紫音が御影家にやってきて、早二週間が過ぎた。
 紫音と黒稜の生活は相変わらず何事もなく穏やかに過ぎていた。
 そう油断していた午後のことだった。


 紫音が花壇の手入れをしていると。

「お姉様っ!」
「……っ、弥生……」

 また弥生が御影家に顔を出したのだ。

「今日もお饅頭を持ってきたから、一緒に食べましょう?」

 弥生はにこりと紫音に不気味な笑顔を向ける。北条院の家にいたときは、弥生が笑顔を向けてくることなどほとんどなかった。だというのに、この間の来訪といい弥生はやけに紫音に笑顔を向けて来る。それが紫音にとっては嫌に不気味に映った。

「お姉様、相変わらず元気そうでよかったわ!さ!何をボケっとしてらっしゃるの?お茶を淹れて頂戴?」

 紫音は渋々台所へと向かい、お茶を盆に乗せ縁側に戻ってくる。二人はそこから花壇の見える紫音の部屋へと上がった。
 弥生は何故か上機嫌で、饅頭を進めてきた。

「さぁさぁ、今日はたくさん持ってきたの!お姉様、大好きだったわよね?たくさん食べて!」
「あ、ありがとう……」

 紫音は言われるがまま、弥生の前で饅頭を口にする。
 にたりと笑った弥生はしかし、紫音が身に付けている質のいい紫陽花の着物を見、簪を見、最後に紫音の顔と髪を見て、「ふーん」と低く唸った。

「お姉様、随分いい暮らしをしているのねぇ……」

 北条院にいたときとは比べものにならないほど顔色のいい紫音を見て、弥生は思わず生意気だと手が出そうになって、それをなんとか押しとどめた。

「ねぇ、今日は御影様はいらっしゃらないの?」
「え?」

 最後の饅頭をごくんと喉に流し込んだ紫音を見計らって、弥生はそう声を掛ける。

「旦那様は、今日は、書斎にいらっしゃるわ」
「ええ!そうなの!?ねえねえ!お姉様!是非ともご挨拶したいわ!」
「で、でも……」

 目力で圧をかけてくる弥生に気圧されていると、ちょうどそこに黒稜が通りかかる。

「変な気配がすると来てみれば……」
「御影様っ!」

 きゃあっとはしゃいだ可愛らしい声を出し、弥生は満面の笑みを浮かべる。

「だ、旦那様、こちらが妹の、弥生で……」

 紹介する紫音を突き飛ばし、弥生は黒稜の元へと駆け寄る。

「御影 黒稜様!お初にお目にかかります!私、北条院家が陰陽師、北条院 弥生と申します!お会いできて光栄ですわ!!」

 黒稜に抱き着かんと距離を詰める弥生は、やはり見目麗しく誰がどう見ても美人である。
 そんな弥生を見て、紫音はつくづく思う。

(旦那様と弥生、並ぶととてもお似合いだわ……)

 黒稜の怖いほどに整った顔に、明るく目のぱっちりした弥生。自分なんかでは黒稜には到底不釣り合いな人間なのだと、まざまざと感じさせられた。
 紫音が俯きながら、突き飛ばされた身体の体制を整えようとしていると、目の前に手が差し出された。

「え……?」

 紫音は驚いて顔を上げる。
 そこには黒稜が跪き、紫音に手を差し伸べる姿があった。

「旦那、様……?」
「大丈夫か、紫音」
「は、はい!」

 紫音は慌ててその手を取って、黒稜に支えられるようにして立ち上がる。
 その様子をぽかんと口を開けて見つめる弥生。しかしその表情がみるみるうちに真っ赤になっていく。

「ちょ……御影様?そんなどんくさい姉など放っておいてくださいな。それにお姉様?そろそろ夕餉の支度をするお時間ではなくて?」

 さっさとどこかに行け、そう弥生の目が言っている。
 紫音は昔の癖で、はい、と返事をしようとして、しかしそれは黒稜が紫音を強く抱き寄せたことによって驚いて飲み込んでしまった。

「え……?」

 黒稜は紫音を力強く抱き寄せると、弥生に向かって言う。

「お前こそ、いい加減に帰ったらどうだ」
「え?」

 黒稜の口から紡がれるきつい言葉に、弥生はたじろいだ。

「お前、本当にあの北条院の娘なのか?北条院家は、強力な陰陽師を輩出する家系と聞いていたが、お前からは五行の力をほとんど感じない。どうやら北条院も地に堕ちたようだな」

 黒稜の言葉に、弥生は真っ赤な顔を更に真っ赤にして激昂した。

「何ですって!?この私を貶すというの!?」
「事実を言ったまでだ」

 弥生は目を見開いて、黒稜を睨み付ける。そんな弥生から溢れ出た憎悪が、空気を暗く重くしていく。
 弥生は大きく深呼吸すると、またわざとらしく笑顔を浮かべた。

「御影様、私はとても寛大ですわ。貴方ほどの美貌の持ち主なら、私の夫として迎い入れてもいいと思っていますの。ねえ、どうかしら?」

 こめかみに筋を浮かべながらも、弥生はいたって冷静さをよそおって話す。
 しかし黒稜はそれを知ってか知らずか、淡々と言葉を返した。

「断る。お前のような性根の腐った人間と話しているだけでも反吐が出る」

 弥生はいよいよ怒りを抑えきれなくなったのか、「不愉快ですわ!!」と大声で叫んで屋敷を出て行った。
 はらはらと一部始終を見ていた紫音は、ほっと胸を撫で下ろす。と同時に脚から力が抜けてよろめく紫音を、また黒稜が力強く支えた。

「大丈夫か?」
「は、はい……、ありがとう、ございます」

 弥生がいると、どうしても北条院の家にいたときを思い出してしまう。されてきた数々の暴力と暴言。命令口調の弥生に逆らうことができない。これもある種、呪いのように紫音の心を蝕んでいた。
 黒稜が紫音の顔色を心配そうに窺っている。
 黒稜は基本的に無表情のことが多い。しかし、今日の黒稜は紫音を心配するような目で見つめていた。
 はっとした紫音は黒稜の顔が間近にあり、慌てて距離を取ろうとするものの、腰を抱きかかえられており逃げることができなかった。

(ち、近い……っ!)

 黒稜の綺麗な顔を直視し、紫音は照れたように頬を赤く染めた。それに紫音はまだ、黒稜に抱き寄せられたままである。こんなにも男性とくっつくのは初めてのことだった。
 顔を真っ赤にする紫音に対し、黒稜が真剣に呟く。

「紫音、何をされた?」
「え?」
「君の中にある呪いが、更に力を増している」
「え……?」

 黒稜の言葉に、紫音は目を見開いた。

(呪いの力が、強くなっている……?)

 誰にかけられたともわからない、紫音に巣くう呪い。
 その呪いが及ぼす影響がなんなのかすら、はっきりとわからない。
 しかしその呪いが、どうやら力を増しているということだった。

「どうして……」
「あの娘に何かされたのか?」
「え、いえ、特には……」

 特に何かされたような感覚はなかった。弥生の持ってきた饅頭を口にしたくらいだ。

「もしかして、あのお饅頭が……?」
「饅頭?」
「弥生が、お饅頭をお土産に、持って来てくれたんです。やたらと、私に食べるよう、進めてきて……」
「そうか……」

 黒稜は苦々しく眉を顰めた。
 以前弥生が来たときも、紫音にかけられた呪いの力が強まっているのを黒稜は感じた。

「恐らく、何かしらの呪いの力が込められていたのだろう。紫音が口にし、体内に入ればその呪いを増幅させるような何かが……」
「そんな……」

 紫音は驚いて何も言えなくなる。

(弥生が……?どうして?そこまで私が憎いの……?)

 混乱する紫音に、黒稜は続ける。

「彼女は呪術の類も得意なのか?」

 黒稜の質問に、紫音は慌てて頭を振る。

「そんなはずは……。北条院は、五行の水を得意とする家系で、呪術や、呪いの類に、特化した力は、持っていないはずで……」

 そんな話、紫音の父、道元からも聞いたことがない。
 そもそも陰陽道において、呪術の類は禁忌とされており、正式な陰陽師として活動する者達には、呪術を扱うことは厳しく禁止させられていた。それを帝が定めたのだと、紫音も聞いたことがあった。
 一応は名のある陰陽師の家系の生まれである弥生が、紫音をいくら憎んでいたとてそのような禁忌に手を出すと考えにくかった。

(そもそも弥生はどうして、私を憎んでいるのかしら……)

 それは北条院にいる頃から疑問に思っていることだった。紫音には、弥生に恨まれるようなことをした覚えはないのだが。
 黒稜は少し考え込むような表情をしてから、紫音に向き直る。

「ともかく、今度妹が来るようなことがあれば、すぐに私に知らせろ」
「は、はい……」

 紫音は小さく頷いた。



 慌ただしい一日が過ぎ、また日が昇る。

(旦那様の書斎、遅くまで明かりが付いていたわ……まだお仕事をされているのかしら……)

 夜中に喉が渇き台所へ向かう途中、黒稜の書斎を通ったが、どうやらまだ起きているらしかった。
黒稜は仕事で街に降りる以外、ずっと書斎に引き籠っている。仕事をしているのか、何か調べ物をしているのかはよくわからなかった。

(お忙しい旦那様のために、しっかり力のつく料理を作らなくては)

 紫音は気合を入れ、朝食の準備を始める。
 新鮮なお野菜で作った煮物は、すごく美味しそうにできた。
 しかし、紫音は不思議に思い、鍋に鼻を近付ける。

(いつもだったらものすごくいい香りがするのだけれど、今日はあまり感じない……。もしかして、鼻風邪でも引いてしまったかしら……)

 鼻が詰まっているような感覚はないが、炊き立ての白米の匂いも、味噌汁の香ばしい香りも、今日の紫音はあまり感じなかった。

(私もしっかり食べさせていただいて、ゆっくりしよう)

 紫音はそう思いながら器に煮物を盛り付ける。
 紫音も黒稜も、ここのところしっかりと食事を取っているせいか、顔色が大分よくなっていた。
 支度を終え居間にやってくると、黒稜が新聞に目を通しているところだった。

「おはよう、ございます。旦那様」

 紫音の挨拶に、「ああ、おはよう」と紫音に顔を向けて、黒稜が挨拶する。
 紫音はその様子に、少し顔を綻ばせた。

(旦那様はいつだって、耳の不自由な私にわかるよう、丁寧に言葉を紡いでくださる。本当に、お優しい方……)

 初めのうちは自分のことに手一杯で全く気が付かなかったが、この家で穏やかな時間を過ごすたび、紫音は黒稜の優しさに気が付くようになった。
 そんな些細なことが、紫音にとっては嬉しい事だった。



「いただきます」

 二人一緒に手を合わせて、朝食を食べ始める。
 今日の煮物はすごくよく出来たと思った紫音は、こっそり黒稜の様子を窺ってみた。
 するとちょうど黒稜が煮物の皿に手をつけ、里芋を摘まんで口に入れたところだった。黒稜は表情一つ変えず、淡々と食べ続ける。
 視線に気が付いた黒稜の唇が、「なんだ?」と形作る。

「い、いえ!なんでも!」

 紫音は慌てて自分の食事に目を落とした。
 里芋を口に入れると、ほろっと崩れ優しい味が口内に広がる。

(よかった。匂いがあまりしなかったけれど、味はしっかりするわ。風邪の引き始めかもしれない)

 嗅覚と味覚は連動していることが多い。嗅覚が弱っているように感じたが、味覚は問題なくいつも通りのようだった。



 しかし翌日。前日は早めに休んだというのに、まったく匂いがしなくなっていたどころか、何を食べても味がしなくなっていた。

(風邪、拗らせてしまったかしら……)

 今朝の朝食の準備中も匂いがしなかったし、今口にしている漬物も全く味がわからなかった。
 聴力のない紫音にとって、嗅覚と味覚に異常があることは心もとなかった。
 音が聞こえない以上、嗅覚に頼ることも多かったのだが、今はそれが使えない。
 もしかしたら声もくぐもったような鼻声になっているのかもしれないが、それすらも聞こえない紫音では、確認することすらできなかった。
 黒稜は特に何も言っていないが、そもそもそんな些細なこと口にしないかもしれない。
 今日も早めに休ませてもらおう、そう紫音は思っただけだった。


 しかしそれからまた三日が過ぎても、紫音の病状はよくならなかった。


 紫音がなにやらやたらとご飯の匂いを嗅いでいたり、口の中で野菜を味わっている様子に、さすがの黒稜も不思議に思い口を開いた。

「どうかしたのか?」
「あ、い、いえ!なにも!」

 心配をかけまいと、紫音は言葉を濁した。

(旦那様に余計な気苦労をかけたくないわ)