発信源となった人もそうだけれど、広めた人にも罪があると思う。そしておそらく、僕にも。
なにが起きているのか、どうすればいいのかがわからなくなってきた。だけど中野さんとあえて距離を置くことは間違っていない、はずだ。
中野さんをひとりにしたくはないけれど、僕といるのは余計に危ない。
「……ん」
ふいに後で声がしてた。振り向くと、名月が目を擦って体を起こしていた。
「……もう大丈夫そう?」
「お兄ちゃん……。うん、大丈夫。心配かけてごめんね……」
「名月は悪くないよ」
沈んだ表情をする名月に、僕の方が罪悪感に苛まれる。名月がSNSを得意ではないと予想できていたのだから、見る前に止めればよかった。
「由衣ちゃんは……?」
「帰ったよ」
「そっか……。由衣ちゃんにも、迷惑かけちゃった」
「そんなことない、名月は頑張ってくれたんだから。中野さんを迎えに行ってくれたものも、本当にありがとう」
名月は中学校にはスマホを持っていっていない。だから僕からの連絡に気付いたのは帰ってからだっただろうに、文句なんて言わずすぐに対応してくれた。
「それくらい当たり前だよ。……そんなとこ座ってないで、こっち来て」
名月が少し窓側にずれて、自分の隣をポンポンと叩いた。黙って従い、名月の隣に座る。いつもとは違い縦の向きで二人並ぶ格好になるから、少し狭い。
「寝る前にちょっと聞いてたけど、由衣ちゃんのこと一人にして大丈夫なの?」
「大丈夫だとは思えないけど、僕と一緒にいても安全じゃないから」
「そうなのかなぁ……」
「そうだよ」
さっきの画面の中にも、中野さんが僕と一緒にいることを嫌がっているようなものが、いくつも見受けられた。
「そういえば、お兄ちゃん、さっき怒ってたよね」
「え?ああ、名月が気分悪くなったときの……」
怒りというほど強い感情が湧いてきたわけではないけれど、名月を傷つけられたことがどうしても許せなかった。
今は落ち着いているけれど、自分でもそんなことを感じるのは珍しいなと思う。
「私嬉しかったよ。お兄ちゃんが私のことを思って怒ってくれて」
「そう……?僕は怯えさせてないか心配だったけど」
「由衣ちゃんを?大丈夫でしょ、私じゃないと気付かないくらいだったもん。それにお兄ちゃん、怒っても怖くないし」
「馬鹿にしてる?」
「褒めてるの!」
怒りの感情を持つことが誰かのためになるなんて思ったこともなかった。でも自分でも扱いに困る感情だから、できれば持ちたくない。
急に、僕の左手にふわっと熱が乗った。名月の右手だった。
「お兄ちゃんは、もうちょっと自分を大切にしたほうがいいよ。あと、もっと私に頼るってことを覚えてほしい」
好きでもないものを大切にしろと言われても、難しい。
「……今日はけっこう頼っちゃったよね」
「由衣ちゃんを迎えに行ったこと?あとはSNS見たこと?それじゃあ全然足りないよ」
「そんなこと言われても」
自分のことは大切だと思えないけれど、名月のことは大切だ。だからこそ、できるだけ苦労をかけたくない。
「あるでしょ?私に頼ること」
「なんのこと?」
「私でしか、してあげられないこと」
名月でしかできないこと。なんだろう。中野さんに関することだろうか。
「……中野さんを元気付けること?」
「そっちなの?それもやるけど、他には?」
「他……?」
「私にしか、お兄ちゃんにできないことだよ」
そう言われて、ますますわからなくなる。名月が考えていることはだいたいわかっていたつもりだけれど、今は検討もつかなかった。
逆に考えて、僕が名月にしてほしいことといえば……疲れを和らげてもらうことか。
「なんか思いついた?」
「名月にしてほしいことなら」
「なに?言ってみて」
「恥ずかしいからやだ……」
「へえ、お兄ちゃんでも恥ずかしがることあるんだね」
いつの間にか輝きを取り戻した名月の目から、逃げるように顔を逸らした。
「素直じゃないなあ」
からかうような声が耳に飛び込んできたと思ったら、続けて僕の体が熱に包まれた。
「ちょっと……」
「こうしてほしかったんでしょ?」
否定はできない。だから、素直に名月に体を預けるしかなかった。
「自分が元気じゃないと、人は救えないよ?」
「うん……」
それは、確かにその通りだと思う。でも、自分が救われたい人の言い訳なんじゃないかとも思った。
だけど、名月がまるで自分がこうしたかったかのように包みこんでくるから、そんなことはどうでもよくなった。
これも、都合の良い解釈かもしれないけれど。
「お兄ちゃんもぎゅーしてよ」
「ええ……」
「嫌なの?」
「そうじゃないけど」
言われるままに名月の背中に手を回した。今まであまり意識してこながったけれど、身長や体格がほとんど同じだからか、こういうことがやりやすい。
「……中野さんのことも、こうやって元気付けるつもりなの?」
熱に包まれたまま、名月の耳元で尋ねる。
「ううん。また別の、お兄ちゃんにはできない方法で。あとで、スマホ貸してね」
「……?うん」
なにをするつもりなのかはわからないけど、名月に任せておけば間違いはない。
あまり名月に苦労させたくないのは変わらないけれど、これから名月の力をかなり借りることになりそうだった。
✽
夜、お風呂から上がってベッドで寝転がっていた。
最近ではゆっくり休めるのはこの時間だけだ。しかも、いつもは次の日のことを考えて気持ちが沈んでしまうこともあるけれど、今日は金曜日だから、明日は休み。
先週は慌ただしかったけれど、この週末で少しでも元気を取り戻したい。
呆けたように天井を見ていると、突然机の上のスマホがけたたましく振動した。電話……?急いで体を起こして手に取ると、結月くんからだった。
「もしもし」
『あっ、由衣ちゃん、こんばんは。遅くにすみません』
結月くんかと思ったら、声が結月くんよりも高い。
「えっ、名月ちゃん?」
『はい、名月です!お兄ちゃんの携帯借りてます』
驚いたけれど、聞こえてきた明るい声にほっとする。SNSによるショックからは回復したようだ。
「なにかあったの?」
『いえ。ただ、ちょっと由衣ちゃんにお誘いしたいことががあって』
「誘い?」
私には聞き慣れない単語だった。聞き間違いかと思って、見えないのに首をかしげる。
『はい。あの、もしよかったら、日曜日、私とお出かけしませんか?』
「えっ。それって、どこかに遊びに行くってこと?」
『遊びでもいいし、ご飯でもいいです。とにかく、気分転換しましょう』
そんなの、まるでデートだ。だけどそこで、名月ちゃんの狙いがようやくわかった。名月ちゃんは、私を元気付けようとしてくれているようだった。
結月くんといるところをクラスメイトに見られたら、またなにかされるかもしれない。でも、名月ちゃんとなら問題はない。
「ありがとう……。でも、名月ちゃんはいいの?」
『もちろんです。むしろ私が由衣ちゃんとお出かけしたくて』
「そんな……ありがとう」
高校生になってからは音羽ちゃんとしかどこかに出かけたことはなかったし、私はそれで十分だった。
でも、前に二人で出かけたのは夏休み中だったから、もうけっこう時間が経っている。音羽が事故に遭ったあの日から憂鬱な気分も溜まっていたから、私もちょうど、そろそろ外に出たいと思っていた。
『由衣ちゃんは、どこか行きたいところありますか?』
「えっと、人が多くないところがいいかな。あと、できれば遠くがいい」
『わかりました!探しておきますね』
「私もいろいろ探してみるよ。決まったら、また結月くんに電話すればいいかな」
『はい!日曜日会ったときに、私の連絡先も教えますね』
「ありがとう。じゃあ、いろいろ調べたらまた電話するね」
『こちらこそ、ありがとうございます。楽しみ』
電話を切ったあと、まだなにも決まっていないのに、不思議な満足感に包まれていた。名月ちゃんの声は、電話越しでも聞き心地が良い。
元気付けてもらうだけじゃなくて、名月ちゃんの話もたくさん聞きたいなと思った。
日曜日は、昨日までより少し暑くなった。
約束の時間に家を出ると、白のTシャツを着た女の子が、ひょこっと顔を出した。
「由衣ちゃん!私服可愛い……!」
「え、そ、そうかな……」
「ほんとに可愛いです」
極端に着飾るのは好きではないから、何の変哲もなく身の丈にあった服装にした。私服を褒められるのが初めてで照れてしまう。
「照れてる顔も可愛い」
「からかわないでよ……」
「からかってないですよ。お兄ちゃんだって、今の由衣ちゃんのこと見たら可愛いって思うはずです」
「結月くんが……?」
先週の土曜日に結月くんと会ったときは、特になにも言われなかった。むしろ結月くんの私服が似合いすぎていて、私が隣にいていいのかなと思ったくらいだ。
「そうですよ。私とお兄ちゃん、人の好みも同じだから」
「そうなんだ」
名月ちゃんが言うならその通りなのだろうと思う。結月くんに好かれていたら嬉しい。でも、私なんかがいいのかなとも思ってしまう。
それより、好みが同じということは、名月ちゃんも音羽ちゃんと気が合うかもしれない。一昨日から考えていたけれど、やはり名月ちゃんも、音羽ちゃんと会わせたい。
「それじゃあ、行きましょう」
「うん。今日はよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
こんなに明るい子と私が関われているのも不思議だった。名月ちゃんもみんなから好かれそうな魅力を持っているのに、「みんな」ではない私でも話しやすい。
そういうところも、結月くんと一緒なのかもしれない。
二人で駅に行き、高校とは反対方向の電車に乗る。
「こっちの方に行くの久しぶりだな……」
「私もです」
「名月ちゃんって、結月くんと二人で出かけることあるの?」
「二人で本を買いに行くことはありますけど、それ以外だと、最近は全然ないです……」
名月ちゃんが寂しそうな表情を見せた――わけではないけれど、私は心の中で「結月くん、名月ちゃんとデートしてあげて」と勝手に願った。
「結月くんも名月ちゃんも、すごく本が好きなんだね」
「本とお兄ちゃんだけが、私に寄り添ってくれるので。私にとってもお兄ちゃんにとっても、逃げ場みたいなものです」
「本と結月くんだったらどっちが好き?」
「それはもちろん、お兄ちゃん……って、恥ずかしいからやめてください……!」
「ふふ、ごめんね」
名月ちゃんは結月くんのことを大好きだという気持ちが溢れている。こんなにわかりやすいのに、気付いていないとなると、結月くんに言ってあげたくなる。あなたの妹はお兄ちゃんのことが大好きなんだよ、と。
本は、私もときどき読むから、その魅力や名月ちゃんの気持ちもなんとなく理解できる。特に書店に行くと、その世界の多さに圧倒される。
だから、今日、まず最初に行くのは、普段は行かない大きな書店。その後のことは詳しくは決めていない。
三十分ほどで電車を降りて、目的の場所に着く。中に入り、二人で店内を見て回った。文庫本エリアに来たとき、一冊の小説が私の目に止まった。青っぽいカバーの、青春恋愛小説だった。
「なにか気になったのありましたか?」
「あ、うん。これ……」
隣に来た名月ちゃんが私の視線を追う。
「あ……この本、私好きです」
「読んだことあるんだ。どんな話なの?」
「両想いなのに、言えないまますれ違っちゃう、切ない恋の物語です」
「へえ……気になる」
すれ違い。切ない恋。それを聞いて私の頭に一人の女の子が思い浮かぶ。音羽ちゃんだ。
そこで私は、あっ、と声を上げそうになった。そのことは、まさか一連の出来事に関係ないだろうと思っていた。
でも、もしかして、音羽ちゃんや私が誰かに追い詰められた理由は――。
「由衣ちゃん、これ買いますか?」
名月ちゃんの言葉で我に返り、思わずうなずく。
「うん。読んでみたい」
もしかしたらこの本から、ヒントが得られるかもしれない。
私の勘違いだったら、いや、勘違いではないほうがいいのだろうか。
恋。間接的には何度も見たけれど、まだ私にはわからない。
お昼は、また少し移動して、落ち着いた雰囲気のカフェに入った。外食なんていつぶりだろう。
けれど、書店で考えたついたことが気になって、それどころではなかった。
そういえば、書店での様子を見るに、目の前の人も恋愛小説は好きなようだった。アイスコーヒーを一口飲んでから尋ねてみる。
「……名月ちゃんって、恋愛的に好きな人、いるの?」
「えっ、なんですか急に」
「さっき恋愛小説の話したから、気になって」
名月ちゃんは少し考えてから、軽く首を横に振った。
「いないです。今まで恋したこともないです。由衣ちゃんは?」
「私も一緒。恋愛相談受けたことならあるけど……」
「私もあります。だけど、恋したことないから、どう答えていいかわからないです」
「そうだよね。少しずつ距離詰めてみたらって言っても、実際には難しいだろうし」
「恋愛って、見てる方もいろいろとドキドキしちゃうんですよね」
だから、恋愛は大変だと、経験したことがなくても思う。本を読んでいても、決して叶う恋ばかりではない。
「じゃあ、名月ちゃんは、恋したいとは思う?」
「うーん……」
名月ちゃんが頬杖をついて考え込む。結月くんもそうだったけれど、考えているときの仕草が絵になる。
「自然と好きにならない限り、別にいいかなって思います。無理に恋したくはないです」
「私もそう思う。そもそも、『恋愛する』っていう言葉がなんか違うというか……。恋愛って、しようとしてするものじゃなくて、好きになっちゃうものなのかなって思う。伝わる?」
「わかります。クラスのみんなのこと見てても、恋愛に浮かされてる感じがするんですよね」
「うん。すぐ付き合って、すぐ別れて、また別の人と付き合って……。それで幸せなのかなって思っちゃう」
こう考えてしまうのも、私が捻くれているからなのかもしれない。
それでも名月ちゃんも、否定することなくうなずいてくれている。だから話しやすいけれど、話しすぎてはいけない。
「私も思います。お互いに本気で相手のことを好きじゃないと、幸せにはならないと思うんですよね……」
私も名月ちゃんの言葉にこくこくとうなずく。本気で好き。そう思える人が私にはできるのだろうか。
「それで言うと、名月ちゃんと結月くんは幸せになりそうだね」
「えっ、そ、そうですか……?私の片思いですよ……」
「ううん。結月くんも、名月ちゃんのこと、きっと好きだよ」
「そうだったら嬉しいな……。うん、恋してなくても、私はお兄ちゃんがいれば十分です」
別に恋をしなくたって生きていける。名月ちゃんと結月くんは、ただの兄妹でもなく、カップルでもなく、恋以上に強い絆で繋がっているように思えた。
――それなら、他の人が入る隙なんてないんじゃないだろうか。
結月くんに好きな人がいるのかはわからない。でも、もし、いるとしたら。
「……名月ちゃんは、結月くんに好きな人がいたらどうするの?」
「想像はしたくないですけど……相思相愛なら、私はそれを応援します。お兄ちゃんが幸せになってくれることがいちばんだから」
「すごいね……」
こんなに大切に思われて、結月くんが羨ましい。感心するとともに、意外と名月ちゃんの引きが良さそうで驚いた。名月ちゃんの想いが恋愛とは違うからなのだろうか。
でもこれなら、会わせても大丈夫だと思う。また少しコーヒーを口に含んでから、言葉を続ける。
「そういえば、名月ちゃんって、音羽ちゃんと会ったことある?」
「わからないです。顔を見たら思い出すかも……」
名月ちゃんと結月くんは同じ中学校だろうから、名月ちゃんが音羽ちゃんのことを見ている可能性はある。
「じゃあ、これから、音羽ちゃんのお見舞い行かない?」
「私と?いいんですか?」
「うん。ひとりじゃ怖いから……」
まだ、結月くんと行ったときの一度しか、音羽ちゃんのお見舞いに行けていない。余裕があれば学校帰りに寄りたいと思っていたけれど、ここ数日はそれができるような状況ではなかった。
カフェを出たあと駅に戻り、また電車に乗る。今日はさすがに、朝から視線を感じていない。もしクラスメイトがいたとしても、私服だから気付かれそうにはないけれど。
音羽ちゃんが入院している病院に行き、病室の扉を開ける。音羽ちゃんは、まだ眠っていた。
病室に入ると、あっ、と、隣から小さな声が聞こえた。
「私、音羽ちゃんのこと、知ってます」
「やっぱり、会ったことあるの?」
「会ったというか、一方的に見ただけで……。中学生のとき、私がお兄ちゃんの教室に行ったら、たまたま二人が話してるのを見かけたんです。お兄ちゃんが誰かと話すのは珍しかったから、覚えてます」
当時から、結月くんも人との関わりは少なかったのか。それなら、結月くんの孤独の時間は、私よりずっと長い。音羽ちゃんも結月くんと同じくらいだと思う。
私は、結月くんと音羽ちゃんの、そして隣にいる名月ちゃんの過去を、ほとんど知らない。そのことに、今になって気付いた。
一定のリズムで寝息を立てる音羽ちゃんに向けて、心の中で語りかける。
――音羽ちゃん、ごめんね。なにもできなくて。音羽ちゃんがつらい思いをしながら生きていることに、気付いていたのに。
ねえ、起きたら、今度は、たくさん音羽ちゃんのお話、聞かせてね。
届いてほしい。でも、届かなくてもいい。音羽ちゃんが起きたあと、この思いを叶えられるかどうかは、私次第だ。
「……音羽ちゃんは、由衣ちゃんにとって、すごく大切な人なんですね」
隣の名月ちゃんが、穏やかな表情で私を見ていた。
「うん。すごく大切で、大好きな人」
この気持ちも、直接伝えられるようになりたい。
「名月ちゃん」
「はい」
「私と音羽ちゃんが出会ったときの話とかって、結月くんから、聞いてる?」
「聞いてないです。お兄ちゃんは、あったことと自分の考えしか話さないので」
結月くんらしいなと思った。別に名月ちゃんになら、話してくれてもいいのに。
「それじゃあ、よかったら、私の家来てくれないかな。いろいろ話したいから」
「由衣ちゃんの家?行きます!」
「そんな豪華なところじゃないけど……」
「私はその方が好きですよ」
今日一日一緒にいて思ったけれど、名月ちゃんが「良い」とか「好き」と思う基準は、私と似ている。つまり、周りのみんな、今までのクラスメイトと比べると、ずれている。
価値観の違い、感覚のずれというのは、集団生活を送るうえでのネックになると思う。それでも名月ちゃんは、全くそんな様子を感じさせない。年下だけれど、尊敬できるなと思った。
部屋に家族以外の人を入れたのはこれが二度目だった。一度、音羽ちゃんに来てもらったことがある。
名月ちゃんは私の部屋に入るなり、「可愛い」と言っていた。
飾り気もなく、視覚的にも静かな空間。こんなところを可愛いと言ってくれるのは名月ちゃんくらいだと思う。音羽ちゃんは「落ち着くね」と言っていたなと思い出す。
私は名月ちゃんに、中学生のときの気持ち、音羽ちゃんとの馴れ初めなどを話した。結月くんと話したときとほぼ同じ内容だ。
けれど、それだけじゃない。
「……一年生のときは、ずっとひとりでいたから、ずっと寂しくて」
名月ちゃんは時折相槌を打ちながら、私の話を聞いてくれている。そのせいで、話したくなってしまう。それは小悪魔の誘惑のようにも思えた。
だけど今は、その誘惑に乗ることにする。
「だから、音羽ちゃんと仲良くなれて嬉しかった。でも、音羽ちゃんが事故に遭って……またひとりになっちゃうんじゃないかって、すごく怖かった」
これは、結月くんには言えない話だった。言ったらきっと困らせてしまうから。名月ちゃんにも言わないでおこうと思っていたけれど、誘惑のせいで、言わずにはいられなかった。
「でも、そんなときに結月くんが声をかけてくれたから、大丈夫かなって、少し思えたんだ。だけど、またいろんなことが起こって、結月くんとは一緒にいられなくなっちゃったから……本当は、それが、すごく……寂しい」
「……うん」
その方が安全だという結月くんの言葉は、わかる。わかるんだけど、嫌だと思う自分がいる。
「だから、名月ちゃんがお出かけしようって誘ってくれて、今日こうやって一緒に過ごせて、ほんとに嬉しかったよ。ありがとう」
そう告げると、名月ちゃんは困ったように笑った。
「……それはずるいです」
「ずるい……?」
「寂しいなら、寂しいって何度も言っていいんですよ。本当は、もっと思ってることがあるんじゃないですか?」
「え……」
「私が、なんでも聞きますから」
さすがは結月くんの妹だ。私の気持ちなんて、全部お見通しのようだった。人のことをよく見ている。
本当に、なんでも聞いてくれるというのなら。
「……名月ちゃん、無理なお願い、してもいいかな」
「はい」
「……そばにいてほしい」
そんなことは無理だと、私だって理解している。だけどこれは、結月くんには隠していた、私の本音だった。
恐る恐る名月ちゃんの表情を窺うと、たちまち花が咲くような笑顔が返ってきた。
「もちろんです。でも、物理的に近くにいることは難しいので……話したくなったら、いつでも電話してください」
「……いいの?」
「はい。すっかり忘れてましたけど、連絡先、交換しましょう」
「あっ、そういえば……」
日曜日連絡先を交換しようねという話を、昨日あたりにしていた。一緒にお出かけすることを満喫していて、私も忘れるところだった。
連絡先を交換してスマホをしまうと、名月ちゃんが再び私のことをまっすぐに見据える。
「お守りになるかはわからないですけど……これだけは覚えていてほしくて」
「うん」
「私たちは、由衣ちゃんと音羽ちゃんの味方です。だから、いつでも頼ってください」
やわらかい声に、心が優しく撫でられるような感覚を得た。
「……うん。ありがとう、名月ちゃん」
✽
名月と中野さんは、今頃なにをしているだろう。
『お兄ちゃんは家で休んでて、絶対だよ』
朝、名月に言われたことが何度も頭をよぎる。休めと言われても、体はともかく、頭はずっと、働かせずにはいられなかった。
ちょうど今読み終わった本を、そっと閉じて隣に置く。これで今日二冊目だった。ほぼ一日中ベッドに座って本を読んでいたから、体を動かすと痛みそうだ。
さすがに、一日に二つの世界を浴びるのは、精神的にもきつかったかもしれない。物語に没入しすぎてつらくなってしまう。この感覚は好きでもあるけれど、一日に何度も抱きたいものではない。
たった今読み終えたのは、余命ものの恋愛小説だった。だから余計に心が重くなる。この感じも、嫌いではないけれど。
恋愛。それは、必ずしも綺麗なものだけではない。むしろ現実には、そういうものの方が多いのかもしれない。なんて、恋愛について語れるほどの直接体験を、僕は持っていないのだけど。
ただ、今気にかかるのは、もしかしたらそれが鍵を握るかもしれない、別のことについてだった。
宮原さんや中野さんの件に関して、僕は「恋愛」というものを、無意識のうちに可能性から排除していた。今日小説を読んで、それに初めて気付かされた。
思い込みは危険だと、わかっていたはずなのに。
ただ、本当に恋愛が絡んでいるのだとしても、それがどういう形で、なのかは考えてみてもわからない。中野さんは僕がクラスで「好かれている」と言っていたけれど、それは本当の恋愛ではないはずだ。
ありえるとしたら――そもそもなぜ片岡くんは宮原さんに接近したのか、その疑問の答えとなるかもしれない。片岡くんは、紙を書いた人ではないにしても、なにかを、特に自分の気持ちを隠している。
隠したい理由は、まさか、恋愛が絡んでいるからなのか。
もしそれが合っているなら、先の見えない闇の中に、少し、光が差すかもしれない。
なにが起きているのか、どうすればいいのかがわからなくなってきた。だけど中野さんとあえて距離を置くことは間違っていない、はずだ。
中野さんをひとりにしたくはないけれど、僕といるのは余計に危ない。
「……ん」
ふいに後で声がしてた。振り向くと、名月が目を擦って体を起こしていた。
「……もう大丈夫そう?」
「お兄ちゃん……。うん、大丈夫。心配かけてごめんね……」
「名月は悪くないよ」
沈んだ表情をする名月に、僕の方が罪悪感に苛まれる。名月がSNSを得意ではないと予想できていたのだから、見る前に止めればよかった。
「由衣ちゃんは……?」
「帰ったよ」
「そっか……。由衣ちゃんにも、迷惑かけちゃった」
「そんなことない、名月は頑張ってくれたんだから。中野さんを迎えに行ってくれたものも、本当にありがとう」
名月は中学校にはスマホを持っていっていない。だから僕からの連絡に気付いたのは帰ってからだっただろうに、文句なんて言わずすぐに対応してくれた。
「それくらい当たり前だよ。……そんなとこ座ってないで、こっち来て」
名月が少し窓側にずれて、自分の隣をポンポンと叩いた。黙って従い、名月の隣に座る。いつもとは違い縦の向きで二人並ぶ格好になるから、少し狭い。
「寝る前にちょっと聞いてたけど、由衣ちゃんのこと一人にして大丈夫なの?」
「大丈夫だとは思えないけど、僕と一緒にいても安全じゃないから」
「そうなのかなぁ……」
「そうだよ」
さっきの画面の中にも、中野さんが僕と一緒にいることを嫌がっているようなものが、いくつも見受けられた。
「そういえば、お兄ちゃん、さっき怒ってたよね」
「え?ああ、名月が気分悪くなったときの……」
怒りというほど強い感情が湧いてきたわけではないけれど、名月を傷つけられたことがどうしても許せなかった。
今は落ち着いているけれど、自分でもそんなことを感じるのは珍しいなと思う。
「私嬉しかったよ。お兄ちゃんが私のことを思って怒ってくれて」
「そう……?僕は怯えさせてないか心配だったけど」
「由衣ちゃんを?大丈夫でしょ、私じゃないと気付かないくらいだったもん。それにお兄ちゃん、怒っても怖くないし」
「馬鹿にしてる?」
「褒めてるの!」
怒りの感情を持つことが誰かのためになるなんて思ったこともなかった。でも自分でも扱いに困る感情だから、できれば持ちたくない。
急に、僕の左手にふわっと熱が乗った。名月の右手だった。
「お兄ちゃんは、もうちょっと自分を大切にしたほうがいいよ。あと、もっと私に頼るってことを覚えてほしい」
好きでもないものを大切にしろと言われても、難しい。
「……今日はけっこう頼っちゃったよね」
「由衣ちゃんを迎えに行ったこと?あとはSNS見たこと?それじゃあ全然足りないよ」
「そんなこと言われても」
自分のことは大切だと思えないけれど、名月のことは大切だ。だからこそ、できるだけ苦労をかけたくない。
「あるでしょ?私に頼ること」
「なんのこと?」
「私でしか、してあげられないこと」
名月でしかできないこと。なんだろう。中野さんに関することだろうか。
「……中野さんを元気付けること?」
「そっちなの?それもやるけど、他には?」
「他……?」
「私にしか、お兄ちゃんにできないことだよ」
そう言われて、ますますわからなくなる。名月が考えていることはだいたいわかっていたつもりだけれど、今は検討もつかなかった。
逆に考えて、僕が名月にしてほしいことといえば……疲れを和らげてもらうことか。
「なんか思いついた?」
「名月にしてほしいことなら」
「なに?言ってみて」
「恥ずかしいからやだ……」
「へえ、お兄ちゃんでも恥ずかしがることあるんだね」
いつの間にか輝きを取り戻した名月の目から、逃げるように顔を逸らした。
「素直じゃないなあ」
からかうような声が耳に飛び込んできたと思ったら、続けて僕の体が熱に包まれた。
「ちょっと……」
「こうしてほしかったんでしょ?」
否定はできない。だから、素直に名月に体を預けるしかなかった。
「自分が元気じゃないと、人は救えないよ?」
「うん……」
それは、確かにその通りだと思う。でも、自分が救われたい人の言い訳なんじゃないかとも思った。
だけど、名月がまるで自分がこうしたかったかのように包みこんでくるから、そんなことはどうでもよくなった。
これも、都合の良い解釈かもしれないけれど。
「お兄ちゃんもぎゅーしてよ」
「ええ……」
「嫌なの?」
「そうじゃないけど」
言われるままに名月の背中に手を回した。今まであまり意識してこながったけれど、身長や体格がほとんど同じだからか、こういうことがやりやすい。
「……中野さんのことも、こうやって元気付けるつもりなの?」
熱に包まれたまま、名月の耳元で尋ねる。
「ううん。また別の、お兄ちゃんにはできない方法で。あとで、スマホ貸してね」
「……?うん」
なにをするつもりなのかはわからないけど、名月に任せておけば間違いはない。
あまり名月に苦労させたくないのは変わらないけれど、これから名月の力をかなり借りることになりそうだった。
✽
夜、お風呂から上がってベッドで寝転がっていた。
最近ではゆっくり休めるのはこの時間だけだ。しかも、いつもは次の日のことを考えて気持ちが沈んでしまうこともあるけれど、今日は金曜日だから、明日は休み。
先週は慌ただしかったけれど、この週末で少しでも元気を取り戻したい。
呆けたように天井を見ていると、突然机の上のスマホがけたたましく振動した。電話……?急いで体を起こして手に取ると、結月くんからだった。
「もしもし」
『あっ、由衣ちゃん、こんばんは。遅くにすみません』
結月くんかと思ったら、声が結月くんよりも高い。
「えっ、名月ちゃん?」
『はい、名月です!お兄ちゃんの携帯借りてます』
驚いたけれど、聞こえてきた明るい声にほっとする。SNSによるショックからは回復したようだ。
「なにかあったの?」
『いえ。ただ、ちょっと由衣ちゃんにお誘いしたいことががあって』
「誘い?」
私には聞き慣れない単語だった。聞き間違いかと思って、見えないのに首をかしげる。
『はい。あの、もしよかったら、日曜日、私とお出かけしませんか?』
「えっ。それって、どこかに遊びに行くってこと?」
『遊びでもいいし、ご飯でもいいです。とにかく、気分転換しましょう』
そんなの、まるでデートだ。だけどそこで、名月ちゃんの狙いがようやくわかった。名月ちゃんは、私を元気付けようとしてくれているようだった。
結月くんといるところをクラスメイトに見られたら、またなにかされるかもしれない。でも、名月ちゃんとなら問題はない。
「ありがとう……。でも、名月ちゃんはいいの?」
『もちろんです。むしろ私が由衣ちゃんとお出かけしたくて』
「そんな……ありがとう」
高校生になってからは音羽ちゃんとしかどこかに出かけたことはなかったし、私はそれで十分だった。
でも、前に二人で出かけたのは夏休み中だったから、もうけっこう時間が経っている。音羽が事故に遭ったあの日から憂鬱な気分も溜まっていたから、私もちょうど、そろそろ外に出たいと思っていた。
『由衣ちゃんは、どこか行きたいところありますか?』
「えっと、人が多くないところがいいかな。あと、できれば遠くがいい」
『わかりました!探しておきますね』
「私もいろいろ探してみるよ。決まったら、また結月くんに電話すればいいかな」
『はい!日曜日会ったときに、私の連絡先も教えますね』
「ありがとう。じゃあ、いろいろ調べたらまた電話するね」
『こちらこそ、ありがとうございます。楽しみ』
電話を切ったあと、まだなにも決まっていないのに、不思議な満足感に包まれていた。名月ちゃんの声は、電話越しでも聞き心地が良い。
元気付けてもらうだけじゃなくて、名月ちゃんの話もたくさん聞きたいなと思った。
日曜日は、昨日までより少し暑くなった。
約束の時間に家を出ると、白のTシャツを着た女の子が、ひょこっと顔を出した。
「由衣ちゃん!私服可愛い……!」
「え、そ、そうかな……」
「ほんとに可愛いです」
極端に着飾るのは好きではないから、何の変哲もなく身の丈にあった服装にした。私服を褒められるのが初めてで照れてしまう。
「照れてる顔も可愛い」
「からかわないでよ……」
「からかってないですよ。お兄ちゃんだって、今の由衣ちゃんのこと見たら可愛いって思うはずです」
「結月くんが……?」
先週の土曜日に結月くんと会ったときは、特になにも言われなかった。むしろ結月くんの私服が似合いすぎていて、私が隣にいていいのかなと思ったくらいだ。
「そうですよ。私とお兄ちゃん、人の好みも同じだから」
「そうなんだ」
名月ちゃんが言うならその通りなのだろうと思う。結月くんに好かれていたら嬉しい。でも、私なんかがいいのかなとも思ってしまう。
それより、好みが同じということは、名月ちゃんも音羽ちゃんと気が合うかもしれない。一昨日から考えていたけれど、やはり名月ちゃんも、音羽ちゃんと会わせたい。
「それじゃあ、行きましょう」
「うん。今日はよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
こんなに明るい子と私が関われているのも不思議だった。名月ちゃんもみんなから好かれそうな魅力を持っているのに、「みんな」ではない私でも話しやすい。
そういうところも、結月くんと一緒なのかもしれない。
二人で駅に行き、高校とは反対方向の電車に乗る。
「こっちの方に行くの久しぶりだな……」
「私もです」
「名月ちゃんって、結月くんと二人で出かけることあるの?」
「二人で本を買いに行くことはありますけど、それ以外だと、最近は全然ないです……」
名月ちゃんが寂しそうな表情を見せた――わけではないけれど、私は心の中で「結月くん、名月ちゃんとデートしてあげて」と勝手に願った。
「結月くんも名月ちゃんも、すごく本が好きなんだね」
「本とお兄ちゃんだけが、私に寄り添ってくれるので。私にとってもお兄ちゃんにとっても、逃げ場みたいなものです」
「本と結月くんだったらどっちが好き?」
「それはもちろん、お兄ちゃん……って、恥ずかしいからやめてください……!」
「ふふ、ごめんね」
名月ちゃんは結月くんのことを大好きだという気持ちが溢れている。こんなにわかりやすいのに、気付いていないとなると、結月くんに言ってあげたくなる。あなたの妹はお兄ちゃんのことが大好きなんだよ、と。
本は、私もときどき読むから、その魅力や名月ちゃんの気持ちもなんとなく理解できる。特に書店に行くと、その世界の多さに圧倒される。
だから、今日、まず最初に行くのは、普段は行かない大きな書店。その後のことは詳しくは決めていない。
三十分ほどで電車を降りて、目的の場所に着く。中に入り、二人で店内を見て回った。文庫本エリアに来たとき、一冊の小説が私の目に止まった。青っぽいカバーの、青春恋愛小説だった。
「なにか気になったのありましたか?」
「あ、うん。これ……」
隣に来た名月ちゃんが私の視線を追う。
「あ……この本、私好きです」
「読んだことあるんだ。どんな話なの?」
「両想いなのに、言えないまますれ違っちゃう、切ない恋の物語です」
「へえ……気になる」
すれ違い。切ない恋。それを聞いて私の頭に一人の女の子が思い浮かぶ。音羽ちゃんだ。
そこで私は、あっ、と声を上げそうになった。そのことは、まさか一連の出来事に関係ないだろうと思っていた。
でも、もしかして、音羽ちゃんや私が誰かに追い詰められた理由は――。
「由衣ちゃん、これ買いますか?」
名月ちゃんの言葉で我に返り、思わずうなずく。
「うん。読んでみたい」
もしかしたらこの本から、ヒントが得られるかもしれない。
私の勘違いだったら、いや、勘違いではないほうがいいのだろうか。
恋。間接的には何度も見たけれど、まだ私にはわからない。
お昼は、また少し移動して、落ち着いた雰囲気のカフェに入った。外食なんていつぶりだろう。
けれど、書店で考えたついたことが気になって、それどころではなかった。
そういえば、書店での様子を見るに、目の前の人も恋愛小説は好きなようだった。アイスコーヒーを一口飲んでから尋ねてみる。
「……名月ちゃんって、恋愛的に好きな人、いるの?」
「えっ、なんですか急に」
「さっき恋愛小説の話したから、気になって」
名月ちゃんは少し考えてから、軽く首を横に振った。
「いないです。今まで恋したこともないです。由衣ちゃんは?」
「私も一緒。恋愛相談受けたことならあるけど……」
「私もあります。だけど、恋したことないから、どう答えていいかわからないです」
「そうだよね。少しずつ距離詰めてみたらって言っても、実際には難しいだろうし」
「恋愛って、見てる方もいろいろとドキドキしちゃうんですよね」
だから、恋愛は大変だと、経験したことがなくても思う。本を読んでいても、決して叶う恋ばかりではない。
「じゃあ、名月ちゃんは、恋したいとは思う?」
「うーん……」
名月ちゃんが頬杖をついて考え込む。結月くんもそうだったけれど、考えているときの仕草が絵になる。
「自然と好きにならない限り、別にいいかなって思います。無理に恋したくはないです」
「私もそう思う。そもそも、『恋愛する』っていう言葉がなんか違うというか……。恋愛って、しようとしてするものじゃなくて、好きになっちゃうものなのかなって思う。伝わる?」
「わかります。クラスのみんなのこと見てても、恋愛に浮かされてる感じがするんですよね」
「うん。すぐ付き合って、すぐ別れて、また別の人と付き合って……。それで幸せなのかなって思っちゃう」
こう考えてしまうのも、私が捻くれているからなのかもしれない。
それでも名月ちゃんも、否定することなくうなずいてくれている。だから話しやすいけれど、話しすぎてはいけない。
「私も思います。お互いに本気で相手のことを好きじゃないと、幸せにはならないと思うんですよね……」
私も名月ちゃんの言葉にこくこくとうなずく。本気で好き。そう思える人が私にはできるのだろうか。
「それで言うと、名月ちゃんと結月くんは幸せになりそうだね」
「えっ、そ、そうですか……?私の片思いですよ……」
「ううん。結月くんも、名月ちゃんのこと、きっと好きだよ」
「そうだったら嬉しいな……。うん、恋してなくても、私はお兄ちゃんがいれば十分です」
別に恋をしなくたって生きていける。名月ちゃんと結月くんは、ただの兄妹でもなく、カップルでもなく、恋以上に強い絆で繋がっているように思えた。
――それなら、他の人が入る隙なんてないんじゃないだろうか。
結月くんに好きな人がいるのかはわからない。でも、もし、いるとしたら。
「……名月ちゃんは、結月くんに好きな人がいたらどうするの?」
「想像はしたくないですけど……相思相愛なら、私はそれを応援します。お兄ちゃんが幸せになってくれることがいちばんだから」
「すごいね……」
こんなに大切に思われて、結月くんが羨ましい。感心するとともに、意外と名月ちゃんの引きが良さそうで驚いた。名月ちゃんの想いが恋愛とは違うからなのだろうか。
でもこれなら、会わせても大丈夫だと思う。また少しコーヒーを口に含んでから、言葉を続ける。
「そういえば、名月ちゃんって、音羽ちゃんと会ったことある?」
「わからないです。顔を見たら思い出すかも……」
名月ちゃんと結月くんは同じ中学校だろうから、名月ちゃんが音羽ちゃんのことを見ている可能性はある。
「じゃあ、これから、音羽ちゃんのお見舞い行かない?」
「私と?いいんですか?」
「うん。ひとりじゃ怖いから……」
まだ、結月くんと行ったときの一度しか、音羽ちゃんのお見舞いに行けていない。余裕があれば学校帰りに寄りたいと思っていたけれど、ここ数日はそれができるような状況ではなかった。
カフェを出たあと駅に戻り、また電車に乗る。今日はさすがに、朝から視線を感じていない。もしクラスメイトがいたとしても、私服だから気付かれそうにはないけれど。
音羽ちゃんが入院している病院に行き、病室の扉を開ける。音羽ちゃんは、まだ眠っていた。
病室に入ると、あっ、と、隣から小さな声が聞こえた。
「私、音羽ちゃんのこと、知ってます」
「やっぱり、会ったことあるの?」
「会ったというか、一方的に見ただけで……。中学生のとき、私がお兄ちゃんの教室に行ったら、たまたま二人が話してるのを見かけたんです。お兄ちゃんが誰かと話すのは珍しかったから、覚えてます」
当時から、結月くんも人との関わりは少なかったのか。それなら、結月くんの孤独の時間は、私よりずっと長い。音羽ちゃんも結月くんと同じくらいだと思う。
私は、結月くんと音羽ちゃんの、そして隣にいる名月ちゃんの過去を、ほとんど知らない。そのことに、今になって気付いた。
一定のリズムで寝息を立てる音羽ちゃんに向けて、心の中で語りかける。
――音羽ちゃん、ごめんね。なにもできなくて。音羽ちゃんがつらい思いをしながら生きていることに、気付いていたのに。
ねえ、起きたら、今度は、たくさん音羽ちゃんのお話、聞かせてね。
届いてほしい。でも、届かなくてもいい。音羽ちゃんが起きたあと、この思いを叶えられるかどうかは、私次第だ。
「……音羽ちゃんは、由衣ちゃんにとって、すごく大切な人なんですね」
隣の名月ちゃんが、穏やかな表情で私を見ていた。
「うん。すごく大切で、大好きな人」
この気持ちも、直接伝えられるようになりたい。
「名月ちゃん」
「はい」
「私と音羽ちゃんが出会ったときの話とかって、結月くんから、聞いてる?」
「聞いてないです。お兄ちゃんは、あったことと自分の考えしか話さないので」
結月くんらしいなと思った。別に名月ちゃんになら、話してくれてもいいのに。
「それじゃあ、よかったら、私の家来てくれないかな。いろいろ話したいから」
「由衣ちゃんの家?行きます!」
「そんな豪華なところじゃないけど……」
「私はその方が好きですよ」
今日一日一緒にいて思ったけれど、名月ちゃんが「良い」とか「好き」と思う基準は、私と似ている。つまり、周りのみんな、今までのクラスメイトと比べると、ずれている。
価値観の違い、感覚のずれというのは、集団生活を送るうえでのネックになると思う。それでも名月ちゃんは、全くそんな様子を感じさせない。年下だけれど、尊敬できるなと思った。
部屋に家族以外の人を入れたのはこれが二度目だった。一度、音羽ちゃんに来てもらったことがある。
名月ちゃんは私の部屋に入るなり、「可愛い」と言っていた。
飾り気もなく、視覚的にも静かな空間。こんなところを可愛いと言ってくれるのは名月ちゃんくらいだと思う。音羽ちゃんは「落ち着くね」と言っていたなと思い出す。
私は名月ちゃんに、中学生のときの気持ち、音羽ちゃんとの馴れ初めなどを話した。結月くんと話したときとほぼ同じ内容だ。
けれど、それだけじゃない。
「……一年生のときは、ずっとひとりでいたから、ずっと寂しくて」
名月ちゃんは時折相槌を打ちながら、私の話を聞いてくれている。そのせいで、話したくなってしまう。それは小悪魔の誘惑のようにも思えた。
だけど今は、その誘惑に乗ることにする。
「だから、音羽ちゃんと仲良くなれて嬉しかった。でも、音羽ちゃんが事故に遭って……またひとりになっちゃうんじゃないかって、すごく怖かった」
これは、結月くんには言えない話だった。言ったらきっと困らせてしまうから。名月ちゃんにも言わないでおこうと思っていたけれど、誘惑のせいで、言わずにはいられなかった。
「でも、そんなときに結月くんが声をかけてくれたから、大丈夫かなって、少し思えたんだ。だけど、またいろんなことが起こって、結月くんとは一緒にいられなくなっちゃったから……本当は、それが、すごく……寂しい」
「……うん」
その方が安全だという結月くんの言葉は、わかる。わかるんだけど、嫌だと思う自分がいる。
「だから、名月ちゃんがお出かけしようって誘ってくれて、今日こうやって一緒に過ごせて、ほんとに嬉しかったよ。ありがとう」
そう告げると、名月ちゃんは困ったように笑った。
「……それはずるいです」
「ずるい……?」
「寂しいなら、寂しいって何度も言っていいんですよ。本当は、もっと思ってることがあるんじゃないですか?」
「え……」
「私が、なんでも聞きますから」
さすがは結月くんの妹だ。私の気持ちなんて、全部お見通しのようだった。人のことをよく見ている。
本当に、なんでも聞いてくれるというのなら。
「……名月ちゃん、無理なお願い、してもいいかな」
「はい」
「……そばにいてほしい」
そんなことは無理だと、私だって理解している。だけどこれは、結月くんには隠していた、私の本音だった。
恐る恐る名月ちゃんの表情を窺うと、たちまち花が咲くような笑顔が返ってきた。
「もちろんです。でも、物理的に近くにいることは難しいので……話したくなったら、いつでも電話してください」
「……いいの?」
「はい。すっかり忘れてましたけど、連絡先、交換しましょう」
「あっ、そういえば……」
日曜日連絡先を交換しようねという話を、昨日あたりにしていた。一緒にお出かけすることを満喫していて、私も忘れるところだった。
連絡先を交換してスマホをしまうと、名月ちゃんが再び私のことをまっすぐに見据える。
「お守りになるかはわからないですけど……これだけは覚えていてほしくて」
「うん」
「私たちは、由衣ちゃんと音羽ちゃんの味方です。だから、いつでも頼ってください」
やわらかい声に、心が優しく撫でられるような感覚を得た。
「……うん。ありがとう、名月ちゃん」
✽
名月と中野さんは、今頃なにをしているだろう。
『お兄ちゃんは家で休んでて、絶対だよ』
朝、名月に言われたことが何度も頭をよぎる。休めと言われても、体はともかく、頭はずっと、働かせずにはいられなかった。
ちょうど今読み終わった本を、そっと閉じて隣に置く。これで今日二冊目だった。ほぼ一日中ベッドに座って本を読んでいたから、体を動かすと痛みそうだ。
さすがに、一日に二つの世界を浴びるのは、精神的にもきつかったかもしれない。物語に没入しすぎてつらくなってしまう。この感覚は好きでもあるけれど、一日に何度も抱きたいものではない。
たった今読み終えたのは、余命ものの恋愛小説だった。だから余計に心が重くなる。この感じも、嫌いではないけれど。
恋愛。それは、必ずしも綺麗なものだけではない。むしろ現実には、そういうものの方が多いのかもしれない。なんて、恋愛について語れるほどの直接体験を、僕は持っていないのだけど。
ただ、今気にかかるのは、もしかしたらそれが鍵を握るかもしれない、別のことについてだった。
宮原さんや中野さんの件に関して、僕は「恋愛」というものを、無意識のうちに可能性から排除していた。今日小説を読んで、それに初めて気付かされた。
思い込みは危険だと、わかっていたはずなのに。
ただ、本当に恋愛が絡んでいるのだとしても、それがどういう形で、なのかは考えてみてもわからない。中野さんは僕がクラスで「好かれている」と言っていたけれど、それは本当の恋愛ではないはずだ。
ありえるとしたら――そもそもなぜ片岡くんは宮原さんに接近したのか、その疑問の答えとなるかもしれない。片岡くんは、紙を書いた人ではないにしても、なにかを、特に自分の気持ちを隠している。
隠したい理由は、まさか、恋愛が絡んでいるからなのか。
もしそれが合っているなら、先の見えない闇の中に、少し、光が差すかもしれない。



