「これが、私が半妖となってしまった理由だ」

 淡々とそう話し終えた黒稜。それを真剣に聞いていた紫音の瞳から、幾度となく涙が零れ落ちる。

(黒稜様に、そんな過去があったなんて……)

 最愛の人を目の前で失い、あまつさえその仇である妖の血を浴び、自身も妖となってしまう。黒稜がどれほど自身を憎んだことか、想像もできなかった。
 ぽろぽろと涙を零し、胸を痛める紫音の頬を黒稜はその手で優しく拭った。

「過ぎたことだ。君が心を痛めることはない」

 わかってはいても、紫音の瞳から涙が止まることはなかった。

(だから黒稜様はあの時、自身の御身を顧みず私を助けてくださったのね……)


『私は……、君を、守らなくては……っ』


 黒稜は勝喜との闘いの最中、そう言っていた。
 どうして自身の身体がぼろぼろだというのに、そこまでして紫音を守ろうとしてくれているのか、その時の紫音はわからなかった。
 けれどきっと、もう目の前で人の命が消えるのを見たくなかったのだ。もう二度と、大切なものを失いたくないのだ。

(春子さんは黒稜様にとって、すごく大事なひとだった……)

 そんな当たり前のことを思って、紫音の胸が締め付けられる。

「あの時の妖が、何故春子を襲ったのかわからない。皮肉にも私は、この妖の力と自身の五行の力を使い、妖を滅しているのだ」

 「君には話しておくべきだと思っていたのだが……」と、黒稜は眉を下げる。
 紫音は「大丈夫です」と伝えるように、ふるふると首を横に振った。

(春子さんを襲った妖……、それはもしかしたら、黒稜様のお父様が殺めた妖と関係があるのかもしれない……)

 黒稜の父である稜介は、何百、何千もの妖を殺め呪いを生み出した。その妖の一族や仲間が、御影の屋敷に復讐に来ていてもおかしな話ではなかった。

「黒稜様、話してくださって、ありがとうございました……」

 紫音はぺこりと頭を下げた。

「紫音、話はもう一つあるのだ」
「え?」
「君にかけられている呪いについてだ」

 はっとした紫音に、黒稜はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「君の呪いは、津田の者も言っていた通り、御影が生み出した呪いだ。その呪いについて、いくつか文献が残っていたんだが……、解術の方法はわからなかった」

 黒稜は頭を下げる。

「君に辛い思いをさせてすまない……」
「えっ、あ、黒稜様が謝ることではっ……」
「しかし、元はと言えば、御影が生み出したものだ。生み出していなければ、それが紫音にかけられることもなかっただろう。謝っても許されることではないが、現御影家当主として謝罪させてくれ」

 紫音はあわあわと黒稜の顔を見つめることしかできない。

(そういえば今朝、何か書物を読んでいたようだったけれど、もしかして呪いについて調べてくださっていたのかしら……)

 やはりお優しい方だわ、と紫音の胸がぎゅっとなる。

「それと、大事なことだ。紫音も知っておいた方がいいと思う」
「?」

 紫音が不思議そうに首を傾げたあと、心を決めたように黒稜は言葉を紡ぎ出す。

「君の呪いは、日に日に強さを増している。君はそのうち、全ての五感を失うだろう」
「……え……?」

 黒稜の言葉に、紫音は暫し呆然となる。

(五感を、失う……?)

 黒稜は苦しそうに言葉を吐き出した。

「紫音にかけられている呪いは、御影 稜介が生み出した、【五感を奪う呪い】だ。君は間もなく、全ての五感を失うことになるだろう」
「え……?」

 黒稜の言葉の意味はもちろんわかる。しかしそれが自身に今後降りかかるかもしれないこととは、信じられなかった。

「君が聴力を失ったのはいつだ?生まれたときからではないだろう?」

 紫音が普通に話せていることから黒稜はそう判断したのだろう。その問いに紫音は頷く。

「耳が、聞こえなくなったのは、十二歳の、頃です……」
「急にか」
「はい、朝起きたら、もう聞こえませんでした……」
「そうか……、ではその頃より受けた呪いかもしれない」
「え……」

 紫音の十二の頃というと、もうすでに陰陽師としての素質もなく妖と接する機会すらなかった。妖による呪いでないとすると……。

「この呪いは人間が生み出し、人間にしか使えない。恐らく紫音に呪いをかけたのも、人だろう。心当たりはないのか?」

 黒稜の問い掛けに、紫音は首を横に振る。

「あの、黒稜様。呪いはやはり、術者にもなにか、影響があるのでしょうか?」
「もちろんあるだろう。強力な呪いはその代償も大きいはずだ」

 一瞬弥生の顔がちらついたが、弥生が自分を犠牲にしてまで紫音を呪ったりするだろうか。弥生は自分が一番可愛く、代償を負ってまで紫音を呪うとは考えにくかった。
 それに、紫音の暗殺を勝喜に依頼した者もいる。
 それも誰なのかは、皆目見当もつかなかった。

「紫音、聴力以外に何か呪いの影響は出ていないか?五感にだ」
「五感……、あ!」

 紫音は数日前から嗅覚と味覚に異常があったことを思い出す。

「匂いと、味が、しません……。数日前から、ご飯を作っていても、食べても、それを感じられませんでした……」

 紫音の言葉に、黒稜がぐっと眉間に皺を寄せる。

「それが、呪いの影響だろう」

 すっかり風邪だと思い込んでいたものは、五感を奪う呪いの影響だったのだ。
 聴力もなく、味覚も嗅覚もすでに失われていた。残るは視覚と触覚のみである。
 紫音は背筋が凍る思いだった。

(私はこれから、視覚と触覚さえも失うの……?)

 想像しただけで、身体がガタガタと震え出す。
 耳が聞こえない紫音にとって、唯一頼れる視覚さえもなくなるということは、世界が闇にのまれるのと同じだ。触覚を失えば、何に触れても感覚がなく自分がどこにいて何をしているのかすらもわからない。
 そんな世界を想像すると、恐ろしくて身体が震えた。恐怖が込み上げ、息苦しくなる。
 そんな紫音を包み込むように、黒稜が優しく紫音を抱き寄せた。

「黒稜……様……?」
『そんなことにはならない』

 黒稜の力強い言葉が紫音の中で響く。

『君の呪いを、必ず解いてみせる』

 黒稜の温かな胸と力強い腕に抱かれ、紫音はなんとか穏やかな呼吸を取り戻す。
 『大丈夫だ』とでも言うように優しく微笑む黒稜に、紫音の胸が高鳴った。

(私、こんなときになんて不謹慎なのかしら……)

 自分の全てが失われる未来が来るかもしれないというのに、紫音は黒稜への想いを募らせてしまった。

(私、まだこの人といたいんだ……)

 そんなことを望んだのは、これが初めてだった。


 その日から紫音と黒稜は同室で眠ることになった。
 いつ呪いの影響が大きくなるともわからない。心配した黒稜は紫音を傍に置くことにしたのだ。
 緊張しつつも、紫音は黒稜と共に眠った。
 いつ自分の世界が真っ暗闇に閉ざされるともわからないのに、その日はいつもよりも穏やかに眠ることができた。