ふっと紫音が目を開けると、そこは桜が舞い春の鮮やかな花々が咲き乱れる、御影の屋敷の庭だった。小鳥のさえずりが聞こえ、のどかで暖かいそんな気候だった。

(旦那様……っ!)

 きょろきょろと辺りを見回してみるが、黒稜の姿はない。
 小鳥がピピっと鳴いて、紫音はそちらに顔を向けた。

(小鳥の声……。私には聞こえるはずのないものだわ。それに夏の盛りだというのに桜が咲いている。これは、夢、なのかしら……?)

 夢の中で夢と意識できることは稀だ。しかし紫音は、起きているときのように意識がはっきりとしていて、冷静に物事を見ることができた。

(春になったら、こんなふうに桜が咲くのかしら……)

 紫音が桜の木に目を向けていると、かさっとほど近くで音がして、紫音はそちらに視線を向ける。


「ふー、大分時間が掛かってしまったわ」


 花壇の土をいじっていたらしい一人の女性に、紫音は目を丸くする。こんなにも近くにいるのに、女性は紫音に意識を向けることはなかった。

(私の姿は、見えていないのかな……)

 寝ているときに見る夢に理屈や秩序は存在しない。夢の中の登場人物が必ずしも紫音を認識するとも限らない。恐らくこの夢の中では、自分は他人には見えない存在なのだろうと、紫音は思った。
 桔梗柄の着物が土にまみれることも厭わずに、熱心に土いじりをする女性を見やる。
 夢だったとしても、この花壇を大切にしてくれる人がいるのは、紫音にとって嬉しいことだった。


 黙々と庭で作業する女性を見ていると、庭に面した襖が開いてぼさぼさの黒髪の男性が顔を出した。

「おーい、また朝から土いじりかい?」

 眼鏡を掛けたぼさぼさの男性は、まだ寝ぼけ眼ながら女性に声を掛けた。

「あら、ようやくお目覚めですか、稜介(りょうすけ)様」

 振り向いた女性はとても綺麗な顔をしていて、涼やかな切れ長の目元に優しく皺を刻んだ。

「いやぁ、また調べものをしていたら、そのまま眠ってしまったみたいで……」

 申し訳なさそうに頭の後ろを掻く男性は、穏やかそうな頼りなさそうな表情で笑った。

「こんなに美人な妻を放ったらかしにしてお仕事だなんて、怒らないのは私くらいのものですよ」
「いや本当に悪かった!許してくれ、桔梗(ききょう)

 真剣に謝る稜介に対して、桔梗と呼ばれた女性は可愛らしく頬を膨らませると「冗談です」と言って優しく笑った。「勘弁してくれよぉ」と困ったように笑う稜介も、なんだか嬉しそうだった。

(素敵なご夫婦……)

 紫音は自然と自身の頬が緩んでいることに気が付く。
 二人を見ているうちに、もしかしたら、と紫音は思う。
 稜介の少しくせっ毛な綺麗な黒髪。桔梗の涼やかな少しつり気味の目元。
 それがなんとなく黒稜を思い出させ、もしかして二人は黒稜の両親なのではないかとふと思った。

(旦那様のご両親は、確か……)

 道元の話では、元々力の強い陰陽師の血筋を持っていたはずの御影家だが、前当主はあまり力に恵まれなかったという。そこで他の力の強い陰陽師の血筋である妻を娶ったそうだが、前当主、その妻共に病に侵され、若くにこの世を去ったと言っていた。

「今日はこのあと、少し街の方を見回ってくるよ」
「また妖が悪さをしているのですか?」
「悪さ、と言う程ではないさ。向こうも間違えて人里に降りて、困っているんだろう。少し話してみるつもりだ」
「わかりました。稜介様って、なんだが妖の先生みたいですね」

 ふふっと笑う桔梗に、稜介はまた照れたように頭を掻く。

「そんなんじゃないさ。ただ、妖と言っても人間と同じように色んな奴がいる。話せばきっとわかってくれる」
「そうですね」
 「じゃあ行ってくるよ」と言って、稜介は街へと降りて行った。

(とても優しい考え方……。こういう人がいたら、もしかしたら人と妖が共存する世界もあったのかもしれない)


 紫音がそんなことを思っていると、辺りの明るさが急に変わって夜空にはまん丸の月が昇っていた。

(夜?)

 紫音が辺りを見回している間に、稜介が慌てたように駆けて来て玄関口へと飛び込んだ。

「ただいま!桔梗!」

 桔梗は台所の火を止めて、ぱたぱたと玄関口へとやってきた。

「おかえりなさいませ、稜介様。そんなに急いで、どうされたのですか?」

 慌てて帰って来た稜介に対し、桔梗は不思議そうに首を傾げる。

「今日のお仕事は大丈夫だったのですか?お怪我をされたりは?」
「それは大丈夫だ!ちょっと人間のことを説明したら、山奥に戻って行ったよ。悪さはしてない。僕ももちろん無事だ」
「そうですか」

 ほっと胸を撫でおろす桔梗に、稜介は早口で話を元に戻した。

「そんなことより、聞いてくれ!桔梗!」
「はいはい。何があったのですか?」

 やや興奮気味に、稜介はこう語り始めた。

「帝がこの街の陰陽師を集めて、部隊を作るらしい!国から仕事がもらえれば、もう少し豊かな生活もできるし、きっと使用人だって雇うことができる!今はこの代々住んでいるばかでかい屋敷の管理を、桔梗一人に任せてしまっているだろう?使用人がいれば、桔梗も少しは楽になる!欲しいものだって買ってやれるぞ!」

 確かに二人の生活は質素なものだった。ご飯の量は少なく、庭でいくつかの野菜を育てているようだった。
 目をきらきらと輝かせる稜介に対して、桔梗は特段表情を変えることもなく、ただ静かに頷いた。

「そうなのですね。しかし稜介様。私は今の生活に何の不自由もありません。欲しいものなどもありません。ただ稜介様と毎日一緒に、穏やかな生活が出来ればそれで良いのです」

 桔梗の言葉に、「しかし、」と食い下がろうとする稜介。しかしそれを桔梗が遮った。

「さぁ、晩ご飯にいたしましょう!今日は煮物がとても美味しく仕上がったのです」

 桔梗の言葉に、稜介は眉を下げながらも「そいつは楽しみだ」と玄関を上がっていく。



 ふっと地面が揺らいだかと思うと、辺り一面が真っ白な雪に覆われていた。しんしんと降り積もる雪が庭を白く染め上げ、花壇の花々が力なく雪に埋もれていた。
 稜介が一番庭先に面した部屋へと盆を持って駆けて行く。盆の上には、湯気の立ち昇る湯呑が乗っていた。
 障子を開けると、布団に横になっていた桔梗がゆっくりと身体を起こす。その顔を覗き込むように、稜介は桔梗の傍に腰を降ろした。

「大丈夫か?桔梗」
「稜介様、心配のしすぎです」
「いや、だって、しかし……」

 あわあわとする稜介に、桔梗はくすりと笑った。

「今日は少々つわりが酷いだけですわ。横になっていれば楽だから、稜介様はお仕事をされていてくださいな」
「いや、でも……」

 尚も心配そうな表情で桔梗を見る稜介の手に、桔梗はそっと自分の手を重ねた。

「稜介様、もうすぐ父親になるのですよ?そんなに落ち着きがなくてどうするのですか。生まれてくる子供に笑われてしまいます」

 桔梗の言葉に、ぐっとくぐもった声を上げる稜介。

「そ、それもそうだな。恰好いい父親として、威厳のある、立派な、」

 ごにょごにょと決意表明する稜介に、桔梗は堪らず吹き出して笑ってしまった。
 桔梗は日に日に大きくなっていく自身のお腹を、優しく慈しみながら撫でた。

「もう少しで会えるね。元気な子が生まれますように」



 そうしてまた場面が変わり、御影の家には賑やかな赤子の声が響いていた。
 桔梗が庭いじりから腰を上げて、縁側に寝かせていた子供をあやしにかかる。

「あらあらどうしましたか?おしめかしら?今取り替えますからね」

 部屋に入った桔梗の身体が急にふらっと揺らぎ、桔梗は慌てて壁に手を付いた。

(危ないわ!)

 紫音が慌てて桔梗に手を伸ばすも、その手をするりと通り抜けた桔梗は、そのまま大きな音を立てて床に倒れてしまった。

(桔梗さん……っ!)

 紫音が桔梗の耳元で呼びかけるが、その声は当然聞こえることはなかった。



 世界が暗転し次の瞬間、先程と同じように桔梗が布団で横になっていた。しかしその顔色は真っ青で何か苦しそうに唸っている。
 その枕元には、稜介が沈痛な面持ちで自分の拳を握りしめていた。

「桔梗……っ」

 小さな呟きに桔梗は目を開ける。

「稜介、様……」
「桔梗……っ!」
「もう……そんな泣きそうな顔をなさらないでくださいな。私は、大丈夫です……」
「しかし……」
「黒稜は、……どうしていますか?」
「仲の良い友人夫婦に見てもらっている。黒稜なら大丈夫、元気だよ」
「そう、ですか……」

 ほっとしたように微笑む桔梗だが、その笑顔には力がなく今にも目を閉じてしまいそうだった。
 桔梗は黒稜を産んですぐ、病に侵された。
 あの日倒れた桔梗は、病と診断され、それから床に伏していた。

「もう少し、もう少しで国から大きな仕事が貰える!報酬は今よりすごくいいはずなんだ。そうしたらもっといい治療も受けられるし、いい薬だって買える。すぐに良くなるからな。それまでの辛抱だ」
「はい……。しかし稜介様、ご無理なさらないで……。私は貴方様さえ、元気でいてくれたのならそれで良いのです……」
「桔梗はいつも私の心配ばかりだ……。私は大丈夫、自分の心配をしていなさい」
「はい…………」

 桔梗は力なく笑って、ゆっくりと目を瞑った。
 寝息を確認した稜介は、静かに部屋を出ると足早に書斎へと向かった。
 書斎にやってきた稜介は、髪が乱れる程に頭を掻き毟った。

「くそっ!くそっ!!どうしたら!!どうしたら桔梗を救うことが出来る!?」

 辺りに散らばった書物を手当たり次第にめくりながら、稜介はかなり焦っていた。
 桔梗には、もう少しで国から大きな仕事が貰える、などと言ったが、実際は陰陽師として力の弱い稜介にまわってくる仕事など、大したものはなかった。稜介の力では、弱い妖を退治するのが関の山だった。

「くそっっ……!私に、もっと、もっと強い陰陽師の力さえあれば……っ!!」

 他の陰陽師を圧倒する力さえあれば、国から一目置かれる陰陽師となり、大きな妖退治の仕事も任せて貰えたことだろう。仕事の難易度が上がれば、死の危険もある。しかしそれをこなせば、多額の報酬が貰える。そうすれば桔梗は十分な治療を受けることができ、病も簡単に治すことができたかもしれない。
 しかしそんな強大な力、一朝一夕で身に付くものではなかった。

「どうする……!どうしたら……っ」

 稜介の悲痛な声が漏れる。

「このままでは……桔梗が死んでしまう……っ」

 情けない稜介には勿体ないくらいの気丈で優しい女性だった。頼りない稜介を、時には叱咤ししかしいつも優しく包み込んでくれていた。これほどに素敵な女性に巡り合うことは、きっともう来世でもないだろうと、稜介は常日頃から思っていた。
 しかしそんな桔梗が、日に日に弱っていっている。
 大切で、大好きで、愛しい人。
 そんな桔梗を失うことは、稜介には考えられなかった。
 本をめくり続ける稜介の足元に、ひらりと一枚の紙が落ちた。
 何かについて記されていたその紙に、稜介は釘付けになる。

「そうか、そうか……!その手があるじゃないか……!!」

 にたりと笑う稜介の表情は、これ以上ないくらいに切羽詰まっていた。
 稜介の手に握られていたのは、呪いに関する文献だった。
 それを目にした紫音は、はっと息を飲む。そして、勝喜が言っていた言葉を思い出す。


『その娘にかけられた呪いは、御影が生み出したものだと言うのに!!!』


(もしかして、旦那様のお父様が、私にかけられた呪いを作ったの……?)

 紫音もまだ自身の呪いがどのようなものかはっきりとわかっていない。
 しかし、その呪いを生み出したのは、人間である、陰陽師であるはずの、黒稜の父、稜介だったのだ。
 桔梗と穏やかに笑っていたはずの稜介の面影はもはやなく、そこにいるのは自身の大切なものを守るため他者を容易に傷付ける、人の心を失った化け物だった。



 次の瞬間、目に映る世界に紫音は思わず眉を顰めた。
 また時が流れたのだろう。
 御影の家の空気は酷く淀んでおり、黒く重苦しい空気が屋敷を支配していた。鮮やかに咲き誇っていたはずの花壇の花々も、そのほとんどが生命を失っていた。
 庭に面した部屋から、ぶつぶつと声が聞こえる。

「桔梗、聞いてくれ。あの陰陽師として有名な家系である、藤原も神宮寺も陰陽師の職を辞するそうだよ。呪いにかかってしまったんだって。怖いねぇ…………」

 稜介は口元に笑みを浮かべながら、床に伏したまま沈黙を貫き続ける桔梗に話し続ける。

「呪い、呪いだって……!いかに強力な陰陽師と言えど、呪いには勝てなかったんだって!なんでこんな簡単なこと、すぐに思い付かなかったんだ……、僕以外の陰陽師を消してしまえばよかったんだっ!!!」

 呪いに関する文献を手にしてしまった稜介は、元々聡明であったこともありいとも容易く強力な呪いを生み出してしまった。その呪いを完成させるために、何百、何千もの妖を手にかけた。
 穏便に妖を山に返していたはずの稜介だが、桔梗の為に盲目となり狂気に心を喰い尽くされてしまった今では、その命を奪い、使うことに何の躊躇いもなかった。

(これが、私にかけられた呪い……)

 紫音の中で、何か黒い力が渦巻いているのを感じる。少しずつ強くなっていると、黒稜が言っていたことを思い出す。

(他の陰陽師は、どうなってしまったの?私は、この呪いでどうなってしまうの?)

 自分が辿る末路はきっと、彼らと同じなのだ。
 しかし肝心の呪いの内容と、結末がわからなかった。
 紫音は今更ながらに言い知れぬ恐怖を感じ始める。
 呪いがかけられていようが、この世で自分を必要としてくれる人などいないと思っていた紫音は、その時が来たら潔くそれを受け入れようと思っていた。
 しかし今はどうだ。紫音は知ってしまった。
 黒稜と過ごす穏やかな時間と彼の不器用な優しさを。

(私、死ぬのが怖いんだわ……)

 そんな当たり前のことに、ようやく気が付いた。
 稜介は、ぴくりとも動かない桔梗の頬を優しく撫でる。

「もうすぐだ、桔梗……こんな病気、すぐに治してやるからなぁ……」

 にこりと笑う稜介の目元は真っ黒で、腕も脚も痩せ細っていた。

「桔梗……桔梗……」

 妻の名を狂ったように呼び続ける稜介にはもう人の心などなくなっていた。
 きっともう桔梗は亡くなっていて、稜介も強大な呪いの代償で先は長くないだろう。



 紫音にかけられた呪い。 
 それを作ったのは、勝喜の言った通り黒稜の父である御影 稜介だった。
 しかし、紫音は稜介を恨むことが出来なかった。稜介はただ、最愛の妻を救いたかったのだ。好きな人を、失いたくなかったのだ。

(これはやはり、過去の出来事なのね……)

 紫音は何故かすんなりとそう思うことができた。
 どうして過去を見ることができたのかはわからないが、屋敷が遠くなり身体がふわっと浮かび上がる感覚があった。目が覚めるのかもしれない。その不思議な浮遊感に、紫音は身を任せることにした。