庭に紫陽花の花が咲き誇り、そこに仲睦まじく寄り添う二人の男女の姿があった。

(あ、これは夢だ……)

 紫音はすぐにそう思った。
 似たような夢を以前も見たことがあった。その時は男女の顔は黒く塗りつぶされたようになっていたのだが、今日はその顔がはっきりと見えていた。
 幸せそうな笑顔を浮かべ、男性を見上げるその顔は見慣れたものだった。

(私……?)

 紫陽花の着物を身に纏い、男性を嬉しそうに見上げるその顔は紫音だった。そしてその隣にあるのは、見たこともない穏やかな顔で笑う黒稜の姿だった。

(黒稜様のあんな顔、見たことないわ)

 最近は少しずつ紫音に対して色んな表情を見せてくれるようになった黒稜であるが、こんなにも穏やかに微笑む黒稜の姿を見たことがあっただろうか。

「いつか、こんな風に穏やかに暮らせたら……」



 紫音がそう口にすると、ふっと息が浮上して目が覚めた。
 幸せな夢に暫しうっとりしていたが、はっと身体を起こすとすでに隣に黒稜の姿はなかった。

「いけない!寝坊だわ!」

 紫音は慌てて身支度を整えて、台所へとやって来る。しかしそこにはもうすでに黒稜の姿があった。
 紫音に気が付くと、「おはよう」とゆっくりと口を動かす。

「お、お、おはようございます……っ!申し訳、ございません!寝過ごしてしまったようで……」

 慌てる紫音に「構わない。これからは出来るだけ私がやるつもりだ」と黒稜が言う。
 実はこのところ、紫音の視覚が少しずつ失われているのか、上手く焦点が合わず料理をしても怪我をすることが多かった。
「すみません……」と小さく呟く紫音に、「さぁ食べよう」と黒稜が紫音の分を山盛りによそった。


 紫音と黒稜が北条院の家から帰ってきて、三日が経った。
 考えられない程に穏やかで優しい日々が続いていたが、しかし紫音の呪いは日に日に進んでいた。
 自身の五感がなくなるかもしれない恐怖と闘いながらも、紫音は今できることを精一杯やろうと、日々変わりなく過ごしていた。
 しかし夜眠る前になると、毎日のように恐怖が押し寄せる。
 もしもこのまま眠って朝起きたら、世界は闇に包まれていて、目も見えず音も聞こえず匂いもわからない。誰かに触られてもその感覚すらわからない。生きているのか死んでいるのか、それすらもわからない。そんな世界になっていたら、どうしよう。
 考えるだけで怖くて仕方がなかった。
 そんな状態になってまで生きている意味があるのかとさえ考えた。

 しかし、そうした恐怖に飲み込まれそうになっていると、決まって黒稜が紫音を優しく抱きしめてくれるのだ。紫音はそうしてやっと穏やかに眠ることができた。
 紫音は知らず知らずのうちに黒稜に抱いていた感情を、少しずつ意識するようになった。
 冷たい表情ばかりだった黒稜が、ふっと表情を緩め穏やかな顔を見せる度、紫音の胸は高鳴った。

(この前は愛している、だなんて言ってくださったけれど……)

 以来、なかなか黒稜の気持ちを聞けないでいた。

(あれはただその場のことだけだったのかしら……。もしかして、聞き間違い?)

 黒稜への想いを募らせれば募らせるほど、真意が気になってしまう。

(でも私はこのまま、呪いに喰い殺されるのかもしれない。そうなったら、黒稜様のお傍にいては迷惑になるわ……)

 そんなことを悶々と考えながら取る食事は、やはり味覚も嗅覚も失われているせいか、味がしなかった。




 その日の午後、紫音が庭で花壇の花々の手入れをしていると、とんとんと肩を叩かれた。
 黒稜だと思い振り返った紫音は、思わず「きゃあっ!!」と声を上げる。
 その声に黒稜が慌てて書斎を飛び出してやってくると、そこにいたのは。

「ありゃ、驚かせちゃった?ごめんごめん」

 飄々とした様子の金髪の青年が、尻餅をついた紫音に手を伸ばしていた。

「あ、貴方は……」

 そこにいたのは、以前紫音の呪いに興味があると近付いてきた、雪平 李央だった。
 紫音は李央から少し距離を取る。
 すると李央は露骨に寂しそうな表情を浮かべた。

「そんなに警戒されると、傷付くなぁ」

 そんなやり取りをしている間に、さっとやってきた黒稜が紫音に手を貸しその腰を支える。

「く、黒稜様……」

 驚き黒稜を見上げるも、黒稜はいつもの無表情だった。

「もう少しマシに来られないのか」
「え?フツーに来たつもりだけど?」

 淡々と話す二人に、完全に置いてけぼりをくう紫音。

「ええっと、これはどういう……?」
「私が呼んだのだ」
「え?」

 黒稜の言葉に、紫音は目を瞬かせる。

「こいつは呪いに精通している。紫音の呪いを解くなにかを知っているかもしれない」
「紫音ちゃんの呪いを研究させてもらえて、俺はすげー嬉しいよ!」
「だ、大丈夫、なのでしょうか……?」

 一度は弥生の傍にいた者だ。弥生に声を掛けられたものの、興味なく李央は紫音達に挨拶しただけでさっさと帰ってしまった。確かに危害を加える様子はなく、ただの興味のように思うが、それでも紫音は少し警戒していた。

「恐らく大丈夫なはずだ。こいつの力は大したことはない。まず私に勝てないだろう」
「うわ!酷っ!まぁ、確かにその通りなんだけどね」
「紫音の呪いの進行が止まらない。君の知識とやらを見せてもらいたい」
「はいよ、俺も初めて見る呪いで興奮しちゃうなぁ!」

 うきうきと笑顔を浮かべた李央は、ゆっくりと紫音に近付く。

「じゃあ、紫音ちゃん。まず脱いでもらっていい?」
「ぬっ……!?」

 顔を真っ赤にする紫音の横から、黒稜の手が伸びてきて李央の頭に力強く落とされた。

「いってえ!」
「真面目にやれ」
「わかってるよ、ったく……」

 李央は唇を尖らせると、音もなくその唇を動かした。

「あんたの旦那さん、マジであんたのこと大好きな」

 その言葉に、紫音はかあっとさらに頬を赤く染めた。

(そうだったら、良いのですけれど……)

 その言葉は喉元まで出かかって、そのまま飲み込んだ。
 黒稜は何を言ったのかわからず、不快そうに眉をぴくりと動かした。



「なるほどねぇ。この前ちょっと見た感じ、やばい呪いっぽいなぁとは思ってたけど、かなりやばいね?」

 李央は紫音に意識を向け、その中に巣くう呪いを感じてそう呟いた。

「俺としてはマジで初めての事例だわ」
「でも、お前ならなにか知っているのだろう?」
「御影 黒稜って、案外俺のこと好き?」

 無言で手を挙げようとする黒稜に対し、慌てて李央はごほんと咳払いする。

「雪平はこれでも解術に特化した家系だ。君のことも調べさせてもらった」
「そう、なのですか?」
「陰陽師として五行の力はそこまで強くないけど、人の生み出した呪い、妖が生み出した呪いをずっと調べてきた。もちろん、その解術方法も」
「それで、紫音の呪いは解けるのか」

 黒稜は端的に問いただす。

「紫音ちゃんにかけられた呪いは、人が生み出したものだ。人が生み出した呪いならば人が解くことも容易なはずなんだが……、この強力な呪いはかなり難しい」

 祈りの巫女の治癒の術が自身にかけられるのであれば、どうにかなったのかもしれないがそれはできない。

「そうか……」

 あまり期待していなかったとはいえ、紫音と黒稜の顔に落胆が浮かぶ。
 そんな二人を見た李央は、励ますように笑った。

「まぁ、そんなにしょんぼりするなよ。一つだけ、もしかしたらって解術方法がある」
「それはなんだ?」

 李央は至極真面目な表情をして二人を見やる。


「妖の血を使った解術方法だ」


「妖の、血……?」
「そうだ。紫音ちゃんにかけられた呪いは、妖の血を使って生み出された呪いだ。それならば、解術するにも妖の血があればそれを打ち消せるかもしれない」

 李央は持って来ていた文献を黒稜に向けて見せる。紫音には何が書かれているのかさっぱりだったが、黒稜はそれを難しい顔をして目を通していた。

「あ、妖の血なんて、手に入りません……!」

 紫音の意見に、李央はあっけらかんと言う。

「なんで?その辺の妖捕まえてきて、血を絞ればいいだけじゃん」
「だめです!」

 紫音が大声を上げたのは、これが初めてだった。黒稜も李央も目を丸くして紫音を見つめる。

「害のない妖を、むやみに殺すことは、よくないと、思います……」
紫音は自分が思ったよりも大きな声を出してしまっただろうことに気が付き、尻つぼみになってそう答えた。

 稜介が手当たり次第に殺した妖の仲間が、きっと復讐しようと春子を殺したのだ。
 それに、私利私欲のために妖を殺めるなど、それでは弥生と同じではないか。

「陰陽師の名家の娘なのに、やけに甘ちゃんだな」
 「面白い」と李央はにこりと笑う。

「ま、役に立ちそうなのはその文献くらいだ。それは御影に預けておくよ」
「ああ」
 「紫音ちゃん!また呪い見せてね!」とウインクすると、李央は颯爽と帰っていった。

「騒がしいやつだ」

 黒稜が浅くため息をつき、紫音も苦笑する。

「雪平様……、本当に信用して、大丈夫な方なのですか?」
「身辺調査をしたが、特に問題はないだろう。悪事に手を染めているような証拠は見つからなかった。恐らく、ただの呪いマニアの変人だ」
「そうですか……」

 ほっと胸を撫で下ろす紫音に、「少し書斎にいる。何かあったらすぐに知らせてくれ」と黒稜は書斎に戻って行った。



 次の日の夜。
 夕食を終えた紫音に、黒稜が縁側に来るよう声を掛けた。
 細く鋭く尖った明けの三日月が空に輝き、明日はどうやら新月らしかった。
 夏が終わり、少しずつ秋が近付いていた。

「黒稜様……?」

 紫音が夕食の片付けを終え、縁側にやってくると黒稜は少し表情を緩めた。

『紫音、呼び出して悪いな』
「い、いえ!」

 紫音は黒稜の隣に腰を下ろす。
 その姿を確認してから、黒稜は紫音へと顔を向けた。

『紫音』
「はい」
『私は、君を愛している』
「へっ!?」

 黒稜の唐突な愛の告白に、紫音は素っ頓狂な声を出す。

「い、いきなり、な、なにを……」

 顔を真っ赤にする紫音に、黒稜はふっと笑う。

『しっかりと伝えていなかったと思ってな』
「う……」

 それは紫音も聞きたかったことである。黒稜へ意識を向ける度、黒稜は自身をどう思っているのかと。

(こんな気持ちになるなんて、思わなかったわ……)

 虐げられ感情が希薄になっていた紫音が、まさかこのように誰かを想う気持ちを持とうとは思いもよらなかった。

『半人半妖である私なんかに愛されたところで、嬉しくもなんともないかもしれないが、』
「そ、そんなことないですっ!」

 黒稜の言葉を遮るように、紫音は声を上げる。

「……嬉しい、です……」

 紫音が顔を真っ赤にするのを見た黒稜は、そんな紫音に愛おしそうな眼差しを向ける。

『そうか……』と呟いた黒稜は、夜空を見上げた。
『紫音』
「はい……」

 まだ顔を真っ赤にしたままの紫音に、黒稜はゆっくりと言葉を紡ぐ。

『明日のこの時間、またここに来てくれないか』
「……?はい」

 それだけ言うと、黒稜は立ち上がる。

『さぁ、今日はもう寝よう』

 黒稜から差し出された手に、紫音は嬉しそうに微笑みながら自身の手を重ねた。
 その黒稜は紫音の手を大切に握りながらも、ある一つの決意を固めていた。



 翌日、同じ時間。空に明かりはなく辺りは闇に包まれていた。
 昨日と同じように夕食の片付けを終え、縁側にやってきた紫音は、すでに庭に立って待っていた黒稜に声を掛けた。

「黒稜様、お待たせいたしました」

 月のない真っ暗な夜空を見上げていた黒稜は、紫音へと視線を動かした。

『ああ、来たか』

 『試したいことがある』そう呟いた黒稜は、自身の中にある妖の力を活性化させる。
 新月は妖の力を強める。黒稜もまた半分は妖の血が流れている。今日と言う日は妖と同様に強い力を操ることができた。
 黒稜の艶やかな黒髪が真っ白に染まり、その瞳に金色が宿る。そうして狐のような耳が生え、爪が鋭く尖っていく。
 その長く伸びた爪で、黒稜はなんの躊躇いもなく自身の腕を掻き切った。

「黒稜様……っ!?」

 紫音は驚いて、慌てて黒稜の元へと駆け寄る。
 黒稜の足元には、腕から垂れた大量の血がぼたぼたと地面に染みを作っていた。

「何をなさるのですかっ!」

 紫音は慌てながらも、何とか黒稜の血を止められないかと、祈りの巫女の治癒の術を使おうと手を握りしめる。
 しかしその手を黒稜が制した。

『雪平が言っていた解術方法を覚えているか?』
「え……?」


『紫音ちゃんにかけられた呪いは、妖の血を使って生み出された呪いだ。それならば、解術するにも妖の血があればそれを打ち消せるかもしれない』


『今日、私の中の妖の血は平常よりも濃く、強くなっている。この血を使えば、紫音の呪いを解くことができるかもしれない』

 黒稜の言葉と同時に、紫音の足元に書かれていたらしい術式が浮かび上がる。黒稜が前もって準備していたものだ。術が発動し始めたのか、光を帯び始める。

「黒稜様……やめて、ください……」

 紫音は稜介がどれほどの妖の血を使っていたのか、よく知っている。生半可な血の量ではこの解術式も完成しない。

「手を、放して……っ」

 紫音が祈りの巫女の力を使わないよう、黒稜はその手を握りしめる。
 どうあっても、この術式を完成させるつもりらしい。

「黒稜様……っ、死んでしまいますっ!」

 黒稜の腕から大量の血が地面に滴り落ち、血を吸収した術式はますます強い力を帯びていく。反対に黒稜の顔は少しずつ苦痛に歪んでいく。

「黒稜様……っ!」
『頼む、続けさせてくれ。御影の生み出した呪いに、君を巻き込んでしまった罪滅ぼしをさせてくれ』

 紫音は首を横に振り続ける。

(どうして……?黒稜様は悪くないのに……っ)

 黒稜が命を懸けたところで紫音の呪いが解ける確証などないというのに。
 それでも黒稜はやめなかった。
 次第に光が大きくなっていき、紫音を包み込む。

『紫音、私は、君が笑顔で過ごせる世界を作りたいんだ』
「そんなもの……」

 そんなものはとうにあるのだ。
 黒稜さえ傍にいれば、紫音にとってはそれが幸せなのだ。

「黒稜、様……っ!」

 光が紫音を包み込み、意識が遠くなっていく。

『紫音』

 優しく名を呼ぶ黒稜の少し硬い声が聞こえる。

(お願い、黒稜様を助けて。黒稜様を解放してあげて……)

 紫音と同じく黒稜も呪いによって苦しめられている。大切な者を失い、妖となってしまった黒稜。どうして黒稜ばかりが苦しいめに遭わなくてはならないのか。

(見ず知らずの無能の私なんかに、こんなにも優しさをくださった黒稜様。どうか黒稜様に、温かい世界を……)

 光がより一層明るくなり、紫音は意識を失った。



 膝から崩れ落ちる紫音を、黒稜は抱きかかえた。その腕には、傷跡がなくなっていた。先程まで大量の血を流していたはずの腕の傷は、綺麗さっぱりなくなっていた。

『全く、どうしてこの娘は自身のことを第一に考えられぬのだ……』

 黒稜は呆れたように呟く。
 そうして自身の腕の中で眠る愛しい妻に、そっと口付けをした。