そんな日々が続いて五日が経った頃。
朝食を終えた黒稜が、「話がある」、と口火を切った。
朝食の片付けをしようと立ち上がりかけていた紫音は、また座り直して黒稜の話の続きを待つ。
「今日は仕事で街に行くことになっている」
「はい」
「帰りは遅くなるかもしれない」
「そう、ですか……」
黒稜が仕事で街に降りるとき、大体黄昏時前には帰宅していた。遅くなるかもしれない、と言う言葉から察するに、強力な妖退治の任があると思われた。
「わかり、ました。お気をつけて……」
「ああ。紫音、一つ約束してほしい」
「はい」
黒稜がやけに真剣な表情でそんなことを言うものだから、紫音は思わず姿勢を正してその口の動きに注目する。
「日が暮れたら、相手が誰であろうと、決して戸は開けるな」
「え……」
耳の聞こえない紫音は、誰かがやってきて鳴らす呼び鈴すら、その耳には届かない。庭で花壇の手入れをしているときなら、客が庭にまわってくれば気が付けるが、玄関から訪問されては紫音に気が付くすべはなかった。
「わかりました」
紫音ははっきりと頷く。その様子を見て、黒稜は少しほっとしたように表情を緩めた。
昼前に出掛けた黒稜は、いつもの着物に身を包み、それは凡そ強力な妖を退治するような恰好ではなく、ふらっと買い物に行くような雰囲気であった。
それを見送った紫音は、いつも通り家事を終わらせ、花壇の手入れに精を出す。
(黒稜様にはっきりとお話したことはないけれど、陰陽師の家系に生まれていながら、私が無能であることは、きっと気が付いていらっしゃるはず)
出逢ってすぐに紫音の耳のことも、呪いのことも見抜いた黒稜が、紫音の力に気が付かないはずがなかった。
(力のない私では妖が現れてもどうすることもできない。だから、戸締りをしっかりするように言ったのだわ)
御影家はある程度結界を張っているといっても、強大な力の前ではなんの役にも立たないだろう。妖は基本的にその家には入れない。家主が招き入れない限りは。
(今日はなるべく早くに終わらせよう)
紫音は急ぎ、花壇の手入れを進めた。
(よし、こんなものかな)
作業を終えた頃には、黄昏時から宵闇が迫り酉の刻が迫っていた。
(いけない!すっかり夢中になってしまっていたわ。早く戸締りをしなくては)
紫音は慌てて片付けを済ませ、縁側から家に入ろうとして。
『御免ください』
はっきりと耳に届く声に、紫音は思わず振り返ってしまった。
玄関から庭先にまわってきたらしい初老の男性は、人の好さそうな笑みを浮かべている。
『もし、お聞きしてもよいでしょうか?』
(また……、またはっきりと声が聞こえる……)
着物についた土を払うように着物をはたいてみても、やはり衣擦れの音はしない。
(ということは、この人も旦那様と同じ……?)
夜だけ声が聞こえる人、なのだろうか。
紫音は早く戸締りをしなくてはと焦る気持ちをぐっとこらえて、男性に向き直った。
「はい、どうかされましたか?この家に、ご用でしょうか?」
もしかしたら、黒稜の知り合いかもしれない。しかし生憎と黒稜は仕事に出ている。紫音は申し訳ないが、今日はお引き取り願おうと言葉を続ける。
「本日、主人は出ております。明日また、いらして、いただけますでしょうか?」
紫音の言葉に男性は笑みを崩さず、『そうですかそうですか』と紫音に笑顔を向ける。
『では貴女が噂の、妖屋敷に嫁入りした、北条院 紫音様、ですね?』
「え?」
男性が紫音の名を口にした、刹那、紫音の脚に激痛が走る。痛みに耐えきれず、紫音は思わず尻餅をついた。
痛みの原因へと視線を走らせると、どうやら太腿を何か鋭利なもので切り裂かれたような、太腿の辺りの着物がぱっくりと裂け、血が滲んでいた。
(痛い……っ、一体、なにが起きたの……っ?)
紫音が瞬きする一瞬の間に、何かひゅんと風を切るような音がして、気が付けば紫音の太腿は切られていた。
せっかく黒稜から貰った紫陽花の着物も破れ、紫音の血に濡れた脚が顕になっている。
『御影 黒稜はいないのか。……なんて好都合!』
男性の人の好さそうな笑みが一変し、嗜虐的な笑みがその顔に広がる。
紫音は呆然と男性を見つめることしかできない。ようやく言葉を口にするがなんとも弱々しい声だった。
「あ、貴方は、一体……?」
紫音の疑問に、着物を着た男性は礼儀正しくお辞儀をした。
『申し遅れました。私は津田 勝喜。貴方の暗殺を依頼された者です』
勝喜の言葉に、紫音は文字通り言葉がでなかった。
口を読み間違えたわけでは断じてない。先程から勝喜の言葉は、紫音の脳内に響いているのだから。
(暗殺……?私を?どうして……?)
一体誰が何のためにわざわざ無能の紫音を殺そうなどと企むのだろうか。弥生と呪いの件も不明な上に、紫音の死を望むものが他にもいるのだろうか。
混乱する紫音に、勝喜は声高らかに言う。
『依頼主は、貴女を殺し、その首を持ち帰るようにとのことでした』
紡がれる物騒な言葉に、紫音はごくりと生唾を飲み込む。
『そんなに恨まれるなんて、一体何をしたのです?』
「わ、私は、何も……」
震える紫音を嘲笑うかのように、勝喜は気分よく話し始める。
『津田はねぇ、かつては北条院よりも強力な水の術を使えたのですよ。それを北条院 道元がゆうに追い越し、さらには他の五行の術の力まで開花させた』
紫音は恐怖で動けず、勝喜の言葉に耳を傾けることしかできない。
『そのせいで津田の名は地に堕ちたのです。国からの仕事も、全て北条院が持っていった。これがどういう意味かわかりますか?』
紫音は震える身体を抱きしめるようにかき抱きながら、ふるふると力なく首を振る。
すると突然、勝喜が目を剥いて叫び出す。
『北条院のせいで、力のない役立たずだと、国からの信用も落ち、津田は陰陽師会から名前を除籍されたんですよ……っ!!!』
頭の中に強く鳴り響く勝喜の声に、紫音はぎゅっと目を瞑る。
『北条院さえいなければ、水の力は津田が一番強かったのだ!!それなのに!!貴様らのせいで、津田の陰陽師としての信用はなくなってしまった!!蔑まれ、後ろ指を差される気持ちが、貴女方にわかるか!!』
勝喜の悲鳴にも似た言葉に、紫音は唇を噛む。
(この人の気持ち……、私は少しわかるかもしれない……)
将来を有望視され育った紫音。しかし突如無能力となり、聴力も失われ、ある日家族全員から虐げられるようになってしまった。勝喜の気持ちはわからないでもない。
しかしそれが、紫音の暗殺となんの関係があるのだろうか。
そんな疑問を紫音が抱くと、ちょうど勝喜が説明した。
『津田は何としてでも強力な力を手に入れねばならなかった。そんな時でした。とある人物から依頼があったのです』
それは、匿名の者からの文であった。
津田の状況を知っていて、とある条件のもと、強大な力を与える、というものだった。
『もちろん、私はすぐにその話に飛び付きました。強大な力が得られるのであれば、なんでもする。あの北条院の上に立ち、かつての津田の名を取り戻すことができれば、なんだっていいのです!しかも、その依頼内容は北条院 紫音の暗殺ときた。北条院は私としてもとても憎き存在だ。これはこれは好都合だと思いませんか!!』
強大な力を与える代わりに依頼されたのが、紫音の暗殺。無能で陰陽師として表舞台に出ていないはずの紫音だ。やはり暗殺される理由がわからない。
『そして私は、強大な力を手に入れたのです』
勝喜の影がゆらりと動き、その影が紅く染まる。
(あれは、なに……?)
紫音はその影に目を凝らす。
するとそこから禍々しい気が溢れはじめ、影は鬼のような形となり、紫音の前に立ち塞がった。
「あ、妖……?」
紫音の口から、思わず声が漏れる。勝喜は勝ち誇ったように笑い声を上げている。
(どうして、この人と妖が一緒に……?)
陰陽師は妖を滅するための職であるはずだが、その陰陽師が妖と共にある。それは呪術と同じく、陰陽道の禁忌とされる行いであった。
(この人……、妖を使役しているの……?)
かつては妖を使役し、共に闘っていたという話もあった。しかしその使役していた妖が暴走し、人々を襲ったことから陰陽師が妖を使役することは、帝の命により禁忌となったのだった。
妖は滅するモノ、それがこの国の掟だ。
しかし目の前の勝喜は陰陽師でありながら、妖を使役しているようだった。
強大な力を手に入れた、とは、妖の力を自身に流し込み、自身の力を格上げすることだろう。
この世のものは、陰と陽に分けられる。
故に陰陽師の力も陰と陽の力に分けられるが、妖もまた陰の力を持っていると言われている。
もともと勝喜は水の力を使っていた。つまりは陽の力を持つ者に属するはずだ。しかし、陰の力を持つ妖の力を取り込んだいうことは、体内に流れる力が陰と陽でせめぎ合っていることになる。並大抵の人間ではその陰と陽の力を制御できるはずもなく、死を迎えるだけだ。勝喜もまた、強大な力に翻弄されているはずだった。
高らかに笑っていた勝喜は、ごほごほと急に咳き込み始める。その手には、血のような赤いものがべったりくっついているように見えた。
『さて、お喋りもこの辺にいたしましょう。貴女の首を持ち帰れば、多額の資金援助が約束されるのです。こんな小娘一人に気前の良い方だ』
勝喜がにたりと笑い、そして鬼のような姿をした妖に命ずる。
『殺しなさい』
その勝喜の一言で、影のようにゆらゆらと揺れていた鬼のような妖が紫音に向かって手を振り上げた。
(私はここで、死ぬの……?)
為すすべなく目の前の妖を見つめる紫音。脚も怪我しており、逃げることも動くことすらできない。
(旦那様……っ)
この屋敷に来て、黒稜と過ごした穏やかな日々を思い返す。
冷たく感じる黒稜はしかし、案外と紫音を気にかけており優しい一面もあった。ただの政略結婚でしかなかったはずなのに、黒稜は紫音をこの家に置き、人並みの穏やかな生活をさせてくれた。それが紫音の人生にとってどれだけ幸せな時であったか、きっと黒稜は想像もしていないだろう。
(ちゃんとお礼が言いたかった……)
紫音が目を瞑り、死を覚悟したその時。
目の前が青白い炎に包まれる。
鬼のような妖の拳を抑え込むように、右手から青白い炎を発現した黒稜が、紫音を妖から守るように背にして立っていた。
「旦那様……っ!!」
突然現れた黒稜に驚く紫音。
黒稜は次々に五行の術を操っていく。水の力で妖を閉じ込めている間に、土の力を使いこちらに壁を作る。その前に木の力で蔦を張り巡らせた。
(すごい……!これが、旦那様の力……)
御影家は数少ない陰の力の強い家系だ。陰の力の家系は五行全ての力が使えると聞いていたが、このように目にするのは初めてのことだった。
黒稜はくるりと紫音に向き直ると、その身体を強く抱きしめた。
「え……?」
『来るのが遅くなってすまない』
黒稜はすっと紫音から離れると、紫音の血にまみれた脚に視線を向ける。
『君を危険にさらしたくはなかったのだがな……』
悔しそうな悲しそうな表情を浮かべる黒稜に、紫音は胸がきゅっとなる。
(旦那様、私を心配して慌てて帰ってきてくださったんだわ……)
この家にはある程度の結界が貼られている。強い妖の気が屋敷内に入ったと気が付いて、黒稜は急いで紫音の元に帰ってきたのだろう。
いつも無表情でどこか冷たい印象を受けていた黒稜が、心底心配そうに紫音を見つめるものだから、紫音の方が慌ててしまった。
「だ、旦那様っ。大丈夫、です。少し、脚を切ったくらい、です!」
『他には何もされていないか?』
「はい!」
『そうか』
陽はとうに落ち、辺りは闇に包まれている。この時間はいつも黒稜の声が脳内に響いてくる。その声も、少し心配の色を滲ませていた。
ドドン……っと地鳴りがしたかと思うと、黒稜が築いた土の壁と木の蔦が妖の力によって壊されるところだった。
黒稜は立ち上がり、妖と勝喜に目を向ける。
『御影 黒稜か……。はっ、なんてタイミングの悪いことだ』
勝喜に少し焦りの色が見えたが、しかしそれも一瞬ですぐに嘲笑へと変わる。
『御影、何故その娘を守る?その娘さえ渡せば、貴様に危害を加えるつもりはない。今はな』
『何故だと?妻を守るのは当然のことだろう』
黒稜の言葉に、紫音は胸が大きく高鳴った。
しかし勝喜はそれを聞いて、また高らかに笑い始めた。
『妻だから守る?何を馬鹿なことをっ!!お前のせいでその娘は呪いにかかっていると言うのに!』
『何?』
紫音と黒稜は、勝喜の言葉に目を丸くする。
(私にかけられている呪いが、旦那様のせい……?それって、どういう意味……?)
驚く二人に、勝喜は実に愉快だとでも言うかのように笑い続ける。
『知らずに共にいるとは実に滑稽だなぁ!その娘にかけられた呪いは、御影が生み出したものだと言うのに!!!』
「え…………?」
紫音は思わず黒稜を見上げる。その黒稜の目が驚愕に見開かれていく。
『その呪いは、お前の父が作り出したものだ!そんなことも知らずに一緒にいたのか?』
紫音にかけられた呪いが、御影発祥の呪いだということを黒稜も知らなかったのだろう。
黒稜の動揺が、紫音にも伝わる。その隙を、勝喜は見逃さなかった。禍々しい気を放った鬼のような妖が、黒稜に拳を振り上げる。
「旦那様……っ!!」
紫音の叫びにはっとした黒稜だが、術を展開する間もなく勢いよく後方へと吹き飛ばされた。
『がっ……っ!!!』
木に身体を打ち付けた黒稜は、そのまま力なく項を垂れる。
「旦那様……っ!旦那様……っ!!」
紫音の悲鳴のような声が闇夜にこだまする。
紫音は自身の脚の傷など顧みず、それを引き摺りながらも黒稜の元へと向かう。
「旦那様っ……!」
今にも泣き出しそうな紫音が黒稜の元までやってくると、黒稜の胸元は血で汚れていた。木に打ち付けられた衝撃で臓器がやられたのか血を吐いたようだ。
「ああ、……ああっ……っ!!」
黒稜から苦しそうなひゅーひゅーとした呼吸音が小さく聞こえる。
虚空を彷徨っていた視線が、紫音を捉える。
「旦那様っ!旦那様っ!」
『だい、じょうぶだ……っ』
黒稜はげほっと血を吐き出しながら、立ち上がる。
「無茶です!そんな身体で、闘うなど!!」
紫音に視線を向けた黒稜は、苦しそうに言葉を紡ぐ。
『私は……、君を、守らなくては……っ』
「どうして、どうしてそこまで……っ」
紫音が止めるのも構わず、勝喜と妖に向かって歩き出す黒稜。その黒稜が紫音を振り返った。
『紫音、君に……謝らなければならない……』
「え……?」
『私は君に、……ずっと隠していたことがある……』
そう言うと黒稜の周りに強大な力が集まり始める。青白い炎を纏った黒稜は、次の瞬間物凄い勢いで鬼の妖へと向かっていた。
瞬きの間に距離を詰められた妖は、黒稜の火の力によってあっという間に滅せられた。
灰のように真っ黒な影だけを残して綺麗に消え去ってしまった妖を見て、勝喜は尻餅をつく。その表情は恐怖に歪んではいるのだが、『はは……』と小さな声を漏らす。
『やはり、やはりそうであったか!!!貴様も!妖と契約した、陰陽師堕ちであったか!!!』
勝喜の言葉に、紫音は改めて黒稜の姿を見やる。そうして黒稜の姿の異変に気が付きはっとする。
黒稜はもちろん人の形のままなのだが、その頭には大きな白い長い耳が付いており、爪は鋭く伸び、尾のような長いふさふさの毛が生えていた。真っ黒だったはずの髪も白く染まり、目が金色に光っている。
それは凡そ、「人間」と形容するには難しい姿であった。
紫音はごくりと生唾を飲んだ。
(あや、かし……?旦那様、が……?)
『はは、御影の噂はどうやら本当であったようだ……!はははこれは滑稽!!』
『黙れ』
黒稜は平然と勝喜を持ち上げると、そのまま地面に叩きつけた。
『ぐわっ!!!』
勝喜の口から血が飛び出す。
しかし手加減されていたのか、意識ははっきりとあるようだ。
『はぁはぁ……面白いものが見れたぞ……この情報を売れば、私はさらに財力を手にすることができる……津田の名を、強さを、馬鹿にしてきた陰陽師のやつらに思い知らせてやるのだ……』
勝喜が喚き散らしていると、また黒い影のようなものが彼を中心に渦巻いてくる。
(また、強力な妖……?!)
焦る紫音だったが、その黒い渦は勝喜の身体に巻き付き勝喜を深淵へと連れて行く。
『なんだ?これは?どういうことだ!?』
勝喜は喚き散らすが、その声は段々と遠ざかっていき、その姿は闇へと消えた。
「え……?」
ぽかんとする紫音に、黒稜が呟く。
『契約だろう。強大な力を与える代わりに、その妖が顕現できなくなったとき魂を喰われる。それがあいつと妖の間で結ばれた契約だ』
「そんな……」
強力な妖を使役するのにはそれ相応の代償がある。たかが人の子では、魂を捧げない限りその強さは手に入らない。
黒稜は紫音を振り返り、こちらにゆっくりと歩み寄ってくる。その姿はやはり、妖狐のような姿をしていた。
『……これが私の、本当の姿だ』
「妖……、なのですか?」
『正確には、半人半妖だ。この身体には、人間と妖の両方の血が流れている』
「そう、ですか……」
『驚かないのか?』
紫音の反応に、黒稜は不思議そうに首を傾げる。
「あ、いえ、驚いて、います……」
正直に言うと、紫音は黒稜の姿に驚いている。しかし、普通に会話できていることから、黒稜は黒稜のままであるとはっきりとわかる。
(そうか、だから……)
ずっと不思議に思っていた。
どうして黒稜の声が夜だけ聞こえるのか。
それは、黒稜に妖の血が流れ、夜になるとその血が濃くなるからだ。
耳の聞こえない紫音に声が聞こえたのも、それが妖のものであるからだ。元々紫音は妖の力や気配を覚る力も弱いが、黒稜が傍にいるせいかその弱い力が少し増幅されたのかもしれない。
目の前にいるのは黒稜だ。恐れることなどなかった。
「けれど、旦那様は、旦那様です……」
紫音の言葉に目を見開いた黒稜はしかし、ふらっと身体が傾きそのまま倒れてしまう。
「旦那様っ……!!」
『ああ、いや、大丈夫だ……』
すでにぼろぼろだった身体で妖の力を使ったせいで限界が来た黒稜は、その場で動けなくなってしまった。白かった妖の姿も、すっかりいつもの人間の姿に戻っている。
ごほっとまた大量の血を吐き出した黒稜は、なんとかして自力で立ち上がろうとする。
「だ、旦那様……っ、ど、どうしたら……」
今にも死んでしまいそうなほどに弱っている黒稜の姿に、紫音は戸惑う。
そんな紫音の腕を掴んだ黒稜は、紫音を安心させるように小さく呟く。
『少し、休めば、よくなる……』
「で、でも……」
『この身体には、妖の血が流れていると、言っただろう?回復も人より早いんだ……』
そうは言っても、心配なものは心配である。
すうっと意識を失ってしまった黒稜を見て、紫音はただただ祈ることしかできなかった。
(どうか、どうか、旦那様を殺さないでください。どうか、お助けください……)
紫音が祈りを捧げると、握った自身の手から温かな光が宿る。その光はあっという間に紫音と黒稜を包み込んでいく。
(この光は……、一体何?)
嫌な感じは全くしない。穏やかで温かく心地よい空気。身が清められ心まで洗われるかのような、優しい光。
「黒稜様を、助けて」
紫音の言葉に反応するかのように、温かな光は黒稜の元に集まっていく。
それを見届けた紫音は、急に意識が遠くなりそのまま意識を手放した。



