それから月日は流れた。
透と紡の死は一時、街をざわつかせた。
報道では「若い男女の死」として短く取り上げられ、SNSには様々な意見が飛び交った。

「後を追う必要が無い」
「命を投げ出すなんて間違っている」
「遺された遺族の気持ち考えて欲しい」

と、批判する声。
一方で、

「こんなに純粋な愛があるなんて信じられない」
「生まれ変わっても一緒にいて欲しい」

と涙を流す人たちもいた。
それでもしばらく経てば、2人の生きた痕跡を人々は忘れていく。

そんなある日、私はふと、あのビルの前を通りかかった。
街灯の届かない場所に、ひっそりと白い百合の花束が置かれていた。
添えられたカードには、こう書かれていた。

「二人の愛は永遠に」

なぜだろう。その言葉が心に深く残った。
それをきっかけに私は調べ始めた。
出てきたのは、数ヶ月前の小さな記事。

——「交通事故で亡くなった高校生・朝日奈紡」
彼女の死から約一ヶ月後、恋人だった雨宮透が、彼女の後を追うようにこの世を去ったという。

“何も残さなかった”と、最初はそう報じられていた。
けれど実は、透の祖母のもとに一冊のノートが届いていた。
彼が日々綴っていた、かけがえのない想いの記録だった。

私は、雨宮家に連絡を取りその日記を読ませてもらった。
何気ない日常、ちいさな幸せ、彼女と過ごす時間の尊さ。
ページをめくるたびに、透という一人の少年の心が、そっと自分の中に流れ込んできた。
紡という存在が、彼の中でどれほど大きく、美しく、温かかったのかがわかる。
この日記や透の祖母、紡の両親の承諾や協力を経て、2人の生きた証を映画にすることを決めた。
公開後、賛否は当然のように分かれた。

「透の愛の重さが染みる」
「過去の自分と重ねてしまって号泣した」
「単純に死を選ぶべきでは無い」
「愛が命を奪うのは正しいわけではない」

それでも、多くの人がこの作品に心を動かされたのは間違いなかった。
批評家たちからも称賛を受けた。同時に批判も受けた。
社会的な議論が巻き起こり、メディアはこのテーマを取り上げ続けた。透と紡の死が持つ意味や、若者たちの心の苦悩について、多くの人が語り始めた。

やがて、映画も過去のものとなり、街は日常を取り戻した。
でも今も、私はときどきあのビルの前を通る。
季節ごとに変わる花束が、そっと置かれているのを見るたびに思う。

誰かが、今も2人を想っている。

私は脚本家としてこの物語を書いた。
けれどそれ以上に、1人の人間として"透と紡"という、あまりにもまっすぐな2人を、きっとずっと忘れない。

思い出すたびに、あの日記の一節がふっとよみがえる。

「紡、君がいなきゃ、僕は何も知らないまま終わってた。ありがとう、君がいてくれて」

その言葉は、今もどこかで静かに、風の中を漂っている。愛の真実は、いつまでも語られず、影の中に埋もれているのかもしれない。