翌日、朝食を済ませた紫音と黒稜は、片道一時間のところにある大きな街へと来ていた。
街は朝から賑わっており、大勢の人々が行きかっていた。
紫音は辺りをきょろきょろと見回す。
(みんな素敵なお着物……。洋服の方もすごく増えてる……)
紫音が街に来たのは幼少の頃のみで、その頃はまだ和装の方が多かったはずなのだが、知らぬ間に洋装を身に付けている者が増えたように思う。
御影の家に向かう道中の車や列車の中でも、そういえば洋装の人が多かったなと思い出す。
歩き馴れているのか、さっさと先を歩いていってしまう黒稜の背中を追う紫音。紫音はそれを見失わないよう、必死に脚を動かした。
黒稜は色んな店へと足を向けた。
紫音は己が邪魔になると思い、店先で待っていたのだが、通り過ぎる人々が紫音の姿を見て、くすくすと笑っているような表情を向けていることに気が付いた。
自分の姿を見ると、繕った跡が目立つぼろぼろの着物に、髪はパサつき腕には痣が残っていた。紫音は少し暑くて捲っていた着物の袖を降ろすと、指先まで隠した。
(私なんかがこんなところにいるのは、やっぱり場違いだわ……)
店の前に立っていることすら、店に迷惑が掛かってしまうのではないかと思う。
(どうして旦那様は私なんかを街に連れて来てくれたのかしら)
居たたまれない気持ちになり、紫音は店の横の暗い通路に身を潜めた。
じめじめとしていて、嫌な空気の漂う場所だった。
(きっと妖はこういうところを好むのよね)
妖は日の当たらない、暗い闇夜を好む。そして、人に巣くう醜い心も。
恨みや嫉妬心、誰かを憎む心は妖の餌になりやすい。妖に力を与え、強大な力となってまた人々に襲いかかるのだ。
誰もが他人を尊重し大事にしている世の中であれば、妖など現れることもなく、闘う必要もなかったのだろう。しかしそんな世界を作ることは難しい。
紫音がそんなことを考えていると、黒稜がやってくる。
「こんなところにいたのか」
紫音はぺこりと頭を下げる。
「次に行くぞ」
その言葉に、紫音は小さく首を振る。
「あ、あの、旦那様……私は、ここでお待ちしております……」
「何故だ?」
「あ、私が、一緒にいると、旦那様に迷惑が掛かるので……」
高価そうな立派な着物に、身なりをしっかり整えた凛とした姿の黒稜。対して、ぼろ雑巾のような着物を纏った、暗い表情の紫音。
このままでは黒稜まで好奇の目にさらされてしまう。
しかしそんな紫音の心配などどうでもいいとでも言うかのように、黒稜は紫音の手を取り、日の当たる賑やかな大通りへと引っ張った。
「だ、旦那様……っ」
「いいからついて来い」
そうしてそのまま手を握られ、街中を歩く羽目になった。
顔を地面に向けたまま黒稜に手を引かれていると、黒稜が突然歩みを止め、紫音はそのまま黒稜の背中に頭をぶつけた。
「もっ、申し訳ありませんっ」
呟く紫音に、特に気にした様子もない黒稜は、「ここか……」と何故か苦々しく呟いた。
「入れ」
「え?」
紫音は訳もわからないまま、その店に入る。
すると目の前に、笑顔の女性がやってくる。
「いらっしゃいませ、二名様!こちらの席にご案内いたします!」
女性に促され店内の窓際の席へとやってくると、紫音と黒稜はその二人掛けの席へと腰を下ろした。
俯き続けていた紫音に、黒稜はコンコンと机を叩くと顔を上げさせる。
そうして紫音の目の前に置かれたのは、何か文字の書かれている厚紙だった。
紫音が不思議に思い首を傾げていると、「選べ」そう黒稜の口が動いた。
紫音は目をぱちくりさせながら、厚紙に目を落とす。
そこにはこの店で提供されている、食品や飲み物の名前、その金額が書かれていた。
紫音はそこでようやく気が付く。
(ここって、もしかして喫茶店?)
紫音は店内を見回す。視界には、見たこともない食べ物を食べる男女の姿があった。箸ではなく、なにやら金属のスプーンやナイフを使っている。
紫音は一度も喫茶店に入ったことがなかった。しかしその存在は弥生から聞いていた。弥生はよく街に行き、仕事の合間に喫茶店で食事しているのだと言っていたからだ。
実際の店内を見たことがなかった紫音は、想像していた以上に洋風な作りに目を瞬かせた。
もう一度黒稜に視線を戻すと、黒稜は先程と同じように「選べ」と言った。
紫音は困ったように眉を下げるが、黒稜が早くしろとでも言うかのようにじっと見つめてくるものだから、慌ててお品書きに目を落とした。
(珈琲、紅茶……?この、わっふる、って、どんな食べ物なのかしら?)
紫音はうんうん首を捻っていたが、これ以上黒稜を待たせるのも申し訳ないと思い、わっふると紅茶の組み合わせを指差して見せた。
黒稜は頷くと軽く手を挙げ、店員を呼ぶ。黒稜の口が、わっふるのセットと珈琲と形作った。
紫音がそわそわと待っていると、それはあっという間にやってきた。
夕焼け色のように綺麗な橙色をした紅茶に、格子状のパンのようなふんわりとした見た目。そこにアイスクリームが乗っている。これがわっふるというものなのかと、紫音は初めてみるお菓子に目を丸くした。
黒稜の前には香ばしい香りを漂わせる、真っ黒の飲み物が置かれた。黒稜はそれに何も入れることなく、そのまま口を付ける。
紫音はそんな黒稜とワッフルを交互に見て、ようやくナイフとフォークを恐る恐る握った。
慣れないナイフでなんとか一口サイズにワッフルを切り分けると、少しのアイスを添えて、それを口に運んだ。
「…………!!」
口の中で瞬時に溶けるアイスとワッフルのふわふわの触感。口内を広がっていく甘みに、紫音は舌鼓を打った。
(美味しい……!!)
初めて口にする洋菓子に紫音は目をきらきらと輝かせる。
その表情を見た黒稜の口元が自然と緩み、黒稜は慌てて視線を外にやった。
紫音が食べ終え紅茶を飲み切ったところで、黒稜が席を立った。それを見て慌てて席を立つ紫音。
手早く会計を済ませる黒稜に、紫音は慌てて言葉を紡ぐ。
「ごちそうさま、でした……!」
黒稜は小さく頷く。
喫茶店を出ると日が傾きかけていて、もうすぐ黄昏時に差し掛かろうという時分だった。
街のそこかしこで、何やら不穏な気配を感じる。妖が行動し始める時間が近いのだ。
紫音はふと、路地裏に視線を向ける。
するとそこに何やら黒い靄のようなものが蠢いていた。
(あれは、なに……?)
目を凝らしてみても、やはりよくわからなかった。
紫音の様子に気が付いた黒稜が、紫音の視線の先を見て何か小さく呟く。すると空気中の水分がふわっと形になり、その黒い靄へと向かって行く。それが弾けたと思うと、黒い靄は綺麗さっぱり消えていた。
(すごい……これが旦那様の陰陽師の力……)
黒稜は五行すべての術を使えるはずだ。今のは水の力を使って、妖になりかけていた悪い気を浄化したのだ。
人が多ければ、その分人の思念も多い。それらに宿る黒い気持ちが、ああして妖を生み出すのだ。
紫音がほっとしたのも束の間、目の端に派手な着物を着た女性が映る。
その女性はなにやらこれまた派手な男性と腕を組んでいて、楽しそうな笑顔を浮かべている。
その笑顔は、紫音がよく目にしていたもので。
(え、弥生……?)
派手な着物の女性は、弥生であった。
(どうして、こんなところに……)
北条院の家からはかなり離れた街のはずだ。
昨日御影の屋敷まで来ていたから、今日は観光でもして帰ろうと昨晩はどこかの宿に泊まったのかもしれない。
紫音は弥生を認めると、さっと顔を伏せた。
それに気が付いた黒稜は、一瞬弥生に視線を向け、それから紫音を自分の背に隠すように歩き出す。
紫音は黒稜に優しく背を押され、ゆっくりと歩き出す。
(旦那様……、もしかして気が付いてくれたのかしら……)
黒稜と弥生が顔見知りかどうかは、紫音にはわからない。弥生もなかなかに強力な力を持つ陰陽師であるから、もしかしたらお互い認識くらいはしているのかもしれない。
昨日のことも、家でされていたことも、当然紫音の心を苦しめていた。
(弥生に、会いたくない……)
紫音は黒稜の好意に甘え、影に隠れながら街をあとにした。



