「これ、(みなと)だよね?」

 血の気が引いていく、という感覚を初めて知った。
 どうしてバレたんだろうとか、いつからおれだと気付いていたんだろうとか、そんなことよりも目の前の男がおれの存在を認識していたという事実の方が遥かにおれを驚かせた。
 いつもクラスの中心にいて、誰に対しても分け隔てなく屈託のない笑顔を見せているこいつには、日陰の暗くジメジメした場所に長年放置されたままの植木鉢の下で誰に気付かれることもなくひっそりと息をしているダンゴムシみたいなおれの存在など、そこにいることすら認識できないだろうと思っていたのに。
 そいつの手にしているスマートフォンの画面はおれの方に向けられて、そこにはおれもよく知っている動画投稿サイトのとあるチャンネルが表示されている。アイコンもヘッダー画像も中にいる奴の人物像を連想させるようなものは一切使わず、よくある無難なフリー素材を使ってカモフラージュしていたのに。

「……違うけど」
 渇いた喉の奥から絞り出した声は掠れていた。背中に嫌な汗がじっとりと滲んできて、寒いんだか暑いんだか分からない。
「大丈夫だって、言いふらしたりするつもりはないよ。だから正直に答えてくれる?」
 そいつ――花村(はなむら)は、薄い唇の端をにっと上げて笑った。

 人見知りなんて可愛いものじゃない。自分が他人と話すことに病的なまでの苦手意識を抱いていると気付いたのは、物心ついて間もない頃だった。
 まだ幼かったおれは、それが普通のことだと思っていた。おれ以外の他の人たちもみんな、誰かと会話するのはできれば避けたい嫌なことだと感じているのだろうと思っていたのだ。でもそうではなくて、他人の前で喋るのをこんなに怖がっているのはおれだけなんだと知ったその時から、おれは自分以外の他人が自分とは全く違う生き物のようにしか見えなくなってしまった。

 どうしてみんな、そんな楽しそうに笑って喋れるんだ。
 自分以外の誰かに見られているのに、何故そんなへらへら笑って話せるんだ。

 誰かに見られていると思うと、もうそれだけで自分の意見など何ひとつ言葉にできなくなってしまう。自分の思っていることを声に出して誰かに伝えようとしている自分を、誰かがじっと見ている。その視線はおれにとって、この世の何よりも恐ろしく耐えがたいものだった。

 小学校に通うようになって、最も苦痛でならなかったのは国語の授業で教科書を音読させられる時間だった。
 数十人の生徒が同じ教室の中でただ黙ってしんとしている中、席を立って教科書に記された文章を声に出して読み上げる、あの拷問のような時間。あんなものを学校の教育課程に組み込んだ奴は頭がおかしいと思っている。
 物語や随筆なんて各自で黙読して内容を理解すればそれで済む話だというのに、何故わざわざクラスの連中が一堂に会している中でその中のたった一人に読み上げさせるのか。おれは今でも理解に苦しむ。

 自分の中の恐怖心を誰かに勘付かれたら一巻の終わりだ。そう思って、おれはとにかくさっさとその場を切り抜けて何事もなくやり過ごすことだけに集中した。
 でもどうしてもだめだった。こっちに向けられた他人の視線を意識すればするほど焦ってしまう。一秒も早くこの拷問から抜け出したいというのに、焦りばかりが募って、その場の沈黙がいっそう重く圧し掛かってくる。そうなってしまうともう頭の中では軽くパニックを起こして、もはや自分の意思で口を動かすことも声を発することもできなくなるのだ。
 早く終わらせようと焦るあまり異常なほど早口になってしまい、そのせいでつっかえると、更に周りの視線が気になってくる。
 あの時の、クラスでも派手な見た目をした女子たちがくすくす笑う声。おれに対する侮蔑を隠そうともしないあの嘲笑がトラウマになって、それ以来おれは女子が怖くなってしまった。

 どうにかしなくてはと、子供ながらに思っていた。人前で喋ることに対する苦手意識を完全に消し去ることはできなくても、このままだと大人になってから確実に日常生活を送るのに支障が出る。
 親の庇護下にある今はまだ何とかなっているかもしれないが、自立して働くようになった時、他人とまともに会話できないとあっては仕事なんてできるわけがない。
 将来の自分に対する焦りと不安から、おれはこの厄介な苦手意識をどうにかして克服する方法を模索し始めた。そんなある日、動画投稿サイトをぼんやり眺めていた時に偶然流れてきたひとつのある動画にふと目が留まった。それは声優が世界の児童文学を朗読するという企画の動画で、朗読している声優の顔は出さずにその作品の挿絵だけを背景にしていて、声優の朗読に聴き入っているうちにおれは閃いたのだ。
 人の視線が気になるのなら、誰にも見られていなければまともに喋れるかもしれない。
 朗読者の姿も顔も一切出さず、ただ淡々と物語を読み上げているその動画を最後まで視聴した時、それまで真っ暗だったこの先の道におれは一筋の光明が差すのを見たような気持ちになり、見よう見まねで朗読の配信を始めた。

 結果、おれの推測は当たっていて、誰に見られることもなく自室に篭って一人で朗読していれば、自分でも驚くほどすらすらと滑らかに文章を読み上げることができた。
 藁にも縋るような思いで始めた朗読だったが、意外にもおれは声を出して何かを読むこと自体には苦手意識も抵抗も抱いていなかったのだと初めて知った。
 誰も見ていない、それだけでこんなにも肩から力が抜けて声が滑らかに出てくるのかと驚いた。途中でつっかえてもそこだけまた録音し直せばいいし、早く終わらせようと焦らずゆっくり自分のペースで読んでもくすくす嘲笑されることはない。
 授業中の音読はたった一度の失敗も許されないが、一人での朗読は失敗しても何度だってリテイクできる、その違いもおれにとっては大きかった。

 朗読するのは主に日本文学だ。本棚の隅で埃を被っていた小中学校の教科書を引っ張り出してパラパラめくり、たまたま目が留まった作品を適当に選んで読み上げる。始めたばかりの頃は古典の短歌をいくつか、長い文章の朗読に少し慣れてきた頃からは日本文学を読むようになった。題目は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や『オツベルと象』、芥川龍之介の『羅生門』とか、太宰治の『走れメロス』など、現代文の教科書では定番どころの作品を選ぶことが多く、たまに気が向いた時は学校の図書室で物色することもある。
 そしてこれはおれのこだわりでもあるのだが、毎回いきなり録音するのではなく、まず一度黙読して、登場人物の心情や場面の空気を自分なりに想像してから朗読するようにしている。特に、人物のセリフには気を遣う。抑揚をつけて感情豊かに読むのか、ほとんど棒読みみたいに淡々と読むのか、そこを変えるだけでも同じセリフなのに受ける印象が全く違ったものになってしまう。
 おれは朗読劇に関しては何の経験も知識もない全くのど素人だけど、やるからにはせめて自分で納得できるものを録りたい。動画投稿サイトで配信すれば誰かしらの目に留まって聴かれることになる。これがおれの完全な自己満足なら、録音したものをわざわざネットに上げて全世界へ公開する必要はないのかもしれない。だけど、誰かに聴いてもらうことを意識して読むことにこそこの朗読には意味があると思っているから、おれは動画配信という方法を選んだのだ。

 開設した動画配信チャンネルは細々と続き、朗読動画の視聴者数はいつも数十人程度、反応はほとんどない。誰でも知っている文学作品をそのへんにいる素人の高校生がただ読み上げるだけで姿も顔も出さず、雑談なんかも一切やらない、動画の背景に使うのはフリー素材サイトから借りてきた無難な風景写真だけ。こんなので果たしてチャンネル登録してくれる人がいるだろうかと些か不安に思っていたが、どんな界隈にも物好きな奴というのはいるもので、反応はなくても動画を上げる度に聴きに来てくれる人はそれなりにいるようだ。
 おれにはこのくらいがちょうどいい。いるんだかいないんだか分からない視聴者の気配に、おれはかえって居心地の良さを感じるようになっていた。
 おれをおれと知る人のいない場所で、誰かの目を気にすることなくのびのびと喋ることができる。ここにいる時のおれこそが本当のおれなんだ。
 そう思える場所をやっと手に入れられたと、そう思っていたのに。

 黙ったまま返事をしないおれを見て諦めたのか、花村はおれに向けていたスマートフォンを持つ手をすっと下ろした。
「先月くらいかな、たまたまオススメに流れてきたんだよね。何となーく聴いてみたらすぐに分かったよ、湊の声だって」
「だから、違うって」
 しらを切るしかない。しかしもう既に花村の中ではこれがおれの朗読だと確信しているらしく、おれが否定しても表情ひとつ変えない。
「ふーん。じゃあ、クラスのみんなにも聴いてもらって検証してみる? これが湊だと思う人に手ぇ上げてもらってさ、そう思う奴が一人もいなかったら俺の勘違いってことでいいよ」
「や、やめろよ! なんでそんなこと……」
 ほとんど悲鳴のような声で怒鳴ってしまい、はっとして周りに目を走らせた。幸い、下校時刻をとうに過ぎた昇降口にはおれと花村以外に人影はなく、校庭の方から聞こえるサッカー部員たちの掛け声と音楽室の方から流れてくる吹奏楽部の楽器の音が遠くで重なり合って微かに響いている。
 今日も早く帰って次の朗読の題目を探そうと思っていたのに、下足箱の前で靴を履き替えていたら急に花村から声をかけてきたのだ。春にクラス替えで同じクラスになって半年、花村と話すのはこれが初めてだ。
「みんなにバレたらそんなに困るの?」
 花村は心底不思議そうな顔でおれをまじまじと見ている。その視線に堪えかねて、カバンを持つ手をぎゅっと握りしめながら下を向いた。
「……こ、困るよ」
「別にいいんじゃないの、これくらいなら。オナニーしてるとこ配信してるわけじゃないんだし」
 きっとこいつには一生分かるまい。
 いつも教室の隅でじっとして時間が経つのをやり過ごし、人前で喋るのを避けているおれみたいな人種にとっては、オナニーしてる動画を見られる方がよっぽどマシだ。学校にいる間はまともに喋らないどころか人と目も合わせようとしない根暗な奴が、ネットでは別人のように生き生きと朗読の公開なんかしているなどと、もしクラスの連中にバレたらなんて想像するだけでも恐ろしくてめまいがする。
 こっちに向けられるあの蔑むような視線、くすくす笑う女子たちの声。もしバレたら、それらが四六時中おれにつきまとうことになる。教室の隅でどんなに気配を消してじっと黙っていても、どこに行っても逃げ場はない。

 ああ、迂闊だった。やっぱり公開なんてするべきじゃなかったんだ。いくら顔も素性も隠してたって、実際におれの声を聞いたことのある奴があの朗読を聴いたらそれがおれだとすぐに気付くのは当然のことなのに、何故おれは今まで大丈夫だと思っていたのだろう。
 どうしてよりによって、こいつにバレてしまったんだ。
 いつもクラスの中心にいる、おれとは真逆の立ち位置にいるような奴に、おれのいちばん見られたくない秘密を知られてしまうなんて。

「頼むから……誰にも、言わないで」
 蚊の鳴くような声を必死に絞り出す。言葉の最後が震えているのが自分でも分かった。
「えー? どうしようかな」
「……」
 首の後ろを何か冷たいものがすうっと下りていく。花村の顔を見られない。見るのが怖い。
 弱みを握られたのだと、今になってようやく理解した。こういう時、人間のすることはひとつしかない。他の奴らに黙っていてほしかったら、それに見合う代償を寄越せと脅す。
 花村はおれに対して、このことを黙っていてやるような義理など何ひとつない。黙っているのも言いふらすのも花村の気分次第なのだ。何の代償もなしに黙っていてほしいだなんていくら何でもムシが良すぎるだろう。
 どんな代償を要求されるのか、おれは生唾をごくりと飲み込んで花村の次の言葉を待った。

「じゃあ誰にも言わないから、その代わり俺に朗読聴かせてよ。ナマで」

「え……」
 顔を上げると、目が合った。
 花村は相変わらず、何を考えているのかよく分からない笑顔でへらへらしている。
 傾き始めた陽光が外から差し込む。それを受けた花村の栗色の髪が一瞬だけ淡い橙色に透き通って見えて、おれは目を細めた。