少年刑事の大津くんを巡る、だいたい2.5話くらいの物語

第1話 陽菜ちゃんの大冒険① 泥棒された宝石を奪還せよ!

 食事中、テレビニュースが流れていて、新宿の宝石商に強盗が入ったというのを見て、お母さんもあたしも、目が飛び出そうに、超びっくりした。
「アガー」
「ヤバヤバヤバー」
 テレビに映っているその店、うちの親戚がやっている宝石店タカハシではありませんか。
 あたしは正木陽菜。
 小学6年生。
 字の通りだけど、高橋っていう親戚がやっているお店がやられた。
 そのお家には、同い年の大和くんがいるのであった。
 もちろん、そうでなくても親戚のやっているお店に強盗が入れば一大事だけど、あたしの場合は大和くんがいるので、二大事みたいな感じなのだった。
 でも好きピとかじゃない。
 まあ可愛いなとは、思ってるけど。
 それくらい。
 小学校違うしね。
 好きなわけじゃない。
 お母さんはすぐに、高橋のおばちゃんに電話した。
「あ、お姉ちゃん? ニュース見たわよ。どういう感じ? うんうん。うんうん。あ、そっかー。うんうん。うんうん。お義兄さんは無事なのね? うんうん、それは良かった。そりゃそうね、まだ話せてないのね。…うんうん、えっ! それはヤバイんじゃない? お義兄さんらしいと言えば、らしいけど。…でもまあ何とかなるわよ、きっと。元気出してね。お忙しいところごめんなさい。何もできないけど、なにかあたしに出来ることに気が付いたら、なんでも言ってね。それじゃごめんなさい。またね。元気出してね」
 そんな感じで、なんか長々と話していた。
 その間あたしは大和くんと
『ニュース見た』
『もうダメポ』
『元気出しな』
『ありがと』
 みたいなやり取りを、スマホでしてた。
 左手の親指1本で打つ。
 他のやり方で打てる気がしない。
 お母さんは電話が終わった後で、「盗難保険、掛けてなかったんだって。営業の人が気に入らなかったらしいよ」と言った。
「えっそれ、ヤバくない? さっき電話でヤバイって言ってたの、それ?」
「あらあなた、聞いてたの? 大和くんとラインのやり取りで、忙しそうだったのに」
「げっ、知ってたの? 何者だよ、お母さん」
「まあ、何とかなるわよ、きっと。被害額20億円らしいけど」
(宝石取り戻せなきゃ、何ともならないんちゃうかなあ…)
 そのときあたしのスマホに、田園調布に住んでるお爺ちゃんから
『明日、来て』とメッセージが届いた。
 ラッキー。
 明日は木曜日だけど祝日だった。
『行く! 行く!』と返信してから、お母さんに、
「柳町のお爺ちゃんから、明日来てって。行ってもい~い?」と許可を求めた。
 ファーザーコンプレックスがあると言われているお母さんは一瞬キッ! とあたしを睨んだ後、まるでそれがあたしに読み取れてないとでも思っている感じでニコッと笑い、
「いいわよ」と言ってくれた。
 そしてお母さんはスマホを左右の親指をペチペチ使って、あたしの口座に千円入金してくれた。
「お金ちょうだい」は「行ってもい~い?」の中に含まれていたのだ。
「毎度あり!」
「お父さんにあったら、よろしく言っておいてね」
「アイアイサー!」
 あたしは宝石店タカハシの大和くんのことも心配だったけど、あたしがジタバタ心配しても始まらないので、歯を磨いて寝た。

 電車に乗っている間、暇なので家族のことを思い出していた。
 柳町のお爺ちゃんは、田園調布の中では、まあまあ慎ましやかな家に住んでいる。
 昔は作詞家としてかなり人気があった人で、今はあまり活動していない。
 CDが売れなくなって、商売あがったりなのだった。
 うちの家系はどっちかって言うと「奇人変人が多い。と言うか、そればっかり」と感じているけど、その大元は、柳町のお爺ちゃんだ。
 うちは早婚の家系なので、まだ60才まで行っていない。
「今は昔の7掛けの年の取り方と言われているんだよ」とか、難しいことを言っているけど、確かになんか若い。まだ40代くらいに見える、若造り、いや若く見えるお爺ちゃんだ。
 バツ2なの。
 子供は4人いて、下からうちのお母さん、松本の叔父さん、高橋の叔母ちゃん、大久保の叔父さんだ。
 そう、勘のいい人は素早く分かったと思うけど、松本の叔父さんと大久保の叔父さんは、柳町の苗字から離れて、婿入りした。
 田園調布の町中に鳴り響くような親子の怒鳴りあいがあったらしいけど、松本の叔父さんも大久保の叔父さんも、愛を貫いて、一人娘である奥さんの「苗字を守りたい」という親の要請に応じて、婿入りしてしまった。
 柳町のお爺ちゃんは、あんまりそういう事にこだわりがなさそうな、古風じゃない感じに見えるけど、そこには案外こだわりがあって、柳町姓を残したかったようだ。
 あたし正木陽菜は、お母さんの3人の兄姉にも、柳町のお爺ちゃんにも、なかなか受けが良い女の子だ。
「可愛い」から始まって「落ち着いている」「なんか図太い」「腹が据わっている」「ちょっと頭いい」「面白い」「ふてぶてしい」「ギャグセンスがある」「時々なんだか意地汚い笑」などと、いいようにもて遊ばれてる感じで、いろいろ言われているのだけど、まあともかく受けが良いのだ。
 どうしてそうなのかは、自分でも分からない。
 人の性格なんて、生まれついたもの。
 じたばた考えても始まらないって、自分では思っている(なんか図太い)。
 そしてあたしは、柳町のお爺ちゃんには、目を付けられているのだ。
 それはどういうことかと言うと、「柳町姓を継げ」というのだ。
「結婚する時に、相手の苗字でもなく、正木姓でもなく、2人して苗字変えて、柳町姓になっちゃおうよ。そしたらお爺ちゃんの莫大な隠し財産は、陽菜ちゃんのものだよ」と時々、囁かれている。
「陽菜ちゃんは、僕の血を濃く受け継いでいるから、柳町を継いでほしいんだ」と。
(悪くねえ話だな)くらいに、あたしは思っている。
 良くは分からないけど。
(もしもそうなったら、人生の大仕事を若くして一発なし遂げて、楽に暮らしていけるという感じかな?)。
「表立った資産は、陽菜ちゃんとお母さんたち4人で分けることになる。いや関係変わって、義理の兄姉たちと5人で、分けることになる」
(それはちょっとキツイ感じかな。でも、莫大な遺産が入るなら、それも仕方ないかな?)。
 まあ先の話は、分かんないけどね。
 松本の叔父さんは、警視庁の刑事だ。
 なんかお母さんがちょっと言ってたところでは、秘密にしているけど、港湾部とかいう部署に、勤めているらしい。
 大久保の叔父さんは、大手の外資の証券会社に勤めている。
 毎日滅茶苦茶な労働時間らしいとか聞くけど、収入も凄く良いらしい。

 そんな事を考えているうちに、田園調布についた。
 あたしのお家がある日吉と同じように、左側が放射線状に道がある町だ(左側とは、渋谷に向かって進行方向を取った時の話であります)。
 ただ日吉みたいに、普通~の住宅の並んでいる、普通~のありふれた町とは違い、田園調布はなかなかのデカいお家が多い町だ。 
 田園調布の、ハアハア、ちょっと難があるところは、ハアハア、上り坂が結構きついところだ。
 でもお爺ちゃんに会うためには、ハアハア、頑張らなければいけない。
 あたしはまだお婆さんじゃないんだから。
 なんだ坂、こんな坂。
 でも結構腰に来るのよ。
 ハアハア。
 などと暇つぶしに、独り言で遊んでいるうちに、お爺ちゃんの家についた。
 お庭とかも良く行き届いている。
 庭師の人に、毎月来てもらっているらしい。
 お爺ちゃんは、今はあんまり作詞してないし、CDがレコード屋さんで、あまり売れてる時代じゃない(これは前にも言った)。
 ただ、CDの売り上げが減って、サブスク配信の時代になったら、昔の曲も聞かれるようになって、案外おいしい状態になったとも、お爺ちゃんは言っている。
「チャリン、チャリンと、毎日お金が入ってくる感じだよ」。
 しめしめ。
 将来あたしのものになるお金だ。
 ヘッヘッヘー。
 あたしはお金に汚くもないし、ガメつくもないけど、お金には細かい。
 お母さんから受け継いでいる家系だ。
 玄関まで10メートルくらい歩いて、呼び鈴を鳴らした。
「お爺ちゃん、こんにちは」
「よく来てくれました、私のお姫様!」
 歓迎に染まったお爺ちゃんの、喜んでくれてる顔。
 こっちまで嬉しくなっちゃう。
「はいこれ」
「毎度ありー! いつもありがとう!」
 2人だけの秘密。
 秘密のおこずかい千円も、もらった。
 一応これは、作詞家であるお爺ちゃんが、「若い子のエキスを吸いたい。若い子の考えていることを知りたい」と、あたしに色々なことを聞いたり、あたしの話を聞くのの、報酬みたいな感じになっている。
 あたしは「昔の日本が中国に貢物をして、その何倍ものお土産をもらって帰った」とかいう「朝献貿易」なんていう言葉もちょっと思い出しながら、いつもここに来ているという感じだ。
(悪くねえビジネスだな)と思いながら。
 ただ、いつもは色んなお爺ちゃんのお話も聞くのだが、今日は要件にすぐに入った。
 難しい言葉だが、「単刀直入(たんとうちょくにゅう)」だった。
(なんかいつもと違うな)と思ったのは、攻めた語り口。
 雑談から入るという感じが無くて、すぐに本題に切り込んできたのです。
「さっそくだけど、陽菜ちゃん。君しかいない。宝石店タカハシから盗まれた宝石類を、取り返してくれ」
 そういうのと、応接間の照明が少し暗くなって、カーテンがウィーンって自動で閉まり、とても大きなテレビがツンって付くのが、同時に起きた。
 ホームシアター。
 でも今日は、なぜか上映中の映画がそのまま流れてあたしに見せてくれるという話には、ならなかった。
 お爺ちゃんは、ホームシアターは自慢してないが、権力を見せつけるように最新劇場公開中の映画は、あたしによく見せてくれる。
 今日は、偉そうにやたらビカビカした有機ELテレビが、スイッチの入った瞬間に画面に映し出したのは、宝石店タカハシの店内の映像だった。
「報道で見たとは思うけど、犯人は男1人。黒覆面をしてた」
 そこで男が、黒いマスクをして画面に登場。
 生々しい。
「店内にいた時間は、およそ20秒。宝石を奪って逃げた。ダイヤやルビーの指輪やネックレス。ショーウィンドーを叩き割って、わし掴みにして、逃走した」
「それくらいまでは、あたしも聞いてるよ。お爺ちゃん」
 とても生々しい。
 音は出ないけど。
 テレビ画面では、黒覆面の男が、モゴモゴ言っているように見える。
 そしてピストルを、店員さんに向けて。
 それでショーウィンドウを、ガチャーン!と割って。
 宝石を何度か拾い上げて、サッと逃げていったのだ。
(やはりなにか、ドラマと違うなあ。なんて言うんだっけ。そう「リアリティー」があるというのは、役者さんみたいに、演技っぽくない、この感じかあ…)
 見ていてあたしは、そう思っていた。
 そのあと画面は、いったん黒くなった。
「陽菜ちゃんは、タカハシがこの件の盗難保険に入ってなかったって、知ってたかい?」
「うん。知ってた。まずいよね」
「チョーヤバイ。激マズだよね」
 なんて会話をしているうちに、有機ELテレビの画面は、新しい展開に。
 それは店の外側からの犯人が逃走してゆく動画。
 カメラがリレーして、犯人の姿が映っているところを、追っていく。
(なぜですか? タカハシの店内の映像なら、お爺ちゃんが映像を手に入れたのは分かるけど。なぜ店の外の防犯映像が手に入るの? 松本の叔父さんは警察に勤めているけど、港湾部だから、東京湾の担当のはずなのに?)とあたしは思った。
 まあいいや。
 店の外は、小雨が降っていた。
 犯人は、大きな黒い傘を差している。
 それで、少し街を行ったところで横道に入って、そこで行方が分からなくなったという、お爺ちゃんの説明だった。
「明日、スマホに授業が終わった頃に、連絡をするからね、新しい指令の。スマホは小学校に忘れないように持っていってね」
「り。アイアイサー!」
(元々スマホは忘れずに、毎日持って行っている。教科書は忘れても、スマホは忘れない)。
 お手伝いさんが、ケーキとジュースも出してくれた。
 いつものことだ。
 余は苦しゅうない。
 苦しゅうない。
 非常に美味しかった。
 大変いい気持になってから、あたしは帰宅した。

 翌日はスマホを忘れないように持って登校した。
 あたしはクラスの最大派閥に属している。
 うちのクラスは、中学受験したりオシャレに興味が強い子たちが4人くらい。
 一匹狼と言うか、はぐれ狼と言うか、そういう無所属が3人くらい。
 残りはなんとなく、グループになっている、最大派閥のメンバーだ。
 言い忘れたけど、ボスはあたし。
 まあ成績も一番いいし、体育は5しか取ったことない。
 身体もまあ大きいほう。
 身長は小学6年生の春で151くらいある。
 クラスで3番目くらい。
 まあ腕っぷしも強いし、口先も立つ。
 でもうちのグループは、締めつけは強くない。
 あたしは実は、あんまりみんなと話が合うわけでもない。
 よくあたしは「箸が転んでもおかしい年頃の女の子」とかいう言葉を思うのだけど、みんながキャピ話してるのを聞いていても、なんか乗れない。
 醒めてる。
(なんでそんなに色々と、話すことがあんのかな?)とか思ってしまう。
 でもあたしは、人をイジメるのとか超大嫌いだし、一応ボスになっている。
 あたしがボスだと、収まりが良いんよね。
 あたしはのんびり、ボスをしている。
 言い忘れたけどこれは、全て女の子のグループの話だ。
 男の子は関係ない。
 ただし、男の子もあたしのグループに、手出しは一切させない関係だ。
 あたしは中学受験はしない。
 親の方針だ。
 お金が無いわけでも、勉強が出来ないわけでもないけれど、そもそも親があんまり中学受験に興味がない。
「小学生の時くらい、のんびりしてなさい。高校受験で、都立高のいいところに入ってほしいな。でも高校受験の時はどこを受けてもいい。女子高でもいい。大学の付属校でもいい」みたいなノリだ。
 両親ともに都立高だ。
 なんなら、都立高の同級生で1年生の頃からイチャイチャ付き合っていてそのまま社会人になってすぐゴールインしたのが「自慢」だという、本当にどうしようもない、恥知らずな経歴の夫婦であったりする(繰り返すけど、うちは早婚の家系)。
 ここまで言えば分かると思うけど、とても20世紀のノリの両親で、お化粧の話でもしようものなら、目を三角にしてゴジラみたいに口から火を噴いて怒る。
 あたしは「パパとかママとか呼んだら、命は無いものと思え」とお父さんとお母さんに、いつも言われている。
 それがうちの家族だ(早婚の家系っぽくないけど)。
 日吉に住んでるけど、越境して都立高を受けることは出来る。
 らしい、テクニックを使えば。
 両親には、それを望まれている。
(無駄に「都立高」にこだわりあり)。
 アホやこいつら。
 などと思っているうちに、授業は終わった。
 昨日の夕飯も今日の授業も、もう何を食べたか学んだか、覚えてない。
 まあ「陽菜っぺは何事にもこだわらない性格」と言われている。
鷹揚(おうよう)」というのだそうだ。

 校門を出たところで、スマホに連絡があった。
『今すぐ新宿に行って、ヨドハマカメラ本店の前で話しかけてくる、大津くんという少年と合流してね。あとは彼と話しあってね』
 柳町のお爺ちゃんかと思ったら、松本の叔父さんからだった。
 まるであたしの動きを見ているように、校門から出てすぐだった。
 なんか怪しい。
 タイミングが良すぎる。
 まあいいや。
 あたしはすぐさま、お母さんに連絡した。
『あ、お母さん? 柳町のお爺ちゃんから、渋谷に行けって言われた。たぶんどこかで、大津くんていう人と、お茶とかしそう。お金ちょうだい』
『分かった。2千円、振り込んどく』
 お母さんは、柳町のお爺ちゃんの名前を出すと、なんでもそのまま聞いてくれる。
 ただお母さんは、あたしに何円(いくら)くれたか、あたしがいくら使ったかは、かなり緻密に暗算して、いつも覚えている。
 手強い相手だ。
 時々「その交通費は前回分の残りで足りるわね」とか言われて、あたしは(うー、やられたー。テケショー)と思うのだ。
 無駄に頭がいい主婦だ。

 日吉駅から座れた。 
 大学生が沢山いた。
 大人っぽいなあ。
 さっき松本の叔父さんから連絡が来たというところを、柳町のお爺ちゃんから言われたって、お母さんについ言っちゃった。
 まあいいよね、そういう事だもん。
 うちのお母さんは、少しファザコンの気味が強くて、あたしが小さい頃、なぜか毎日お爺ちゃんの家に行って、お爺ちゃんとお話をしていた時期がある。
 半年間くらいだったらしい。
 薄っすら「育児放棄」の感じも帯びて、問題になったそうだ。
 放棄されちゃったとかいう本人、つまりあたしは、全然覚えてないけど。
 でもお母さんは、「そんなんじゃ駄目だと思って、毎日お父さんのところに行くのは、止めにした。(とつ)いだあたしがそんな事じゃ、いけないわよね」という事だった。
 だがあたしの中で、何かが、引っ掛かっていた。
 今。ハッ! とした。
 全ての謎が、解けた。
 全ての謎が、輝き渡るように、パリン! と七色に割れて、解けた。
 東横線の車内が、光に包まれて眩しい。
「松本の叔父さんが言ったという話を、柳町のお爺ちゃんが言ったという話に、あたしはすり替えた」から、ヒントを得た。
「犯人は、柳町のお爺ちゃんから『毎日来ては駄目だ』と戒められた話を、『あたしが決断した』という話に、すり替えたんだ!」と思い付いた。 
 犯人って、お母さんの事ね?
 お母さんは、そんな決断が自ら出来る人じゃ、ないもん。
 ファザコン女で。
 長年、何かが腑に落ちなかった「あたしの中の大きな謎」が、たまたま今突然、完全解明された。
 もうこれで今日は、お腹いっぱい。
 帰って日記に書きたい。
 この冴えわたった、見事な推理を。
 出版出来ないだろうか? 
 売れると思う。
 やっぱ売れないか。
 やはり、宝石店タカハシから盗まれた宝石を取り返すという、突然舞い込んできた特別ミッションをこなす方が、先のようだ。
「お母さんのお爺ちゃん好き」は、なかなか度を超えている。
 でもそれ自体は、決して悪いことではない。
 良くできた娘だ。
 あたしには、真似できない。
 さすがは、あたしが手塩にかけて育てている、あたしの母だけのことはある。
 そんな事を思った。
 ああでもあの時期から、もう10年近い時が経つんだなあ…。
 時間の流れるのは、早いなあ…。
 感傷に浸る。
(電車の車内って、なんか座ってると、「時がどんどん流れていく」のが実感されて、エモい。感傷的になるんよね…)
 あたしはそう思いながら、渋谷に出て、乗り換えて新宿まで行った。

 ヨドハマカメラ本店の前に立っていると、すぐに話しかけてきた男の子がいた。
 そのとき、あたしに稲妻が、落ちたのだった。
 ピカーッ、ゴロゴロ、ギャーーーーッ!
 なんて素敵なんだろう。
 ありえない。
 許しがたい。
 大津くんであった。
 運命の人は、単刀直入に、
「正木陽菜ちゃん? 大津です」と話しかけてきてくれて、ニッコリ微笑んだのだった。
 艶やかなレモンのような、美しい肌。
 目から鼻に抜けるような、頭の良さそうなお顔。
 整っている。
 とても優しそう。
 雛人形を男の子にしたような、品のあるお顔だった。
(ヤバい。ヤバすぎる…)
 あたしの中の巨大な時計塔の中の歯車が、グシャグシャに噛み合わなくなってきた。
 苦しい。
 どうしたんだあたし。
 胸が痛い。
 息が出来ない。
 暇つぶしに宝石店タカハシの親戚の大和くんとかを(もしかしたら、好きかも)と冗談で思ってきた感情とかは、宇宙の彼方に、いま吹き飛んだ。
「は、はひ。正木へ菜でしゅ」
 舌を噛みながら、必死でお返事する。
「よろしくね、陽菜ちゃん」
 ニッコリ笑ってお返事くれる。
 キャーッ。
 もうあかん事になってるあたし。
「喫茶店に行こう。少し歩くよ」
 そう言うと、歩き出した。
 男らしい。
 引っ張っていくタイプだ。
「陽菜ちゃん、小学6年生でしょ? 背が高い方かな」
「ひ、153です。お、女の子でクラスで、に、2番目です」
(曲がったことが大嫌い。嘘を吐くのが大嫌いの、陽菜ぴょんは、いま死にました)
「うん、高いね」
 またニッコリ笑ってくれた。
 あたしみたいな子供に。
 恐れ多い。
 でもあたしは、踏ん張って大切な質問をした。
「や、柳町って苗字は、ど、どう思いますか?」
「なにそれ、いきなり? 陽菜ちゃんやっぱり、少し変わってるね笑。…柳町。なかなか風流を感じる、粋な苗字だね」
(やったあ! 好印象のようだ!)
 喉元まで「なりたいですか?」と言いかけたが、何とか思いとどまった。
(よし、いい感じだ。あたしが「男の子の苗字を盗んじゃう盗賊団」(構成員・あたしとお爺ちゃんの2人)の一員であることは、まだ秘密にしておこう)
「お、大津さんは、中学生ですか?」
「うん、中学2年生」
(中学生、やはり、大人だ。格が違う、圧倒的に、大人だ)
 そんな言葉の1つずつが、羽が生えたようにヒラヒラ宙を舞う。
 そして桜の花びらに変化(へんげ)し、パチンパチンと、シャボン玉のように破裂して、消えてゆくのが見える。
 幸せに包まれたあたし。
 足がフワフワして、地面に付いてない。
 少し歩いて、高そうな喫茶店に入った。

 大津くんが、コーヒーを注文してくれる。
 嬉しい。
「お、大津さん、も、もしかして、私立中ですか?」
「うん、開生中学」
「す、すごい…、すごいですね」
「ぜんぜん凄くないよ」
「えっ、で、でもすごいですよ」
 そこまで言うと大津くんは、
「陽菜ちゃん、今は宝石店タカハシの宝石が盗まれた事件に、集中しようよ。もっと落ち着いて。ため口でいいよ」
 と言い、あたしの目をジッと見詰めながら、あたしのおでこをツン、と人差し指で優しく突いてくれた。
 すると、(大津くんがもう大好き)という気持は消えないまま、なんていうかその気持が、しっかり透明ゼリーに包まれたようになって、あたしは落ち着いた。
 なにか催眠術みたいのに、掛かった自覚がある。
 でもそれを解ける感じも、全然なかった。
「そうね。宝石が奪還できないと、高橋家はヤバイもんね。大津くん、タカハシが盗難保険掛けてなかったって、知ってた?」
 知らぬ間に、ため口をきいている。ため口しかきけない。
「うん、松本さんから。聞いたよ」
「ほんとダメよね。高橋のおじさん。ところで大津くんは、どうして松本さんと知り合ったの?」
「ご近所さんなんだけど、声かけられた」
「ふぇ?」
「同じ町内に住んでいるんだけど、『君はなかなか見どころがあるね。ちょっと僕の手伝いをしてくれないかな?』って、半年前くらいに誘われて、それ以来仕込まれてる」と言った。
 警察の捜査とは別に、気の利く少年少女によって捜査すると、解決できる事件もあるのではないか? という発想なのだという。
 実は欧米のある国もやっているアイデアなんだって、松本さんは話していたけど、本当かどうかは分からないねと、大津くんは言った。

「それよりも、事件の話をしよう」
 そう言って、大津くんは、持っていたバックからタブレットを取り出すと、突然4人掛けの席の、あたしの隣に来た。
 あたしは催眠術に掛かっているので(ドキン!)とはしなかったが、少し驚いた。
「これは、事件があった時の、犯人の逃走の動画だね。陽菜ちゃんも昨日、ちょっと見たんでしょ」
「うん。お爺ちゃん()で見た」
「ここ。ここで黒覆面のまま、黒い傘を差して店内から出てきて、ここで路地裏に入って、そこから行方がつかめていない」
「うん」
「防犯カメラの分析は、捜査本部でもやってるけど、さっき30分くらいかけて、僕もやってみたんだ」
「うん、うん」
「そうしたらね、裏道を通って500メートルくらい行った、ここ。ここで出てきた人が、少し怪しい気がするんだ」
「うん、うん、うん」
「陽菜ちゃんは、どう思う?」
 あたしはタブレットの中の人をよく見た。
 黒覆面は、被っていない。
 服装とかは、強盗さんとは違う。
 でもカバンを持っていて、そこに黒覆面や服は、入れられそう。
 大津くんは解説した。
 このカバンは、あらかじめ路地裏に、隠しておいたのだろう。
 どこかで後から、捨てた可能性がある。
 自分が預かった防犯カメラ映像のファイルでは、その後の経路は分からない。
 でも陽菜ちゃんが同意してくれたら、警察にこの人の行方を防犯カメラで追って欲しいと、連絡するつもりだ。
 どうしてこの人が怪しいかと思ったのかは「勘だよ」と言った。
 確かに背格好は、似たような感じだけど。
 この人は傘を差してないけど、小雨だから、それは怪しくない。
 強盗さんは大きな黒い傘を差していたから、歩き方の比較が出来ないんだ。
 それよりも問題があるのは、この人がお面をかぶっている事だった。
 ずばりワニのお面をかぶっている。
 だから人相は、分からないままだ。
 大津くんがあたしにも判断を聞いたのは、あたしも「勘がいい人と聞いているから」と言った。
 買いかぶられている気もするけど、「苗字盗賊団」の一員として、こんな上玉を、手放す気はない。
 気に入られたい。
 それでジッとよく見た。
 動きをよく観察した。
 集中してみる。
 心の目で見る。
 そしてあたしは言った。
「これ、同じ人だね。あとワニのお面をかぶっている理由も、あたし分かるよ」と言った。

 大津くんにとっては、意外だったかもしれない、後半のセリフ。
 でもあたしには、分かったのだ。
 このワニのお面をしているのは、水道橋の大江戸ドームで開催されたミズワニ弾丸団テラスのライブが、関係していると。
 今人気がかなり爆発しているバンドが、一昨日は大江戸ドームで仮装ライブ、観客も全員ワニの仮面をして来場するコンサートイベントが、あったんだ。
 各種サブスクでも、国内再生回数ベスト10に、今なら3曲も4曲も入っている。
 少し女性的な高い声のボーカルのワニニワトリくんや、ギターのワニシバイヌくんを中心にしたバンドだ。
 歌詞が良い。
 とても切ない。
 ちょっとラップ調に畳みかけてくるところもマル。
 あたしはがっつり、好きなのだった。
 さすがの大津くんも、知らなかったか。
「これ、たぶん人気バンドの、ミズワニ弾丸団テラスのコンサートに行ったんだよ」
 あたしん()はお爺ちゃんの職業柄、あたしがJPOPを聞きたいなどと希望を口にした日には、その願いは無条件・無審査・予算無制限で、すぐに許可されるんだ。
 あたしはサブスクのうち、スパティフーを毎日、聞いている。
 最近のあたしのお気に入りこそ、ミズワニ弾丸団テラスであって、個人(あたし)のプレイリストでヘビー・ローテーションで、パワープレーして、ガンガン愛聴しているのだった
 すると大津くんは、またニコッと笑って、
「陽菜ちゃんも、ミズワニ好きなの? 僕も好きだよ。ほらこれ」と言ってバッグの中からミズワニのバッチや、ワニニワトリくんの人形や、CDを見せてくれたのだった。
 こりゃたまげた。
 ミズワニとは、ミズワニ弾丸団テラスの、略称である。
 あたしは催眠術に掛かっているので、全然興奮しないで平然とした顔をしていた。
 だけど、あたしという大陸の地下を流れる心の水脈の中では、猛烈な勢いで
(あたしもうダメ。この人と愛しあいたい。なんなら早婚の家系という事情を説明して、明日教会に行って、神父様にゴリ押しして、結婚したい。もうこの際、柳町姓問題など、どうでも良くなってきたのだぞ)と、思っていた。
 ゴウゴウと音を立てて流れる(大津くんに、メロメロだ―!)という猛烈な地下水の濁流は、ヒナちゃん大陸を根こそぎ、太平洋の中に砕き落そうと、していたのでした。
 助けてくれー! ブクブクブクー!

「陽菜ちゃんが『犯人とこの人は、同じ人だと思う』って言ってくれたら、僕もそれを言おうと思ってたんだ」と大津くんは言った。
「3万人コンサート。一度この中に入ってから、また服装をちょっと変えて、素顔で出てきたら、もう分からないよね。そういう計算なのかもしれない」
 なるほど巧妙に考えてるんだなあ、犯人さんはと、あたしは感心してしまった。
「でもね。ほら、ここを見て」
 大津くんは、さらに問題解決に向けて切り込んだ、映像分析をしていた。
 防犯カメラ映像の中の、小さな小さな部分を指さして、
「この映像の人が、肩にしてる腕章、『ワニ章』だよね。ファンクラブ会員の1000番までで、ファンランクSグレードの人だけが買えるやつ。そしてね。このライブ会場でも、最前列付近のチケットを取れる人」
(すごいなあ大津くんは。こんな分析は、『この人が怪しい』って捜査本部にただ伝えてあげても、なかなか分からないくらいの、鋭い分析じゃないかなあ…)
「ファン憧れのワニ章だよね!」
「うん」
「それでね。犯行時刻とコンサート開始時刻を比べると、もしかしたら犯人は、ライブの開始時間に少し遅れて入場したかも、しれないんだ。そのほか、何か変わったことが無かったか、ミズワニ関係者に聞けたらいいなって、思ってる」
「うん」
「そりゃミズワニだから、そう簡単でもないとは思う。だけど『どんな人にでも、5人辿(たど)れば、連絡が付く』とも言うしね」
「うん」
「盗難された宝石が、闇のルートで売り払われないためには、一刻でも早く、取り戻さないといけない。捜査本部は、そういうルートでも、アンテナはしっかり張っているだろうけど…。闇ルートで処分されたら、もう終わりだ。急がないと。もう一昨日の犯行だし」
「うん」
「捜査本部に、僕たちの捜査(アプローチ)の手伝いは、頼めない。陽菜ちゃん、誰かいい知り合いは、いないかな? ロックが好きな音楽の先生とか、レンタルスタジオを経営している人とか? そこから辿っていけたらいいよね」
 そう聞かれたのであたしは、
「えっとね。なんか近道で使えそうな人が、1人いるよ」と、答えたのだった。

 あたしは柳町のお爺ちゃんに、すぐ電話をした。
「あっ、お爺ちゃん? うん、今大津くんと会ってるとこ。あたし、ミズワニ弾丸団テラスに会いたいの。捜査線上に浮かんだ人が、宝石泥棒に入ったすぐ後に、大江戸ドームのミズワニのライブに、行ったかもしれないの。それで、ちょっと聞きたいことがあって。10分くらいでもいいから、話がしたいの」
『よしよし、分かった。何とかする。お爺ちゃんの力を、見せる時が来たようだ。今晩にでも、会えるようにするよ』
「本当? ありがとう! 陽菜すっごく嬉しい! お爺ちゃん大好き!」
 あたしがそう言ったところで、大津くんが肩をトントン、と叩いた。
 差し出されたスマホには、『本日の浪花ドーム ミズワニ弾丸団テラス大阪公演は、午後7時開演!』と、公式ページのトップに、表示されていた。
「あ、お爺ちゃん、やっぱり今日とかムリみたい。ミズワニは今日は、夜は浪花ドームで公演があるんだって」
『なんですとー? 私のお姫様? 夜の大阪? ふふん! そんなの問題ございません! 今すぐ羽田に向かいなさい。手配しておくから』
「えっ、そ、そうなの?」
『ええ、そうですとも、私のお姫様。こんな事もあろうかと、ジャパン航空の株をいくらか買っておいたからね。ジャパン航空の受付に行って、正木と大津ですと、言いなさい』
「大丈夫なの…?」
『おうとも。ミズワニにも、会えるようにしておく。タクシー代とか、大丈夫かな?』

「タクシー代とか…」
 大津くんが首を縦に振る。大丈夫そうだ。
『東京はスイカだけど、大阪はイコカじゃないかな』
「大阪はイコカだって…」
「現金持ってる」と大津くん。
「大丈夫そう。じゃあすぐ、羽田に行くね」
『気をつけてね、私のお姫様』

「今から羽田にすぐ向かって、ジャパン航空の受け付けに行ってって」
「分かった。タクシーを拾おう」
(ふぇっ、タクシーとか、すげえなあ)あたしは思った。
「拾おう」がまた、何ていうか、大人の味があって、カッコいい。
 あたしは①毎年収穫するお年玉で20万円くらいお金があるけど、これはお母さんが管理してる。②柳町のお爺ちゃんから貰っているお金が10万円くらいあるけど、お母さんに見つからないように、本棚のマンガに挟んで、隠してある。
 ということで、今現在の所持金は、2千円くらいしか無いのでした。
 そこで大津くんに
「タクシー代とか、ほんとに大丈夫?」と聞くと、
「じゅうぶん有るから、心配しないでね」と言われた。
「でも陽菜ちゃん、そこから先の飛行機の手配とか、ミズワニ弾丸団テラスに会えるという話は、陽菜ちゃんを信じて、このタクシーに乗ったんだよ。そこは大丈夫?」
「うん」
「陽菜ちゃんのお爺ちゃんって、有力な人みたいだけど、有名なの? 差支えない範囲で、教えてくれる?」
 そこであたしは、
「ペンネームが柳町声明っていう、作詞家なの」と言った。
「えっ、えっ? えーっ! あの有名な、柳町声明先生?」
「うん、一応」
 自分のお爺ちゃんであることに、一応も二応もないのだけど、なんとなくそう答えた。
 それにしても、落ち着き払っている大津くんにも、たまには言葉が(つか)える事もあるんだなあと、そっちの方が新鮮だった。
「松本さん、そんなこと教えてくれなかったよ。凄いね! 柳町先生が、お爺ちゃんだなんて! 今に残る名曲、何十曲もあるじゃない? そんなに詳しくはないけど、素晴らしい曲が、沢山あるよね?」
 そう言って、お爺ちゃんの作詞した曲のタイトルを、スラスラと何曲も、何曲も、口にしてくれた。
 あたしは何だかとても誇らしく、嬉しい気持ちになった。
(今は初めて聞いて驚いたようだけど、いずれあなたの苗字になるのよ、大津くん。一緒に働かないで、楽しい人生を過ごしましょうね?)。
 申し訳ないけど、自分が巨大な女郎(ジョロウ)蜘蛛(グモ)になって、クモの巣に掛かってもう動けない大津くんを、クモ糸で雁字搦(がんじがら)めにした後、ヒタヒタと近寄って、お食事を始めるところのあたし、というイメージを、思い浮かべてしまった。
 あたしがいつも思い浮かべてしまう、お気に入りのイメージなんだ。
 今日会ったばかりとは言え、愛しの大津くんに、そのイメージを当てはめてしまった。
 すみませんでした。
(…まあ大津くんは、柳町のお爺ちゃんについては、ちょっと驚いたり、感心してくれただけだけどね)
 だから今回のケースについては、妄想なのですが。
 蜘蛛のあたしが、大津くん食べちゃうやつね。
 その他ちょこちょこっと雑談しているうちに、タクシーは曲がったりくねったりする高速道路を、頑張ってビュンビュンと、突っ走ってくれた。
 あっという間に、羽田空港に着いた。

 そこからは本当に目まぐるしく、時間は進んでいった。
 なんとなくいつも感じるのだけど、「大人が本気を出した時のスピードには、子供はついて行けない」というのがある。
 目が回りそうに、色んなことが、テキラパキラと進んでいった。
 把握しきれない。
 受付カウンターに、あたしたち2人が行くと、こっちが名乗る前から立って待ってくれていた、少しなんでしょう、「責任者っぽい」って言うんですか? 偉そうな雰囲気の人が、
「正木さまと、大津さまで、いらっしゃいますか?」と、声を掛けてくれた。
 そして搭乗ゲートとか書いてあるところから離れた、別のゲートまで連れていき、2人のバックもそのまま、搭乗券のチェックも何も、渡すのも後にして、VIPラウンジみたいなところに、ペコペコしながら、連れて行ってくれた。
 ジュースとかケーキとか、マシンガンみたいに出てくるし。
 もみ手をしながら、「次のフライト便のビジネスクラスに、ちょうど空きがございましたので、お乗りいただけます」とか言われた。
 空港についてから、10分も経たないうちに、なんか搭乗ゲートの前まで来ていた。
 なんか特別な廊下とかを、通った気がする。
「お爺さまには、どうか何卒よろしくお伝えください。なにしろご個人では筆頭株主でいらっしゃいますから、粗相がないようにと、上からきつく申し付かっております。なにかお気づきの点がございましたら、なんなりと、なんなりと、このチーフアテンダントの岩見まで、仰って下さいませ。どうか是非、良い空のお旅を」
 そこでいかにもカッチリした大人のお姉さんという感じの、チーフアテンダントなんちゃらの人まで、深々とお辞儀をしてくれた。
 なにしろ、あたしの状況把握能力をはるかに超えていて、よく覚えてないけど、パッパパッパと、物事が進んでいった。
 ハッと気が付いたら、飛行機は滑走路をのろのろ進んだ後で、1回止まって。
そしてウシャゴーーー、キーン、ブォーーーみたいな大加速をして、空に向かって離陸してしまった。
(なんか、これがビジネスクラスかー、みたいな席だなあ)と、あたしは思った。 
 小並感。
 小学生ですけど?
 まああたしは、「落ち着いてるお化け」「落ち着きモンスター」とかみんなに言われてるくらい、図太いけどね。
精神年齢が高めって奴ですわ。
 大津くんの傍にいると、上には上がいる、本当の大人って思うけど。
 席のことは、ともかく大きくて、座り心地が良くて、感心しました。
 ただ大津くんと、座席がほんの少し離れていて、残念。
 一応話は出来るけど、なんか親密感というのが、あまり無いのよね。
 後でネットで執念深く調べたところでは、ツイン座席みたいになってる機種も、あるらしいけど…。
 それは座席が離れてないもので、そっちの方が、良かったなあ…。
(ハネムーンの予行演習やな、これは)と、胸をキュンキュンさせながら移動したあたしが、バカでした。
 席、やや離れてました。
 何度も来てくれる、お姉さんたち。
 なにか殺気立つほどキレキレで、ユニフォームが軍服みたいだった。
 あっという間に、富士山の横を通る。
 あっという間に、伊丹空港への着陸態勢に。
(今度こういうことがあれば、普通の席でいいって、お爺ちゃんに言っとこ。ぴえんまる。ぷんぷんまる)
 と思いながら、タラップを他の乗客より早く、真っ先に下りた。

 またこっちでも、中2と小6のカップル、もといコンビには、似つかわしくないほど大人の皆さんが、丁寧な対応をしてくれた。
「東京行きの帰りの便も、お2人の席は、押さえてございます」と、言ってくれた。
 すぐにタクシーで、浪花ドームに向かう。
「おっしゃ、お急ぎでっか? おっちゃん、頑張りまっせ―」運転手さんのノリが、東京とは別の惑星に来たようで、ビックリした。
 これから浪花ドームに向かうというのに、なぜですか? 
 甲子園がホームの浪花タイガースの話を、ドンドンしだした。
 そこであたしが実は一応、隠れ浪花タイガースファンで、ちょっと合いの手を入れたのが、まずかった。
「お嬢ちゃん、気に入った!」とか大興奮して、気に入られてしまった。
「小山はほんま、チャンスに弱い」とか
「佐東はシャープな振りだけど。ルーキー年ほどホームランが打てない」とか
「近木はいい選手だけど、フライを取るのは左右は強いけど、前後が駄目やねん」とか、津波のようなお喋りが、押し寄せてきた。
「話し好き」のレベルが違う! 大阪のおっちゃんの、お喋り愛!
 だが分かる。
 その選手評は。
 あたしも興奮して、いろいろ浪花タイガースを、語ってしまった。
 あの球団は、甲子園に応援に来る人が、熱く応援してるのが、見てて楽しいんだ。
(ただあたしは、大江戸ジャイアンツや博多ホークスも憎からず思っているのは、この際だから、内緒にした)
 なかなか楽しい、異惑星体験だった。
 大阪、おもろいなあ…。
 ただ考えてみれば、タクシーの中で、大津くんとお話が出来なかったところは、少し残念であった。

 相変わらず、子供のあたしの状況判断力のスペックを超える凄い速さで、物事はどんどん進んでゆく。
 浪花ドーム前に到着。
 なんかブロマイドとか団扇(うちわ)とか、応援スティックとか法被(はっぴ)とか、出店が路上に何軒も出ていて、売っていたようだった。
 華やかな雰囲気の入り口を横切って、関係者出入り口へ。
 なんと事務所の社長さんだけでなく、レーベルの社長さんまで、あたしたちをお出迎え。
「いつも柳町先生には、大変お世話になっております。日本作詞家協会の会長であられます柳町先生のご用命とあらば、たとえ火の中水の中、ご用命いただければ、どんなことでも何なりとお応えいたします」
 恐縮しすぎて、トホホ。
 泣けてくる。
 さらにヤバイ事に、「お知らせ 本日の公演は、機材調整の都合により、開演時間が10分遅れます」とか張り紙があったり、アナウンス放送が何度もされている。
 どうすんのこれ。
 犯人は、あたしたちだ。
 間違いない。
 ファンの(はし)くれとして、もう半分死にたいよと言うか、激しく動転しながら、楽屋まで突っ込んでいく。
 ミズワニ弾丸団テラスの開演時間を、10分遅らせちゃったお爺ちゃん! 
 いや正木と大津の極悪コンビ!
 楽屋にバーンと突っ込むと、いた! 本物がいた。
 超忙しそう、華やかなバタバタした雰囲気に包まれて、スタッフさんも何十人もいる慌しい部屋の中で、
 ボーカルのワニニワトリくん!
 ギターのワニシバイヌくん!
 ベースのワニミケネコくん!
 サポートメンバーのキーボードのタクヤくんも、ドラムのアヤカちゃんも!
 本物だ! 
 ジャケット写真のまんまだ! 
 ドーラン塗って顔ピカピカ!
 そのへんはあたしは小さい頃からトップアーチストの楽屋に何度も遊びに行ってるから、知ってるし!
 しかしやはり、周りの空気が、ピカピカしている!
 いろいろメイクや衣装の光物もキラキラして、(これがオーラと言うものかあ…)とあたしは、感じ入っていた。
「は、はじめまして、大津です。こちらは正木陽菜さん。2人ともミズワニ弾丸団テラスさんの、大ファンです」
 大津くんが、あたしとの間でリーダーシップを発揮してくれて(引っ張るタイプだから)、話し始めてくれた。
(後で聞いたところでは、1日に2回も舌を噛んだのは生まれて初めてで、正木陽菜ちゃんを憎んだという)。
「どうも。ミズワニのワニニワトリです。どうぞ掛けて」
 ミズワニのメンバー全員が座ってくれている席の前に、あたしたちは着席した。
 流石(さすが)にここは戦場のように忙しいところなので、ソファーではなくて、白いフラットテーブルを挟んで、パイプ椅子にみんな座る。
 お爺ちゃんが言うには、「昔のスターはヤンチャな暴れん坊が多くて、全然スタッフの手に負えなかったけど、今は管理社会が進んで、みんな大人しい良い子になって、扱いやすい子ばっかり」なのだそうだ。
「取り急ぎ、お話します。今日来たのは、一昨日新宿で起きた、宝石店の強盗事件に関する件です。どうも犯人がワニッチ(ミズワニ弾丸団テラスのファンのこと)で、犯行直後に、一昨日の大江戸ドームのライブに、行った可能性が高いんです」
 大津くんはそう言いながら、バッグのジッパーを開けていた。
 その時あたしはワニニワトリくんの顔を見ていたけれど、落ち着いていて、全てを見通すような、鋭い目をしていた。
 紫色のロングヘアーをした、27才の美男子だ。
 さすがに今、日本一の人気になりつつあるスーパーなバンドのリーダーだ。
 ただ者じゃない。
 目の下の化粧もかーなーりー濃いけれど、それだけじゃない得体の知れなさ。
 ゾクッとするような、鷹みたいな目をしていた。
 なにか妖怪のような、人知れない洞察力を、持っている気がした。
「この画像です。ワニのお面をかぶってます。腕章はワニ章に、見えませんか? なにか一昨日のコンサート中に、気が付いた事ありませんでしたか?」
 大津くんはタブレットをバッグから取り出し、街の中に戻ってきた犯人さんの映像を、ワニニワトリさんに見せた。
 そのときサポートアーチストのドラムのアヤカちゃんが、
「えーっ、ワニのお面してたら、分からないよねえ?」と言い、
 同じくサポートアーチストのキーボードのタクヤくんも、
「これだけじゃ、3万人コンサートだからなあ」と言った。
 本当に申し訳ないけど、その時あたしと大津くんは共通して、
(雑魚はちょっと黙ってて)と、強く念じていた。
 大丈夫だった。
 じーっと食い入るように見つめた後で、ワニニワトリくんは、
「これは多分、古参の(ファンの)うちの、古川さんじゃあないかなあ?」と言ってくれた。
(こ、これだけで、そこまで分かるのですか?)
「まあ僕たちも、最初の下積みの頃は、かなり苦労してるからね。何度も、何度も、ネットで有料の個別お話し会とか、やらしてもらってるしね。この肩のカーブ、見覚えがあるなあ。首元に、あの人の特徴の小さなホクロがあるようにも見えるし(そこまで見えてるのか!)。3万人コンサートって言っても、最前ゾーンのお客さん、苦労を分かち合った古参ファンばっかり、僕たち見てるからね」
「はあ」とあたし。
「一昨日ね。その僕たちのコア中のコア、一番大切な百人のワニッチのうちね、古川さんが、ちょい遅れて入って来たんだ、ライブ会場に。最前ゾーンに。そんなことは今までで初めてだったから、ちょっと覚えてたよ」
 よくテレビのサスペンス物では、「そんな事は初めてだ」という話があったら、それは犯人だってなることを、あたしは思い出していた。
 大津くんは(かなり決まりだね)と言う風に、あたしの方を見て頷いた。
 あたしも(うん)と頷き返した。
「ありがとうございました。本当に助かりました。…出来ましたら、出来る範囲で…、古川さんのフルネームや連絡先、教えてもらえますか? 一昨日の撮影映像とかあれば、それも見せて下さい。ハッ! そうだ、あとは今日のチケットを購入したかどうかも、分かればありがたいのですが」
「最後のやつはね、古川さんは東日本限定の追っかけだから、来てないと思うよ。あとはスタッフに、今すぐやらせるね」
「ありがとうございます」
「役に立てたら嬉しいよ。頑張ってね。じゃあこれでいーい?」
「ハイ!」
「じゃあ、またね」
 次の瞬間、5人はパーッと立ち上がって、ステージの方に、転がるように猛烈に、すっ飛んでいった。
(ありゃー。もう10分経ってるなー。相当無理してたのねー。我慢してたのねー。ゴメンなさいミズワニー。許しておくれ―。ゴメンチャイ)
 あたしたちは大反省して、5人の背中に向けて、心で手を合わせていた。

「ふー。さすがにちょっと、疲れたねー」
 帰りのタクシーで、大津くんが言った。
「うん。ミズワニに会った緊張感が、ハンパなかった。なんだか肩に象が乗ってるみたい」
 くすっと笑ってくれた大津くんは、「このタクシーの中は、目を瞑って仮眠しとこうか」と言ってくれた。
 優しい。
 気配りが出来る人だよ、この人。
 嬉しかった。
 もしまた浪花タイガース攻撃が、運転手さんからあったらヤバイなあと(楽しみにしつつ)恐れていたのだが、帰り道の運転手さんは若い女の人で、静かに運転してくれた。

 空港についてもまた、歓待と言うやつを受けた、ハネムーン旅行中(願望(ウソ))のあたしたち。
 しかしそこで新婦(妄想(ウソ))の人が「ビジネスじゃなくて、普通の席でいいです」と言い出して、自分の口から出た言葉だけど、あたしはちょっと、ビックリした。
 ほんとふてぶてしいところあるな、この人は。
 我ながら、図太い。
 自分の中に、もう一人の自分がいる、という感じで…。
 ちょっと目を離すと、暴走を始めちゃう、あたしでした。
「身分不相応だもん」とあたしが新夫(大嘘(ウソ))に向かって言うと、
「別にどちらでもいいよ」と大津くんも、言ってくれた。
「あたしは慎ましい性格だ」というあたしの演出(アピール)。ちょっと強引だけど。
 その実は、大津くんと、話したかったんだ。
 何しろ機内にいられるのは1時間くらいだから、焦っていた。
 まあ実際は、雑談が多かったけど。
 あたしは、恋愛感情を今まで持ったことが無かったくらい奥手(おくて)だけど、こんな上玉はそうそういない。
 今度いつ会えるか分からない。
 あたしなりに必死だった。
 あたしはまだ若いので、タクシーで30分くらい仮眠したので、もうピンピンだ。
 大津くんをこの肉食獣ヒナきゅんが、なんとしても食べちゃいたい。
 色々と必死に考えて、こんな話をした。
「お爺ちゃん(作詞家・柳町声明)が言うにはね、昔の歌詞は、『好きだ、愛している』ソングと、『元気を出そう』ソングばっかりだったんだけど、今は『失恋した、恋が実らない』ソングと『過剰で過激な本音』ソングばっかりなんだって。今の若者は『おびえ世代』って感じで、元気が無い世代なんだって。もちろん、そんな事じゃ駄目だっていう意味で、お爺ちゃんは言ってるんだけど」
 こんな話もした。
「お爺ちゃん(作詞家・柳町声明)が言うにはね、今の子って身長が少し縮んでるでしょ? 平均身長が。これって不況で食事が出来ない子がいるからとか、他にもいろいろ言われてるけど、子供のころからダイエットしてるせい、いじめが怖かったり、痩せたいという思いが強すぎるからで、おびえ世代だからなんだって」
 フー、駄目だあ……。
 固いなあ、あたしの話…。
 もっとリラックスしろ、頑張れ、陽菜っぴ!
 大津くんは優しい人だから、興味ありそうに聞いてくれているけれど、あたしには上手く言えないけど、「あたしと恋に落ちる方向」「あたしがキャワイイと思う方向」には、心が動いてない事だけは、分かる。
 あたしはこういうの、慣れてない。
 どうすればいいのか(泣)?
 こんな話もした。
「あたしのお母さんはねえ、レジで店員さんがバーコードを読み込むスーパーマーケットみたいなお店に行くと、お買い物かごの中に、買う商品を、バーコードを読み込みやすいように並べて置いて、レジに差し出すの。そんな事しなくていいとも思うけど、お母さん優しいのよね。あたしお母さんが、大好きなの。本当のホントのこと言うと、あたしちょっとマザコンなの。実は強烈なだけど」
 こんな話もした。
「あたしね、出来ればだけど、こんなお付き合いが理想なの。『最初に付き合ったのが旦那様で、最初はしつこくされて、少し重かったけど、まあいいかって付き合ってみたら、これが案外良かったの。離れられなくなって、結局そのまま結婚しちゃったの。正直今も、あんまり贅沢はさせてもらえないけど、幸せじゃないと言ったら、嘘になる…。あたしたち、他の人と付き合ったことがないの。あたしたち、いつも馬が合って、仲が良くて、喧嘩したり、やきもち焼いたり、仲直りしたいなあって胸を痛めたことが、一度もないの』とか人に言って、表では『良かったわねえ。良縁で』とか言われつつ、心の中ではみんなに大顰蹙(だいひんしゅく)を買うようなのが、いいの」
 両親のことである。
 娘におのろけしないでよね、お母さん。
 我ながらトホホという気持になる、話にならない出鱈目な2人だか、正直羨ましくもある。
 大津くんは、これも興味深そうに熱心に耳を傾けてくれていたけど、「正木陽菜はカワユキュン」と思う的には、心にヒットしなかった。
 駄目だあ…。
 陽菜っぴ大苦戦中。
 この大魚、なかなか釣れない。
 テケショー!
 少し諦めて、雑談しようと思って、言った。
「でも松本の叔父さん、なんで今回の『タカハシ宝石店が強盗に遭いました事件』に、こんなに関われるのかなあ。だって松本の叔父さん、警視庁で港湾部に、勤めてるんでしょう? 東京湾の安全運航のお仕事してると思うんだけどね。いまいち腑に落ちないの、あたし」
 すると大津くんは結構ヒットしたみたいに、
「ふふふ」って、…笑って、
「違うよ、陽菜ちゃん、松本さんが勤めているのは、公安部だよ。ほらドラマとかで、時々出てくるでしょ。こうわんじゃなくて、こうあん。凄いエリートなんだよ、かなり。地域の安全を守る所轄署ではなくて、広域の国家を脅かすような勢力の犯罪を、取り締まる部署。本当は公安に配属されたら、それは秘密にするんだけどね。陽菜ちゃんも、聞いた事あるでしょ?」と言った。
 あたしは聞いている途中から、カアッと顔が熱くなるのが、分かった。
 知ってた。
 そう言えば。
 聞いた事あった。
 恥ずかしい。
 そうだったのか。
 思い出しました。
 死にたいです。
 でもそのあと大津くんが「可愛いなあ、陽菜ちゃんは」と言いながら、あたしの頭をポンポン叩いてくれたのには、言いたいことがあった。
 なんて歯も浮くような、甘い、女ったらしと言いますか、気障(きざ)な、人の心をとろかすような事、言うんですか。
「可愛いなあ、陽菜ちゃんは」とか、言っては駄目だ。
 そんなのは駄目だ、絶対に駄目だ。
 港湾部と公安部を勘違いしていたことが分かって、恥ずかしいと動揺して、グラッときたところに、ガーンとヘビーパンチをぶつけて来たよ、この世界一の色男は。
 (とろ)けそう。
 本当にもうダメ。
 年上の男の魅力って、こんなに破壊力があるのか…。
 と思ったところで、
「あっ、催眠解けちゃったみたいだな。下手だなあ、僕はまだ」
 大津くんはそう言って、また、
「陽菜ちゃん、今は宝石店タカハシの宝石が盗まれた事件に、集中しようよ。もっと落ち着いて。ため口でいいよ」
 と言い、あたしの目をジッと見詰めながら、あたしのおでこをツン、と人差し指で優しく突いてくれた。
 あたしは再び、催眠術に掛けられた自覚は十分あるけど解けない、「大津くんにラブな気持が封印されたような状態」になって、落ち着いた。
「松本さんのことだけど、公務員の世界って、誰が出世するか、かなり若いうちから、決まってるらしいんだけど。松本さんは、もう将来の警察庁長官か警視総監が確実って言われてる、凄い人らしいよ。これは、他の人から聞いた話だけど」と大津くん。
「いやいやそれは、ないでしょう」とあたし。
 松本の叔父さんは確かに35才くらいで、大人の世界ではまだ若いのは分かるけど、ボーッとした人だ。
 どちらかと言うと「ガツガツいけいけ」の前のめりな積極攻撃姿勢を基本としたような奇人変人が多いうちの家系で、静かに目立たなくしている、穏やかなおじさん。
 本当かなあと、あたしは半信半疑だった。

 空港に着いて、松本の叔父さんでも良かったけど、柳町のお爺ちゃんに、電話した。
『明日は土曜日で、学校は休みだね? 午前9時に、うちに来て。明日は勝負の日だぞ』
『分かりました!』
 もうだいぶ夜も更けていた。
「大津くん…」
「今調べたけど、日吉までのタクシー代は、これで足りるはずだよ。はい」
「ありがとう。大津くん…」
「今日は本当に、お疲れ様でした」
「うん。それで大津くん…」
「明日また会えるよ」
「良かった! そうなのね」
 あたしが一番求めるポイントを、キッチリ把握して会話してくれる。
 敵わないなあ、もうダーリンには。
 頭がいい。 
 性格がいい。
 かっこいい。
 全てがいい人だ。
 帰宅して、夕飯を食べながら、お母さんには手短にだけど、大体全部包み隠さず説明してから、お風呂入って、疲れてすぐ寝た。
 どうせ嘘をついても、大体全部バレるので、嘘はつかない事にしてるんだ。
 嘘つきは、どっかで死ぬしね。

 次の日は朝7時に起きて、朝ごはん食べて、気合マンマンでお家を出た。
 田園調布のお爺ちゃんのお家に、ちゃんと時間通りに着いた。
「よく来てくれました! 私のお姫様!」
「大津くんは? 大津くんいないの?」
「あとで合流するよ」
 ちょっとムッとした顔になり、お爺ちゃんは答えた。
「じゃ、出かけよう」
 お爺ちゃんと出かけたのは、歩いて行ける、多摩川の河川敷だった。
 気持ち良く晴れた日だった。
「昔は江戸川ジャイアンツの2軍グラウンドが、この辺にあったんだよ。実はお爺ちゃんは大学時代に同好会でサッカーをしてて、すぐ隣の区営サッカーグラウンドで、球蹴りしてたんだ」
 そうですか。
「それじゃあ、これから特訓を始めるよ。今晩、陽菜ちゃんと大津くんで、宝石を取り戻しに行ってもらうからね。そのための、防御術の練習。手拳の練習。透明粉の扱い方。手炎術の練習。以上を2時間でマスターしてもらうからね」
「どういうことですか?」
「だから、防衛術と手拳と手炎術と透明粉の使い方を、練習するんだよ」
「お爺ちゃん、あなたはいったい、何を言ってるんですか?」
「陽菜ちゃん、だからうちの先祖は昔々は『安部』という名字だったって、言ったことがあったよね?(覚えてません) つまり、安倍(あべの)晴明(せいめい)が、ご先祖様。つまりうちは、陰陽師(おんみょうじ)、早く言えば魔法使いの家系なんじゃよ」
 あのさあ、お爺ちゃん…。
 なんかそういう感じは、してたけどさあ…。
「分かってくれたかな、お姫様。わしのペンネームが柳町声明(せいめい)なのも、そこから取ったんじゃよ。今までマスコミに公表したことは、一度もなかったがの。さあ、厳しく2時間やるのじゃ。気を引き締めて、鍛錬するのじゃぞ」
 話し言葉も「仙人調」に、突然なってるし。
「がの」って言ったよ今この人。「がの」って。
 よく見れば、広い河川敷に、人っ子一人いないし。
 魔法ですか、これも。
「そうだよ、魔法だよ」
 突然背後から話しかけられて、あたしは超絶ビックラこいた。
 松本の叔父さんがいつの間にか、いつものようにボーッとした顔のまま、そこに立っていたのだった。

「かいつまんで言うと、昨日大津くんと陽菜ちゃんのお手柄で、古川達也容疑者の犯行だと、分かったんだ。でも彼は、もう宝石15点を、手放していた。ネットのやり取りも、お金の動きも、全部、確認した。それが警視庁が昨晩、夜中(よるぢゅう)かけて調べた事なんだ。今、それらが仕舞われている金庫の場所も、分かっている。ただ下手に動くと、また別の隠し場所に、移動されてしまう。そうなったら、高橋家は間違いなく破産だ。それは僕ら身内的にまずいから、『今日の夕方に、陽菜ちゃんと正木君が急襲して奪還するのが、最善策だ』という結論に、達したんだよ」
 いつものようにボーッとした顔のまま、それだけ話した。
 後から考えたら、心の中の呟きがなぜ聞こえてしまったのか、分からなかったけど。
 まあいいけど。
「それじゃあ陽菜ちゃん、始めるぞ」
 あたしはまず防衛術と手拳の基本の動きを教わったのだけど、あたしは体育で5しか取ったことが無いので、これは簡単だった。
 その次に、透明粉の扱い方だけど、これは漢方薬の紙包みたいなのを、自分の頭のてっぺんから振りかければ、30分ほど透明人間になれる、というものだった。
 ほんの少しだけを、手の先に掛けると、あらまっ、不思議。
 確かにそこだけ、透明になった。
 何度か手で払うと、見えるように戻った、あたしの指。
「これ、本当にすごいね…」
(これはカネになるんちゃうか?)という思いをたっぷり込めて言ったが、お爺ちゃんは、
「そうじゃろ。そうじゃろ」と仙人言葉のまま、返事をくれただけだった。
どうやら仙人モードにいったん入ると、言葉遣いだけ戻るとかは、出来ないらしい。
「これって、成分は何なの?」
「よくぞ聞いてくれましたなのじゃ。実はそれほど難しい話じゃないんじゃ。1リットル当たり、砂糖を19グラム、塩を17グラム、胡椒を4グラム、本当に本当にナノグラム単位まで精密に測って、溶かし込むんじゃ」
「そ、それだけで出来るの?」
「あと、リュウグウノツカイという魚のエラと、越前のオオスズメバチの女王バチの触覚と、富士山の頂上の岩砂と、琵琶湖の湖底の藻と、伊勢神宮の護符を焼却した煤を、混ぜて煎じ詰めたら完成じゃ」
「なぜ2段階で言う?」
「1つだけ注意してほしい事がある。この粉は水に弱い。水を浴びるとたちまち見えるようになってしまうから、くれぐれも気をつけるのじゃぞ」
「まあ屋内で使うんでしょ。それは大丈夫じゃないの?」
 ともかく、大津くんの分と合わせて、2包分を渡された。
「ただこれは、誰でも使えるわけではないのじゃぞ。おおむね15才から45才の、健康な肉体、妖力がある人。その条件を満たした人にしか、使えないのじゃ」
お爺ちゃんは顎の下あたりをこすりながら、つまりなんだかそこに長い顎髭があるような夢想につかりながら、話している。
「まだ陽菜ちゃんは11才。大津くんは13才、それは分かっている、しかし我が孫娘の正木陽菜は千年に1人の逸材、大津くんは鬼のかけ…、いや何でもないがの。ともかく2人とも、まだ15才まではいっていないけれども飛び級でこの透明粉が使えることは、ハッキリしているのじゃ。安心しなさい」
 なんだよ、その千年に1人って。
 知らんよ、あたし。
 まあでも、じゃあそれでもいいや。
 
 レッスンの最後は、手炎の術だった。
 またこれも、妖力のあるおおむね15才から45才の人にしか、出来ない技だという。
 まずお(へそ)の下のところ、丹田(下丹田)に力を入れる。
 自分の両腕をボクサーのガードみたいに身体の前に立たせた後、その周りの「輝く虹色のパワー」を意識しながら、それを吸収して集約する意識を持つ。
 そして両腕を滑らかに回転するように、身体の前方に運ぶ。
 そして「四方精霊 烈熱強勢 行火行炎 前方噴射 号暴! 雄爆!」と言いながら、両手を合わせて前を差すようにする、のだそうだ。
 あたしはやってみた。
「雄爆!」と言い終わった瞬間、なんか両手が妙に冷たくなって、圧迫された感じになって、その次の瞬間、全身が溶けそうに熱くなって、ブワワーッ、ゴーッ! と両手が大きな真っ赤な炎に包まれて、そこから炎の塊が、前方に太く飛び出して行った。
「なんやねんこれ。すげえ。(カネになりそう)。驚いた」
 あたしが言うと、
「うんうん、なかなか、上手い、上手い。さすが陽菜ちゃん。最初の一撃から、こんなに威力があるのを撃てるなんて、さすがは天照大御神の生まれかわ…。いやなんでもない。ただ、えーっと。もうちょっとだけ、両手を絞るように合わせたら、もっと威力も方向性も増すよ。こんな風に」 
 シュバーッ! ドゴーン!
 松本の叔父さんは事もなげに、同じ技をやって見せる。
 確かに威力も、直進性も、明らかにあたしより上の火球だった。
 あたしは「こう?」と言いながら、もう一発撃ってみる。
 シューッ! ズゴーン!
「そ、そ、そ、そ。やっぱり筋がいいなあ。飲み込み早いね、陽菜ちゃん。肘の当たりをもう少し締めてみて」
 叔父さんは姪っ子に、手取り足取り、おだてたりもしながら、丁寧に指導してくれた。
 柳町のお爺ちゃんは、「わしはもうその技は卒業して、撃てないんじゃ」と言って、見ているだけだ。
 松本の叔父さんが、忠実な一番弟子さん、アシスタントと言う感じで、あたしに教えてくれたのだった。
 この技は、連射性は弱くて、1分間に1回くらいしか撃てない。
 あたしは負けず嫌いだから、30回くらい撃って、松本の叔父さんに負けない火球を、なんとか出せるようになった。
 シュバーッ! ドゴーン! って。
「よしっと。これぐらいで、いいでしょう」
 最後まで飄々(ひょうひょう)と、あたしに指導してくれた、松本師範代だった。

「じゃあ練習は、これで終わりにするのぅ」
 お爺ちゃんはそう言うと、まるで大きな(透明な)カーテンを空中からサーッと取り外すような仕草をした。
 すると多摩川河川敷に突然、数十人の散歩したり、日光浴したり、キャッチボールしたりする人が現れて、あたしはビックリした。
 そこに、突っ立っている少年が、一人いた。
 ありゃりゃ。
 高橋大和くんじゃないですか。
 本当のホントは、微かに好きピだったんだけど、大津くんと出会ってしまったからには、もうあたしにとって、過去の(ひと)ではある。
 ただし親戚だし、同い年だし、これからも仲良くしていかなければならない。
「よう。どしたん?」とあたし。
「えっとね。僕ね、陽菜ちゃんの役に立ちたいと、思って…」
「何言ってんのよ、あんた?」
 よく見ると、ほんの少しだけ、目が虚ろだ。
 何があった、高橋大和。
 うちの家系は、(あたしは大したことはないと思うのだが)、「容貌には悩むことがない家系」で(柳町のお爺ちゃんの言葉だ)、少しは美男美女の集まりであり、大和くんもなかなか麗しいお顔をした美少年だと思っていたのだが、今よく見たら、コアラかウサギみたいな顔をしていた。
 やはり、大津くんの敵ではない。
 まったく全然。
 そのコアラが、ポーッとした眠気混じりの顔に、なっていた。
「つまり、こういうことだよ。大和くんはここに、自分が持ってる妖力を、陽菜ちゃんに渡しに来てくれたんだ。まあ僕が、催眠(ゆうどう)したんだけどね」
 柳町のお爺ちゃんが言った。
 仙人言葉は、なんか治ってる。
「もちろん大和くんが、死ぬようなことはない。妖力は数日で回復する。ただ今の限度いっぱい吸収して、陽菜ちゃんがエネルギー充填すればいい。もっとも大和くんの妖力は、陽菜ちゃんの5分の1くらいしかないが、なにかの足しには、なるでしょう。陽菜ちゃん、ちょっと大和くんと、ハグをして」
(つまり、もう毒液を注入されて仮死状態になった昆虫を食べる女郎蜘蛛みたいな感じですかね?)と思いながら、大和くんにハグをした。
 あたしより今はまだ5センチくらい低い大和くんだけど、ちょっとだけドキドキした。
 特に何かを、感じはしなかった。
 強いて言えば、ちょっと指先がピリッとしたかな?
 ただ、大和くんはかなり、グッタリしてしまった。
 高橋大和くんは、柳町のお爺ちゃんが一旦収容。
 一休みさせてから、「宝石店タカハシ」に連れ帰る。
 あたし正木陽菜は、松本の叔父さんが、クルマで都心に送ってゆく。
 と決まり、即時作戦は実行に移された。

 松本の叔父さんのクルマは、古いフランス車のプジョロエンだ。
 もうかなり長いこと、この愛車に乗っている。
 正直なところ、乗り心地はイマイチだ。
 揺すられる。
 ケツが痛い。
 まあ、いいけど。
「このあと、お昼食べようか。戦闘前だから、なるべく豪華なのを食べよう。そしておおむね午後3時に、銀座の近くで、大津くんと陽菜ちゃんは合流する。そして午後4時に、宝石奪還作戦を敢行してもらう。ねえ陽菜ちゃん、いま練習で、疲れたでしょ? 少し寝たらどうかな?」
(ケツが痛いからムリ)と思ったのだが、地面にポッカリ空いた巨大暗闇穴に引きずり込まれるように、あたしはすぐに眠りに落ちてしまった。

「陽菜ちゃん、起きて。食事処についたよ」
 気が付くとあたしたちの乗るポンコツ車(言っちゃった)は、マックの駐車場に止まっていた。
 あたしは松本の叔父さんから、「なるべく豪華なの」、ビッグマックセットを、ご馳走してもらった。
 知ってた。
 松本の叔父さんは、決してケチではなかったが、結構貧乏だ。
「ちゃんと全部食べてね」とかいう言い方に、ほんの微かに、出ていったお金に対する未練が感じられた。
 本人は、チーズバーガーセットを食べている。
 しかも両方とも、スマホアプリの割引クーポンを利用していた。
 泣ける。
 終わったな、日本の警察。
 安月給で、こき使っているらしい。
 それはともかく、松本の叔父さんは「ランチミーティングするよ」と言って、いろいろ話し始めた。
「昨日陽菜ちゃんたちが見つけてくれた古川容疑者は、24才のフリーターで、前科3犯のコソ泥だったよ。でも、競馬やパチンコで負けた借金がかさんで、返済できなくなって、悪の一味に命令されて、今回の強盗に及んだらしい」
「それでいま宝石は、銀座の外れにある関東最大の反社会組織、またの名を暴力団、郡司連合会の本部ビルの別館の倉庫に収まっている。大津くんと陽菜ちゃんには、そこを急襲してもらう。手筈は整っている」
「なぜそういう風に頼むかと言うと、これは恥ずかしい話だけど、警察の内部の情報が洩れている。賄賂をもらって、そういう事をする悪徳刑事が、何人かうちの中にいるんだ。いずれなんとか一掃しようとは、僕も考えているんだけどね」
「だから、警察が令状を取って踏み込んで捜査しようとしても、宝石はその直前に、よそに移されてしまう可能性が高いんだ」
「その代わり警察も、郡司連合会には、スパイを送り込んでいる。金庫の開ける手順も、現場に潜入する直前には、伝えてもらえるからね」
「なぜ今日の午後4時かと言うと、陰陽道の占いからだよ。もちろん宝石が処分される前に、一刻も早く取り戻したいという事もあるけど、今日の(さる)の刻に2人が忍び入れば、必ず上手く行くという吉兆が示された。柳町のお爺ちゃんの占いは必ず当たるから、安心して。信じてくれていいよ」
「ウッキッキー! 分かりました!」
「まあたまに外れるけど」
(ギャフン。みたいな…)

 マックは苦しゅうない美味しさだったから、良かった。
 たっぷり食休みも取って、トイレに入ってスッキリして、駐車場まで出てきた。
 テクテク短い距離を歩いていると、松本の叔父さんが、急に立ち止まった。
「待って。やはりもう少し、陽菜ちゃんの妖力パワーを、高めておいた方がいいかも知れないな」
「ねえ叔父さん、叔父さんも、予知能力あるの?」
「んん。(『うん』らしい)。予知能力や読心術。それに千里眼に、僕の得意は集約されていると言っても、過言はないんだけどね」
「そうですか(さっきの手炎の術も、凄かったけどなあ)」
「じゃあさ、陽菜ちゃん、さっき大和くんにしたのと同じように、僕にハグして。僕が今持ってるパワーの、半分くらいを上げるから。ただ、人前で少女にハグされるのは恥ずかしいから、お誕生日プレゼントに図書券あげる。陽菜ちゃんは確か、来週お誕生日だよね? だから、それで行こう。『叔父さん、誕生日プレゼント、ありがとう!』と言いながら、軽くハグして」
 松本の叔父さんは、胸ポケットから本当に図書カードらしきものを取り出して、あたしにくれた。
 用意がいい人だ。
 それに確かにあたしは来週、お誕生日を迎える。
 よくそこまで覚えているなあ。
 図書カードをもらえて、嬉しかった。
 5千円分。
 それで、
「叔父さん、誕生日プレゼント、ありがとう!」
 もらった図書カードをまだ手に持ったまま、そこそこ感情をこめて、大きな声で言いながら、叔父さんにハグをした。
 まだ151センチしかないあたしより、頭一つ分大きい…
「ピャギーーーーーー!」
 その瞬間、物凄い電気ショックみたいなのが、身体中にビリビリビリって走って、あたしは死ぬかと思った。
「ごめん、ごめん。でも確かに、妖力はあげたからね。今日はしっかり頑張って」
(覚えとけよ…)
 あたしは心の中で悪態をつきながら、5千円もらったので文句も言えず、叔父さんに、
「うん、頑張る」と言った。
 20億円の宝石奪還の報酬としては、ちと割に合わない気もするのだが、まあ良いこととしよう。
「なるべくためになる、良い本を買ってね」とかいう言い方に、ほんの微かに出ていったお金に対する未練が感じられた。
 涙なしには聞けない。
「ところで陽菜ちゃん、足のサイズ、なに?」
「今25くらいかな」
「ふうん。大きいね。背が高くなりそうだ」
「ほどほどでとどめたいとは、思ってるの」
(大津くん170強くらいだからね。あんまり伸びるとヤバイ。ああ惚れた女なんて、本当に弱いものね…。あれ? あたしの心の中に、何か落ちてるよ? ああ! これが乙女心というやつか…。ふふふ、こんにちは、あたしの乙女心さん。以後よろしくね)
「大津くんのこと、気に入った?」
「いちいち人の心の中読むの、止めてもらっていいですか?」
 叔父と姪は、ダラダラした会話をしながら、オンボロ車の中に入った。

 郡司連合会の本部の別館の前を低スピードで素通りして、少し行ったところで、プジョロエンの小さなクルマは止まった。
「あそこ。あと30分したら、頑張ってね。もうあと数分で、ここにトヨツ自動車の黒いミニバンが来る。そして女の人が陽菜ちゃんを見詰めるから、乗って」
「その人は誰ですか?」
「照屋さんと言う人で、うちの捜査官。陽菜ちゃんに少しだけ、メイクをしてもらおうと思ってるんだ」
「はあ」
「その方が良いという直感。そして10分後には、大津くんが来るからね」
(ヤッター!)
「そして20分後には、下山という、郡司連合会に潜入しているうちの捜査官が来て、君たちに金庫の開け方を書いたメモをそっと渡すから、頑張って」
「り」
「頑張って」
「頑張ります」
「だから頑張って」
「だから頑張るってば」
「だから降りて。照屋さん来ちゃうよ」
「降りるの?」
「僕はもう帰るから」
 ということで、氷山のように冷たい、暖かい血が流れているとは到底思えない叔父は、可愛い姪っ子を1人置いて、とっとと帰ってしまった。
 銀座の外れの方の通りに、1人残されたあたし。
 それにしても東京は、立派なビルがたくさん建ってるなあ。
 このへんは高級商店街と言うよりは、少しオフィス街になりかける、混ざったところみたいだけど、なんでこんなに会社って多いんだろ。
 なんでこんなにお仕事がたくさんあって、人の働き口があるのか、イマイチ子供のあたしには、分からない。
 まあ、ヤクザさんみたいなお仕事もあるし、色々なのかな。
 そんなことを、思っていた。
 郡司連合会の別館のビルは、なんかゴツイ。
 カーキ色で、ピカピカ光っていて、超頑丈そうで、威圧感があるビルだった。

 そんな事を思っていたら、一瞬クルマのライトをハイビームにした後、近づいてくる黒いミニバンがあった。
(眩しいやんけ!)
 中からサングラスをかけた女の人が、こっちを見ている。
 あたしの前に横付けされたクルマ。
 彼女が下りてくるのを待っていると、「乗って、乗って」と口が動いていた。
 後席の方を指さしながらそう言っているので、後席のスライドドアをガシャーと開けて、乗りこんだ。
 彼女は前席から移ってきて、
「照屋。メイクする」
 と言って、すぐにあたしに化粧を始めた。
 なにか悪意があるみたいに乱暴に、いやまあ素早くやろうとしてるだけなんだろうけど、顔をボコボコ殴られてるよう。
 ものすごい速さで、手を動かしている。
 腕が4本あるのか、この人は、的な。
 まず顔をグシャグシャに拭かれる。
 そしてチークとアイシャドウと口紅くらい。
 あっという間に、終わった。
 その間、「ちょっとジッとしててね。あらー、似合う、似合う。大人っぽくなった。綺麗よー、陽菜ちゃん」みたいなの、一切なし。
 ぶっきらぼうとか無口と言うより、ちょっとコミュ障気味なんじゃないかなあ、この人。
 あたしはそう思いながら、顔をタコ殴りされていた。
 そして最後に、あたしのブラウスの胸のボタンを急に外して、あたしのAカップのブラジャーに、手を掛けた。
(なにすんねん!)
(やめんかいゴルァ!)
(いてもうたろか!)
 浪花タイガースの選手が死球(デッドボール)を受けた瞬間に、ネット上に何百も一斉に湧き上がる文字、みたいな感じで、あたしは思った。
 そしてあたしの、あるかないかくらいのふくらみの胸に、手を当てる。
 これは一体、どういうことですか?
 だがそこで、照屋さんのしようとしていることは、分かった。
 胸パッドだった。
「1枚じゃちょっと足りないな。2枚入れちゃえ。ナンクルナイサー」
 とかブツブツ呟きながら、あたしの胸の大増量作戦を、実行したのだった。
 そしてウイッグ。
 茶色い髪色のセミロングのカツラを、あたしの頭にかぶせて、パンパンバシバシ、叩きつけたのであった。
「あとこれ履いて。25。7センチのパンプス」
 すぐにバッシュは脱がされ、ちょっとおしゃれなハイヒールの靴を、履かされた。
「降りていいよ」
 照屋さんはそう言って、あたしを車外に放り出すと、最後のご挨拶も抜きに、さっさと去って行ってしまった。

(なんて人だ。あまりにも強引だったんや)
 あたしは憤懣(ふんまん)やるかたない気持で、照屋さんへの殺意を、(たぎ)らせていた。
 一方、小学生の化粧とか大嫌いなあたしの両親が、こんな姿のあたしを見たら、即刻あたしは頭を叩き割られて、天国へと旅立つでしょう。
 でも、すぐ目の前にある黒いショーウィンドウを見て、あたしは口をあんぐりさせた。
 大人の女の人が、映っている。
 照屋美容部員さん、腕は確かだった。
(おっ、ハクい姉ちゃんやんけ。…これあたし? ビックラこいたー)
 そもそも7センチのヒールのある靴だと、目線が全然違う。
 歩きにくいけど。
 今までと感覚が違う。
 素晴らしい。
 まったく大人だ。
 これが大人の視線だ。
 これは革命的だ!
 あたしは自分がいきなり20才くらいの「いい女」になってしまった事に、驚き、呆れ、顔が火照っていた。

「陽菜ちゃん、だよね?」
 そこで大津くんに、声を掛けられた。
 はあん、一日ぶりの再会。
 この時を待ちわびていました。
 相変わらず凛々しいなあ。
 だけど。
 こんな姿の自分を見られて、嬉しや、恥ずかしや。
「松本の叔父さんに、こうさせられたの。自分の意志じゃないの」
「そうだろうね。でも似合ってるよ」
「ありがとう」
「なるべく表情や、立ち振る舞いも、それっぽくね」
「うん、分かった」
 昨日よりもだいぶ顔の位置が近い。
 これが恋人たちの世界か。
 なんてロマンチックな感じなんだろう。
 一人ですっかり陶酔するあたし。
 あたしは実のところ、さっき照屋さんに頭をバンバン叩かれた時に、催眠術は解けたようで、今はインドの踊り子が何十人も円を作って腰をくねらせて踊っているように心がときめいていたのだけど、大津くんにバレてまた催眠術に掛けられるのも、もったいない気がしたので、今回はそーっと、秘密にしておいた。
 あたしと大津くんと言えども、今はまだ他人の関係。
 一緒に柳町姓になるまでは、熾烈な心理戦が、繰り広げられているのでした。
(と一人で思っているあたしは、「お前、アホやろ!」と関西風の突っ込みを入れられるのは、避けられないところだけど)
 あたしは大津くん(リーダー)に、今日の午前中の特訓、格闘術や、透明粉、手炎術の話を、手短にした。そして透明粉の1包を、大津くんに手渡したのだった。
「手炎術は、僕も松本さんから教わっていて、使えるよ。陽菜ちゃん、(さる)の刻になったら、一緒に頑張ろうね」と、大津くんは言った。

 そこでいきなり、大柄なガタイの、人相がキツい、ガラの悪そうな服を着た、怖そうな男の人に、声を掛けられた。
 あたしたちはヤクザに、因縁を付けられたのだ!
「大津くんと、正木さんだよね?」
 ビビったあ。
 因縁を付けられたんじゃなかった。
「下山。頑張って。今日で自分は、潜入捜査は終わりだな。長かったよ。5年間。解かれるきっかけをくれて、ありがとな。死なないでな」
 それだけ言って、大津くんの手に紙一枚と、金庫のカギを押し付けると、ヤクザ風に肩で風を切って、のしのし歩き去って行った。
 とても清々(せいせい)して、気分が軽やかそうだった。
 行き先が、警視庁の方角に向かっていたかどうかは、あたしには分からない。
 早くその歩き方が元に戻るようにと、あたしは祈るばかりであった。

 さあ(さる)の刻が、いよいよやって来ました。
 大津くんとあたしは、郡司連合会本部ビルの別館のすぐ近くまで、そっと接近してゆく。
 あたしが小学生から、大人の女の人風の格好になった効果は、この時に生きたと言えば、生きたのかもしれない。
 何しろ、こんな物騒な場所に、小学生のガキがいたら、怪しまれるからね。
 そして、直前の脇道にサッと入って、2人とも透明粉を、自分に振りかけた。
 見事に透明化に成功! あたしたちは、手をつないで、ビルに入っていく。
 ビルの入り口に、見張りのあんちゃんがいたが、ソーッと素通りする。
 パンプスは音が出やすいが、この靴は音が出にくいようなゴム付きの(かかと)になってるし、ゆっくり歩きだし、あたしは運動神経が良い。
 問題なく、通過することが出来ました。
 エレベーターが、誰もいないのに開かれた(あたしたちが乗った)。
 地下一階に、下りてゆく。
 左に曲がって、そのまま直進。
 問題は、1つだけ扉を、開けなければいけない事。
 でも、そーっと開けた。
 上手くやった。
 ばれなかった。
 そこには大金庫の銀ピカの扉が、2メートルくらいの開口部で、そびえている。
 そこまで、何もドアが無い、トンネルみたいな廊下が、10メートルくらい続いていた。
 ここには、レーザービームの防犯(セキュリティー)がある。
 敵も大組織だけあって、なかなかハイテクが好きだ。
 しかし光線数は少ない。
 あたしや大津くんがそれを(また)いだり、(くぐ)れば、どうにか侵入できるものだった。
 あたしたちは特殊サングラスをつける。
 抜かりはない。
 このサングラスにも、透明粉は掛けてある。
 エッコラショと跨ぐ。
 ドッコイショと潜る。
 マンボーダンスみたいにして、下を抜けたのもあった。
 3分も経たずに、扉の前まで到着できた。
 よーしよし、あとは暗証番号8桁を入力して、鍵を回せば、扉は開く。
 大津くんとあたしは、とっても成功感に満たされた!
 ただそこで、何気なく見上げた天井に、ジジジジ…と音をしながら回転する、監視カメラが見えた。
「どうすんのこれ?」とあたしは小声で、大津くんに囁く。
「どうしようもない」と大津くんが、小声で囁き返した。
 下山さんが、悪いのか?
 他の誰かが、悪いのか?
 あたしたちは直前に、金庫まで行って開ける手順を、紙で受け取ったのだ。
 悪くない、あたしたちは絶対、悪くない。
 透明粉を使って、人が見えなくなって潜入しても、最後にこんな大扉が開くのが、警備室の監視モニターに映ったら、見つかって、人が来るじゃんかあ!

「もうここまで来たら、やるしかないよ。サッと扉を開けて、サッと取り出そう。いい? 陽菜ちゃん。扉が開くのが見つかって、ヤクザたちが下りてきても、僕たちは見えないんだからね。そこだけは、忘れないでね」
 大津くんは素早く、暗証番号を入力。
 鍵を開けて、巨大な厚い金庫扉を開けた。
 あたしが先ず最初に、お宝とご対面。
 それからすぐ大津くんが並んで、お宝を目にした。
 現金や株券や、ピストルやマシンガンに混じって。
 あたしたちのターゲット、宝石店タカハシから略奪されて、ここに移送されていた宝石さんたちは、みなさん揃って、キチンといらしたのでした。
 ダイヤやルビーの指輪やネックレス。
 大粒で、とっても綺麗だった。
 大津くんが大急ぎで、それを全て回収して、透明になっているバッグの中に仕舞った。
 その時、ジリリリリ! ジリリリリ! というけたたましい音がした!
 ヤバイ、見つかってしまった!
 たくさんの人の足音が、聞こえてきた。
 バタバタバタッと、5人も乗り込んできた。
 レーザーセキュリティーは切られたけど、身動きが出来ない。
「宝石が、ありません!」
 1人が叫ぶと、彼らに動揺が、広がった。
 さらに数人、降りてきた。
 数えきれない。
 拳銃を、持っている。
「探せ! まだ近くにいるはずだ! 追え! 追え!」
 ウリャ! 
 オリャ! 
 とか言いながら、半分以上が、1階に駈け上がってゆく。
 だが一番偉そうな人は、頭が良さそうで、
「なにか、おかしい。金庫の中に、まだ隠れてないか? このB1に、まだ隠れてないか? お前ら徹底的に、探せ! 草の根分けても、探し出せ!」
(草なんて生えてませんよ~。草)
 強がって思ったが、追い詰められていた。
 1人のヤクザが、この廊下の隅々まで見てやるという風に、キョロキョロ嗅ぎ回りながら、こっちに近づいてくる。
「陽菜ちゃん」と小さく囁いてから、大津くんがあたしの手を離した。
 そのことであたし、正木陽菜は、心拍数が上限まで達し、(後から考えれば)よけようと思えばよけられたかなと思えたその、ぶつかりそうに近づいてくる相手に向かって、
「四方精霊 烈熱強勢 行火行炎 前方噴射」
と言う。
「陽菜ちゃん、だめだ、やめて」
 という大津くんの声が聞こえたけど、あたしはもう止まらない。
 たくさんエネルギー充填した。
 心も体も、爆発寸前だったのだ。
「号暴! 雄爆!」
 その声とともに、手炎を発射する。
 シュバーッ! ドゴーン!
 炎に包まれる、被害者男性1名。
(これでも手加減してあげた。命は助かるだろう)
 なんて思っていたところで、シャーッと突然、雨が降ってきた。
 あかん! 
 あかんことになった!
 スプリンクラーが、あたしの火球の熱を感知して、作動してしまったのだ。
(あー、やっちゃった! あたしのバカ!)
 思った時には、もう遅かった。
 身体中から、水がボタボタと、したたり落ちる。
 そしてあたしと大津くんの透明な全身は、見る見る、見えるようになってしまったのだった。
 あたしたちは捕らえられ、縄で縛られ、敵の現場ボスの、厳しい言葉を浴びたのだった。
「ほう、女か。とびきりの美人だな、二十歳くらいか。売り飛ばせば、とんでもねえ高値が付きそうだ。だが俺は、容赦はしねえんだよ、お姉ちゃん。この郡司連合会の大金庫に押し入った女などは、どんなことがあっても、許さねえ。こっちの弟みたいなのと2人、この場で始末してやる。ほら見てみろ、周りの子分どもも、こんな水も(したた)るいい女を始末するなんて、もったいないことするなあ、って顔してるだろ? だがやるんだよ! この場でやる! 俺の流儀だ。宝石も回収できたしな。もうお前らに、聞くことなんて、何もねえんだ! 残念だったな。お前ら、銃を構えろ。撃てと言ったら、撃て!」
(ああ、もしかしたら、こんな大人の格好しないで、子供の姿のままなら、助かったかもしれないのね。ふふふ。照屋さんのバカ。松本の叔父さんのバカ)
 あたしは心の中で、心から嘆いていた。
「それじゃあ行くぜ。10、9、8、7、6、…」
(ああ、大津くんと結婚したい人生だった。そして柳町のお爺ちゃんの莫大な遺産を相続して、ハズバンドと一緒に、楽した人生を送りたい人生だった…。さようなら、正木陽菜。短くも楽しい一生だったよ…)
 妥協なんて一切しない、プロのヤクザさんは、カウントダウンを続けてゆく。
「…3、2、1、撃て!」
 バキューン!
 6人の構えた銃、6発の銃弾が、大津くんとあたしの、身体に向かって飛んでくる。
だがその弾丸は、あたしたちの30センチ手前で、全部止まった。
「う、撃て!」
 バキューン!
 空中で弾丸は、止まった。
「う、撃て! 撃て! 撃て!」
 バキューン!
 空中で弾丸は、止まった。
 そこで敵の皆さんは、みんなバタバタと倒れていった。

 透明なカーテンを払うようにして現れたのは、柳町のお爺ちゃんと、松本の叔父さんだった。
「お爺ちゃん! 叔父さん! 助けに来てくれたのね」
「もちろんだとも。私のお姫様」
「怪我はない? 陽菜ちゃん」
 あたしは2人に、飛びついた。
 でもお爺ちゃんに、何か生気がない。
 少しやつれて見える。
 お顔の影が、濃く見える。
「どうしたの、お爺ちゃん…」
「いやなにね。弾丸を跳ね飛ばすには、1発当たり1年の、寿命を使うんじゃ。…今、18発くらいの銃弾を跳ね飛ばしたから、だいぶライフポイントを、使ってしまったんじゃ。どうやら、お別れの時が来たようじゃ。陽菜ちゃん、幸せに生きるんじゃぞ…」
「お爺ちゃん! お爺ちゃん! お爺ちゃん! 死んじゃやだ! 死んじゃやだ! 死んじゃやだ! エーン、エーン!」
「なーんちゃって。嘘ーそぴょん!」
「お爺ちゃん! ド突いたろかあ!」
 そこで大津くんが
「ほらほらそこの、お2人さん。こんなところで、じゃれあってないで。ともかくここを出ましょう」と、冷静に言ってくれた。
 本当にさすがだ。
 大津くんだけが、まともな大人だ。
 あたしもお爺ちゃんが始めた小芝居に付き合わされて、困っていたところだったの。
 でもそこで、松本の叔父さんが
「だがその前に。陽菜ちゃん、隠してる奴、出そうか?」と言った。
「あれ、バレましたあ? テヘへッ」
 あたしは観念して、ちょっとチョロまかしてやるつもりだった、一番小さなダイヤの指輪と、百万円の束1つ、胸のパッド2枚重ねの下から出して、皆さんにお返ししたのだった。

 こうして事件は、一件落着。
 宝石店タカハシは無事に宝石を回収して、今も潰れないで、商売を続けられている。
 警察は捜査3課(窃盗担当)と捜査4課(暴力団担当)の合同捜査で早期解決に至ったということで、お手柄の事件となった。
 松本の叔父さんは、功績は他の課に譲ったが、事件解決を裏で糸引いたと噂され、また評価を高めたという感じらしかった。
 あたしは相変わらず、クラスの最大派閥のボスとして、静かに堂々と、君臨している。
 大津くん? あたしから逃げ回っている(何しろ連絡先を、交換しそこねた)。
 でもまた事件があったら、2人でやってもらうかも知れないと、松本の叔父さんから約束をもらっていて、あたしは虎視眈々と、その機会を待っているところなんだ。
                                                


第1.5話 陽菜ちゃんの大冒険② 大津くんを探し出せ!
            秒で撃沈されちゃった、ぴえーんの巻

 そんなことであたし正木陽菜は、大津くんとの再会の日を、一日千秋の想いで待ちわびながら、小学校6年生の生活を、送っていたのでありました。
 ある日、授業中に、
「あ、あ、あ、あ、ウギャーッ! そうだったー!」と、思わず立ち上がりながら、叫んでしまった少女がおりました。
 私であります。
 正木陽菜であります。
 あたしがクラスのボスでなければ、イジメの対象になったかもしれない、素っ頓狂な声を、上げてしまいました。
 そうだった。
 大津くんは松本の叔父さんの「ご近所さん」だと、確かにハッキリ言っていました。
 先日はあまりに目まぐるしく激動した宝石奪還劇だったので、そこのところを、忘れていました。
 ああ、あたしのバカバカバカ!

 しかし、でーあーれーばー。
「獰猛な肉食獣」の名をほしいままにするあたし、正木陽菜が、どうして狩りに出ないわけがありましょう?
 あたしはその週末、こういう時のために(主に)お爺ちゃんから貰ってせっせと貯めたいたおこずかい、秘密工作資金のうち、思い切って3万円も本棚から出した。
「遊びに行ってくる」と言うと、お母さんにたちどころに(やましいことをしていると)バレるので、言おうとした時にお母さんはたまたま見つからなかったという体(てい)にして、黙って出かけた。
 行先は、松濤(しょうとう)町。
 日本で一番、もしくは関西の六麓荘(ろくろくそう)町と並ぶと言われる、豪邸街であります。
 松本の叔父さんは入り婿であって、何か大したことをしたわけではないけれど。
 なんと渋谷の繁華街から、ちょっとだけ入ったところにあるのが、憎いポイントだ。
 その町に一歩足を踏み入れた途端、「ふざけるな」と言いたくなる、途轍もない大豪邸が並んでいる。
 あたしは今まで、松本の叔父さんのお家には、何回か遊びに行ったことがあるけど。
 松本の叔父さんは、奥さん(一人娘)のご家族の「苗字を守りたい」という願いを受けて、柳町姓とお別れして松本家に入ったという、ストーリーはあるのだけど。
 ドーンと建っている松本家の豪邸を目の前にしてみると、松本の叔父さんは(案外ちゃっかりしている、計算高い、抜け目ない人だなあ)とも、思えてくるのでした。
 今日もその前を、(なかなかだな)と羨ましく思いながら、通過したのでした。
 神奈川県の日吉にあるあたしのお家は、本当に普通のお家だ。
 田園調布にある柳町のお爺ちゃんのお家は大きいけど、やや松本家に負けるかな。
 ここ松濤の町並みは、道路際に高い壁がワニャーンと(そび)え立っていて、それぞれのお屋敷の一階部分とかは、全く見えない。
 田園調布の町並みは、それぞれのお家の洒落た、素敵なお庭が見えるようになっている造りで、人間味があるのよね。
 同じ豪邸街と言っても、全然違うなあ。
 ここ松濤は、どちらかと言うと、宇宙人の住んでる町みたいだなあ…。
 自分を誤魔化すために、そんな事を考えていたあたしは、そこで
(ワーン!)と泣き声を上げた。
「松本の叔父さんのご近所さん」と言うから、大津くんのお家は、松本の叔父さんのお家の周囲をチョロチョロ歩けば見つかると思っていた、あたしがバカでした。
 この町の、それぞれのお家の大きさが桁外れで、「ご近所を探す」というのは、途轍もない難行なのでした。
 どうする正木陽菜。
 ここまで来たのに…。
 そこであたしは、「フォースを信じるのじゃ」じゃないけれど、目を瞑り、大津くんのことをイメージして、ここからの方向を、感じることを試みた。
 何秒か道端で、瞼をパッチリ閉じて、真っ黒な世界で、感覚を研ぎすますと…。
 なんとなく、分かった。
 東西南北的な事は知らないけど、「あっちだ!」、あとほんの少し奥まで行ったところの方から、大津くんの男らしく高貴な輝きが、してくる気がしたのだ。

 それであたしは、新たに勇気が出て、その方向に歩み始めた。
 一区画、二区画、進んだところで、「なんじゃこりゃー」的な、途轍もない大きさの、図抜けて大きなお屋敷がありました。
 今までの高級邸宅の、10倍くらいの敷地の、ありえない豪華さの大豪邸だった。
 そのお家は、しかも尋常じゃない妖気が漂っている。
 冗談抜きで、黒雲がそのお家の上だけに浮かんでいて、お家のお庭のほうぼうから、黒い竜巻みたいなのが、その黒雲に向けて、ビュービューと吹きあがっていたのでした。
(どうすんのこれ)と、ビビリなあたしは、呆然と立ちすくむ。
 これはマジでヤバい。
 悪夢を見ているような、膨大な大地に聳え立つ、お城のようなお家でした。
 しかも、このお屋敷からこそ、大津くんの雰囲気が、漂っていたのでした。
 その瞬間、「陽菜ちゃん」と言われ、ポン、と肩を叩かれた。
「ヒャギー!」とあたしは声をあげ、ちょっと飛び上がって、ブルったのでした。
 でも振り向いた先にいたのは、ああ、愛しの君、大津くんでした。
 相変わらず、清潔感と優しさと凛々しさの、塊みたいな殿方。
 今日は開生中学の、制服らしいものを、着ておられる。
 似合う。
 本当に素敵な人だ。
 ただあたしは、まだパニクっていて、
「今、大津くんのお家が、黒い竜巻で、すごい迫力で、嵐みたいだったの」
 必死になって、言ってしまった。
 大津くんはフフッと笑って、
「何言ってるの。なんにも無いよ」と答えた。
 あたしがもう1回振り向くと、フェッ? そこにはあの黒々とした乱雲の下の怪奇な巨大邸宅など無く、道の向こうは松濤町とはかけ離れた、庶民の普通のお家が、果てしなく続いていたのでした。
「今日は、正木お嬢さまは、どのようなご用件で? 何しに来たの?」
「ま、松本の叔父さんの(うち)に、遊びに来たの」
「そっか。松本さん()はちょっと通り過ぎてるけど、迷っちゃったのかな?」
「そ、そうなんです」
(バレバレなのに、優しいな…)
「僕の家は、この先にあるけど、今日は陽菜ちゃんと僕は、近くの公園でお話しようね」
 そう言うと大津くんは、私を連れて、その普通住宅街の中の普通の公園へと、誘(いざな)ったのでした。

 ブランコと滑り台と鉄棒と砂場と、象さんとカバさんのなんとなく座れそうな置物。
 そんな感じのものを、樹木が取り囲み、陽だまりのベンチも見ているような公園。
 どこにでもある感じの、こじんまりとした公園でした。
 大津くんとあたしは、そのベンチに座って、お話を始めた。
「今日は天気が良くて、気持ちがいいね」
「うん…」
 あたしは自分がしおらしくする方じゃないと思っていたけど、やはり大津くんの前では胸が詰まって、言葉が出てこない。
(ああ、本当の愛を知ってしまったあたしは、もう以前とは変わってしまったのね)
 そういうことを少し、思っていました。
 ともかく猛烈に、心が浮き立って幸せで、もうどうしようもないほど、全身が熱かった。
 大津くんは学生カバンから、オレンジジュースを出して、あたしにくれた。
 美味しい。
 まだ十分、冷えていた。
 大津くんは自分では、「ごめん、これ高いやつなんだけど。自分だけ」
 と言って、何かスタミナドリンクだか、漢方系のドリンクだか、確かに高価そうな黒い缶のドリンクを、ゴクゴクと美味しそうに、飲んでいた。 
 あたしたちは30分くらいは、ベンチに2人で座って、お話をした。
 この前の宝石店タカハシから盗まれた宝石の奪還作戦をした時のこと。
 もちろん2人が共通して好きな、ミズワニ弾丸団テラスとか、そのほかの音楽アーチストの話も、盛り上がった。
 好きな食べ物やスポーツや、お友達と話す事などを聞かれました。
(ああ、なんて楽しいひと時なんだろう…。今日のことは、たぶん一生忘れないな…)
とあたしは、思っていたの。

 ただそこで大津くんが、
「さてと…、身体も十分暖まってきたし。陽菜ちゃん、一緒に、ラジオ体操しない?」
 と妙なことを、言い出しました。
「ラジオ体操(笑)? 大津くん、変なこと言うのね」
「うん(笑)。ま、いいや、すぐ終わるから、ちょっと見てて」
 大津くんは無理強(むりじ)いはしないで、1人で体操を始めました。
 あたしは、もし強く誘われても、断ったかも知れなかった。
 会話が楽しくて、身体が痺れて、立ち上がれないほどだったから。そして、
「きみのことを、みていたかったから」
 清純な日差しを浴びて、制服の中に隠した引き締まった筋肉が、規則的に動いている。
 うっすらと汗ばんでいるのだろうか、その輝きが、生地越しに見えているようだ。
 若い肉体が、力感に溢れて、青春のダンスを踊るように、嬉々として躍動している。
 なんちって。
 ではあるのですが、大津くんのラジオ体操は、本当に魅力的だった。
(そう言えば、さっきから公園の中、誰もいないな…)
 あたしはそこでふと、そのことに気がついた。
 あたしと大津くんのデートを、邪魔しないでくれて、神様ありがとう。
 …ん? そう言えば、公園の脇の道も、ずっと誰も通らないし。クルマも。
 …ん? なんかこれ、嫌な予感がする。
 前にも、こういう事があったな。
 これはもしかして、あたし魔術の中に、(はま)ってます?
(しまった! やられた!)
 あたしがそう気がついた時に、大津くんが気合満々で、ベンチに戻ってきた。
「ただいま(笑)。さてと…。それじゃあ陽菜ちゃん、そろそろ、大事なことを言うよ。こっち向いて」
 大津くんはそう言って、100万人に1人くらいの、麗しいお顔を、あたしの方に向け、何でも見通すような神秘的な、美しい両目で、あたしの顔を、直視したのでした。
 普通なら、
(キスされるかな?)とか思うところだが、普通じゃない事は、もう分かっていた。
 あたしは雁字搦(がんじがら)めにされて大グモに食べられてしまうキリギリスのようになり、もう一切の身動きが、出来なかったのであります。
 そして大津くんは、なかなかに強めの力で、あたしのおでこをツン、ツンと人差し指で突きながら、こう言ったのでした。
「いい、陽菜ちゃん? 君はこれから二十歳(はたち)になるまで、僕のことは、思い出せない。物理的にも、僕とは会えない。万が一僕と会っても、僕を人として認識できず、何も感じない。分かったね?」
「君が二十歳になってから、再会できるのを、楽しみにしているよ。本当のことを言うと、僕は君に、興味はあるんだ。僕は…。鬼の家系だ。そして陽菜ちゃんは…、この業界の人ならもう誰でも知っている、天照大御神の再来…、まあそれはいいけど。本来なら僕の家系より、ワンランクもツーランクも上の、高貴なお血筋なんだ。そう、圧倒的な、ハイパーランクの人だ」
「君のことを、奪いに行きたい気持はある…。でもだからこそ、まだ早いんだ。だから僕は、今日は大技を掛けた。君は、二十歳になるまで、僕のことは忘れる。運命的にも、会えない。会えたとしても、認識できない。いいね? 分かったね? ハイ、終了!」
 パチン! と音がして、あたしは目が覚めた。
 微睡(まどろ)んでいたようにも思えるし、ほんの次の一瞬のようにも思える。
 ともかくあたしは、日吉のお家の近くの公園のベンチの上で、目が覚めたのでした。
 なんだか身体が軽いな、なにか爽快で、心の中から何かとても重要なものを、バッサリと落としたような気も、していました。
 て言うか、あたし、何してたんだっけ?
 思い出せない…。
 まあ、いいや。
 明日からも頑張ろう。
 あたしはそう思いながら、家路についたのでした。

(テケショー! 覚えてろよ! あたしの大好きなダーリン、大津兄貴(ニキ)(そう言えば下の名前知らないな。呪術に掛けられにくいように、教えてくれないのか?)! 二十歳になったら絶対に、あんたの彼女になったるわい! 覚えてろよー!)
 これはあたしの心の奥深くに沈みこめられた、あたしの中のあたしの呟きだ。
 (わめ)き散らしだ。
 怨嗟(えんさ)の言葉だ。
 本当の本心だ。
(テケショー! 許さないー! あたしの大好きな愛しの君、大津くん(そう言えば下の名前なんて言うんだろう? 呪術に掛けられにくいように、隠してるのか?)! ああ、手に入れたい、いつか必ず、あんたと愛しあうー! 絶対にー!)
 毎日、毎日、心の奥深くで、とぐろを巻いている。
 本当に毎日、毎日、地団太踏んで、ブーたれてる。
 同じような言葉を、繰り返してる。
 毎日だ。
 心の底で。
 あたしも霊力があるから、心の奥深くでは、そう思えているのだ。
 ただし表面上の意識の上には、一切現れない、言葉たちなのでした。
(それにしても、見事に討ち取られた。く、悔しいです…。『秒で撃沈されちゃった、ぴえーんの巻』という感じよね。悔しくて、夜も眠れない。これは1話もない、0.5話くらいの話だな。無念であります!)
(だけど、あたしは決めたんだ! あたしは将来、必ず、二十歳になって大津くんの魔法が解けたら、大津くんとタッグを組んで、沢山の物語を、(つむ)いでやる! 沢山の、沢山の、何十話もの事件を解決して、悪い奴らを、根こそぎ捕まえてやる! そして恋に落ちて…。エヘッ、食べちゃうぞ~! 覚えてろよ~、愛しの君、大津くん! 大好きだぞー! テケショー! テケショー!)
 あたしは心の奥底で、毎日そうプンプンして思いながら、健全で楽しい小学生生活を、送っているのでした。
 今のところね。
                                      


第2.5話 高校生刑事の初仕事

 びっくりした。
 家に帰ると、大津がいた。
 妹の部屋の中にいた。
 正確には、3日連続だ。
 驚いたというより、呆れた。
 俺、激おこまる。
 大津はいわゆる「噂の転校生」である。
 転入試験は、かなりの好成績だったらしい。
 大したことは無いが、いわゆる美少年系の顔をしており、我が湘南宝光学園高校の、なんでしょう尻軽って言うですか? 
 目ざとくミーハーな女子が3学年にまたがって、数十人くらい即死しそうに、夢中になってる案件である。
 それで言い忘れたが俺、石原拓也が主将をしているサッカー部に入部して、一日練習を終えたらコーチが、レギュラークラスに認定した選手である。
 入部申込書によると、身長は172センチ。ドヤァ! 俺の方が1センチ高い。
 まあ俺の顔は、ジャガイモ顔(男らしい顔と言っとくれ)だけどさぁ。
 俺は練習が終わった後、同じ3年生部員のダチたちと、1時間ぐらい部室でダべってから、帰宅したのだが。
 許しがたいぞ大津、なんかもう1時間くらいは妹の部屋にいるような雰囲気で、喋っている。

 そういうわけで俺は、玄関に大津の靴があるのを見た後、なぜでしょう、何かコソコソ泥棒みたいに音を潜めて、抜き足差し足、俺の部屋にそーっと帰還した。
 俺んちはごく庶民の家。
 俺の二階の部屋の隣が、妹の部屋である。
 妹の名前は、麗奈(れな)って言う。
 俺はコップを手に取り、壁に当てて、そこに耳を付けた。
 これが実は、なかなか高性能の盗聴器になるって寸法だ。
(まあ俺ん家が、壁が薄い安普請なせいだけど)。
 麗奈と大津は永遠のように、イチャイチャ喋っている。
「ねえオー君、一番好きな季節はなに?」
「やっぱり春かな。希望にあふれている感じがする」
「そうよね(嬉しそう)! あたしも春が好き!」
「でもさ、少しずつ寒くなっていく今の季節も…、ストイックな感じがして、嫌いじゃないけどね。レナちゃんにも会えたし」
「あたしも、秋も好き(嬉しそう)!」
「でも来年の夏は、レナちゃんと海に行きたいし、今度の冬も、レナちゃんとスキー場とか行けたらいいね」
「連れてって! 絶対行きたい(超嬉しそう)」
「レナちゃんの水着が見たいな」
「いやーん、オー君たら(幸せで死にそうな妹)」
 2人とも、まだ高校2年生である。
 段々俺は、ムカつきMAXになってきた。
 まだ大津が転校してきてから、3週間しか経ってない。
 なんでこいつら、こんなに和気藹々と、仲良いんだ?
 兄の沽券が、行方不明! ふざけるな!
 大体、「海に行きたい」とか言って、海ならほぼほぼ目の前にあるじゃねーか、ボケ!
 頃すぞ!(俺の心の中で、「頃すぞ」という謎の漢字があり、よく使われている)。
 話の合間に麗奈は、
「オー君と話してると、ほんと楽しいなあ…。オー君、お話上手いんだもん」とか言ってる。
 大津はなーんにも面白いことなんて言ってないだろ、アホ女(俺はギリギリ歯ぎしりする)。
「僕はレナちゃんと、ずっとバカップルしてたいな…」
「あたしも…」
「レナちゃんはもう僕に、捕まっちゃったんだからね。逃がさないわよ」
「あたし逃げる気持ちなんて、ひとっつもないもん」
「レナちゃん…」
「オー君…」
 もう頃す、絶対頃す! 俺は机の引き出しをガシャッと開けた。
 何か人を頃せる道具はないか! 
 あった! 
 サクラ拳銃が! 
 と思ったがそれは幻で、特に何もなかった。
 その瞬間、俺はふと(これは、ネットか何かでAIで作った架空会話に、二人の音声をかぶせ、俺に聞かせて、実は他の事をしているのではないか?)と思い立った。
 シャー! 
 謎は解けた! 
 見抜いたぞ、大津! 
 我が妹、麗奈!

 ちょうどその時に、2人のAI会話の声が止まった。
 次の瞬間、俺の中で奇跡的な、俺のスペックを超える、物凄い速さの神判断が働き、俺は閃光のような速度で壁から離れて、机の前に座った。
 次の瞬間、ノックも無しにガチャッとドアが開き、
「お兄ちゃーん」
「石原先輩どうも」
 と2人が、いきなり入ってきた。
「おう、来てたのか」
「はい、お邪魔してました」
「俺はたった今、帰って来たとこだ。よく分かったな」
「……あれ? お兄ちゃん、コップが落ちてるよ」
「えっ? あふあふっ、なんでだろ?」
「拾って差し上げます、先輩」
「いいよ」と言わせない素早さで、大津がコップを拾い、麗奈に渡した。
「あれ、お兄ちゃん、このコップ、なんか暖かい。汗みたいなの付いてるよ」
「い、いや、気のせいだろ」
「ふふふ」
「じゃあ先輩、今日はこれで失礼します」
「お、おう」
「あっ、先輩。……もし何か不測の事態があったら、警察ではなく、僕の携帯に、すぐ電話して下さいね」
 大津がシュッと右手を中空に払いながら、そう言った瞬間、なにかレモンのような匂いがして、心臓が一瞬だけキュッと締め付けられ、脳の中で何かが、ドロッと溶けた気がした。
 これは恋?
「おう、分かった」と答える俺。
「下まで送っていくね」と麗奈。
 玄関先でまた
「オーちゃん、またね」
「……(聞こえなかった)」
「いやーん、アハハハハ! じゃーねー、また明日ー」
 みたいな会話が聞こえた後、大津は帰っていった。
 麗奈が俺の部屋の前を素通りしそうになるところを「おい、妹!」と俺は呼び止め、ちょっと部屋に入らせた。
「なんでしょう、兄上」
「お前、不純異性交遊、いい加減にしろよ」
「そんなんじゃないよ、ただ勉強教えてもらっただけ」
「そんな会話してなかっただろ」と言いかけて、俺は慌てて止めた。
「お兄ちゃん、あれして」
「あれか? ああいいよ」
 頭を撫でてやる。
「お前って、ほんとカワチイなあ」
「にゃんにゃん」
 ああ、この世で一番可愛いこの子が、俺がこの世でただ一人、愛せないと決まっている女の子だとは。
 神様のバカバカ。
 俺は透き通るような白い肌、青い目と金色の髪の美少女を見つめながら、なおも頭をナデナデした。
 人には聞かせられない「仲のいい兄妹の会話」をしながら。
 麗奈とは血はつながっていない。
 俺たちは義理の兄妹だ。
 麗奈は人種的には、全くの白人だ。
 日本で育ったせいか、身長は160ちょっとだ。
 日本は日照時間が長いからな。
 かわちい。
 意志が強いようなキリッとした目元口元。
 巫女さんのような女剣士のような。
 神秘的な顔をした一品である。
 亡くなった俺の親父が、学生時代に大親友だった麗奈の父と母が、同時に事故で死んで、アメリカから引き取る人が誰も来ず、麗奈は5才の時から、俺の妹になった。
 麗奈は基本、日本語しか話せない。
 国籍は日本人だ。
 俺は麗奈がうちに来るとき、親父から「本当の妹だと思って、可愛がるんだぞ」と、きつく言われた。
 親父が3年前に癌で亡くなる時にも、「麗奈をお前の命に代えても、絶対に守ってくれよ」と死に際に、何度も言われた。
 ほやけんワイは、(ワイの命に代えても、絶対にこの子を守り抜く)と、決めているんや。
 そういうこっちゃ。
 最初は、辛かったぁ。
 こいつがうちに来た頃には、俺は既に何十回と会っていた
(こいつと、結婚しよう)
 と決めていたので、その決意を完全に封印するのは、本当にきつかった。
 当時6才だったが。
 だが俺も男だ。
 それは絶対の誓いである。
 俺たちの母は、駅前の本屋の店長をしている。
 連日帰りが遅い。日付が変わってから、帰ってくる毎日だ。
 朝も早い。毎日過酷な労働に耐え、俺たちを育ててくれている。
 週末はともかく、平日はあんまり顔を合わせない。
 俺たちは母が作ってくれた夕食を温めて食べた後、風呂に別々に入って(当たり前)テレビ見て寝た。
 
 翌日の授業は、普通に終わった。
 俺はいつも窓際の席を取るのだが、授業内容、晴れ渡る青空、流れてゆく雲、今日の練習、今週末の湘南工業高校戦、大津や麗奈の事、迫りつつある大学受験、その他色んな事を考えたり感じたりしながら、うつらうつらしていた。
 俺はこの湘南宝光学園が好きだ。
 ただ、今日何の授業を受けたかは、よく覚えてない。
 シャーペンを鼻と口の間に挟んで、タコみたいな口をして、ひたすら外を見ていた。
 校庭と道一つ離れた砂浜、そして海岸。
 好き。
 今日は金曜日だ。日曜日は正月の国立に通じる選手権の予選。
 本校のグラウンドだ。
 あと10回ほど勝てば、高校日本一だ。
(ムリ)。
 明日は校庭は、この学校法人がゆかりの深い東欧のルボシア共和国がらみの何かの記念式典があって、グラウンドでは練習できない。
 俺はサッカーで大学に進めるほどの身体的能力はないし、もちろんJリーグに入れるわけもない。
 学力だって、東大に行けるほどはない。
 でもね? 
 和瀬田とか慶心なら、本当にまかり間違えば、入れるかも…ってとこ。
 ちょっとは頭いいのよー、俺。
 でもそれは、入試問題がメチャクチャ嵌まぅたら…。
 くらいだからなあ。
 無理に決まってるじゃん。
 浪人するのかなあ…。
 そのへんがもし俺を入れてくれなかったら、現役では大学行かん。
 ワイは、決めてるんや!
 あーでもでも。
 分からないかなあ…。
 平和だなあ。
 今見えてる青空になりたい、白雲になりたい。
 気持ち良さそうに飛んでるカモメになりたい。
 煌めく海になりたい…。
(湘南宝光学園も、俺んちと同様に、ほぼ海沿いにあった)。
 要するに、俺以外の何かになりたい。
 今が非常に充実しているわけじゃあないが、このまま時間が永遠に止まって欲しい。
 止まってくれないんだけどね、時間って。
 ハー、どうしよう。
 ぶっちゃけ「妹と同学年になるのが異常に嫌」なんだよね。
 それだけは、絶対に嫌。
 年子の妹がいる兄以外には、絶対に、分からない気持なんだろうけど。
 それはもう、絶対に嫌。
 個人の感性、なのだろうけどね…。
 ハーどうしましょ、どうしましょ。
 私はこれから、どうなるの? 
 そもそも私って、誰?
 等と考えているうちに、授業は終わった。
 今日も何か学んだ感じ、しなかったなー。テヘッ。

 部室に入って、着替えてグラウンドへ。
 だんだん元気が(みなぎ)ってくる。
 そりゃまあ、明後日負けたら引退なんだから、やっぱ今は、球蹴りちゃんに熱中もするさ!
 チームは緊張に満ちているものの、フィットネス温存で軽めの練習。
 しかし細かくマンツーマンディフェンス、シュート練習、実戦形式の練習。
 何をやらせても、大津が目立つ。
 大津に球が集まるのは、(こいつに渡せば何とかなる)という認識が、チームに「甘え」のように広がっているからだった。
 全くこいつらときたら。
 馬鹿の一つ覚えみたいに、大津に回す。
 そりゃあキラーパスにしろ、ぶっこ抜きシュートにしろ、大津に回せば、かなり局面打開されるけどね。
 最上級生の意地ってないのかね、このチームは3年生は。
 10人そうなんだけど! 
 あっ、ボールが俺んとこ来た。
 んじゃと。
 んしょ。
 取りあえず、大津にパスするか。
 って、うぉーい。俺!
 次の瞬間、トラップから素早く振り向いた大津の足先から閃光のように振り抜かれた球は、ディフェンスの足先をすり抜け、バシーンと見事にゴールに吸い込まれた。
 ボディーバランス、スピード、シュート力、コントロール、全て抜群だ。
 あー俺の全身、ピリピリ痺れてるぅ…。
 試合だったら、俺にアシストが付くって計算だ。
 こりゃあみんなが恥知らずにポンポコ大津に球を集めるのも、分かるわ…。
 こういう時はとりあえず、パスした奴の頭の中は、得も言われぬ満足感で満ちている。
 体幹が強い。
 トラップもビタ止め。
 大津は、ドリブルも足にボールが吸い付くようだし、ゴール前の嗅覚も凄い。
 ボールがセンタリングされる数秒前から、「その地点」に向けて一人弾丸みたいに、突撃してゆく感じ。
 オー君、やっぱ好き。
 あいちてゆ。
 言いたくもなる。
 これは恋? 
 いや、それだけは無い!
 しかし地区予選で5連敗中の湘南工業高校に、今年こそ勝てるかもだ。
 肩でも揉んだろか。
 クックックッ。
 棚から牡丹餅ではあるが、我がチームの秘密兵器。
 本当に凄げえ奴が来てくれたなと、思い知らされる。
 そんなことで今日は、2時間くらい練習する。
 もちろん疲労が残らないように、まあ調整の軽めの練習。
 楽しもう。
 出し切ろう。

 俺たちの練習には、ドローンの空撮がついていた。
 フォーメーションの研究を、みんなでする。
 物理が担当の我が校の名物教師の一人、蟹埼先生。
 良くは知らないが、日本でも指折りのドローンの使い手という事で、何十回も大会で優勝している。
 太陽と仲良くしながら、チョロチョロ飛び回り、俺たちのチームを研究する、黒い小型ドローン、クロドロ号。
 失点はよくセンターバック(つまり俺)のポジショニングの悪さが原因だという結論を出すのは、少々憎らしいが、チームに良く貢献してくれている。
 蟹埼先生、今日までありがと。
 サッカー部は、感謝してます。
 と言うか、我が校の「理系の先生とか、理系の生徒とか、理系のサークル」を隠然とまとめる、総大将的なポジションにいる。
 年齢は50才くらい。身長は190くらいある。
 いつも白衣を着てる。
 すごい鉤鼻で堀が深く、メガネは冷徹な感じだ。
 ラジコン部の顧問をしている。
 とそこに、我が校のもう1人の名物教師、名取先生まで現れた。
 愛犬の真っ黒いシェパードの、ニコニコ丸を連れてだ。
 このワン公が、また凄い優秀な競技犬で、これも俺は良く知らないけど、アジリティーとかフライングディスクとか、ドッグスポーツの6種類のうちのいくつかで、大会チャンピオンのトロフィーを何十個も手にしているらしい(前足だなお前のは)、優秀な奴だ。
 ここまで言えば、あとは分かるでしょ?
 名取先生は「文系の先生とか、文系の生徒とか、文系のサークル」を隠然とまとめる、総大将的なポジションにいる。
 人間関係的に、逆らえないらしい。
 本人は、生物部の顧問である。
 授業では、英語を担当している。
 そこまでは良いのだが…。
 ハッキリ言ってこの2人(の仲の悪さ)は学園中の認識事項で、テレビ湘南とかテレビ横浜でも、紹介されちった事もある。
 名取先生も50代か。
 ただしお餅のように丸いツヤツヤ顔、身長は160くらい、そのへんは蟹埼先生と対照的。
 おもろい先生たちだ。
 会うとすぐさま、喧嘩を始める2人。
 なんでやねん的に、いつも。
 それも「文系と理系はどちらが良いか」とか「文系と理系の部の予算割り当てをもっとうちに有利にしろ」とかならまだ可愛い方で、今なんかは
「蟹埼先生、鼻毛が伸びてますな。人を不快にさせますな。教師たるものもう少し、対人関係に気遣いを持つべきです」
「すみません名取先生。先生の後頭部から放たれる光の強さ眩しさも、実は他人に多大な迷惑を掛けてるという、気づきが欲しいですが」
 とか、泣けてくるほど下らない口撃で、いがみ合っている。
 本当に仲の悪い2人だった。

「ワン、ワン!」
 ニコニコ丸が、俺に吠えてみせる。
 この犬は、犬にしておくのが勿体ないほど性格が良く、みんなに好かれている人気犬だ。
 今も俺に、愛想を見せてくれた。
 と思ったら、それは間違いで、
 出たー! 
 最終ボスキャラ登場。
 ニコニコ丸が今愛想を振りまいたのは、グラウンドの横を通りかかった、我が校の絶対プリンセスの、御所園(ごしょぞの)美姫(みく)さまだった。
 相変わらずオーラが凄い。
 オーラがもう酷い。
 当学園の創設者・理事長の血筋にして、両親早逝で現役JK(言い方はしたないかな?)つまり現役の当校生徒にして、理事長代理。
 しかも全国の完全トップ頂点におわします、あの国立か、あの私立の医学部に合格A判定しか出さない、全国模試結果。
 学校のジャケット制服着てるのに、極端に華麗に見える。
 薄く口紅とかアイシャドウをして、ヒールの高いパンプスはいて、胸元にネックレスしてるのは、なんとなーくだが、校則違反のような気もするけれど、誰も何も言わない。
「治外法権」「絶対領域」「不可侵聖域」「特例措置」「聖域」「神様」といった言葉とは、こういうものなのか…。
 御所園美姫さまを見ていると、しみじみと感じざるを得ないのである。
 身長も高くて、スタイル抜群、和洋折衷の怜悧な顔立ち。
 湘南宝光学園の奥にある瀟洒な洋館は、彼女の居宅である。
 学園理事長館。
 彼女は女王様だ。
 だが、それでいて性格も全然悪くはなく、ただ高貴なご身分、高嶺の花みたいな存在であるがゆえに、庶民ごときが気安く話しかけられないだけの人だ。
 俺はC組で彼女はA組なので、あまりよく知らないが、クラスの1軍みたいな女子が3人、彼女の取り巻き・お付きの人みたいに、いつも同行している。
「あっ、お嬢様、お疲れ様です!」
「理事長、ご機嫌麗しゅう!」
(あんたたち今の今まで、凄絶に口汚く、いがみ合ってたやろが!)という俺の心の声など跳ねのけて、それこそピーン! と直立不動みたいにして、蟹埼先生も名取先生も、渾身の作り笑いをしている。
「どうもご苦労様です」と上品に会釈して、微笑んだ、御所園美姫さま。
 そして視線を凸凹先生の2人から移し、
「石原くん、明後日は頑張ってね」と言った。
 へっ? 
 石原って誰? 
 俺のこと見ながら言ってるよこの人。
 …な、何? 
 そ、それもしかして、俺のこと? 
 ギ、ギ、ギャー!
「は、はい、頑張ります!」
「地区予選に勝って、県大会まで行ってくれたら、来年の本校のパンフレットや、ネットのホームページの部活動紹介の写真、サッカー部に替えようかって案が出ているの。このところ野球部、弱いでしょ?」
 正直なところ、緊張と歓喜で身体中がプルップルと律動し、ゴウゴウと渦巻きながら、あまりにも当然に敬語とか使っちゃって、返事をする俺。
 後半のお話なんか、もうボワーッて身体が熱くなって、飛び上がりそうだった。
(生きてて、良かった…)。
 本当に、そう思った。
(生きてて、良かったよ…)。
 入学してから、苦節2年半以上。
 遂にお嬢と、お話しちゃったよ俺、まあちょっとだけど! 
 お嬢様、女王様! 
 しかも俺の名前を、知っててくれてたよ!
 まあ、ただサッカー部の主将だからだろうけど。
 俺、もういつ死んでも、良いんだけど! 
 お嬢万歳!
 お嬢様の顔にも胸にも、目を合わせられず、ワイは肩口のあたりの柔らかそうなふくらみを、恐れ多くも盗み見るようにしていた。
「…石原くん、聞いてる? 大津くんにも、お話させて?」
「…………、あ…、ハ、ハイッ!」
 その時俺は、イジケてしまい、
(ああ、ボクの世紀の恋は、10秒で撃沈されたでち。でもまた頑張るでち。良い夢見れました、ありがとう美姫ちゃんでち)と、ネットの子猫動画の気持の説明語みたいな感じで、心の中で呟いていた。
 それから、
「おーい、大津! ちょっと来ーい!」
 と、切れ気味に奴を呼びつけると、大津は100メートル8秒くらいの猛スピードで、すっ飛んできた。
「こちら、本校の学園長代理でかつ3年A組の、御所園美姫さんだ。知ってるよな? 御所園さん、大津です」
「ありがとう。初めまして、あなたが大津くんね。明後日の試合、頑張ってね」
「ありがとうございます」
「小さい時に、ご両親を亡くされて…、叔父さまに育てられたのね? 大変だったでしょうね」
「はい、そうです。いえ、優しい叔父で」
 知らなかった。
 俺は(そうだったんだ…)と思った。
「もし何か困ったことがあったら、何時でも相談してね。学園としても、個人的にも。きっと力になるわ」
「はい、ありがとうございます」
「夜の波止場とかで、デートしたいな。……あらごめんなさい。今読んでる小説の中の主人公に、大津くんが似てるから、つい変なこと言っちゃった」
 そこで従者のお付き3人が、楽しそうにウフフフと、ちょっと笑った。
「大津くん、好きな色は何? カラー」
「そうですね、雪原のような純白、とかでしょうか」
「ありがとう。変なこと聞いちゃって、ごめんなさいね。明後日の試合、本当に頑張ってね」
 そこまでの会話を楽しんだあと、「では、参りましょう」言って、お嬢さまは従者3人と新たに名物教師2人を引き連れて、優雅に去って行った。
「名取先生、蟹埼先生、明日は頑張ってね」
「はっ!」
「はっ!」
「明日のルボシア共和国歓迎式典で、(我が校の名物の)ニコニコ丸とクロドロ号の、競演演武があるの」
 そう振り返りながら、ニッコリ微笑んで、俺と大津に説明するお嬢様。
(あかーん! 可愛さ大反則!)
 あざといなぁぁああ。
 でも、何というキャワウィーさ!
 絶対に許しがたいほどの、突き抜けた可憐さであった。
 ギリギリだった。俺の目が潰れないで、本当に助かった。
 少女のような頑強なまでの純真さと、大人のような馥郁とした優雅さ、感じられた。
 素敵だなあ…。
 好き。
 そして「スクールカーストの頂点」なんて言葉も木端微塵になるような、学園長代理も務めている、高校3年生。
 なんか話とかした後で、呆然とするような虚脱感まで残してしまう、美姫お嬢様なのでありました。
 好き。
「キャプテン、あの人いま、ちょっとメッセージを残しましたね……」
 なにか大津が呟いたような気がしたが、こっちも今は圧倒的な感動の余韻に浸っていたので、話しかけないでほしかった。
 バカ。
 そのあと部室で、空撮映像を見ながら、フォーメーションの最終確認をした。
 あまりあけすけに、大津に球を集めすぎるなとか、色々指示が出る。
 アーリークロスは多めに入れる、偽サイドバック作戦もやる、など確認した。
 そのあと俺は、急いで帰宅した。
 
 大津が先に到着していることは。
 絶対にない。
 俺が「大試合を前に、下級生は部室の清掃をする」という我が部の伝統を、今日突然創設して、大津らに下命したからだ。
 ヘッヘッヘー! 
 勝ったー。
 今頃きゃつは、濡れ雑巾や(ほうき)と、格闘しているはずだ。
「我が妹よー。今日はお兄ちゃんの方が先に帰宅するぞー。ニヒッ、ニヒッ、あいつに意地悪しちゃった」
 自転車のサドルの上から、麗奈のスマホに、メッセージを送った。
 脳内エアでだが(本当にそんなの送ったら、顔を引っ搔かれちゃう)。
 自宅まで、あと100メートルくらい。
 その時、本当にほんとうの、緊急重大事件が起きた。
「虫の知らせ」という奴だろうか? 
 俺がフッ、と顔を上げて見た、俺ん家。
 その2階の奥の、麗奈の部屋。
 その窓が、ブワッと膨らんだように見え、そして閃光と爆音とともに、破裂したのだ。
 白煙が猛然と、上がっている。
 ベランダから部屋の中に、黒づくめの男が3人、一瞬で入っていく。(それは閃光の後から目に入った)。
 そして10秒の後には、麗奈の口を押え、ぐったりした身体を抱え上げ、ベランダから庭に次々と飛び降り、道に出て、デカい黒いミニバンの中に押し込み、猛スピードで去っていったのだった。
 信じられない事態が起きたが、逆に何か、パニくってはいない俺がいた。
 異常な緊迫感が、頭を熱くしている、心拍が鐘を打っている。
 しかし俺ん家に辿り着いた俺、逃走するミニバンは、もう見えなくなっている。
 麗奈の部屋まで、すっ飛んで上っていった。
 ああ、やはり部屋は、もぬけの殻だった。
 灯りのついてない部屋、ガラスが内側に散乱している、火薬の臭いがまだかなりする、カーテンが月夜に揺れていて、外を過ぎる自動車たちの音が、微かに聞こえていた。
 潮騒と潮の香りも初めて、俺の耳鼻に届き始めていた。
 ヘナヘナと座り込む俺、だんだん頭が麻痺してきた。
 警察に電話しないといけない、でも何番だっけ、頭がグラグラして思い出せない。
 それに「警察に通報する」という考えは何か、ガラスの部屋の中に蹲(うずくま)る俺みたいになっていて、頭と身体がそちらに動かない。
 その俺が、顔を上げて、俺に向かって(大津に、知らせろ)と口を動かしている。
 キーンて音がして、レモンの匂いがする。
 俺は「分かった」と起き上がり、麗奈のカバンを開く。
 スマホあり。
 大津を検索して『妹がさらわれた。助けちk』とメッセージを打った。
 だがそこで、俺は頭がきつく締められたようになり、世界が「グニャッ」と歪んで圧し潰され、膝が折れ、気絶して倒れこんだ、ようだった。

「石原先輩、石原先輩、起きて下さい、ほら起きろ」
 俺は大津に、頬を軽くパンパンされて起きた。
「おめえ覚えてろ」そして「来てくれてあんがと」そして「俺、気絶したと思うんだけど、メッセージ打ててた?」と、言った。
「ちゃんと届きましたよ、受信したのは今から6分前です。自転車で飛んできました」
 俺は出来うる限りの説明をした。
「分かりました。黒い大きなミニバンですね。じゃ対処します。電話しますけど、聞かなかったことに…、いや逆だな、音出しますから、ちょっと聞いてて下さい」
 そういうと大津は、自分のスマホを操作しだした。
「もしもし? あっ、櫛沼鑑識官さんですか? どーもー。オーツでーす。こんちゃ」
『おお、オーちゃん、元気? 久しぶり』
「お久しぶりです! やってる? やってる? 笑」
『暇よー。あんまりやってなーい。また今度遊ぼ。笑 どしたん?』
「でね。ちょっと調べて欲しいんですけどー。無理言って悪いんすけど、今私がいるところから神奈川全域で、トヨツ自動車のアルグランドの湘南さの555の39128。Nシステムで現在位置や経路とか、サクッと調べちゃってもらえます?」
『ふんふんふん、いいよ、いいよー』
「一応疑似番号AIチェックありで、成人男性3名か4名、16才少女1名が乗車と推定されてるんですけど、顔相の画像取れたらそれの追跡と、歩容認証追跡も付けて、お願いクレメンス」
『合点承知の助! お安い御用だ丸』
「神奈川エリアだし、Nシステムも、捜査支援分析も、乗り越え捜査になっちゃうと思うんですけど…」
『大丈夫、大丈夫、我が輩のパソコンちゃんは、何でも覗けるのだー。ワーハハハハハ! じゃあ暫く、時間頂戴ね』
「はい! よろちくびー」
『ウワッハハハ! ガチャ!』
饒舌(じょうぜつ)なようで、余計なことは聞かないでくれるのが良いよなあ、あの人…。分析官は奇人変人が多いけど」
 独り言を呟いている。
 俺は、
「あの、大津パイセン? 何やってんすか?」
 と聞いたが。
 大津はもう、次の電話を掛けていて、俺とは目線を合わせないまま「ちょっとスンマセン」みたいに手を振り、背中を向けて、もう新たな通話を開始していた。
「もしもし。認証コードを申します。桔梗チーム少年グループ3826519。鈴木管理官ですか? 警視庁高校の刑事比定の大津です。ご報告申し上げます。連携内偵しておりました、地域セル湘南のCが、被疑グループ周辺に、拉致された模様であります」
『そうですか』
「しかし、ただちに危害は加えられない状況と推定します。ただいま科捜研の櫛沼鑑識官に依頼、追跡捜査をお願い致しております。今しばらく内偵の態様で、事態把握をして頂きたく、お願い申し上げます」
『G事案じゃありませんね』
「はい」
『頑張って下さい。あなたのことは、信用しています。武具や警察手帳は携行してないですね。状況報告を怠らずに』
「御意でございます」
『……カチャ』
 俺はもう、何がなんだか分からず混乱して、頭の中が飽和状態になり、逆に詰まらない話から、口を開いた。
「お前ってさあ、相手によって話し方、かなり変えるよな。俺ちょっと、びっくりしちゃった」
「…そう感じられますか? やはりそうですよね? 自分でも、そうだと思います。ちょっと嫌な感じ、ですよね? 先輩、聞かれていて、不愉快でしたか? すみません! 私、少し傷つきましたが、納得します。それを恨んだりはしません。…はっきり言って、私も自分のそういうとこ、嫌いです。大嫌いです! いつもそう、強く自問自答しています。こんな事でいいのか? 良くありません。ええそうですとも! 良くありません! 良くないに決まってます! …でも、でもですね? そういう気持を乗り越えて、社会の中のより良き一員になろう、良き駒になろう、役割を果たそう、頑張って日々を生きよう。そう思って、今に至っています」
「だいぶ何言ってるのか分からない。お前、死ねばいいのに」
 そこでまた、大津のスマホが鳴った。
 大津は、メッセージを読みあげる。
「当該アルグランドは、貴地点から約2キロ南進した地点の影沼交差点以降、現状確認されず。監視続行中」
 大津は俺に聞かせるためか、
「ありがとうございます。監視解除していただいて、大丈夫かと思います。チュッ」
 と口で言いながら、メッセージを打った。
「ちょっと困りましたね。クルマは乗り換えたようです。アルグランドを隠して乗り捨てた場合、その後の車両は分かりません。この相手は、それぐらいはしてくる相手です。上手く行くかはわかりませんが、奥の手を使います」
 彼はそう言いながら、スマホをツンツンして、フリフリした。
「タクシーを呼びました。下まで行きましょう。道中いろいろと、ご説明します」
 言うと、自分の家みたいに「間取りはよく知ってる感」を出して、階段をスタスタ下りて行った。

「お前、俺と一緒に、麗奈探してくれるの?」
「もちろんです。お義兄さん。僕の愛する麗奈ちゃんの、お義兄さんですから」
「ありがと。だけど、1つだけ言ってもいい?」
「はい、何でしょう?」
「そのお義兄さんっての、ヤメテ、ヤメロ。今度言ったら、テメエ、頃すぞ。先輩か、キャプテンと言え!」
「分かりました」
「絶対だぞ」
「あ…、来ました」
(返事しやがらない…。食えない奴だな、ほんと)
 道路まで出て、俺たちがそれくらい話しているうちに、タクシーが来た。
(お前、恥ずかしくないの?)と聞きたいくらいに古い、トヨツのクラーラの、黄色いタクシーだった。
「吉野町の交差点まで、お願いします」
「はい」
 松本とかいう、浅黒いのに妙に印象に残らない顔の、30代くらいの運転手さんだった。吉野町はこの小さな市の、割合外れにある町だ。
「まず、何から説明しましょうか? アルグランドの件ですけど、これは先輩が、黒い大きなミニバンだと目撃してくれていた事で、あたりが付きました。たまたまですが、ナンバー覚えてました。先輩ありがとうございます」
「はあ…」
「あと、昨日も先輩のおうちの前に、止まってましたしね。元から内偵捜査の現場近辺で、たびたび目撃されてた、マーク車両だったんです」
「内偵捜査って、何?」
「その件ですけどね…。実は私、警察関係の『いわゆるバイト』みたいな事を、ちょこっとしてるんです」
「バイト?」
「ええ、いわゆるバイト。とりあえず、そう理解しておいてください」
「はあ…」
「それでですね…いいですかキャプテン、落ち着いて、ゆっくり聞いてください、気を確かに、はい、息を吸ってー、吐いてー」
「早く言え!」
「実は、麗奈さんも、そうなんです。絶対に秘密、家族にも秘密、そういう事で、新規に運営され始めたんです。詳しく言うと、麗奈さんは公安の本流が組成させている『地域セル』のメンバー。私は外事課が試行を開始した『少年育成桔梗グループ警視庁高校』のメンバーです。今回、協力して内偵をしてたんですが、実は…」
「…………ハァアアア? なんですとーーー! 何言ってんの、このウンコチンコ野郎! そんな事あるわけねえだろ、頃すぞ!」
「キャプテン、話を聞いて下さい。落ち着いて下さい。麗奈さんは、週3回ダンス教室に通われてるでしょ。それです」
「な、何言ってんだよお前、い、いつもちゃんとレッスンして、発表会とかにも、お、俺、いつも行ってるもん!」
「ふふふ…」大津は限りなく薄っぺらく両目と口を笑わせた後、今俺が話していた話題をぶった切って、
「それで先日、密輸内偵捜査で、深夜の波止場の倉庫に潜入した時、ブツの存在は確認できたんですが、ちょっと問題が発生しまして。つまりですね、僕が生徒手帳を、現場に落としたらしいんです」
「はあ…。それは間抜けだな!」
「すいません、言い間違えました。落としたのは麗奈ちゃんでした。(ムキッ)。ただ状況を総合的に判断して、麗奈ちゃんは攫(さら)われましたが、直ちに危害は加えられないと思っています。ただ、もちろん救出はしないといけません。それで今、有力な情報協力者のところに、向かっています」
「はあ…」

 とか話しているうちに、タクシーは止まった。
「それでは話の続きは、あとで。運転手さん、10分くらい、しばらく待っていてもらえます?」
 運転手さん、待っててくれですと?
 大津はなかなか俺には思いつかないような、世慣れた大人のような事を言って、タクシーを降りた。
 やや古いが、造りはしっかりしている感じ、6階建てくらいのマンション(レジデンス)が、目の前に建っていた。
 大津はスタスタとエレベーターに乗る。そして306号室へと直行した。
 ピンポーン。
 寝ぼけた顔をしたあんちゃんが、フラフラと出てきた。
 だが案外若い、もしかして、俺と同い年(タメ)くらいか?
「赤城さんいらっしゃいますか?」
 ごく穏やかに、大津がそう言う。
 ホエッ? 
 という感じで、やっと顔を上げて彼の顔を見た途端のことだった。
 あんちゃんは、目を真ん丸にし、
「そ、総長、お、お、大津さんが、お見えになりましたー!」
 と叫びながら、奥に飛び帰る。
 すぐに赤城氏は、やって来た。
 でかい。
 185の120キロと言うところか。
 サッカー違くて、ラグビー部あたりが足にタックルして、「うちに入部しておくれ」と懇願しそうな、デカブツだった。
「おお! 大津ちゃん、よく来てくれた、上がって、上がって」
 これ以上ない、歓待の意志を示す。
 真っ赤な顔をしている。
 黄色く染めた髪はクルクルとパーマしている。
 ウケルー。
「これが鬼でなくて、なんなのよカット」と俺は、命名した。
 声はどっしり図太い。
 丸太みたいな腕で、大津の肩を「ガシッ」と抱くようにして、中へ連れてゆく。
 大津も嫌がる素振りを見せないで、和気藹々的になんか笑いながら小声で話している。
 部屋は見えてるだけで3つあり、どれもデカい間取りだった。
 早い話が見るからに「不良のたまり場」だが、相当気合の入った伝統ある名門暴走族さんか何かである事は、疑いようがなかった。
 1メートル強の大きさの「散華上等」とか金文字看板がある。
 特攻服が何着も掛かっていて、木刀が20本くらい、並んでいた。
 部屋の中は至るところに、服やゴミや10人くらいの男女が、転がっていた。
 皆さんが着てらっしゃるファッションは、だらけまくった脱力モッズ系だ。
 半分くらいが、寝ていた。
 あとラリッた(と言うんですか?)目でずっと俺を睨んでいる、頬のゲッソリした中学生っぽい女子とかもいた。
 正直、背中が「ゾゾーッ」と粟立つ目だ。
 俺は実は、犬の親戚みたいに嗅覚が鋭いのだが、鼻が曲がりそうなすえた匂い。
 汗だか腐った食品だかトイレだかの匂いに、しっかり腐ったタバコの香り、部屋の消臭剤だか香水の匂いが、ぐるぐる巻きに混ざりあい、バトルロワイヤルをしているような、凄絶な匂いだった。
「だずげでぐれー!」と叫びたい俺。
 だが「オエッ」とかしたら、俺を睨んでる女子に次の瞬間にグサッと刺されて、気がついたら天国に行ってそう。
 生命の危機を感じる。
 泣きたい気持で、口で息していた。
 大津と赤城氏は、麗奈がさらわれた話をしている。
 黒革の高そうなソファーに、我々は座る。
 大津が「黒いミニバンの行方が分からないか?」と要件を述べると、赤城氏は、
「うんうん、分かった、おい」とちょっと不良っぽいチー牛顔の少年に声を掛けた。
 そう言われると、それまで素早く打っていたスマホの、送信ボタンを押して、
「今、調べてます」と総長に返事をした。
 そこで赤城氏は、俺に話題を向ける。
「大津ちゃん、この人は?」
「石原先輩。学校のサッカー部のキャプテン、(さら)われた子のお兄さん。いずれ僕のお義兄さんになる人」
「おう、そうなのか! 兄弟分の盃、交わすのか、固めの儀式には、俺も是非呼んでくれな!」
「違う、違う、将来、僕が今(さら)われてる人と結婚して、お義兄さんになる予定です」
「大津。頃すぞ」
「おおっ、お前さん、元気いいなあ、気に入った! まあ仲良くしてくれよ、石原の旦那。ガッハッハ!」
 俺は一つ向こうの部屋の隅に見えている台所のシンクに、弁当やスナックの袋や紙パックや何かが、本当に山のように積み上がり(恐らく悪臭源の一つだ)崩れかかっている地獄のような光景から、どうしても目の端から離すことが出来ないまま、ろれつの回らない舌で聞いた。
「大津ろは、どういうろ関係で?」
「それ!」とびっくりするくらい大きな声で言いながら、手をパチンと叩いて、合いの手を入れた後、
「よく聞いてくれた。短く話すとな、3週間くらい前かな、オーちゃんが繁華街でな、俺の子分がカツアゲしてるところに通りかかって、まあ止めたのよ。それで揉め事になったんやけど、いやオーちゃん強い強い、5、6人まとめて、あっという間にのしちゃったんよ」
「総長、8人す」とチー牛。
「おう。それで別ん日、俺もタイマンしたんだけど、あっという間にのされた笑(部屋にいる連中全員が、慎重に、恐る恐る、そっとエへへと同調して、笑った)。で、そのあとよ。仲直りにカラオケバー行って遊んだんだけど、いやオーちゃん強い、強い。あんときビール15本くらい空けたよな」
「総長、20本す」とチー牛。
 俺は(聞かなかったことにする、俺は絶対に聞かなかった)と心で必死に念じていた。
「おう! それで歌も、うめえんだよ、この人。ラルクアンアンとかZジャパンとか、沢田研一とか加山雄二とか、もうノリノリのアゲアゲでさあ、いやー、あれはほんと楽しかった、盛り上がったねえ!」
 俺は(大津、お前いくつやねん?)と、素朴に思った。
(なんにしても、ダジゲデグレー! もうこの悪夢のような空間から、早く逃げ出したいでちー)口で息していた。
 その時チー牛の持っていたスマホが鳴り、赤城総長にすぐ手渡した。
「ふんふん、えーなになに。アルグランドは、影山町の近くから入った物陰に、隠すように置かれている。そのあとは山の中に、恐らくセダンのベンチEクラスで向かった、だって。オーちゃん、これくらいでいい?」
「十分です。ありがとう、一つ借りが出来ちゃったね。感謝。じゃ先輩、行きましょう」
「おう」
(なんやねんこれ? 警察より情報収集能力あるんか? しかもそれを大津は、使いこなせてるんか?)
 玄関まで赤城総長は、すがるように追いかけてきた。
「なあ、オーちゃん、今日のことなんて、どうでもいいけど、この前言ったこと、ちょっとは考えてくれた? オーちゃんしかいねえんだよ、この湘南ブラックベイナイツの第28代総長になる人は。やっぱそういうのは、器だから。器量だから。俺は一発で、あんたに惚れたんだ。500人の舎弟を率いる力のあるのは、オーちゃんしかいねえって! 頼む! この通りだ! この赤城隆太、一生のお願いだ! 俺ももう26才の老いぼれだ。もうそろそろ引退しねえといけねんだ。頼むよ!」
「その件はもう少し、お時間を下さい。今は緊急事態で」
「お、おう、そうだな」
「でも本当にありがとう、心から、恩に着ます」
「お安い御用よ。じ、じゃあな、元気でな」
「はい。赤城さんもね。失礼します」
 総長は最後まで、すがるような目で大津を見ていた。

 エントランスを出ると、松本タクシーは待ってくれていた。
「8分くらいでしたかね。お待たせしました。影山町の交差点の先の、山道に入るところで右折してください」
「分かりました」
 大津はほんの少し目を瞑って考え事をしていた後、スマホで地図をスクロールさせながら、ジーッと見ていた。
「ここ曲がりますね」
 声を掛けられて顔を上げ、
「お願いします」と言った後、
「あー、あそこの茂みに、アルグランド置いてありますね。多分何も物証は出ないでしょう、このまま行ってもらいましょう」と、俺に向かって言った。
 くねくねした山道を、登り始める。
「そう言えばさっき、説明の続きは後でします、と言いましたね? 何から話しましょうか? 先輩から聞きたいことは、ありますか?」
「いや、お前が何話したか、もう良く覚えてない…」
「そうですね、僕も良くは覚えてないです。後で説明しようとしたことは2つ覚えてて、刑事比定というのは、刑事じゃないけど、とりま刑事の身分で取り扱ってやるよと言う意味で、警視庁全体でもまだ数人しかいない、新しい区分です」
「はあ」
「G事案というのはゲリラと言う意味で、モダンな言葉だとテロ。ただこれに認定されると、24時間勤務1勤2休の地域の警察官が、ほぼ総動員されたり、超大袈裟な緊急事態になるので、今のところは回避をお願いしました」
「はあ」
「あとは…、特にないですけど、『警視庁と神奈川県警はあんまり仲がよろしくない、いえ、かーなーりー、いがみ合っている』ということだけは、一応ご説明しておきます」
「はあ」
 なんだか良く分からない。
 俺も緊張で相当疲れてきたが、大津も考えることがあって、俺なんかと話していられないという感じが、微妙に漂ってきていた。
「ねえオニ…」
「…おいお前! 今、俺が禁句にした、お義兄さんと言いかけたろ! しばくぞ! しかもそれを、わざとオニというところで、止めたろ!」
「すみません、そんなつもりじゃ。汗」
「なんだよその汗っての。しょもな! …だけど赤城総長って、ほんとパンチ効いてたなあ。鬼みたいな、凄げえ顔してたなあ」
「そうですね」
「あと俺、気付いたんだけどさあ…。お前、大津だろ? オーにツー、つまりオーに2。俺じゃなくて、お前がオニじゃねーか! この野郎!」
「お気づきになられましたか?」
「なんだよ、それ」
「大津と言う苗字の一族の人は、鬼の末裔なんです。ほんと言うと」
「嘘つけえ、ボケェ!」
 と思いながら(えっ、そうなの? 怖いんですけど)と俺は内心、ちょっとビックリしていた。
 本当なんだろうか?

「運転手さん、ここで止めて下さい」
 大津が急にそう言ったのは、山の方に上り始めて、それほど経ってはいない、ゴルフ場の脇をかすめたりした後で、そろそろ本格的な森林地帯、という辺りだった。
「領収書、お願いします」
「宛名は、どう致しますか?」
「上様で」
「はい、ではこれで。お気をつけて、大津刑事比定」
 ん? 
 最後なんか引っ掛かったが、俺はもうだいぶ緊張感で「頭パーン」になっていたので、また聞かなかった事にした。
 日はもう、だいぶ暮れている。
 あたりは鬱蒼とした、森林に近い。
 だが、我々の登ろうとする、折れ曲がった登り路の行く手には、ちょっとした小城のような洋館が、夜空に向けて聳え立っていた。
「なんだよあれ、すげえなあ」
「シーッ。先輩、ちょっと声を潜めて下さい。いわゆるヒソヒソ声、ではなくて、今僕が話しているような、低い声でお願いします。その方が、敵から聞こえにくいので」
「おう、分かった(低い声)」
「この坂を登って、くの字に右に折れて、洋館の前に行きますね。その手前で、脇に入りましょう」
「おう、分かった(低い声)」
 ゆっくりと、細い木の幹を握りながら、俺たちはそーっと(くさむら)に、入って登る。
 足元は草だらけだが、枯れてないので、ほとんど足音はしなかった。
 背をこごめる。
 その姿勢で、前進登坂する。
 首だけアルパカもしくはキリンもしくは潜望鏡のように、出来るだけ伸ばして、前を見る。
 洋館の地面際から、全部見えるところまで、坂の横の茂みを登りきった俺たち。
 玄関というか、入り口が見える。
 アーッ、体格のいい黒づくめの男が2人、立っていた。
 妹をさらっていった時にいた男たちだ! 
 …多分。
 かも知れん。
 感じが似ている、気はした。
 今は黒いスーツで、あの時は(遠目だが)もうすこしスポーツウェアか戦闘服っぽい黒づくめだったような気もするが、俺の記憶にはいつもかなりあやふやなので、そこは断言しない事とする。
 思わず、さらに進もうとする俺を手で制しながら、大津は、
「先輩、ちょっとここにいて下さい。今からちょっと、片付けてきます。先輩、大事なことを言います。私が合図をするまで、絶対に、何がどうあっても、ここから出て来ないで下さい」
「おう、分かった(低い声)」
 大津はそれだけ言うと、草むらを出て、身を隠すこともなくスタスタと、門番をしている2人のなにかヤクザ(と言うかもっとヤバい軍隊的組織員風の)黒づくめのガタイがデカい男たちに、近づいて行った。

 次の瞬間に起こったことは、俺的には「ホエ?」だった。
 力強いとか、速いとか、激しい、とかじゃなかった。
 俺は格闘技とかは、なんも知らんから、上手く表現できないが…。
 ビシッ! バシッ! でもなく、ガシッ! ドガッ! でもなかった。
 それはなんて言うんだろう、
 トン、トン、という感じだった。
 軽やかなタッチをしただけ、という感じ。
 大津は、そんなに殺気立った雰囲気で近づいて行ったわけじゃなかったが、顔が割れていたのか、2人の男は大津に気が付くと、ウワッと身構えた。
 そこで大津は、1人目の男に、手刀で首筋をトン、と一撃する。
 そして、一旦後退する動きと、2人目の男の攻撃を防御する動きと、さらにその男に攻撃を仕掛ける動きが、「一つ」になった感じで、俺が格闘技の動画とかを(たまにちょっと)見てもあまり目にしないような、手刀がバナナ状に空間を滑らかに裂く感じで、相手の顎にトン、と当てたのだった。
 次の瞬間、2人とも「ハラリ」と花びらが散るように、あっけなく地面に、倒れこんだのだった。
 …凄え。
 凄えよ、大津…。
 …強え! 
 大津ほんと強え…!
 俺はまた、圧倒された思いだった。
 この運動神経。
 研ぎ澄まされている…。
 あっという間に大男を、2人とも、のしちまった。
(俺はこの後輩に、一生ついて行きたいかも!)
 俺は感動と興奮が、収まらなかった。
 茂みから出て、大津の方に、フラフラと歩いてゆく。
 大津は、シュートをネットに突き刺した後みたいに、落ち着いて、やや下を向き、しかし口元をちょっと笑ませて「ほんの少しは、嬉しいです」みたいな顔をしていた。
 ああ、かわちい。
 そこからフッと顔を上げ、俺と目が合った。
 うれちい。
 だがそこで何故かオヤッ? という顔をした。
 なぜちい?
 そして目や口を薄く延ばして「フフフ…」みたいに笑い、そして両手を上げた。
 なぜなぜ?
 そのとき俺の後頭部に、コツン、と堅くて重い感じのものが、当たった。
 痛いッ!
(何よ、失礼ね)と思いながら、そっちを向く俺。
 そこには、今の2人と同じような黒づくめの大男が、ピストルを手にして、立っていたのだった。
 そして俺は突然、大男から力づくで、濡れた布を口にあてがわれた。
 …うぅ、それは、吸入麻酔薬だったらしい。
 ちょっとだけ、ワサビの匂いがした。
 咄嗟のことに驚いた俺は、「ハフッ」と盛大に、息を吸ってしまった。
 俺は、あっという間に、昏睡(こんすい)したのだった。
 
「お目覚めになられましたか?」
 次に目が覚めた時、俺と大津は、腕を後ろに手錠をされて、鉄格子でふさがれた部屋に、放り込まれていた。
 3面は壁だ。
 明り取りの窓から、月光が見える。
 半地下のようだった。
「今、何時?」
「多分、午前4時50分くらいです。私の腹時計によると」
 どうせ正確なんだろ。
 ええわそこはボケ。
 突っ込まないことにした。
 2人ともコンクリートの床の上にケツを付けて、半身を壁にもたせ掛けている。そして両腕を、後ろに縛られている。そういう親には見せられない姿で、俺はお目覚めしたっていう寸法だった。
「ずいぶん眠ってらしたので、ちょっと心配してました。良かったです」
「て言うか、お、大津、お、お前、そ、その顔…」
 大津の顔には、強烈にぶん殴られた系の紫色の(あざ)が、3つくらい付いていた。
「ああ、これ…。ちょっと尋問されて。でも人より回復は速いんで、朝までには消えますよ」
「だ、大丈夫か?」
「ええ、ありがとうございます、先輩ご心配なく」
「いや、結構酷いぞ、その痣。むくれ方が、半端ないよ…」
「まあ最初に2人、倒しちゃいましたからね。向こうも最初は、ガンガン殺気立ってました。でも途中から、ちょっと仲良くなって、『身柄の完全解放』というところまでは催眠誘導できませんでしたが、ここに放り込んでもらいました」
「そ、そうか…」
「本当なら、先輩もゴリゴリ尋問されるところだったんですよ。でも『あの人はただのシロウトで、ちょっと一緒についてきてもらっただけだから、尋問しないでください』と僕が言って、『そうか』って話に、なりました」
「あ、ありがとう」
「まあ向こうも、プロですから、誰が敵方の脅威人物で、誰が人畜無害な普通の市民の人なのか、分かるんでしょうね」
「そ、そうか…(ムキッ)」
 そこでしばらく、会話が途切れる。
 大津が高い位置にある、小さな窓を見上げる。
 俺もつられて見た。
 嘘みたいに無垢なレモン色に輝く満月が、微笑むように見えていた。
「綺麗ですね…。素敵なお月さま。緊張感があるけど、美しくて、凛としていますね。力が漲(みなぎ)って。ちょっと目に焼き付くというか、()えるというか…。100点。忘れられないですね、このお月さまは…。『面白くなってきた』と言うか、『お楽しみはこれからだ』と言うか…」
「そうだな」と言いながら、(やっぱりこいつ、ちょっと何言ってるのか分からない奴だわ)と思っていた俺だった。

「先輩、いまちょっと時間がありますから、もう少しだけ、お話ししましょう。私が入っている警視庁高校は、今はまだ立ち上げ段階です。高校生もしくは、さらに若い世代からの、人材確保。そういう趣旨で、創設されました。それで普段の授業は」
「普段の授業は?」
「通信教育です。ただ、普通教科は預託しています。普通高校に。ただ今回は、その預託関係すら存在していません。要するに、関係性を築いておらず、湘南宝光学園の成績表を持ってきたら、それを評定にそのまま加算。そして単純に、補完の教科を修得して、警視庁高校は卒業証書を出すという形です。二重学籍という形で。構想としては」
「なんじゃそれ? 変なの」
「御意でございます、まだまだ、これからです」
「高校の(てい)をなしてないやん」
「立ち上げ段階です。授業は全部オンラインで、週に6時間。情報解析と、武術と、軽超能力です」
「最後のやつは何?」
「催眠術とか、あと武術でもあるんですけど合気道とか、そういう感じです。空を飛んだり、重量物を自由自在に飛ばしたりは出来ませんよ、という意味で、軽が付いています」
「麗奈も、そういうのをダンス教室の裏で、やってたの…?」
「いえ、ですから全く別系統です。麗奈さんが属していたのは、公安の本流セクションで、僕がスカウトされて入ったのは、外事課がなんとな~く試行主体の、プロジェクトです」
「なんとな~くね。…実は俺、そういうだらしがない言葉遣い、嫌いなんだ。ヤメロ」
「はい、すみません。キャプテンはやっぱり硬派ですね。痛い! 人の顔をボール代わりにして、ヘディング練習しないでください!」
「まあともかく、何回聞いても、俺には分からんよ。なーんも」
「『なんとな~く』も『なーんも』も、似たようなものじゃないですか。…痛い! その頭突き、マジでやめて下さい!」
「ちょっと、すんません」
「今世界は、爆発的に経済成長して、何十億の人が、高度資本主義情報社会に身を置いています。世界の百か国以上が、従来の先進数ヵ国のような高度情報を駆使しています。20世紀を超えた21世紀型の、『新しい発想と戦略の諜報活動』が、噴き出してきています。我が国も、そういう様々なアプローチに対応して、必死で新しいフォーマットの形成をやっている、という次第です」
「分からん、ちーとも分からん。わしアホじゃけえ」
「そうですよね。いえ『わしアホじゃけえ』ではなく、その前の『ちーとも分からん』に対しての、そうですよねです」
 俺はヘディングを、大津の顔に食らわした。
「もう、痛っ! 暴力は、やめて下さいよー。…ともかくどちらかと言うと、全人類が、『現代文明や情報社会の暴力的な進歩に、振り回されている』ような最近です。そう警察トップが言ってました」
「そうですか」
「ただ、警察もお役所ですから、内部ではセクショナリズムが、物凄くて…。いがみ合ってますし、予算の分捕り合戦も酷いです。大人って、ほんと嫌ですよね…。ただ本事案につきましては、地域セルと警視庁高校が共同捜査で、内偵していたんです」
「俺、ショックで立ち直れん…」
「まあ他にも、先輩にとってショックな話は、あるかも知れませんけど。それはおいおい…。地域セルは、『本当の有事、国家の一大事、外勢侵攻や内国騒乱』があった場合に、地方に秘密の拠点を作っておき、一時的にでも国の中枢活動を担うための、拠点組織です。全国約10の地方都市に設営して、相互の構成メンバーさえ正体を知らされていない基地を、築いているのです。麗奈さんは、湘南セルの一員でした」
「それでさ、本事案って、なんなんだよ」
「はい、実は…」大津は一瞬せき込んだ後、話を続けた。

「実はこの地域の地場有力企業による、密輸事案がありそうだという情報があり、それに付随して近々、不測の重大事態が発生しそうだといういう緊急情報が、うちの本部に、もたらされたんです」
「何の密輸? やっぱ薬物?」
「それが意外なことに、武器でした。まだ手始め的に、ピストル20丁と言ったレベルですが、手りゅう弾やライフルの輸入も、計画していたようです」
「どこからの情報?」
「言っていいんですかね…。日本の某軍事関連の省が、世界中のあらゆる通信やコンピューターの中身を傍受監視(ハッキング)している北米大陸の某国から、ユーラシア大陸の大国のR国とC国の通信で、『今度、日本の湘南地方で、ルボシア共和国が、ヤバい事するってよ』みたいな会話してたよって、教えてくれたんです」
「おいなんだその、まだるっこし言い方! いちいち隠して言うお前、超イライラすんだけど! 」
「すみません」
「…お前さあ、実はわりかし、構ってちゃんだよね? わりかし人の顔見ながら、受けるように必死にものを言うよね? 構ってほしいのか? お前本当は、寂しいのか?」
「…先輩って割と、人が一番突かれたくないところを、容赦なく無慈悲に、突いてきますよね。大ッ嫌い。覚えてなよ。いつか思い知るよ」
「な、何よいきなり」
「うっせえこの野郎。僕を本当に怒らせるとどういう事になるか、目にもの見せてやるぞ、バカバカバカバカ」
「や、やめてよ。そう怒るなよ。ごめん、ごめん。かなり図星だったみたいだけど、いや何でもない。軽い気持で言っただけやし。すねんなよう~。機嫌直してくれよう~」
「…それで緊急で、内偵してたんです。言い忘れましたが、武器密輸は、湘南宝光コーポレーションによるものです」
「な!? マ!? それ、うちの高校の、母体企業じゃん!」
「そうです。湘南宝光学園は元々、この地域の名門企業である湘南宝光コーポレーションの、唯一の分家筋が経営しています。そして本家筋の御所園家の当主も昨年亡くなられて、後継ぎがおられない事も、先輩、ご存知ですよね?」
「ああ、まあ一応は、知ってるよ…」
「つまり、そういう事だよ。分かるだろ? 黒…」
 俺はまた、大津に頭突きを食らわす。
 ボケたら突っ込む。
 コンビの絶対鉄則だ。
 我々は相方2人組として、だいぶこなれてきたような気がする。
 来年ぐらい、漫才コンテストに出ようか。
「痛あい…、暴力はやめて下さい」
「やかましいわボケ! ド突いたろか! …最後なんか、黒がどうとか言った?」
「まあ、そのうち分かりますよ。それでともかく明日、いえ日付変わって今日ですね、うちの高校で、日本とルボシア共和国の国交樹立80周年の、記念式典があるじゃないですか? そこで何か、大変な出来事が起きそうだというのが、最新の観測だったんです」
 湘南宝光コーポレーションは、第二次大戦前は軍人の家門で、ここ地元の湘南で創業し、軍部とつながりが深かった。
 戦後は民生品の輸入業に転換し、家具や衣料や宝石アクセサリーなんたらを、世界中から日本に、手広く仕入れている企業だった。
 あとは病床数100を超える、総合病院も経営している。
 国会や県政の与党との関係も、バッチリだ。
 関係は密だと言われていた。もちろん良くは知らんけど。
 今日は親密お取引先のうちの一国である、ルボシア共和国の皇太子様がお見えになり、記念式典が行われるという話なのだった。
(この市で一番広い会場は、うちの高校のグラウンドなのだ。四方をそれなりに建物(校舎や体育館)と道路を隔てて、海に囲まれて、高級式典会場感あり。
 そのときだけセレモニーべニューがカリッと焼き上がるって寸法だった。
 紅白の屋根のテントが並んだり、吹奏楽部が演奏したりして、華やかな光景が、年に数回は出現する。
 
「それで、麗奈ちゃんと私は、波止場に近い湘南宝光コーポレーションの倉庫に侵入して、金庫をこじ開けて、『暗号指令書』を盗み取って来たんですよね」
 そう言うと大津は、襟の裏から小さなオブジェを取り出して俺に見せた。
 それは龍と城と太陽か何かが組み合わさった、短い鉛筆を少し平たくしたような、小さな物体だった。
「て言うかハア? なんだよお前、手を縛られてたんじゃなかったの? 俺縛られてるんだけど!」
「すみません。私は関節を外して、手錠を解きました。鍵がないと先輩のは解けません。もう少し待って下さい」
 月明かりが、大津のほんの少し嬉しそうな微笑を映す。
 チクショー。
「この物体の中に『暗号指令書』が入っていることは、間違いないんですけど。でも開かないんですよ…」
「おい大津、俺な、そういうカラクリ工作物の解体だけは、昔から天才、大天才って言われてんだ。あとで手錠解いてくれたら、俺にちょっと見せてみろ」
「分かりました。期待しています」
 俺はまた大津の顔に、ごく弱くヘディングした。
 別にせせら笑ってる風とまでは感じ取れなかったが、それでもごく微量、(期待なんぞはしてません)が、感じられたのだ。
 何もかもが頭にくる。
 俺はもう中2じゃないけれど。
 浪人不可避で死にたい男子なんだぞ!
「暗号の内容自体は、たとえばメール通信などで、やり直したはずです。奴らにとっては、僕らがこの通信を解読しない事が大切で、そのために、こうして危害も加えないで、拘束しているんだと思います」
「そこが良く分からないんだけど」
「ともかく麗奈ちゃんもそうだろうと思うのですが、私もこれの在り処(ありか)ばかりを、聞かれました。上手く隠し通せたのですが。今これを出したのは、この簡易牢獄には隠しカメラも隠しマイクも無いと、確信できたからです。電子の揺らぎを、ずっと見ていて」
「そんなこと出来るのか?」
「ええ。ともかく、もう1回寝ましょう。私もひと眠りします。見張りは多分、もう少し、あと3時間後くらいに、この地下牢まで1回降りてきます。その一瞬が、勝負です。先輩、仮眠して下さい」
「頭が冴えて、眠れないよ」
「分かりました。それでは催眠しますよ。いいですか? 先輩、私は文字通りの『眠らせるだけ』のシンプルな催眠術は、得意なんです。ショボい技ですけど。私と話を10秒くらいすれば、人はたいてい、眠ってしまいます。言葉と音とリズムの中に、太古から潜まれた『眠りのサイン』があるんです。いいですか?」
「お、おう」
「夜の森をイメージして。月明かりの中に、ピラミッドが輝いているよ。あんなにも大きな、重いものが、何千年も傾かないのは、不思議だよね。そうとも星は知っている。夜風が運んでくる、宇宙の神秘を。地球には1万年前も、10万年前も、そのずっとずっと昔にも、高度な文め……が栄え……いたん……      」
 俺は、意識を(むし)り取られるように、眠ったようだった。

「先輩、そろそろ起きて下さい」
「ん…、今、何時?」
「大体、7時50分です」
「いやなんか…、凄いスッキリした目覚め」
「でしょう? 得意、得意。…頭突きはやめて下さいよ、あれ結構痛いんで。私の催眠術、深い眠りまで到達させますから。快眠保証付きです」
「安眠の商売をしたら儲かりそうだ。一緒にやらないか?」
「先輩、僕は先輩みたいにガメツイというか、カネ意地が張ってる人、初めて会いましたよ。いや、前に1人女の子がいたかな」
「なあなあ、やろうよ、やろうよ」
「また今度。それより、早ければあと数分で、巡回見回りに、誰か降りて来るはずです。先輩は、じっとしていて下さいね」
(そう言えば、こいつの顔についていた例の酷い紫の(あざ)、綺麗さっぱり、消えてるじゃん! その商売も、いいかも!)
 と俺が思ったその瞬間。コツコツ、コツコツと、階段を下りてくる靴音が聞こえた。
 姿を現したのは、毎度おなじみ、黒づくめの大柄な奴。
 だがちょっと太っていて、少し気さくそうな顔をしていた。
 …違う、大津を昨日尋問して、逆に催眠術に掛ったようだ。
 大津を好いている、彼は大津の顔を見たのが、
(また会えて、とても嬉しい)
 というような表情を見せて、ニッコリ柔和に微笑んだ。
 俺からは、大津の後ろ姿しか、見えなかったが、大津も微笑んでいるようだった。
 と、大津は後ろで縛られた事になっていた両腕を、さりげなくスッと前に出した。
 男はオヤ? というように、唇をすぼめて前に出す。
 大津は(念力じゃー!)みたいに、両手に力を入れる。
 そしてそれをゆっくりと、左回転に回した。
 男は、その回転する動きに合わせて、おちょぼ口が力の中心で引っ張られるように、ビックリ眼とともに身体を畳んで、クニャッと倒れた。
 倒れる時に、床に頭を強打して、気絶した。
「ハー、緊張しました。あまり知られてないですが、警視庁では剣道や柔道以上に、合気道を重視してるんです。我ながら、上手くやれました」
「だけど、俺の手錠のカギも、この鉄格子のカギも、あいつの腰に鍵束、あるっぽいじゃん。どうすんのこれ?」
 俺も頭が冴えていて、そんな事を口にする。
 だがその時、真に信じられない事が、起きた。
 ぶっ倒れた大男の、太い腰のベルトのところに見えていた、キラキラ光る鍵束が浮いて、大津の手元にやって来たのだ。
 フワフワと漂ってきたと言うよりは、ゴムひもの片方の端が大津の手の中にあり、もう片方の端にあった鍵束が、ピュ~ッと弾力で、飛んできた感じだった。
(これは結局、夢なのかも知れない。見なかった事にしよう)。
 なんて言うか、頭がおかしくなっちゃわないようにという防衛本能みたいなものが、俺の頭の中で、働いた気さえした。
(夢と現実の交差点。ああ、これはそんな感じね)
 そんなメルヘンチックな言葉さえ、俺の脳裏には浮かびました。
「見ーたーわーねー」と大津。
「見てません。俺は何も見てません」俺はそう答えた。
 そこで大津は、カギを握った右手を見せた。
「種明かしです。これはゴムとゲルの中間くらいの特殊な素材です。チャンスは1度というのは、これの投じる機会は1回だけという意味だったんです」
 大津の手には、全く透明でネトネト、キラキラした液体のようなものが、鍵束とともに見られたのだった。
 身体のどこに、こんな素材の元を、隠し持ってやがったのか?
 鉄格子にそのネバネバした液体を、こすり付けて取ったあと、大津は俺の手錠を外し、鉄格子の出入り口を、開けてくれた。
 素早く大男の手と足に手錠をし、近くにあったので目隠しと拘束マスクもして、安全を確保した。

 そこで俺は、早速言った。
「おい大津、ちょっと待ちなさい。さっき見せた細工品、早く俺に見せなさい」
 俺はさっきからそれを触りたくて、ウズウズしていたのだ。
「あ…、先輩そんな事、言ってましたね」
 なんかあからさま過ぎないか? この野郎。
 全然期待してない感じを見せつつ、大津がまた襟の裏から隠していた小さな物体を取り出して、俺に渡した。
 さあそこで、俺が本領を発揮しましたよと。
 大津の心の中を、解説しよう。
(その時、奇跡が起きた)。
 多分。
 ドドドド、ドヤァ! 
 ドヤーーーアアァ!
 凄いだろー。
 ざまーみろー。
 物語の真の主人公は、俺であった! 
 天才。
 得意、得意! 
 細工小物の組みほぐしの天才、それは俺。
 俺はものの20秒で、その龍と城と太陽うんちゃらオブジェを、2つに解体した。
 ウォーッ! 
 パズル解きの鬼・石原拓也。俺は、
「はい。これ」と大津に、それを渡した。
 大津は鳩が豆鉄砲を食らったような(古い)びっくりした顔をして、それを受け取った。
 2つに分かれた片方から、薄い小さな紙きれが、垂れ下がっていた。
「ええか、こういうのはな、コツがあんねん。押すか引くかして、斜めにずらして、回転させるか、なんかすんねん! シャラー! 鼻高々、エッヘン丸!」
「先輩、本当にお手柄です! ありがとうございます! 感動しました! (えっ、もう終わり?)では、この後の作戦行動について、ご説明します。まず一階に上がり、僕はこの館には麗奈ちゃんはいないと聞き出していますが、一応、全部屋当たってみます。20部屋くらいとの事です。今は大体10人くらいいるらしいですけど、一応全員、いっぺんお眠りいただくというか、やっつけるつもりです」
「お、おう。凄いな」
「それで先輩は、大変すみませんが、昨日の私たちが一瞬隠れて様子を見た、あの茂みに、行って下さい。そこに、僕のスマホが隠してありますから、それを取って来て下さい」
「なんだよお前、そんな事してたのか? なんで俺に、黙ってたんだ?」
「スマホは、現代社会の最終兵器ですからね。あれ敵に取られると、ちょっときついので。すみません」
「それはまあ、分かるけど…」
「先輩に言ってたら、持って来てしまって、奪われたり、破壊される危険があったでしょ? ですから、黙ってました」
「ぐぬぬ…、分かった、取って来る」
「あ、先輩。そう言えば昨晩あれほど、『合図をするまで、絶対に、何がどうあっても、ここから出て来ないで下さい』って言ったのに、出てきちゃったでしょ。もー。ほんとに駄目なんだからー。メッ!」
「ギャヒーッ! やっぱ覚えてた? 忘れてくれたかな~と思ってた。すまん、すまん。でもさ、おかげで建物の中に入れたみたいな感じ、ないか? あるやろ?」
 俺は、「ブルブル怯える子犬みたいな気持で、一晩必死に考えた言い訳」を口にした。
 大津は、フッと笑って、
「なるほど、それもそうですね。じゃあ茂みまで、お願いします。玄関まで、一緒に行きましょう」と言った。
 どうやらご主人様は、可愛い子犬ちゃんの粗相を、許してくれたみたいだった。
 まあ、その場の雰囲気では、俺と大津の力関係は、そんな感じであった。
 正直なところ。
 しかし、ハー、助かった! 
 諦めずに、言ってみるもんだな~。
 本当は明らかに、「出来の悪い先輩だから、もういいわ」という感じだったが、「上手く逃げ切った感もあり」、俺は大いにホッとしたのであった。

 茂みの中を、上から下まで探した。
 大津は巧妙にスマホが薄っぺらく見えにくいような角度で木の枝の先に隠してあり、鈍い俺は探すのに、何分も掛かってしまった。
 それを「ご主人様~、見つけました、ワンワン!」的な、フリスビーを(くわ)えて戻る犬みたいな気持で持ち帰ると、大津は玄関のところにいた。
「キャプテン、ありがとうございます。部屋は1階から3階で、22室ありました。12人いましたが、全員お眠りいただきました。しばらくは大丈夫ですが、さっそく先輩が取り出して下さった暗号文の解読を、部署に依頼しましょう。今日は、この湘南地域セルの、麗奈ちゃんとは別の情報分析の人に、お願いしようと思います」
「昨日の人じゃないの?」
「ええ。私、気が小さいので、2日連続で頼むとか、気が引けるんです、ぶっちゃけ。それにこの地域セルの分析の人も、物凄い腕利きなので」
「ふ~ん」
 俺様が取り出してやった暗号文とやらは、そこで大津にスマホのカメラで撮られた。
 それは何か、アンティークな西洋飾り文字風の、短い文章だった。
 またもや俺に説明する風に、声を出しながら文字を打ち、大津はスマホを発信する。
『お疲れ様です。添付画像の暗号文を、解読して下さい。それと添付の画像の人物2名について、分かることがありましたら、教えて下さい。大津より』
 それが終わると大津は俺に、
「仕事がキレキレに早い人なので、数分待ちましょう。私は、学園にすぐに向かいたいのですが、『急いては事を仕損じる』です。ここは腹をくくって、待ちましょう。海を見ながら」と言った。
 そしてそのまま、山の裾野を見下ろした。
 俺は(あっ!)と心の中で、声を上げた。
 鈍い俺でも、さすがに気が付いた。
 いや今まで気が付かなかった俺が、とことん鈍いのか…。
 見晴るかす、眩しく(きら)めく、大海原があった。
 そこには、優しい線を描いて、なだらかに広がっていく山裾、そして気持良さそうにキラキラと輝く、太平洋があった。
 そしてその中間、ちょうど眼下という位置に、祝典を控えた何百人もの人たちが、白っぽく輝いて見えている、我が湘南宝光学園の校庭や校舎が、賑やかに楽しそうに、見えていたのだった。

        由紀きゅんの独り言①

 いつものように朝早くから駅ビル2階のあたしの勤め先に入った。
 あたし、由紀きゅんは、この勤め先・有閑堂書店の店長である。
 2階から4階までがうちの本屋のエリアで、駅ビル12階建てだ。
 6階から上はホテルエリア。
 そこまでは飲食店やフィットネスクラブや100均や楽器店やゲーセンやスポーツウェア店やら、下々の生活を支えるどうでもええような(内緒)商業店さんたちが、雑然と入っているビルだった。めでたし、めでたし。
 うちの書店(おみせ)の帳合は、トーハンさん。
 いつもお世話になってます。
 そんなことは、思い出さなくてもええ。
 朝の確認作業を一通り終え、狭い店長室(女性のワイが店長だから、戸締りちゃんとしてる)から秘密エレベーターで、地下3階の地域セル拠点まで下りてゆく。
 地下3階と言っても、地下2階とは100メートルくらい隔たれていて(どんだけよ)、どんな地中貫通爆弾(バンカーバスター)をも無効化する防御施工が、なされている。
 着いた。
 パチンと照明スイッチを押す。
 巨大な体育館のような光景が広がる。
 まばゆい広大な白亜の床。
 ただし、今すぐ稼働が始まる施設じゃなくて、機材はまだまだ設営の途上だ。
 そんなには無い。
 150以上のデスク、パソコンは75台くらい。
 専用機材の導入は、これからの課題っす。
 普段はワイしか出入りしない。
 ここは、もしも我が国が外的勢力の侵攻をされた時に、また万が一内的勢力の売国加担があって東京中央拠点が制圧を受けた場合の(もしくは主要施設が壊滅的痛撃をされた場合の)一時避難的な「最後の砦」的に、極秘裏に展開され始めた、地域セル施設だ。
 警視庁と防衛省の共同事業だが、知る者はごく少数だ。
 万が一の時には、総理大臣でも、なんなら、もっとやんごとなき口に出すのも(はばか)られる、日本国の至宝の存在たる恐れ多いお方をも、お導き奉っちゃう可能性のある、ラストリゾートの向こう側のような、我が国渾身の、究極の最終拠点なのである。
 地方に今5拠点くらいある。
 なーんちって。
 固い話はこんくらい。
 はー、だりー、だりー。
 昨日はうちに帰ってみたら、誰もいねーでやんの。
 娘が敵に取っ捕まったって連絡があった。
 娘の部屋に行ってみたら、閃光弾かなんか撃ち込まれたみたいで、部屋中ボロボロ。
 娘はあたしと同じく、地域セルのメンバーでもある。
 だが今は共同内偵してる、警視庁高校の刑事比定から、「手荒な真似はされない見込みです」って分析が来てるから、安心してる。
 あの子は相当の腕っこきだって、評判だからねえ。
 しかし、ズブの素人であるうちのバカ息子まで、その刑事比定ちゃまと行動を共にしてるとかで、家を空けていた。
 まあ大丈夫でしょう。あたしゃ肝が据わってるんだ。
 こういう時に、ジタバタしない。
 ドーンと行こうやって、構えられる女だ。
 ただ単に鈍いだけかも知らんがね、由紀きゅんは。
 でも「鈍感力」って言うでしょ。

 あたしは「気を落ち着けよう」と、別の事を考えることにした。
 息子の進路。
 あー、三者面談とか、近いうちにあったっけ…。
 よく覚えてないけど、「現役では慶心か和瀬田に、まかり間違えば行けるくらいの模試結果」とか、本人はゆってる。
 ハアアア? 
 ウケルー! 
 馬鹿すぎるやろお前、頭痛いだろママは! 
 男なら、現役で東大法学部か医学部くらい鼻歌混じりで楽々入れや、おめえの父ちゃんみたいに! 
 当たり前に! 
 誰が産んだんだ、おいこの、すかたん!
 トイレの中で「現役で大学行くのは、もう諦めた。僕、サッカーしてたもん…。入れるわけがないんだ…。ああ、もう本当に死にたい…。この世は地獄だ…」とか、情っさけない小声で弱音の独り言を呟いてたのを、ママは偶然、聞いてしまった。
 そういうの、家族に聞かれんなよ、アホ!
 アイタタッ、胃が痛い! 
 胃薬は? 
 胃薬はどこ?
 受験生の母親とか、なるもんじゃねーな、ホント。
 ま、あたしは二浪して慶心だけどね。
 多浪女子様だっ!
 娘の部屋に、照明弾ぶち込まれてかっ(さら)われるのも、勘弁だけどな。
 あたしはどうせ、主人に先立たれた、可哀想な未亡人ですよーだ。
 未亡人ってホント酷い言い方だよな、まだ死んでない人って意味だよ、ふざけるな!
 …どんだけよ、どんだけ踏んだり蹴ったりの人生なのよ、ワイは。
 そこのけ、そこのけ、悲惨女子様の、お通りだ!
 我が輩は、世界一不幸な女なんだーッ! 
 文句あるか! ないよね? ハー。
 ま、それはいいとして。

 ああ、やっぱり最後に思うのは、お父ちゃんの事だ。
 あたちの大好きな、大好きなお父ちゃん。
 3年ほど前に、癌で星になっちゃった我が夫。
 あたしを置いて先立ったことだけは、超絶バカヤローだけど、あたしの心は今も、あの人から1ミリも動いていないんよ。
 なんであの人は、あんなにも素敵で、優しくて、あたちの心をこんなにも、絞めつけ続けるんだろう、今も…。
 もう1回、もう1回でいいから、あの人に会いたい…。
 あの人に、抱きしめて欲しい…。
 早い話が、あたしは(早く死にたい)だけが本心で、この世を生きている、捨てバチ猫だ、割りとマジで。
 お父ちゃんと一緒に、永遠に暮らしたい。
 どれだけ毎日、そう思っている事か…。
 でも死ぬ勇気はないから、人生投げてるけど、一応生きてるんだ。
 息子と娘もいるしね。
 でも映画「東京物語」で主人公の紀子(のりこ)が「きっとまだ何かあると思ってしまっている」とか言ったけど、そう少しだけは、思っているのよ。
 …でも基本は、(もうこの世なんかどうでもいい、詰まんないし、早く死にたい)って思ってんのよ、由紀ちゃんは。

       由紀きゅんの独り言②

 そんな事を考えて気を紛らし、ボールペンをゆらゆら揺すったり鼻と口の間に挟んでタコみたいな顔をする、息子の真似をしていたら、(うるわ)しの君から、なんかメールが来た。
 キタキタキタキタ、キター! 
 大津くんから、メールキター!
 デートのお誘いだったら、どうしましょ。
 もちろん、この地下空間は、アンテナとケーブルを介して、あらゆる電波のやり取りが、地上と出来るようになっている。
 目をワクテカさせて、文面を見ると、『お疲れ様です。添付画像のこの暗号文を、解読してください。それと添付の画像の人物2名について、分かることがあったら、教えて下さい。大津より』とかなってる。
 チェッ。
 デートのお誘いちゃうんかい…。
 まあ、すぐ仕事に取り掛かる。
 画像を読み込んで、文字解析から始める。
 これは古代ラテン語。
 文章解析。
 現代主要100言語への変換。
 ヒットしねえな。まあ当たり前。ここまで10秒。
 ここからは、暗号解析。
 まあAIがやるんだけどね笑。
 ワイは鼻と口でボールペン挟んだままやき。
 1文字ずらし2文字ずらし、3文字ずらし(シーザー暗号)みたいな幼稚園手法から始まって、古今東西あらゆるスタンダード技法に対応した、精密解析をする。
 秘密鍵は分かってねえけど、「今回のお客さんはルボシア国関連だ」って知れてるので、手癖はAIちゃんも、ちゃんと予想がついている。
 これはアルゴリズムが分かっているのにほぼ等しい。
 暗号解析のトップ国はどこか? 
 アメリカとかイギリスとか、イスラエルとかロシアとか想像する人も多いだろうが、こういう事にはむっつりスケベを決め込む日本も、実はほとんど頂点に立っている。
 けど解析長げえな。
 もう60秒掛かってるじゃん。
 120秒するとスパコンに自動接続して、更に高速で膨大な演算をする。

 由紀きゅんはその間、ちょっと大津くんのことを考えた。
 あの子なかなかだ。
 なかなかの上玉だ。
 この前、ちょっと一回飲んだ。
 酒を。
 あの子強い。
 そして男前だし、優しい子だ。
 仕事も出来るらしい。
 まあ、ちょっと話てれば、分かる。
 奥深い洞察力で、相手を見透かしてる。
 しかもそれを、全然感じさせない。
 あの子の本当の本性は「超真面目」の一言に尽きると思うのだが、あまりの能力の高さが仇(あだ)となって、周り中を「アクシデント」とか「トラブル」ってやつに巻き込み、てんてこ舞いさせるタイプの子だ。
 強烈な寂しがり屋のせいもあってね。
 それこそ、あのイギリス映画の、スパイみたいに…。
 まあどっちも、スパイと言うより、隠密戦闘員だけどさ。
 それもまた良き。
 とワイは、冷静に考えたのだった。

 それにしても大津ちゃん、別にニャンニャンしたいとは言わないが。
 キスくらいしてみてえなあ…笑。
『由紀さんは、大人の女性だから、お姫様抱っことか、嫌かな?』
『ううん。そんな事ないわ』
『じゃあちょっと、抱き上げさせてね。…うわっ、軽い! まるで羽毛のようだ!』
『嬉しいわ』
『由紀さん…』
『由紀って呼んで』
 とか会話してみてえ! 
 グハー、興奮する! 
 やっぱ大津くんと結婚してえ! 
 たまんねえなをい、ええ?
 なんてニャハハ。
 嘘、嘘。
 まあな、男の子は中二病とか言うけど、女はその2二倍の強度の妄想を、生涯してる生き物だからな。
 隠してるけど。

 とか思って身をよじらせたりゴリラみたいにドラミングしたりして興奮しているうちに、暗号の解読は終了した。
 ピーッて。
 ピーッて。
 だがその瞬間、
(ファツ! ヤベエ! なんかもう一つ、依頼あったな!)
 と思い出した。
 メールの後半は、と。
『それと添付の画像の人物2名について、分かることがあったら、教えて下さい。』
 ほほう。
 ルボシア共和国関連の内偵事案ということで、諸々(もろもろ)予習済みだし。
 由紀ちゃんは、一瞬でピンと来たこれ。
 2人の写真を若返らせてみる。
 20年ほど。
 それから、太痩矯正を掛けて、昔こうであったという、顔立ちにしてみる。
 これでも目にも止まらぬ速さで、カタカタカタカタカタカタカッって、キーボードぶっ叩いてる、ワイやねん。
 ピタコーン。
 それだけでもう目視判断できるが、一応AIに確認しても『その通りでございます、お姉様』だった。
 AIには散々学習させて、あたしへの言葉遣いは、調教させてある。
 まあそれは、どうでもいいけど。
 さっそく大津くんに、回答しよう。
 あーん、お声が聞きたいな。
 電話しちゃお。

 俺と大津は、その地域セルとか言う人の分析を、待っていた。
 その間、大津はスマホをいじり、今日のうちの学校で行われる(というか眼下に見えてるんだけど)「日本・ルボシア共和国・国交樹立80周年記念式典」のページを見ていた。
 式次第のうち、午前8時半から行われるのが、ルボシア共和国のミユル皇太子によるご挨拶だ。
 俺はあんまり興味が無かったから、今まで顔写真もろくろく見てなかったが、大津がチラリと俺に見せる。
「優しそうな、お顔の方ですよね」
 こういうご身分の方にしては、まだお若いのだろう、30才過ぎくらい。
 恰幅がいいと言うんでしょうか、頬がふっくらして、目は確かに穏やかだ。
 当たり前だが、育ちがめっちゃ良さそうで、芸能人で言う「宣材写真」みたいなその肖像は、俺に好印象を持てと、激しく迫ってくるような、好青年ぽかった。
「この方は、筋金入りの平和主義者で、国連で世界平和を呼び開ける演説も、しているくらいです」
「ふーん」
「現国王は64才で、皇太子の叔父上です。筋金入りのベテラン国王で、策士とか寝業師とか、硬軟(こうなん)織り交ぜて、国益のためなら何でもする男とか、いろいろ言われています」
「はあ、はあ」
「少しずつ、読めてきましたよね」
「分かりません…。俺アホやけえ(本音)」
 そんな会話をしてるところで、大津のスマホが鳴った。

 大津はまた例によって、俺に聞かせながら通話を始めた。
『もしもし? おつ! おつ! 大津くん、おつ! 由紀きゅんれーす! お待たせ! 待った? 3分半だったね?』
「ええ…」
『これでもあたち、バチクソ頑張ったのよ~。褒めて、褒めて~。由紀きゅん、一生懸命やりましたワン!』
「ありがとうございます……」
 その頃、俺はもう慄然というか、愕然というか、枯れ果てた冷たい木のように固まって、真っ白になっていた。
 世界広しと言えども、この声、そしてこんな話し方をするバカ女は、俺の母ちゃんだけだ。
 間違いない、名前も言ってるし。
 ぴえんまる。
 もう死にたい。
 俺は本当に真面目な、ただのサッカー部主将なだけの高校生なのに、妹ばかりか、母親まで、公安秘密組織とやらの、構成員だったのかよ‼ 
 世の中怖すぎる! 
 女は恐い!
『ん……、ちょっと待って。……………あれ、なんか今、凄っげえ嫌な空気感、漂ってんだけど。……………アッ! しまった! 大津くんと話すことに頭がいっぱいになっていて、世界のおまけみたいな奴が一緒にいること、忘れてたあ! 忘れてたあ! やっぱし大津くんにお姫様抱っこされて、「羽毛のように軽い」とか言ってもらっちゃったのが、まずかったあぁ! まずかったあぁ! ……いやそれは、こっちの話。けど、もういゃあだあ! 聞こえてるかな? あいつ聞いてる? あいつ聞いてないよね? まあいいや、今晩以降、何万回問い詰められても、惚けて、惚けて、惚けまくればいいや』
「それがいいですね」
(そういうのまで声に出すかよ、バカおかあ! ちょっと潜めた声だったけど。アホ!)
 と俺は、思っていた。
(おまけに大津も、俺を目の前にして、ふざけた返事してるし。俺、泣きたい)。
『それでは大津刑事比定、暗号解読の結果をお知らせします。よろしいですか?』
(いまさら話し方変えるな、バカ!)
「お願いします」
『それでは報告します。「W作戦を実行せよ。9月25日午前8時33分」復唱します。繰り返します。「W作戦を実行せよ。9月25日午前8時33分」です』
「了解しました」
『それと、人定の依頼がありました2名ですが。判明しました。アルジェ兄弟です。20年ほど前に、世界で名をはせた凶悪テロリストで、ロシアの空港爆破や、人質と政治犯の交換事案などに関わりましたが、以降行方は知れず、両名とも国際指名手配犯です。この2人を確保出来たら、すごいお手柄ですよ。ルボシア共和国出身です。身長は2人とも175くらいでしょう?』
「いえ。1人は190くらいで、もう1人は160くらいです」
『……ふーん。そうなの? でも分かった! それ、旧ソ連で一時期やってた、足骨移植の身長変更だわ、きっと。1年半とか2年とか、寝たきりから始まって、社会復帰出来ないんだけど、その間日本語の勉強とか、してたんだと思うよ。由紀ちゃん、お見通し』
「でも、ソ連の空港を爆破したんでしょう?」
『うーん、でもでも。こういう秘密情報機関とか国際テロリストって、何でもありで、寝返ったり、くっついたり。二重スパイとか三重スパイとか、いくらでもやってっからね。大津くんはまだお若いから、疑問に思うかもしれないけど、あたしくらいのベテランになると、複数視座が大切だって、分かってんのよ。どう? お姉さまの魅力に気がついた? エへ へのカッパ』
(あのさ、おばさん、お前、真面目な話し方しようとしても、1分持たねえだろ、バカ!)
 と俺は、思っていた。
 ちなみにこの人は、「まだ30才くらいに見える」とか、最近では「麗奈と姉妹にしか見えない」とかお世辞を言うと、とても喜んで、大体何でも買ってくれる。
 お世辞や! 
 アホ! 
「分かりました。大変感謝いたします。では現場に急行します。また何かありましたら。失礼します」
 大津は通話を切った。
「あの2人、非常に仲が悪そうにしてたの、偽装だったんだな…」
 俺の方を振り向いて、
「石原先輩…」と大津は言った。
「何も言うな。俺はもう十分びっくりした。ええそうですとも、この感情は、『心の痛み。深く傷ついた』と言っても、過言ではないでしょう。何も言わないでくれ」
「分かりました」
(もう少し、なんか言って。慰めてよ。可哀想な、このボクを…)
「湘南宝光学園に、急行しましょう」
「また昨日のタクシーの人、呼ぶの?」
「いえ、僕は気が小さいので、2日連続でお願いするのは、尻込みしちゃいます。そもそも松本さんは、今日はタクシー乗務員姿で、待機してません。それに、時間がもうありません。午前8時33分まで、あと20分じゃないですか。今から呼んで、来てもらっても、間に合いません。別のいい案があります」
「どうするの?」
「地下一階、歩きながら説明します、行きましょう」
 大津はスタスタと、進みだした。

 大津は、凄い早口で説明する。
「突然ですけど、先輩、東京の都心の地下鉄の最初に出来たものの一部は、江戸城の秘密の地下通路をそのまま利用したって、聞かれたことありますか?」
「うー、なんとなくテレビで、見たことある」
「では慶心大学の日吉キャンパスの地下に、第二次世界大戦当時、日本海軍の連合艦隊司令部があった話は、ご存知ですか?」
「いや、それは知らないな…」
「戦争末期で、旗艦などの艦上での運営が困難になった事など、複数の要因が重なって、慶心大学のキャンパスの割合と端の方ですが、地下壕が設営されたんです。言いたい事は、様々な歴史に絡む地下通路などが、この国には存在してるって事です。今も作られ続けていますが。分かりますか?」
「うん、まあなんとなく(分からない…)」
「もともと湘南宝光学園の敷地は、新兵の訓練所と宿舎の土地が、払い下げられたもので、今いるここは、電探(レーダー)施設と高射砲の設営場所で、同じく払い下げられたものです。確かめる時間は無かったんですが、つなぐ通路が秘かに存在するのではないかと、推定していたんです」
「あるのか、そんなもの? もしや線路が敷かれていて、トロッコがあるとかがあるの? なんか凄えな」
(冒険映画みたいなのを想像して、ちょっと興奮した俺だった)
「トロッコとかじゃないですけど。ここです」

 我々は半地下一階に下りていた。
 昨日俺たちが宿泊した、
 懐かしの地下牢からは見えなかった奥間(チラッと一瞬見た、地下牢の前では、さっき大津がのした黒服大男が、まだ仰向けでのびていた)。
 特に変わったところは無い。
 黒いドアがあった。
 ギイィィ…という音とともに、ドアを開ける大津。
 おお! 
 そこには確かに、狭いながらも急こう配で、山裾(やますそ)に向かって下っていくと思しき、秘密の地下トンネルがあった! 
 なにか美しく、滑らかなラインのトンネルだ!
「もう出来てから、相当経つトンネルですけど、適度なメンテナンスは、されてますね。旧日本軍が本腰を入れて作ったトンネルは、コンクリートもしっかりしてますし」
 いや、そうかあ? 
 湿気凄いぞ。
 見るからに足元もデコボコやぞ。
 照明無いんかい? 
 そしてトロッコは? 
 トロッコはどこなの?
「こんな素敵なものがありました」
 大津がドアの陰から出してきたのは。
 …ママチャリ1台であった。
 しかも電動アシスト付きだった。
 萎える~。
「比較的、新しいですね。ちゃんとフル充電されてます。これで行きましょう。先輩、後ろに乗って下さい」
 俺はまたがった瞬間、バビューン! と振り落とされそうになった。
 あっという間に、我々は出発した。
 そしてあっという間に、とんでもない速度まで加速した。
(だじげでくれー!!! 暗いよー、速いよー、揺れるよー、恐いよー!)
 俺は、心で悲鳴を上げていた。
 ともかく速い。
 何と言っても速い。
 断固として、メチャクチャ速い。
(だじげでくれー!!!)
(もうやめぢぐれー!!!)
(おれがわるがっだー!!!)
(ギャウー!!! ピャギー!!! アブブー!!! ドヒャー!!)
 大津は目にもとまらぬ速さで、シャシャシャシャシャー! と両足を漕いでいるし、電動アシストだ。
 なにより急勾配であって、味わったことのない速度が出ている。
 ママチャリのヘッドライトが、前方を照らすのみだ。
 ガシガシ揺れている。
 ガタピシだ。
 リアルに脳髄が揺れている。
 下るというか、吸い込まれる、いや、ひたすら真っ逆さまに落ちてゆく感じ。
 他に言いようがニャイ、どう考えてもアリエニャイ、頭がおっかしくなる速度。
 俺は必死で、大津の背中に、しがみつくのみであった。
「これ、時速、どの、くらい、出てんの?」
「分かりません。でも速度リミッターは、壊してありますね。たぶん、時速80キロくらいじゃないですか?」
「ギャー! 転んだら、死ぬな? 割りと、マジで!」
「気を付けます」
 およそ5分くらい、悪魔も這って逃げ出すような、恐ろしい思いをした。
 それから山の裾野を過ぎたのか、若干勾配が緩くなり、速度も少し落ちたようだった。
 しばらくは漕ぐのに(ほとんど垂直落下するような自転車の操縦に)集中していた大津が、口を開いた。
「もうあと少しで、学園まで着きますね。どこに出ますかね? ちなみに…さっき慶心大学の日吉キャンパスに、昔日本海軍の連合艦隊司令部地下壕があった話を、しましたよね? その周辺には、今も射撃部射撃場とか、空手部とか柔道部とか、弓道部とか洋弓部とか拳闘部とか、そういうヤンノカコラ系の部が、割りと密集してるんです。ネットで見ると。面白いですね。先輩流に言うと『ウケルー』みたいな。アッ、痛い! 暴力反対ですよお」
「慶心大学にしてみたら、戦争に加担した、黒歴史ってとこか?」
「いえ、それは違います」キッパリ大津は言った。
「積極的な宣伝は今はしていませんが、何一つ隠してもいないし、秘かに誇りにしている感じですね」
「ふーん」
「立場の数だけ、正義はありますからね。勝敗はいつか着くにしても、自分の正義を信じて戦った方々は、常に尊いですよ。後世の人は、絶対に敬意を払うべきです」
「まあ、分かるけど。それにしても式典は、よく考えたらずいぶん早い時間に、やるんだな」
「午後にはミユル皇太子様ほかの訪日メンバーは、東京都心方面に、移られる予定のようですよ」
「そうか。なるほど」
「着きました」

 急ブレーキを掛け、我々の飛んできた自転車は、初めて現れた小さな平地に止まった。
 大体が、出発地の山の上と同じような構造。
 大津がドアを、探り当てた。
 開けると、上に登る階段だけがあり、上階のドアを開けると、そこは犬舎だった。
 脳髄がまだ、ブワンブワンと、揺れてる。
 犬臭い。
 俺の鼻は、グリグリ回転しそう。
 エースのニコニコ丸はいない。
 確か名前はゴーゴー丸とビュンビュン丸、まだ子供の兄弟が、健やかな寝顔で眠っていた。
「ああ…、可哀想に。2匹とも、安楽死処分されてるようですね」
「えっ? それマジか!」
 小並感たっぷりの情けない感想の言葉しか、動揺した俺の口からは、出てこない…。
 大津は1秒か2秒だけ目を瞑り、手を合わせ、
「急ぎましょう、あと2分しかありません!」と言って、駆け出した。
「お、おう」
 犬舎を出ると眩しい陽光と、ドローン部の部室が、お出迎えであった。
 それともう1人、素晴らしく目立たない服、薄紺のジャンパーにブラウンのパンツ、スニーカーを履いたおじさん、ミスター無色透明の人が、たまたまそこにいた感じで、こっちを振り返って見ている。
 昨日タクシーの運転手をしていた、松本さんやんけ!
 大津と松本さんは、目礼と会釈みたいなのを一瞬しあったが、大津はダッシュ速度を落とさずに、校庭の方に猛スピードで駆けてゆく。
 松本さんは徹底的にぼんやりした顔をしたまま、俺には軽い敬礼めいたものをした。
 違う、違う、ワイはそんなんじゃない。
 ちょっと頭悪いんじゃないか松本さん。
 俺はそう思いながら、横を素通りする。
「子犬2匹を薬殺して、不退転の決意、今日やり抜く覚悟ですね。先輩、ここが勝負です、気合を入れていきましょう!」
 そう言われても、俺に出来そうなことは何も無かった。
 だけどとりあえず、
「お、おう!」と俺は、喚くように答えた。
 
 山裾(やますそ)側から出た俺たちは、校舎の側面を回って駈けた。
 そして校庭(サッカーグラウンド)側に出た。
 そこには目を見開くほど華やかな光景が、広がっていた。
 手前に小さなステージがあり、今まさにルボシア国のミユル皇太子さまが、マイクの前に立たれて、何かを話そうとされている。
 脇にはスーツをしっかり着込んだ、通訳のお姉さんがいる。
 そしてステージのこちら側(後背側)に、社会の有力者的な感じの、偉そうな役員めいた人が、10人ぐらい座っている。
 列席している人は、500人くらいか。みんなこちらを向いている。
 太陽の直射を受けて白く輝く服を、みんな着ている。
 そしてその後ろには、煌めく太平洋の波が揺れている。
 カモメが海上の蒼天から、事件を見届けようとしていた。
 大津は怯むことなく、ルボシア国のミユル皇太子さまの背後に、突っ込んでいく。
 ミユル皇太子さまが気づく前に、大津は彼の真後ろに立った。
 と、その時、参列者の後方から、ニコニコ丸が中央通路を突っ切って、猛然と突進してきた。
 大津は迷うことなく、ステージ下に飛び降りた。
 ソフトターゲットの1人くらい、簡単に無効化出来るだけの小さな爆弾を、頭の前に付けていた。
 興奮剤を打たれて、凶暴な目をしたニコニコ丸だった。
 大津は迷わず70キロ近くで猛然と向かってくるこの犬の喉元に、シュパッと手刀を食らわした。
 ニコニコ丸は、大津にやられた人間と同じように、ドウと豪快にではなく、クタッと崩れるように倒れた。
 ただ人間より手強い彼は、
「キャン」と小さく声を上げた。
 そのとき、俺からは全然視界に入らなかった頭上から、クロドロ号が、ルボシア国のミユル皇太子さまの頭上めがけて、猛速度で襲ってきた。
 こちらも(後から知った話だが)ソフトターゲットなどたちどころに爆砕する分量の小爆弾を、下部に抱え込んでいた。
 高いところからの急襲、駄目だ、これは防げない…!
 そのとき大津は、ステージの上に駆け戻り、ダッ! とありえないほど高く、2メートルは跳躍した
(いや俺は見ていた、大津はステージに足は掛けなかった。3メートル以上はフワッと飛んだのだ)。
 そして小爆弾の雷管部分でもなく、指ぐらい切れてしまいそうなドローンの4機のプロペラでもない本体部分を、サッと掴んで、ステージ上に着地した。
 上下をひっくり返して、プロペラの動きを止める。
 そのまま大袈裟にではなく、スススッと滑らかに動き、俺の横を通り過ぎ、ステージ後方へと去ってゆく。
 などという間に、世界で一番目立たないルックスと所作振る舞いを身につけた松本さんが、俺の横を通り過ぎ、気絶しているニコニコ丸をよっこらしょと抱え上げ、(ステージに飛びあがる脚力は無く)ステージ脇から階段をあがり、また黒子のように目立たない動作で、大津の後を追った。
(目立たない、と言ってもニコニコ丸は大型犬で重いので、松本さんもガニ股になってワンちゃんを抱え上げ、えいしょ、どっこらしょ、とドタドタ運んだのだが、それがまた、「作業員の手慣れたルーティン作業風、この作業は毎日何十回もしてます風」で、少しも非常事態感がない、落ち着いた所作なのであった)。
 参列者はシン……としている。
「アトラクションです! 競演演武の見世物でした。みなさま失礼しました!」
 と、どこかから、若い男の声が聞こえた。
 滅茶苦茶な強引さで場の空気が、「それで納得しろ感」に、ねじ伏せられてゆく。
 やっと、世界で2番目に鈍い感じのルボシア国のミユル皇太子さまが「何事かが起こった」事に気づき、オロオロした表情を見せたが、そこで世界で1番鈍い俺さえも、正気に戻った感じになり、ステージの後方、大津と松本さんの後を追った。
 2人は犬舎の前に立っていた
「ニコニコ丸とクロドロ号と爆発物は、とりあえず、この中に入れて施錠しました」
「そ、それは良かった。それで、蟹埼先生と名取先生は」
「アルジェ兄弟です」
「そ、そうだった。追わないでいいのか?」
「逃亡を図りましたが、既に会場に入っていた別の捜査官が、追っています。主要空港、主要港にも手配が行っています。確実に捕らえられると思います。石原由紀きゅんというお姉様が、抜かりなく手配をして下さいました。痛い! 先輩、頭突き禁止です」
「うっせー、このボケ!」
「あんまりやるとムキになって、由紀きゅんと結婚して、先輩のお義父さんになっちゃうぞ!」
「そ、それだけはやめて下さい!」
「ともかく、我々は麗奈ちゃんを、救出しないといけません。本事案の首謀者とともに、今とらわれていると推定される場所に、これから向かいましょう」
「ああ」
「先輩、ここが本当の勝負です、麗奈ちゃんを救出する。僕たちの命に代えても、気合を入れて、いきましょう!」
 そう言って大津は、今日の記念祝賀会場(俺たちのサッカーグラウンド)の反対側、湘南宝光学園の校舎の別館の学園理事長館を、キッパリと指さしたのだった。

 松本さんを、犬舎の前に置いて、俺と大津は御所園家の居宅、すなわち学園理事長館に、急行した。
 理事長館は、もぬけの殻のようになっていて、人の気配があまりなかった。
 俺たちは、奥へと進む。
 理事長室に、俺たちを待ち受けている人がいた。
 御所園美姫さん。
 理事長代理だった。
「よく来たわね。座って頂戴」
 美姫お嬢様は、落ち着き払って、仰った。
 初めて入ったけど理事長室、これでもかと言うくらい広い部屋で、壁一面に、書籍が飾られている。
 いかつい背表紙の洋書が、多かった。
 数千冊くらいあったろう。
 彼女は巨大な机の後ろから立ち上がり、応接ソファーに身を下ろし、俺たちにも対面に座るように促した。
 雲の上に座ったような、極上の座り心地の、アンティークなソファーだった。
「こんなことになって、残念です」と大津が、口を開いた。
「そうね、本当に残念。……ごめんなさい、喉が渇いちゃった」
 彼女はスッと立ち上がり、ワイングラスを3つと、物凄く高そうな年代物のワインボトルを持ってきて、トクトクと注いだ。
 俺は相変わらずとっても美しい、理事長代理の豊潤で優雅なボディーに見とれて、圧倒されていたのは、内緒のことである。
「ちょっとだけ、飲も?」
 治外法権お嬢様が勧める。
 腹も減り、喉も滅茶苦茶乾いていた俺は、もうどうにでもなれと口に注いだ。
芳醇(ほうこう)馥郁(ふくいく)とは、こういうことを言うのか…)
 と驚嘆する、深い味だった。
 大津もスッと唇にグラスを付けて飲み、
「美味しいです」と呟くように言った。
 お嬢様はフフフッと微笑み、
「やっぱりあなたは、公安の人ねえ、平気で法令違反もする。飲酒の事ね。でも、今は飲んでないわね。変なものは、何も入ってないのに。お馬鹿さん」
 と、笑顔のまま言った。
「すみません」
 と大津は、頭を下げる。
 飲んでないとか、そんな事を俺が見抜けなかったのは当然だが、
(そうか、毒入りの可能性も、あったのか!)
 俺はその道のプロたちのやり取りを、愕然として、聞いていた。
「あなたは早い段階から、あたしが首謀者だって、分かってたのね。それで麗奈ちゃんが攫(さら)われても、危害は加えまいって、神奈川県警を巻き込まないでくれた。そうでしょう? だからミユル皇太子の暗殺まで、あと一歩のところまで行けた。結局は、失敗しちゃったけどね。フフフッ」
「でも美姫さん、僕が本当に確信したのは、昨日あなたが『明日のルボシア共和国歓迎式典で、ニコニコ丸とクロドロ号の、競演演武があるの』と言ってくれた時でした。その時に、この計画の全貌が、把握出来たんですよ。教えてくれた感じですよね。美姫さん、あの時あなたは、計画が失敗して僕に防がれること、捕まることを、予見しましたよね。そうでしょう?」
 理事長代理お嬢様は、コロコロと子供のように笑い、
「そうね。大津くんには、敵わないわね」と言った。
「長い話をね、本当に短く言うとね、私は去年お父様を叔父に殺されたの。そして叔父は私を意のままに操ろうとした。身体の交わりも含めてね。その形で分家筋から事業を取り戻そうとしたの。だから私は、叔父を殺した。系列の病院に検死させて、心臓を弾丸で撃ち抜いたのを、心筋梗塞という報告で済ませたの」
 カチリ、と音がして、豪華な卓上ライターの火が付いた。
 お嬢はいつの間にか咥えていた煙草の先を、オレンジの光にし、紫煙を吐き出した。
「1本だけ吸わせてね」
 と言ってニッコリ微笑んで、話を続けた。
「短く話すわね。私ね、医学部に入って、医者になって、沢山の人の命を救う一生をお送ろうと、決めてたの。……でもね、湘南宝光コーポレーションの経営権限を、相続や発表を前に、実質的に私が握って早々、武器密輸の話が回ってきて、『世界は殺し合いで満ちている』という現実を、私はあらためて、突きつけられた。東欧では激しい戦争が、起きている。南米やアフリカでも、毎日たくさんの人が殺されている。殺しあっている。クラスター爆弾や毒ガスや生物兵器は禁止されても、小火器も戦車も大砲も禁止されない。原水爆もね。おかしな地球よね」
「そうですね。…兵器は美しい。しかし兵器のなすことは、最もおぞましい。美化しちゃ駄目ですよね」
 大津が相槌を打った。
「そうね。…それでね、私は自分が医師になるより、義勇軍に入って戦いながら、世界平和を訴える、そんな道に入ろうと思ったの。今日この後、ルボシア国に飛ぶ予定だった。医師として何千人の人の命を、生涯を掛けて救うより、何百万人、何千万人、何億人の命を救いたい。たとえ途中で、この命が絶えようとも。戦いの場に身を置きながら、世界に向けて命の大切さを渾身の叫びで発信しよう。…そう思ったのよ」
「そのために、ミユル皇太子を殺害するしか、なかったのよ。あの国の現体制である、国王や指導層と、連絡を取り合ってね。…ミユル皇太子は、私が『不戦の叫びのために、戦いの場に身を置く』機会を奪うような、小さな国の微力な平和主義者だったからね。それでは駄目なのよ!」
「美姫さんの仰ることは、なんとなく分かります。平和のための戦闘や戦争。人類はいつでも、そのために命を捧げてきたんですから。僕はそれを、絶対に否定しません」
 大津がそう言うと、お嬢はスーッと小さな吸う息を聞かせて、深呼吸をし、
「そう言ってくれて、大津くん本当にありがとう。本当に嬉しかった。最後にあなたと話せて良かった。これで後腐れなくって言うかな、お縄を頂戴できるわね」
 と言った。
 そして、対面している俺たちの後背の上空を、見詰めた。
 そこには軍服、燕尾服、背広、背広、湘南宝光コーポレーションを生み育て、御所園美姫に身体と魂を受け継がせた、4代の先祖、経営者の写真が飾られていた。
 俺には上手く言えないけど、4人とも生涯を掛けて「愛する国の正義」のために、頑強で分厚い信念を持って、一生を戦った人たちであることは、不思議なほど清々しく分かる、肖像写真だった。
 また彼女は窓から、外の白雲を見てもいた。
 その雲が、瞳の中で揺らいでいる。
 お嬢の涙によってだった。
 彼女は初めてワインを口にした。
 そして数秒もしないうちに、前のめりにグラッと倒れた。
「しまった!」
 と大声を上げ、大津が立ち上がり、彼女に手を伸ばした。グラマーな半身を抱き上げ、
「美姫さん! 美姫さん! しっかりして下さい!」
 と叫んだ。
 何度も、何度も、同じ言葉を叫び、手首の脈を取り、ガックリとうなだれながら、彼女の亡骸を抱いた。
 ふと見ると、大津は両目を真っ赤にし、大粒の涙をボタボタと垂らしながら、泣いていた。
「自分のワイングラスにだけ、毒を入れていたんですね。迂闊(うかつ)でした…。頬が紅潮してきたし、微かにアーモンドの匂いがします。青酸カリでしょう。もう絶命しています」
 そう言って彼女の亡骸を抱き上げ、ソファーに横たえさせ、合掌した。
 俺も慌てて合掌する。大変なことが起きてしまった。
   
 だが話の展開は、まだ終わらなかった。
 そのとき、突然ピーッ、ビーッ、ピーッ、ビーッと、非常に不穏な警告音のようなものが、鳴り響いた。
 俺も大津も、何事かと身構え、音の出所を探した。
 音は天井付近の、スピーカーから出たものだった。
 だがそこで、何と御所園美姫の声が、聞こえ出したのだ。
『今、あたしのこの声を聞いているという事は、あたしの身体はまだこの部屋にあって、でも、あたしの心肺機能は停止したという事ね。バイオテクノロジーを使った、仕組みを作っておいたの。……残念だけど、仕方が無いわ。それで、短く話すわね。まず理事長机の上の電話のボタンで、♯を長押しした後、0239(オーツミク)と押してみて』
 飛びつくように、大津がそうした。
 すると「プシュー」と言う音とともに、理事長机の後ろの装飾本たちの一角が、ゆっくり前にせり出してきて、そこには白銀色の男女のスキーウェアと、真夏の海辺用の男子の水着と、女子のビキニが、一着ずつ格納されていた。
『ごめんなさい。詰まらないものを出して。これはね、昨日大津くんの好きな色を聞いた後、駅ビルの有閑堂書店の上の湘南スポーツ、あそこはうちの系列なの、あそこから取り寄せた、水着とスキーウェアなの。あたし、最後の最後まで、大津くんと愛し合いたかった…。許してね。大津くんのサイズに合うはずよ。そして、あたしはいつもハイヒールを履いていたけど、本当の身長は162だから、麗奈ちゃんと、ほとんど変わらないの。これ、いつかあたしのかわりに、麗奈ちゃんと2人で着て、楽しんで来てほしいの。一生のお願いね。死んだ私からの』
 そこまで言うと、死者である美姫お嬢の声は、言葉が大津の心に染み渡るのを待つように、10秒くらい止まった。
 それから、
『それでは次に、♯を押して、0207(オーツレナ)と押してちょうだい。大津くん、さようなら。これからも、頑張ってね』
 また大津が、目にも止まらぬ速さで、番号をプッシュする。
 すると、今水着とスキーウェアが出てきた隠し空間のすぐ隣、ただ2倍くらい開口部が大きいところから、最後の秘宝が出てきた風の大きな「プッシュ―」という大きな音と風圧がして、装飾本棚が開き、ビロードの内張りをした格納スペースが、ゆっくりとせり出してきたのだった。
 そこには、我が妹の麗奈が、猿轡(さるぐつわ)をされ、両手両足を縛られて、横たわっていた。
(ああ、麗奈が見つかった、助かった)と思った瞬間、俺は安心して力が抜け、その場にへなへなと座り込んだ。
 大津が麗奈を抱き上げて床に下ろし、すぐに猿轡と縄をほどいた。
「麗奈ちゃん、もう助かったよ、大丈夫、遅くなってごめんね」
「大津くん、(一瞬こっちを振り向いて)お兄ちゃん、ありがとう」
「どう? 大丈夫?」
「ちょっと喉が、渇いちゃった…」
「今これしかないけど、飲んで」
 大津は自分が一口飲んだ(ふりをした)ワインを持ってきて、「これはやはり、やめとこう。万が一ってこともあるし」と言って戻し、俺のワイングラスも持ち掛けて止め、ワインボトルを選び、その口から直接麗奈に飲ませた。
 麗奈はゴクゴク、と喉を鳴らせて、美味しそうに、少し未成年飲酒した。
「…どう? 落ち着いた?」
「うん…。でも、大津くんが来てくれて、本当に嬉しい」
「この前言ったろう? 僕はオーツー、麗奈ちゃんの酸素になるって。もう君は、僕無しでは一生、生きていけないよって。ずっと、守ってあげるからね。約束したろ?」
「うん…。オーくん、ありがとう…」
「麗奈ちゃん…」
 そこで2人は、「未成年飲酒」や「未成年喫煙」をはるかに上回る重罪である、「未成年抱擁」並びに「未成年チュー」という極悪極まりない犯罪を、涙を流しあい、抱き合いながら、したのであった。
 身も蓋もない言い方をすれば、ベロチューであった。
 俺は脳内で、大津に死刑判決を言い渡し、奴の頭をチェーンソーで真っ二つにパッカーン切断するシーンを想像しつつ、(はらわた)をグツグツと煮え繰り返しつつ、少しだけ我慢して…、そのあとキスを止めさせた。
 もうなんか本当に俺は疲れていて、疲労困憊、言葉が上手く出てこない感じだった。

 翌日、俺たちは高校選手権の地区予選の決勝である、大宿敵の悪魔校の湘南工業高校戦の、ピッチに立っていた。
 ハッキリ言って、正確な資料は残っていないが、大体うちの方が、大きく負け越している。
 多分昭和の時代から数えた総対戦成績は、30敗くらいうちの方が多いんじゃないか? と部では言われている、地域の強豪であった。
 少なくともここ5年は、勝っていない。
 俺たちは、理事長代理こと御所園美姫が「心筋梗塞」で急逝したため、喪章をつけて試合に臨んだ。
 どこから情報が漏れていたのか、大津という超強力な新戦力がいることは、しっかり伝わっていて、彼はキックオフ直後から、徹底的な2人がかりのマークを受けていた。
 相手は5バックでガチガチに、守備を固めていた。
 そのためうちは、バックスから中盤までは自由に球を持てる、だがそこから先はパスコースを限定され、フィニッシュまで持ち込めない展開で、前半は互いにスコアレスで終わった。
 うちが押しているようにも見えたが、相手の速攻の反撃も鋭く、こっちも必死に防戦したが、2度もバーを叩いた相手の「惜しいシュート」という奴を食らった。
 サッカー知ってる人ほど、相手の方が優勢の前半と見る、というやっちゃ。
 大変苦しい。
 ハーフタイムで、大津が提案して、中盤を厚くして、互いの距離感を近くし、動き出しの連動性を高める戦術を取った。
 後半、それでもうちは、なかなかフィニッシュまで持ち込めない。
 後半になったら、大津の前に1人プラス、横に2人という、さらに徹底的なマークにあい、なかなか彼も、ボールを触れなかった。
 しかしついに、均衡が破れる。サイドから内に返ったボールを、右に流れた大津が受け、1人抜き、自ら切れ込んで放った豪快なミドルシュートが、ゴールネットを揺らした!
 しかしそれから3分の後、こっちのフルバックが痛恨のクリアミスを犯し、相手はいとも簡単に、同点に追いついてしまう。
 お? 
 それは誰って? 
 はい、そうです。
 私です、俺の事だお。
 だからあ! 
 言ってたでしょ!
 俺は、疲れてたの。妹の事件で。
 ま、それはともかく。
 試合の残り時間は、あと5分無かった。
 我々は、左コーナーキックを獲得した。
 これが最後かもしれない。
俺たちはキーパー以外、みんな敵のバイタルエリアに入り、決死の気持で陣取った。
 そのとき大津は、みんなを自分の方に、寄ってこさせた。
 なぜかその時みんなが、大津のお呼び付けに従った。
 ほぼほぼ10人が、ちょっと集まった。
 極短ミーティングのようなムードが、醸し出された。
 そしてまるで、主将のように言った(ムキッ)。
「先輩方、ここが勝負です、気合を入れていきましょう!」
(ワイはそのセリフ、昨日も聞いたけどなー。口癖かよ! 勝負セリフかよ。フン! なんかカッケーなあ)と思う俺。
「ニアと見せかけて、ファーの自分に、合わせて下さい」と大津は続けた。
「はい、みんな、早く散って! 時間稼ぎしない! プレー続行!」
 審判のお叱りを受け、広がろうとする俺たち。
 そのとき大津が、
「キャプテン、キャプテンが、蹴って下さい」と言った。
 そのとき周りのみんなを見ると、みんな俺を見詰めながら、
(ウン)
(ウン)
 と頷き、
(大津キャプテンが言ってんだから、お前が蹴れ。早くしろ)
 みたいに、目が命じていた。
 俺は完全に、爆発的に、アッタマ来た。
 キャプテンは、俺やないか~い!
 だが、試合に勝ちたい一心であったので、蹴ることにした。
 いつもは気の利かない仲間たちが、手を上げたりしながら、ニアに走りこむ。
 そこで俺は、ファーの大津目掛けて、渾身のボールを蹴り上げた!
(シマッタ! あまりに高く、蹴り過ぎた!)
 俺がそう思った時、大津が敵の肩口に手も当てながら、昨日と同じように、見たことも無いほど、3メートルも飛びあがった。
 そして、ありえないほど長く最高到達点にとどまって滞空し、ドンピシャのタイミング、前頭部(おでこ)でボールを、ズドーン! と叩きつけた。
 ボールは、美しい稲妻のような閃光を放ち、敵のゴールキーパーの虚空を掻き出そうとする虚しい腕振りの一寸先を通過し、ボゴッ、ズジャーッ! とネットに、食い込んだのだった。
 俺はその瞬間、両腕を広げ、空の全体を覆うようになった大津の大きな黒い姿を見て、
(こいつ、鬼神やったんや……)
 と、確信した。
 なにか納得したのだった。
 割りとマジで。
 俺たちも、応援してくれる家族やクラスメートたちも、大興奮の勝ち越し点。
 それからロスタイムも入れ10分近く、俺たちは奮闘し、必死に守り抜き、激戦を制したのだった。
 俺たちは勝利の美酒、いやコーラやスナック菓子で祝勝ミーティングをした。
 こんなにうまい軽食は、今まで食べた事、絶対無かった。
 全身から嬉しさとか満足感が溢れだし、俺は何度も、大津パイセンに礼や褒めの言葉を授けたのだった。
 行くぜ国立競技場(ムリ)。
 輝く青春。
 湘南宝光学園万歳! 
 味わったことのない、胸の中をスースーと通り抜けていく風のような勝利の喜びに、我々はいつまでも、いつまでも、浸っていた。

 …と、ここまででこの話は、一応終わり。
 だが一応、その日の帰り道の会話も、おまけで付けておく。
 俺と大津は、2人で俺んちに向かっていた。
 それは、なぜか俺より先に、大津が俺んちに先着している展開が非常に気に食わないので、じゃあ一緒に帰りましょうという話に、してやったのだ。
 自転車では、すぐ着いてしまうので、2人して自転車は手押ししながら、ゆっくり歩いた。
 まるで、仲の良い兄弟みたいに(いや、俺はまだ麗奈と大津の結婚を認めたわけじゃないぞ!)。
 あるいは、親友みたいに…。
 もちろん話題は、今日の試合の事。
 サッカー選手は勝った試合の話で、だいたいメシ3杯は、食べられるから。
 しかし弟は、もとい大津は、俺の受験の志望校の話とか、話題をずらしてくる。
 そして、「頑張れば、きっと必ず、現役で受かりますよ」と言い、俺を熱く励ましてくれたのだった。
 何か心に「ポッ」と火が灯るような、嬉しい感覚を、俺は得た。
(そうだな、頑張ろう、こいつや麗奈と、同学年にならないように)
 俺はそのとき、決意を固くした。

 しかし、そうホッコリした瞬間の感激(間隙でもあった)をザクッと突いて、大津がまた話題を変えてきた。
「しかし、変ですよねえ…」
「なにが?」
「いえね、この湘南地域の、地域セルの話なんですけど…」
「なんでそんな話が出てくんの? 俺は知んないよ?」
「地域セルは、本当に特殊な新チーム形態のオペレーションで、それぞれが関係なく生活し、その素性とか本名も知らない3名で、必ず構成される事になっているんです」
「…だから何? それが何?」
「この地域の場合は、2名は石橋由紀さんと、石橋麗奈ちゃんでした。まあ関係なく暮らす構成員のはずが、母娘でしたが、試験的な始動を始めたばかりの作戦ですから、そういう未達事項も、あるでしょう。それで先輩、あとの1人には、もしかして、心当たりはありませんか…?」
「知らねえよ。このすっとこどっこい。俺がそんな事、知るわけねえだろが」
「そうですか? 私、その第3メンバー、すごく巧みに一般人に紛れ込んでいて、とても頭が良くて、嘘が上手って、聞きましたけど」
「誰にだよ?」
「由紀ちゃんに。ちょっとだけ。石原由紀さんに」
「チッ! 知らねえよ。このウンコチンコ野郎。俺がそんな事、知るわけねえじゃんか」
「昨日、暗殺未遂事案の起きた現場で、誰かが『アトラクションです! 競演演武の見世物でした。みなさま失礼しました!』と言ってくれたでしょう? あれ、本当に助かりました。場の空気が、騒然としなくて済みました。あの時現場には、実は7名の捜査官がいたんですが、誰もそんな事は言ってない、という話なんですよね」
「だから、俺は知らねえって言ってんだろ! 頃すぞ!」
 俺はそれでブチ切れて、大津の頭に渾身のヘディングを、お見舞いしたのだった。
「ぴえーん。分かりました、もう言いませーん。許して下さーい。暴力反対でーす!」
 大津はそう叫び、頭を腕で防ぎながら、ニコニコと爽やかに笑って、こっちを見たのだった。
(先輩をからかいやがって。俺の最も都合が悪いとこを、容赦なく正確に、突いてきやがる。大津って、本当に嫌な奴だな。やはり妹との結婚は、絶対に許さんとこ)と一応思ったのだが…。
 からのー。
 俺は(よし、じゃあまあ、怒った分は、許してやるか)と決めた。
 俺は、大津に負けないくらいの、爽やかな微笑み返しを、してやったのだった。
「ところで大津、お前、これ、初仕事だったの?」
「いいえ、今までにも、2、3件、片づけてます」
「そうなのか。俺はこれが、初仕事だった。『高校生刑事の初仕事』。つまりこれは、俺の物語だったっちゅー事だよな?」
「認めましたね?」
「認めてないよ」
 ニコッ。
 やめてよー。
 もうその話題は。

 これでこの物語は、終わりである。
 あとはお菓子とジュースで、4人でお話会をする予定である。
 それじゃあな、また会う日まで!