どうして――?
昨日、雨の降る夕方、クラスラインに飛んできた通知を見てまず感じたのは、そんなことだった。
『宮原さんが飛び込んだ』
クラスの女子が送ってきたメッセージ。信じられるわけもなくて、宮原音羽ちゃんに何度も電話をかけた。だけど、繋がらないまま夜を跨いだ。
雨が上がって朝になっても、音羽ちゃんに送ったメッセージには既読すらつかないまま。
本当に、音羽ちゃんは「飛び込んで」しまったのだろうか。
そんなの嫌だ。音羽ちゃんがいない学校になんて、行く意味がない。
それでもよろよろと起き上がって、呪われたように足が動く。
気付けば学校の最寄り駅に着いていて、音羽ちゃんが飛び込んだという踏切の前にいた。
ぐにゃりと視界が歪み、縛られたように今度はその場で動けなくなる。
もし本当に、自分から飛び込んだとすれば。どうして、それほどの苦しさに気付いてあげられなかったんだろう。なんで私はなにもできなかったんだろう。
昨日、一緒に帰っていれば――。
立っていられなくなりそうで、近くの電柱に寄りかかった、そのとき。
「中野さん」
誰かが私のことを呼んだ。落ち着いた高い声。聞き覚えがあるような気がして顔を上げる。
「あ……」
そこには、クラスメイトの樋口結月くんが、心配そうな目で立っていた。
「しんどい……?」
近寄ってきた樋口くんの言葉に、私は否定することもできずにうなずいた。ここで大丈夫と言っても、信じてもらえるわけがない。
「……宮原さんのこと、考えてた?」
少し間をおいてから尋ねてくる。なんでわかったんだろう。私はまたなにも言わずにうなずく。
「中野さんは、宮原さんと仲が良かったよね」
「知ってるの……?」
「うん。一緒にいるところ、よく見るから」
知ってくれているなら、話してもいいかもしれない。そう思うと、目眩も収まった。頭を上げて樋口くんを見る。
樋口くんは、なんというか、温度と湿度の低い表情をひている。けれど冷たいわけじゃない。だから、言えた。
「樋口くん……。音羽ちゃんは、どうして飛び込んだのかな……」
私の問いかけを受けると、樋口くんは思案するようにまた少し間を置いた。そして、
「――僕は、自殺じゃないと思うよ」
と、表情を変えないまま、はっきりと言った。
「え……?」
驚いて樋口くんを見つめる。落ち着いた表情からは考えていることが読み取れない。
「確信があるわけじゃないんだけど……中野さん、電車に飛び込んだら、どうされるか知ってる?」
どうされるか?なにを言いたいんだろう。私は首を横に振る。
「罰金を払わされるんだよ。亡くなった場合は、遺族が。でも、宮原さんはそんなことを望まないはずだよ。知っていなくても、電車が止まれば多くの人に迷惑がかかる」
「あ……そっか」
音羽ちゃんは、人の迷惑になることは絶対にしない。それが、いつも隣にいる私にはわかっていた。迷惑にならないかを考えすぎてなにもできなくなることもあるくらいだ。
「それに、中野さんを残して死ぬなんて、ありえないと思う」
「そうかな……。私が気付けなかったとか、嫌なことしちゃったからかもしれない……」
「それはないんじゃないかな。少なくとも僕には、中野さんといるときの宮原さんは、楽しそうに見えてた」
「そうなのかな……ありがとう」
私なんかが音羽ちゃんを幸せにできていたとは思わないけど、樋口くんの言葉で少し心のつかえが取れた。
「……音羽ちゃんは、生きてるのかな……」
「ニュースでは、意識不明だけど命に別条はないって」
「ニュースになったの?」
普段は新聞を読んでいるけれど、今日は読む気にもなれなかった。
「うん。名前は伏せてあったけどね」
「……とにかく、生きてるんだね」
よかった、と安堵の息をつく。それなら私が生きている理由は、まだある。
「……心配かけてごめんね。学校、行くよ」
「うん。無理はしないで。僕も一緒に行くから」
「ありがとう……」
樋口くんと並んで、ゆっくりと歩き出した。こうしてみると、樋口くんは思った以上に小さい。一五ニセンチの私とほぼ、というか、全く同じくらい。だからなのか、親しみやすさを感じる。それは私にしては珍しいことだった。
「……どうかした?」
「あっ、ううん、なんでもない」
気がついたらじっと見てしまっていた。
樋口くんはクラスメイトからも人気がある。この整った、可愛げのある小さな横顔を見れば納得だ。
「……そういえば、樋口くんは、音羽ちゃんと同じ中学校だったんだよね」
音羽ちゃんから聞いたことがあった。唯一話してくれた人だったのだとか。
「うん」
「どんな感じだったの?中学生のときの音羽ちゃんって」
「雰囲気とかは、今とあんまり変わらないよ。個人的には、いちばん話しやすい人だった」
「そうなんだ……!」
音羽ちゃんは自分が樋口くんに好かれていないんじゃないかと不安そうに話していたけれど、そんなことはないようだった。
私や音羽ちゃんが「話しやすい」と感じる人はなかなかいない。
それから途切れ途切れに話していたら、すぐに学校に着いてしまった。人と話しながら歩いているときは、一人のときよりも距離が短く感じることがある。
昨日の帰りは、いつもより長かった。
「中野さん。放課後、教室に残れる?」
階段を上りながら樋口くんが尋ねる。
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ、昨日のこととか、改めて話したいんだけど、いいかな」
「うん。わかった」
「ありがとう」
音羽ちゃんは自殺じゃない。樋口くんは確信はしていないと言っていたけれど、否定する要素は十分にある。
そらならなにがあったのか。知りたい。でも、知ることが、少し怖くも感じた。それは、予感に似たようなものだった。
放課後、誰もいない教室に私と樋口くんだけが残る。誰か勉強しているものだと思っていたけれど、そんなことはなかった。
夕日が差し込む席に、樋口くんと向い合せに座る。
「一日、お疲れ様」
涼しい表情から出る落ち着いた声を聞いて、少し心が安らぐ。
「樋口くんも、お疲れ様」
音羽ちゃんがいない学校は、思った以上にきつかった。見かねたのか、普段はひとりでいる樋口くんが、何回か声をかけてくれたほど。
「ありがとう。……じゃあ、始めようか。いろいろ訊くけど、大丈夫かな」
「うん」
樋口くんの表情からは相変わらず感情がよく読めない。けれど不思議とその表情を見ていると肩の力が抜けてくる。
「まず、昨日は、宮原さんとは一緒に帰らなかったの?」
「うん……。私が面談だったから」
今朝、担任の先生から、音羽ちゃんは「事故」で「意識不明」だけれど、「命に別条はない」という話があった。樋口くんが言った通り。それはよかったのだけれど、これから目を覚ますかはわからない。怪我だってしているはずだ。
一緒に帰っていれば。そんな後悔が拭えない。
「宮原さんには、なにか変わった様子はなかった?」
「……なかったと思う。私からは、いつも通りに見えたけど……」
そう、〝いつも〟通りだったはずだ。だけど、音羽ちゃんは。
「いつも通り……。でも、宮原さんの場合はその〝いつも〟が息苦しそうなんだよね」
「樋口くんにもそう見えるの?」
思っていたことと同じことを言われ、驚いて尋ね返す。
「うん。なんていうか、いつも、思い詰めたような表情をしてる」
「うん……。そうなんだよね」
樋口くんの言う通りで、音羽ちゃんはいつも表情が暗くて、笑った顔もどこか儚い。だけど、二人きりになった時にたまに見せてくれる笑顔は、とびきり可愛い。
「たぶん、宮原さんは気持ちがかなり不安定なんだよね」
「うん。日によって気分の差が激しいっていうのは、自分でも言ってたよ」
「だったら、少しの刺激で心が壊れちゃうことも、あるのかも」
「そうだね……音羽ちゃんは、すごく繊細だから」
実際に、先生が誰かを怒ったとか、クラスメイトとの会話がうまくできなかったりということがあると、音羽ちゃんはひどく落ち込んでいた。あと一歩で壊れてしまうほどに。
「もしかして、昨日、糸が切れちゃったとか……?」
「ありえる……。ただ、それだと自殺した理由になる」
「確かに……。じゃあ、自殺じゃないとしたら……?」
樋口くんが真剣な表情で細い腕を組む。似合うな、なんて思ってしまった。樋口くんには以前から真面目な印象があった。
「心が壊れたら、なにが起きるかな……。壊れてなくても、それくらいしんどくなったら」
「……もうなんか、いろいろどうでもよくなったりとか。あとは、周りが見えなくなるとか?」
私も、壊れた、までは行かないけれど、消えたいほどつらくなったことはある。
「……それかな」
「え?」
「悩みすぎると、周りが見えなくなる。例えば、考えすぎて赤信号渡りかけたりとか」
「あ……!音羽ちゃんもあったよ、それ」
赤信号なのに渡ろうとしていたり、登下校の道を間違えそうになっていたことがある。どちらも私が慌てて止めた。
私が止めてなかったら、と思うとゾッとする。
「だから、踏切が降りてるのに気付かないで躓いたっていう可能性もある。もしくは、どうでもよくなる、みたいに頭が混乱したとか」
「どっちにしろ、それくらいショックな出来事があったってことだよね」
「そうだと思う。だから、その出来事を見つけないといけない」
「そうだね。でも、それだけじゃなくて」
「うん」
樋口くんがうなずいて顔を上げると、澄んだ瞳が飛び込んでくる。
「二度とそうならないように、音羽ちゃんの心も救いたい。起きてからも、つらいままでいてほしくない……」
音羽ちゃんはずっとなにかを抱えていた。でも私は、それに触れることができなかった。つながっているのかはまだわからないけれど、それが悲劇を招いたという可能性だってある。
私は、音羽ちゃんに幸せになってほしい。
「だから、樋口くん、協力してくれる……?」
「うん。もちろん」
「ありがとう……」
樋口くんがやわらかな微笑みを作る。それを見て、どこか音羽ちゃんと似たようなものを感じた。そういえば音羽ちゃんは……。でもまさか、関係ないか。
「そういえば、宮原さんって、片岡とも仲良かったよね」
「あ、そういえば……。少し前から、よく話すようになったみたいだよ」
音羽ちゃんと親しくしていた数少ない人物のひとり、片岡くん。樋口くん同様、女子から人気がある。片岡くんの場合は、かっこいいから、らしい。
一通り話したあと、樋口くんと一緒に帰ることになった。
「樋口くんは、私たちのことよく見てるんだね」
昇降口を出て歩きながら、ずっと思っていたことを口にする。
「そんなことないよ」
「でも、私と音羽ちゃんのことも、よく知ってたし……。人間観察とか、好きなの?」
すると、横にいる樋口くんの瞳が少し揺れたように見えた。
「なんていうか、それ以外にやることもないから……。ごめん、引くよね」
「ううん、そんなことないよ!むしろ、それって長所だと思うよ」
「そう……?」
うんうん、と何度もうなずく。冷静だった樋口くんの表情が、人間味を帯びたように思えた。ありがとう、と樋口が呟く。
私は音羽ちゃんから聞いた話やクラスでの様子からでしか、樋口くんのことは知らない。でもそれは、樋口くんのたくさんあるうちの一面にすぎないのだと思う。
音羽ちゃんが心を許したこの人は、どんな人なんだろう。
また一夜明ると、だいぶ気持ちが落ち着いていた。昨日の朝とは大違いたった。間違いなく樋口くんのおかげだ。
新聞も読み、服装や髪型も整えて家を出る。学校の最寄り駅を出て踏切に差し掛かっても、昨日のように目眩がすることはなかった。
二日続けて樋口くんと朝会う、なんてことはなかった。少しがっかりすると同時に、期待してしまっていた自分に気付く。私は樋口くんに何を求めているんだろう。二人で協力して音羽ちゃんを幸せにする、そのためだけの関係のはずなのに。
寂しさを纏う朝の涼しい風が頰をなぞる。色付く葉も目立つようになってきていた。この季節を私はあまり好きではない。自分の心の穴を煽られるような気がするから。
秋の風をたっぷり浴びてしまったせいでやや気持ちが沈んでしまった状態で学校に着く。せっかく朝は落ち着いた気持ちになれていたのに。
いつもなら、荷物を置いたあと、先に来ている音羽ちゃんに話しかけるけれど、今はそれは叶わない。
教室の廊下側、後ろにある自分の席に静かに着く。クラスのみんなは後ろの席がいいと言っているけれど、私は黒板が見えづらいのと先生の声が聞こえづらいので、ここは嫌だった。それとみんなの内職が見えるから集中できない。
前の方の音羽ちゃんの席を見つめる。昨日そこは、他のクラスメイトが雑談や昼食のために座ったりしていた。いない人の席を使うのは、学校ではなにも悪いことではないのだけど、私としては複雑だった。
音羽ちゃんがいなくても、変化があったのは私と樋口くんくらいで、あとはみんな、いつも通り。仲が良かったわけではないから、仕方ないといえばそれまでだ。
「中野さん、おはよう」
ふいに落ち着いた声が降ってきて、驚いて振り返る。
「あ、樋口くん。おはよう」
樋口くんは小さくうなずいて、自分の席に着いた。同じ列のいちばん窓側。樋口くんは、登校してから朝礼まではいつも、読書か勉強をしている。
少し心が緩む。声をかけてくれる人がいることの心強さを改めて感じた。
休み時間に、樋口くんはさっそく片岡怜央くんに声をかけていた。片岡くんは私の斜め左の列、前の方。声は聞こえないけれど、二人の表情はよく見える。
私からは、片岡くんは普段とはすっかり変わって、落ち込んでいるように見えた。
ふと、同じように二人に視線を送っている人に気付く。私の左斜め前の、岩田一華さんだった。
そういえば、岩田さんは片岡くんの幼馴染らしい。話しかけてみようかな、と思う。なにかわかるかもしれない。それに岩田さんには、なぜかはわからないけれど、あまり話しにくさは感じない。
「岩田さん」
声を掛けると、少し肩を跳ねさせて振り向いた。
「あ、中野さん。どうしたの?」
表情は乏しいけれど、口調は穏やかだ。
「あの、昨日からの片岡くんの様子って、岩田さんから見てどう?片岡くん、音羽ちゃんと仲良かったみたいだだけど……」
「うん……。元気ないみたいだから、助けてあげて」
「えっ?」
「よろしくね」
訝しむ様子もなく答えてくれたけれど、その言葉がどこか引っかかる。だけとそれを追求する前に、岩田さんが視線を前に戻してしまった。会話があっさりと終わる。
助けてあげて。私が?
だけど、私は片岡くんとはほとんど関わりがない。去年も同じクラスだったけれど、日直で一緒になったときに話したくらいだった。
これは、後で樋口くんに伝えたほうがいいかもしれない。
✽
夕焼けというのは、小説において、大きな変化が起きるときとされる。文学の先生が言っていた。
けれど今日は、昨日と同じ。中野さんと情報共有をする。
「樋口くん、どうだった?」
「片岡くんに、宮原さんのことでなにか知ってるか訊いたけど、わからないって」
「そっか……」
中野さんの表情が沈む。短い一つ結びが夕焼けに照らされて、寂しくきらめいていた。
「でも、収穫もあって」
「えっ、どんなこと?」
「『宮原さんが飛び込んだ』っていうラインを送った女子に
も話を聞いたんけど、実際には、転んでたようにも見えたって。それと、傘を差さずに走ってたらしいよ」
「持ってなかったのかな……?だとしたらやっぱり、自殺じゃないよね」
「そうだと思う」
うなずくと、中野さんの瞳に僅かに光が灯る。中野さんは思っていたよりも感情がころころと変わる人だった。元々そうなのか、それとも。
「そうだ、私も樋口くんに伝えたいことがあるんだけど」
「うん」
「岩田さんに話を聞いたら、片岡くんを『助けてあげて』って言われて。どういうことかな……?」
助けてあげて……?
どうして岩田さんは中野さんにそんなことをお願いするのだろう。どう考えても岩田さんの方が、片岡くんとの距離は近い。
ただ、片岡くんの元気がなかったのは事実だ。岩田さんは自分では力になれないとでも思ったのだろうか。
「……二人はたぶん、なにかを知ってるんだろうね」
「そういうこと、だよね……」
今はそれくらいしかわからない。片岡くんの様子から、なにかを隠しているようではあった。だけどそのなにかの正体に、全く見当がつかない。
これ以上は今の段階では難しい。
考えていても行き詰まるだけだったので、今日もこのまま二人で帰ることにした。
今の状態の中野さんをひとりにはできない。一方で、ずっと一緒にいるのもどうかとは思う。人との距離の取り方は難しい。
「じゃあ、その前に、ちょっとトイレ行ってきてもいい?」
「それなら、僕も寄っていきたいところがあるから……。またここで待ち合わせようか」
「うん」
一旦中野さんと別れて、誰もいない廊下を歩いていく。目的の部屋まで来て、ドアをノックした。社会科準備室という名前の付いた場所だ。
「どうぞ」
中からおっとりとした声が聞こえてきて、そっとドアノブを引いた。
「こんにちは」
「こんにちは、樋口くん」
やわらかく微笑んだのは、日本史担当の三島先生。二十五歳だと言っていた。
「すみません、すぐに出るんですけど、伝えておきたいことがあって……」
「なんですか?」
穏やかに尋ね返すその表情には、僕より二十センチほと高いのに、威圧感が全くない。
「これから、今よりも頼ることがあるかもしれなくて……。そのときは、お願いします」
「わかりました。無理はしないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
こちらから話さないことは、深くは訊いてこない。それが僕が三島先生を気に入っている理由の一つでもある。
失礼しました、とお辞儀をして早足で教室へ戻った。伝えたいことがある、というよりは、ただ話したいだけだった。
三島先生とあの場所で話すようになったのは、今年の一月、つまり一年生のとき。先に声をかけてくれたのは、先生の方だった。いつもひとりでいる僕を心配してくれたようだった。今では学校での唯一の居場所になっている。
教室前に戻ると、ちょうど中野さんも戻ってきたところだった。
「樋口くん、どこ行ってたの?」
「……秘密」
嘘を付くのも嫌だけど、まだ知られたくはないなと思った。口の前に人差し指を立てて曖昧に笑う。
「えー、気になるけど……」
「ごめんね」
「ううん。私も、秘密は多いから」
それは言っていいんだ、と心の中で突っ込む。だけど僕も深くは訊かない。
中野さんは、自分と似たところがあるからか、わりと話しやすいも思う。けれど、それに頼ることはできない。あくまで、僕は中野さんに協力するだけだ。
部活動の声が響く放課後の学校を後にし、二人で並んで歩く。妹ではない誰かが隣にいるというのは、不思議な感覚だった。
「……樋口くん」
同じ目線の高さで、中野さんが歩きながら僕の方を見る。そこからは、微かな不安が読み取れた。
「近いうちに、音羽ちゃんの家、行きたいなと思って」
「うん」
「それで、樋口くんにもついてきてほしいんだけど……」
「僕に……?」
「うん」
予想もしていなかったことを言われて、内心で驚く。宮原さんの家に行く、というのは、なにか知ることができるかもしれないから、納得できる。ただ、僕も一緒に行く必要は、あるのだろうか。
「中野さんは、宮原さんの家族のこと、知ってるの?」
「うん。何度かお邪魔したことあるから。樋口くんは?」
「全然知らない……。怪しまれそうだよ」
「だけど、一人で行くのは心細いから……」
そういうことか、と理解する。
中野さんを一人にしておくべきではないと考えておきながら、そのことまで思い至らなかった。
そんな自分に対して、心の中で嘆息した。
「それなら、一緒に行くよ」
「ありがとう……」
中野さんがほっとしたように息をついた。
宮原さんの家族も傷ついていると思う。部外者である僕が行くのは少し気が引けるけれど、中野さんのことを考えれば、一緒に行ったほうがいいことは明らかだった。
中野さんは気丈に振る舞ってはいるけれど、親友が意識不明なのだから、つらくないはずがない。
そもそも、宮原さんと中野さんは、普段から、二人とも元気がない。僕にはそう見えていた。その上こんなことが重なってしまったのだから、心はかなり乱れていると思う。
自分と同じものを、感じていたからだろうか。二人のことは、以前から気になっていた。
だからこそ、僕は宮原さん――と、中野さんの力になれればなと思う。本当はこんなことになる前に、宮原さんの心に触れることができていればよかったのだけど。
心の中は読めない。だから、人間関係も拗れていくのだと思う。
✽
土曜日の午後。
待ち合わせの駅の前で、樋口くんを待つ。
音羽ちゃん以外の人と出掛けることは初めてで、音羽ちゃんの家に行くのも久し振りだ。その上今回は用事が用事なので、緊張してしまう。
「おはよう、中野さん」
「あ、おはよう……!」
変わらず落ち着いた声を聞いて少し気が軽くなる。初めて見る私服姿の樋口くんが立っていた。全体的に控えめな色合いで、よく似合っている。
「そんなに緊張しないで。僕の母親が、宮原さんのお母さんの連絡先を知ってたから、昨日のうちに知らせてくれた」
「そうだったんだ……。よかった」
樋口くんが先回りして私の憂いを取り除いてくれた。
「親同士で、交流があったんだね」
「保護者会のときに、気が合ったんだって」
樋口くんは顔色を変えることなく言った。
子ども同士が気が合うなら親同士もそうなるのだろうか。そんなことはないと思うけれど。同じような子を持ったから、というのもあるかもしれない。樋口くんのお母さんは、どんな人なんだろう。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、うん」
雑念を振り払って、樋口くんと共に歩き出した。
水曜日以降、樋口くんがそばにいることは当たり前のようになった。けれど、音羽ちゃんの件がなければ私が樋口くんと関わることはなかったと思う。そう考えるとなんともいえない気持ちになる。なにもなくても、人と仲良くなれるようになりたい。
それでも、この数日で樋口くんのことを今までよりも知れたのは良かったと思う。学校では、「王子様みたい」なんて言われていることもある「完璧」な男の子。だけどそのイメージは次第に崩れつつあった。
私は「王子様」なんて思ったことはないけれど、そうはいっても樋口くんは容姿端麗なのは事実だと思う。そんな人の隣を歩いているのは不思議だった。
記憶を頼りに音羽ちゃんの家へと向かう。同じような住宅が並んでいるからわかりにくい。
迷いながらも音羽ちゃんの家に着き、樋口くんがインターホンを押した。すぐに音羽ちゃんのお母さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい。由衣ちゃんと、結月くんね。どうぞ上がって」
お邪魔します、と言って二人で家に上がった。リビングに入れてもらい、音羽ちゃんのお母さんと向い合せに座る。
「結月くん、ますます大人びたのね」
「僕のこと、知っているんですか」
「ええ、印象的だったから。それに、音羽がよく話してくれたから」
「……そうなんですね」
印象的、という言葉に樋口くんは少し、ほんの少し、眉をひそめていた。たぶん樋口くんは、自分の容姿が綺麗なことを自覚していない。もったいない。
「それで、その宮原さんについて、知ってることをお聞かせしてほしいんです」
「ええ。私も救急隊の人たちから聞いたことしかわからないけど、それでよければ」
「大丈夫です。お願いします」
樋口くんの話の進め方がとても上手で、私はひとり感心する。片岡くんやクラスの女の子にも、こうしてうまく尋ねていたのだろう。私にはできない。
「私は、知らせを聞いて最初は自殺かと思ったんだけど、そうじゃないみたいで。状況からして、遮断器に躓いたらしいの」
これは、見事に樋口くんの予想通りだった。
「自殺じゃ、ないんですね」
「聞いたところではね。音羽も、特にそういうことを仄めかすこともなかった」
うなずきながら話を聞く樋口くんの隣で、私はほっとしていた。音羽ちゃんは自殺じゃない、事故なんだ。躓いたのだったら、悩み事に耽っていて遮断器に気付かなかったという樋口くんの考えも、いっそう現実味を帯びる。
「家での宮原さんは、普段はどんな様子なんですか?」
「それが……最近はあの子はずっと部屋にいたから、あまり話せていないの。なにも話してくれなくて、心を閉ざされているような……。逆に、学校での音羽はどんな感じなの?」
その質問を受けて、真横から樋口くんが静かな目でちらりと私を見る。中野さんが答えて、ということらしい。
「音羽ちゃんはすごく優しくて、私も救われてます。でも、どこか不安定というか、苦しそうな様子があるんです」
「やっぱり、そうなのね……。私がもっと、声かけしていれば……」
家での音羽ちゃんの様子を聞いたとき、私もおそらく、今の音羽ちゃんのお母さんと似たような気持ちを抱いていた。
音羽ちゃんは自分の気持ちをずっとしまい込んでいたんじゃないだろたうか。
つらい気持ちをずっと自分だけで抱えていても、つらい思いが続くだけなのに。
「……宮原さんが怪我をしたのは、二人のせいじゃないです」
私と音羽ちゃんのお母さんが、同時に「え」と声を上げ、樋口くんを見つめる。相変わらずの色が薄い表情で、その意図は読めない。
「二人が宮原さんのことを思っていたっていうことは、きっと宮原さんの救いになっいてたと思いますよ」
音羽ちゃんのお母さんが大きく目を見開く。目の端に涙が浮かんでいた。
「ありがとう……。結月くんは、優しいのね」
樋口くんはうなずくことも否定することもなく、曖昧に微笑みを作っていた。
音羽ちゃんの家を後にして、また二人で歩いていく。
帰る前に、音羽ちゃんのお母さんが、音羽ちゃんが入院している病院を教えてもらった。時間がないので今日は行けないけれど、遠くないうちに行きたい。
「やっぱり音羽ちゃんは、自殺じゃなかったんだね」
「そうみたいだね。そうなると、混乱してたってことなのかな」
「うん、私もそう思う……」
地面や水たまりで滑ったにしても、踏切の内側には行かないはず。「遮断器に」躓いたから、内側に入ってしまったのだ。雨で慌てていたにしたって、遮断器が下りていることに気付かないことはないと思う。
「……樋口くん、ありがとう、さっき」
「さっき?」
「音羽ちゃんの救いになってるって」
私が音羽ちゃんの力になっているなら、そんなに嬉しいことはない。樋口くんが本心では思ってないとしても嬉しい。
「……宮原さんのいちばんの救いになってたのは、中野さんだと思うよ」
「えっ?」
「今までの話を聞く限りだと、宮原さんが本当に信じてたのは、中野さんだけだと思う。それくらい宮原さんにとって、中野さんの存在は大きいんじゃないかな」
「……!ありがとう……」
思わず涙が溢れそうになった。
樋口くんの冷静で客観的な目線からの言葉だからこそ、本当にそうなんだと思わせてくれる。
ただ事実と推測を言っているだけだから、かえって救われる。音羽ちゃんからしたら、この感情のなさに隔たりを感じたのかもしれないけれど。
音羽ちゃんが樋口くんに抱いていたあの気持ちが、少し理解できたかもしれない。
✽
家に帰ってから、ふと思った。中野さんは一人っ子なのだろうか。そんな基本的な情報も、まだよく知らないということに気付く。深掘りするのもどうかとは思うけれど。
ベッドに座ってそんなことを考えていたら、部屋の戸が開いた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
妹の名月が部屋に入ってくる。
名月にそう尋ねられるということは、僕は大丈夫ではない証拠だった。自分の心を他の人の言動に照らして知るというのは望ましくないけれど、自分だとわからない。
「なにか悩んでるんでしょ?私にも手伝わせて」
「……わかるんだね」
「当たり前でしょ。妹だもん、お兄ちゃんのことは誰よりも知ってるよ」
妹だからというのはやや暴論ではないだろうか。名月はただ単に、観察眼が鋭いだけだと思う。
一瞬、相談しようかと迷った。でも、中野さんのことを本人の許可なく話すのも、気が引ける。それにこれからどうなるかはわからないから、名月を巻き込みたくはない。
「……まだ大丈夫」
僕が人の助けをほとんど求めないことは、名月も、というか、名月がいちばん、知っている。だから、それ以上迫ってくることはない。
「じゃあいいけど、無理はしないでね。絶対に」
「……うん」
僕は目を合わせられずに答えた。
名月が出ていったあとも、ベッドの上から動かずに部屋の戸を見つめる。
僕だって、無理はしたくない。ただ、残念なことに、僕みたいな人間は、名月もそうだけれど、無理をしなければ生きていけない。
だから、無理しないことに無理があるのは、名月もわかっていると思う。
……名月はそういうことを言っているわけではないのだろうけど。
名月の言った通り、疲れているようだった。
ベッドに横になって、無感情な天井を仰いだ。
昨日、雨の降る夕方、クラスラインに飛んできた通知を見てまず感じたのは、そんなことだった。
『宮原さんが飛び込んだ』
クラスの女子が送ってきたメッセージ。信じられるわけもなくて、宮原音羽ちゃんに何度も電話をかけた。だけど、繋がらないまま夜を跨いだ。
雨が上がって朝になっても、音羽ちゃんに送ったメッセージには既読すらつかないまま。
本当に、音羽ちゃんは「飛び込んで」しまったのだろうか。
そんなの嫌だ。音羽ちゃんがいない学校になんて、行く意味がない。
それでもよろよろと起き上がって、呪われたように足が動く。
気付けば学校の最寄り駅に着いていて、音羽ちゃんが飛び込んだという踏切の前にいた。
ぐにゃりと視界が歪み、縛られたように今度はその場で動けなくなる。
もし本当に、自分から飛び込んだとすれば。どうして、それほどの苦しさに気付いてあげられなかったんだろう。なんで私はなにもできなかったんだろう。
昨日、一緒に帰っていれば――。
立っていられなくなりそうで、近くの電柱に寄りかかった、そのとき。
「中野さん」
誰かが私のことを呼んだ。落ち着いた高い声。聞き覚えがあるような気がして顔を上げる。
「あ……」
そこには、クラスメイトの樋口結月くんが、心配そうな目で立っていた。
「しんどい……?」
近寄ってきた樋口くんの言葉に、私は否定することもできずにうなずいた。ここで大丈夫と言っても、信じてもらえるわけがない。
「……宮原さんのこと、考えてた?」
少し間をおいてから尋ねてくる。なんでわかったんだろう。私はまたなにも言わずにうなずく。
「中野さんは、宮原さんと仲が良かったよね」
「知ってるの……?」
「うん。一緒にいるところ、よく見るから」
知ってくれているなら、話してもいいかもしれない。そう思うと、目眩も収まった。頭を上げて樋口くんを見る。
樋口くんは、なんというか、温度と湿度の低い表情をひている。けれど冷たいわけじゃない。だから、言えた。
「樋口くん……。音羽ちゃんは、どうして飛び込んだのかな……」
私の問いかけを受けると、樋口くんは思案するようにまた少し間を置いた。そして、
「――僕は、自殺じゃないと思うよ」
と、表情を変えないまま、はっきりと言った。
「え……?」
驚いて樋口くんを見つめる。落ち着いた表情からは考えていることが読み取れない。
「確信があるわけじゃないんだけど……中野さん、電車に飛び込んだら、どうされるか知ってる?」
どうされるか?なにを言いたいんだろう。私は首を横に振る。
「罰金を払わされるんだよ。亡くなった場合は、遺族が。でも、宮原さんはそんなことを望まないはずだよ。知っていなくても、電車が止まれば多くの人に迷惑がかかる」
「あ……そっか」
音羽ちゃんは、人の迷惑になることは絶対にしない。それが、いつも隣にいる私にはわかっていた。迷惑にならないかを考えすぎてなにもできなくなることもあるくらいだ。
「それに、中野さんを残して死ぬなんて、ありえないと思う」
「そうかな……。私が気付けなかったとか、嫌なことしちゃったからかもしれない……」
「それはないんじゃないかな。少なくとも僕には、中野さんといるときの宮原さんは、楽しそうに見えてた」
「そうなのかな……ありがとう」
私なんかが音羽ちゃんを幸せにできていたとは思わないけど、樋口くんの言葉で少し心のつかえが取れた。
「……音羽ちゃんは、生きてるのかな……」
「ニュースでは、意識不明だけど命に別条はないって」
「ニュースになったの?」
普段は新聞を読んでいるけれど、今日は読む気にもなれなかった。
「うん。名前は伏せてあったけどね」
「……とにかく、生きてるんだね」
よかった、と安堵の息をつく。それなら私が生きている理由は、まだある。
「……心配かけてごめんね。学校、行くよ」
「うん。無理はしないで。僕も一緒に行くから」
「ありがとう……」
樋口くんと並んで、ゆっくりと歩き出した。こうしてみると、樋口くんは思った以上に小さい。一五ニセンチの私とほぼ、というか、全く同じくらい。だからなのか、親しみやすさを感じる。それは私にしては珍しいことだった。
「……どうかした?」
「あっ、ううん、なんでもない」
気がついたらじっと見てしまっていた。
樋口くんはクラスメイトからも人気がある。この整った、可愛げのある小さな横顔を見れば納得だ。
「……そういえば、樋口くんは、音羽ちゃんと同じ中学校だったんだよね」
音羽ちゃんから聞いたことがあった。唯一話してくれた人だったのだとか。
「うん」
「どんな感じだったの?中学生のときの音羽ちゃんって」
「雰囲気とかは、今とあんまり変わらないよ。個人的には、いちばん話しやすい人だった」
「そうなんだ……!」
音羽ちゃんは自分が樋口くんに好かれていないんじゃないかと不安そうに話していたけれど、そんなことはないようだった。
私や音羽ちゃんが「話しやすい」と感じる人はなかなかいない。
それから途切れ途切れに話していたら、すぐに学校に着いてしまった。人と話しながら歩いているときは、一人のときよりも距離が短く感じることがある。
昨日の帰りは、いつもより長かった。
「中野さん。放課後、教室に残れる?」
階段を上りながら樋口くんが尋ねる。
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ、昨日のこととか、改めて話したいんだけど、いいかな」
「うん。わかった」
「ありがとう」
音羽ちゃんは自殺じゃない。樋口くんは確信はしていないと言っていたけれど、否定する要素は十分にある。
そらならなにがあったのか。知りたい。でも、知ることが、少し怖くも感じた。それは、予感に似たようなものだった。
放課後、誰もいない教室に私と樋口くんだけが残る。誰か勉強しているものだと思っていたけれど、そんなことはなかった。
夕日が差し込む席に、樋口くんと向い合せに座る。
「一日、お疲れ様」
涼しい表情から出る落ち着いた声を聞いて、少し心が安らぐ。
「樋口くんも、お疲れ様」
音羽ちゃんがいない学校は、思った以上にきつかった。見かねたのか、普段はひとりでいる樋口くんが、何回か声をかけてくれたほど。
「ありがとう。……じゃあ、始めようか。いろいろ訊くけど、大丈夫かな」
「うん」
樋口くんの表情からは相変わらず感情がよく読めない。けれど不思議とその表情を見ていると肩の力が抜けてくる。
「まず、昨日は、宮原さんとは一緒に帰らなかったの?」
「うん……。私が面談だったから」
今朝、担任の先生から、音羽ちゃんは「事故」で「意識不明」だけれど、「命に別条はない」という話があった。樋口くんが言った通り。それはよかったのだけれど、これから目を覚ますかはわからない。怪我だってしているはずだ。
一緒に帰っていれば。そんな後悔が拭えない。
「宮原さんには、なにか変わった様子はなかった?」
「……なかったと思う。私からは、いつも通りに見えたけど……」
そう、〝いつも〟通りだったはずだ。だけど、音羽ちゃんは。
「いつも通り……。でも、宮原さんの場合はその〝いつも〟が息苦しそうなんだよね」
「樋口くんにもそう見えるの?」
思っていたことと同じことを言われ、驚いて尋ね返す。
「うん。なんていうか、いつも、思い詰めたような表情をしてる」
「うん……。そうなんだよね」
樋口くんの言う通りで、音羽ちゃんはいつも表情が暗くて、笑った顔もどこか儚い。だけど、二人きりになった時にたまに見せてくれる笑顔は、とびきり可愛い。
「たぶん、宮原さんは気持ちがかなり不安定なんだよね」
「うん。日によって気分の差が激しいっていうのは、自分でも言ってたよ」
「だったら、少しの刺激で心が壊れちゃうことも、あるのかも」
「そうだね……音羽ちゃんは、すごく繊細だから」
実際に、先生が誰かを怒ったとか、クラスメイトとの会話がうまくできなかったりということがあると、音羽ちゃんはひどく落ち込んでいた。あと一歩で壊れてしまうほどに。
「もしかして、昨日、糸が切れちゃったとか……?」
「ありえる……。ただ、それだと自殺した理由になる」
「確かに……。じゃあ、自殺じゃないとしたら……?」
樋口くんが真剣な表情で細い腕を組む。似合うな、なんて思ってしまった。樋口くんには以前から真面目な印象があった。
「心が壊れたら、なにが起きるかな……。壊れてなくても、それくらいしんどくなったら」
「……もうなんか、いろいろどうでもよくなったりとか。あとは、周りが見えなくなるとか?」
私も、壊れた、までは行かないけれど、消えたいほどつらくなったことはある。
「……それかな」
「え?」
「悩みすぎると、周りが見えなくなる。例えば、考えすぎて赤信号渡りかけたりとか」
「あ……!音羽ちゃんもあったよ、それ」
赤信号なのに渡ろうとしていたり、登下校の道を間違えそうになっていたことがある。どちらも私が慌てて止めた。
私が止めてなかったら、と思うとゾッとする。
「だから、踏切が降りてるのに気付かないで躓いたっていう可能性もある。もしくは、どうでもよくなる、みたいに頭が混乱したとか」
「どっちにしろ、それくらいショックな出来事があったってことだよね」
「そうだと思う。だから、その出来事を見つけないといけない」
「そうだね。でも、それだけじゃなくて」
「うん」
樋口くんがうなずいて顔を上げると、澄んだ瞳が飛び込んでくる。
「二度とそうならないように、音羽ちゃんの心も救いたい。起きてからも、つらいままでいてほしくない……」
音羽ちゃんはずっとなにかを抱えていた。でも私は、それに触れることができなかった。つながっているのかはまだわからないけれど、それが悲劇を招いたという可能性だってある。
私は、音羽ちゃんに幸せになってほしい。
「だから、樋口くん、協力してくれる……?」
「うん。もちろん」
「ありがとう……」
樋口くんがやわらかな微笑みを作る。それを見て、どこか音羽ちゃんと似たようなものを感じた。そういえば音羽ちゃんは……。でもまさか、関係ないか。
「そういえば、宮原さんって、片岡とも仲良かったよね」
「あ、そういえば……。少し前から、よく話すようになったみたいだよ」
音羽ちゃんと親しくしていた数少ない人物のひとり、片岡くん。樋口くん同様、女子から人気がある。片岡くんの場合は、かっこいいから、らしい。
一通り話したあと、樋口くんと一緒に帰ることになった。
「樋口くんは、私たちのことよく見てるんだね」
昇降口を出て歩きながら、ずっと思っていたことを口にする。
「そんなことないよ」
「でも、私と音羽ちゃんのことも、よく知ってたし……。人間観察とか、好きなの?」
すると、横にいる樋口くんの瞳が少し揺れたように見えた。
「なんていうか、それ以外にやることもないから……。ごめん、引くよね」
「ううん、そんなことないよ!むしろ、それって長所だと思うよ」
「そう……?」
うんうん、と何度もうなずく。冷静だった樋口くんの表情が、人間味を帯びたように思えた。ありがとう、と樋口が呟く。
私は音羽ちゃんから聞いた話やクラスでの様子からでしか、樋口くんのことは知らない。でもそれは、樋口くんのたくさんあるうちの一面にすぎないのだと思う。
音羽ちゃんが心を許したこの人は、どんな人なんだろう。
また一夜明ると、だいぶ気持ちが落ち着いていた。昨日の朝とは大違いたった。間違いなく樋口くんのおかげだ。
新聞も読み、服装や髪型も整えて家を出る。学校の最寄り駅を出て踏切に差し掛かっても、昨日のように目眩がすることはなかった。
二日続けて樋口くんと朝会う、なんてことはなかった。少しがっかりすると同時に、期待してしまっていた自分に気付く。私は樋口くんに何を求めているんだろう。二人で協力して音羽ちゃんを幸せにする、そのためだけの関係のはずなのに。
寂しさを纏う朝の涼しい風が頰をなぞる。色付く葉も目立つようになってきていた。この季節を私はあまり好きではない。自分の心の穴を煽られるような気がするから。
秋の風をたっぷり浴びてしまったせいでやや気持ちが沈んでしまった状態で学校に着く。せっかく朝は落ち着いた気持ちになれていたのに。
いつもなら、荷物を置いたあと、先に来ている音羽ちゃんに話しかけるけれど、今はそれは叶わない。
教室の廊下側、後ろにある自分の席に静かに着く。クラスのみんなは後ろの席がいいと言っているけれど、私は黒板が見えづらいのと先生の声が聞こえづらいので、ここは嫌だった。それとみんなの内職が見えるから集中できない。
前の方の音羽ちゃんの席を見つめる。昨日そこは、他のクラスメイトが雑談や昼食のために座ったりしていた。いない人の席を使うのは、学校ではなにも悪いことではないのだけど、私としては複雑だった。
音羽ちゃんがいなくても、変化があったのは私と樋口くんくらいで、あとはみんな、いつも通り。仲が良かったわけではないから、仕方ないといえばそれまでだ。
「中野さん、おはよう」
ふいに落ち着いた声が降ってきて、驚いて振り返る。
「あ、樋口くん。おはよう」
樋口くんは小さくうなずいて、自分の席に着いた。同じ列のいちばん窓側。樋口くんは、登校してから朝礼まではいつも、読書か勉強をしている。
少し心が緩む。声をかけてくれる人がいることの心強さを改めて感じた。
休み時間に、樋口くんはさっそく片岡怜央くんに声をかけていた。片岡くんは私の斜め左の列、前の方。声は聞こえないけれど、二人の表情はよく見える。
私からは、片岡くんは普段とはすっかり変わって、落ち込んでいるように見えた。
ふと、同じように二人に視線を送っている人に気付く。私の左斜め前の、岩田一華さんだった。
そういえば、岩田さんは片岡くんの幼馴染らしい。話しかけてみようかな、と思う。なにかわかるかもしれない。それに岩田さんには、なぜかはわからないけれど、あまり話しにくさは感じない。
「岩田さん」
声を掛けると、少し肩を跳ねさせて振り向いた。
「あ、中野さん。どうしたの?」
表情は乏しいけれど、口調は穏やかだ。
「あの、昨日からの片岡くんの様子って、岩田さんから見てどう?片岡くん、音羽ちゃんと仲良かったみたいだだけど……」
「うん……。元気ないみたいだから、助けてあげて」
「えっ?」
「よろしくね」
訝しむ様子もなく答えてくれたけれど、その言葉がどこか引っかかる。だけとそれを追求する前に、岩田さんが視線を前に戻してしまった。会話があっさりと終わる。
助けてあげて。私が?
だけど、私は片岡くんとはほとんど関わりがない。去年も同じクラスだったけれど、日直で一緒になったときに話したくらいだった。
これは、後で樋口くんに伝えたほうがいいかもしれない。
✽
夕焼けというのは、小説において、大きな変化が起きるときとされる。文学の先生が言っていた。
けれど今日は、昨日と同じ。中野さんと情報共有をする。
「樋口くん、どうだった?」
「片岡くんに、宮原さんのことでなにか知ってるか訊いたけど、わからないって」
「そっか……」
中野さんの表情が沈む。短い一つ結びが夕焼けに照らされて、寂しくきらめいていた。
「でも、収穫もあって」
「えっ、どんなこと?」
「『宮原さんが飛び込んだ』っていうラインを送った女子に
も話を聞いたんけど、実際には、転んでたようにも見えたって。それと、傘を差さずに走ってたらしいよ」
「持ってなかったのかな……?だとしたらやっぱり、自殺じゃないよね」
「そうだと思う」
うなずくと、中野さんの瞳に僅かに光が灯る。中野さんは思っていたよりも感情がころころと変わる人だった。元々そうなのか、それとも。
「そうだ、私も樋口くんに伝えたいことがあるんだけど」
「うん」
「岩田さんに話を聞いたら、片岡くんを『助けてあげて』って言われて。どういうことかな……?」
助けてあげて……?
どうして岩田さんは中野さんにそんなことをお願いするのだろう。どう考えても岩田さんの方が、片岡くんとの距離は近い。
ただ、片岡くんの元気がなかったのは事実だ。岩田さんは自分では力になれないとでも思ったのだろうか。
「……二人はたぶん、なにかを知ってるんだろうね」
「そういうこと、だよね……」
今はそれくらいしかわからない。片岡くんの様子から、なにかを隠しているようではあった。だけどそのなにかの正体に、全く見当がつかない。
これ以上は今の段階では難しい。
考えていても行き詰まるだけだったので、今日もこのまま二人で帰ることにした。
今の状態の中野さんをひとりにはできない。一方で、ずっと一緒にいるのもどうかとは思う。人との距離の取り方は難しい。
「じゃあ、その前に、ちょっとトイレ行ってきてもいい?」
「それなら、僕も寄っていきたいところがあるから……。またここで待ち合わせようか」
「うん」
一旦中野さんと別れて、誰もいない廊下を歩いていく。目的の部屋まで来て、ドアをノックした。社会科準備室という名前の付いた場所だ。
「どうぞ」
中からおっとりとした声が聞こえてきて、そっとドアノブを引いた。
「こんにちは」
「こんにちは、樋口くん」
やわらかく微笑んだのは、日本史担当の三島先生。二十五歳だと言っていた。
「すみません、すぐに出るんですけど、伝えておきたいことがあって……」
「なんですか?」
穏やかに尋ね返すその表情には、僕より二十センチほと高いのに、威圧感が全くない。
「これから、今よりも頼ることがあるかもしれなくて……。そのときは、お願いします」
「わかりました。無理はしないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
こちらから話さないことは、深くは訊いてこない。それが僕が三島先生を気に入っている理由の一つでもある。
失礼しました、とお辞儀をして早足で教室へ戻った。伝えたいことがある、というよりは、ただ話したいだけだった。
三島先生とあの場所で話すようになったのは、今年の一月、つまり一年生のとき。先に声をかけてくれたのは、先生の方だった。いつもひとりでいる僕を心配してくれたようだった。今では学校での唯一の居場所になっている。
教室前に戻ると、ちょうど中野さんも戻ってきたところだった。
「樋口くん、どこ行ってたの?」
「……秘密」
嘘を付くのも嫌だけど、まだ知られたくはないなと思った。口の前に人差し指を立てて曖昧に笑う。
「えー、気になるけど……」
「ごめんね」
「ううん。私も、秘密は多いから」
それは言っていいんだ、と心の中で突っ込む。だけど僕も深くは訊かない。
中野さんは、自分と似たところがあるからか、わりと話しやすいも思う。けれど、それに頼ることはできない。あくまで、僕は中野さんに協力するだけだ。
部活動の声が響く放課後の学校を後にし、二人で並んで歩く。妹ではない誰かが隣にいるというのは、不思議な感覚だった。
「……樋口くん」
同じ目線の高さで、中野さんが歩きながら僕の方を見る。そこからは、微かな不安が読み取れた。
「近いうちに、音羽ちゃんの家、行きたいなと思って」
「うん」
「それで、樋口くんにもついてきてほしいんだけど……」
「僕に……?」
「うん」
予想もしていなかったことを言われて、内心で驚く。宮原さんの家に行く、というのは、なにか知ることができるかもしれないから、納得できる。ただ、僕も一緒に行く必要は、あるのだろうか。
「中野さんは、宮原さんの家族のこと、知ってるの?」
「うん。何度かお邪魔したことあるから。樋口くんは?」
「全然知らない……。怪しまれそうだよ」
「だけど、一人で行くのは心細いから……」
そういうことか、と理解する。
中野さんを一人にしておくべきではないと考えておきながら、そのことまで思い至らなかった。
そんな自分に対して、心の中で嘆息した。
「それなら、一緒に行くよ」
「ありがとう……」
中野さんがほっとしたように息をついた。
宮原さんの家族も傷ついていると思う。部外者である僕が行くのは少し気が引けるけれど、中野さんのことを考えれば、一緒に行ったほうがいいことは明らかだった。
中野さんは気丈に振る舞ってはいるけれど、親友が意識不明なのだから、つらくないはずがない。
そもそも、宮原さんと中野さんは、普段から、二人とも元気がない。僕にはそう見えていた。その上こんなことが重なってしまったのだから、心はかなり乱れていると思う。
自分と同じものを、感じていたからだろうか。二人のことは、以前から気になっていた。
だからこそ、僕は宮原さん――と、中野さんの力になれればなと思う。本当はこんなことになる前に、宮原さんの心に触れることができていればよかったのだけど。
心の中は読めない。だから、人間関係も拗れていくのだと思う。
✽
土曜日の午後。
待ち合わせの駅の前で、樋口くんを待つ。
音羽ちゃん以外の人と出掛けることは初めてで、音羽ちゃんの家に行くのも久し振りだ。その上今回は用事が用事なので、緊張してしまう。
「おはよう、中野さん」
「あ、おはよう……!」
変わらず落ち着いた声を聞いて少し気が軽くなる。初めて見る私服姿の樋口くんが立っていた。全体的に控えめな色合いで、よく似合っている。
「そんなに緊張しないで。僕の母親が、宮原さんのお母さんの連絡先を知ってたから、昨日のうちに知らせてくれた」
「そうだったんだ……。よかった」
樋口くんが先回りして私の憂いを取り除いてくれた。
「親同士で、交流があったんだね」
「保護者会のときに、気が合ったんだって」
樋口くんは顔色を変えることなく言った。
子ども同士が気が合うなら親同士もそうなるのだろうか。そんなことはないと思うけれど。同じような子を持ったから、というのもあるかもしれない。樋口くんのお母さんは、どんな人なんだろう。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、うん」
雑念を振り払って、樋口くんと共に歩き出した。
水曜日以降、樋口くんがそばにいることは当たり前のようになった。けれど、音羽ちゃんの件がなければ私が樋口くんと関わることはなかったと思う。そう考えるとなんともいえない気持ちになる。なにもなくても、人と仲良くなれるようになりたい。
それでも、この数日で樋口くんのことを今までよりも知れたのは良かったと思う。学校では、「王子様みたい」なんて言われていることもある「完璧」な男の子。だけどそのイメージは次第に崩れつつあった。
私は「王子様」なんて思ったことはないけれど、そうはいっても樋口くんは容姿端麗なのは事実だと思う。そんな人の隣を歩いているのは不思議だった。
記憶を頼りに音羽ちゃんの家へと向かう。同じような住宅が並んでいるからわかりにくい。
迷いながらも音羽ちゃんの家に着き、樋口くんがインターホンを押した。すぐに音羽ちゃんのお母さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい。由衣ちゃんと、結月くんね。どうぞ上がって」
お邪魔します、と言って二人で家に上がった。リビングに入れてもらい、音羽ちゃんのお母さんと向い合せに座る。
「結月くん、ますます大人びたのね」
「僕のこと、知っているんですか」
「ええ、印象的だったから。それに、音羽がよく話してくれたから」
「……そうなんですね」
印象的、という言葉に樋口くんは少し、ほんの少し、眉をひそめていた。たぶん樋口くんは、自分の容姿が綺麗なことを自覚していない。もったいない。
「それで、その宮原さんについて、知ってることをお聞かせしてほしいんです」
「ええ。私も救急隊の人たちから聞いたことしかわからないけど、それでよければ」
「大丈夫です。お願いします」
樋口くんの話の進め方がとても上手で、私はひとり感心する。片岡くんやクラスの女の子にも、こうしてうまく尋ねていたのだろう。私にはできない。
「私は、知らせを聞いて最初は自殺かと思ったんだけど、そうじゃないみたいで。状況からして、遮断器に躓いたらしいの」
これは、見事に樋口くんの予想通りだった。
「自殺じゃ、ないんですね」
「聞いたところではね。音羽も、特にそういうことを仄めかすこともなかった」
うなずきながら話を聞く樋口くんの隣で、私はほっとしていた。音羽ちゃんは自殺じゃない、事故なんだ。躓いたのだったら、悩み事に耽っていて遮断器に気付かなかったという樋口くんの考えも、いっそう現実味を帯びる。
「家での宮原さんは、普段はどんな様子なんですか?」
「それが……最近はあの子はずっと部屋にいたから、あまり話せていないの。なにも話してくれなくて、心を閉ざされているような……。逆に、学校での音羽はどんな感じなの?」
その質問を受けて、真横から樋口くんが静かな目でちらりと私を見る。中野さんが答えて、ということらしい。
「音羽ちゃんはすごく優しくて、私も救われてます。でも、どこか不安定というか、苦しそうな様子があるんです」
「やっぱり、そうなのね……。私がもっと、声かけしていれば……」
家での音羽ちゃんの様子を聞いたとき、私もおそらく、今の音羽ちゃんのお母さんと似たような気持ちを抱いていた。
音羽ちゃんは自分の気持ちをずっとしまい込んでいたんじゃないだろたうか。
つらい気持ちをずっと自分だけで抱えていても、つらい思いが続くだけなのに。
「……宮原さんが怪我をしたのは、二人のせいじゃないです」
私と音羽ちゃんのお母さんが、同時に「え」と声を上げ、樋口くんを見つめる。相変わらずの色が薄い表情で、その意図は読めない。
「二人が宮原さんのことを思っていたっていうことは、きっと宮原さんの救いになっいてたと思いますよ」
音羽ちゃんのお母さんが大きく目を見開く。目の端に涙が浮かんでいた。
「ありがとう……。結月くんは、優しいのね」
樋口くんはうなずくことも否定することもなく、曖昧に微笑みを作っていた。
音羽ちゃんの家を後にして、また二人で歩いていく。
帰る前に、音羽ちゃんのお母さんが、音羽ちゃんが入院している病院を教えてもらった。時間がないので今日は行けないけれど、遠くないうちに行きたい。
「やっぱり音羽ちゃんは、自殺じゃなかったんだね」
「そうみたいだね。そうなると、混乱してたってことなのかな」
「うん、私もそう思う……」
地面や水たまりで滑ったにしても、踏切の内側には行かないはず。「遮断器に」躓いたから、内側に入ってしまったのだ。雨で慌てていたにしたって、遮断器が下りていることに気付かないことはないと思う。
「……樋口くん、ありがとう、さっき」
「さっき?」
「音羽ちゃんの救いになってるって」
私が音羽ちゃんの力になっているなら、そんなに嬉しいことはない。樋口くんが本心では思ってないとしても嬉しい。
「……宮原さんのいちばんの救いになってたのは、中野さんだと思うよ」
「えっ?」
「今までの話を聞く限りだと、宮原さんが本当に信じてたのは、中野さんだけだと思う。それくらい宮原さんにとって、中野さんの存在は大きいんじゃないかな」
「……!ありがとう……」
思わず涙が溢れそうになった。
樋口くんの冷静で客観的な目線からの言葉だからこそ、本当にそうなんだと思わせてくれる。
ただ事実と推測を言っているだけだから、かえって救われる。音羽ちゃんからしたら、この感情のなさに隔たりを感じたのかもしれないけれど。
音羽ちゃんが樋口くんに抱いていたあの気持ちが、少し理解できたかもしれない。
✽
家に帰ってから、ふと思った。中野さんは一人っ子なのだろうか。そんな基本的な情報も、まだよく知らないということに気付く。深掘りするのもどうかとは思うけれど。
ベッドに座ってそんなことを考えていたら、部屋の戸が開いた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
妹の名月が部屋に入ってくる。
名月にそう尋ねられるということは、僕は大丈夫ではない証拠だった。自分の心を他の人の言動に照らして知るというのは望ましくないけれど、自分だとわからない。
「なにか悩んでるんでしょ?私にも手伝わせて」
「……わかるんだね」
「当たり前でしょ。妹だもん、お兄ちゃんのことは誰よりも知ってるよ」
妹だからというのはやや暴論ではないだろうか。名月はただ単に、観察眼が鋭いだけだと思う。
一瞬、相談しようかと迷った。でも、中野さんのことを本人の許可なく話すのも、気が引ける。それにこれからどうなるかはわからないから、名月を巻き込みたくはない。
「……まだ大丈夫」
僕が人の助けをほとんど求めないことは、名月も、というか、名月がいちばん、知っている。だから、それ以上迫ってくることはない。
「じゃあいいけど、無理はしないでね。絶対に」
「……うん」
僕は目を合わせられずに答えた。
名月が出ていったあとも、ベッドの上から動かずに部屋の戸を見つめる。
僕だって、無理はしたくない。ただ、残念なことに、僕みたいな人間は、名月もそうだけれど、無理をしなければ生きていけない。
だから、無理しないことに無理があるのは、名月もわかっていると思う。
……名月はそういうことを言っているわけではないのだろうけど。
名月の言った通り、疲れているようだった。
ベッドに横になって、無感情な天井を仰いだ。



