれない。
それに今は、この撫でてくれる手があれば、それ以上はなにもいらなかった。
✽
樋口名月さんへ
お手紙ありがとうございます。びっくりしたけれど嬉しかったです。名月ちゃんは私よりもずいぶん大人なんですね。
名月ちゃんからの手紙を読んで、ますます中野さんと宮原さんに申し訳なくなりました。2人に会って謝りたいです。
だけど、結月くんのことが好きな宮原さんと、結月くんと親しい中野さんに会ったとき、自分が酷いことを言ってしまういそうで、怖いです。あの日も、宮原さんが事故に遭ったと聞いたとき、喜んでいる自分がいました。私は私が怖いです。
突然ですが、少し、私自身の話をさせてください。どうしても書きたくなってしまいました。
私は小学生のとき、実の親から、毎日のようにに殴られたり、蹴られたり、嫌なのに触られたりしていました。思い出すだけで吐き気がしそうです。それに耐えられなくて、6年生のとき、家を飛び出し、それからは実母の姉と二人で暮らしています。
怜央や今の家族は、肉親とは比べものにならないほど優しくて、いつも助けられています。それなのに、私はいつも、なにかが足りないと感じていました。
高校生になって初めて結月くんを見たとき、うまく言えないけれど、その存在が私の心の隙間を埋めてくれそうな予感みたいなものを感じたんです。結月くんを目で追ううちに、私の気持ちはどんどん大きくなっていて、自分でも困惑するほどでした。
結月くんは、最初の頃は、優しい人という印象でした。けれど見ていると、ただ優しいだけじゃなくて、周りのことを驚くほどよく見ていて、人の気持ちを上向かせることがとても上手な人なんだとわかりました。私は、結月くんのそんなところが、大好きです。でも、息苦しくならないのかなと心配になるときもあります。
名月ちゃんに質問です。結月くんに好きな人はいますか?それで諦められるとは思わないけれど、少なくとも、執着するのは終わりにしたいです。
岩田一華
✽
岩田一華さんへ
お返事ありがとうございます。一華さんの怖いという気持ちや過去のことを、知ることができて良かったです。
一華さんは、お兄ちゃんと由衣ちゃんに離れてほしいというメッセージを、紙に書いて送ったんですよね。お兄ちゃんは最初は脅迫だと捉えていたようですけど、手紙を読んで、そうじゃないんだとわかりました。それらの紙を書いたのは、そうしてくれないと自分が二人になにかしてしまうかとしれなくて怖かったからなんですね。
たぶん今、一華さんの心の中は、お兄ちゃんへの強い愛と、音羽ちゃんや由衣ちゃんへの罪悪感、そしてずっと消えない傷や物足りなさでぐちゃぐちゃなのだと思います。
だから、由衣ちゃんや音羽ちゃんに対してどうするかよりも、まずは自分の心のことを考えてあげてほしいです。自分の心とゆっくり向き合って、整理できてから、周りのことに目を向ければいいと思います。時間はかかるかもしれないけれど、それでいいんです。立ち止まる時間も必要です。
お兄ちゃんの好きなところも、書いてくれてありがとうございます!お兄ちゃんの表面上の良さしか見てない人が多いので、一華さんが「周りをよく見ている」ところに気付いてくれていて、私としても嬉しいです。
みんなが見ているお兄ちゃんの「優しさ」はそのほんの一部でしかないですし、それはきっとお兄ちゃんの繊細さから来ているんです。私もよく、そんなお兄ちゃんの優しさに甘えさせてもらっています。でも、お兄ちゃんに「甘えていいよ」って言っても、なかなか来てくれないんです。だからいつも、無理矢理癒したりしています。お兄ちゃんの力になっているかはわからないですが……。
お兄ちゃんには、好きな人はいません。恋愛がなんなのかも、まだよくわかっていないんじゃないかなと思います。自分が好かれていることにも気付いていないみたいです。私もちょっと悲しいです。
樋口名月
✽
僕の役目は、ただ手紙の受け渡しをするだけになった。
一連の出来事については解決した、ということでいいのだろうか。
放課後、社会科準備室に行って休ませてもらうことにした。机に腕を寝かせて、ぼうっと三島先生の動作を見る。
「終わったんですか?」
三島先生が相変わらずの緩い口調で尋ねてくる。
「そうみたいですね。釈然としないですけど」
名月からは深入りするなとしか言われていない。手紙の内容についても聞かされていない。
宮原さんが回復してから、中野さんとも全く話していない。けれど見ていると、二人とも事故以前よりも笑顔が増えていた。片岡くんや岩田さんは、少しずつ気力を取り戻しているようだった。
なにも変わっていないのは、僕だけ――いや、名月もだろうか。
「樋口くん、寂しいんですか?」
突然の脈絡のない問いかけに、驚いて顔を上げる。三島先生はいつもの穏やかな表情のまま僕を見ていた。
「自分の気持ちとは、ちゃんと向き合った方がいいですよ。どこかで爆発しますから」
先生はそれだけ言って、手元の教科書に目を戻した。
自分の気持ちとは、なんだろう。僕は「寂しい」のだろうか。
中野さんと関わらなくなり、名月からもなにも知らされず。でもそれは仕方のないことだ。
そもそも、「寂しい」って、どういうことだろう。
僕は今、どんな気持ちなんだろう。
いくら考えても、答えは出そうになかった――。
白い病院の静かな廊下を歩き、目的の病室に行く。軽くノックをして扉を開けると――懐かしい、綺麗な丸い瞳と目が合った。
「由衣ちゃん……」
久し振りに、そのやわらかい風のような声が鼓膜を震わせた。
「音羽、ちゃん……!」
ずっと待っていた。その名前を、面と向かって呼べるときを。
音羽ちゃんは、おいで、というように両手を広げた。私はためらうことなくその腕に飛び込む。こうして触れ合うことは、以前はほとんどなかった。
「音羽ちゃん……!ありがとう……っ」
堪えきれずに、涙が零れた。目を覚ましてくれてありがとう。生きててくれてありがとう。いろんな感情が溢れ出してくる。
「由衣ちゃん……」
何度だって、その声で名前を呼んでほしい。私の大好きな、その声で。
音羽ちゃんは、昨日、金曜日に目を覚ましたのだという。
落ち着いてきたあと、私は音羽ちゃんから、あの日にあったことを聞いた。だいたいは、岩田さんが手紙に書いてくれたことと、結月くんの推理通りだった。音羽ちゃんは岩田さんの気持ちを知って、混乱してしまったとのことだった。踏切に足を引っかけて転び、電車と接触してしまったらしい。
私も、音羽ちゃんが事故に遭ってから昨日までのことをまとめて話した。
「そっか……。結月くんと、たくさんお話したんだね」
「ご、ごめんね……?」
「怒ってるわけじゃないよ。羨ましいなっていうだけで。……私の気持ちのことも、話したの?」
「ううん、結月くんは知らないよ」
「よかった……」
音羽ちゃんはほっと胸を撫で下ろす。
「……音羽ちゃんは、告白する気はないの?」
「ゆ、結月くんに?そんなこと、できないよ……」
「でも、それじゃあずっと気持ちを抱えてるままだよ」
「そうだけど……うーん、なんていうか……」
結月くんのことを思っているのか、音羽ちゃんがどこか遠い目をする。とても優しい表情だった。音羽ちゃんのこういう表情が、私は大好きだ。苦しんでいる顔ではなく。
「確かに、結月くんのことは……好き、なんだけど、付き合いたいとは思ってなくて」
「……それって、違う気持ちなの?」
「私にとっては、違うかな。私だと、結月くんの相手として足りないと思うし……それに、見てるだけなのも、苦しいけど、楽しいから」
好きだけど、付き合いたいとは思わない。苦しいけど、見ていたい。恋をしたことがない私には、よくわからなかった。恋って難しい。
「……それにね」
音羽ちゃんが言葉を続ける。
「由衣ちゃんと過ごす時間が減っちゃうのは、嫌だから」
「えっ」
音羽ちゃんが頬を赤くして微笑む。それにつられて私の顔も熱を持った。
私も、その気持ちは同じだった。
「……私も、音羽ちゃんと、たくさん一緒にいたいよ」
「ほんと?嬉しい……」
「前は話せなかったことも、たくさん話そうね」
「うん。後悔しないためにね」
そう、もう、後悔したくない。音羽ちゃんを失いたくない。音羽ちゃんに幸せになってほしい。
「それでね、由衣ちゃん。さっそく、お願いがあるんだけど……」
「うん。なんでも聞くよ」
「ありがとう。あのね――」
以前は、音羽ちゃんからお願いされることもほとんどなかった。夢の中や、起きてからの一日で、音羽ちゃんにもいろいろと心境の変化があったのかもしれない。
私と音羽ちゃんで、また新しい世界を紡いでいきたい。
早くも週明けの月曜日から、音羽ちゃんは再び学校に行き始めた。駅で待ち合わせをして、そこから教室まで二人で登校した。
朝、岩田さんが結月くんになにかを渡しているのが見えた。名月ちゃんに任せておけば、岩田さんもきっと大丈夫だろう。
「あの、片岡くん。今、いいかな」
「えっ、ああ、うん」
放課後、音羽ちゃんは私を連れて片岡くんを呼び出した。喧騒から少し離れた廊下の奥へ行く。
最近自分と同じくらいの身長の人としか接していなかったせいか、片岡くんがやけに大きく見えた。
土曜日に音羽ちゃんからお願いされたのは、片岡くんと話したいからついてきてほしい、ということだった。あくまで付き添いなので、私の出番は特にないと思う。
「あの、片岡くん。ごめんね、あの日、一緒に帰れなくて……」
「え……」
音羽ちゃんの謝罪を受けて、片岡くんが戸惑いを見せる。
「いや、俺の方こそ……気が利かなくてごめん」
「ううん、片岡くんは、悪くないよ」
音羽ちゃんが否定しても、片岡くんは申し訳なさそうにしている。考えてみれば、岩田さんの想いに巻き込まれた片岡くんは、今回の出来事のいちばんの被害者と言えるかもしれない。だから私も、片岡くんが謝る必要はないと思う。
「……宮原さん。傷つかせて、こんなこと言うのもおこがましいけど……嫌じゃなかったら、これからも、仲良くしてほしい」
片岡くんの言葉を受けて、今度は音羽ちゃんが目を丸くする。
「嫌じゃないよ……。むしろ、いいの?」
「うん。そうしてもらえると嬉しい」
「ありがとう……」
音羽ちゃんと片岡くんは、知らないうちに簡単には離れられないほど仲良くなっていたようだった。そのことに私が驚かされるとともに、ちょっと拗ねてしまいそうになる。
会話が一段落したところで、音羽ちゃんがなぜか私と片岡くんを交互に見た。片岡くんにはその意図が伝わっていたようで、少し逡巡する様子を見せたものの、音羽ちゃんを見てうなずいた。
「じゃあ、私は先に教室に戻ってるから、あとは二人で……」
「えっ?音羽ちゃん?」
「頑張ってね」
その言葉は、どちらに向けたものなのか。私だけが状況を掴めていない。困惑しつつ片岡くんを見ると、その目からはなにか強い意思を感じた。
「ごめん中野さん、いきなりこんな感じになっちゃって」
「う、ううん。どうしたの……?」
「……突然こんなこと言われても、困るとは思うんだけど……」
片岡くんの口調や声音は、聞いたことないほど真剣だった。最近は気弱な様子の彼ばかり見ていたから、一段とそう感じるのかもしれない。
なにを言われるのだろうと考えると肩に力が入ってしまう。
片岡くんが一度目を閉じ、また開き、息を大きく吸って、告げた。
「――俺は、中野さんのことが、好きなんだ」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。頭の中で言われたことを繰り返し、噛み砕いて、ようやく理解する。
「え……」
片岡くんが、私のことを、好き?
簡単には信じられない。一年生のときもクラスメイトだったけれど、話したことはほとんどなかった。それなのに、好きになるなんてことがあるのだろうか。
でも、岩田さんもそうだ。結月くんとはほとんど話したことはなかったのだと思う。
片岡くんは、言い切ったというように口を結び、私のことを見ていた。それ以上はなにも言わないようだった。
『本気で相手のことを好きじゃないと、幸せにはならないと思うんですよね』
二人で出掛けたときに名月ちゃんが言っていたことを思い出す。そうだ、私は自分の気持ちに従わなければならない。そうしないと、どちらにとっても、良い未来にはならない。
狭まった喉になんとか息を送り、言葉を押し出す。
「私は……好きって言ってくれるのは嬉しいし、気持ちは受け取るけど……でも、片岡くんの期待には、答えられない。……ごめんね」
片岡くんはきつく唇を結び、なにかを堪えているようだった。これ以上ここにいてはいけない。そう直感して、私はためらいつつも、片岡くんに背中を向け、その場を去るしかなかった。
教室に戻ると、私を見るなり、音羽ちゃんが駆け寄ってきた。
「由衣ちゃん……。頑張ったんだね」
私の表情から、音羽ちゃんは結果を読み取ったらしい。なにも答えられずにいると、音羽ちゃんがそっと私の頭を撫でてくれた。
「……恋愛って、苦しいよね」
本当だ。恋愛って苦しい。自分が恋をしていなくても、その影響を受けることが多々ある。
私もいつか恋をするのだろうか。
するとしたら、叶う恋がいい。でも、それは儚い願いかもしれない。
それに今は、この撫でてくれる手があれば、それ以上はなにもいらなかった。
✽
樋口名月さんへ
お手紙ありがとうございます。びっくりしたけれど嬉しかったです。名月ちゃんは私よりもずいぶん大人なんですね。
名月ちゃんからの手紙を読んで、ますます中野さんと宮原さんに申し訳なくなりました。2人に会って謝りたいです。
だけど、結月くんのことが好きな宮原さんと、結月くんと親しい中野さんに会ったとき、自分が酷いことを言ってしまういそうで、怖いです。あの日も、宮原さんが事故に遭ったと聞いたとき、喜んでいる自分がいました。私は私が怖いです。
突然ですが、少し、私自身の話をさせてください。どうしても書きたくなってしまいました。
私は小学生のとき、実の親から、毎日のようにに殴られたり、蹴られたり、嫌なのに触られたりしていました。思い出すだけで吐き気がしそうです。それに耐えられなくて、6年生のとき、家を飛び出し、それからは実母の姉と二人で暮らしています。
怜央や今の家族は、肉親とは比べものにならないほど優しくて、いつも助けられています。それなのに、私はいつも、なにかが足りないと感じていました。
高校生になって初めて結月くんを見たとき、うまく言えないけれど、その存在が私の心の隙間を埋めてくれそうな予感みたいなものを感じたんです。結月くんを目で追ううちに、私の気持ちはどんどん大きくなっていて、自分でも困惑するほどでした。
結月くんは、最初の頃は、優しい人という印象でした。けれど見ていると、ただ優しいだけじゃなくて、周りのことを驚くほどよく見ていて、人の気持ちを上向かせることがとても上手な人なんだとわかりました。私は、結月くんのそんなところが、大好きです。でも、息苦しくならないのかなと心配になるときもあります。
名月ちゃんに質問です。結月くんに好きな人はいますか?それで諦められるとは思わないけれど、少なくとも、執着するのは終わりにしたいです。
岩田一華
✽
岩田一華さんへ
お返事ありがとうございます。一華さんの怖いという気持ちや過去のことを、知ることができて良かったです。
一華さんは、お兄ちゃんと由衣ちゃんに離れてほしいというメッセージを、紙に書いて送ったんですよね。お兄ちゃんは最初は脅迫だと捉えていたようですけど、手紙を読んで、そうじゃないんだとわかりました。それらの紙を書いたのは、そうしてくれないと自分が二人になにかしてしまうかとしれなくて怖かったからなんですね。
たぶん今、一華さんの心の中は、お兄ちゃんへの強い愛と、音羽ちゃんや由衣ちゃんへの罪悪感、そしてずっと消えない傷や物足りなさでぐちゃぐちゃなのだと思います。
だから、由衣ちゃんや音羽ちゃんに対してどうするかよりも、まずは自分の心のことを考えてあげてほしいです。自分の心とゆっくり向き合って、整理できてから、周りのことに目を向ければいいと思います。時間はかかるかもしれないけれど、それでいいんです。立ち止まる時間も必要です。
お兄ちゃんの好きなところも、書いてくれてありがとうございます!お兄ちゃんの表面上の良さしか見てない人が多いので、一華さんが「周りをよく見ている」ところに気付いてくれていて、私としても嬉しいです。
みんなが見ているお兄ちゃんの「優しさ」はそのほんの一部でしかないですし、それはきっとお兄ちゃんの繊細さから来ているんです。私もよく、そんなお兄ちゃんの優しさに甘えさせてもらっています。でも、お兄ちゃんに「甘えていいよ」って言っても、なかなか来てくれないんです。だからいつも、無理矢理癒したりしています。お兄ちゃんの力になっているかはわからないですが……。
お兄ちゃんには、好きな人はいません。恋愛がなんなのかも、まだよくわかっていないんじゃないかなと思います。自分が好かれていることにも気付いていないみたいです。私もちょっと悲しいです。
樋口名月
✽
僕の役目は、ただ手紙の受け渡しをするだけになった。
一連の出来事については解決した、ということでいいのだろうか。
放課後、社会科準備室に行って休ませてもらうことにした。机に腕を寝かせて、ぼうっと三島先生の動作を見る。
「終わったんですか?」
三島先生が相変わらずの緩い口調で尋ねてくる。
「そうみたいですね。釈然としないですけど」
名月からは深入りするなとしか言われていない。手紙の内容についても聞かされていない。
宮原さんが回復してから、中野さんとも全く話していない。けれど見ていると、二人とも事故以前よりも笑顔が増えていた。片岡くんや岩田さんは、少しずつ気力を取り戻しているようだった。
なにも変わっていないのは、僕だけ――いや、名月もだろうか。
「樋口くん、寂しいんですか?」
突然の脈絡のない問いかけに、驚いて顔を上げる。三島先生はいつもの穏やかな表情のまま僕を見ていた。
「自分の気持ちとは、ちゃんと向き合った方がいいですよ。どこかで爆発しますから」
先生はそれだけ言って、手元の教科書に目を戻した。
自分の気持ちとは、なんだろう。僕は「寂しい」のだろうか。
中野さんと関わらなくなり、名月からもなにも知らされず。でもそれは仕方のないことだ。
そもそも、「寂しい」って、どういうことだろう。
僕は今、どんな気持ちなんだろう。
いくら考えても、答えは出そうになかった――。



