来る日も来る日も、学校が終われば僕は彼女の元へ行った。
教室では平然を装っているけれど、あの"可哀想"という言葉がずっと心に引っかかっていた。
言われたのは、学校に退院してから登校した時の一回だけだったけれど、どうしても忘れることが出来なかった。
授業中や、僕が自分の机に向かうときの周りの視線、ひそひそ話。
全てがあの日を思い出させる。
あの日の自分は、心の中で小さく震えていたんだろう。
そんな気持ちを抱えたまま、僕は静かな病室の扉をノックする。
彼女の寝顔を見た瞬間、胸の奥のモヤモヤはどうでもよくなった。
「紡、今日も来たよ」
この言葉をかけることが今の日課となっていた。分かっているけれど、当たり前に返事は無い。
それでも、彼女の手を握り、椅子に腰かけると心が少しだけ落ち着いた。
病室で過ごす時間は、日記をつけることで彼女と長く一緒にいた。
ページを開くと、今日あった出来事を、ささやかな思いとともに書き込む。
何気ない話を、毎日少しずつ。
彼女が目を覚ます日を信じて、文字を書き続けた。
「放課後に見た夕陽、すごく綺麗だったんだ。紡にも見せたかったな。」
書きながら声に出す。つい口にしてしまう。
彼女のそばにいながら、日記の新しいページに思いを綴っていく。
彼女がいつ目を覚ましてもいいように。
この入院期間のことが、将来笑って話せる思い出になるように。
僕が日記を書いているだけで、空間は五分、十分と静かな時間が流れるだけだった。
「あ、そうだこれ見てよ」
ページをめくる度に、過去の思い出が鮮やかに蘇る。
「ここ、覚えてる?夏祭りで花火が上がったとき、紡があれってハート型に見える!って僕にたくさん教えてくれたんだ。ぶっちゃけ僕はただの丸にしか見えなかったけど、紡が見たものを共有してくれるって嬉しかったんだよ。」
返事はない。
だけど、読み返す声に合わせて、あの日の浴衣姿が鮮やかに蘇った。手を伸ばせば届きそうで届かない、その距離感が切なくも良かった。
また別の日は、今日の出来事を書き込みながら語りかける。
「僕ね、また体育の授業に参加できるようになったんだよ。今日は体育でサッカーした。ゴール前に立ってたら、偶然ボールが当たって歓声が上がったんだ。僕に似合わないって言うかな?」
声に出して笑ったけれど、返事はない。
その沈黙さえも、どこか"聞いてるよ"と返ってきているように思えて、少し救われた。
雨の日には、特に彼女のこと考える時間が長くなる。濡れた制服の裾を拭きながら彼女に話した。
「今日は大雨で、バス停から走ってきたらびしょ濡れになった。……紡がいたら、絶対カッパ着なよ!傘さしなよ!って笑いながら言ってただろうな」
自分の想像で彼女の声を補う。
その空想の会話が、寂しさをほんの少しだけ和らげてくれた。病室の片隅で、窓からの雨音を聞きながら僕はその小さな会話を胸に刻む。
時々、光さんが病室に来ていて、僕を見て優しく微笑んだ。
「透くんが話しているとき、紡は表情が和らぐのよ。ちゃんと届いているのよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
返事がなくても、僕の声は彼女に触れている。
それだけで救われた。
けれど、日記が進むたびに不安も増していった。
「ページはどんどん増えていくのに、紡の時間は止まったまま…」
その思いが胸を締め付ける。ペン先が震えて、文字が涙で滲む。
「ごめん、字、汚くなっちゃった」
落ちた涙を拭おうと、服で紙を擦った。
苦笑しながら、彼女の手をぎゅっと握る。
文化祭の日。
クラスのみんなが準備に忙しく動いていたけれど、僕の心は上の空だった。放課後、真っ直ぐ病院へ向かう道すがら、学校の廊下で聞こえる笑い声が遠く感じる。
「今日は文化祭の準備で教室がごちゃごちゃしてた。紡、もし元気だったら絶対楽しんでただろうな。写真いっぱい撮って……。めいいっぱいはしゃぐその姿が目に浮かぶんだ」
彼女の反応はない。
でも僕の心には、文化祭を楽しんでいる彼女の笑顔が鮮明に浮かんだ。
日記のページが厚くなる。
シャープペンの跡が重なって、ノートが膨らんでいく。
それはまるで、彼女が目を閉じたまま過ごした時間の証のようだった。
日記を閉じると、無機質な病室の空気が少しだけ柔らかくなる。外の風や木々のざわめき、遠くで聞こえる看護師さんの足音さえ、心地よいリズムとして染み込む。
「紡、また今日も日記書いてる。僕の日記をいつも楽しみにしてくれてたじゃん。ただ僕の気持ちを綴っているだけの、あの日記。……早く聞いてよ」
声に出すことで、自分の存在も、紡の存在も、同じ時間の中に確かにあると感じられる。たとえ返事がなくても、日記と声で紡と繋がっている。
願うように呟いてページを閉じる。
無機質な音が響くだけの病室に、僕の声とシャープペンの音だけが静かに溶けていった。
その日も、透くんは病室の窓から外を見やる。秋の風が少し冷たく、木々の葉が黄色や赤に色づき始めていた。
「紡、次の季節も一緒に見ようね」
そう心でつぶやく。
文字を紡ぐたび、彼女との時間もまた、ゆっくりと流れていく。
教室では平然を装っているけれど、あの"可哀想"という言葉がずっと心に引っかかっていた。
言われたのは、学校に退院してから登校した時の一回だけだったけれど、どうしても忘れることが出来なかった。
授業中や、僕が自分の机に向かうときの周りの視線、ひそひそ話。
全てがあの日を思い出させる。
あの日の自分は、心の中で小さく震えていたんだろう。
そんな気持ちを抱えたまま、僕は静かな病室の扉をノックする。
彼女の寝顔を見た瞬間、胸の奥のモヤモヤはどうでもよくなった。
「紡、今日も来たよ」
この言葉をかけることが今の日課となっていた。分かっているけれど、当たり前に返事は無い。
それでも、彼女の手を握り、椅子に腰かけると心が少しだけ落ち着いた。
病室で過ごす時間は、日記をつけることで彼女と長く一緒にいた。
ページを開くと、今日あった出来事を、ささやかな思いとともに書き込む。
何気ない話を、毎日少しずつ。
彼女が目を覚ます日を信じて、文字を書き続けた。
「放課後に見た夕陽、すごく綺麗だったんだ。紡にも見せたかったな。」
書きながら声に出す。つい口にしてしまう。
彼女のそばにいながら、日記の新しいページに思いを綴っていく。
彼女がいつ目を覚ましてもいいように。
この入院期間のことが、将来笑って話せる思い出になるように。
僕が日記を書いているだけで、空間は五分、十分と静かな時間が流れるだけだった。
「あ、そうだこれ見てよ」
ページをめくる度に、過去の思い出が鮮やかに蘇る。
「ここ、覚えてる?夏祭りで花火が上がったとき、紡があれってハート型に見える!って僕にたくさん教えてくれたんだ。ぶっちゃけ僕はただの丸にしか見えなかったけど、紡が見たものを共有してくれるって嬉しかったんだよ。」
返事はない。
だけど、読み返す声に合わせて、あの日の浴衣姿が鮮やかに蘇った。手を伸ばせば届きそうで届かない、その距離感が切なくも良かった。
また別の日は、今日の出来事を書き込みながら語りかける。
「僕ね、また体育の授業に参加できるようになったんだよ。今日は体育でサッカーした。ゴール前に立ってたら、偶然ボールが当たって歓声が上がったんだ。僕に似合わないって言うかな?」
声に出して笑ったけれど、返事はない。
その沈黙さえも、どこか"聞いてるよ"と返ってきているように思えて、少し救われた。
雨の日には、特に彼女のこと考える時間が長くなる。濡れた制服の裾を拭きながら彼女に話した。
「今日は大雨で、バス停から走ってきたらびしょ濡れになった。……紡がいたら、絶対カッパ着なよ!傘さしなよ!って笑いながら言ってただろうな」
自分の想像で彼女の声を補う。
その空想の会話が、寂しさをほんの少しだけ和らげてくれた。病室の片隅で、窓からの雨音を聞きながら僕はその小さな会話を胸に刻む。
時々、光さんが病室に来ていて、僕を見て優しく微笑んだ。
「透くんが話しているとき、紡は表情が和らぐのよ。ちゃんと届いているのよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
返事がなくても、僕の声は彼女に触れている。
それだけで救われた。
けれど、日記が進むたびに不安も増していった。
「ページはどんどん増えていくのに、紡の時間は止まったまま…」
その思いが胸を締め付ける。ペン先が震えて、文字が涙で滲む。
「ごめん、字、汚くなっちゃった」
落ちた涙を拭おうと、服で紙を擦った。
苦笑しながら、彼女の手をぎゅっと握る。
文化祭の日。
クラスのみんなが準備に忙しく動いていたけれど、僕の心は上の空だった。放課後、真っ直ぐ病院へ向かう道すがら、学校の廊下で聞こえる笑い声が遠く感じる。
「今日は文化祭の準備で教室がごちゃごちゃしてた。紡、もし元気だったら絶対楽しんでただろうな。写真いっぱい撮って……。めいいっぱいはしゃぐその姿が目に浮かぶんだ」
彼女の反応はない。
でも僕の心には、文化祭を楽しんでいる彼女の笑顔が鮮明に浮かんだ。
日記のページが厚くなる。
シャープペンの跡が重なって、ノートが膨らんでいく。
それはまるで、彼女が目を閉じたまま過ごした時間の証のようだった。
日記を閉じると、無機質な病室の空気が少しだけ柔らかくなる。外の風や木々のざわめき、遠くで聞こえる看護師さんの足音さえ、心地よいリズムとして染み込む。
「紡、また今日も日記書いてる。僕の日記をいつも楽しみにしてくれてたじゃん。ただ僕の気持ちを綴っているだけの、あの日記。……早く聞いてよ」
声に出すことで、自分の存在も、紡の存在も、同じ時間の中に確かにあると感じられる。たとえ返事がなくても、日記と声で紡と繋がっている。
願うように呟いてページを閉じる。
無機質な音が響くだけの病室に、僕の声とシャープペンの音だけが静かに溶けていった。
その日も、透くんは病室の窓から外を見やる。秋の風が少し冷たく、木々の葉が黄色や赤に色づき始めていた。
「紡、次の季節も一緒に見ようね」
そう心でつぶやく。
文字を紡ぐたび、彼女との時間もまた、ゆっくりと流れていく。
