また週が明けて、月曜日。
 クラスメイトのみんなが中野さんに視線を向けているという状況は、もう解消されているようだった。早くも飽きたのかもしれない。
 ただ、依然として誰かの悪意が中野さんを狙っていることに変わりはない。
 朝から放課後まで、中野さんと何度か目を合わせたものの、言葉を交わすことはなかった。
 そして、心配な人物は、中野さんだけではない。放課後、片岡くんを呼び止め、教室に残ってもらった。
「……片岡くん、体調は大丈夫そう?」
「体調?別になんとも……」
 教室の後で片岡くんと向かい合う。背中を縮める片岡くんを、夕日が寂しく照らしていた。
「心は……?」
「……っ、大丈夫」
「そっか……」
 明らかに大丈夫じゃない様子でそう言う。
 思い返してみると、宮原さんの事故が起きた直後から、片岡くんの様子はおかしくなった。岩田さんとも、「喧嘩」かあった日以来、距離を置いているようだった。
「聞かれたくないことかもしれないけど……」
「……?」
 片岡くんの僕を見る目は、どこか怯えているようにすら見える。周りからイケメンでかっこいいと言われている彼とは思えない。
「片岡くんは、宮原さんのことが好きだったの?」
「っ、違う!宮原さんじゃない!」
 明らかな動揺を見せたものの、全力で否定した。嘘ではないと思う。
「それなら、宮原さんに近付いたのは、とうして?」
「それは……」
 片岡くんは口ごもる。話したくない、という意思が感じ取れる。それどころか、察してくれ、と言うようだった。
 ただ、今は、話してくれないと困る。重ねて尋ねようとしたけれど、その前に、片岡くんが口を開いた。
「樋口こそ、中野さんのこと好きなんじゃ……」
「……?違うよ」
 予想外の言葉に驚きつつ否定すると、片岡くんも目を丸くした。まさか、そういうふうに誤解されていたなんて。
「中野さんと僕のことが気になる?」
「いや、その……」
 片岡くんがまた口ごもった。
 さっきの「大丈夫」はともかく、この人は、嘘をつくことがあまり得意ではないようだった。僕とは違って。
 話してくれないなら、推測するしかない。片岡くんは、好き人は宮原さんではない(・・・・)と言った。さらには、僕が中野さんのことを好きなのだと誤解していた。
 つまり、考えられることは。
「もしかして、片岡くんが好きなのは、中野さん?」
「……」
 片岡くんが押し黙る。これは肯定と受け取っていいのだろう。
 好きな人と仲良くなるために、その友達から情報を得るというのは、小説で見たことがある。
 それをそのまま当てはめるとしたら、片岡くんにとって宮原さんは、中野さんを知るための手段でしかない。そんなこと、宮原さんが知ってしまったら。
 だけど今考えるべきなのは、そのことじゃない。
「中野さんと仲良くなりたかったから、誰かに頼んで、中野さんと僕を引き離そうとしたってこと?」
「違う!それはあいつが勝手に……」
「そうだよね、わかってる」
 これほど弱っている片岡くんがそんな悪質なことをするとは考えにくい。
 おそらく、鍵を握るのは、今片岡くんの頭に浮かんでいる人物。
「あいつって、誰のことなの?」
「それは……言えない」
 今度ははっきりと、言うことを拒んだ。そこには強い意思が感じられる。たぶん、「あいつ」を守るために。こうなると、いくら訊いたとしても教えてくれそうにない。
 そこで、訊き方を変えてみることにした。
「それじゃあ、片岡くんが今もそんなに苦しんでいるのは、どうして?」
「……っ」
 片岡くんの顔が苦痛に歪む。僕だってそんな顔をさせたいわけではない。でも、いつまでもひとりで抱えられていても、僕にはなにもわからない。片岡くんのためにもならない。
「ごめん……っ」
「待って」
 逃げようとする片岡くんの前に立ちはだかる。と言っても、押しのけようと思えば、片岡くんは僕くらい押しのけられるだろう。
「……このままでいいの?」
 もう逃がして、と目で訴える片岡くんに、穏やかな口調を意識して問いかけた。
「片岡くんが閉じこもっている限り、なにも解決しないんだよ」
 僕の言葉が刺さったのかはわからない。恐怖かもしれない。片岡くんは目から涙を零しながら、その場に座り込んだ。僕も目線が同じになるように、隣にしゃがむ。
 かつて、というか今でもたまに名月にするように、片岡くんの背中を撫でた。その広さはだいぶ違う。
 名月以外に対して、普段なら自分からは触れないけれど。
 やや呼吸が落ち着いてきたところで、追い打ちをかけてしまうかもしれないけれど、片岡くんに尋ねる。
「……片岡くんは、どうしたい?」
 なにを、とは言わない。だけど目的語に当たるものが、片岡くんの中にはあるはずだ。
「……一華(ひとか)と、仲直りしたい」
 片岡くんが口にしたのは、幼馴染、岩田さんの名前だった。
「やっぱり、あれは喧嘩だったんだね」
「喧嘩、っていうよりは、怒られて……」
「怒られた?」
「……宮原さんのことがあった次の日に、一華が、今のうちに中野さんと仲良くなれって、言ってきたんだ。でも俺は、今はやめたほうがいいんじゃないかって思ってた。そしたら、たぶん、呆れたんだろうな。『もういい』って、見捨てられた……」
「そのあと、僕に見られたってことか」
 片岡くんが力なくうなずく。
 岩田さんが中野さんを狙っていたということなのか。
 けれど、片岡くんの話からは、岩田さんがそうするということの動機が見えてこない。
 岩田さんにとって、片岡くんが中野さんと仲良くなることは、なにかメリットがあるのだろうか。
 これだけでは、岩田さんが一連の出来事の仕掛け人だとは言えない。
「……背中、もういいから」
「あ、ごめんね」
 思考に耽っている間も、ずっと片岡くんの背中を撫でてしまっていた。
「ふ……優しいな、樋口は」
 片岡くんは気が抜けるような笑い声を漏らした。
「……優しくなんかないよ」
 何度も言われたことがあるけれど、いつからか、その言葉が嬉しいとは思えなくなっていた。
「いや、優しいよ。もうちょっと、自分のこと、認められるようになったほうがいいと思う」
 片岡くんに言われたくない。認められるなら苦労はしない。いろいろと反論が浮かんだけれど、どれも口にできなかった。
「ありがとう。少し、気持ちの整理、ついたかも」
「そう……それなら良かった」
 立ち上がった片岡くんを見て、高いな、と同時に、強いなと思った。僕は話を聞いただけだ。話すという選択をしたのは片岡くんで、それによって気持ちに区切りをつけたのも片岡くんだ。
 僕だったら、うだうだと悩んでしまうに違いない。
「じゃあ、また明日……。ちゃんと一華とも話すよ」
「うん……頑張って」
 儚く微笑み、軽く手を振って、片岡くんは教室をあとにした。
 閉じられた教室の扉を見たまま、ひとり立ち尽くす。
 頑張って、なんて。僕は、そんなに上からものを言えるような人間ではないのに。

「あ、おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
 家に帰って名月から声をかけられたとき、急に体が重くなった。いつのまにかかなり疲れていたようだ。人とたくさん話したせいだろう。
 片岡くんが悪いのではなく、誰が相手でも疲れてしまう。話してもこれほどには疲れない中野さんや宮原さんの方が、僕にとっては珍しい。
 部屋に入ってベッドに座ると、深く息を吐いた。それからすぐに、名月が僕の部屋に入ってくる。さっきの「おかえり」の声も含め、その姿には気力が感じられなかった。
「名月、かなり疲れてるね」
「えっ?うん、ちょっと……」
 なにがあったのか話してくれるときもあれば、曖昧に誤魔化される日もある。今日は後者だった。
 名月は当然のように僕の隣に座り、手を重ねた。
「お兄ちゃんも、なにかあったんでしょ?」
「ああ、うん。名月にも知っておいてほしくて」
 放課後の片岡くんとの会話のことを、詳しく名月に伝えた。
 その最後に一言だけ、念の為に添えておく。
「……片岡くんの気持ちは、中野さんと話す機会があっても、伝えないで」
「うん、わかってる」
 恋愛経験はないけれど、そういうことは、やはり本人から伝えるべきだと思う。中野さんは、片岡くんの気持ちには気付いていないだろうけれど。
「それで、片岡さんの話通りなら、岩田さんがこれまでの犯人ってことになるの?」
「やっぱりそうなのかな……。ただ、岩田さんにそうする理由があるのかがわからなくて」
「理由……」
 名月が空いた方の手を口元に当てて考え込む。
 岩田さんがどんな人でなにを思っているのか、今のところ僕はなにも知らない。大人びている、というイメージはあるけれど、あくまでイメージだ。実際にどうなのかはわからない。
 周りから見た様子と本心が違うなんてことはよくある。片岡くんもそうだった。名月と僕も同じだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「恋ってなんだかわかる?」
 唐突な質問だった。えっ、と声が出そうになったけれど耐えられた。
 もしかすると、名月もこの件に恋愛が強く関わっていると思っているのかもしれない。
 恋。小説で何度も見てきたけれど、その正体を、僕は知らない。
「……わかんない」
「そうだよね。私もわかんない」
 好きならば恋、というわけではないと思う。それなら僕は名月に恋をしていることになる。それは違うと、簡単に否定できる。
 恋。好き。そういうものも、感情の一つだと思う。
 感情というのは、そう簡単には抑えられない。だから、僕にとってはなによりも厄介なものだ。

          ✽

 音羽ちゃんの事故から二週間が過ぎた。
 月曜日、火曜日と、どちらも夜に名月ちゃんと電話をして、なんとか心を保てている。今日は水曜日。
 今週は今のところ、誰かに見られたり、紙を入れられたりということはない。なにも起きていないけれど、それが逆に不安を増幅させる。
 そして、その不安は当たってしまった。
 教室に着くと、机の中に見覚えのない何かが入っていたのだ。
 いつもの紙かと思ったけれど、色が違う。それは、綺麗な茶色い封筒だった。丁寧な字で『中野由衣さんへ』と書いてある。
 明らかに、今までのものとは毛色が違う。脅迫めいたものだったり、悪意があるものだとは、思えない。
 中を開けてみると、紙が丁寧に二つ折りにされて入っていた。それを広げると、びっしりと文字が書いてある。
 見たことがある字だと思った。
 そしてその一行目を見て、すぐに私の目が奪われる。
『突然手紙を出してしまってごめんなさい。岩田一華です。』
 岩田さん――。
 昨日の電話で、名月ちゃんが「岩田さんもこの件に絡んでるのかも」と言っていた。それが正しいなら、ここに書いてあるのは、あの日の真実なのだろうか。
 ごくりと唾を飲み込む。斜め前の席の岩田さんは、まだ来ていない。教室の時計を見ると、まだ朝礼までは時間があった。
 読んでみよう。ここに、全ての答えが書いてあるのかもしれない。
 やや震える手で手紙を持って、最初から目を通した。

中野由衣さんへ

 突然手紙を出してしまってごめんなさい。岩田一華です。
 中野さんは、きっと、宮原さんの身になにがあったのかを、樋口くんとともに探っているんですよね。私が知っていることをここに書きます。だけどその前に、謝らせてください。ごめんなさい。今まで、中野さんに対して、変な紙を書いて机の中に入れたり、SNSでありもしないことを書き込んでしまったのは、私です。本当にごめんなさい。
 こんなことを突然言われても困ってしまうと思いますが、私は、樋口くんのことが好きです。だから、中野さんが樋口くんと一緒にいるところを見るのが、どうしても嫌だったんです。結月くんに私のことを見て、私のことを好きになってほしかったんです。こんなひどいことはしちゃいけないって頭ではわかっていたのに、自分の気持ちを抑えることができませんでした。私は最低です。本当にごめんなさい。中野さんを傷つけても、結月くんが私のものになるわけじゃないのに。
 宮原さんが結月くんのことを好きだということは、怜央を通じて知っています。それを聞いて、結月くんを宮原さんに取られたくない、結月くんのことを諦めてほしいと思いました。だから私は、怜央と宮原さんをもっと仲良くさせようと思って、怜央に協力しました。
 知っているかもしれないけれど、あの日、怜央と宮原さんは一緒に帰る予定でした。ただそれを知らずに、放課後、私は宮原さんがトイレに行ったタイミングで、怜央に声をかけました。おそらく、そのときに私と怜央が話していた内容を宮原さんに聞かれ、私の思いを知られてしまったんだと思います。けれど気付いたときにはもう遅くて、宮原さんは一人で帰ってしまいました。宮原さんが電車に飛び込んだという知らせが来たのは、その少し後です。私のせいです、ごめんなさい。
 中野さんに対して嫌がらせをすることはもうやめます。樋口くんのことも諦めます。だから、このことは、どうか樋口くんには言わないでください。
 自分勝手だとわかってはいるけれど、せめてそれだけは、お願いします。

                岩田一華

 手紙の内容が進んでいくにつれて、字は乱れ、結月くんの呼び方も変わっていた。最後の方は字は元の丁寧なものに戻り、結月くんの呼び方も戻っていた。
 それが、手紙を書いているときの岩田さんの気持ちを表している。
 ――岩田さんは、結月くんのことが好きだったんだ。
 関係ないと思っていた、音羽ちゃんの恋心。まさかそれが、大きく関わっていたなんて。
 音羽ちゃんも、結月くんのことが好きだった。
 私がそれを知ったのは、夏休みの少し前だったと思う。
 音羽ちゃんと岩田さんでは、同じ恋でも、その中身はずいぶんと違っているような気がした。
 音羽ちゃんは、ただひたすら、結月くんのことを純粋に想い続けた。岩田さんは、結月くんのことを求め、欲しがっていた。
 音羽ちゃんの気持ちを知っていながら、そして、岩田さんの気持ちも知らずに、私は結月くんと一緒にいたいと願ってしまった。
 私に結月くんへの恋心はないけれど、それでも、好きな人が自分以外の人と仲良くしているのは、快いものではないと思う。
 これは、お願いされた通り、結月くんには話せない。
 岩田さんは、結月くんのことは諦めると言っていたけれど、恋心を諦めるのは、そう簡単ではないはずだ。音羽ちゃんを見ていたから、わかる。
 それなら、私が、結月くんと距離を置いていればいい。
 そうすれば、全部が円満に行くはずだから。
 石でも置かれたように重い気持ちになっていたら、始業を告げるチャイムが鳴った。

 一日中、岩田さんの手紙のことが頭から離れなかった。授業中も、帰宅後も、夜も。
 真実はわかったけれど、岩田さんの強い想いを知ったから、彼女を責めることはできない。私だけが耐えていればいい話。
 それなのに、なんで。
 岩田さんの強い想いと、自分の心の叫びに挟まれて、身動きが取れないでいた。
 まだこんな苦しい思いを続けなくちゃいけないのか。
 真実がわかれば、全て終わると思っていた。結月くんともまた一緒にいられると思っていた。それなのに――。
 そのとき、机の上のスマホが、けたたましく振動した。手を伸ばしてスマホを取り、電話に出る。名月ちゃんからだった。
『もしもし、由衣ちゃん』
「名月ちゃん……」
『どうしたんですか?お兄ちゃんから、今日、すごくしんどそうだったって聞きましたけど……』
「え……」
 結月くんには、私が悩んでいることなんて見抜かれていたんだ。
 結月くんに対して強い想いを持っているわけではない私が、結月くんに気にかけてもらっている。以前は嬉しかったそれに、罪悪感を覚えた。 
『由衣ちゃん?』
「……あ、ごめん……。なんでもないよ」
『……私には、言えないことですか?』
 名月ちゃんになら、話してもいいだろうか。
 名月ちゃんから結月くんに伝えられる可能性はある。だけど、名月ちゃんなら、約束すれば、守ってくれる。
「名月ちゃん。近くに、結月くんいる?」
『お兄ちゃんですか?たぶん、隣の部屋にいます』
「そっか、それなら大丈夫……。話、聞いてくれる?」
『もちろんです』
 私の意図を汲み取ってか、名月ちゃんの声量が少し小さくなった。
 私は、岩田さんから手紙が来たこと、岩田さんの気持ち、そして書かれていたあの日の真実を、かいつまんで名月ちゃんに伝えた。手紙の写真もあとで送ることにした。
 音羽ちゃんの結月くんへの気持ちは、まだ言わないでおいた。
『……なるほど……。そうだったんですね……』
「岩田さんのこんな気持ち知っちゃったら、なんか、責められないよ……」
『そうですよね……』
 岩田さんにこれ以上、罪の意識を背負ってほしくなかった。岩田さんは、ただ結月くんのことを好きになって、一途に想い続けただけ。邪魔なのは私の方だ。
『でも、由衣ちゃん。手紙って、書いてる人の気持ちとか、主観が強く出ますよね』
「うん……」
 実際に岩田さんの手紙からも、結月くんへの強い想いが感じ取れた。いつまで経っても消えないほどに。
『だから、意図してなくても、書き手の都合のいいように書かれている可能性は、あると思います』
「えっ。た、確かに……」
『私、すごく引っかかるところがあるんですけど……。音羽ちゃんは、岩田さんと片岡さんの、どんな会話を聞いたんですか?書いてありますか?』
「あ……書いてない」
『やっぱり……。それと、これは私の推測なんですけど』
 名月ちゃんが一度言葉を切る。躊躇うような間に感じられた。
『もしかして、音羽ちゃんも、お兄ちゃんのこと……』
 ああ、やっぱり、気付かれてたんだ。名月ちゃんにも隠し事は通じないようだ。手紙のことを話した以上、気付かれないほうがむしろ難しい。
「……うん、そうだよ。でも、結月くんには言わないでほしい。手紙のことも」
『わかりました。たぶんお兄ちゃん、気付いてないので……。そのままにしておいてあげますね』
「うん、ありがとう」
 名月ちゃん、音羽ちゃん、岩田さん。これだけの人に好かれていながら、結月くんは気付かない。それどころか、たぶんだけど、自分のことを嫌っている。
「それで、名月ちゃん」
『はい』
「私、どうすればいいかな……。手紙への返事とか」
『うーん……。でも由衣ちゃん、返事書きたいですか?』
「書きたいというか、書いたほうがいいのかなって思うけど……なにを書けばいいのかわからなくて」
『じゃあ、書かなくていいんじゃないですか』
「えっ?」
『私が、代わりに書きます』
「で、でも、そんなこと……」
 さすがに迷惑をかけてしまう。名月ちゃんの負担になると思う。だけど名月ちゃんは、大丈夫です、と言う。スマホの向こうで、名月ちゃんが微笑んでいるのような気がした。
『渡してもらうのはお兄ちゃんにお願いします。もちろん、詳細はお兄ちゃんには伝えません。由衣ちゃんは、気にせず生活してくれればいいです』
「いいの……?」
『はい。私から岩田さんに言いたいことも、いろいろあるので』
「ありがとう……」
 名月ちゃんから岩田さんに言いたいこと。なんだろう。それを尋ねることはしなかったけれど、たぶん結月くんのことと関係していると思う。
 形は違うけれど、名月ちゃんと岩田さんは恋のライバルのようなものだ。
 『それじゃあ、今夜はゆっくりしてください。おやすみなさい』
「うん、おやすみ。ありがとう、名月ちゃん」
 電話を切ってから、手紙の写真を名月ちゃんに送った。名月ちゃんがいなかったら、どうなっていたんだろう。
 本当に、名月ちゃんがいてくれて良かった。
 すっとつかえが取れたた心を抱いて、眠りについた。

          ✽

 金曜日、朝起きるとすぐ、夢現な状態の名月が部屋に入ってきた。
「名月、どうしたの?眠れなかった?」
「ちょっと、作業、してたから……。これ、岩田さんに、渡して」
「岩田さんに?」
 名月が手渡してきたのは、薄ピンク色の封筒だった。
「中は、絶対見ないでね。それと、お兄ちゃんは、これ以上、深入りしないで……」
「……うん。それより、寝てなよ。そこでいいから」
 僕は自分がさっきまで寝ていたベッドを指さす。名月はもう倒れそうだった。
「ありがとう……。ちょっと、頭ぽわぽわしてるから、学校休む……」
「うん。お大事に」
 名月はベッドに倒れ込むようにして横になるなり、すぐ眠りについた。
 名月の言葉とこの封筒から、詳しくは知らないけれど、あることを察した。
 僕は、どこかで間違えたんだ。一方の名月は、おそらく真実に辿り着いた。
 それについてなにも言われなかったということは、僕には知られてはいけないなにかなのだろう。

 登校してすぐに、岩田さんに手紙を渡すことにした。中野さんの斜め前の席。昨日、つまり木曜日は休みだったけれど、今日は来ていた。
「岩田さん」
 声をかけると、岩田さんだけでなく、中野さんも顔を上げた。名月からなにか聞かされているのかもしれない。
「これ、岩田さんにだって」
「……誰から?」
「……読んでみたらわかるよ。悪い人ではないから」
「うん……。ありがとう」
 岩田さんは困惑した様子を見せつつもうなずき、封筒を受け取った。中に入っているのはおそらく手紙だろうけど、なにが書いてあるのかは僕にもわからない。
 だけどたぶん――。
 席に戻る前にちらりと中野さんの方に目を向ける。中野さんは心配そうに、岩田さんの持つ封筒を見つめていた。

          ✽

 帰宅してからしばらくすると、私のスマホが鳴った。誰からなのかはもう見なくてもわかる。スマホを手に取ると、予想通り名月ちゃんからだった。
「もしもし、名月ちゃん?」
『由衣ちゃん、お疲れ様です。お兄ちゃんが、岩田さんに手紙渡してくれましたよ』
「やっぱりあれ、そうだったんだ」
 朝、結月くんが岩田さんに声をかけているのを見た。名月ちゃんから託された手紙を、岩田さんに渡していたのだ。
「ありがとう、名月ちゃん」
『いえいえ。お役に立てて、よかったです』
 名月ちゃんの声が、いつもよりこもっていてふわふわしている感じがする。
「……結月くんは、手紙のこと、知らないんだよね?」
『大丈夫です。渡す前に言っておきましたし、さっき聞いたときも、見てないって、言ってました』
「よかった……。手紙には、なんて書いたの?」
『私の考えと、岩田さんへの、お願いです』
「お願い……?」
『乱暴なことは、書いてですよ』
「そうだよね、びっくりした」
 名月ちゃんに任せておいて正解だった。私だったら、なにを書いていいかわからかった。助かったけれど、大変な役目を担わせてしまったなとも思う。
 電話の向こうで、「ん……」と気が緩んだような声がした。
「ねえ、名月ちゃん」
『あっ、はい』
「もしかして、眠い?」
『……眠いです。昨日の夜、あんまり寝れてなくて』
「もしかして、手紙書いててくれたから……?」
『……はい。でも、文章書くのはもともと好きだし、学校行くよりは楽なので、気にしないでください』
 学校行くよりは楽。つまり名月ちゃんは、今日は学校を休んだということだろうか。しかも、それが楽だなんて。
 これまでのことも考えると、名月ちゃんと結月くんには、なにか私では立ち入ってはいけない秘密があるような気がする。
 だから、あえて追及はしない。できない。
「そっか。ほんとにありがとう……」
 名月ちゃんへの疑問を飲み込み、私は重ねて感謝を伝える。電話越しに照れたような笑い声がした。
『……由衣ちゃん』
「うん」
『もう、大丈夫です。頑張りましたね』
「……!うん……っ」
 名月ちゃんの優しい言葉が、私の胸をいっぱいにする。その一言だけで、私には十分だった。
『ゆっくり休んでください。音羽ちゃん、目覚めるといいですね』
「うん……。ありがとう、名月ちゃん」
 電話を切って、静かに机の上に置いた。
 あとは音羽ちゃんが目を覚ましてくれれば、私の日常は元通りだ。
 今の私なら、音羽ちゃんの新しい世界を彩るために頑張れる。
 だから音羽ちゃん、待ってるよ。

          ✽

 岩田一華さんへ

 はじめまして。樋口結月の妹、樋口名月です。由衣ちゃんの代わりという形で、この手紙を書いています。由衣ちゃんから、一華さんの手紙について知らせてもらいました。由衣ちゃんと私以外はそのことを知らないので、安心してください。
 今から書くことは、由衣ちゃんにもお兄ちゃんにも、言うつもりは一切ありません。一華さんだけに伝えます。私が推測した、あの日の真実です。
 まず、怜央さんは、由衣ちゃんのことが好きなんですよね(お兄ちゃんが怜央さんから聞いたそうです。由衣ちゃんには知られていません)。怜央さんとしては、いきなり由衣ちゃんに話しかけることは難しかったのだと思います。だからまずは、由衣ちゃんとの距離が近い音羽ちゃんと仲良くなろうとしたのでしょう。
 そして、怜央さんを通じて、一華さんは音羽ちゃんの恋心を知ったんですね。一華さんからの手紙では、音羽ちゃんは、一華さんの想いを知ったから、一人で帰ってしまったのではないかと書かれていました。でも、私はそこに疑問を感じました。
 本当は、怜央さんの由衣ちゃんへの恋心も、音羽ちゃんに知られてしまったのではないですか?仲の良い人が親友のことを好きで、仲の良い人の幼馴染が自分の好きな人に恋をしている。そんなの、私でも混乱しそうです。実際、書いてみてもとても複雑です。
 一華さんと怜央さんは、そうして混乱した音羽ちゃんが、自ら飛び込んだと思っているのですよね。だから怜央さんは、自分のせいだと考えて、お兄ちゃんいわく「全てを諦めたような」状態になっていたのでしょう。
 だけど、お兄ちゃんによると、音羽ちゃんは自殺ではないそうです。飛び込んだのではなく、遮断器に足を引っ掛けてしまったみたいです。音羽ちゃんは普段から精神的に不安定だったということなので、混乱していて遮断器に気付かなかったのかもしれません。急いでいたのは、雨なのに傘を持っていなかったからだと思います。
 以上が、私の推測です。なにか引っかかったら言ってください。そして、これが真実なら、私は誰も悪くないと思います。強いて言えば、お兄ちゃんが悪いでしょうか。お兄ちゃんが関わらなければ、事故後にこんなに拗れなかったかもしれないですね。
 ただ、結果としては、意図せずとも、どれも一華さんの狙い通りになっています。由衣ちゃんへの手紙も、由衣ちゃんをお兄ちゃんから離すためには、かなり効果があったと思います。その手紙からは一華さんのお兄ちゃんへの強い想いがひしひしと伝わってきました。形は違うかもしれないけれど、私もお兄ちゃんのことは大好きなので、お兄ちゃんに振り向いてほしいという気持ちはよくわかります。
 手紙には、由衣ちゃんに嫌がらせはしない、お兄ちゃんを諦めると書いてありましたが、それってとても難しいことではないでしょうか。恋は、そう簡単には諦められないと思います。
 だから、代わりになるとは言わないけれど、抑えきれない気持ちや寂しさがあるなら、私に全部ぶつけてください。余す所なく受け止めます。手紙はお兄ちゃんに渡してもらえれば、お兄ちゃんが中を見ずに私にくれます。
 もしよかったら、お兄ちゃんのどんなところが好きか、教えてほしいです。

                 樋口名月

          ✽