それから三日が経ったが、紫音と黒稜の生活は初日からなんら変わることはなかった。
 紫音は相変わらず屋敷の掃除と花壇の手入れに精を出し、黒稜は自室に籠ってなにやら調べ物をしているらしかった。
 タイミングが合えば食事を共にすることもあり、最初は迷惑がっていたように見えた黒稜も今では紫音の作る食事を文句の一つも言わずに平らげていた。
 屋敷には妖の影もなく、黒稜が紫音に手をあげることもなかった。

 実に穏やかな日々であった。
 ただ紫音にはいくつか気になることがあった。
 自分にかけられた呪いのこと、黒稜の声が聞こえること。
 聞こえると言っても、どうやら耳から聞こえるものではないようだった。直接脳内に聞こえてくる、と言った方が正しいかもしれない。
 しかも、その黒稜の声が聞こえるのは、『夜』だけなのだ。日中は当然のように聞こえない。
 しかし、日が落ちると、突然声が聞こえるようになるのだ。
 紫音は不思議に思った。これは黒稜の力なのか、はたまた自分が少しおかしいのか。
 聞きたくてもなかなか聞くことができず、日々は過ぎて行った。




 そうして紫音が御影家に嫁いで、四日目の昼。
 その日は朝から黒稜が仕事で出ており、紫音が初めて一人で過ごすことになった。
 昼食を終えた紫音の元に、とある来訪者がやってくる。


 コンコン、と引き戸が何度か叩かれる。
 しかし当然紫音にはその音は聞こえない。
 来訪者は痺れを切らし、庭へとまわってきた。するとそこには、ちょうど花の手入れをしていた紫音がいた。

 紫音がタオルで汗を拭っていると、どんっと勢いよくなにかがぶつかってきて、紫音はそのまま花壇の上に倒れた。手入れしていた花々がくしゃりと曲がる。
 慌てた紫音は花壇から這いずって出てくると、花々を確認する。
 衝撃で少し押されたように傾いていた花はしかし、特段ダメージを受けている様子はなかった。
 ほっと胸を撫で下ろした紫音は、衝撃の元へと目を向ける。

 するとそこに立っていたのは……。

「え……、や、弥生……?」

 派手な髪飾りに色鮮やかな薔薇の着物を纏った、紫音の双子の妹、弥生であった。
 弥生はにこりと笑顔を浮かべる。

「お姉様!会いに来ちゃった!」

 弥生の口元が気味の悪い笑みとともに、そう形作った。
 紫音は驚きでその身を固くする。

「へえ!ここが御影のお屋敷なの!随分立派じゃない!」

 弥生はきょろきょろと辺りを見回す。花壇の花を容赦なく踏みつけ、庭の花を毟るようにかき分けた。

「や、弥生!やめて……」
(それはきっと、旦那様が大事にしてる花なの……!)

 弱々しく弥生の着物に手を伸ばした紫音に、弥生は容赦なく手をあげる。頬にひりひりと鋭い痛みが走り、紫音はどさっと地面に手をついた。

「触らないで汚らわしい。この着物、お父様に買ってもらったばかりなの。そんな土いじりで汚れた汚い手で……ああ、お姉様は存在そのものが汚かったわね」

 弥生は紫音を見下ろすと、地面に尻餅をつく紫音の肩を蹴り飛ばした。

「いつまでそうして座っているつもり?私がわざわざ時間を掛けてここまで来たのよ?お茶の一つくらい出してくれる?」

 弥生はそう言って縁側にどかっと腰を下ろした。
 紫音は慌てて台所へ行き、お茶の入った湯呑を弥生の隣に置いた。
 弥生はふんぞりかえって行儀悪くお茶に口を付ける。

「相変わらずまっずいお茶。泥水みたい」
 うえっと舌を出した弥生は、「あ、そうだ!」と思い出したように笑顔を浮かべる。

「お姉様!これお土産!」
「え……?」

 弥生から手渡されたのは、一つの饅頭だった。

「お饅頭……?」
「ええ、そうよ!お姉様、小さい頃は大好きだったでしょう?」
「え、あ、ありがとう……」

 弥生はにこにこと紫音を見つめて、その饅頭を食べるよう促す。

「ねえ、早速食べてみて!」
「え?」
「ここ有名なお饅頭屋さんなの!お姉様も絶対に気に入るわ!ねえ!今すぐに食べてみて!」

 紫音は弥生の手の中にある饅頭を見つめる。

「さあ?」

 にこにこと満面の笑顔を浮かべる弥生に、紫音は恐怖を感じる。

(このお饅頭は、なに?なにか、毒でも入っているの……?)

 弥生がわざわざ紫音のためを思って饅頭を買ってきてくれるとは到底思えない。何か変なものが入っているのではないかと思わざるを得ない。
 紫音が戸惑っていると、弥生は先程の笑顔をすっと消して鬼のような形相へと変わる。

「ちんたらしてんじゃないわよ!!さっさと食べなさいよ!!!」

 びくっと肩を揺らした紫音は、慌てて饅頭を手に取るとそれに口を付けた。
 饅頭はとても美味しかった。毒が入っているような感じはしない。ただの饅頭であるようだった。

「お、美味しい……」

 紫音の言葉に、弥生はまた笑顔に戻る。

「でしょう?」

 にこにこと紫音がすっかり饅頭を平らげるのを見た弥生は、さっと立ち上がった。

「私、そろそろ帰るわね。今日は御影の当主はいらっしゃらないの?」
「今日は、仕事で出掛けていて……」
「そう、残念だわ。妖屋敷の主人がどんなものか、見てみたかったのに」
 「ま、お姉様がまだ生きてるってことは、ただの人間だったのかしら」と弥生はぶつくさと呟いて、さっさと敷地内を出て行く。
「それじゃあね!お姉様!また来るわ!」

 その辺を歩く男性なら誰しもが振り向いてしまいそうな可憐な笑顔で、弥生は颯爽と帰っていった。
 何をされるのかと緊張していた紫音は、早々に帰宅する弥生を見て深い息をついた。

(いけない!花の様子を確認しなくちゃ!)

 先程弥生に踏みつけられ、なぎ倒されてしまった花達。黒稜が帰宅するまでには、回復させてあげねばならない。
 紫音は花壇の手入れに夢中で、どうしてわざわざ弥生がこの屋敷にまでやってきたのかまで考える余裕がなかった。





 弥生は鼻歌でも歌い出しそうな笑顔で、軽快に小道を下っていた。
 妖屋敷と言われる御影に嫁いだ姉が、まだ生きていたことは意外だった。期待外れに思っていたが、念には念を入れてここまで来てよかったと弥生は自分の聡明さに心の中で拍手を送っていた。

「私ってどうしてこんなになんでもできちゃうのかしら!」

 スキップでもしそうな弾んだ足取りで歩く弥生の横を、スッと真っ黒な着物を纏った長身の男性が通り過ぎる。
 擦れ違いざま鋭く光る藤色の瞳が、弥生に向く。
 そのあまりに綺麗な瞳と顔立ちに、弥生はすぐには動くことができなかった。

「……え?今の、誰……?」

 御影の屋敷へと向かう男性の後ろ姿を、頬を赤らめながらぽーっと見つめる弥生。

「もしかして、あれが御影の当主……?」

 黒稜は弥生の気配を探りながら、自身の屋敷へと歩みを進めた。



 黒稜が帰宅すると、紫音が慌てたように花壇の手入れをしていた。
 忙しなく動き回り肥料をやったり接ぎ木をしたりと、土だらけになっている着物など目もくれずに花の手入れをしている。
 黒稜はその肩にそっと触れる。
 すると紫音は振り返り、黒稜の顔を認めると顔を真っ青にした。
 紫音の後ろにある花壇の花々は、必死に立ってはいるのだが、足元は踏み荒らされたようにぺたんこになっている。
 黒稜は眉間に皺を寄せ、紫音に向き直る。
 すると紫音が勢いよく頭を下げた。

「も、申し訳ございませんっ!旦那様……!私の、不注意で……!」

 黒稜が唯一大事にしていたであろう庭の花壇。それを弥生のせいとはいえ、紫音が不注意だったばかりに踏みにじられてしまった。

(ああ、せっかくこの家に置いてくれていたのに……、私は旦那様に恩を仇で返すようなことを……)

 紫音はぐっと唇を噛みしめる。
 しかし黒稜からは特に反応がなく、顔を上げると紫音の横にしゃがんで土いじりを始めた。

「え……?」

 黒稜は紫音に顔を向け、その口元がはっきりと見えるように動かす。

「理由はどうあれ、今は急いだ方がよいのではないか?」
「は、はい!」

 黒稜の言葉に、紫音も慌てて花達の回復に精を出す。
 いくつかの花はしおれてしまっていたが、紫音と黒稜は出来るだけの手は尽したつもりである。
 汗を拭うと、紫音の顔に泥が広がった。
 そんな紫音を見て、黒稜は浅くため息をついた。

「そこまでこの花壇に必死になる必要はない。もともと母が大切にしていた花壇で、他にも気に掛けくれていた者はいたのだが……。私も水をやるくらいで、特になにもしていない」

 紫音はふるふると首を横に振る。そうしてゆっくりと丁寧に言葉を音にしていく。

「私は、この花達を、大事にしたいのです……」

 水をやっていただけだというが、それだけならこんなにも立派に色んな花が咲くことはないだろう。恐らく、黒稜もある程度この花達を気に掛けていたに違いないのだ。紫音はそう思っていた。
 それに、傷だらけの紫音の心を癒してくれたのもこの花達だったのだから。
 黒稜は紫音の言葉に少し驚いたように目を見開いた。
 そして彼女を見るうち、紫音の中で渦巻く呪いが強くなっていることに気が付く。

「紫音」
「え?」

 初めて名前を呼ばれ、紫音は目を丸くする。

「今日、ここに来訪者があったな?」
「はい……」
「それは誰だ?」

 紫音は少し視線を彷徨わせたあと、黒稜の瞳を恐る恐る見つめ返す。

「私の、妹の、弥生です……」
「そうか」

 黒稜は先程自宅の周辺で出逢った娘のことを思い出す。

(結界内に嫌なものが入り込んできたと慌てて帰ってみたら……そうか、あれが北条院のもう一人の娘か)

 黒稜は警戒の色を濃くする。
 ただの娘ではないと、自分の中の血がざわざわと告げていた。
 大方その娘が紫音に手を出し花壇を荒らしたのだろうことも、黒稜にはなんとなくわかっていた。
 紫音は北条院家でいい扱いをされてこなかったことも、黒稜には想像がついていた。
 大切にされている娘ならば、こんなぼろぼろの着物に容姿をしていないだろうし、そもそも妖屋敷などと噂される御影に、簡単に嫁がせることなどしないだろう。
 派手な着物と簪を挿した派手な顔の娘を思い出す。
 黒稜にとって紫音の生活を想像するのには、それで十分だった。

(不憫な娘だ)

 黒稜は泥だらけになった紫音を見て、そう思った。

「紫音」
「は、はいっ」

 黒稜の呼びかけに紫音は姿勢を正す。

「明日は早朝に出る。支度をしておけ」
「え……?は、はい……」

 なんのことかわからないまま、紫音は頷く。
 そうして黒稜に促され、二人は屋敷へと戻っていった。