最近、少しずつ風が冷たくなってきた。私の心情の変化に合わせているようだった。音羽ちゃんに会えない日々が長引くほど、心の隙間は広くなる。
 朝、学校に着いて、重たい鞄をどすんと机に置く。なんだかいつも以上に重く感じた。
 樋口くんと話して元気になったかと思えば、その二日後、週明けの今朝には絶望的な気分になっていた。その理由はわからない。もう自分の心に付き合いきれない。
 机の中に教科書を入れようとしたら、なにかが入っているのに気付いた。先週の金曜日に空っぽにしておいたはずなのに。
 それは、小さな紙切れだった。
『今日の放課後、屋上に来てください』
 呼び出し――?
 小説や漫画とかで見たことはあるけれど、実際にされるのは初めてだ。しかもそれらとは違って、嬉しいとは思えなかった。
 差出人は書いていない。けれど字は丁寧で、差出人の几帳面さが窺える。力強くはなく、横が揃った小さめの文字。
 行きたくない。でも、行ったほうがいいのだろうか。「来てください」だから、義務のような感じがある。でもどうして。
 小説とかでよくある告白は、私はされるわけがないからありえない。焼きを入れられるみたいなことも、そんなことをする人はこの学校にはいないはず。
 教室の中を見回しても、誰も私の様子を気にしているような人はいなかった。既に来ていた樋口くんの姿が目に留まる。今日も、一人で本を読んでいた。
「樋口くん」
 近付いて声をかけると、すぐに気付いて顔を上げてくれた。
「どうしたの?」
「……あの、私の机の中に、こんなものが……」
 他の人には見えないように、手で隠しながら紙を見せる。それを見た樋口くんは少し眉根を寄せた。
「行ったほうがいいのかな……?」
「……でも、いいことだとは限らないよね」
 紙や筆跡だけから見れば、悪意があるとは思えない。でもこの状況で来るというのがやや不穏だった。
「……もしかしたら、音羽ちゃんのこととも関わってるのかな」
「そうだとしたら、行くことでなにか情報は得られるかもしれないけど……」
 樋口くんがそこで言葉を切り、上目遣いで私を見た。心配してくれているのがわかる。でも私は、音羽ちゃんにあったことを知りたい。
 私がどうとかいうよりは、音羽ちゃんの方が大事だ。
「……私、行くよ」
「危ないかもしれないよ……?」
「わかってるけど、音羽ちゃんのことを助けたいから……」
 もう後悔はしたくないから。それに、もし、万が一、いいことだった場合に、相手に対して失礼だと思う。
「……代わりに僕が行くのもありだと思うけど」
「えっ、でも、それじゃあ、私と樋口くんが裏で繋がってるって気付かせるようなものだし……。樋口くんを危ない目に遭わせたくないよ」
 私はできれば樋口くんとの関わりをみんなに知られたくない。樋口くんは人気者だから、私なんかと一緒にいるところ見たクラスメイトの中にはそれを快く思わない人もいるだろう。
 樋口くんはそんな私の気持ちを察してくれたようだった。本当にそうなのかはわからないけれど。
「それなら、僕は教室で待ってるから、なにかあったらすぐ逃げてきて」
「うん、それなら……。ありがとう」
 樋口くんにお礼を言って自分の席へと戻った。迷惑はかけたくないけれど、樋口くんがいてくれるなら安心できる。
 クラスの人気者。可愛くて優しい完璧な王子様。樋口くんのことを好きな人たちが言っている。でも、本当にそうだろうか。
 確かに樋口くんは可愛くて優しいけれど、みんなが色目で見ているようなキラキラした感じは全くない。私はむしろそこに魅力を感じる。
 そういえば、どこが、なんてことは、音羽ちゃんと話したことはあまりなかった。

 放課後、紙に指示された通りに屋上へ向かった。
 この学校の屋上は常に開放されているから、自由に入ることができる。だけど、私はここに来るのは初めてだった。
 重い扉を開けると、ぴゅうっと強い風が吹いて、前髪を舞い上げる。片手で髪を直し、抑えて、屋上を見渡してみる。まだ誰もいなかった。
 柵に近付くと、下校している人たちの姿が見えた。ほとんどの人はおそらくクラスメイトや部活仲間同士で、二人以上で帰っている。カップルだと思われる二人組は少しだけ。一人で帰っている人もちらほらといる。
 ただ、下校が一人だからといってクラスでも一人だとは限らない。自分がひとりぼっちだったときは、登下校中に一人でいる人を見つけては親近感を抱いていたけれど、その人に友達らしき人が声をかけると、勝手に落胆していた。
 確かその頃、クラスのキラキラしている女の子のが「一人で帰るのやだー!誰か一緒に帰ってよー」と喚いているのを聞いて、なんだか悲しくなったことがある。私なんかいつもひとりなのに、と。
 音羽ちゃんがいなかったら、私はその頃から今までずっとひとりだったと思う。今も樋口くんのおかげでひとりではない。
 もしこの中に本当にひとりぼっちの人がいるなら、そのことの寂しさや苦しみは、私にもわかる。
 今は、屋上にひとりぼっちだ。
 その後もいろんな方向への景色を見ていたけれど、いつまでたっても人が来ない。体感で二十分くらい経った。さすがにおかしい。
 でも、掃除とか、面談とか、来ないにしても早退してしまったとか、いろんな事情があると思う。もう少し待ってみることにした。

            ✽

 中野さんを見送ってから、三十分。今は屋上で誰かと話している頃だろうか。
 夕焼けに染まり始めてきた外から、部活動の元気な声が聞こえてくる。部活に入っていない僕ですら学校は大変なのに、部活に所属している人たちは本当にすごいなと、いつも思う。
 やっぱり僕も屋上に行けばよかったかもしれない、と思い始めていた。そもそもあの紙には「一人で来てください」なんて書いていなかった。
 でも行くと言ったのは中野さんだし、無理についていくわけにもいかない。
 僕と関わっていることを知られたくない、というのは当然のことだと思う。もし呼び出した人が宮原さんの件に関わっている人なら、僕が行くということは、なにかを探っているとその人にわからせてしまう。
 うだうだと考えていたら、急に教室の戸がガラリと開いた。少し乱暴な開け方で入ってきたのは、岩田さんだった。
 僕と目が合うと、岩田さんは一瞬動きを止めて、目を丸くした。その態度にどこか違和感を覚える。けれどすぐに、荷物を持って出ていった。忘れ物があったのかもしれない。
 再び一人きりの静寂が訪れる。放課後の誰もいない教室の雰囲気は、普段の騒がしい教室とは比べものにならないほど落ち着く。
 ポケットから取り出してスマホを見たけれど、今のところ中野さんからは、なにも連絡はない。以前、宮原さんの家に行くとなったときに、連絡先を交換していた。
 さらに二十分ほど待つ。さすがにそろそろ様子を見に行った方がいい気がしてくる。もう一時間経ってしまっていた。
 だけどそのとき、また教室の戸が開いた。今度はゆっくりと。よろめきながら入ってきたのは、片岡くんだった。
「片岡くん?どうしたの、顔色が悪いよ」
「ひ、樋口……?」
 こんなふらふらした片岡くんを見るのは初めてで、さすがに少し戸惑ってしまう。席を立って片岡くんのそばに寄った。
「体調が悪いとか?座ってた方がいいんじゃ……」
「……そういうわけじゃない、大丈夫……」
 大丈夫には見えない。この状態でそう言われても信じられない。
 そこでふと、さっき来た岩田さんのことを思い出した。一部では有名な話だけれど、岩田さんは、片岡くんの幼馴染だ。
「……もしかして、岩田さんとなにかあった?」
 案の定、片岡くんの瞳が大きく揺れる。先程の岩田さんも、いつも大人しい彼女に比べると、どこか様子がおかしかった。
「なにがあったの?」
 尋ねても、片岡くんは悲痛な表情をするだけで、なにも答えてくれない。
「……喧嘩、とか?」
 その単語を口にすると、片岡くんがまたわかりやすく動揺した。耐えきれなくなったのか、床に座り込み、教室の後の壁に背中を預ける。
「本当に喧嘩なの?」
「いや、喧嘩、というか、その……」
 歯切れの悪い片岡くんの隣にしゃがむ。喧嘩とは少し違うなら、岩田さんを怒らせてしまった、とかだろうか。
「どうして、そんなことに……」
「そ、れは、言えない……」
「話せば楽になるかもしれないよ」
 言いながら、誘導尋問みたいだな、と反省する。ただ、これだけ苦しそうな人の心を、放っておくのはよくないと思う。
「それ、でも……樋口には、言えない」
「そう……」
 どうしても言いたくないようだった。気になるけれど、聞き出すことは諦める。推定で僕よりも二五センチくらい高いはずの片岡くんが、とても小さく見えた。
「樋口は、どうして、俺に、そんなこと……」
 訊くのか、ということだろう。血色が悪いその顔を見ながら、少し考えて答える。
「こんな状態の片岡くんを、見捨てるべきじゃないから。……あとは、単なる好奇心かな」
 後半は失礼な答えかもと思ったけれど、僕の言葉を聞くと、片岡くんはふっと悲しげに笑った。たまに妹の名月が見せる表情と、よく似ていた。
「好かれるわけだよ」
「え……?」
「……迷惑かけてごめん」
 僕が困惑した隙に、片岡くんは教室を出ていってしまった。追うこともできず、しゃがみ込んだまま、片岡くんの言葉の意味を考える。
 好かれる?僕が?そんなこと、あるのだろうか。
 片岡くんの言ったことが、よくわからなかった。

             ✽

 一時間待っても誰も来なかったので、私は教室に戻ることにした。さすがにこれはおかしいと思う。
 教室の戸を開けると、なぜか樋口くんが床に座り込んでいた。
「……どうしたの?」
「ごめん、ちょっと……ゆっくり話すよ」
 樋口くんは立ち上がって自分の席に戻る。私もその隣の席に座った。
「屋上は、どうだった?」
「一時間待ったけど、誰も来なかった……」
「誰も……?」
「うん」
 樋口くんが口元に指を当てて考え込む。自覚があるのかはわからないけど、ひとつひとつの仕草が、本当に絵になるなと思う。
「……樋口くんの方は、なにがあったの?」
「岩田さんと、片岡くんが来たよ」
「えっ?」
 意外な名前が出てきて思わず声を上げる。まさか、その二人と私が呼び出されたことには、関係があるのだろうか。
「片岡くんとは、少し話せた」
「なんて言ってたの?」
「喧嘩、したみたい」 
「喧嘩……?」
 樋口くんはどこか思うところがあるような言い方をした。
 喧嘩。片岡くんと岩田さんとは結び付きにくい言葉だった。
 学校での姿しか知らないけれど、私から見ると片岡くんは根は慎重で優しい。岩田さんも、この前話した限りでは、片岡くんのことを大切に思っているようだった。
 でもきっと、幼馴染であり距離が近いからこそ、お互いしか知らない顔があると思う。
「二人は、私を呼び出した人、なのかな……。それが喧嘩して行けなくなったとか?」
「可能性はあるけど、なんとも言えない……」
 これもイメージでしかないけれど、あの二人だったら、私を呼び出した紙のような丁寧な字を書きそうだ。
「樋口くんは、さっきそれを考え込んでたんだね」
「それは、合ってはないかな……」
「違うの?」
「片岡くんに言われたことで気になったことがあるんだけど、中野さんに訊いてもいい?」
「うん、いいよ」
 樋口くんが、訊いてもいいかを尋ねてくるのは、意外にも初めてだ。おそらく樋口くんは、いつもなら、私の反応を見て、自分の中でそれを決めているから。
 だから、樋口くんでも扱いに困るほどのことだということ。私に答えられるのだろうか。
「変な質問なんだけど……僕って、好かれてる?」
「えっ」
 身構えていたわりには簡単な質問で、呆気にとられた。
「樋口くん、気付いてなかったの?」
「……全然、気付かなかった。やっぱりそうなの?」
「そうだよ!」
 普段の態度からなんとなく思ってはいたけれど、やはり樋口くんも、自分のことを好きなわけではないのかもしれない。
「どうしてか、中野さんは知ってる?」
「うん。みんないろいろ言ってるよ。可愛くてかっこよくて、優しくて、大人びてる、完璧な王子様だって」
「なにそれ……」
「やっぱり、嬉しくはないんだね」
 樋口くんは苦笑していた。その反応は予想できていた。私だって、言っていてあまり気持ちよくなかった。私は樋口くんに対して、みんなが言うようには思っていないからだ。
「なんか、馬鹿にされてるような気がする」
「そんなことないと思うよ。みんなは本気でそう思ってるんだよ」
「そうなんだろうけど、なんていうか、青春の道具にされているみたいな……」
「青春の道具……」
 その言葉は言い得て妙だと思った。私が樋口くんを持て囃す人たちに抱いていた、「なんだかなあ」という苦い気持ちをよく表している。
「なんか、遊びみたいな感じがする。……って、不快だったらごめんね」
「ううん、わかる!青春って、ほんとにそれでいいの?って思っちゃう……」
 もちろん中には、樋口くんのことを本気で好いている人がいることも、私は事実として知っている。でも、大半の人はそうじゃない。ただ「青春したい」だけだ。
「そうだね。変にキラキラしてたりとか、映えを狙ったりとか、本当にそれが青春なのかなって思う」
 樋口くんの言葉に何度も私はうなずく。
「うん。『青春する』ために学校に来てるわけじゃないし、その〝青春〟のせいで周りに迷惑かけてることもあるのにね」
「僕もそういう〝青春〟の餌食にされたってことか……」
 まさかこんな感覚を共有できるなんて思っていなかったから、つい喋りすぎてしまった。樋口くんは全く嫌そうな顔をしなかったけれど、ここにその子たちがいたら怒られていると思う。
 私は、その子たちのようにキラキラしていなくても、スマホをほぼ使っていなくても、音羽ちゃんとまったり喋っているとき、その時間がとても愛おしく思えていた。それが私にとっての青春だったし、それでよかった、はずだった。
「でも……時々、そういう〝青春〟が、羨ましくなったりもするんだよね」
 視線と声を落として呟く。わいわいと騒がしいその子たちも見て、楽しそうだな、なんて、思ってしまうこともあった。
「それもわかる……。たぶん、軽蔑しながらも、心のどこかでは、羨望してる」
 樋口くんがぼんやりと言う。考えていることが同じで、幻想かもしれないけれど、通じ合えているなと思った。
 青春が、羨ましいとも思う。でもたぶん、こういう考えになってしまった私は、みんなのような〝青春〟はできない。
 こんなに考えなければ幸せなのかな、とも思っていた。

 次の日は火曜日で、音羽ちゃんが事故に遭ってから一週間になった。
 ぽっかり空いた穴はずっと消えない。音羽ちゃんに、早く目を覚ましてほしい。
 登校すると、昇降口で樋口くんと鉢合わせした。
「あ、おはよう」
「おはよう」
 挨拶を返してくれる落ち着いた声は、今日も変わらない。無感情とも言える表情もいつも通りだった。どうしたらそう安定した心を保てるんだろう。
 音羽ちゃんは不安定だったけれど、樋口くんは「過安定」だと思う。
 そんなことを思いながら靴箱を開けると、中に入っていたなにか白い物が目に飛び込んできた。私は思わず動きを止める。
 ――もしかして、また。
 恐る恐るそれを取り出すと、やはり、なにかが書かれた紙だった。
 その内容を見て、絶句する。
「どうしたの?」
「こ、これ……」
 私の様子に気付いた樋口くんにも、震える手で紙を見せる。紙を見た樋口くんは険しい表情になった。
『今のうちに樋口くんとの関係を絶ってください』
 やや乱れた文字で書かれていて、書き手の感情がそのまま表れているようだった。
 これは――。
「脅、迫……?」
「そうみたいだね……」
 どうして。
 いつのまに樋口くんとの関係がバレたの?
 なんで私に向けて書いたの?
 思わず紙をくしゃりと握りしめて、樋口くんの方に肩を寄せた。
「中野さん」
「……っ、ごめん、怖くて……」
「……大丈夫」
 樋口くんは無理に私を離そうとはせず、そのままでいてくれた。
「どういうことなの……?音羽ちゃんのことと、関係、あるのかな……」
 私の声は震えていて情けないものになっていた。縋るように樋口くんを見る。
 こんな状況でも、樋口くんは落ち着いていた。
「……タイミングからすると、関係あるとも考えられるよね。だとしたら、二人が狙われてたのか、初めから中野さんが狙われてたのか……」
 そうだ、音羽ちゃんがいなくなれば、私は弱る。もしかして、それを狙って……?
「どっちにしろ、中野さんも狙われてることは確かだから、警戒しないと……」
「うん……」
 狙われている、つまり、これからもっとひどいことが起こるかもしれない。……怖い。
「保健室、行く?」
「ううん、大丈夫……。樋口くんが近くにいてくれる方がいいから……教室、行こう」
「……うん」
 震える足に力を込めて、樋口くんと並んで、教室への階段を上り始めた。

 授業が始まる前、朝のうちに樋口くんがそばにいてくれたおかげで、その後はだいぶ落ち着けてきていた。
 そうすると今度は、朝、かなり恥ずかしいところを見せてしまったような気がしてそわそわしてしまった。だけどあれは、状況的に仕方がない。
「中野さん、調子はどう?」
 昼休みにも、樋口くんが話しかけてきてくれた。
「今は落ち着いてるよ。ありがとう」
「よかった」
 樋口くんが安堵の息をつく。樋口くんも危機感や不安を感じているだろうけど、それを私には一切伝わらせない。ありがたいと思うと同時に、申し訳なくなる。
「なあ一華、最近怜央が元気ないんだけど、なんか知らない?」
 突然太い声が耳に飛び込んできて、私と樋口くんは驚いてそちらを向く。私たちにではなく、斜め前の岩田さんに、数人の男子が話しかけていた。
「……知らない。ごめん」
 岩田さんは無表情で首を横に振っていた。
 当の片岡くんは、今は教室にはいない。
「宮原さんとなんかあったとか?」
 男子たちの一人がそう言うと、それに対して岩田さんは弾かれたように顔を上げた。過剰とも言える反応だった。
 ちらりと樋口くんを見ると、樋口くんも横目で私のことを見た。
「そういや、あいつ、宮原さんが事故った日に、宮原さんと一緒に帰るって言ってたよな」
 また別の男子が言う。えっ、と声を上げそうになるのをなんとか堪え、会話に耳を傾け続けた。
「じゃああいつ、宮原さんになんかしちゃったのか?」
「それは違う!」
 岩田さんがはっきりと否定した。声が大きかったからから、樋口くんが少し震えたように見えたけど、気のせいだろう。
「一緒に帰るつもりだったみたいだけど、いつの間にか宮原さんがいなくなってたらしくて……なんでかは私もわからない」
 男子たちも、まさか片岡くんが宮原さんを傷つけるとは思っていないらしく、岩田さんの言葉を素直に受け止めているようだった。
「……片岡くんが戻ってきたら、話聞いてみるよ」
 樋口くんが私の耳に顔を寄せ、こっそりと言った。私は無言でうなずく。
 やはり二人は、音羽ちゃんの件に関わってるのだろうか。もしかしたら、私の脅迫も、二人のせい?でも、そんなことをするとは思えない。だけどそれは、固定観念にすぎない。
 ほどなくして教室に戻ってきた片岡くんに、樋口くんがすかさず声をかけた。短い会話をして、樋口くんが私のところに戻ってくる。
「……どうだった?」
「約束はしたけど一緒に帰らなかったって。理由はわからないって言ってた」
「そうなんだ……」
 岩田さんも言っていたから、わからない、というのは本当なのかもしれない。
 でももし、二人が私を脅迫した人だったとすれば、こんなに近くにいることになる。それはとても、恐ろしい。
「……中野さん。今日の放課後、僕の家に来る?」
「えっ?」
 小さめの声で樋口くんが思いも寄らぬ誘いをしてきた。相変わらず表情に変化がないから、なにを思ってそんなことを言ってきたのか全くわからない。
「状況を整理したくて。中野さんが良ければ」
「えっと、逆に、いいの?迷惑にならない……?」
「大丈夫だよ。会わせたい人もいるから」
 会わせたい人。誰だろう。
 突然の提案には驚いたけれど、断る理由は見当たらなかった。
「じゃあ、いいかな、お邪魔して……」
「うん。放課後に一緒に行こう」
 緊張はするけれど、今は樋口くんと少しでも長く一緒にいたほうが私も安心する。
 本当は樋口くんの家に行くべきなのは私ではない。だけど今は、彼の優しさに甘えさせてもらうことにした。

 放課後、二人で昇降口を出て歩いていく。二人で帰るのは初めてではないけれど、こんな人が多い時間に、ということはなかった。周りからの視線が突き刺さる。原因は明らかだった。
「……すごい見られてるね」
「樋口くんが好かれてるからだよ」
 私もみんなから見られることには慣れていないから、いたたまれない。せっかく樋口くんと一緒にいれているのに。
「やりづらい……。遠回りしてもいいかな」
「うん」
 普段は通らない狭い道を通って駅に向かい、普段は降りない駅で降りた。そこからまた二人で歩いていく。
 樋口くんの隣にいると安心する。でもどうしてだろう。樋口くんは私と同じだからだろうか。全く同じではないけれど、共通点は多いと、勝手に思っている。
 樋口くんはとても話しやすい。異性であることを感じさせないほどに。だから私も、周りからそういう目で見られると困惑してしまう。男女が一緒にいるからそう、というわけではないのに。
「着いたよ」
 やや新しく見える、二階建ての一戸建て。明かりが点いているのが見えるので、中に誰かいるみたいだ。
「そういえば、会わせたい人って……?」
「……開ければすぐにわかるよ」
 そう言って樋口くんが扉を開けた。すると中から、樋口くんとそっくりの可愛らしい女の子が顔を出した。
「あっ、おかえり!……って、ええ!?」
 私を見るなりその女の子は目を丸くした。
「お邪魔します……。えっと、双子?」
「……ううん、妹」
「ええっ!」
 並んで立つ二人を見ると、身長が全く同じだった。顔も、二人とも綺麗で整っている。
「はじめまして、妹の名月です。中三です。よろしくお願いします!」
 女の子――名月ちゃんが、流れるようににこやかに自己紹介をしてくれた。名月ちゃんが動くのに合わせ、短めの髪がふわっと揺れる。
「あっ、えっと、結月くんのクラスメイトの中野由衣です。よろしくお願いします」
「由衣さんって言うですね。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「あ、こちらこそ、いつも結月くんに助けられてます」
 お世話されているのは十割私の方だと思う。そしてさすが兄妹だけあって、名月ちゃんも結月くん同様、しっかりしているという印象を受けた。
「じゃあ二人とも、僕の部屋に来て」
「結月くんの部屋?」「私も?」
 揃って驚いた私と名月ちゃんを見て、樋口くんが失笑する。
「そうだよ。そのために来てもらったんだから」
 三人で結月くんの部屋に入り、床に円になって座った。余計な物がなくて落ち着いた部屋だけれど、本がとても多い。しかもだいたいが文庫本だった。作家さんや出版社ごとに、綺麗にまとめられている。
「それで、お兄ちゃん、なにするの?この前悩んでたことと関係ある?」
「うん。中野さん、名月に話してもいいかな」
 ようやく結月くんの意図がわかった。名月ちゃんにも協力してもらおうということだ。
「うん、いいよ」
 私は特に迷わずにうなずいた。他の誰かより、結月くんの妹なら信頼できる。
「そうしたら、整理の意味も兼ねて、今まで起きたことを一通り話すね」
 結月くんが背後の机からノートを取り出した。白紙のページを開き、相関図を書いていく。
「まず、発端は、中野さんの親友の宮原音羽さんが踏切事故に遭ったこと。自殺だと言われていたけど、事故で間違いないと思う。精神的に追い詰められていた宮原さんは、おそらく、降りていた遮断器に気付かずに躓いて、電車に衝突してしまった」
 名月ちゃんは、結月くんの手元を見ながら真剣に話を聞いていた。じっくり見たことがあるわけではないけれど、授業を聞いているときの結月くんと似ている気がする。
「宮原さんを追い詰めていたものはなんなのかを考えて、仲が良かった片岡くんと、その幼馴染の岩田さんに話を聞いてみた。わかったのは、宮原さんがその日は片岡くんと帰る予定だったこと。結局は一緒に帰れなかったみたいだけどね」
 おそらく、そこでなにかがあったのだろう。でもその「なにか」が掴めない。
「それでいろいろと探ってたら、中野さんのところに二枚の紙が来たわけだけど……今、持ってる?」
「うん。昨日のがこっちで、今日はこれだよ」
 鞄の中にしまっていた紙を、膝の前に置いた。今日の紙は、握りしめたせいでくしゃくしゃになってしまっていたので、よく広げてから。
「これを送ってきた人はなにをするつもりだったのか。宮原さんの件と中野さんへのこの紙は関係があるのか。それを考えないといけないわけだね」
 話し終わって、結月くんは、ふぅ、と息をついた。
 結月くんが話しながらまとめてくれたノートを見つめる。こうして整理してみると、新たなことがわかるかもしれない。
「あっ」
 声を上げたのは名月ちゃんだった。
「これ、もしかして、二枚とも同じ人が書いたんじゃないかな」
「えっ」
 名月ちゃんが指差したのは、私が出した二枚の紙。
「ほんとだ……。確かに、筆跡が似てるかも」
「そうですよね」
 並べてみるとよくわかる。特に、二枚ともに含まれている「てください」という文言の字が、二枚目の方がやや乱れているけれど、ほぼ同じだった。
 これなら、誰の字かが特定できれば、いろいろとわかりそうだ。ただ、私は友達が少ないせいで、みんながどういう字を書くのかを知らない。 
「……僕も一つ、気付いたというか、疑問なんだけど」
 じっとノートを見ていた結月くんが顔を上げて私を見た。
「宮原さんと片岡くんって、仲良くなったのは二学期に入ってからだよね」
「そうだと思う。最初は片岡くんから話しかけてくれたって言ってたよ」
「……そらなら、そもそも、どうして片岡くんは宮原さんに近付いたんだろう」
「あ、そういえば……」
 気になったから、と言えばそれまでかもしれないけれど、音羽ちゃんと片岡くんは、学校でのタイプが全く違うから、関わろうとしなければ関わりはなかったはずだ。
「……片岡くんは、一連の状況の鍵を握る人なのかもしれないね」

            ✽

 玄関先で中野さんを見送ったあと、名月とともに自分の部屋へ戻った。
「……由衣ちゃん、疲れてるみたいだね」
「そうだね……」
 名月の目にも、中野さんの姿は僕と同じように映っていたようだ。
 親友が未だ目覚めす、しかも自分にも災いが降りかかってきた。これで平常心を保てる人はなかなかいないと思う。
 だから、寄り添って癒すことができればいいのだけど。
「でも僕には、協力して解決することしかできないから……」
「癒すのは、私の役目だね」
 微笑む名月は、人を癒すこともそうだけれど、洞察力にも長けている。だから協力してもらえば百人力になる。
 ただ、心配なこともあった。
「名月、深入りはしすぎないで。つらくなるかもしれないから」
「お兄ちゃんこそ、なんでも背負っちゃいそうだから心配だよ」
「……名月もでしょ」
 加えて、当事者である宮原さんもそうだと思う。周りで起こるいろいろことを、すべて自分事のように捉えてしまいがちなのだ。
 名月が小説の登場人物に共感しすぎてつらくなっているところを、何度か見たことがある。虚構世界とはいえ、それも同じことだろう。
「私のことはいいの。お兄ちゃんも、最近疲れてるんでしょ?」
 並んでベッドに座り、名月が左手でそっと僕の右手を取った。慣れ親しんだ熱が伝わってくる。
「……うん、疲れた……」
 こんなことをはっきりと言えるのも、名月の前でだけだった。兄妹だからというよりは、感覚が似ているから、お互いの気持ちを共有しやすい。
「でも、名月も疲れてるよね」
「……そうだよ、疲れたよ。学校行ってるだけなのに」
 名月が自分の膝に視線を落とす。学校に行って生活するだけでも、僕と名月の場合はかなりの負担になっている。
 だからよくこうして、名月が半ば強引に癒してくれようとする。これで名月の心も和らいでくれるならそれでいいから、僕も手を振り払ったりはしない。
 でも、いつまでも名月に甘えているわけにもいかない。
「お兄ちゃん、手に力入ってる」
「……」
 名月に指摘され、拳を握っていた右手を緩めた。
「力まなくていいんだよ」
「……うん」
 名月が僕のことをどう思っているのかはわからないけれど、支えになってくれているのは確かだった。
 だからこそ、できるだけ負担はかけたくなかった。

             ✽

 朝がこれほど憂鬱なのは、いつ以来だろう。起きたくない。それでも無理矢理腕と脚に力を入れて、なんとか起き上がった。
 顔を洗いながら、学校に行く意味なんてあるのかな、と考えしまう。勉強は、教科によるけど、私は楽しい。人間関係は、音羽ちゃんがいるときは、楽しかった。だけど今は、明らかに、学校に行くことによる負の影響の方が大きい。
 学校、と考えて、自然と結月くんの顔が浮かぶ。
 結月くんなら、私が「学校に行きたくない」と言ったら、それでもいいと言ってくれそうだった。
『青春するために学校に来てるわけじゃない』
 一昨日、結月くんとの会話で自分が言った言葉を思い出す。だけど残念ながら、それをしたいから学校に来ているという人の方が、私の周りには多い。
 むしろ青春したい人からすれば、私の存在は邪魔になる。
 学校って、呪いみたいなものだ。
 昨日来た脅迫よりも、もっと怖い。
 特に高校生になったら、単位が取れないと卒業できない。自由になれない。もし途中で辞めたら、それは無能だというレッテルを貼られる。
 ふっ、と短く息を吐く。思考がみるみる沈んでいた。
 心のことなんか無視して、今日も私の足は学校へと向く。

 三日連続で紙を入れられていることはなかった。
 それは良かったけれど、朝から気分が沈んでいるせいで、昼休みにはもう動きたくないと思うほど疲れていた。もちろんそれを表には出さないけれど。
 こんなときに、音羽ちゃんがいてくれれば。
 音羽ちゃん――今どんな夢を見ているんだろう。私が心の中にいるなら嬉しい。早く音羽ちゃんに会いたい。
 そこでふと、ある考えが頭に浮かんだ。
 音羽ちゃんに会える。
 だけど一人だと、それは少し心細い。
 重い腰を上げて席を立ち、窓際でなにか考え込んでいる様子の彼のところへ向かう。
「結月くん」
「あ、中野さん。どうしたの?」
 結月くんがぱっと顔を上げる。いつもの涼しげな表情だった。昨日名月ちゃんといるときの方が、表情に抑揚があった気がする。
「あの、お願いがあるんだけど……」
「うん」
「今日の放課後、音羽ちゃんのお見舞いに行こうと思ってるんだけど、一緒に来てくれる……?」
 すると、結月くんはしばらく考える仕草を見せた。少し意外だけれど、異性とどこかに行くことを躊躇うのは仕方がないと思う。
「あの、嫌だったらいいよ……ごめんね」
「ううん、ごめん、そうじゃないよ。嫌なわけじゃない」
「え?」
「朝来たら、これが入ってて……」
 結月くんが机の中から白い紙を取り出した。まさかとは思ったけれど、嫌な想像はすぐに現実となった。
『中野さんから離れてください。お願いします』
 似たような文面を昨日も見ている。同じ筆跡だった。けれど今度は、結月くんに。
「また、脅迫……?」
「そうなのかな。ただ、悪意は感じないというか……」
 確かに、昨日ほど字は乱れていない。言葉遣いも、脅迫というよりは要望だった。
「でもなんで、結月くんに……」
 昨日のことも含め、私が結月くんに協力してもらっていることを、既に気付かれてしまったとしか思えない。ただ、そうだとしても、私にだけ送ればいいのに。
 それでも、効果がなかったから?
「理由はわからないけど、これを書いた人は、僕と中野さんのことを引き離したいみたいだね」
「じゃあ、結月くんも狙われてるってこと?」
「わからない……。でも、この状況で、二人で一緒にいて大丈夫なのかな?」
 送り主が私と結月くんが一緒にいるのことを不快に思っているなら、その方がいいのかもしれない。論理的にはわかる。
 だけど今、私がひとりになったら……。
「……私は、一緒にいたい。結月くんしか、頼れる人がいないから……」
「うん、わかった」
 今度は、躊躇することもなくあっさりとうなずいてくれた。結月くんが心配をしてくれている。それが安心するけれど申し訳なくて、いいのかな、と疑問にすら思ってしまう。
「宮原さんのお見舞いも行こう」
「ほんと?ありがとう……」
 結月くんに感謝すると同時に、結局ひとりではなにもできない自分が嫌になる。
 だけど、ひとりになったことがあるからこそ、ひとりになりたくない。そんな思いの方が、心の中で強く表れていた。
 誰かと一緒にいることは、自分には良くても、他の人を悲しませることもあるのに。
 それを、わかっているのに。

 病院という場所は、学校とはまた違った独特な雰囲気が漂う。軽い気持ちでは立ち入りづらい。
 受付を済ませてから、なるべく静かに廊下を歩く。目的の病室の前につき、コンコン、と数回ノックをした。中からの応答はない。
 二人でそっと中に入る。すぐに、穏やかな表情で眠る女の子の姿が、目に飛び込んだ。
 枕に黒髪を広げる小柄な女の子。彼女のこれほど安らかな表情を、実はあまり見たことがなかった。