「音羽ちゃん……」
名前をよんでも、当然ながら反応はない。それでも、規則的な寝息から、生きてくれていることを実感できた。安心したからか、私の体の力が抜けるのを感じた。
それでも、いつ目を覚ますかはわからない。覚ましてくれるのかも定かではない。できるだけ早く目覚めて、またその声を聞かせてほしい。
そして、音羽ちゃんがまた結月くんの姿を見れますように。
「……結月くん」
呼びかけると、じっと音羽ちゃんを見ていた結月くんがゆっくり振り向いた。
「前もちょっと訊いたけど、中学生のとき、音羽ちゃんとはどんな関係だったの?」
「宮原さんがどう思ってたのかは分からないけど、僕にとっては、ただのクラスメイトではなかったかな……」
「友達とは違うの?」
「友達……」
結月くんが再び音羽ちゃんの方を見る。表情は静かだけれど、その目は、とても優しく、でもどこか悲しそうだった。そしてまた私に視線を戻す。
「僕は友達って言ってもいいと思ってた。でも、高校生になってからは、ほとんど話せてなかったから……」
「どうして?話そうと思えば話せたんじゃないの?」
「特に理由はないかな……。機会がなかっただけで」
だけど音羽ちゃんは、結月くんと話したいと思っていた。話しかけてほしかった。私は知っている。
「音羽ちゃんと話したくなかったわけじゃないんでしょ?」
「うん。むしろ、話したいくらいだった。でも……」
結月くんにしては珍しく言い淀んだ。普段なら、本人が言いたくないことなら無理に話してほしくはないけれど、この続きは聞かせてほしい。
「でも……?」
結月くんは少し視線を下げたけれど、覚悟を決めた、というより、諦めたように口を開いた。
「人と話すのがね、苦手なんだよ」
「えっ?それって、技術的にって、こと?」
「うん。会話自体は好きだけど、コミュニケーション能力っていうやつは皆無だよ。話してて感じたこと、ない?」
私はふるふると首を横に振った。
「全然思ってないよ。むしろ、会話するの上手だなぁって思ってたくらいだよ」
「そう……?上手くないと思うけど……」
言われてみれば、学校での結月くんはいつもひとりだ。人から話しかけられることはあっても、自分から話しかけているところはめったに見ない。それは、会話が苦手だからだったんだ。
音羽ちゃんも会話は苦手だと言っていた。それなら、二人がなかなか距離を縮められなかったのも頷ける。
私も得意な方ではないから、結月くんの気持ちも少しわかる気がする。
「でも、じゃあ、最初に音羽ちゃんと話したときは、どっちからだったの?」
「宮原さんからだったと思う」
音羽ちゃんから話しかけるなんて。私と音羽ちゃんのときは、先に話しかけたのは私だった。結月くんには、それほど音羽ちゃんの心を惹くなにかがあるのだろう。なんか悔しいけれど、今はそれは置いておく。
「なにかきっかけってあったの?」
「隣の席になったことくらいかな。でも僕は話しかけられるなんて思ってなかったから、けっこうびっくりした」
いつも落ち着いている結月くんが「びっくり」しているところを想像すると、なんだか微笑ましくなる。
でも、もしかしたらその「落ち着き」や冷静さというのも、結月くんがいつもひとりでいるからそう見えるだけなのかもしれない。結月くんのような人には、周りは「おとなしい」という評価をつけがちだ。
「実際話してみて、どうだったの?」
「最初は探り合いだったけど、慣れてくるとすごく話しやすかった。宮原さんは人を傷つけるようなことを言わないから、言葉の耳触りが良くて」
「わかる!音羽ちゃんの言葉って、あったかくて癒されるよね」
たぶんこれは、音羽ちゃんと仲良くなれた人にしかわからない、音羽ちゃんの魅力だ。話してみないと気付けない。音羽ちゃんのその魅力がクラスのみんなにも伝わればいいのに、とずっと思っていた。
「中野さんは、どうやって宮原さんと仲良くなったの?」
「え?私は……音羽ちゃんしかいなかったというか……」
音羽ちゃん本人にすら、私がどんな気持ちで話しかけたのかは話したことがない。だけど――。結月くんは、いつも以上に凪のように静かで穏やかな瞳で、私を見ていた。結月くんになら、言える。
「……中学生のときは、一緒に行動する人は何人かいたんだよ。でも、だんだん楽しいと思えなくなって……。だから、高校では、ひとりだけ友達ができればいいって思ってたの。だけど、誰もできなかった」
私が積極的に友達作りにいかなかったせいだと思う。クラスの勢力図がはっきりしてきたとき、私はひとりになっていた。
ひとりになることに慣れていなかった私は、それから音羽ちゃんと話すようになるまで、中学生後半のときと同じくらいの息苦しさを味わった。
「でも、音羽ちゃんもひとりだった。だからもしかしたら仲良くなれるんじゃないかなって思って、話しかけてみたの」
当時の音羽ちゃんは、なんというか、全てを諦めたような表情をしていた。話しかけづらさも少しあった。だけど、話してみると意外にも気が合って、一緒にいて心が楽だった。
「今では、音羽ちゃんは私にとって、いちばん大切な人なんだよ」
音羽ちゃん本人には言えたことがない。こういうことを口に出すのはかなり恥ずかしい。今、夢の中で私の声を聞いてくれていたらいいなと思った。
「やっぱり素敵な関係だね……。宮原さんと中野さんは本当の親友っていう感じがするから、見てて心があったかくなる」
「ありがとう……」
顔が熱くなっているのを自覚しながら微笑む。結月くんの客観的な視点からの言葉だから、音羽ちゃんも私のことを大切に思ってくれているんじゃないかと思える。
こんな話を、音羽ちゃんとも、事故に遭う前にできていればよかった。そうすれば悲劇は防げただろう。
もしかすると、私への脅迫は、私が音羽ちゃんを救えなかったことに対する、罰なのかもしれない。
✽
もし僕があのとき、もっと踏み込めていれば、中野さんや宮原さんが傷を負うことは防げたのだろうか。
話しかける勇気を出せなくて、高校では宮原さんと話せていなかった。なにより宮原さんが僕のことを良く思ってくれているかどうかわからなくて怖かった――なんて、ただの言い訳だ。
今回の一連の件に関する僕の責任は、当初思っていたよりも、ずっと大きいようだった。だからこそ、僕が解決しなければならないと思う。
昨日、僕の机に入っていた〝脅迫状〟とも取れる紙。ただ前の二枚も含め、文面からは、それほど強く中野さんを排除したがっているようには思えない。
あれは本当に脅迫なのだろうか。
文脈からすると、送り主は中野さんと僕が一緒にいることが気に入らないようだ。でも、どうして。そもそも、これらの紙は、宮原さんの事故とは本当に関係があるのだろうか。
時間が経つにつれて、状況が複雑になっているような――。
「樋口」
どこか沈んだ声に呼ばれて顔を上げる。片岡くんが声と同じ感情を含んだ顔で僕を見下ろしていた。普段なら、片岡くんは友達と昼食を摂っている時間のはずだ。
「ちょっと来てほしい」
「うん」
片岡くんに従い教室を出て、覇気の欠けた背中についていく。片岡くんから声をかけてくるとは思っていなかった。
廊下の隅まで来て片岡くんが立ち止まり、振り返る。負の感情が渦巻いているように見える。しかも、以前よりも増えて。
「……樋口。中野さんと関わらないようにした方がいい」
低い声で言われたのは、あの紙とほぼ同じ内容だった。紙は〝お願い〟だったけれど、こちらは〝助言〟だ。
「……どうして?」
平静を装ってまっすぐに尋ね返すと、片岡くんは目を逸らした。
「危ないから」
「中野さんが?」
「そうじゃなくて……」
片岡くんが言葉を濁す。
僕も今更、中野さんが危ないなんて思わない。けれどそれなら、危ない、とはどういう意味だろう。中野さんと関わっているから危ない?巻き込まれるから?
「片岡くんは、中野さんと僕がなにかされてることを、知ってるの?」
「いや、それは……」
知らないなら、知らないと言えばいいだけの話だ。片岡くんは、なにか知っている。ただ、どうしてもその内容は言いたくないようだった。
それならせめて、片岡くんじゃないことは証明しておきたい。
「片岡くん。いきなりで申し訳ないんだけど、ここに、なんでもいいから文字を書いてくれる?」
「え?文字?」
「うん。なんでもいいから」
手元の手帳とペンを差し出す。片岡くんは躊躇う様子を見せたものの、それらを受け取って、手帳に「こんにちは」と書いた。
――違う。片岡くんじゃない。
「ありがとう……」
手帳とペンを返してもらい、ポケットにしまった。片岡くんではないなら、誰だろう。疑いがある人は、あと一人いる。
「……それで、さっきのことだけど、僕は中野さんから距離を置く気はないよ。ごめんね」
「な……。でも、ほんとに危ないから……」
断られるとは思っていなかったのか、片岡くんは狼狽する様子を見せた。
「心配してくれてるのはわかるけど、今離れる方が危ないと思う……」
本人が自覚しているかはわからないけれど、僕からすると、中野さんの精神は今かなり不安定だ。そんな状態の人をひとりにはできない。
目の前の人物も、同じくらい心配なのだけれど。
「……そっか。ごめん、無理言って」
意外にも片岡くんはあっさりと引き下がった。肩を落として教室へ戻っていくその背中を見つめながら、思考を巡らせる。
片岡くんの言葉は、忠告だった。ニュアンスとしては、中野さんの下駄箱に入っていた紙と同じだ。
『今のうちに樋口くんとの関係を絶ってください』
送り主も片岡くんも、中野さんに危害を加える気はなく、別の誰かがいるということなのか。
ただ、僕の机に入っていた紙は明らかに意味が違う。
『中野さんから離れてください。お願いします』
僕に中野さんから離れるよう望んでいた。忠告とも捉えられなくもないけれど、無理があると思う。
わからない。片岡くんと送り主は、なにがしたいのだろう。
目にかかった前髪を、片手でくしゃりと握りしめた。
考えがまとまらなくて、頭が混乱している。なので放課後、休憩がてら社会科準備室を訪れた。
もはや三島先生の部屋と化しているこの場所は、とても居心地が良い。
「樋口くん、顔がちょっと怖いですよ」
「そうですか?すみません」
「なにか悩み事ですか?」
「悩みというか、考え事というか。答えが出ないんです」
「それは大変ですね」
共感はするけれど、こちらから言わない限り深いことは聞いてこない。その距離感も心地良い。
僕がこの学校でなんとか生きて行けているのは、この居場所の存在のおかげだ。
「深入りのしすぎは禁物ですよ」
「……なんのことか知ってるんですか?」
「詳しくは知りません。でも、教師なので」
生徒が思っているよりも先生は多くのことを知っている。だから頼りがいがあるけれど、少し恐ろしい。
「ご心配はありがたいですけど、深入りせずにはいられないというか……」
「どうしてですか」
「なんとなく、僕が関わったからややこしくなっている気がするんです」
昼休みから考え続けて出た一つの可能性。あってほしくないけれど、ありえないとはいえない。
「自分が気付かないうちに他人に影響を与えていることはよくありますから。ただ、自意識過剰というか、思い込みも危ないですけどね」
「そうですね……」
僕がややこしくしていると思い込んではいけないけれど、一方で、僕は無関係だと過信してもいけない。第三者の立場ならいいけれど、自分が関わっているかもしれないとなると、人はどうしても自己本位になりがちだと思う。
しばらく休んだあと、社会科準備室を出た。すると、教室に戻る途中の廊下で、思いがけず中野さんと鉢合わせした。
「あっ、結月くん」
「中野さん。帰ってなかったんだ」
「えっと、その、一人だと怖くて……。それに、最近はずっと一緒に帰ってたから、今日も一緒に帰れるかなって思っちゃって……ごめんね……!」
探してくれていたのか。軽く頭を下げた中野さんを見て、僕は自分の浅はかさを呪った。
片岡くんとの会話で、中野さんをひとりにはできないと言ったばかりなのに。
「そうだよね、ごめん……。一緒に帰っていいかな」
「うん……!ありがとう」
胸をなで下ろした中野さんを見ながら、罪悪感に駆られる。この状況でいちばんつらいのは、中野さんだ。中野さんを差し置いて自分だけ楽になるなんて、許されない。
このちっぽけな存在が、気付かないうちに誰かの支えになったり、あるいは邪魔になっているのかもしれない。
自分のことも含めて、もっと平坦な目線で見ないといけない。
身体的にも精神的にも小さいのだから、もっと成長しないといけないのだ。
✽
結月くんは自分のとこを小さく見すぎだと思う。どれだけ私の支えになっているのかを教えてあげたい。それに、音羽ちゃんにとっても、結月くんは心の柱になっていたはずだ。
昨日は我儘を言って困らせてしまった。でも、ひとりになるのがとてつもなく怖かった。こんなことを言うと、以前の私に「私はいつもひとりなのに」と怒られるかもしれない。だけど、本当に怖かった。
誰かに狙われているんじゃないかという恐怖が、周りの人を鬼にする。電車に乗っている知らない人が、全員敵に見えてくる。
「……っ」
どこからか視線を感じて顔を上げる。だけど見た限りだと、誰も私のことを見ていない。というより、どの人も信じられなくて、誰に見られているのかわからない。
今日、家の最寄り駅に入ったときくらいから、誰かに見られているような気がしていた。
学校で結月くんに観察されていたことは、ずっと気付いていなかった。それなのに今は、どこからか視線を感じる。私の幻想か、それともそこに込められている感情が違うからなのか。
駅を追うごとに視線は増えていく。そして学校の最寄り駅を出た頃には、身ぐるみを剥がされて群衆の前に晒されているような気分になった。思わず自分の体をを抱きしめる。腕に爪が食い込みそうなほどに。
同じ学校の生徒たちが歩く中に、結月くんの姿を探す。だけどこういうときに限って、どこにも見当たらなかった。
自分だけ周りから浮かされているような、祭り上げられているような気分になる。向けられている感情は違っていても、みんなから勝手に好かれている結月くんも、同じような気持ちを抱いていたのかもしれない。
教室に辿り着いても、その居心地の悪さはなくならなかった。授業が始まるまでひたすら耐えるしかなかった。
授業中はさすがに視線を感じることはなかったけれど、周りの人たちに対する不信感はなくならない。誰かが私を狙っているんじゃないかという考えが止まらない。
休み時間も、朝よりは視線は感じなかった。けれどこのままでは、今日一日耐えられる気がしない。
結月くんの方を見ると、立ち上がって机の上の整理をしていた。私も席を立ち、結月くんに助けを求めることにした。
「結月くん――」
声をかけた瞬間、まるで私の行動を監視していたかのように、クラス中の視線が私に集まる。体に緊張が走り、名前を呼んだものの、そのまま固まってしまう。
すると、結月くんも違和感に気付いてくれたようで、周りのクラスメイトを目だけで見渡した。
「あとで話そう。ここじゃダメ」
結月くんが私にだけ聞こえるように耳打ちする。私もこれ以上話せそうになかったから、小さくうなずいて自分の席に戻った。
再び視線から解放される。でもいくつかは残っていた。私の知らないところで、私の身になにかが起こっている。こんなに怖いことはない。
次の休み時間、滅多に鳴らない私のスマホが震えた。結月くんからだった。
【放課後、先に僕の家に行って。僕は後から行くね。そこでゆっくり話そう】
使うことがあるとは思っていなかったけれど、連絡先を交換しておいて本当に良かった。
結月くんの家に入れてくれるのは助かるけれど、一人だと不安だった。
【一緒じゃダメかな……?】
また我儘を言って結月くんを困らせてしまう。だけど、恐怖の方が強かった。
【たぶん、僕といることで注目を浴びてるから、むしろ、一人の方が安全だと思う】
結月くんといることで?どうして。
ただ結月くんと行動を共にしているだけで狙われるなんて、意味がわからない。それに、結月くんとはいつも、朝礼から放課後までは、あまり関わっていない。
でも、理由はどうあれ、結月くんと一緒にいることで狙われているなら、論理的には、確かに別々に行動した方がいい。だけど、不安だった。
その不安が伝わったかのように、結月くんから続けてメッセージが送られてくる。
【うちの最寄り駅までは迎えに行かせるから、大丈夫】
迎え?もしかして、結月くんのお母さんとかだろうか。だとしたら申し訳ないけれど、安心はできる。
【ありがとう。結月くんも、気をつけてね】
言われた通り、放課後になると、私はすぐに学校を出て、結月くんの家を目指した。駅までの道や電車は、登校時ほどではないけれど、やはり視線を感じた。
結月くんの家の最寄り駅で降り、改札を出る。そういえば、私は結月くんの両親の顔を知らないし、結月くんの両親も私のことなんて知らないはずだ。そうなると、迎えってもしかして。
「あ、由衣ちゃん!」
見覚えのある女の子が、私の名前を呼んで駆け寄ってきた。学校から帰ってそのまま来てくれたのか、制服だった。
「名月ちゃん……わざわざありがとう」
「とんでもないです。由衣ちゃんこそ、大変でしたよね……」
「……うん。ほんとに、大変だった……」
「もう大丈夫です。一緒に行きましょう」
名月ちゃんの言葉で、一気に肩の力が抜けた。
至近距離に二人並んで歩き出す。身長はほぼ私とも変わらないはずなのに、名月ちゃんのことが大きく見えた。
「結月くんから、いろいろ聞いてるの?」
「はい。みんなから注目を浴びてたんですよね」
「うん……。朝からさっきまで、ずっと。誰かに見られてるような気がして……」
「怖かったですよね……」
「怖かった……。でも今は大丈夫だよ。名月ちゃんのおかげ」
「そんなことないですよ。でも、良かった」
名月ちゃんの可愛くて綺麗な容姿や声が、私の心をほぐしてくれる。本当に、今は大丈夫だと思えている。
「結月くんも、名月ちゃんのことは頼りにしてるみたいだね」
「そうだといいんですけど……。疲れてれるのに全然頼ってくれないから、心配なんです」
「やっぱり疲れてるんだ……」
「そうですよ。学校だと、あんまりそういうところ見せないですよね」
「うん。疲れたとか、つらいっていう言葉は、結月くんから聞いたことないよ」
「もう……」
名月ちゃんが呆れたように額に手を当てて、小さく溜息をついた。
結月くんは感情があるのかもわからないくらい、自分の気持ちを口にしない。
頭の中ではいろいろと考えているのだろうから、疲れているはずなのに、その様子を全く見せない。
だから、名月ちゃんが心配するのもわかる。
「学校でのお兄ちゃんって、どんな人に見えますか?」
「私から見たら、すごく落ち着いてて、大人びてる、真面目な人だよ。他のみんなからは顔が綺麗で優しいから、王子様みたいって言われてる」
「王子様……!?大丈夫なのかな……」
名月ちゃんが目を丸くした。名月ちゃんも結月くん本人と同じで、嬉しくないようだった。たぶん名月ちゃんは、本当の結月くんを知っているから。
「お兄ちゃんは、そう言われてること対して、なにか言ってましたか?」
「気付いてなかったみたいだけど、私が伝えたら、嬉しくないって言ってたよ」
「やっぱり……。でも、気付いてなかったんですね」
「うん。むしろ、ちょっと驚いてた」
「……お兄ちゃんって、みんなの気持ちには敏感なのに、自分に向けられる好意には全然気付いてくれないんですよね」
私もなんとなくそう思っていたけれど、妹である名月ちゃんが言うと、説得力がある。
結月くんは自分のことが好きではないみたいだけど、みんなからは好かれているということを、もっと知ってほしい。
「でも、気付いてくれないってことは、名月ちゃんも、結月くんのこと好きなの?」
「えっ、いや、えっと……」
名月ちゃんが顔を真っ赤にして慌てる。その様子が可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
意地悪な質問だったかなと思う。結月くんと一緒にいる影響かもしれない。
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしいですよ!誰にも言ったことないのに……」
「でもやっぱり、好きなんだね」
「……好きです。どれだけ疲れてても、誰かのために頑張れるのが、ほんとにすごいなって。でも、だからこそ、もっと甘えてほしい……」
「お兄ちゃん思いだね」
名月ちゃんが照れ笑いを浮かべる。同じような顔立ちでも、結月くんはしない表情だった。
こんなに素敵な妹がすぐ近くにいるのに、結月くんは名月ちゃんの気持ちに気付いているのかも怪しい。本当に結月くんには、もっと向けられている想いを自覚してほしい。
でも、自分が好かれていると考えるのも難しいことだとは思う。
結月くんの家に着いて、今度は名月ちゃんの部屋に入れてもらった。眩しくなく落ち着いた感じで、綺麗に整えられている。こういう空間に、ずっといたい。こちも本が多くあった。
しばらくすると結月くんが帰ってきて、三人で話し合うことになった。
「中野さん、あんなふうにみんなから見られるのは、今日だけ?」
「うん……。今日の朝からいきなりみんなに見られてるような気がして……。昨日までは全然なかったのに」
「昨日から今日の朝までの間、見られてる以外に、なにか変わったことってあった……?」
「なかったと思う……」
昨日は、結月くんとは、ここ一週間と同じように、一緒に帰っただけだ。人が少ない時間だったから、見られて騒がれるというようなことも、なかったはず。
「……僕らが知らないところでなにかが起こってるみたいだね……。しかも、たくさんの人の行動に影響してる」
特定の誰かから、だったら、これまでの状況からして不自然ではないけれど、みんなから、というのは明らかにおかしい。
「もしかして、ネットとか」
声を上げたのは、それまでじっと話を聞いていた名月ちゃんだった。
「ありえるね……。中野さん、SNSはやってる?」
「ううん。ラインだけ」
中学生のとき友達に勧められてやりかけたことはあるけれど、流れていく情報に頭がついていかなかった。情報は私がいちばん苦手な教科でもある。
「僕もラインだけ。名月は他のもやってる?」
「うん。全然動かしてないけど……。確かめてみるね」
名月ちゃんが机に置いてあった白いスマホを手に取った。
「結月くんも、SNSほとんどやってないんだね」
「うん。頭痛くなるから、スマホ自体あんまり使わない」
「私も……」
情報量が多すぎるし、光の刺激が強くて、混乱してしまう。それに、スマホばかり見ている周りの人は、私からは幸せそうだとは思えない。
名月ちゃんは大丈夫なのかな、と心配になる。スマホに関しても結月くんと似ているなら、得意ではないと思う。
名月ちゃんは、私が電車や学校で見かける人たちよりは少し遅いスピードで操作していた。けれどふいに、その指が止まった。
「……っ」
「名月ちゃん!大丈夫?」
「無理しないで、スマホ置いて」
名月ちゃんが息を荒くして、スマホを持っていない方の手で額を抑える。もう一方の手から、結月くんがスマホを受け取った。
「お兄ちゃん、見ない方が、いい……」
「……ごめん、名月。寝てていいよ」
名月ちゃんは結月くんの手を借りてよろよろと立ち上がり、部屋のベッドで横になった。
「……結月くん、見るの?」
「ここにあることのせいで名月がこうなったなら、許せないからね……」
声や表情はいつもとなんら変わりはないのに、結月くんが纏う雰囲気はどこか硬くなっていた。
結月くんが、手にしたスマホの画面を見る。
「……これは、きついね」
そしてすぐにスマホをそっと横に置いて、顔を上げた。
「……なんて書いてあったの?」
「簡単に言うと、中野さんと僕に対する誹謗中傷だよ」
「……!どうして……」
「どれもありもしないこととか勝手な想像だったから、たぶん、誰かの悪意だよ。意図的な嘘が、誤解を重ねて広まったんだと思う」
ネットというのは、便利かもしれないけど、怖い。自分が知らないところで祭り上げられ、罵倒され、排除されてしまう。
「なんのために、そんなこと……」
「……発信源がわからないからなんとも言えないけど、中野さんと僕を引き剥がそうとしてるようにも思えた。宮原さんのことについての言及もあったから、もしかしたら、宮原さんのことを探られたくないのかも」
だとしたら、発信源とこれまで紙を送ってきた人は、同一人物なのだろうか。私だけならまだしも、結月くんにも、名月ちゃんにも害を与えている。
お願いだから、これ以上はやめてほしい。願っても無駄なのだろうけれど。
「……中野さん」
結月くんが暗い表情で私を見ていた。
「これからは、クラスメイトに見えるところで関わらない方がいいと思う。その方が、安全だよ」
「……そう、だよね」
理屈はわかる。でも、ひとりになるのは怖い。だけど、これ以上結月くんに迷惑もかけたくない。
「……ごめんね」
「結月くんが謝る必要はないよ。その方が安全なら、仕方ないから……」
「それだけじゃなくて。もしかしたら、宮原さんのことも含めて、これまでのことの真ん中にいるのは、僕かもしれないから」
「え……?」
「あくまで、予感だけどね……」
結月くんが、これまでの一連の出来事の中心にいる?そんなことあるのだろうか。今のところ名前が挙がっている片岡くんや岩田さんは、これまでは結月くんとは全く関わりがなかったはずだ。
「でも、実際がどうなのかはわからないから、なにか不安なことがあったら、いつでも連絡して。ここに来てもいいから。絶対に無理はしないで」
「うん、ありがとう。なにかあったら、連絡するよ」
なにもないことがいちばんだけど、このままではそうもいきそうになかった。
「……名月ちゃんは……寝ちゃってる?」
ベッドの方を向くと、名月ちゃんは目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返していた。
「名月ちゃんにも、無理させちゃったね」
「そうだね。……SNS使ってたっていうのは、知らなかった」
「そうなの?」
「名月がスマホ使ってるところも、あんまり見たことはなくて。でも、ネットに強くないっていうのは、同じみたいだね」
名月ちゃんでも、結月くんに知らせていないことがあったのか。もしかしたら名月ちゃんも、結月くんに心配をかけたくなくて、頑張りすぎているのかもしれない。
ベッドの奥にある窓から入ってくる光は、もう薄くなってきていた。
「そろそろ帰るね。ごめんね、急に入れてもらって……」
「大丈夫だよ。こちらこそ、急に呼んでごめんね」
「ううん、むしろ、ありがとう。名月ちゃんのことも、褒めてあげてね」
「うん」
玄関先まで結月くんに見送ってもらい、閑散とした道をひとりで歩き始める。
まだ明るさが残る空に、三日月が見えていた。結月くんと名月ちゃんが見守ってくれていると、そう思い込んだ。
✽
中野さんを見送って名月の部屋に戻る。まだ名月が眠るベッドを背にして、床に座り込んだ。
さっき見た毒の羅列が、未だに頭を支配している。
【中野由衣、結月くんに好かれたって勘違いしてる】
【宮原さんの自殺は中野さんのせいってマジ?】
中野さんの孤独も、宮原さんの苦悩もなにも知らないのに、自分たちに都合の良い解釈をして、中野さんのことを追い詰める。その心が僕には理解できない。
でも人間はいつも、わかりやすい答えを欲しがる。優越感を求める。そういうことなのかもしれない。
名前をよんでも、当然ながら反応はない。それでも、規則的な寝息から、生きてくれていることを実感できた。安心したからか、私の体の力が抜けるのを感じた。
それでも、いつ目を覚ますかはわからない。覚ましてくれるのかも定かではない。できるだけ早く目覚めて、またその声を聞かせてほしい。
そして、音羽ちゃんがまた結月くんの姿を見れますように。
「……結月くん」
呼びかけると、じっと音羽ちゃんを見ていた結月くんがゆっくり振り向いた。
「前もちょっと訊いたけど、中学生のとき、音羽ちゃんとはどんな関係だったの?」
「宮原さんがどう思ってたのかは分からないけど、僕にとっては、ただのクラスメイトではなかったかな……」
「友達とは違うの?」
「友達……」
結月くんが再び音羽ちゃんの方を見る。表情は静かだけれど、その目は、とても優しく、でもどこか悲しそうだった。そしてまた私に視線を戻す。
「僕は友達って言ってもいいと思ってた。でも、高校生になってからは、ほとんど話せてなかったから……」
「どうして?話そうと思えば話せたんじゃないの?」
「特に理由はないかな……。機会がなかっただけで」
だけど音羽ちゃんは、結月くんと話したいと思っていた。話しかけてほしかった。私は知っている。
「音羽ちゃんと話したくなかったわけじゃないんでしょ?」
「うん。むしろ、話したいくらいだった。でも……」
結月くんにしては珍しく言い淀んだ。普段なら、本人が言いたくないことなら無理に話してほしくはないけれど、この続きは聞かせてほしい。
「でも……?」
結月くんは少し視線を下げたけれど、覚悟を決めた、というより、諦めたように口を開いた。
「人と話すのがね、苦手なんだよ」
「えっ?それって、技術的にって、こと?」
「うん。会話自体は好きだけど、コミュニケーション能力っていうやつは皆無だよ。話してて感じたこと、ない?」
私はふるふると首を横に振った。
「全然思ってないよ。むしろ、会話するの上手だなぁって思ってたくらいだよ」
「そう……?上手くないと思うけど……」
言われてみれば、学校での結月くんはいつもひとりだ。人から話しかけられることはあっても、自分から話しかけているところはめったに見ない。それは、会話が苦手だからだったんだ。
音羽ちゃんも会話は苦手だと言っていた。それなら、二人がなかなか距離を縮められなかったのも頷ける。
私も得意な方ではないから、結月くんの気持ちも少しわかる気がする。
「でも、じゃあ、最初に音羽ちゃんと話したときは、どっちからだったの?」
「宮原さんからだったと思う」
音羽ちゃんから話しかけるなんて。私と音羽ちゃんのときは、先に話しかけたのは私だった。結月くんには、それほど音羽ちゃんの心を惹くなにかがあるのだろう。なんか悔しいけれど、今はそれは置いておく。
「なにかきっかけってあったの?」
「隣の席になったことくらいかな。でも僕は話しかけられるなんて思ってなかったから、けっこうびっくりした」
いつも落ち着いている結月くんが「びっくり」しているところを想像すると、なんだか微笑ましくなる。
でも、もしかしたらその「落ち着き」や冷静さというのも、結月くんがいつもひとりでいるからそう見えるだけなのかもしれない。結月くんのような人には、周りは「おとなしい」という評価をつけがちだ。
「実際話してみて、どうだったの?」
「最初は探り合いだったけど、慣れてくるとすごく話しやすかった。宮原さんは人を傷つけるようなことを言わないから、言葉の耳触りが良くて」
「わかる!音羽ちゃんの言葉って、あったかくて癒されるよね」
たぶんこれは、音羽ちゃんと仲良くなれた人にしかわからない、音羽ちゃんの魅力だ。話してみないと気付けない。音羽ちゃんのその魅力がクラスのみんなにも伝わればいいのに、とずっと思っていた。
「中野さんは、どうやって宮原さんと仲良くなったの?」
「え?私は……音羽ちゃんしかいなかったというか……」
音羽ちゃん本人にすら、私がどんな気持ちで話しかけたのかは話したことがない。だけど――。結月くんは、いつも以上に凪のように静かで穏やかな瞳で、私を見ていた。結月くんになら、言える。
「……中学生のときは、一緒に行動する人は何人かいたんだよ。でも、だんだん楽しいと思えなくなって……。だから、高校では、ひとりだけ友達ができればいいって思ってたの。だけど、誰もできなかった」
私が積極的に友達作りにいかなかったせいだと思う。クラスの勢力図がはっきりしてきたとき、私はひとりになっていた。
ひとりになることに慣れていなかった私は、それから音羽ちゃんと話すようになるまで、中学生後半のときと同じくらいの息苦しさを味わった。
「でも、音羽ちゃんもひとりだった。だからもしかしたら仲良くなれるんじゃないかなって思って、話しかけてみたの」
当時の音羽ちゃんは、なんというか、全てを諦めたような表情をしていた。話しかけづらさも少しあった。だけど、話してみると意外にも気が合って、一緒にいて心が楽だった。
「今では、音羽ちゃんは私にとって、いちばん大切な人なんだよ」
音羽ちゃん本人には言えたことがない。こういうことを口に出すのはかなり恥ずかしい。今、夢の中で私の声を聞いてくれていたらいいなと思った。
「やっぱり素敵な関係だね……。宮原さんと中野さんは本当の親友っていう感じがするから、見てて心があったかくなる」
「ありがとう……」
顔が熱くなっているのを自覚しながら微笑む。結月くんの客観的な視点からの言葉だから、音羽ちゃんも私のことを大切に思ってくれているんじゃないかと思える。
こんな話を、音羽ちゃんとも、事故に遭う前にできていればよかった。そうすれば悲劇は防げただろう。
もしかすると、私への脅迫は、私が音羽ちゃんを救えなかったことに対する、罰なのかもしれない。
✽
もし僕があのとき、もっと踏み込めていれば、中野さんや宮原さんが傷を負うことは防げたのだろうか。
話しかける勇気を出せなくて、高校では宮原さんと話せていなかった。なにより宮原さんが僕のことを良く思ってくれているかどうかわからなくて怖かった――なんて、ただの言い訳だ。
今回の一連の件に関する僕の責任は、当初思っていたよりも、ずっと大きいようだった。だからこそ、僕が解決しなければならないと思う。
昨日、僕の机に入っていた〝脅迫状〟とも取れる紙。ただ前の二枚も含め、文面からは、それほど強く中野さんを排除したがっているようには思えない。
あれは本当に脅迫なのだろうか。
文脈からすると、送り主は中野さんと僕が一緒にいることが気に入らないようだ。でも、どうして。そもそも、これらの紙は、宮原さんの事故とは本当に関係があるのだろうか。
時間が経つにつれて、状況が複雑になっているような――。
「樋口」
どこか沈んだ声に呼ばれて顔を上げる。片岡くんが声と同じ感情を含んだ顔で僕を見下ろしていた。普段なら、片岡くんは友達と昼食を摂っている時間のはずだ。
「ちょっと来てほしい」
「うん」
片岡くんに従い教室を出て、覇気の欠けた背中についていく。片岡くんから声をかけてくるとは思っていなかった。
廊下の隅まで来て片岡くんが立ち止まり、振り返る。負の感情が渦巻いているように見える。しかも、以前よりも増えて。
「……樋口。中野さんと関わらないようにした方がいい」
低い声で言われたのは、あの紙とほぼ同じ内容だった。紙は〝お願い〟だったけれど、こちらは〝助言〟だ。
「……どうして?」
平静を装ってまっすぐに尋ね返すと、片岡くんは目を逸らした。
「危ないから」
「中野さんが?」
「そうじゃなくて……」
片岡くんが言葉を濁す。
僕も今更、中野さんが危ないなんて思わない。けれどそれなら、危ない、とはどういう意味だろう。中野さんと関わっているから危ない?巻き込まれるから?
「片岡くんは、中野さんと僕がなにかされてることを、知ってるの?」
「いや、それは……」
知らないなら、知らないと言えばいいだけの話だ。片岡くんは、なにか知っている。ただ、どうしてもその内容は言いたくないようだった。
それならせめて、片岡くんじゃないことは証明しておきたい。
「片岡くん。いきなりで申し訳ないんだけど、ここに、なんでもいいから文字を書いてくれる?」
「え?文字?」
「うん。なんでもいいから」
手元の手帳とペンを差し出す。片岡くんは躊躇う様子を見せたものの、それらを受け取って、手帳に「こんにちは」と書いた。
――違う。片岡くんじゃない。
「ありがとう……」
手帳とペンを返してもらい、ポケットにしまった。片岡くんではないなら、誰だろう。疑いがある人は、あと一人いる。
「……それで、さっきのことだけど、僕は中野さんから距離を置く気はないよ。ごめんね」
「な……。でも、ほんとに危ないから……」
断られるとは思っていなかったのか、片岡くんは狼狽する様子を見せた。
「心配してくれてるのはわかるけど、今離れる方が危ないと思う……」
本人が自覚しているかはわからないけれど、僕からすると、中野さんの精神は今かなり不安定だ。そんな状態の人をひとりにはできない。
目の前の人物も、同じくらい心配なのだけれど。
「……そっか。ごめん、無理言って」
意外にも片岡くんはあっさりと引き下がった。肩を落として教室へ戻っていくその背中を見つめながら、思考を巡らせる。
片岡くんの言葉は、忠告だった。ニュアンスとしては、中野さんの下駄箱に入っていた紙と同じだ。
『今のうちに樋口くんとの関係を絶ってください』
送り主も片岡くんも、中野さんに危害を加える気はなく、別の誰かがいるということなのか。
ただ、僕の机に入っていた紙は明らかに意味が違う。
『中野さんから離れてください。お願いします』
僕に中野さんから離れるよう望んでいた。忠告とも捉えられなくもないけれど、無理があると思う。
わからない。片岡くんと送り主は、なにがしたいのだろう。
目にかかった前髪を、片手でくしゃりと握りしめた。
考えがまとまらなくて、頭が混乱している。なので放課後、休憩がてら社会科準備室を訪れた。
もはや三島先生の部屋と化しているこの場所は、とても居心地が良い。
「樋口くん、顔がちょっと怖いですよ」
「そうですか?すみません」
「なにか悩み事ですか?」
「悩みというか、考え事というか。答えが出ないんです」
「それは大変ですね」
共感はするけれど、こちらから言わない限り深いことは聞いてこない。その距離感も心地良い。
僕がこの学校でなんとか生きて行けているのは、この居場所の存在のおかげだ。
「深入りのしすぎは禁物ですよ」
「……なんのことか知ってるんですか?」
「詳しくは知りません。でも、教師なので」
生徒が思っているよりも先生は多くのことを知っている。だから頼りがいがあるけれど、少し恐ろしい。
「ご心配はありがたいですけど、深入りせずにはいられないというか……」
「どうしてですか」
「なんとなく、僕が関わったからややこしくなっている気がするんです」
昼休みから考え続けて出た一つの可能性。あってほしくないけれど、ありえないとはいえない。
「自分が気付かないうちに他人に影響を与えていることはよくありますから。ただ、自意識過剰というか、思い込みも危ないですけどね」
「そうですね……」
僕がややこしくしていると思い込んではいけないけれど、一方で、僕は無関係だと過信してもいけない。第三者の立場ならいいけれど、自分が関わっているかもしれないとなると、人はどうしても自己本位になりがちだと思う。
しばらく休んだあと、社会科準備室を出た。すると、教室に戻る途中の廊下で、思いがけず中野さんと鉢合わせした。
「あっ、結月くん」
「中野さん。帰ってなかったんだ」
「えっと、その、一人だと怖くて……。それに、最近はずっと一緒に帰ってたから、今日も一緒に帰れるかなって思っちゃって……ごめんね……!」
探してくれていたのか。軽く頭を下げた中野さんを見て、僕は自分の浅はかさを呪った。
片岡くんとの会話で、中野さんをひとりにはできないと言ったばかりなのに。
「そうだよね、ごめん……。一緒に帰っていいかな」
「うん……!ありがとう」
胸をなで下ろした中野さんを見ながら、罪悪感に駆られる。この状況でいちばんつらいのは、中野さんだ。中野さんを差し置いて自分だけ楽になるなんて、許されない。
このちっぽけな存在が、気付かないうちに誰かの支えになったり、あるいは邪魔になっているのかもしれない。
自分のことも含めて、もっと平坦な目線で見ないといけない。
身体的にも精神的にも小さいのだから、もっと成長しないといけないのだ。
✽
結月くんは自分のとこを小さく見すぎだと思う。どれだけ私の支えになっているのかを教えてあげたい。それに、音羽ちゃんにとっても、結月くんは心の柱になっていたはずだ。
昨日は我儘を言って困らせてしまった。でも、ひとりになるのがとてつもなく怖かった。こんなことを言うと、以前の私に「私はいつもひとりなのに」と怒られるかもしれない。だけど、本当に怖かった。
誰かに狙われているんじゃないかという恐怖が、周りの人を鬼にする。電車に乗っている知らない人が、全員敵に見えてくる。
「……っ」
どこからか視線を感じて顔を上げる。だけど見た限りだと、誰も私のことを見ていない。というより、どの人も信じられなくて、誰に見られているのかわからない。
今日、家の最寄り駅に入ったときくらいから、誰かに見られているような気がしていた。
学校で結月くんに観察されていたことは、ずっと気付いていなかった。それなのに今は、どこからか視線を感じる。私の幻想か、それともそこに込められている感情が違うからなのか。
駅を追うごとに視線は増えていく。そして学校の最寄り駅を出た頃には、身ぐるみを剥がされて群衆の前に晒されているような気分になった。思わず自分の体をを抱きしめる。腕に爪が食い込みそうなほどに。
同じ学校の生徒たちが歩く中に、結月くんの姿を探す。だけどこういうときに限って、どこにも見当たらなかった。
自分だけ周りから浮かされているような、祭り上げられているような気分になる。向けられている感情は違っていても、みんなから勝手に好かれている結月くんも、同じような気持ちを抱いていたのかもしれない。
教室に辿り着いても、その居心地の悪さはなくならなかった。授業が始まるまでひたすら耐えるしかなかった。
授業中はさすがに視線を感じることはなかったけれど、周りの人たちに対する不信感はなくならない。誰かが私を狙っているんじゃないかという考えが止まらない。
休み時間も、朝よりは視線は感じなかった。けれどこのままでは、今日一日耐えられる気がしない。
結月くんの方を見ると、立ち上がって机の上の整理をしていた。私も席を立ち、結月くんに助けを求めることにした。
「結月くん――」
声をかけた瞬間、まるで私の行動を監視していたかのように、クラス中の視線が私に集まる。体に緊張が走り、名前を呼んだものの、そのまま固まってしまう。
すると、結月くんも違和感に気付いてくれたようで、周りのクラスメイトを目だけで見渡した。
「あとで話そう。ここじゃダメ」
結月くんが私にだけ聞こえるように耳打ちする。私もこれ以上話せそうになかったから、小さくうなずいて自分の席に戻った。
再び視線から解放される。でもいくつかは残っていた。私の知らないところで、私の身になにかが起こっている。こんなに怖いことはない。
次の休み時間、滅多に鳴らない私のスマホが震えた。結月くんからだった。
【放課後、先に僕の家に行って。僕は後から行くね。そこでゆっくり話そう】
使うことがあるとは思っていなかったけれど、連絡先を交換しておいて本当に良かった。
結月くんの家に入れてくれるのは助かるけれど、一人だと不安だった。
【一緒じゃダメかな……?】
また我儘を言って結月くんを困らせてしまう。だけど、恐怖の方が強かった。
【たぶん、僕といることで注目を浴びてるから、むしろ、一人の方が安全だと思う】
結月くんといることで?どうして。
ただ結月くんと行動を共にしているだけで狙われるなんて、意味がわからない。それに、結月くんとはいつも、朝礼から放課後までは、あまり関わっていない。
でも、理由はどうあれ、結月くんと一緒にいることで狙われているなら、論理的には、確かに別々に行動した方がいい。だけど、不安だった。
その不安が伝わったかのように、結月くんから続けてメッセージが送られてくる。
【うちの最寄り駅までは迎えに行かせるから、大丈夫】
迎え?もしかして、結月くんのお母さんとかだろうか。だとしたら申し訳ないけれど、安心はできる。
【ありがとう。結月くんも、気をつけてね】
言われた通り、放課後になると、私はすぐに学校を出て、結月くんの家を目指した。駅までの道や電車は、登校時ほどではないけれど、やはり視線を感じた。
結月くんの家の最寄り駅で降り、改札を出る。そういえば、私は結月くんの両親の顔を知らないし、結月くんの両親も私のことなんて知らないはずだ。そうなると、迎えってもしかして。
「あ、由衣ちゃん!」
見覚えのある女の子が、私の名前を呼んで駆け寄ってきた。学校から帰ってそのまま来てくれたのか、制服だった。
「名月ちゃん……わざわざありがとう」
「とんでもないです。由衣ちゃんこそ、大変でしたよね……」
「……うん。ほんとに、大変だった……」
「もう大丈夫です。一緒に行きましょう」
名月ちゃんの言葉で、一気に肩の力が抜けた。
至近距離に二人並んで歩き出す。身長はほぼ私とも変わらないはずなのに、名月ちゃんのことが大きく見えた。
「結月くんから、いろいろ聞いてるの?」
「はい。みんなから注目を浴びてたんですよね」
「うん……。朝からさっきまで、ずっと。誰かに見られてるような気がして……」
「怖かったですよね……」
「怖かった……。でも今は大丈夫だよ。名月ちゃんのおかげ」
「そんなことないですよ。でも、良かった」
名月ちゃんの可愛くて綺麗な容姿や声が、私の心をほぐしてくれる。本当に、今は大丈夫だと思えている。
「結月くんも、名月ちゃんのことは頼りにしてるみたいだね」
「そうだといいんですけど……。疲れてれるのに全然頼ってくれないから、心配なんです」
「やっぱり疲れてるんだ……」
「そうですよ。学校だと、あんまりそういうところ見せないですよね」
「うん。疲れたとか、つらいっていう言葉は、結月くんから聞いたことないよ」
「もう……」
名月ちゃんが呆れたように額に手を当てて、小さく溜息をついた。
結月くんは感情があるのかもわからないくらい、自分の気持ちを口にしない。
頭の中ではいろいろと考えているのだろうから、疲れているはずなのに、その様子を全く見せない。
だから、名月ちゃんが心配するのもわかる。
「学校でのお兄ちゃんって、どんな人に見えますか?」
「私から見たら、すごく落ち着いてて、大人びてる、真面目な人だよ。他のみんなからは顔が綺麗で優しいから、王子様みたいって言われてる」
「王子様……!?大丈夫なのかな……」
名月ちゃんが目を丸くした。名月ちゃんも結月くん本人と同じで、嬉しくないようだった。たぶん名月ちゃんは、本当の結月くんを知っているから。
「お兄ちゃんは、そう言われてること対して、なにか言ってましたか?」
「気付いてなかったみたいだけど、私が伝えたら、嬉しくないって言ってたよ」
「やっぱり……。でも、気付いてなかったんですね」
「うん。むしろ、ちょっと驚いてた」
「……お兄ちゃんって、みんなの気持ちには敏感なのに、自分に向けられる好意には全然気付いてくれないんですよね」
私もなんとなくそう思っていたけれど、妹である名月ちゃんが言うと、説得力がある。
結月くんは自分のことが好きではないみたいだけど、みんなからは好かれているということを、もっと知ってほしい。
「でも、気付いてくれないってことは、名月ちゃんも、結月くんのこと好きなの?」
「えっ、いや、えっと……」
名月ちゃんが顔を真っ赤にして慌てる。その様子が可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
意地悪な質問だったかなと思う。結月くんと一緒にいる影響かもしれない。
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしいですよ!誰にも言ったことないのに……」
「でもやっぱり、好きなんだね」
「……好きです。どれだけ疲れてても、誰かのために頑張れるのが、ほんとにすごいなって。でも、だからこそ、もっと甘えてほしい……」
「お兄ちゃん思いだね」
名月ちゃんが照れ笑いを浮かべる。同じような顔立ちでも、結月くんはしない表情だった。
こんなに素敵な妹がすぐ近くにいるのに、結月くんは名月ちゃんの気持ちに気付いているのかも怪しい。本当に結月くんには、もっと向けられている想いを自覚してほしい。
でも、自分が好かれていると考えるのも難しいことだとは思う。
結月くんの家に着いて、今度は名月ちゃんの部屋に入れてもらった。眩しくなく落ち着いた感じで、綺麗に整えられている。こういう空間に、ずっといたい。こちも本が多くあった。
しばらくすると結月くんが帰ってきて、三人で話し合うことになった。
「中野さん、あんなふうにみんなから見られるのは、今日だけ?」
「うん……。今日の朝からいきなりみんなに見られてるような気がして……。昨日までは全然なかったのに」
「昨日から今日の朝までの間、見られてる以外に、なにか変わったことってあった……?」
「なかったと思う……」
昨日は、結月くんとは、ここ一週間と同じように、一緒に帰っただけだ。人が少ない時間だったから、見られて騒がれるというようなことも、なかったはず。
「……僕らが知らないところでなにかが起こってるみたいだね……。しかも、たくさんの人の行動に影響してる」
特定の誰かから、だったら、これまでの状況からして不自然ではないけれど、みんなから、というのは明らかにおかしい。
「もしかして、ネットとか」
声を上げたのは、それまでじっと話を聞いていた名月ちゃんだった。
「ありえるね……。中野さん、SNSはやってる?」
「ううん。ラインだけ」
中学生のとき友達に勧められてやりかけたことはあるけれど、流れていく情報に頭がついていかなかった。情報は私がいちばん苦手な教科でもある。
「僕もラインだけ。名月は他のもやってる?」
「うん。全然動かしてないけど……。確かめてみるね」
名月ちゃんが机に置いてあった白いスマホを手に取った。
「結月くんも、SNSほとんどやってないんだね」
「うん。頭痛くなるから、スマホ自体あんまり使わない」
「私も……」
情報量が多すぎるし、光の刺激が強くて、混乱してしまう。それに、スマホばかり見ている周りの人は、私からは幸せそうだとは思えない。
名月ちゃんは大丈夫なのかな、と心配になる。スマホに関しても結月くんと似ているなら、得意ではないと思う。
名月ちゃんは、私が電車や学校で見かける人たちよりは少し遅いスピードで操作していた。けれどふいに、その指が止まった。
「……っ」
「名月ちゃん!大丈夫?」
「無理しないで、スマホ置いて」
名月ちゃんが息を荒くして、スマホを持っていない方の手で額を抑える。もう一方の手から、結月くんがスマホを受け取った。
「お兄ちゃん、見ない方が、いい……」
「……ごめん、名月。寝てていいよ」
名月ちゃんは結月くんの手を借りてよろよろと立ち上がり、部屋のベッドで横になった。
「……結月くん、見るの?」
「ここにあることのせいで名月がこうなったなら、許せないからね……」
声や表情はいつもとなんら変わりはないのに、結月くんが纏う雰囲気はどこか硬くなっていた。
結月くんが、手にしたスマホの画面を見る。
「……これは、きついね」
そしてすぐにスマホをそっと横に置いて、顔を上げた。
「……なんて書いてあったの?」
「簡単に言うと、中野さんと僕に対する誹謗中傷だよ」
「……!どうして……」
「どれもありもしないこととか勝手な想像だったから、たぶん、誰かの悪意だよ。意図的な嘘が、誤解を重ねて広まったんだと思う」
ネットというのは、便利かもしれないけど、怖い。自分が知らないところで祭り上げられ、罵倒され、排除されてしまう。
「なんのために、そんなこと……」
「……発信源がわからないからなんとも言えないけど、中野さんと僕を引き剥がそうとしてるようにも思えた。宮原さんのことについての言及もあったから、もしかしたら、宮原さんのことを探られたくないのかも」
だとしたら、発信源とこれまで紙を送ってきた人は、同一人物なのだろうか。私だけならまだしも、結月くんにも、名月ちゃんにも害を与えている。
お願いだから、これ以上はやめてほしい。願っても無駄なのだろうけれど。
「……中野さん」
結月くんが暗い表情で私を見ていた。
「これからは、クラスメイトに見えるところで関わらない方がいいと思う。その方が、安全だよ」
「……そう、だよね」
理屈はわかる。でも、ひとりになるのは怖い。だけど、これ以上結月くんに迷惑もかけたくない。
「……ごめんね」
「結月くんが謝る必要はないよ。その方が安全なら、仕方ないから……」
「それだけじゃなくて。もしかしたら、宮原さんのことも含めて、これまでのことの真ん中にいるのは、僕かもしれないから」
「え……?」
「あくまで、予感だけどね……」
結月くんが、これまでの一連の出来事の中心にいる?そんなことあるのだろうか。今のところ名前が挙がっている片岡くんや岩田さんは、これまでは結月くんとは全く関わりがなかったはずだ。
「でも、実際がどうなのかはわからないから、なにか不安なことがあったら、いつでも連絡して。ここに来てもいいから。絶対に無理はしないで」
「うん、ありがとう。なにかあったら、連絡するよ」
なにもないことがいちばんだけど、このままではそうもいきそうになかった。
「……名月ちゃんは……寝ちゃってる?」
ベッドの方を向くと、名月ちゃんは目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返していた。
「名月ちゃんにも、無理させちゃったね」
「そうだね。……SNS使ってたっていうのは、知らなかった」
「そうなの?」
「名月がスマホ使ってるところも、あんまり見たことはなくて。でも、ネットに強くないっていうのは、同じみたいだね」
名月ちゃんでも、結月くんに知らせていないことがあったのか。もしかしたら名月ちゃんも、結月くんに心配をかけたくなくて、頑張りすぎているのかもしれない。
ベッドの奥にある窓から入ってくる光は、もう薄くなってきていた。
「そろそろ帰るね。ごめんね、急に入れてもらって……」
「大丈夫だよ。こちらこそ、急に呼んでごめんね」
「ううん、むしろ、ありがとう。名月ちゃんのことも、褒めてあげてね」
「うん」
玄関先まで結月くんに見送ってもらい、閑散とした道をひとりで歩き始める。
まだ明るさが残る空に、三日月が見えていた。結月くんと名月ちゃんが見守ってくれていると、そう思い込んだ。
✽
中野さんを見送って名月の部屋に戻る。まだ名月が眠るベッドを背にして、床に座り込んだ。
さっき見た毒の羅列が、未だに頭を支配している。
【中野由衣、結月くんに好かれたって勘違いしてる】
【宮原さんの自殺は中野さんのせいってマジ?】
中野さんの孤独も、宮原さんの苦悩もなにも知らないのに、自分たちに都合の良い解釈をして、中野さんのことを追い詰める。その心が僕には理解できない。
でも人間はいつも、わかりやすい答えを欲しがる。優越感を求める。そういうことなのかもしれない。



