北条院の屋敷が近付いてくるにつれ、不安が大きくなっていく。
本当に弥生が呪いをかけたのか。どうして呪いなんかに手を出したのか。そして、どうしてそこまで紫音を恨んでいるのか。
聞きたいことは山ほどある。しかし、弥生を前に果たして紫音はしっかりと言葉を紡ぐことができるだろうか。
眉間にぐっと皺を寄せ強張っている紫音の手を、黒稜は優しく包み込んだ。
『大丈夫だ。私がついている』
「……はい」
北条院の家に着く頃には陽も落ち、黒稜の声がよく聞こえるようになっていた。黒稜の中の妖の力が強くなっているのだろう。
陽の落ちる頃を見計らって北条院の家にやってきたのは、何かあったときに黒稜の妖の力を使いやすくするためだ。夜は妖の力を強める。黒稜は自身の妖の力を上手くコントロールしていたし、相手ももし妖を使役していたら黒稜の五行の力だけではなく、妖の力も必要になるかもしれないと思ったからだ。
列車と車を乗り継いで来た北条院の家は、なんだか薄暗かった。
紫音が家を出た頃とは比べ物にならないほどに瘴気で満ちていた。
屋敷内に入ると、むせ返るような瘴気に息苦しくなる。
「どうしてこんな……」
道元や文江もいるはずなのだが、道元がいてどうしてここまでの瘴気を許しているのか紫音は疑問に思った。
黒稜は紫音を抱き寄せると、歩みを進める。
『行こう』
紫音はぐっと自身の拳に力を入れて、一歩また一歩と脚を強く踏み出した。
屋敷内はしんと静まり返っていた。物は散乱し、床に散らばっている。
『妖の気配がする』
黒稜がそう呟き、紫音は一層気を引き締める。
二人は唯一電気の付いている、弥生の部屋の前へとやってくる。その部屋からは信じられない程の瘴気が出ており、紫音は勇気を振り絞ってその障子を開けた。
そこにいた人影が、驚いたようにこちらを振り返る。
「え?嘘?お姉様……?」
部屋にいたのはもちろん弥生だった。真っ青な顔の自分を鏡で見ていたようだ。
「どうして、どうしてここにお姉様がいるの?どうしてまだ生きているのよっ!!」
その言葉に、紫音の胸がズキンと痛む。
「あいつら失敗したわけ!?何度も何度も屋敷の様子を見に行かせていたというのに、誰からも返事がない!!」
「え……?」
勝喜が来たあと、夜な夜な現れる来訪者はあとを絶たなかった。紫音は気が付いていないようだが、それを追い返していたのは黒稜だった。
勝喜のように強力な妖の力を手に入れていた者は少なく、その対応は難しいものではなかった。黒稜の強力な術を目にした、弥生に雇われた刺客の陰陽師達は、尻尾を巻いて逃げ帰っていたのであった。
「役立たずめっ……!』
弥生は元々口が悪い方であったが、その声は弥生の声とは思えないほど低く怒気をはらんでいた。
弥生の派手な着物はまったく変わりがないが、その髪は痛み、目の下も真っ黒である。
(もしかして、呪いの代償……?)
いつか見た、稜介の姿を思い出す。稜介もまた呪いの代償で自身の命を削り、そのまま亡くなった。弥生の姿は、まさにその姿にそっくりだったのだ。
「や、弥生……、私にかけられた呪いは、弥生がやった、ことなの……?」
恐る恐る尋ねる紫音に、弥生ははっと笑い飛ばす。
「は?今更そんなことに気が付いたわけ?おっそ!!これだからお姉様は無能だとお父様やお母様に見捨てられるのよ!」
「お父様とお母様は、一体どこに……?」
「何を言っているの?お姉様。お父様もお母様も、そこで私を見守ってくれているじゃない」
「え……?」
弥生の指差す部屋の隅には、蔦の巻き付いた木のようなものが二つ並んでいた。その木は萎んで今にも枯れそうな色合いをしている。しかし二つの木は寄り添い合い、その下にはなにやら着物の切れ端のようなものが落ちていた。その色は確かに見覚えがあって……。
「うっ…………っ!」
紫音は慌てて自身の口元に手を当てた。
その横を通り、弥生が二つの木を愛おしそうに見つめる。
「お父様、お母様。弥生はまた、強大な力を手にしたのです!これで北条院の家は安泰ですわ!……まぁ!そんなに褒めてくださるなんて!弥生もっともっと頑張りますわ!」
弥生はそこに道元と文江がいるかのように、平然と話し続ける。
目の前の光景が信じられず、紫音はただただ目を見開くばかりだった。
『この娘、相当な力の妖を使役している。両親は、……その生贄にされたのだろう』
黒稜から告げられた言葉に、紫音はぐっと唇を噛みしめる。
しかし弥生は、うっとりと話し続けている。
「お父様もお母様も、これでずっと弥生だけを見てくださるわ!ああ、なんて幸せなのかしら!」
弥生はくるりとこちらを振り返ると、紫音に目を向ける。
「でも私、まだ心配なの。お姉様が生きてるとね、いつかまた、お父様とお母様はお姉様の元に行っちゃうんじゃないかって、私のことなんて見てくれなくなるんじゃないかって」
「え……?」
「お姉様がいると怖いの。だから、死んでくださる?」
弥生の声を合図にしたかのように、辺りから無数の妖が湧いて出てくる。
紫音と黒稜は慌てて庭へと飛び降り、弥生と距離をとった。
『これほどの妖を使役しているとはな……』
黒稜の緊迫したような声が響く。
『陰陽師は妖を使役することを禁忌とされている。呪いを他者にかけることもだ。陰陽師として恥ずかしくないのか?』
『は?何を言っているの?妖の分際で陰陽師を語ろうというのかしら?実に滑稽だわ。御影も妖に魂を売り、呪いを生み出した家系でしょう?そんな分際で私に説教なんてしないで!!」
弥生の聞こえるはずのない声が、少しずつ紫音の頭の中に響き始める。弥生に妖の力が流れ始めているのだ。
『御影 黒稜。私が間違ってましたごめんなさいと謝罪するなら、私の夫にしてあげてもいいわよ?その顔なら、私と並んでも遜色ないだろうから」
弥生の言葉に黒稜ははっと鼻で笑う。
『誰がそんなことするものか。私が愛しているのはただ一人、紫音だけだ』
「えっ」
急に出てきた自身の名に、紫音は目をぱちくりさせる。
(黒稜様、今なんて仰って……)
黒稜の言葉に、弥生は顔を真っ赤にする。
「どこまでも腹の立つ男ね!!そんな無能でブスの女のどこがいいのよ!!!もういらないわ!殺して!」
『来るぞ、私の傍を離れるな』
「え、あ、はい!」
弥生の怒りに共鳴するように二人を取り囲むようにして、妖がうじゃうじゃと地面を埋め尽くす。
黒稜はその妖達を五行を使って滅していたが、その数の多さに拉致が開かないと思ったのか、そうそうに妖の力を解放する。狐のような姿になった黒稜は手から青白い炎を顕現させると、妖を容赦なく焼き払っていく。
『さあて、御影 黒稜はどこまで持つのかしら?』
可愛らしかったはずの弥生の顔はもうそこになく、ただただ眉を吊り上げ嗜虐的な笑みを浮かべる復讐心に満ちた顔があるだけだった。
『ずっと準備していたの。お姉様が死んで、更に私が強力な力を手に入れれば、陰陽師の中でもトップになれる。そうすればお父様もお母様も、他の人達だって、弥生を褒めてくれるわ!!!」
弥生はもともと、弥生、と一人称を使っていた。しかし大人になるにつれ、世間体や地位を気にしてかその一人称は、私、になっていた。しかし今は時々弥生、と自身を呼ぶ。
「もしかして、弥生が妖の力を欲したのは、過去になにか……。え……?」
そんなことを考えていた紫音の身体がふわっと浮かび上がる。身体が締め付けられているようで苦しい。
「あ……っ、がっ……」
『紫音!』
弥生の手から大きな手が伸び、紫音を握り潰そうとしていた。
(妖の……っ、手……?)
鋭く尖った爪を持つ真っ黒な腕が、紫音の身体を締め付ける。弥生の高らかな笑い声が聞こえてくる。
『あはははははっ!!!お姉様なんてこのまま潰れちゃえ!』
その顔はもはや妹のものではなく、化け物のように醜く歪んでいた。
「う、あ……っ」
(苦しい……このままだと、意識が……)
紫音がはっと目を開けると、そこは静かな北条院家の庭だった。
着物姿の小さな女の子が、しゃがんで何かぶつぶつ言っている。
「今日も弥生は行っちゃだめなんだって。弥生はまだ力がないからって。お父様もお母様も、お姉ちゃんに構いきりだわ」
(弥生……?)
十歳くらいの弥生は、小枝を手にして地面で何かガリガリと書いている。
「どうして弥生はだめなの?どうして弥生じゃだめなの?お姉ちゃんばっかり。どうして弥生じゃないの?」
弥生は永遠と同じ言葉を繰り返しながら、地面をガリガリと削り続ける。
紫音はそんな弥生の手元を覗いて、うっと目を逸らした。
弥生の足元にはたくさんの虫の死体が転がってた。カマキリやバッタ、蝶など、あらゆる虫がその身を引き裂かれ地面に転がっていた。
そんな弥生の周りを瘴気のような黒い靄が覆う。
「お姉ちゃんさえいなければ。お姉ちゃんさえいなければ」
「お姉ちゃんさえいなければ、弥生が一番になれたのに」
瞬間黒い靄は人のような形になって、弥生に手を差し伸べる。
『可哀想に。ワタシが手を貸そうか?』
「え?」
幼い弥生はぱっと顔を上げる。
「だめ!!!」
紫音の叫びは当然届かない。
弥生は、きょとんとした表情を浮かべ、黒い人影を見つめる。
『ワタシの力があれば、君の望みを全部叶えてあげられるよ』
「本当に!?」
『ああ、もちろん。けれどその代わり、ワタシも欲しいものがあるんだ』
「なあに?」
『君の身体だよ。君が死んだ後でもいい。ワタシにくれるかな?』
「死んだあと?いいよ!あげるよ!」
弥生の言葉に、黒い影がにたりと口元に笑みを広げた。
『約束だよ?』
そう言って黒い影は消えていく。
その直後、弥生の手には大きな水の塊が浮かび上がる。
「これって、五行の術!?すごいすごい!弥生、こんなに大きな水、出せたことない!お父様―!!!」
弥生は屋敷内を駆けて行く。
それから場面は変わって、弥生は不安そうに指を噛んでいた。
「お姉様の方が少し力が強い気がするわ。またお父様もお母様もお姉様の方へ戻っちゃう……!」
『それなら君がお姉様の力を吸い取ってしまえばいいよ』
「そんなことできるの?」
『できるさ、もちろん』
「お姉様、もう陰陽師にはなれないだろうって。五行の力がないんですって。当然よねぇ!その力は私がもらったんだもの!!ねえ、私は日に日に強くなっているわよね?それなのに、何故だかずっと不安なの。いつかお姉様に抜かされるんじゃないかって。この前陰陽師会で聞いたの。陰陽師が作り出した、他者を呪う術があるんですって。その呪いは、五感を奪うものだって。私もそれが欲しいわ!お姉様の五感にどれかしらの影響があれば、きっとお父様もお母様も、陰陽師として北条院の跡を継ぐのは私だって、私だけを見てくれるわ!」
「お姉様!本当に耳が聞こえなくなったんですって!呪いは本当だったんだわ!これでもう、無能なお姉様にお父様もお母様も期待しない!私が一番だわ!!」
「お姉様、御影に嫁ぐんですって!あの妖屋敷の御影よ!?笑っちゃうわ!これで北条院は私のもの!これでやっと安心できる……」
「お姉様、まだ生きていたわ。平然と。いい着物まで着ちゃって。どういうこと?御影は何をしているの?あーよかった、生きてた時の為に呪いを込めた手土産を用意しておいて。これでお姉様の呪いも活性化するはずだわ。でもまだ安心できないわ。この不安はきっと、お姉様が死ぬまで続く。早く、早く死んでもらわないと……」
「どうしてまだ生きているのよ!!!津田は!?李央は何をしているの!?他の陰陽師達は!?どれだけ私が力を分け与えたと思うのよ!!どうして誰も連絡を寄越さないの!!早く、早くお姉様を殺さなきゃいけないのに……っ!!!!!」
弥生は狂ったように紫音のことばかりを考え続けた。
両親を取られたくない。常に自分が一番でありたい。
そんな身勝手な心は、妖との縁を深くしていく。
弥生の心は既に妖に喰いつくされていた。
高らかな弥生の笑い声で、紫音は意識を取り戻す。
弥生は妖を使役するため、その妖達に力を与えるため、道元や文江だけでなく他者をも妖に喰わせていた。
弥生は自分のために、他者の命すら使ったのだ。
紫音は宙吊りになりながら、胸の前で強く自身の手を握り合わせた。そして、苦しい中はっきりと言葉を紡ぐ。
「弥生。私は、話せばわかると思っていた。私や私の呪いのことだけなら、きっと私はここまで怒っていない。けれど、お父様やお母様、関係のない人の命を弄んだことは、到底許されることではないわ」
『は?だから何?私が一番になるためなら、他のどうでもいいゴミみたいな人間なんて必要ないでしょう!?私さえいればいいのよ!!!津田なんて北条院を恨んでいながら、私と気が付かずに力を欲したのよ?本当に馬鹿だわ!そんな馬鹿な人間なんかいらないでしょう!私がいれば、お父様もお母様も、帝様もお喜びになる!!』
弥生の言葉に、紫音は諦めがついた。
(この子はもうだめだわ。きっと妖に心を奪われる以前の話)
弥生の本質はきっと、今も昔も変わらない。だからこそ、妖に付け入られる隙を作ってしまい、妖と結託してしまった。そのことが陰陽師として禁忌とされていることを知っていながら。
紫音の掌に温かな光が満ちていく。
(どうか、亡くなった人達が安らかな眠りにつけますように)
紫音が祈ると、温かな光が屋敷全体に満ちていく。
『なっ、なによ……これ……っ』
紫音を掴んでいた大きな手がすうと消え、落ち行く紫音を黒稜が受け止める。
周りにいたはずの無数の妖も、弥生の中にいたはずの妖も、皆、紫音の浄化の祈りの力で、綺麗さっぱりいなくなっていた。
『これが、浄化の光か……』
黒稜が驚いたように辺りを包む温かな光を見つめる。
(すごい、なんだか私の心まで温かく包んでくれるような……)
自分が祈りの巫女だなんて、正直信じていなかった。しかし、こうして紫音の祈りの力によって、妖や瘴気は浄化されたのだ。
目の前にただ一人残された弥生を残して、辺りは静けさを取り戻していた。
「お姉……さま……」
苦しそうに地面をのたうち回り息を吐き出す弥生。
「どうして……っ、どうしていつも私じゃないの……っ!」
弥生は相当数の妖を使役し、あまつさえ紫音に強大な呪いをかけていた。人を呪わば穴二つ。その代償は言うまでもなく大きい。
『妖と契約していたのだ。その魂はもう人に戻ることはないだろう』
妖は浄化されその姿がなくなったとしても、弥生の魂はじわじわと妖に喰われていく。
弥生は妖にかけられた呪いによって命を落とすのだ。
(双子揃って呪いにかかって死ぬなんて、双子はどこへ行っても双子なのね……)
『行こう』
姿を人間に戻した黒稜は、紫音の手を取って歩き出す。
その背中にぜえぜえと苦しそうな弥生の声がかかる。
「お姉ちゃ、お姉ちゃん……待っでぇ……助けてぇ……」
しかしその声が紫音に届くことはない。
後ろから声を掛けられても、紫音にはわからない。紫音の聴力を奪ったのは弥生だ。その弥生が今更紫音に声を届けようなど無理な話だった。
北条院の屋敷を出ると、張り詰めていた緊張が解けたのか紫音の脚ががくっと崩れ落ちる。それを慌てて支える黒稜。
「も、申し訳ございません……」
『構わない。祈りの巫女の力を使い過ぎたのだろう。まだ覚醒して間もないのだ。無理もない』
「ありがとう、ございます……」
呟いた紫音は目を瞑り、間もなくしてすぅすぅと寝息が聞こえ始める。
黒稜は紫音を背中に背負うと、ゆっくりと歩き出す。
神経を研ぎ澄ませ、紫音の中の呪いへと集中する。
『やはり、か……』
紫音の中の呪いは、未だ健在であった。術者もその力を与えた妖を浄化しても尚、呪いは消えていなかった。
少しずつ、少しずつ紫音の身体を蝕んでいるのを感じる。
『くそっ、どうしたら……っ』
黒稜は自身の無力さに嫌気が差す。弥生に利用された呪いとはいえ、本来御影が生み出したものだ。それが紫音のような心優しい娘にかけられてしまった。
『……絶対に、絶対に君を救ってみせる』
黒稜は顔を上げると、前へと歩き続けた。



