音のない世界に生きる無能の幸せな妖婚


 そんな日々が続き、紫音と弥生は十七歳になっていた。


 朝食時のこと。道元と弥生は、妖祓いの依頼について話していた。


「弥生、次は国からの祓いの仕事だ。心してかかれ」
「はい、お父様」


 道元の言葉に、弥生は真剣な表情で頷く。そんな弥生に、文江は嬉しそうな声を上げる。


「こんなに早くに国から認めてもらえるなんてすごいわ! 私も立派な陰陽師の子を産むことができて鼻が高いもの!」


 文江の言葉に弥生はくすぐったそうな表情を浮かべる。


「やめてよお母様ったら。私はまだまだ未熟者だわ。これからも研鑽を積んでいかなくては」
「なんて謙虚で努力家な子なのでしょう!」
「お父様、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますね」
「もちろんだ」


 紫音の存在がないものかのように、家族の仲睦まじい会話が食卓で繰り広げられている。

 紫音はそんな家族の会話を目で追いながら、残飯のように少ない食事を口に運ぶ。
 紫音が味噌汁に口を付けていると、食べ終わり先に立ち上がった弥生がわざとらしくよろめき、紫音にぶつかった。


「ああっ、立ち眩みが……っ」


 弥生がぶつかってきたせいで、味噌汁が紫音の着物にかかる。


「あっ……」


 火傷するほどではないにしろ、温かさの残る味噌汁が首から胸にかかる。


「弥生! 大丈夫なの!?」


 文江は弥生を大事そうに支える。


「ええ、大丈夫よ、お母様。ここのところ仕事が忙しくて、少し疲れているのかもしれないわ」


 眉毛を下げ弱々しい表情で答える弥生はしかし、一瞬紫音を一瞥しふんっと鼻で嘲笑うような表情を見せた。
 道元も文江も弥生のことしか見ておらず、紫音に味噌汁がかかっていることなど気にも留めなかった。

 三人が居間を出て行き、紫音だけが残される。
 薄汚れたぼろぼろの着物にまた味噌汁の染みが濃く刻まれた。
 紫音はただただその染みが広がっていくのを眺めていた。


(…………早く、拭かなくては……)


 紫音はゆっくりと立ち上がり、食器を片付け、着物に付いた染みを一生懸命に落とすのだった。




 また、その日の晩のこと。


「いたっ……」


 いつものように夕食の支度をしていた紫音は、野菜を切っていて包丁で指を切ってしまった。真っ赤な血が、まな板の上にぽたぽたと垂れる。
 普段ならこんなミスはしない。
 しかし最近の紫音は、碌にご飯も与えられずいつも空腹で、頭がぼんやりとしていた。
 今日もそんな中夕食の支度をしていたものだから、注意力が散漫になっており、自身の指を切ってしまったのだ。
 傷から流れる血を見つめる紫音に、たまたま通りかかった弥生が驚いたように駆け寄ってくる。


「お姉様っ! 大丈夫!? 見せて!!」
「弥生……」


 弥生は紫音の指を凝視する。
 すると弥生は、手近にあった塩の入った瓶から塩を人摘まみし、紫音の傷口に強く刷り込んだ。


「い……っ」


 あまりの痛みに顔を歪める紫音に、弥生はにたりと笑った。


「ねえ、痛い? 元はと言えばお姉様が悪いのよ? 私より先に生まれて、お父様とお母様に可愛がられてばかりいたから!!」


 傷口にぐりぐりと塩を塗り込まれ、紫音は痛みで瞳を潤ませる。
 弥生はそんな紫音を思い切り突き飛ばす。紫音は耐えることもできず、流しに頭を打ち付けてしまう。


「でもまぁ、もうそんなこともないけどね。お姉様にはなんの力もない。お父様もお母様も、お姉様に振り向くことなんて一生ないわ」


 見下ろすように弥生は紫音を踏みつける。


「いい気味」


 俯く紫音に最後の言葉は聞こえなかったが、弥生は紫音を強く蹴飛ばし、台所を出て行った。

 苦痛に耐える紫音の瞳から、涙が流れることはなかった。
 こんなことは日常茶飯事だ。いちいち感情を動かしていては身が持たない。

 紫音は流しで血と塩の混ざり合う指を痛みに耐えながら綺麗に流し、ぼろぼろの雑巾のような包帯を巻くと、また調理に戻ったのだった。




 そして地獄のような日々は相変わらず続き、またひと月が経った頃。
 朝食の席で、道元は弥生に言った。


「弥生。お前ももう十七だ。そろそろ、結婚について考えてもいい年頃だと思う」


 道元の言葉に、弥生と文江は目を見開いてごくりと唾を飲み込む。


陰陽師会(おんみょうじかい)を通じ、我が愛娘、弥生の婚約者を募ろうと思っている」


 その言葉に、弥生は目をキラキラと輝かせる。



 陰陽師会とは、その名の通り、この国の全陰陽師が名を連ねる陰陽師達の会合のことである。名だたる力を持つ家系の陰陽師達が集まる会合だった。

 陰陽師の家系と婚姻を結ぶのは陰陽師の家系と相場が決まっている。
 故に当然、弥生の夫となる者は陰陽師の力を持っており、北条院家に婿養子となることになるのだ。


「お父様、それはいつ頃に……?」


 弥生は嬉しそうに道元の言葉を待つ。


「私はすぐにでも陰陽師会にこの話を持っていこうと思っている」


 道元の言葉に、弥生は「まぁ!」と言って顔を綻ばせた。しかし文江は少し複雑な表情だ。


「弥生ももうそんな年頃なのね。なんだかすごく寂しいわ」


 悲しそうな表情を浮かべる文江の手を、そっと握りしめる弥生。


「お母様ったら、気が早いわよ。まだ旦那様が見つかったわけでもないのに。こんな私で、誰か見初めてくれるかしら……」


 自信なさげに眉を下げる弥生に、道元と文江は力いっぱい励ましの声を掛ける。


「何を言っているのだ。弥生はこの北条院家の誇りだ。婚姻が殺到するに違いない」
「そうよ! それにこんなに綺麗な子なんですもの、男が放っておいたりしないわ!!」
「お父様、お母様……、ありがとう。私、少し引っ込み思案なところがあるけれど、この北条院家の名に恥じぬ、素敵な旦那様を見つけてみせますわ!」

 きゃっきゃとはしゃぐ三人を見ながら、紫音は黙々と食事を口に運ぶ。


(私には関係のない話だけれど……、そうか、もう婚姻のできる歳なのね……)


 紫音は漠然とそう思っただけだった。

 北条院家の長女に生まれていながら、使用人以下の扱いを受ける紫音にとっては、婚姻の話などまるで関係のない話だ。
 自分はきっとこのまま、もしかしたら死ぬまで一生使用人として生きていくのかもしれない。
 そんなことを考えると気が遠くなったが、陰陽師としての能力もなく、聴力もない自分には人並みの幸せを願うことすら贅沢なことなのかもしれなかった。



 道元が弥生の婚約者を募り始めると、翌日には驚くほどたくさんの(ふみ)が届いた。

 そのどれもが弥生との婚約を望むものであり、一度顔合わせをしたいと言う申し出だった。

 弥生は少し派手ではあるが、顔は整っており、可愛らしい見た目をしている。
 それに陰陽師の中でも屈指の力を持つ北条院家の優秀な娘とあれば、どの家系の陰陽師も縁を結びたがるだろう。
 強き家系はそのますますの繁栄を欲し、弱き家系はこの機に乗じて、地位を上げたいと企む。

 そんなあらゆる陰陽師の家系からの求婚の文は、連日山の様に届くこととなった。